2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第1027回 2008/06/14(土)

『続・大日本帝国の痼疾』(63)

自由民権運動(17)―在村的潮流(4)


 私の自由民権運動についての知識は断片的で、そのほとんどは愛国社的潮流のものだった。特に在村的潮流についてはほとんど何も知らなかったに等しい。在村的潮流についてはより詳しく記録しておきたいと思う次第である。続いて教科書Aを用いて、在村的潮流の活動の実例を見ていきたい。

 在村的民権結社は関東地方が圧倒的に多い。これまでに判明した分でも、関東六県で303社にのぼる。その内訳は
神奈川82社
茨城81社
千葉50社
栃木39社
埼玉30社
群馬21社


 全国各地の結社を拠点として、新しい思想の学習・教育運動、共済活動、衛生運動とさまざまな住民運動は広く実施され、それはやがて地租軽減・国会開設要求の署名運動:演説会・憲法草案起草などの政治運動へと展開されていった。以下、その広範な活動の具体的な内容を、関東各地の結社を例にみてみよう。

在村的結社の運動の実例

五日市学芸講談会

 在村的結社の成立の出発点であり、また最も重要な基礎となった活動は学習・教育運動であった。その学習運動はまことに熱烈なものであった。

「聴衆二、三里の遠方より山野を踰えて来会せし者二百余人に及び、議論妙所に達するや手を拍て賛成を表し、僻地に稀れなる盛会なりし」(『朝野新聞』明治15・4・29)

と報道されたように、奥多摩、五日市のさらにその山奥、最近まで陸の孤島といわれていた檜原村の南郷からさえ、三里の山道をふみこえて講談会に通ってきた青年たちがいたのである。

 1881年(明治14)4月、武州相原村(現町田市)を訪ねた『朝野新聞』記者末広重恭(しげやす 鉄腸)も感嘆している。

「此日は朝来の風雨なれば、とても我々共の東京より来る事はあるまじとの風説立ちし故、近村のものは概(おおむ)ね来会せず、定めて寂蓼たらんと思ひの外に、三時頃より老若男女合せて二百人の上に出でたり。此地は武蔵と相模の間に在る一寒村なるに、斯く聴衆あるは以て演説の盛んなる一証となるべし」

 これは、東京からの弁士による演説会だから特別だと思われるかもしれないが、この相原村には、豪農民権家青木勘次郎の経営する養英館という洋館風の学舎があって、そこには百名近い青少年が自発的に集まり、政治学習や討論に励んでいたのである。彼らは末広重恭のような有名な記者に接する機会を待ちわび、熱烈に新知識と意見の発表方法を吸収し、やがてみずから公衆のまえで演説できる人間になることを願っていた。つまり、新思想の受容主体から創造主体、能動主体へ、農民演説家への転身である。

 ちなみに五日市学芸講談会は会員百余名、月二、三回の定例の演説や報告の学習集会を行なっていたが、この他に五日市学術討論会という高い知識レベルの部内者の研究機関があった。

 こうした会で使用したと見られる当時の新刊書が二一六冊ほど西多摩の深沢家に残っていたが、その内容は法律書56冊、政治書60冊、経済書11冊など、半分以上が政治法律書であり、憲法草案の起草準備に用いられたものとみなしうる。こうした自主学習を通して育成された新しい農山村の知識青年が、「遊説委員」として各地に派遣され、自由民権の政治活動の第一線で活躍していたのである。



千葉の以文会(いぶんかい)

 このころの民権結社は少ないもので会員20名、多い会では数百名の会員を持ち、 各地の有志者たちの寄付で支えられていた。

 千葉の以文会は1880年(明治12)、夷隅(いすみ)郡の豪農層を中心に国会開設請願をめざして設立され、郡内に七百余名の会員を擁した大結社で、大原、勝浦、大多喜などでさかんに演説会を開き、国会開設建白を実現した。

茨城の同舟(どうしゅう)社

 回送業者森隆介(りゅうすけ)を中心に1879年(明治12)に豊田郡本宗道村に結成され三百余名の社員を集め、定期的な討論演説会の他に地域医療のための同舟社診療所まで設置していた。

常陸太田の興民公会(こうみんこうかい)

 青年大津淳一郎を中心に1880年(明治13)3月、405名の署名をもって国会開設建白書を政府に提出している。

栃木の中節(ちゅうせつ)社

 佐野町に田中正造を中心に組織された結社だが、2月には684名の署名を集め国会開設建白書を持って上京している。

埼玉の通見(つうけん)社

 1878年(明治11)に羽生に設立され、県北地方に説得活動を展開して、81年(明治14)には尽力社員561名、同意社員2579名を獲得する大結社に発展した。

神奈川の湘南社

 伊達時(だて とき)らによって大磯に設立され、社員150名を集め、東京から講師を招いて演説会をひらく一方、伊勢原、金目村など四ヵ所に講学会を開き、主権論、自由論、代議政体論など、活発な討論を展開して、民論をリードしている。

 これらの著名結社の他にも三百をかぞえる関東の民権結社を精査してみるならば、当時の民権運動がいかに内発的なもの、立志社=愛国社系の士族民権家の指導から独立した民衆的なものであったかがわかるであろう。

 神奈川県愛甲郡の相愛社は、もともと農事研究の会であったものが、愛甲講学会をかかえて自由党の母胎に転換したし、山形の特振社は民権結社でありなが特産紅花の振興を第一にうたい、また静岡の扶桑社が演説課と共に起業課をおいて、製茶・養蚕・通船事業にまで手をのばしていること。また、岡山県美作の三郡郷党親睦会は養蚕の改良や産米の改良に取組んでいたが、1880年(明治13)の大水害をきっかけに相互扶助組織として「永代共済規則」をつくりだすなど、実生活に根をおろした活動をしている。

 民権運動を過激派のように見なしていた明治政府が、いかに誤っていたかを、これら草の根の民権結社が証明しているのである。



スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1043-1a9f594f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック