2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(56)

自由民権運動(10)―愛国社的潮流(3)


 今回は、重複する部分もあるが、前回までの愛 国社的潮流の流れについて、教科書Aの解説・評価 を読むことにする。

 自由民権運動が真にその名にあたいする行動を 開始するのは1877年(明治10)6月、立志社の国会 開設建白以降である。このときはじめて当面する 国民的課題を、地租軽減、国会開設、条約改正の三大要求 に明確化し、士族の指導者と農民大衆との同盟の 可能性がつくりだされた。 そして植木枝盛、杉田定一ら若き遊説員の努力によって、78年(明治11) 9月、おもに西南の士族民権結社を糾合して、愛国 社を再興し、民権派勢力の再結集を進めたのであ る。

 再興愛国社には、「ルソーや米国革命のことま で俚歌に作りたて、これを民権歌と称し、印刷 して聴衆や行きかふ人にも与へ」ていたという高 松の立志社が加わり(『東京日日新聞』明治11・ 12・19)、萩の乱で生き残った福岡の箱田六輔が社 長となった向陽社も加盟した。向陽社は士族の救済 事業と国権回復、民権伸暢などをかかげて演説会 をくりかえし、一時は「大ニ針路ヲ変革シ教則中 更ニ法律学ヲ置キ代言局ヲ付属シ演説討論会ヲ開」 いたため、「大ニ県下一般ノ人望ヲ得、社員ハ五 六百名」という愛国社の有力グループになってい った。

 また、岡山県士族小林樟雄らが竹内正志と設立 した実行社や、鳥取県士族で元警部の足立長郷を 社長にした共斃(きょうへい)社、粗暴不品行でし ばしば問題を起した松江の笠津社や、それを克服 しようと起こった尚志社も愛国社に加わっている。

 1879年(明治12)6月、松江の警察探偵係が笠津 社員の生態を次のように報告している(内藤正中 『自由民権運動の研究』)。

「追々人気ヲ得ルニ従ヒ権威ヲ張り……夜日ノ別 ナク市街ヲ遊歩スルニモ其風体一種他人ト異ナリ、 故ニ婦女子等モ一目シテ演説社員ナリト云フニ至 レリ」
「該社員ナル者ハ十中ノ八九ハ不品行者ニ候処、 一時勢ヒニ乗ジ遊蕩ニ陥り、酒宴愉快ヲ催セシ処、 当今ニ至リ社員中トシテ殆ド二百円迄ノ負債相蒿 (かさみ)タル由」

 だが、これは士族民権家の姿を正しく伝えている ものではない。彼らがいかに士族としての誇りと 抵抗の精神を持って、弾圧にめげず、民権の伸張 のために奮闘したかは、だれよりも彼らの影響を うけて自由権にめざめた多くの地方人民が伝えて いる。

 ニュー・フェイスとしては、越前の杉田定一ら の自郷社、福島の河野広中らの三師社、信州松本 の奨匡(しょうきょう)社、愛知の三河交親社など がある。三河交親社は元三河福島藩の家老職をつ とめた内藤魯一(ろいち)を中心に結社したもので、 やがて立志社幹部と呼吸を合せて愛国社系の運動 をリードしてゆくようになる。

 それはともあれ1880年(明治13)3月、第四回 大会を開くまでの愛国社の実勢力はきわめて貧弱 なもので、その主力は土佐立志社系にあり、当時 全国に数百社も生まれていた民権結社の圧倒的多 数は、愛国社系とは関係のないところで独自に運 動を展開していたのである。

 これまで自由民権運動は、西日本、とくに土佐 の立志社を中心とした『自由党史』(板垣退助監 修)の立場で理解されがちであった。そのため、 立志社を核として形成された愛国社の運動が民権 運動の本流であるかのようにみなされてきた。

 たしかに立志社の果した役割はきわめて大きい。 自由民権の代表的な思想家は大半、土佐が生み出し ていたのであり、その先駆性、指導性、ゆたかな人 材の輩出、組織力、財政力、どの点をとってみても 、立志社にまさる民権結社がわが日本にあったとは 思われない。それは十分に承認した上で、なおかつ 立志社→愛国社的潮流が民権運動の主流だという説 は訂正されなくてはならない。『自由党史』の中の 多くの誤りについても、戦後の研究によって今では 次々と明らかにされている。



 愛国社的潮流はこの後、都市民権派の潮流や 在村的潮流と合流しながら自由党結成へと大きな 潮流を作っていく。自由党結成の動きを追う前に、 都市民権派の役割と在村的潮流の内実を学習するこ とにする。

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