2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題

暗闇にほのかな希望のともしび(1)


 5月4~6日、幕張メッセで「9条世界会議」が 開催された。 「9条世界会議」のブログ がその盛況ぶりを次のように伝えている。
 「9条世界会議」には、のべ2万人を超える人 たちが来訪しました。
 初日の全体会には12,000人 が参加し、ほか3,000人が満員のため入場いただけま せんでした。
 2日目の分科会には6,500人が参加し、当日券完 売のため500人が入場できませんでした。
 3日目のまとめ総会には、300人が参加しました。

海外からの参加者は、31カ国・地域から150名以上 にのぼりました。参加国・地域は、以下の通りで す。

アメリカ、イギリス、イタリア、イラク、インド、 エクアドル、オランダ、オーストラリア、カナダ、 ガーナ、韓国、北アイルランド、ケニア、コスタリ カ、スイス、スリランカ、セネガル、台湾、中国、 ドイツ、ニュージーランド、ネパール、パキスタ ン、パレスチナ、フィリピン、フランス、ベトナ ム、ボスニア、香港、モンゴル、ロシア。

 なお、5月5日の広島は1,100人、5月6日の 仙台は2,500人、大阪は8,000人が参加しました。

 9条世界会議は、3日間に全国でのべ3万人以 上が参加するという大きな成功をおさめました。



 これほどのイベントなのに、テレビはこれを まったく無視したようだ。このことを天木直人さん がブログで取り上げている。

メディアから無視された憲法9条世界会議

 さて、会議の呼びかけ人のお一人・井上ひさし さんが5月8日、9日の東京新聞夕刊に 『世界の流れの中で考える日本国憲法』 というエッセイを寄稿している。 長い歴史をかけて人類が紡ぎ出してしまった現在 の状況―世界に蔓延している格差と貧困・破壊と 殺戮―にほとんど絶望的な気持ちになっている私 の心の暗闇に、このエッセイがほのかな希望のと もしびをともしてくれた。世界近現代史を俯瞰する もう一つの視点を改めて教えられた。

『世界の流れの中で考える日本国憲法』(上)
「その旗のもとに立つ やがて国際法に」

 二十世紀は戦争と暴力の世紀であったという言 い方がある。たしかに数片ぐらいの真実が含まれ ているかもしれない。そこでこの考えに立って 二十一世紀の行方をうかがうと、戦争で儲けよう としている人たちは別だが、わたしたち普通人な らだれもが、「戦争と暴力を引き継いだのだか ら、やはり破局の世紀になるのか」と落ち込んで しまうはずだ。

 こんなときは、オランダの都市ハーグを思い浮 かべるにかぎる。というのは、北海にのぞむ人口 五十万のこの都市こそ、人びとが戦争と暴力を 違法化しようと懸命になって奮闘したのも同じ 二十世紀のことだったよと教えてくれるからであ る。

 ハーグが十七世紀半ばから国際条約の製造所だ ったことはよく知られているが、二十世紀をまさ に迎えようとしていた一八九九年に、ロシア皇 帝ニコライ二世の呼びかけのもとに、このハーグ で第一回の国際平和会議が開かれた。 会期は二カ月余、参加国は26。「革命で銃殺され た皇帝が呼びかけた会議なぞ、 どうせろくなものではあるまい」と軽んじては いけないのであつて、これは人類史で最初の、 軍縮と国際紛争の平和的解決を話し合うための国 際会議だった。



第1回ハーグ国際平和会議
1899(明治32)年5月18日~7月29日
参加26カ国

 ロシア皇帝ニコライ2世が提唱。オランダ外相 の招きに応じ、各国の法律家・外交官・陸海軍首 脳など代表101名がハーグに集まった。

 戦争状態における無意味な攻撃や被害を避ける ための戦時国際法の成立と各国の軍備縮小を目指 した。これらについては合意に達しなかったが、 2つの条約を締結した。

1.
国際紛争を調停する常設仲裁機関(ハーグ 仲裁裁判所)の設置に関する条約
2.
各国が戦争中に不必要な犠牲をこうむらないよう に戦争手段や戦争法規の変更をもとめた条約

 この条約の補足として三つの宣言が盛り込ま れた。


毒ガス散布の禁止

ダムダム弾の使用禁止

気球等による空からの爆撃の禁止

 この結果について井上さんは次のように評価 している。

 軍縮問題では成果がなかった。フランス代表レ オン・ブルジョワの
「今日、世界の重荷である 軍事負担の制限は、人類の福祉を増進するため に、はなはだ望ましいということが本会議の意見 である」
という名演説が満場の拍手を集めたくらいだった。

 しかしこのとき調印された三つの宣言が重要で ある。①軽気球からの爆発物投下禁止宣言(わが 国は未批准)②ダムダム弾使用禁止宣言③毒ガス 使用禁止宣言。

 「なにが国際紛争の平和的解決を話し合うため の会議だ。三つとも戦争を前提としているではな いか」というヤジが予想されるが、戦時国際法と いうものが諸国間で確認されたことがなによりも 大切で、

「国際紛争平和的処理協約」
「陸戦法規に関する協約」
「国際赤十字条約の原則を海戦に応用する協約」

の、三つの協約が採択されたのもこのときである。



第2回ハーグ国際平和会議
1907(明治40)年6月15日~10月18日
参加44カ国

 1904(明治37)年にヘイ米国務長官が開催計画を 提唱し、ロシア政府が発起者となって開催された。 戦争法規を中心とした13の条約を締結した。

 条約では、第1回会議で合意された内容の再確 認と戦争のさまざまな側面について新たに次のよ うな原則を取り決めた。

①中立国の権利と義務
②艦砲射撃、自動対潜水艦機雷の敷設、商船の軍 艦への変換をめぐる条件


また、第3回会議を8年以内にひらくことが勧告 され、オランダ政府は1915(大正4)年かその翌 年を予定して会議の準備を開始したが、第1次 世界大戦の勃発のため会議は開催できなかった。

 この第二回の会議についての井上さんの評価は 次のようである。

 このときに採択された「中立国の権利と義務 に関する条約」はすばらしい成果だった。

 第二次世界大戦は枢軸八カ国(日本、ドイツ、 イタリアなど)と、連合四十九カ国(アメリカ、 イギリス、ソ連など)との間で戦われ、南米をの ぞくほとんど全世界が戦火に覆われたが、この中 立条約を貫いた国が六カ国(アフガニスタン、ア イルランド、ポルトガル、スペイン、スウェーデ ン、・スイス)あった。

 「わが国は中立の立場をとり、ただひたすら戦 争が生み落とした不幸と向き合う」と宣言したこ の六カ国は、紛争国間の情報交換の仲立ちをし (スイス)、人質や傷病兵の交換に船舶を提供し (スウェーデン)、捕虜や人質の待遇を査察した (スペイン)。このように〈中立〉という第二 の道を明示したのが第二回の会議だったのであ る。



 ちなみに、大日本帝国の、不調に終わった 「終戦工作」「ポツダム宣言受諾」 もスイス、スウェーデンを通して行われている。

(次回に続く。)

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