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『続・大日本帝国の痼疾』(71)
自由民権運動(25)―自由党結成
前年の国会期成同盟合議書に則り、1881(明治14)年10月1日に国会期成同盟第三回大会がもたれた。しかし未到着の代表がいたため、初日は「出京者懇談会」ということになった。この大会の重要議題は憲法案審議であったが、この懇談会で急遽自由党結成の大会にするという方針にきりかえられた。
当時いよいよ熾烈になってきた集会条例による弾圧に対抗するためには、続々と組織されてきている各地の自由党を団結し組織を強化することが必要であり、そのためには政党結成が急務であるという共通の認識があったでろうと、容易に推測できる。そのことを考慮すれば、この方針変更は時宜にかっなたものといえよう。
その懇談会には1道2府9県の代表者18名と常務委員林包明(かねあき)が参加している。林はそのときの様子を「国会期成同盟報」で次のように報じている。
かくして大会は二日以降、大日本自由党結成会となった。その大会の経緯と決定事項について、山際七司が書簡で簡潔に記録している。教科書Cからそれを全文を孫引きする。(読みやすくするため適時段落をつけた。)
私は教科書Aに準じて自由党結成を10月29日としたが、訂正しなければなるまい。ネットで調べた範囲では10月18日というのが定説らしい。上の山際書簡によれば、前者は本部役員選出(総裁・板倉退助を含む)をもってその日とし、後者は党規則など組織機構創出のための役員選出と事務所開設とをもってその日としている。
なぜこんな細かいことにこだわっているかというと、いずれにしても自由党結成を国会設立の勅諭渙発(10月12日)の後にしている点にある。年表だけを見ると、国会開設の勅諭を受けて自由党を結成したものと誤解するおそれがある。しかし事情は逆なのだ。
江村さん(教科書C)は、国会期成同盟大会を拡大して自由党結成大会に変更した10月2日を自由党結成の日としているようだ。次のように述べている。
「10年後に国会開設を約束した勅諭は、通説とは違い自由党結成決定後に出されたものであり、ここまで成長した自由民権運動に分裂のくさびを打ち込もうとする戦術的譲歩と反動攻勢開始の宣言であった。」
井上毅は岩倉具視に宛てた1881年10月8日付書簡で「立志社其他昨年の請願連中は府下に於て国会期成会を催し・・・各地方二三十日来結合奮起之勢」と書いている。自由党の結成に戦々恐々としている。地方の団結を目指す自由党の結成が国会開設という政治的譲歩を引き出したのだ。政府は、10年もたてば自由民権運動も下火になるだろうと、高をくくっていた節もある。
また、山際七司書簡(10・22)は詔勅に対して、「本月十二日ノ詔ハ意外ノ汚辱ナリ」ときびしく批判している。
ともあれ、ここに日本の人民闘争史上初めて綱領・規則と全国組織をもつ政党が出現したことになる。色川さんは「これは日本の民衆史上、画期的なことである」と評価している。
なお、ちなみに、28,29日に選出された本部役員は次の通りである。
総理 板垣退助
副総理中島信行
常議員後藤象二郎
馬場辰猪(たつい)
竹内綱(つな)
末広重恭
幹事 林包明(かねあき)
内藤魯一(ろいち)
山際七司
林正明
大石正巳
自由民権運動(25)―自由党結成
前年の国会期成同盟合議書に則り、1881(明治14)年10月1日に国会期成同盟第三回大会がもたれた。しかし未到着の代表がいたため、初日は「出京者懇談会」ということになった。この大会の重要議題は憲法案審議であったが、この懇談会で急遽自由党結成の大会にするという方針にきりかえられた。
当時いよいよ熾烈になってきた集会条例による弾圧に対抗するためには、続々と組織されてきている各地の自由党を団結し組織を強化することが必要であり、そのためには政党結成が急務であるという共通の認識があったでろうと、容易に推測できる。そのことを考慮すれば、この方針変更は時宜にかっなたものといえよう。
その懇談会には1道2府9県の代表者18名と常務委員林包明(かねあき)が参加している。林はそのときの様子を「国会期成同盟報」で次のように報じている。
是迄自由党ト期成党ト格別ニナリ居タルモ到底同主義ニシテ少シモ異ル所ナケレハ、寧ロ之ヲ一ノ政党トナサント其議整ヒ、次ニハ政党ノ組織ヲ論セント明日午後一時再会ヲ期シ退席ス、其際或ハ死ヲ以テ国会ノ請願ヲナサント云ヒ、或ハ新聞雑誌ヲ発行セント云ヒ、其他種々ノ論アリシモ是其枝葉ニ止マルモノナレハ、先ツ其大本タル政党ノ組織ヨリ漸次序ヲ追ヒ以テ枝葉ニ論及セント確定セリ。
かくして大会は二日以降、大日本自由党結成会となった。その大会の経緯と決定事項について、山際七司が書簡で簡潔に記録している。教科書Cからそれを全文を孫引きする。(読みやすくするため適時段落をつけた。)
日本公会ノ概略
十月一日 国会期成同盟第二会ヲ槍屋町事務所ニ開ク
二日
国会ヲ開キ期成同盟会ヲ拡張シ大日本自由政党結成会ニ変更シ広ク天下ノ有志者ヲ団結シ以テ吾党ノ目的ヲ達センコトヲ議決セリ
則来五日加賀町赤松亭ニ会同シ自由党組織原案ヲ起草スルニ決シ委員五名ヲ公選セリ則 竹内綱 林包明 鈴木舎定 予当選セリ
六日ヨリ十一日迄
原案起草ニ従事セリ
十二日ヨリ十六日迄
毎日自由党組織相談会ヲ開設シ専ラ協同一致ヲ計画セリ
十七日
午後六時ヨリ自由党親睦会ヲ向島枕橋八百松楼ニ開設後藤象次郎氏始メ百余名会同席上演説湧カ如ク歓ヲ尽シテ止メリ
十八日
自由政党会ヲ浅草須賀町井生村楼ニ開設会員七十余名
議長其他ノ役員ヲ公選セシニ当選者左ノ如シ
議長後藤象次郎
副議長馬場辰猪
幹事林包明 内藤魯一
会計竹内綱 山際七司
本日議事規則ヲ決議セリ
十九日ヨリ廿七日迄
自由党規則ヲ討論審議
本日ヲ以第三次会ヲ終ヘタリ
廿八日廿九日
両日ヲ以テ本部役員ヲ公選セリ
三十日
已来本部設立新聞発兌準備ニ従事セリ
自由党規則中ニ記載セル如ク地方部位置ヲ定メ之レヲ本部ニ直結シ地方部ニ部理壱名ヲ置キ本部へ対シ地方ノ責任ヲ有スルモノトス
第一期中央本部費用壱方八千円ハ各郡ノ醵金ヲ以テ支弁シ第二期ヨリ分頭方ニ課賦スルニ決セリ
新潟会議ニテ第一期ハ金五百円ヲ本部ニ出金スルニ決セリ其納期ハ十二月三月六月ノ三回ニシテ一回ニ三分一ヲ納ムルコトナリ
板垣退助氏ハ即今仙台地方ニ漫遊中ナレトモ本部総理ニ当選ナルヲ以テ電信ヲ以テ帰京ヲ促シタルニ今明両日中ニ帰京ノコトナリ
私は教科書Aに準じて自由党結成を10月29日としたが、訂正しなければなるまい。ネットで調べた範囲では10月18日というのが定説らしい。上の山際書簡によれば、前者は本部役員選出(総裁・板倉退助を含む)をもってその日とし、後者は党規則など組織機構創出のための役員選出と事務所開設とをもってその日としている。
なぜこんな細かいことにこだわっているかというと、いずれにしても自由党結成を国会設立の勅諭渙発(10月12日)の後にしている点にある。年表だけを見ると、国会開設の勅諭を受けて自由党を結成したものと誤解するおそれがある。しかし事情は逆なのだ。
江村さん(教科書C)は、国会期成同盟大会を拡大して自由党結成大会に変更した10月2日を自由党結成の日としているようだ。次のように述べている。
「10年後に国会開設を約束した勅諭は、通説とは違い自由党結成決定後に出されたものであり、ここまで成長した自由民権運動に分裂のくさびを打ち込もうとする戦術的譲歩と反動攻勢開始の宣言であった。」
井上毅は岩倉具視に宛てた1881年10月8日付書簡で「立志社其他昨年の請願連中は府下に於て国会期成会を催し・・・各地方二三十日来結合奮起之勢」と書いている。自由党の結成に戦々恐々としている。地方の団結を目指す自由党の結成が国会開設という政治的譲歩を引き出したのだ。政府は、10年もたてば自由民権運動も下火になるだろうと、高をくくっていた節もある。
また、山際七司書簡(10・22)は詔勅に対して、「本月十二日ノ詔ハ意外ノ汚辱ナリ」ときびしく批判している。
ともあれ、ここに日本の人民闘争史上初めて綱領・規則と全国組織をもつ政党が出現したことになる。色川さんは「これは日本の民衆史上、画期的なことである」と評価している。
なお、ちなみに、28,29日に選出された本部役員は次の通りである。
総理 板垣退助
副総理中島信行
常議員後藤象二郎
馬場辰猪(たつい)
竹内綱(つな)
末広重恭
幹事 林包明(かねあき)
内藤魯一(ろいち)
山際七司
林正明
大石正巳
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