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『続・大日本帝国の痼疾』(73)

自由民権運動(27)―御用新聞と御用政党(1)


 自由党の結成につづいて、それを支援する友党が各地に組織されている。その主なものをあげると

日本立憲政党(大阪 1882年2月22日)
 中島信行を総理に、関西8府県640名の党員を結集。近畿自由党などもこれに合流している。

九州改進党(1882年3月12日)
 強烈な独立の自負心をもつ九州の民権結社は熊本公議政党の提唱のもとに大同団結をなしとげた。名は改進党だが自由党色のつよい独立政党である。

 こうした自由民権運動の高まりを教科書Cは次のように記述している。

 これより先き九州の進歩分子は早く己に改進党を組織せり。大坂の自由分子は立憲政党の名によりて自由党の一部を樹立せり。越後に於ても、東海道に於ても、関八州に於ても、また自由改進両党の組織あり。至る所、自由改進の空気を以て満され、合従(がっしょう)大呼、政府に当れり。

 彼らは言論の自由を有せざるなり。然れども法律を破り、刑罰を以て自由を買えり。彼らは集会の自由を得ざるなり。然れども事に託して政治的の集会をなし、以てその目的を貫けり。



 官有物払い下げ事件をめぐって強行された政府の言論・集会への弾圧策は、もちろん、その後も止むことなく継続されている。

 彼ら(政府)は右には大久保以後の慣用政略により、警察を厳にして、以て人民に臨み、言論、集会、少しく政府を攻撃するものあれば、直ちにこれを停止し、罰金を科し、これを解散せり。

 これが為めには日本政府といわず、単に理論上に於て圧政政府は転覆すべしと述ぶるや、解散せられたる集会あり。暴君汚吏は人民の敵なりと論ずるの新聞紙は、暗に明治政府を指したるものとして停止罰金を蒙りたるものあり。これ必しも中央政府の意にあらざりしなるべし。

 然れども政令は物の中天より落つるがごとく、一歩一歩、圧力を加え来れば、内閣に於て厳粛の政策を取れと令すれば、地方官に至ては圧抑となり、地方官の令を奉じてこれを実行する警部巡査に至っては、暴戻(ぼうれい)となるは免れざるの数なり。

 かつこの時に方ってや官吏中に幾多の行険者(こうけんしゃ 危険な行為をなす者)を出し、政府の意民間党を抑ゆるにあるを見るや、陰私百方、これを妨げて以て自家進官の階梯となすものあり。香取某なる警察官は演説会場に臨むや、必らず弁士の隙に乗じてその欠点を捉えてこれを解散せしめり。ここに於てか彼は解散警察官の名を負うて、一躍して奏任官となれり。

 ここに於てか官吏の中、靡然(びぜん)として行検の風を生じ来り、あるいは学校の教員を利用して民間党を攻撃し、あるいは宗教を籍(か)りて不平を鎮め、福岡県令渡辺清のごときは真宗の僧侶、大洲鉄然を延(ひ)きて管内を巡遊し、妄(みだり)に政府に抵抗するの悪事たるを説教せしめたり。





1882(明治15)年
  3月18日 立憲帝政党結成
  4月 6日 板垣退助、襲われる
  4月16日 改進党結成(大隈重信)
 11月28日 福島事件


 改進党の結成に先立って結成された立憲帝政党とは何か。藤井政府は集会条例などを武器に民権運動を弾圧するとともに、資金援助をして御用新聞を育て、民権派の言論に対抗せしめている。さらにそれは傀儡御用政党の結成まで発展する。それが立憲帝政党である。この政党は政府の肝いりで結成されたが、当然、政府の都合で解党する運命にあった。政府が超然主義(政党の意思を無視する)を基本姿勢とした時点で政治的存在理由がなくなり、藤井政権の意向を受けて、1883年9月24日に早くも解党消滅した。

 成立事情や実勢力からみて、この政党を自由党や改進党と並べて論じるのは適切ではないだろう。従って、自由民権関係の本ではこの政党についての記述はほとんどないようだ。しかし、国家権力の民衆弾圧と民衆懐柔の手口、および自由民権に敵対する思想の低レベルぶりを知るのには格好の材料だ。少し長いが、教科書Bの記述を転載しておこう。

 政府は一方にはかくのごとく、剣を抜きて民間党に向えり。而して一方にはまた伊藤の腹心たる法制局長官井上毅、及び安場保和に命じて、熊本にありて改進党と対峙する紫溟会を語らい、土佐にありて自由主義を奉ずる板垣の一派と相対峙し、谷干城、佐々木高行らを奉ずる一派を誘い、また『日々新聞』の主筆福地源一郎、『明治日報』の社長丸山作楽、『東洋新報』の社長水野寅次郎、羽田恭輔らを糾合して、以て政府の味方たらしめたり。丸山作楽は肥前の人、かつて征韓論の動揺に乗じ兵を挙げて朝鮮に渡らんとして、獄に投ぜられ、僅かに許されて出るや、直ちに政府の命によりて『明治日報』を発刊し、保守主義を発表して以て自由改進の両党に当れり。水野は国と土佐の自由派にして、立志社の社中なりしが、立志社が一局議院論を唱うるを不可として去れり。而してその新聞の資金もまた政府より出ず。羽田恭輔もまた政府の資金によりて、大坂にありて新聞を発行するものなり。



 上記の各新聞は文字通りの御用新聞だが、中立を装った御用新聞もあったという。たまたま今朝、ネットでそれを知った。下記にリンクを張っておきます。興味のある方はご覧ください。

「中立」新聞の形成~朝日新聞と政府の密約

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