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『続・大日本帝国の痼疾』(60)

自由民権運動(14)―在村的潮流(1)


 民権結社をその性格の面からみると、愛国社的潮流でのそれは政治結社であり、都市民権派の潮流でのそれは言論結社であった。それでは在村的潮流における結社はどのようなものであったのだろうか。

 教科書Cでは在村的結社を農民的結社と呼んでいて、次のように記述している。

 農民的結社は政治結社・学習結社・産業結社に分けることができる。しかし、実際には三種類のうちいずれかに重点を置きながら、それぞれ二種類の性格、ないし三種類の性格を性格をあわせ持つ場合が多かった。



 教科書Aはこれをより詳しく分類して、 次のように述べている。

1 純然たる学習結社
 (a)社員が相互に学習、討論しあうもの。
 (b)民衆への啓蒙、とくに政治思想教育を主としたもの。

2 純然たる政治結社
 (a)村段階の政社。
 (b)郡、県に組織圈の及ぶ政社(「政党」に発展してゆくもの)。

3 右の二種の性格を兼ね備え、どちらへも分類しかねる結社。

4 民衆生活一般に関する結社
 (a)法律相談所的なもの。
 (b)衛生、厚生などに関するもの。
 (c)経済要求などに関するもの(勧業結社をふくむ)。
 (d)その他。

 いま、こうした分類はもう古いと思う。その後、明らかにされた全国の結社の実情を考えるとき、これほど単純に分類はできない。むしろ、「どちらへも分類しかねる」というのが典型であったように思う。

 そしてそれは分業関係の未熟とか、機能の未分化とか、前近代的なものとかを意味しない。また、必ずしも集会条例によるきびしい禁圧を避けるための擬制だったとも言いきれない。むしろ私は積極的に、民衆生活の全体性がそこに保持されていたという特質を発見する。それゆえに創造力やダイナミズムを持っていたものと判断する。そしてそれは、永い封建支配によって疎外され、解体されてきた人間性の全休性を回復したいという深い願望に根ざしていたもののように私は思う。



 民権結社を結成当初の構成メンバーの面からみると、愛国社的潮流の政治結社も都市民権派の潮流の言論結社も、主として士族による結社であった。在村的潮流の学習結社では士族主導の場合と豪農主導の場合があり、その両者の性格には大きな違いがある。

士族主導の学習結社の例

弘前の東奥(とうおう)義塾
盛岡の求我(きゅうが)社
宮津の天橋(てんきょう)義塾
高知の立志(りっし)学舎

の場合、いずれも旧藩主らの援助をうけて、士族の生活共同体のようなものから教育機関として派生したものである。旧藩の建物や書籍をひきついでいて、特権をもつ出発をしているが、中途から民権結社としての性格をつよめ、地域の豪農商層をひきこむことに成功している。しかし、容易に士族的限界から脱却することはできなかった。

 東奥義塾はその設立の趣旨には
「国権を拡張して日本帝国の安全を図り、民権を伸張して生命財産を図るを以て主眼とす」
というような国権論優位の立場が示されていた。こうした性格は求我社にも天橋義塾にも共通している。

 しかし、そこで行なわれた教育は伝統儒学の上に欧米の近代思想をとりいれていて、士族の子弟に意識の転換をもたらし、多くの人材を生み出して民権運動に貢献した。

 これらの学習結社を、色川さんは次のように評価している。

 これらは士族としての高い誇りと教養と使命感を人民の指導の方向に生かしたものとしての共通性を持ち、かつての支配者的な武士意識から"人民の友"意識へと転換してゆく上で画期的な役割を果した。もしも、欧米帝国主義による植民地化の危機の時代に、わが国に士族知識層のような錬磨された存在がなかったとしたら、明治維新や自由民権の抵抗の気力がどれほど持続されたか疑わしい。私は彼らが右にあげたような学舎や結社を通して、「士族民権家」として自立し、人民のために奮闘したことに高い評価をあたえたい。



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