2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(61)

自由民権運動(15)―在村的潮流(2)


農民民権家主導の結社

 士族民権家の強い影響を受けながらも、農民民権家たちは独自の道を切り開いていた。農民民権家たちによる結社は全国に数百を数えるという。この数は研究の進展によっては2千社にも3千社にもなるかもしれないと言われている。そして、その数百の結社はそれぞれ違う顔を持っており、一般的なモデルに集約することはむずかしいという。しかし、その諸活動を機能面から概念化することはできる。

 農民民権家主導の諸結社の活動を、色川さんは「文化革命」と呼んでいる。その活動内容は下の表のように多彩で、まさに文化革命と言うにふさわしい。

在村結社の機能



 もちろん、これらの各機能を独立させて学習結社、相互扶助組織、産業結社、政治結社などと分けることも可能である。しかし、民権結社は一般的には未分化のまま存在することによってダイナミズムを生み出していた点に特徴がある。

 この結社は伝統的な要素を内包しながらも、次のような点において、まったく新しい、しかも独特な近代的機能集団になっている。いわゆる社会学でいう第二次集団、ボランタリー・アソシエイション(Voluntary Association)である。つまり、血縁、地縁原理によって宿命的に所属させられる第一次集団ではなく、そこからいったん自己を切り放して、任意に選択し作りえた集団である。もちろん、この第一次から第二次へ連続面を強調する考え方と断絶面を強調する考え方とがあるが、はっきりしていることは、日本の民権結社が一定の理念と利害関心を共通にする人びとによって自由に結成された機能集団であるということである。

 したがって、参加も自発的なら、脱退も自由であること。決して強制的でなく、生得的でもないこと。また、国家はもちろん、地方権力からも自立しており、

(a)みずからを変革する機能
(b)社会に働きかける機能
(c)相互に助けあう機能
(d)共に楽しみあい自己表現を享受する機能

とを、すべて備えている点で近代的な原理をもつ結社とみなしうる。〝学ぶ″〝助ける″〝稼ぐ″〝戦う″〝楽しむ″〝開く″ ことによって、人間の全体性の実現をめざす新しい結社だということになる。



 以下、上記の表にまとめられた六つの機能ごとの色川さんの解説をそのまま引用する。

(1)学習運動

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、ここでは人間関係の対等、平等性をうたい、古い序列社会の考え方から人民を解き放って、「国民(ネーション)」として目ざめ、世界人として開眼させる学習活動が基本になっている。民衆が基本的人権に覚醒したときの、その新鮮な感激は伝えようがないけれど、私がこの時代を「学習熱の時代」と表現したのは、こうした彼らの感激から発しているのである。それは士族よりは豪農が、豪農よりは貧農や被差別民の方がはるかに激しい。数百年、虫ケラのように扱われてきた人民が、天賦人権の教えに接し、人間はみな平等で尊厳だと知ったとき、どんなに狂喜したか。

 たとえばそれをさかいに前参議板垣退助をも昂然と「板垣君」とよんではばからなかった。私は多摩の農村の被差別部落で、そうした衿恃に目を輝かしている明治青年の写真に接して、あらためて「自由民権」の深さに目をみはったものである。

(2)相互扶助

 民権の理想主義的な学習は、解放された個我を個人主義やエゴイズムの方向に向けさせなかった。進んで他者を助けるヒューマニズムの実践の方向にみちびいた。1880年(明治13)11月、国会期成同盟の大会が「遭変者救助法」を可決したことは日本の民衆史の上に画期的な意味をもつが、地方結社においてもさまざまな共済の努力がなされていた。運動の犠牲者にたいする救援はもちろんである。

 岡山の美作(みまさか)三郡郷党親睦会では1880年の大水害を機に打ちのめされた大衆に働きかけ、株式による共済組織をつくっている。それはやがて備作共済千人社へと発展していった。また、島根県下では松江の恵愛社が共済組織をつくっていたという。

 法律相談や代言業務については、八王子の広徳館や越前の自郷社など多くの結社に無料法律相談所や法律研究所などが設けられていたし、衛生活動については茨城の同舟社の地域医療診療所や五日市の協立衛生義会などが献身的な活動をしている。当時、伝染病の被害はものすごく、1879年(明治12)のコレラ患者は全国で16万人に達し、うち10万5千人余が死んだ。コレラは1882年にも東京を中心に蔓延し、市内だけで5千人以上が死亡、83年、85年には赤痢が流行して、その死者は1万人をこえ、86年には、なんと四種の伝染病だけで14万6千人以上の人命を失っている。

 これに対して政府はまったく無策で、避病院と火葬場を急造し、死体処理をするのがせいいっぱいであった。ここでも専制政府は万余の人民の命より軍艦一隻の方を重くみて、衛生費の支出を惜しみ、大半を地方の財政におしつけてかえりみなかった。

 こうした状態を見かねて地方名望家たる民権家たちが立ち上ったのである。相州藤沢の平野友輔のような民権医者はみずから進んで衛生委員を買って出て、恐怖に打ちのめされていた人民の間を走り回って激励し、その保健治療活動に尽力して、人民の厚い信望をかちえている。

 五日市学芸講談会の会員がほとんどそっくり創立委員に移動した観のある協立衛生義会に、公衆衛生科、学校衛生科、疫癘(えきれい)科、嬰児保育科などが置かれていたことは先駆的である。

 まだ治療方法のなかった伝染病には予防衛生しか対策がないことを、たびかさなる経験から彼らは認識したのであろう。そのためか、日常の衛生上の注意や会員の衛生演説や衛生情報の収集や審事(しんじ)委員の研究が重視されている。しかも、その仕事はすべて俸給なしの奉仕であった。

 この協立衛生義会の会頭は五日市の若き豪農民権家内山安兵衛、幹事は深沢権八と馬場勘左衛門で、いずれも学芸講談会の指導者たちであった。この会の相互扶助が会員だけの排他的なものではなく、外に開かれていたものであることは民権結社の高い理念を示すものであろう。

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