2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(89)

自由民権運動(43)―秋田事件


 「激化」事件という言葉は、福島事件・高田事件以後の自由民権運動の様相を示すものだ。しかし、前回に掲載した図には、福島事件・高田事件以前の事件だが、「激化事件」に入れられているものが一つある。秋田事件(1881年6月)だ。

 秋田事件は、地元研究家の研究によって、最近その全体像がようやく見えるようになってきているが、「まだ深い霧に包まれてい」る部分があり、「その背景はまだ謎にみちている」という。しかし、「この事件の中にその後の急進派の蜂起計画や行動様式のほとんどの要素が萌芽的にあらわれている」ということなので、まずこの秋田事件の学習をしておこう。

 土佐の立志社の影響を受け、秋田に立志会という組織を作った、柴田浅五郎(あさごろう)という民権家がいた。彼の呼びかけに応じてたちまちに、平鹿(ひらが)郡や仙北(せんぼく)郡から貧窮士族や中農・貧農など2600人余りが加わったという。

 その力を背景に柴田は1880(明治13)年11月の国会期成同盟の東京大会に出席している。その大会の折り、東日本の有志たちが何ごとかを謀ったらしい。それは密偵報告によると、この一年間の政府の暴政(集会条例による理不尽な弾圧、各地人民有志の国会開設請願の総否定)に憤激した民権家たちが、大会後にひそかに会合をひらいて圧制政府の転覆を計画したという。密偵は、この時のグループを「激烈党派」と表現しているが秋田立志会の代表はこれに参加していた。

 その後、1881(明治14)年1月の東北有志大会、3月の東北七州自由党結成集会に参加した柴田浅五郎が、仙台で有志たちとある種の武装蜂起の計画を協議したらしい。その直後に社員をよんで、今のままの政体では「日本永続ノ見込」がないから、同志をつのって仙台鎮台を打破り国家を改造しようと思うが、「此儀ハ全国一同蜂起致スべキ故、必ズ案ジルコトナシ」と申し渡したという(館友蔵(たてゆうぞう)警察調書)。

 1881(明14)年5月から6月にかけて平鹿郡内でひんぱんに起こった豪農襲撃(強盗)事件から、この挙兵計画が発覚した。その容疑から秋田立志会の会計方西田忠五郎宅が捜索され、内約書や28名の血判状などが押収された。それによって6月10日柴田らが秋田町で逮捕され、翌11日川越庫吉(くらきち)らが仙台で捕縛され、強盗殺人および内乱陰謀罪に問われることになった。

 官憲発表資料を頭から信用することはできないが、自白調書でかたられた蜂起計画とは次のようなものであったという。

 まず、立志会が蜂起し、一番隊は横手町に放火、警察署、郡役所、銀行を襲撃してから秋田県庁に突入する。二番隊は浅舞(あさまい)村を焼き、豪農を襲い、軍資金を得て、雄物(おもの)川をいっきに舟で下り秋田県庁を占領する。次に宮城県の同志と合流し、宮城監獄に放火し、囚徒(西南戦争で捕えられた反政府士族たち)を解放する。そして、これを率いて仙台鎮台に攻め入り、警察署や県庁等を打ちこわし、富者から軍資金を掠奪して東京に進撃する、というのである。色川さんは、こうしたコースのとり方は飯田事件(1884年12月)の計画とそっくりだと書き添えている。

 柴田浅五郎ら関係者の調書によると、政体を変革して「分県(ぶんけん)法」を施行するとか、「貧富を均一にさせる。御均(おなら)し政治の世の中にする」とか、「全国一同蜂起」を期待するとかという文句が出てくる。これらも後の激化事件に共通してあらわれてくる要素である。

 この事件とその後について、色川さんは次のように解説している。

 この事件は政府の弾圧への反抗と、秋田地方の中・貧農、それに都市細民と化した下級士族の貧窮要因が結びついて、柴田らの幻の「挙兵計画」が十分に整わない前に、切迫した一部急進社員によってひき起こされたものと解釈されている。その動機、その規模、その経過、その背景の詳細はまだ明らかではないが、自由党成立以前の、これは早熟的な激化事件といえる。それ故にこの行動に参加した立志会員の要求や意識には、一見矛盾するような永代禄(えいたいろく)への未練や社会的平等への熱望が見られるのである。

 秋田の民権運動はこの事件によって弾圧にさらされる。だが、潰れてしまったわけではない。1881年10月、中央に自由党が結成されるや、柴田浅五郎らの志をついで立志会の地盤平鹿郡から320人という入党者が出、秋田県全体で登録党員400人をこすという余勢を示している。また、他方、県会議員の多くを党員にもつ秋田改進党は県下の名望家層、富裕層を支持者に持って秋田県会でよく戦い、北羽連合会の伝統を継承している。一時は秋田県令を辞任させるほどの力をもったが、松方財政下の不況と政府の切り崩しにあって官職に就く者がつぎつぎとあらわれ、若手急進派との対立を生じ、足並みが乱れて退潮していった。



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