2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(52)

自由民権運動(6)―民権運動前夜(2)


 「尚武党」の参議らの辞職は征韓論の敗北がその 直接の原因であったが、もちろん、維新政府内の分 裂はそのときに始まったことではない。竹越の分析を 聞いてみよう。

 内閣の分裂は一朝一夕の故にあらず。その由来 する所極めて遠く、かの薩、長、土、肥の四藩な るもの幕府に対してこそ、相共に連結して当りた れ、もとこれその気質に於ても、人物に於ても、 利害に於ても、議論に於ても、相一致すべきもの にあらざるのみならず、各藩中の首領間に於ても、 また利害、気質、議論の相達するありき。彼らの 幕府攻撃より、驀(まっ)しぐらに駆け来りて新政 府建設の段に至る間こそ、攻撃同盟をなしたれ、 新政府巳に立ちて、イザ政権ちょう掠奪物の分配 の一段に至りては、この同盟は疾(と)くに解けて、 恩怨巳に結ばれたり。

 さればこれを各藩としては、薩は長州に屑(いさぎよ) からず、土佐は肥前に屑からず。之を一個人とし ては西郷は大久保に屑からず、江藤は木戸大隈に 屑からず。板垣は大久保に屑からず。各藩各人の 間、憤怨の熟する巳に久し。延(ひい)て末流末派 に至っては、その勢更らに大に、刀剣を引て相争 わんとするものあり。かかれば参議の退朝は取り も直さず、不平党が政府に対する宣戦の布告と見 なすべきものなりし。彼らは果して遂に爆発せし か。


 時あたかも、徴兵令や地租改正に対する人民の 不満・非難が高まり、政府への反発が高まってい た。それと相まって、「尚武党」参議の辞職が 不平士族らの政府に対する慷慨をさらに激しくした。 元土佐藩士・武市熊吉ら9人が「平和党」の首領で ある岩倉具視を赤坂喰違(くいちがい)坂でおそうに 至った。岩倉は驚いて溝に落ちるが、武市らは 暗殺成功と想って逃げた。

 次に起こるのは薩摩(西郷)・土佐(板垣)・ 佐賀(江藤)での同時挙兵というのが、おおかたの 世論であった。ところが

 意外にもこの不平党は長剣長鎗の武夫となりて 見(あら)われず。新しき金冠を戴き、泰西的の紳 士として見われたり。彼らは平生、国家あるを知 って人民あるを知らざる国権党にして、その政治 主義はむしろ保守党の系図に属するものたり。 されども彼らは今や一変して急進突飛党となり、 直ちに民選議院を建てんことを譜牒として起てり。



 人民選議院設立建白書に連署した8名の中に、 副島、後藤、板垣、江藤の4名の辞職参議が名を 連ねている。

 この建白書は民権運動の幕を切って落とした画 期的なものとして、従来高く評価されてきている が、色川さんはこれに異論を呈している。

 私はこれを過大に評価することに賛成できない。 なぜなら板垣たちはこの建白によって、国民の自 由平等な政治参加を求めたのではなく、一部「維 新の功臣」を出した「士族及び豪家の農商」に資 格を限ると主張していたからである。それは幕末 以来の公議輿論思想の延長ともいえる。表現はイ ギリスの立憲制の言葉を借りていても、「五箇条 ノ誓文」(〝万機公論二決スベシ″)の趣旨と異 なるものではなかった。

 だから大久保独裁の明治政府は、翌75年(明治8) 4月、漸次に立憲制を施くべしとの詔を発して木戸、 板垣らを入閣させ、さらに6月、民撰議院に代わる 地方官会議を開いて、不平士族や豪農らをなだめよ うとしたのである。

 だが、その政府の約束は一方での讒謗律、新聞紙 条例などによる言論の弾圧、他方での江藤新平らの あいつぐ士族反乱によって棚あげにされた。



 横道にそれるが、この建白書の思想が「幕末 以来の公議輿論思想 の延長」にあり、「五箇条ノ誓文」(〝万機公論 ニ決スベシ″)の趣旨と異なるものではなかった」 という点について、少しふれておきたい。

 17条憲法の「和ヲモッテ貴シトス」と五箇条誓文の 「万機公論ニ決スベシ」とを取り上げて、上下分け隔 てなく公平に扱う日本の伝統的な美徳とする立論を 良く見受ける。

「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと 思います。日本人の価値観が国の形となって現れ たものがいくつかあります。十七条の憲法、五か 条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値 観が国家なのです。」

 何とも無残な国家論だ。この全く非科学的な 国家論を得々と披瀝している御仁は、櫻井よしこ 女史である。

 意識的に詭弁を弄しているのではない とすると、無知のしからしむところと言わなければな らない。17条の憲法は官僚に対する心得だし、維新 期の公議輿論は旧藩主・薩長土肥の維新遂行の志士・ 公卿などの入り乱れての権力闘争に対処したもので あり、一般人民のあずありしるところではなかった。

 ちなみに、公議輿論について竹越は次のように 書いている。

 されば天下の浪士、事を為さんと欲するものは 公卿に結託し、公卿にして事を為さんと欲するも のは、また有力なる宮嬪(きゅうひん)藤の式部、 押小路の娘大和局、権典侍の局、山本土佐大輔の 娘、及び少将、右衛門らに結託せり。而してこれ らの官嬪中、また卑陋なる一、二男児に左右せ ら有るものあり。その結果は天下の大事を挙げて、 奥まりたる宮中の局に於ける二、三男女の密話に 成敗せしむるに至れり。

 当時の政治家は実に身親しく此境を経歴してそ の弊を知れり。かつそれ太政官の枢機に参して、 天下の大権を掌握せるものは皆な卑賤にして格式 なく、ただ自家の力量を以て成り上りしものなり。 これを以て彼らがかつて主人公として仕えたる藩 主宿老に号令せんとす。尋常一様の常法を以てせ ば、必らずや服せずして群起し、あるいは足利尊 氏となり、あるいは赤松則村とならん。ここに於 てか当時の政治家は、苦心焦慮して、遂に泰西 (たいせい)の憲法に模して、公議輿論の文字を掲 げ来り、一はこれを以て公卿宮嬪の陰謀を抑えて、 万事を公けならしめ、一はこれを以て諸侯の野心 を抑えて、万事多数に決せしめんとせるなり。 已に之を以て公卿、宮嬪、諸侯を抑ゆ。



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