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482 「良心の自由」とは何か(13)
イエスとは何者か
2006年4月24日(月)


 真のマルクス主義者はマルクス一人である、とよく言われる。その伝で言えば、真のキリスト教者はイエス一人であり、そのイエスが切り開いた宗教は「反アへンとしての宗教」である。また同様に真の仏教徒は釈迦一人であり釈迦の宗教も「反アへンとしての宗教」に他ならなかった。
 田川健三著「イエスという男―逆説的反抗者の生と死」(三一書房)の冒頭の一節を引用する。


 イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。歴史の中には常に何人かの先駆者が存在する。イエスはその一人だった。おそらく、最も徹底した先駆者の一人だった。そして歴史の先駆者はその時代の、またそれに続く時代の歴史によって、まず抹殺されようとする。これは当然のことである。先駆者はその時代を拒否する。歴史の進むべきかなたを、自覚的にか直感的にか、先取りするということは、当然、歴史の現状を拒否することである。現状に対する厳しい拒否の精神が未来を変化させる。従って、歴史の先駆者は、その同時代の、またそれに続く歴史によって、まず抹殺されようとする。
 こうして抹殺された先駆者は多かったことだろう。我々がその存在を知らない、というだけなのだ。抹殺されたから、歴史の記録には残っていない。歴史の記録に生き残った者が偉大なのではない。あとかたもなく消されていった多くの人々こそが、歴史をその本質において担った者である。
 しかしまた、抹殺されずに思い出が残った者もある。その者の先駆者としての性格が非常に強烈であった場合には。そしてまた、何らかの偶然がその者の記憶を後世に残すように働いた場合には。

 けれどもこのように歴史が先駆者の思い出を抹殺しきれずに残してしまった場合には、今度は逆に、かかえこもうとする。キリスト教がイエスを教祖にしたのは、そういうことなのだ。
 イエスは殺された男だ。ある意味では、単純明快に殺されたのだ。その反逆の精神を時代の支配者は殺す必要があったからだ。こうして、歴史はイエスを抹殺したと思った。しかし、そのあとを完全に消し去ることはできなかった。それで、今度はかかえこんで骨ぬきにしようとした。そしてそれは、ー応見事に成功してしまった。

 体制への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として誉めあげることによって、自分の秩序の中に組みこんでしまう。マルクスが社会科の教科書にのった時、もはやマルクスではなくなる、ということだ。こうしてイエスも、死んだあとで教祖になった。抹殺とかかえこみは、だから、本来同じ趣旨のものである。キリスト教は、イエスの抹殺を継続するかかえこみであって、決して、先駆者イエスの先駆性を後に成就した、というものではない。イエスは相変らず成就されずに、先駆者として残り続けている。



 一般に、イエスが活動した時代から新約聖書の主要な文書(福音書)が成立するまで「原始キリスト教」と呼んでいるようだ。「マルコ伝」はイエスの死後20年ほど後に成立している。その30~40年後に「マタイ伝」と「ルカ伝」が書かれている。
 「マルコ伝」が『原始キリスト教の主流に対してはっきり批判的視点をうちだしている』のに対して、「マタイ伝」と「ルカ伝」は正統的教会の権威を備えた正典的福音書を目指してまとめられたものだという。
 諸学派の教会が自らの権威を求めてイエスの業績や言葉を歪曲・改竄し始めたときから、たぶん、原始キリスト教は「支配者の宗教」へと変貌し始めた。
 「被支配者の宗教」として、イエスが闘った敵は何だったか。政治的支配者(ローマ帝国とその傀儡)であり、宗教的権威(ユダヤ教支配体制)であり、土地や産業に寄生した富者(社会的経済的搾取構造)であった。イエスの言動に対する時の支配者の恐怖と憎悪は計り知れぬほどであっただろう。

 上程書の最終節から引用する。


 結局、イエス受難劇の中で歴史的にもっとも確かな事実は、十字架につけて殺された、という点である。処刑される者がみずから十字架の横木をかついで刑場まで人々の見ている中を歩かされたというのも、ローマ人による十字架刑の慣習にあることだから、当然イエスの場合もそうだっただろう。その時イエスが自分でかつぐことができなくなり、たまたま居あわせたクレネ(キユレネ)の人シモンなる人物がかわりにかつがされた、というのも事実だろう。夜に逮捕され、「裁判」を受け、朝まで好きなように拷問されれば、いかにイエスが頑健でも、重い十字架をかついで歩き通す体力は残っていなかっただろう。
 十字架というのは残酷な死刑である。「十字架の死は、キケロによれば、最も残酷で最も恐しい死刑である。処刑される者が同情される場合には、脛骨が折られたり、脇を槍で突いたりして、苦痛の時を短くしてやる。そうでない場合は、不幸な処刑者は何時間も、あるいはしばしば何日間もの間苦痛にさらされて十字架にはりつけられていなければならない。そのあげくにようやく、衰弱、窒息、鬱血、心臓破裂、虚脱、あるいは何らかのショックによって死ぬ。だがその間ずっと、十字架にかけられた者は、おのれにおそいかかる猛獣、猛禽にまったく無力にさらされ続ける。おのれの傷口にとまる畑や虻を避けることさえできない。要するに、十字架刑は古代の裁判制度が発明したこの上もなく極悪非道な事柄である。」(E・シュタウファー、『エルサレムとローマ』)

 イエスはすでに弱っていたせいか、手足を釘づけにされた流血と苦痛だけでも長時間は耐えられず、半日ほどで死んでいる。わざわざ脛骨を折ってやるまでもなかった。ただ、死んだことの確認のために槍で脇腹を突きさされただけだという(ヨハネ19・24)。
 苦痛の時間が短かかったことが僅かな救いであったと言うべきか。弾圧されて殺される時は、ひたすら悲惨である。むごたらしく流された血と、ただの肉塊になってみにくく散らばるまでの極度の苦痛のみある。
 弾圧の死に希望があるとすれば、その死にいたるまでの当人の活動と、その死の意義を生かそうとする後の人々の活動にしかない。死そのものは、あくまでも悲惨な、闇から闇へと葬られるための出来事でしかない。だから、イエスの死の出来事にイエスの活動の意味を見出そうとするのは間違っている。断末魔の極度な苦しみはあくまでも断末魔の苦しみなのであって、弾圧の打撃におのれの肉体がついえていく苦痛の瞬間以外の何ものでもない。その一瞬におのれが生きかつ活動してきたすべての事柄の意味がこめられる、などということはありえない。
 断末魔の中でイエスは叫んだ、

「我が神、我が神、何ぞ我を見捨て給いし」(マルコ15・34)

 それはそうだろう。近代の無神論者が、神による絶対の正義など存在しないということをよく知りつつ、少しでも多くの人間の正義を願って活動し、おのれを犠牲にして死んでいった、というのとは話が違う。その場合でさえ、客観的に見ればその人の死は無駄ではなく、その人自身も、神が正義を保証してくれるなどということはあてにせず、ただ歴史の未来を信じて自分の一かけらの生命を捨てていったにせよ、断末魔の苦痛においては、もしかするとおのれの努力はまったく無駄であったのかと、絶望的な感情にもとらわれよう。ましてや古代人イエスは、神を信じていた。自分が生命を賭して貫いてきた活動は神の側の正義だと確信していた。おそらくイエスも、おのれの逮捕、処刑に際して神がみずから出馬して、奇跡的におのれを救ってくれるだろう、などと考えるほど甘かったわけではなかろうが、やはりこのように弾圧され、無惨な死にさらされれば、いったい神は本当に正義の側に立つのだろうか、と懐疑に陥らざるを得なかっただろう。いや、その程度の懐疑なら、すでに何度もくり返し通過してきているはずだ。ここにあるのはもはや懐疑でなく、絶望である。神は俺を見捨てやがった。

 そう言って叫んだ時、その瞬間に残ったのは、無惨な死だけであった。その瞬間のイエスの心を思う時、懐然としない者はいないだろう。
 このあまりに赤裸々な断末魔の死に慄然と対面するのを避けるため、解釈者はイエスからこの言葉すらも奪おうとしてきた。

(中略)

 こうして受難物語の語り手も、後世の解釈者も、断末魔のイエスのあまりに無惨な意識に対面して慄然とするのを避けようとした。そういう解釈者の意識の中で、イエスは「復活」させられる。その次には、イエスの死の意味づけがはじまる。ついには、イエスという救済者は十字架の死によって世の人々を救うために此の世に来たのだ、と言われるようになる。イエスは十字架にかかって死ぬために生きた、というわけだ。

 そうではない。イエスのあのような生と活動の結末として、あのような死があった、ということだ。あのようにすさまじく生きたから、あのようにすさまじい死にいたり着いた。いやむしろ、あのようにすさまじい死が予期されているにもかかわらず、敢えてそれを回避せずに生きぬいた、ということか。イエスの死に希望があるとしたら、死そのものの中にではなく、その死にいたるまで生きかつ活動し続けた姿の中にある。



 ただただ畏敬し戦慄するほかない凄まじい人生だ。
 権力は、どんな権力も醜悪である。権力の維持・保全の歴史は自由を求めるものたちへの残虐な弾圧の歴史である。権力によって抹殺されてきた多くの崇高な精神をもった偉大な人物たちを思う。

 最近、鎌田慧著「大杉栄 自由への疾走」を読んだ。大杉栄も崇高な精神をもった偉大な人物だと思う。



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