2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
『続・大日本帝国の痼疾』(51)

自由民権運動(5)―民権運動前夜(2)


 岩倉ら「平和党」はかねてより、まず国富を作り、 制度を整えることが先決と考えていたが、欧米 歴訪で欧米の文物に直接接してその優秀さに深く 驚嘆し、平和内政を主とするの意をいよいよ 強くした。帰国後、直ちに口をそろえて征韓論に 反対した。

 両党激論、痛議して己まず。

 主戦党ら遂に三条実美に迫りて、征韓の勅裁を 得んとせしかば、三条驟(にわ)かに発 狂して大政を見る能わず。一にこれを岩倉に委ね たりという。岩倉もまた病と称して屏門して出で ず。天皇自ら岩倉の邸に幸(みゆき)してこれを慰 問し、三条に代りて事を視(み)せしむ。ここに至 りて岩倉、内閣総理の席につきて御前会議を催う し、遂に勅裁によりて征韓の廟議を一変す。



 この政争は人民にとっては何だったのか。 竹越は冷ややかに「されば廟堂の上に於て征韓可 否の論あるも、そはただ二、三人士政権争奪の争 に止りて、人民は依然として雲上の喧嘩を見るが ごとくなりき。」と述べている。

 さて征韓論敗れて、参議兼外務総裁副島種臣、参議兼 左院事務総裁後藤象二郎、参議板垣退助、参議江藤 新平、及び陸軍大将参議近衛都督西郷隆盛ら、 「尚武党」の参議が連れだって辞職を申し出るに 至る。このときの政府内のありさまを「朝野駭然 (がいぜん)、流転百出せり。」と竹越は表現し ている。

 これに対応して、大久保利通が本領を発揮する。 大久保は岩倉に進言して、西郷以下の不平分子 の辞職を許可することを勧めた。そして、
工部大輔伊藤博文・参議兼工部卿を兼任
海軍大輔勝安房・参議兼海軍卿を兼任
大隈重信参議・大蔵卿を兼任
大木喬任参議・司法卿を兼任
特命全権公使寺島宗則・参議兼外務卿を兼任
と、政府内を「平和党」で固めてしまった。 つまり、これまでは参議は内閣員の一つであり、 参議と各省の卿(長官)とは別職であったのを、 参議が各省の長官を兼ぬる端緒を開いたのだった。 以後、各省はもっぱら内閣に隷属するものとなった。 さらに大久保は薩摩の元藩主・島津久光を内閣顧問 に迎えるなど、西郷以下の「尚武党」の勢力を牽制 する布陣を敷いた。時に1873(明治6)年の12月の ことであった。

 なお、竹越は大久保利通の人物評を書き残している ので、それを転載しておく。伊藤博文に対しては 相当に辛辣だった ( 『明治維新の明暗(6)』 参照ください。)が、大久保には好意的な評価を与 えている。

 彼は維新の元勲中、最も政治家の風ある一人なり き。彼は西郷のごとき武人的胆力を有したり。然れ どもまた木戸のごとき実際的の頭脳をも有せり。 薩摩の武権が西郷によりて代表せらるるがごとく、 薩摩の文権は彼の一身に集まれり。 彼はその政策の上に於て西郷らと相違反するのみ ならず、その門下生、その一身の権勢、その地位、 その気質よりして西郷と抵反せり。

 その議論は必ずしも巧妙新奇ならず。然れども その識見は常に事物に徹底せり。而して一たび志 慮を定むるや、猛然としてこれを貫かずんば巳ま ず、彼はいわゆる「平凡の議論を有する非常の胆 略家」にして滔々たる維新の元勲中、最も実際的 の政治家にてありき。もしその欠点を求むれば、 その己に異なるものを包容するの量に乏しきの一 事にてありき。

 当時の社会は実にこの大胆にして実際に通じ、 沈黙して実行する専制家に支配せらるるの運命を 有せり。小国会の形体を具たる集議院なるものは、漸々下りて参事院のごときも のと変じ、その議決は一文半銭の価もなく、六年 六月左院に合併せられたり。左院なるものは実に 右院と相対して立法官たるべきものなりといえど も、概ね政府の代弁人を以て充たされたれは、明 治の初年に於て天下を震動せしめたる公議輿論の 声は、この時に方ってはその響音をも聞く能わず なりぬ。

 されば廟堂の上に於て征韓可否の論ある も、そはただ二、三人士政権争奪の争に止りて、 人民は依然として雲上の喧嘩を見るがごとくなりき。 かかる時こそ、大久保のごとき人物がその技倆を 逞うするの時なり。



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