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『続・大日本帝国の痼疾』(93)

自由民権運動(47)―自由党解党


 加波山事件の3年前(1881年3月)、ロシアでは皇帝アレクサンドル二世がナロードニキの爆弾で暗殺されるという大事件が起こっていた。公然と「政府顛覆」「革命」を掲げ、爆裂弾を使用した加波山事件にロシアの事件を重ねて、政府高官がどれほど恐怖したかは想像に難くない。加波山事件に続く者の出るのを恐れて、加波山事件の容疑を口実に、政府は自由党に大弾圧を敢行した。

 加波山事件後1884(明治17)年10月にかけて関東各地の自由党員300余名が拘引された。そして政府は裁判所を指揮して、彼らを国事犯としてではなく、強盗犯としてあつかわせ、例のない重刑を科した。


死刑7人
無期懲役7人
有期懲役(15~19年)4人

 以下、教科書Aの記述をそのまま引用する。

 この政府の強硬な追及ぶりに自由党は動揺し、組織をまもるため、機関紙『自由新聞』で加波山蜂起を「軽挙暴動」「失策」と批判し、政府系新聞や他党の非難をかわそうとした。さらに10月の論説では、各地で激化しつつあった困民党の動きを「国家心腹(しんぷく)の疾(やまい)」ときめつけ、

「今にして若(も)し此の勢焔(せいえん)を撲滅(ぼくめつ)する事を講ぜずんば其の弊害は復(ま)た決して底止(ていし)する所を知らざるべし」

と論じたのである。

 自由党が権力と二つの急進派からはさみ打ちにあい、急速に解党に傾いていった過程は重要である。この1884年後半の『自由新聞』社説を綿密に検討したすえ、下山三郎氏は次のような重要な意見を述べている。

 加波山事件を境に自由党の「良識」の最後の輝きを示していた『自由新聞』が、その質を決定的に変えてしまった、と。

 自由党の「良識」の最後の輝きとは何か。当時、緊迫していた対外問題にたいして、とくに自由主義的な立場を堅持し、民権党の面目を守ろうと努めたことにある。つまり、同年8月の清国とフランスの全面戦争にからんで、自由党内に生じた一連の国権的な動き - 東洋学館の開設、杉田定一の渡清、板垣・後藤の計策など民権を国権に従属せしめるような動き - があったにもかかわらず、その非常時に『自由新聞』はあくまでも、わが国当面の急務は内事(ないじ)を急にして外事を緩(かん)にすること、内事を改良して自由を国内に盛行せしめることにあると断定し、戦争に対しては道理によって列強の非理(ひり)と対抗するという原則から局外中立の立場を堅守するとしたのである。

 この立場が加波山事件を境にして崩れる。つまり、国権の回復ではなく、海外進出という意味での「国権拡張論」が『自由新聞』社説にはじめて登場する(明治17・9・30、10・1、4、5)。

 このことについての下山氏の推論はこうである。この国権拡張、官民協力、排外主義鼓吹(こすい)の真の意図は、少壮有志の熱心を内事から外事に転換させようとするにある。

「特に当時実際に党務の中心となっていた星亨、加藤平四郎らに対して、恐らくは秘密裡に朝鮮進出の計策に従事していた板垣・後藤が、その朝鮮進出の論理をいわばここへ転用したのではなかったろうか。この論理は加波山事件の突発という条件なしには公然と社説としてかかげることはできなかったであろう」(下山三郎編・解説『自由民権思想』下)。

 こうした一連の下山氏の20年前の推論は今でも説得力をもっていると思う。たとえ、自由党が敵の攻勢から身をかわすための一時的な方便としてこの説を掲げたとしても、自由党が民権党としての最後の「良識」の一線をも崩してしまったことは、党存続の客観的意味をみずから放棄したともいえる。もちろん、自由党という複雑な大政党の動向を『自由新開』の社説だけから見るということには大きな限界がある。



 1884(明治17)年10月29日、まだ戦える力があったにもかかわらず、自由党はついに解党するにいたる。しかし、その解党の真相はいまだに深い霧に包まれているという。再び、教科書Aから引用する。
 とくに自由党左派の領袖として関東に多くの支持者をもっていた大井憲太郎が、もっとも全国組織が必要と思われる時期に、自由党右派の板垣ら土佐派と妥協して解党に同意した理由はなんであるのか。星亨が新潟の獄中にあったとき、左派と右派とをつないだ橋渡し役をいったい誰がつとめたのか。その間にどのような各派のおもわくや暗合(あんごう)があったのかも、ほとんど謎に包まれている。

 1883年(明治16)8月以降、自由党は準備政党的な性格に変質したのだという説があるが、それすら党中央のレベルでいえることで、県幹部レベルや下部党員レベルではまったく違ってくる。自由党という政党はその成立の事情から解党の経緯(けいい)まで、未だにその全貌が解明できないというのだから研究者として情ない思いである。

 それはともあれ、結党三年目の記念の日に、大阪に集まった代表者百余名の圧倒的多数の賛成で解党が決定された。これは大井らのおもわくがどうあれ、客観的には民権陣営の総崩れをもたらし、少数の急進党員をますます孤立した激しい抵抗にかり立てた。また困民党大衆と結合しようとしていた一部の農民党員を全国的指導体から切り離し、力を殺(そ)ぐ結果となった。

 立憲改進党もこれにつづいて解党同然の状態におちいってゆく。



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