2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(75)

自由民権運動(29)―改進党結成


 組織論の行き違いから自由党準備会から離脱した嚶鳴社の沼間は、東京の民権派ジャーナリスト諸グループの結集して指導部の確立後に地方に組織を拡大するというその組織論を文字通り実行して、立憲政党を結成するが、それは直後に活動を停止することで終った。沼間は別の道を求めて、立憲改進党結成に努力中の小野梓と連携する。

 されば政府中の大立物にして、幾多の才俊を門下に養える大隈が、民間党中に入るや、民間党は双手を開きてこれを歓迎せり。

 ここに於でか、かつて自由党に投じたる嚶鳴社派はその旗を抜きて大隈の大傘に入り、三田派出身の官吏、地方の豪農、豪商と共に十五年の初春左の綱領によりて改進党を組織し、大隈これを総理し、河野敏鎌その副総理たり。ここに於てか千里一色なる民間党は、分れて二となれり。

第一
 王室の尊栄を保ち、人民の幸福を全うする事。

第二
 内治の改良を主とし、国権の拡張に及ぼす事。

第三
 中央干渉の政略を省き、地方自治の基礎を建つる事。

第四
 社会進歩の度に随ひ選挙権を伸闊(しんかつ)する事。

第五  外国に対し、勉めて政略上の交渉を薄くし、通商の関係を厚くする事。

第六
 貨幣の制は硬貨の主義を持する事。



 この改進党の基本的性格や自由党との関係については、まだ今後の研究に待たれる部分が多いようだ。教科書Cの解説を引用しておく。

 大まかにいって自由党がその基盤を小ブルジョア的発展をとげつつある農民層と非特権的商工業者に置いていたのに対し、改進党の場合、都市の商工業者と地方の名望家・資産家にその基盤を置いていたと推定される。

 (最近の研究によると)小野梓らはその政治理論において、「皇権と民権」の関係をいわば正比例するものとしてとらえ、逆比例関係でとらえる自由党にたいして意識的に距離を保つとともに、他方立憲帝政党にたいしても明確に一線を画したこと、各地域において自由党系の在地民権結社にそれぞれの事情で競争ないし対立関係にあった在地民権結社の人々が入党したこと、などが明らかにされている。各県の改進党系小政党と改進党との関係も全体として究明する必要がある。

 また、自由党との関係でいえば、例えばその第一点との関連でいえば、分立に遺憾の念を表するだけでなく、当時の分立を止むを得ないものとした上で共通課題ないし一致点(例えば議院内閣制や財政共議権の要求)による共同闘争の可能性(後の条約改正反対運動の場合県レベルで共闘が成立した)、或いは実現しなかった理由をさぐることが歴史的総括として必要であろう。



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