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『続・大日本帝国の痼疾』(54)

自由民権運動(8)―愛国社的潮流(1)


立志社→愛国社

1874(明治7)年4月
 板垣退助,土佐で立志社を結成


 土佐では立志社の外に、静倹社、中立社という 二つの政社が結成されていた。容易に予測できる ことだが、当時の結社は民権派のものだけではなく、 当然反動的な結社もあったはずだ。自由民権運動 の立場からはもっぱら立志社のみが解説されている が、反民権的な政社についてはあまりふれられることが ないので、簡単に記録しておこう。(教科書Bによる )

静倹社
 社会を封建の昔に返えすことを目的としており、 社員は漢学を修め、かたわら山野の開拓をしていた。

中立社
 民権党でもなく旧守党でもないと、自ら「中立」 を名乗っているいるわけだが、「純然たる官権党」 である。社員の多くは官吏であり、佐々木高行・ 谷千城らがその指導者であった。

 立志社 については教科書Bの記述をそのまま引用しよう。

 立志社は明治七年板垣らが征韓の議論に敗れて帰 りしとき、共に与に帰りし陸海軍士官兵卒の設立 せるものにして、社員二千余人あり。洋学所を 開き、法学所を設け、日々夜々、自由民権の説を 講じ、あるいは仏国革命を童謡に作って市街に歌 謡せしめ、あるいは魯国社会党の非運を小説に作 りて伝唱せしめ、以て自由民権の説を平民に知らし めんと勉めたり。

 かくて明治十年西郷の変に乗じ、片岡健吉を総 代として西京に出で、次に大に政府に要求する所 あり。
曰く公議を拡張して以て施政の過失を正す べし。
曰く立法、司法、行政の三権いまだ固からず。
曰く士族の処置、徴兵、地租改正、条約改正、朝 鮮、台湾、魯国の事その宜を失せるものあり。
曰く以上の過失は実に人民公論の発揮せざるにあ れば、速かに民選議院を立て憲法の基を立つべし と。

 立志社は実に我国に於ける政治的結社の最先な るものにして、また最大なるものたり。 (中略)

 かくのごとく三大政社あると共に、四国の中至 る所に三社の流を汲みて相争いしが、西郷の乱平 らぎて後は、天下武力を以て大久保内閣に抗抵す るの愚なるを覚り、相率いて自由民権説を唱えた り。自由民権の説を唱うるもの、多くは少壮、失 落の徒なりしかば、板垣はその赫々(かっかく) たる元老の勲業を以て、自然に民権党の首領たり。 而して土佐の声望実に天下に冠たり。



1875(明治8)年2月
 大阪会議、愛国社の設立


 立志社(板垣)が中心となって大阪で結成された 愛国社には次のような反政府士族の政治結社が加盟 している。(教科書Aによる)

阿波の自助社(小室信夫ら)
加賀の忠告社(島田一郎ら)
鳥取の共立社(今井鉄太郎ら)
肥後の霽月(せいげつ)社(宮崎八郎ら)
筑前の強忍社(越智彦四郎ら)
   矯志社(武部小四郎ら)
   堅忍社(奈良原到ら)
豊前の共憂社(増田栄太郎ら)

 これらの初期愛国社系結社にはいくつかの共通 点がある。それはほとんどが鹿児島の私学校派か 土佐の立志社派か、どちらかの亜流であるという こと。征韓派不平士族の文武の研究を名とする 悲憤慷慨の集会場であるか、あるいは民権論を研 究し、公選論をかかげて地方政治に介入するタイ プであるかに分れている。

 そしてほとんどが一連の士族反乱に動揺し、と くに西郷隆盛の決起に呼応し、まきこまれでいっ た。彼らのかかげる天賦人権論や激烈な革命主義 は斬新であるが、民衆と共に進むという意識にと ぼしく、島田一郎は大久保利通を殺害して処刑さ れ、宮崎八郎は西南戦争に参加して戦死してしま った。

 そのほか生き残った者でも右の結社の幹部の多 くが「反乱」に関係して投獄されている。立志 社以外にはその後の民権運動の主流に残ったもの は稀である。





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