2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(79)

自由民権運動(33)―民間党の末路


 民権運動の衰退の原因として、

①政府の牙をむきだした弾圧
②民間党切り崩しの狡猾な懐柔策
③民間党自身の内部崩壊

が考えられる。それらが絡み合って相乗的な力となり、自由民権運動は衰退していった。①②③における決定的な事件としては

①1882(明治15)年11月  福島事件
③1883年10月
 板垣退助の変節(自由党解党)
②1884(明治17)年7月
 華族令(貴族制度の導入)

をあげることができる。

 福島事件は、一部自由党員が、いわゆる「激化」していくきっかけとなったとされている大弾圧である。この事件は「激化事件」(色川さんの提言に従えば、「抵抗権行使事件」)の発端として、「激化事件」を取り上げるときに詳しく見ることにする。

 貴族令は、「一君万民」という明治維新の当初の目的のご破算を宣言したに等しい法令だった。竹越も、貴族令について次のように述べている。

 維新改革の大目的は自由平等の大儀を実行すると、皇室と人民とを近よらしむるにありき。これ当時の人心に印したる一大譜牒なりき。ここに於いてか華族なるものは早晩廃せざるべからずと信ぜられたるに、ここに至って華族を区別し、更に新華族を設けて、皇族の藩屏(はんぺい)と称し、以て人民と皇室との間を遠からしめたれば、維新以来十有八年にしてその大目的ついに失敗す。



 さらに、この華族令による新華族に、大隈重信・板垣退助・後藤象二郎が名を連ねている。自由民権運動を主導的役割を担っていた者らが、やすやすと政府の手中に落ちてしまったのだ。民間党は、あとは坂を転げるように転落するほかない。

 かくのごとく貴族主義の勢力は駸々乎(しんしんこ)として進むと共に、民間党は実に憐れ墓(はか)なき境界となれり。

 彼らは一挙して明治政府を打ち倒さんとして国会を名として起てり。然れども政府は倒れざるなり。国会は約束せられたり。而して自家の金城鉄壁として恃み切ったる人民は、政党に冷淡にして、むしろその囂々(ごうごう)を厭うもののごとし。ここに於てか或る者は節を変じて官吏となり、或る者は山野に退居して時を俟(ま)ち、或る者は世を憤って暴乱家となれり。

 彼らは自由平等の理想国を望見することモーゼがネボ山にありて上帝約束の地を望見したるがごとく、生気勃々(ぼつぼつ)として、国民を率いてこの地に入らんと欲せり。而して国民はこれを知らずして、容易に動かざるなり。ここに於てか彼らはヘルヴェシウスがいえるがごとく、社会もし己を容れずんば、社会は即ちその生存の目的を過ちたるものなれば、これを破壊するも可なりちょう主義もて、往々にして激昂、暴乱の企てを為すものあり。当時の自由党の多数は実にかくのごとき失望悪戦の徒と化したるなり。


 党の総理が華族に名を連ねれば、「節を変じて官吏」に転身する者もいる。これらも変節に違いないが、さらに板垣には思想的な変節があり、それが自由党解党へとつながっていった。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1059-3a2e8ac2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック