2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(91)

自由民権運動(45)―加波山事件(1)


 色川さんによれば、加波山(かばさん)事件は「志士的激化の典型」である。

 加波山事件の主体は16名の自由党員である。首領は茨城県士族の富松正安(とまつ まさやす)で、同じく茨城県士族の同志2人とともに「挙兵主義」の実行を計画していた。

 そこに主力として、福島事件の恨みを晴らすため、栃木県令となった三島通庸の命をねらっていた河野広躰(こうの ひろみ)ら福島グループと、栃木の鯉沼九八郎(こいぬま くはちろう)らで構成されていた暗殺グループが加わった。首領は富松とされているが、どちらかというと、富松らは計画の最終段階でこの事件にまきこまれた脇役であって、主役は福島・栃木グループであった。

 二つのグループを結びつけたのは三島通庸である。「福島事件」の項で触れたように、三島は1883(明治16)年10月栃木県令となるや、福島県下で強行したとおなじ暴虐な政策を栃木でも強行しようとした。それに対抗して茨城の富松たちが福島のグループや鯉沼らによびかけ、同年11月16日の自由党臨時大会の一週間後、関東の態勢をたて直すために東京飛鳥山で自由大運動会を開いた。

 このとき栃木の豪農民権家鯉沼と福島事件の残党琴田岩松(ことだ いわまつ)との間に盟約が成立し、加波山グループの中核が形成された。

 その後1884(明治17)年2月に、河野、鯉沼らは東京・芝の三島邸を襲撃しようとしたが果さず、自由党本部寧静館(ねいせいかん)を根城にして暗殺の機会をうかがっていた。ところが、この激派壮士による寧静館乗っ取りに内藤魯一(ろいち)、星亨(とおる)ら党幹部が退去を要求し、警察の力を借りて追い出そうとしたために、河野らは憤激して
「総理以下の冷遇すでに此の極度に達す。もはや頼むに足らず」
と自由党本部と訣別している。彼らがますます急進化していった動機の一つはここにある。

 河野、鯉沼らのグループは三島邸の近くに下宿して見張りをつづけたが、三島にゆくえをくらまされて討てなかった。そのうち同年7月19日に、新華族にとりたてられた数百人の祝賀会が芝の延遼(えんりょう)館で開かれると聞いて、一挙殲滅の好機と喜んだが、その宴会も無期延期となった。

 このころすでに鯉沼九八郎は、ロシア虚無党に学んで、故郷の栃木県稲葉村の自宅で強力な爆裂弾の製造に成功していた。

 9月、栃木県庁の開庁式が行なわれるという情報が暗殺グループのもとにとどいた。彼らは勇躍し、この機会に三島や政府高官を倒そうと決意し、その資金獲得のために神田小川町の質屋を襲った。だが、逃走の途中、警官にとがめられ、もっていた爆弾を投げてしまう。さらに9月12日、鯉沼の作業場で大爆発が起こり、彼が重傷を負った。

 官憲はこれによって暗殺グループの動きを察知し、検挙にのりだす。結局、警察に追いっめられた彼らが、茨城の党員たちを頼ってきて合流し、富松正安たちを動かして加波山で挙兵することとなった。軍議は富松が館長をしていた下館(しもたて)の有為(ゆうい)館でねられた。

 加波山は海抜709メートルの険しい石山である。その山頂に翩翻(へんぽん)と翻った旗には

「一死報国」
「自由取義(しゅき)」
「自由之魁」(さきかけ)

などの文字があった。檄文は次のように訴えている。

「夫(そ)れ大廈(たいか 廈:ひさし、家屋)の傾ける一木(いちぼく)の能(よ)く支(ささ)ふる所に非(あら)ずと雖(いえと)も、志士仁人(ししじんじん)たるもの坐して其(その)倒るを看(み)るに忍びんや。故に我輩同志茲(ここ)に革命の軍を茨城県真壁(まかべ)郡加波山上に挙(あ)げ、以て自由の公敵たる専制政府を顛覆し、而(しか)して完全なる自由立憲の政体を造出せんと欲(ほっ)す。鳴呼(ああ)三千七百万の同胞兄弟よ、我党と志を同ふし、倶(とも)に大義に応ずるは、豈(あ)に志士仁人たるの本分に非ずや」

 この16名の旗揚げは東日本の急進派諸グループに決起をうながすと同時に、右旋回していた自由党中央に衝撃をあたえ、一ヵ月後に党を解散させるという結果をもたらした。

 この事件について、色川さんは次のように評している。

 だが、山麓の人民との連携もはからずに、たった16人の党員だけで挙兵しても、全国の同志に訴える効果があるだけで、じっさいにはなんらの勝算もなかった。彼らは「革命」の先駆者として玉砕するとしても、後に残された同志たちが大弾圧にさらされることは、福島の例からも明らかであった。それにもかかわらず彼らはなぜ少数で決起したか。

 追いつめられたあげく、やむをえず行なった蜂起だといってすむであろうか。こうした議論は当時から民権家の間でもくりかえされていたのである。



 次回は、この事件を担った人たちの人となりや思想と、自由党の対応と解党までのいきさつを通して、「彼らはなぜ少数で決起したか」という問題についての色川さんの見解をまとめることにする。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1071-46359278
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック