2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第1020回 2008/05/29(木)

今日の話題

アインシュタインの国家観


 今日の話題は下記の過去記事の補充編です。

『「良心の自由」とは何か(16)』

 上記の記事で、自慢史観をよすがとしなければ生きるすべのないウヨさんたちをことのほか喜ばしている「アインシュタインの言葉」というのを紹介した。再録する。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

 これに対して、アインシュタイン研究者の板垣良一氏が語っている言葉は次のようだった。

「この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。」

 前回みたようにアインシュタインには何か慶事にあたって感謝を捧げるべき「神」などない。ではアインシュタインはどのような国家観を持っていたのだろうか。それが「尊い家柄」とか「尊い国」とかいう神がかり的観念論的ものであろうはずがないことは、私には自明なことに思える。しかし、世襲君主などは論外としても、わりと保守的な国家観、いいかえるとブルジョア民主主義国家を追認するような国家観ではないかと予想していた。ところがこの予想は見事に外れていた。愉快な「外れ」であった。

 ネットで「アインシュタイン」を検索していたら、アインシュタインが書いた『何故社会主義か』という文書に出会った。1949年に創刊されたアメリカの月刊誌 Monthly Review の創刊号に掲載されたものだという。その日本語訳が日本物理学会のサークル誌「科学・社会・人間」94号(2005年9月10日発行)掲載されていた。それの紹介だった。人間について、社会について、資本主義について、教育についてなどなど多岐にわたって論じられている。私は全体的に大いなる共感をもって読んだ。次のサイトで全文読めるが、以下そこから国家論に関する部分を転載する。

『何故社会主義か』
 私の意見では、今日の資本主義社会の経済的なアナーキーが悪の根元である。われわれの前には巨大な生産者の集団があって、その構成員は休むことなく ― 暴力的にではなく、法的に確立されているルールに概して忠実に従いながら ― 全体の労働の成果を互いに奪い合っている。この点から見ると、生産手段 ― つまり、消費財と余剰資本を生産するのに必要な全容量 ― が、法的にもまた大体において実際にも、各個人の私有財産である、ということが重要である。

 簡単のために、以下の議論で私は「労働者」という言葉を ― 慣用とは少し違うけれども、生産手段を持っていない人という意味で使う。

 生産手段の所有者は、労働者の労働力を購入する。生産手段を用いて労働者は新しい財を生産し、それは資本家の所有となる。この過程の基本的なところは、両方を本当の価値で考えたときに、労働者が生産するものと彼が支払われるものとの関係にある。労働契約が「自由」である限り、労働者が受け取るものは彼の生産した財の本当の価値で決まるのではなく、彼にとっての最小限の必要と、資本家からの労働力の需要とその仕事に就きたいという労働者の人数との関係で決まる。理論的にも、労賃がその労働者の生産するものの価値で決まるのではない、ということを理解することは重要である。



 これはまぎれもなくマルクスの理論である。アインシュタインはマルクスをよく読んでいたに違いない。
 私的資本は集約されて、寡占状態に向かう。それは一つには資本家の間の競争により、また一つには技術的な発展と分業の増大が、小企業を犠牲にしながら生産単位を大きくするほうが有利であることによる。この過程の結果、寡占状態の私的資本の力は著しく増大して、民主的に組織された政治的な環境においてもうまくチェックすることができなくなる。

 立法院の議員は政党が選択するが、その政党は私的資本から財政的その他の援助・影響を受けていて、一方私的資本には選挙民を立法院からなるべく隔離しておこうと考える実際的な理由がある。その結果、市民の代表は特権を持っていない人々の利益を十分には守らない。さらに現在の状況では、私的資本が主要な情報源(新聞・ラジオ・教育)を直接・間接に操るということが不可避である。その結果、個々の市民が客観的な結論に達して、政治的な権利をうまく使うということは非常に難しく、多くの場合に全く不可能である。



 このくだりは、ブルジョア民主主義の本質とその功罪をよく言い当てていると思う。ブルジョア民主主義の理論的な解明を、滝村国家論の一環として

統治形態論・「民主主義」とは何か(4)

で取り上げたが、その内容と符合する。

 次はアインシュタインが理想とする社会主義だが、それは既成のどの共産主義国とも異なる。どちらかというと「リバータリアン社会主義」と言っていいだろう。「リバータリアン社会主義」については次の記事をご覧ください。

『リバータリアン社会主義(1)』 『リバータリアン社会主義(2)』

 私は、このような(資本主義の)深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。

 生産手段は社会それ自体によって保有され、計画的に用いられる。社会の必要にあわせて生産する計画経済では仕事は能力のある全ての人々に分配され、全ての男・女・子供に生計のたつきを保証するだろう。

 教育は、各人が生まれつき持っている能力を花開かせるだけでなく、現在の社会が権力と成功に置いている栄光の代わりに、仲間たちへの責任感のセンスを育てようとするだろう。

 とはいっても、計画経済は社会主義ではないことを思い出す必要がある。計画経済は、個人の完全な奴隷化を伴うかも知れない。社会主義を実現するためには、非常に難しい社会―政治的な問題を解決しなければならない。 政治的・経済的な権力の極端な中央集中を考えて、官僚が全ての権力を収めて独善的になるのを防ぐことができるか。個人の権利をいかに守り、それによって官僚の権力に対する民主的なバランスを保つことができるか。

 社会主義の目的と問題についての透明性は、この転換期において最も重要なことである。



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