2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

478 「良心の自由」とは何か(10)
戦闘的反神論(2)ゲーテからマルクスへ
2006年4月19日(水)


 ゲーテがアイスキュロスから『正義を求めてやまない深い衝動』『勇猛果敢な「単独者」のはかりしれない苦悩』を読み取ってそれを詩的結晶として定着した。
 その結晶から今度はマルクスが、そこに『内在している論理を抽き出し、強固な形を与え、見事に哲学化』する。その原型を、古田さんは「ヘーゲル法哲学批判序説」から読み取っていく。

 古田さんは「ヘーゲル法哲学批判序説」から要所々々を引用しながら論述を進めているが、マルクスのこの有名な論文の冒頭部分(とその関連部分)を丸ごと書き出しておこう。(何よりも自分のための作業です。)

 なお、古田さんは日高晋訳の「マルクス・エンゲルス選集第1巻」(新潮社)を用いているが、私はその本を持ちあわせていないので岩波文庫版(城塚登訳)を利用する。また原文は強調を表す傍点がたくさん付けられている。それは「強調文字」で表すことで代える。また読み易いように段落間に空行を入れた。


 ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果されているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。

 誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈りが論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な存在も危くされている。天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。

 反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、体面にかかわる問題であり、それの熱狂で
あり、それの道徳的承認であり、それの儀式ぱった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。

宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。

 民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。

 批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。

 それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判法への批判に、神学への批判政治への批判に変化する。

(中略)

 現在のドイツの体制は一つの時代錯誤であり、一般に認められた諸原則にたいする明白な矛盾であり、衆目にさらされた旧体制の空しさなのであるが、それでもなお自分では、みずからが信頼にたると思いこみ、そして世間に対し同じように思いこむことを要求している。

 もしもドイツの現体制が自分固有の本質を信頼しているのならば、その本質を別の本質の外観のもとに包み隠そうとしたり、偽善や詭弁に救いを求めたりするであろうか? 近代の旧体制は、もはや、本物の主役たちがすでに死んでしまっている世界秩序の道化役者でしかない。歴史というものは徹底的であって、古い形
態を墓へと運んでいくときに、多くの段階を通過していく。一つの世界史的形態の最後の段階は、それの喜劇である。ギリシアの神々は、アイスキュロスの「縛られたプロメテ」のなかですでに一度傷つき悲劇的に死んだのであったが、ルキアノスの「対話篇」のなかでもう一度喜劇的に死なねばならなかった。なぜ歴史はこのように進行するのか? それは人類が明るく朗らかにその過去と訣別するためである。このような明るく朗らかな歴史的解決を、われわれはドイツの政治的諸勢力にも要求する。

(中略)

 批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた.それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが人間に即して論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル〔根本的〕になるやいなや、それは人間に即しての論証となる。

 ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である。ドイツの理論がラディカリズムである明白な証明、したがってその理論の実践的エネルギーの明白な証明は、その理論が宗教の決定的な、積極的な揚棄から出発したところにある。宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えでもって終る。したがって、人間が貶しめられ、隷属させられ、見捨てられ、蔑視された存在となっているような一切の諸関係 ― 畜犬税の提案にさいして、或るフランス人が「あわれな犬よ、おまえたちを人間並みにしようというのだ!」と叫んだ言葉でもっともみごとに描きだされているような諸関係 ― をくつがえせという無条件的命令をもって終わるのである。


 力強く美しい思想であり、言葉である。書き写しながら、改めて深い感動が湧き上がってくる。ロシア・マルクス主義は死んでもマルクスは健在である。
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