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『続・大日本帝国の痼疾』(67)

自由民権運動(21)―大隈重信の政略


 自由民権運動の推移を年代順に追う課題に戻ろう。(「自由民権運動(9)―愛国社的潮流(2)」の続きになります。)

 愛国社的潮流と在村的潮流が合流して国会期成同盟が結成されたのは1880(明治13)年4月のことだった。そして国会期成同盟の第二回大会(同年の11月)で、愛国社系の有志から政党結成の提案があり、都市民権家をも交えて政党結成の準備が始められた。またこの年に、民権諸結社から50余件建白・上願が明治専制政府に提出されている。こうした人民輿論の攻勢に対して明治専制政府は「集会条例」をもって弾圧を強化した。

 この一挙(国会期成同盟結成)は実に人心を鼓動すると共に、満朝駭然(がいぜん)、遂にその月を以て集会条例を定め、政社と政社の連絡を禁じ、警官の認可を得ずして三人以上政事を論談するを禁じ、十二月に至り人民の上書建白は一般の公益に関するものは何らの名義を以てするも、すべて建白となし、府県を経て元老院に呈すべしと定めたれば、民権家は直ちに中央政府に対して示威的の運動を為すの道を失したりき。而して集会条例の起草者、渡辺洪基の名、中外に記憶せらる。



 ちなみに、渡辺洪基は元福井藩士の官僚で、集会条例に対する民権派からの激しい攻撃を受けて官職を辞しているが、後に東京府知事、帝大総長になっている。さらに衆議院議員、貴族院議員を歴任している。まさに「憎まれ子世にはばかる」だね。

 また、岩倉具視・伊藤博文を中心とする政府は、閣内に民権陣営と通じている有力参議・大隈重信や福沢系の官僚たちに対処する方策を立てるため、急遽、各参議に国会論や憲法意見を提出させている。そして、薩長参議の意見を統一して、政府内主流派の勢力の確立をはかった。しかし、大隈派の即時憲法制定(1881年)・国会開設(1883年)という主張と薩長参議らの時期尚早論が激しく対立し収拾がつかなかった。

 かねてより大隈は政府改造の大計画を立てていた。国会開設はその計画の最終章になるはずだった。

 民間党の勢焔かくのごとくなるに方って、政府は一致連合その全力を尽くしてこれに当れり。然れどもその実、各大臣互にその権力を争えり。

 大久保逝って後の内閣は、三条、岩倉、寺島、大隈、伊藤、西郷、山県、川村、井上、大木、黒田の九参議を以て組織せられたり。この際大隈はその才幹を以て同輩を凌駕せしも、満朝の大臣多くは皆その先輩にして、後(しり)えに至大なる藩閥力を控えたれは、事ごとにこれがために牽制せらるること多かりしかば、彼は自由民権の論天下に瀰漫するの時に乗じて、政府を改造せんとするの大計画を起せり。

 その計画の第一着としてその腹心の友、河野敏鎌(とがま)は先ず文部卿となれり。慶應義塾出身の書生は、一躍して奏任官となるもの数十百人なり。各省中の枢密な る局部には、大隈の股肱を以て満されたり。大蔵省中の会計局を改めて、独立の会計検査院となし、その腹心の青年を以てこれを占有せしめたり。元年より八年に至るの出入決算表を制して天下に公布して、以て信任を広うし、人民の苦悩を減ずるの策として、歳計を減ずる八百万円にして、地方税、地価割は地租五分の一を超ゆべからずとなしたりき。これ皆な天下の信任を博し、大隈の勢力をなすの策にして十一、二年中に為されたり。

 かくのごとくその政府改造の第一計画遂ぐるや、直ちに第二計画に移れり。第二計画は各省長官と内閣参議とを分離するにありき。この分離説はかつて明治五年に於て板垣退助のために唱えられたり。然れども板垣は身、参議にして、他の参議は各省の長官を兼ね、入っては大政を論じ、出でては一省に長たるより、往々にして権勢他の専任参議を凌駕するを憂うるより出ず。今や大隈の策は即ちこれに異なり、彼れ参議を以て大蔵卿を兼ぬるといえども、僅かに入っては参議となりて閣議に参じ、出でては長官となりて一省を治むるに過ぎず。これ彼が不満足に思う所にして、太政大臣となりて一政府の大権を掌握するにあらずんば、足れりとせざるなり。然れどもその声望、党与、いまだ太政大臣たるべからず。巳むなくんばここに一策あり。

 内閣と各省を分離せしめ、内閣中に各分科を置きて、各省の事務を監督せしめ、而して自ら二、三枢要の分科を支配せん。これ名は参議にして、その実一時に二、三省の長官を兼ぬるなりと。これ三条岩倉なお存し、平民士族を以て太政大臣たる能わざるの当時に於て、政府の大権を握らんとするには、これより他の策なかりしなり。

 ここに於てか十三年二月、遂に参議の諸省卿を兼ぬるを罷(や)むるの議を提出せり。大隈がかくのごとき考案を有すると共に、伊藤もまた同一の野心を有したれは、この領分切取の策は両人の間に黙諾せられて容易(たやす)く通過し、外務卿井上馨を除くの外、各省長官皆な専任参議となり、左の変革を為せり。

左大臣(元老院議長)有栖川宮熾仁親王
元老院議長(参議)大木喬任
内務卿(大蔵大輔) 松方正義
大蔵卿(議官)佐野常民
陸軍卿(内務大輔大警視) 大山 巌
海軍卿(外務大輔全権公使)榎本武揚
文部卿(元老院副議長)河野敏鎌
工部卿(工部大輔)山尾庸三
司法卿(文部大輔) 田中不二麿
開拓長官 黒田清隆

 これ各省次官の進んで卿となるに似て、実は然らず。各省の権を内閣に運びたりしのみ。而して他の専任参議は左の分科を受けもちて、各省を監督支配せり。

外務部 大隈重信・川村純義・井上馨
内務部 伊藤博文・黒田清隆・西郷従道
軍事部 山県有朋・西郷従道・川村純義
会計部 大隈重信・寺島宗則・伊藤博文
立法部 大木喬任・山田顕義
司法部 寺島宗則・山田顕義

 これと共に各省中の俊敏活達の書記官を選抜してこの分科に属せしめたれば各省の権は、明かに内閣に移りたり。而してこの領分切取の末に於て、大隈は外務と大蔵を得、伊藤は内務と大蔵とを得たり。けだしこれは、大隈の慧眼、早くも条約改正は、拠って以て全政府を動かすの要害なるを見抜きたるなり。

 かくのごときもの一年、大隈の権勢漸やく各省に漫延するや、漸くその第三計画に移らんとせり。第三計画とは即ち天に滔(みなぎ)り地に溢るる国会論の大潮流を引きて内閣に入れ、これによりて内閣中の異分子を淘汰し去らんとするにあり。

 彼は久しく思慮せり。久しく計画せり。一日民間党に対する韜略(とうりゃく)、閣議に上るや、左大臣有栖川宮、大隈に問うにその考案を以てす。大隈答て曰く策なし。強てこれを問う。大隈答て曰く事甚重大なり。容易に公言すべからず。私(ひそ)かに 座を給わばこれを陳(の)べんと。左大臣遂に一夜大隈を見(まみえ)る。大隈具(つぶさ)に民間党の気焔の当るべからざるを論じ、これに当るの策、ただ薩長二大藩の藩閥力を打すてて天下と休戚を共にするの外なしとなし、明治十五年を以て国会議員を招集し十六年を以て国会を開らきその準備とし、今より五、六藩閥の元老を退け、民間党中の新進政治家を容るべきを以てし、かつ暫らくこの事を他に秘せんことを乞う。事遂に洩る。ここに於てか薩長二藩の士大に怒り、直ちに大隈に迫らんとし、衆怨、大隈の身に集まる。



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