2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(83)

自由民権運動(37)―熊本協同隊・竹橋事件


 色川さんは、「日本国国憲案」の第71条を引いて、次のように述べている。

「政府威力ヲ以テ擅恣暴虐(せんしぼうぎゃく)ヲ逞(たくまし)フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得」

 前章で述べたように、抵抗権の思想はたんに憲法草案に条文化されただけでなく、かなりの民権家に天があたえた人間の権利として受けいれられていた。

 これまで民権運動における「急進派」は1882年(明治15)12月の福島県自由党員にたいする三島県令による大弾圧を境に発生したようにいわれてきた。しかし、それは「自由党激化事件」という狭い概念にとらわれるからである。抵抗権の思想を保持して、実力で専制政府の転覆を計った人びとを「急進派」とよぶなら、明治10年戦争で西郷軍に投じた宮崎八郎らの熊本協同隊は文字通りの自由民権の急進派であろう。あるいは竹橋事件の近衛砲兵隊の反乱兵士たちもそれに該当すると立証される日が来るかもしれない。



 これから「抵抗権行使事件」の学習に進みたいのだが、色川さんによると、「抵抗権行使事件」は「福島、加波山、秩父の三事件をのぞいては、史料上の制約と研究の遅れから事件像の復原すらまだほとんどできていない。」という。ともあれ、年代順に「抵抗権行使事件」を追っていこう。

 と、考えたのだが、上の引用文中の「熊本協同隊」と「竹橋事件」が気になった。そこから始めようと思う。

 今私が利用している三冊の教科書には直接「熊本協同隊」を論じた記述はない。関連したものとして、教科書Bの西南戦争を扱った部分に次のような記述がある。

 この内乱につき最も奇異に感ずるは、西郷の大旗の下に集りたる人士の、議論に於ても、性行に於ても、互に一致すべからきるもの多かりしことこれなり。

 撃剣を事としたる武夫あり、退職武官あり、新聞記者あり、その議論には頑固なる封建党あり、急進なる共和論者あり。熊本のごときは、生平頑固なる封建説を唱うるものと、急進なる民権論を唱うる者と、互に相諍論しつつ、道を分って西郷の軍に投じたりき。



 「熊本の・・・急進なる民権論を唱うる者」が熊本協同隊を指していると考えて間違いないだろう。

 さて、「熊本協同隊」でネット検索をしてみた。ヒットした中で 「まちづくり通信」 の記述が簡潔で要を得ているとので、それを転載することにしよう。

 熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で、山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した集団です。

 彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約(中江兆民訳の時代)に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれます。

 ちなみに、この時期に呼応した士族や豪農商達は、明治新政府に対しての反感から西郷軍と共に闘った場合がみられ、たとえば、学校党の流れをくむ熊本隊などその思想的背景は様々でした。

 当時、山鹿を含め県内の農民の間には、地租改正入費や民費に不満が高まり、その一連の流れで、戸長征伐が行われており、西郷軍の蜂起は、山鹿白石村(現 古閑)野満長太郎(植木学校参加者で、従軍した野満兄弟の兄)らによる、光専寺1万人集会が行われた直後にあたります。

 このため、薩軍が挙兵し山鹿を占拠した際に、ともに山鹿にまで進んできた熊本協同隊は、この山鹿の地に日本で初めて、彼らの理想に基づき民権政府とも言うべき組織を樹立させることができました。そして、人民総代が作られ、野満長太郎が民政官として山鹿の長となったわけです。

 ただし、これは、軍事占領下で、薩軍が退却するまでのほんの一時の民主制に過ぎませんでしたし、現在の民主制度とは異なるものでした。しかし、彼らにとっては、理想に向けての第一歩でありました。



 次に、竹橋事件については教科書Bから引用する。

 西南戦争の翌年、1878(明治11)年5月に大久保利通が暗殺された。竹橋事件はその同じ年の8月におきている。

 大久保の死によりで、政府の根底、動揺せるは疑うべからざるの事実なりしかば、久しく不平鬱々たりし竹橋兵営の暴徒は、その八月を以て急に暴発せり。

 十年の役、敵軍の最も恐怖せるは近衛兵にてありき。彼らは今市の中より、最も武幹驍勇(ぎょうゆう)の徒を選抜せるものにして、その殊(こ)とに陛下の親兵たるの面目を重んずるを以て、戦場にあって最も抜群の働あり。某中隊のごときは勇往奮進、一中隊の兵士、尽きて三人となるまで激戦せり。されば賊軍はその帽子の赤きの故を以てこれを名けて赤帽となし、赤帽の進む所、風を望んで走れり。彼らはこれを以て自ら多しとする所なきにあらず。

 然るに事平ぎて後、先ず恩賞を受くるものは、弾雨硝煙の間に身を挺(ぬきん)でたる自家の徒にあらずして、遥かに戦場を離れて指揮せる将校にてありき。或る者は旭日の章をかけて揚々として自家の営前を通過せり。或る者は数千の恩金を得て、美食暖衣に飽(あ)けり。彼ら何ものぞ、その勲功は自家の徒の力によりて得たるものにあらずや。

 昔し後醍醐の北条を誅滅するや、先ず恩賞を受くるものは佞官(ねいかん)、内豎(ないじゅ 宮廷内の小臣)の徒にして、将軍家を撫して秋風に泣くと聞きしが、我らの身もまたかくのごときかと、かくのごとき不平は全軍の間に行われしが、近衛軍は最も甚しかりき。

 かくて所々に集会して秘々密々に謀議をこらし、遂に合従(がっしょう)群起、兵力を以て闕下(けっか)に強請(ごうせい)する所あらんとし、八月二十三日の夜半、竹橋の砲兵先ず発し、兵営を毀ち、抹舎を焼き、長官を殺ろし、砲銃を発して、禁闕(きんけつ)に迫りしが途に大尉磯林新造に賺(すか)されて自首して縛に就く。

 この時東京鎮台の少佐岡本柳之助は砲兵大隊を率いて王子に行軍せしが、もし近衛砲兵の兇焔なお少しく強かりしならば、岡本らは直ちに王子の火薬庫を襲うて弾薬を奪い、遥に近衛兵に応ずべかりしなり。

 次で岡本は終身文武大小の官に補せらるるを禁ぜられ、近衛歩兵三添卯助、砲兵長島竹四郎以下銃刑に処せらるるもの五十三人、準流百十八人、徒刑六十八人懲役十七人なりき。

 これと共に大坂その他の諸鎮に於でもまた往々不平の徒を出せしが、遂に大事に至らざりき。

 この事驟然(しゅうぜん)として起り、忽然として已み、人その由来を審(とまび)らかにせずして終りしといえども、賞勲の晩(おそ)きと、給料の減額を怨むるの情と、相合して不平なるに乗じて、私かに陸奥宗光の党与がこれを教唆せるによるものなるべしと信ぜられたり。そは陸奥らの獄は八月二十日に断ぜられ、竹橋の変はその二十二日を以て起りたればなり。

 政府は一方には凶徒を罰すると共に、兵卒の賞勲を速にせしかば、諸鎮に蟠(わだか)まる不平は雲散霧消して、遂に事なきを得たり。

 こわもとより一小事なりしといえども、兵卒が銃を取って禁闕に向うもの、長州人が給門(はまぐりもん)に乱入したる以来の変にして、政府の威柄(いへい)の漸く衰たるを見るべく、もし一転すれば兵隊政治となるべかりしなり。

 これより政府は鋭意して兵隊を検束するの策を講じ、一方には陛下の勅語なるものを下し、兵隊をしてこれを歌わしめ忠義の念を養わんとせるはこの時より起りしなり。而して二、三新聞を限り、兵営に容るるを許せしもまたこの時より初まる。



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