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『続・大日本帝国の痼疾』(90)

自由民権運動(44)―群馬事件


1884(明治17)年
  5月  群馬事件
  9月  加波山事件
 10月 自由党解党
     秩父事件
 12月 飯田事件
     名古屋事件

 群馬事件は従来、次のように伝えられていて、これが通説になっていた。

 1884(明治17)年5月1日、高崎線開通式が予定されていた。群馬の自由党員は、その式に参列する予定の諸大臣を拉致し、一挙に東京鎮台高崎分営を攻め落して政府を倒そうと計画した。しかし、開通式を延期されたため、集合場所を妙義山麓にうつし、3000人余りの農民が参加して蜂起した。5月16日未明、高利貸会社岡部為作(ためさく)邸を襲い、松井田警察分署を占拠し、さらに高崎分営に向かう途中で食糧がつきて解散した。

 『自由党史』もこの通説によっている。ネット上の解説もほとんど通説に従っている。ところが、出典の『東陲民権史』に誤りがあり、その後の研究によって、それが訂正されるにいたった。群馬事件の真相は次のようである。

 群馬では1884(明治17)年3月23日の北甘楽郡(かんら)一ノ宮(現富岡市)での自由党大演説会の成功がひとつのきっかけとなっている。この時の会主は群馬の有力党員の清水永三郎(えいざぶろう)ら七名、弁士は宮部、杉田、照山峻三(てるやま しゅんぞう)らであった。杉田定一の「上毛(じようもう)紀行」によると、

「当日は天気晴朗数旒(りゅう)の旗を門前に挙げ、聴衆堂内に満溢し堂外に佇立(ちょりつ)する者も亦頗(またすこぶ)る多く、凡(およ)そ千余名あり。斯(かく)の如き寒村僻地には未曾有の盛会」

であった。その旗には「天に代って逆賊を誅(ちゅう)す」という物騒な文句も書かれていた(『自由新聞』明治17・4・1)。

 こうした人民の高揚は1883(明治16)年から群馬県下の北甘楽郡、南勢多(せた)郡、東群馬郡、緑野(みどりの)郡などの村々にくりひろげられていた数百人規模の負債農民騒擾事件のすそ野があったからといえる。

 さて、政府の密偵から「関東決死派」とよばれていた急進的な自由党員の間に政府の暴虐にたいする反撃の計画が生じたのは、1883(明治16)年の末ごろのことである。この革命派は、党幹部の関東遊説をきっかけに、茨城県下館(しもだて)地方から群馬県甘楽地方、埼玉県秩父地方にかけて拡大していった。その勢力は500名余りで、暗殺グループを組織し、当面は三島通庸ら犯罪的な官吏へのテロを計画しつつも、最終目標は一斉蜂起による政府転覆であったと見られている。

 武装決起を計画していたのは、この一ノ宮光明院(こうみよういん)の住職小林安兵衛と北甘楽郡内匠(たくみ)村の戸長湯浅理兵(ゆあさ りへい)ら数名の没落小豪農の自由党員たちであった。「富岡警察署史料」によると、

「(彼らは)小坂村、妙義町、松井田町等ノ土民(どみん)ヲ煽動シ、地租軽減請願ヲ名トシ妙義山中ノ岳(なかのだけ)大黒天堂ニ数百名ヲ召集シ、現政府ヲ攻撃シ演説ヲ為シ或ハ政府顛覆ノ密議ヲ為シ或ハ日夜砲術ノ練習ヲ為ス等、撃挙(げききょ)ノ画策ニ腐心セリ」

とあり、既に官憲の警戒するところとなっていた。

 1972年、妙義山中にベースを置いて武闘闘争を準備していた連合赤軍を彷彿とさせるが、「群馬の自由党員たちは人民と結合することに必死の努力を傾けていた点で」赤軍のそれと決定的に違うと、色川さんは評している。「人民との結合」をはかる手立ての一つは次のようであった。

 彼らは碓氷郡一帯に大きな影響力をもつ博徒の親分山田平十郎(または城之助)に加勢を求めていた。それは、山田らがこの年1月太政官(だじょうかん)布告として出された「賭博(とばく)犯処分規則」というまったくの人権無視の政令による〝博徒大刈込(かりこみ)″に怒って反感をたぎらせていたからである。山田の動員力を借りて碓氷郡の困窮農民をいっきょに結集させようと考えたのである。

 事実、幹部の三浦桃之助(もものすけ)や湯浅らは山田平十郎から「猟銃四百挺、刀剣二百本ばかり」整ったという連絡をうけて、碓氷郡の山田の居村までたずねている。そのうえ彼らは連日のように部落集会にのぞんで決起をうながす演説をしていた。

 1884(明治17)年5月15日、小林、湯浅ら指導部はかねての打ち合せの集合地妙義山麓陣場ガ原におもむいた。だが、期待の500余人が日延べを求めて来なかったうえに、南甘楽郡や武州秩父方面にオルグに行っていた三浦からもなんの連絡もなく、連合勢力の結集に失敗した。ために、「僅(わず)カ近傍ノ人数三拾四五名妙義山下ニ集」まったにすぎなかった(湯浅理兵答弁書。この他に「凡ソ百名程」という証言もある。群馬事件「予審(よしん)終結決定原本」より)。

 小林らもやむなく20日まで延期を決定し、引き揚げる途中、菅原村の指導者東間代吉(とうま だいきち)や神宮茂十郎(じんぐう もじゅうろう)らが集合しているとの連絡があったので、おもむくと、30数名の決起した近村の人民が集まっていた。

 当時菅原村では全村167戸中、実に111戸の農民が土地を高利貸に奪われ、なお取り立てに追われて山野に潜伏し、長く家に戻らないでいるという惨状であった。彼らにしてみれば、20日まで待つことは到底できず、まずは近くの岡部為作の生産会社(金融類似会社)を襲って金穀(きんこく)をとりもどし、一息つこうということになり、決行に及んだらしい。そして、東間代吉らが先頭に立ち、近村の人民を駆り出し、百余名の勢いとなって行動を開始した。そして焼き打ちがすむと、彼らは大桁山(おおけたやま)に引き揚げていった。

 以上の群馬事件の真相を、色川さんは次のように論評している。

 この経過を見ると、この焼き打ちの主導権が自由党員の手から負債民の手に移っていることがわかる。群馬事件が困民党のたたかいの先駆(さきが)けと評価される理由はここにある。

 そして、ここで注目されるのは小林安兵衛ら指導部の自由党員が、あくまでも政府転覆の革命行動を主張していたのに対し、負債民たちは生活要求を先行させる態度をとっていて、その間にかなりのギャップがあったということである。この辺が秩父事件の場合とは違う陣場ガ原事件の限界であろうか。

 『東陲民権史』はこの辺をあいまいにし、数千の大衆による大蜂起として脚色し、勢いあまって高崎分営めざしたと書いたが、それは事実ではない。岩根承成(いわね つぐなり)氏がいわれる通り、「数十名集会スルニ当り」とある判決言渡書(いいわたししょ)の記述を、「会する者数千に及んで」と改竄(かいざん)したのである。

 しかし、その改竄は当時の民権家の革命幻想を伝えたものと読めないこともない。



 群馬事件は52人の逮捕者を出して終焉する。主犯の小林と湯浅は兇徒衆集(きょうとしゅうしゅう)罪にあたるとして徒刑13年と12年を言い渡され、北海道に送られた。

 この事件は政府に対してなんの打撃にもならなかったが、上州の金貸会社にあたえた影響は大きく、富岡生産会社などは事件後の7月25日、負債民への延滞利子の免除をとりきめ、営業停止を決議している。だが、負債民がこれによって救われるわけではない。彼らは秋にかけて新たな戦いにとりくんでゆく。



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