2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(81)

自由民権運動(35)―自由党の解党・改進党の内肛


 この板垣の論説を、自由党党員はどのように受け止めたのだろうか。

 これ実に自由党員が意外に思う所なりき。彼らは板垣の帰るや、必らず政論の上の一段の熱心を加え来るならん、必らずや欧州の自由制度を見て、更らに一段の自由家となりて帰るならんと想像せり。然るに彼らが狡獪無腸漢(こうかいむちょうかん)として退(しりぞ)けたる官民調和論者の言うがごとき議論の、板垣の口より出るを見て、大に不満を起し、往々にして板垣を疎んずるものあり。四分五裂統一する所なく、その一方は暴乱、盗を為すものあれば、一方は退隠、世を棄るものあり、これを放任すれば自由党の名まさに汚されんとするを見て、遂に暫らく自由党を解散するに至れり。これ実に十七年十月なりき。彼らは国会を名として起れり。今や国会已に約せらる、その目的は成就せられたるなり。



 改進党は解党こそしなかったが、自由党に対する政府の激しい弾圧の自党への波及を怖れる思惑や官吏への復帰のもくろみなどが交差し、内輪もめの渦中にあった。


 帝政党已に解散し、自由党もまた解散し、準備政党は各々解散の運に向えしかば、改進党中にも、また政社を解散して、精神上の結合とすべしとの議論唱えられたり。これ一は解散の気運というといえども、その実は政府に対するの争、曠日(こうじつ)持久なるより、抵抗の気力尽きて再びこれと和せんと欲したるものあると、自由党の末流、往々暴乱を企てて刑辟(けいへき)に陥(おちい)り、友人を連坐せしむるもの多きより、その禍また改進党中に起らば、政社の組織は甚だ不利益なるを以て、予(あらか)じめこれを解きて禍を避けんとしたるなり。

 然れども改進党は、準備政党にあらず、現実の問題を掲げ何処までも推し進まんと欲するものなり。さればその党中の少壮気鋭の徒は、断じてこれを永続すべしと論じたりしかば、大隈、河野らかつて政府にありし者、多くは脱党せしが、改進党は依然として唯(ひと)りその旗幟を推し立てたり。改進党が自ら恃んで泰然たるの心性、ここに至って初めて見(あら)わる。

 而して大隈に附随したる旧官吏は、これと共に多くその位を復したり。これ明かに大隈と政府との間に、黙約の成り立ちしを証明する者なり。



 自由党解党前後の主な「過激化事件」は次のようである。

1884(明治17)年
 5月  群馬事件
 9月  加波山事件
 10月 自由党解党
 11月 秩父事件
 12月 名古屋事件
    飯田事件

1885(明治18)年
 11月 大阪事件

1886(明治19)年
 6月 静岡事件

 「過激化事件」については次回から詳しく取り上げる予定だが、これらの事件のうち「加波山事件」・「秩父事件」・「大阪事件」についての記述が教科書Bにあるので、 それを読んでおく。
 かくのごとく民間党の気力奄々(えんえん)として日に尽くるに方りて、民間党の策は、ただ泰然として時を待ち、国民の利害と自家の利害と相合一するの時を待ち、一声の喇叭(ラッパ)、万軍を集むるの大問題に逢着するを待つの外なきなり。

 然れども彼の軽進敢為なる自由党は待つの一字を解せず。常に自ら動けば、何時(いつ)も天下を動かすべしと信じ、自家の挙動は幾何(いくばく)か良民に嫌わるるかを知らずして、軽々しく発せり。

 九月、常陸、千葉の壮年、富松正安を首魁(しゅかい)として爆裂蝉を以て警察署を襲い、まさに県庁に迫らんとして成らず、加波山(かばさん)に入り、遂に縛せらる。その事もとより小なりといえども、爆裂弾を政治的の目的に使用したるの最初なるを以て大に世の注目を惹きたりしが、これより先きアイルランドの殺人党(注1) 、魯国の虚無党(注2)が頻りに爆裂弾を使用すとの風聞に驚きたる世の良民は、加波山事件を聞きて震驚(しんけい)し、自由党を恐怖するに至れり。

 十一月に至り秩父の郡民、租税の重きに堪えざるを名として、侠客田代栄助の嚮導により、竹槍蓆旗を揚げて起てり。彼らの首魁もまた自由党と称する者なりしが、遂に兵を発してこれを討滅す。

 十八年十二月に至り、自由党員大井憲太郎、新井章吾、小林樟雄らが、私(ひそ)かに朝鮮に入り日本党を助けて、内乱を起さんとするの状見(あら)われ、同類悉く縛に就き、東洋のラフェート(注3)らついに相率いて獄中に入る。是れ実に自由党員掉尾(ちょうび)の運動なり。



(注1) アイルランドの殺人党
 アイルランド問題は、エリザベス朝英国の強力な土地没収政策と、1551年の勅令によるアイルランド伝来の旧教圧迫への民衆の反発によって、19世紀後半になって事態が深刻になってきた。
 1840年代には青年アイルランド党の結成、アメリカに居住するアイルランド人の秘密結社フエニアン団と連絡をとるアイルランド共和同胞団の武力闘争、そしてE・S・パーネルによる土地同盟の結成(1879)と土地闘争など、独立・革命運動が強力に展開された。

(注2) 魯国の虚無党
 19世紀ロシアの革命思潮。ゲルツェン、バクーニン、プレハーノフなどが代表的思想家で、90年代初頭まで革命運動の主流をなした青年インテリを中心とするラディカリズム。マルクス主義が移入されるまで反西欧的資本主義、ロシア固有の社会主義(ミール)実現と反個人主義を掲げ、ヴ・ナロード(「人民の中へ」)をスローガンに農民の啓蒙運動に専心。また、彼らの中に個人的テロの手段に訴える一派もあり、ツァー、高官の暗殺計画があいついだ。

(注3)ラフェート
 ラ・ファイエット(Marquis de La Fayette 1757~1834)
 フランス革命期の軍人・政治家。アメリカ独立戦争を支援した。帰国後、「人権宣言」を起草。のちジャコバン派と対立して亡命。再帰国後、七月革命に参加。

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