2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(65)

自由民権運動(19)―在村的潮流(6)



 考えてみれば五日市学芸講談会は学習結社を中心としながらも、会員相互の救助活動、社会にたいする働きかけの政治活動(演説会や署名運動や憲法草案起草や地租延納建議など)、また公衆衛生や産業奨励のための民生活動、それに彼ら自身の楽しみと自己表現のための親睦会活動(漢詩の会、観月会、遊船会、交流会)などを行なっている。これは新しい理念によって結ば れた豪農・富農層の全生活結社としての性格である。中農・貧農層のそれは秩父や群馬などの峰起前に顕著にあらわれる。私の観点からすると各村や耕地(小地域共同体のこと)の困民党は、中・貧農層のつくった一種の〝民権″結社ということができる。



 色川さんは、中・貧農層が担った困民党を「一種の〝民権″結社」と位置づけている。これに異論はないが、では、豪農・富農層に主導された在村的民権結社は、中農・貧農層あるいはその他の底辺民衆にとってどのようなものだったのだろうか。この問題について、色川さんは次のように論じている。
 石陽館や学芸講談会のような万人に門戸をひらいていた結社に、中農、貧農などいわゆる底辺民衆が近寄りがたかったのは、彼らの多くが文字に親しんでいなかったという事情にもよる。自分の名前さえ満足に書けなかった人びとにミルやスペンサーの訳書は無理であった。

しかし、彼らに向学心がなかったのではなく、村の演説会場は満員になる。それは、「自由」、「民権」のよびかけの中に底辺民衆の魂の深部にふれるものがあったからである。演説は読書と違って識字力を要しない。そのうえ、演説家の情熱がじかに伝わってくるし、会場での熱気と警官の横暴がまた娯楽の少ない村では楽しみでもあったのである。

人の上には人はなく
人の下にも人はなし
貴族富豪を羨むな
我も人なり彼も人
 (安藤国之助作「自由の歌」)

 こうした歌は底辺民衆の心にしみる。士族や豪農の旦那衆の説く租税協議権や国会開設の議論にはとんと興味を示さない彼らでも、こと自分の追いつめられた生活権の基本にふれる原理には敏感に反応したのである。

 貧農層にとって自由民権とは、旦那衆のそれと言葉は同じでもまるで内容が違っていた。同じ人権への目覚めといっても両者には共通のものと、まるで通じあわない異質のものとがあった。そのへんのことを慎重に見守りながら民権結社の意味を考えなくてはなるまいと思う。



 以上、自由民権運動の在村的潮流についてかなり詳しくみてきた。豪農主導の在地型民権結社についての色川さんの評価は、遺漏なく行き届いている。続いてそれを引用しておこう。
 以上、豪農主導の在地型の民権結社を検討してきて、どういうことがいえるであろうか。そこには多くの未知の新しい萌芽が吹きだしていたことがわかる。伝統的な 人間関係の組み方を根本から一新するような変革の原基が生まれていることがわかる。長い封建支配によってひきさかれ、抑圧され、疎外されてきた人民が人間としての全体性を回復したいと熱望していたことがわかる。そしてまた、村共同体の住民にしかすぎなかった自分を「国民」としてとらえなおすことによって一挙に視野が広がったという喜びがある。

 それは次のような価値の転換につながる。これまでの通俗道徳による禁欲的な生き方のみが立派なものではないのだ。「人生三宝説」(西周)ではないが、人間にとっての宝は、健康と知識と富なのである。また情欲の解放は正当なことで、それらは人間の権利として平等に認められるものなのだ、と。それらの価値を集団で確認しあった結社が、巨大な変革のエネルギーをひきだしたのは当然であろう。また、そこから強靱な民衆的な個我も生みだされたのである。

 自由民権期に続出した叙事詩的なかずかずの英雄物語は、すべて民衆の中の小さなヒーローたちのものであり、民権結社を背景にして創出されたものである。私はこれを民衆の精神革命であったといいたい。また文化革命であったとも思う。だが、自由民権運動は結局敗北した。

「蓑笠ノ楯、鋤鍬ノ兵、蓆旗ノ隊」による維新の「第二革命」は、松沢求策らの期待と奮闘にもかかわらず、中途で挫折した。したがって、「開かれた人間」は過去におし戻され、「噴出したエネルギー」は抑圧され歪められ、精神革命は挫折した。つまりは未完の文化革命として、この人民の嵐は去ったのである。

 民権結社は在来の「場」を更新し、「磁場」を交流させ、「場」を変革することから新しい文化の創造をなしとげようとした。そして、結局それは中途に終った。しかし、そうだとしても、この時期の豪農層がなぜ、そこまで古い共同体的世界から離陸することができたのだろうか。私は以下のように考える。

 彼らは江戸時代後期にすでに地域市場圏を形成していた。彼らの蓄積した富と生産力と商品交換とがそうさせたのである。それにともなって彼らは村内での婚姻の慣習から早く抜けだし、村の境をこえた生活と流通の地平に踏みだしていた。地域通婚圏の形成もそれである。肥後実学党の豪農たちが、幕末にすでにどれほど広い範囲から嫁とりをしていたか、ほとんど熊本全県下におよんでいた。信州木曽谷の『夜明け前』は、こうした庄屋と庄屋のあいだの嫁とりから始まっている。これはすでに豪農たちが村共同体から体半分をひき離していた事例である。

 市場圏、通婚圏、交際圏が村域をこえれば、文化圏もしたがって広域となる。江戸時代は国内交通がさかんで、他国の文人や学者、遊芸人などがひんばんに村を出入りした。その中で豪農たちは彼らと交わりを深め、やがて地方の文壇を形成するようになる。こうして国学や蘭学にもふれる機会をもち、彼らの識見を地方的視野から国民的視野へと転換させたのである。

 しかし、それは副次的なもので、彼らが村の共同体的世界から離陸した決定的な原因は、むしろ村の内部にこそあった。商品経済の浸透と生産関係の矛盾は江戸後期からついに「世直し状況」といわれるほどの村方騒動を頻発させるにいたった。豪農層の足元に火がつき、しばしば蓆旗が立ち、焼き打ちにあった。この頃から小前層や貧民もどしどし村の境をこえて横につながり出し、神社の御幣などを行進の先頭に立てて「世直し」を彼らにせまった。たとえ襲撃の対象にならなくても、豪農層の危機意識は切迫していた。それが彼らをして草莽の行動に走らせ、あるいは自己変革をしいる基本的な力になった。

 すでになかば離陸の条件を持っていた彼らが、公然と新しい結社の形成にふみ切ったのは、明治維新による。とくに地租改正事業と地方民会への参加は、彼らを一県一国レベルの利害の関係の中にひき出した。それから民権運動へはわずか一歩であったことは、本章で見た通りである。



スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1045-edbd025c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック