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477 「良心の自由」とは何か(9)
戦闘的反神論(1)アイスキュロスからゲーテへ
2006年4月18日(火)


 マルクスの哲学における「無神論」はただ単に「神は無い」ということに留まらない。生き生きとした現実的・地上的な「真の人間」からの神(権力・権威)への挑戦という意義を持つ。その意味で「無神論」ではなく「反神論」というのがふさわしい。古田さんはマルクスの「無神論」を「戦闘的反神論」と呼んでいる。
 一般に西洋哲学史ではマルクスは「ヘーゲル→フォイエルバッハ→マルクス」という系譜で解説されている。これに対して古田さんは『マルクスの哲学の根底が「非哲学的」なゲーテ的人間観にあり、そのみずみずしさこそが真にドイツ観念論への批判となりえたこと』が重要だとし、『西洋哲学史内的マルクス理解ではなく、西洋思想史(精神史)内的マルクス理解』を提唱している。その観点からするマルクスの系譜は「アイスキュロス→ゲーテ→マルクス」であるという。とても斬新な視点で私には大変興味深い。
 さらに古田さんが結ぶ「アイスキュロス→ゲーテ」の道筋をニーチェも論じていたのを思い出して私の興味はさらに深まった。「シュトゥルム・ウント・ドゥランク」(Sturm und Drang 疾風怒涛)と呼ばれる時代の真っ只中にあった若き日のゲーテ(28歳)の詩作品「プロメートイスの歌」が、これもまた若き日の古田さん(32歳)・ニーチェ(28歳)・マルクス(27歳)を引き寄せている。本筋からは余分ごとになるが、古田さんとニーチェとの対比も面白い。チョッと寄り道してみる。

 まず、古田さんがまとめた解説でプロメテウス(「プロメートイス」はドイツ語読み)の悲劇をおさらいしておこう。


 このアイスキュロスの悲劇(「縛られたプロメテウス」)の中で、プロメテウスは大地(女神テミス)の子として描かれています。

 第一に至高神ゼウスの没落の日を知っていること、第二に人間に知慧の火を与えたこと、第三に人間たちに自分の末期を待ち設けるのをやめさせてやったこと、第四に(人間の)目に見えぬ希望を与えてやったこと、によってゼウスの怒りを買い、その配下たる「権力と暴力」の神によって、スキユティアの荒野の岩の上に鎖でつながれるわけです。しかし不屈の精神を以て神々のおどしに恐怖せず、やがてまきおこる天地の震動、崩壊の中に奈落に沈んでゆくという壮大な悲劇です。



 ギリシャ神話(オリンポス)の神々に迫害されていた巨人神話の神々は先住民の神々である。アイスキュロスの壮大な悲劇「縛られたプロメテウス」の主人公は巨人族の一人であり、その伝説は迫害者であるオリンポスの神々への反逆の物語である。ニーチェは「プロメテウス伝説は、アリアン系民族全体の根源的財産」(「世界の名著ニーチェ」・中央公論社所収・西尾幹ニ訳「悲劇の誕生」)だと言っている。
 ニーチェが描く「アイスキュロス→ゲーテ」の道筋は次のようだ。
 ソフォクレスが描いた「オイディプスの悲劇」の「受動性の栄光」に対して、アイスキュロスが描く「プロメテウスの悲劇」を「能動性の栄光」と、ニーチェは呼んでいる。そして続けて言う。


 「この作品(「縛られたプロメテウス」)で思想家アイスキュロスが語らなければならなかったこと、しかしながら詩人としてのアイスキュロスが比喩的な形象でわずかにわれわれに予感させるにとどめていること、これを若き日のゲーテは、彼の作品『プロメートイス』の大胆不敵なことばによって、あらわにわれわれに開いて見せる。
いな、われはここに坐し
わが像にかたどりて
人間を創る、
苦しむも 泣くも
たのしむも 喜ぶも
なんじを顧みざることも
われにひとしき種族、
わがともがらの人間を。

 巨人の域へと高まって行く人間は、みずから自分の文化を戦い取り、神々を強制して、自分と同盟を結ばせる。このような人間はおのれ独自の英知によって、神々の存在と条件とをおのれの手中に握っているからである。
 あのプロメテウスの詩は根本思想からみてまざれもなく不敬の讃歌であるが、しかし、あの詩の中でもっとも驚嘆すべき点は、正義を求めてやまないアイスキュロス的な深い衝動であろう。一方には、勇猛果敢な「単独者」のはかりしれない苦悩がある。他方には、神々の危難があり、神々の黄昏を予感させずにはおかない。これら二つの苦悩の世界を和解させ、形而上的融合へと押しやる力―これが、アイスキュロスの世界観の焦点と主題とをきわめて強力に示唆するものである。アイスキュロスは、神々や人間という二つの世界のさらにその上に、永遠の正義として運命女神(モイラ) が君臨するのを見ていたのだ。



 最後の一文はいかにもニーチェらしい。やがてニーチェ思想のキーワードの一つとして登場する「運命愛」を示唆している。

 引用文中の詩はゲーテの詩『プロメートイスの歌』の最後の一連である。世界古典文学全集50「ゲーテ」大山定一訳(筑摩書房)からその全編を掲載しておこう。(「ツォイス」は「ゼウス」のドイツ語読み)



プロメートイスの歌

おまえの空を
灰いろの雲でおおえ
ツォイスよ
あざみの花をむしる子どものように
山嶺や樫の木に
おまえの飄風(ひょうふう)をなげつけるがよい
しかし おれの大地に
おれの作った小屋に
おれの竈(かまど)に
一切おまえは手をふれてはならぬ
おまえはおれの竈の火を
妬んでいるのだ

太陽のもとに 神々よ
おれはおまえほどあわれな存在を知らぬ
おまえはおまえの権威を
祈祷の吐息や
生けにえの捧げものによって
わずかに支えているにすぎぬ
不憫な子どもや乞食どもがなければ
その日から おまえは飢えて死なねばならぬのだ

がんぜない子どものころ
おれはおれのあわれな眼を
遥かな空におくった
天上にはおれの真実な訴えをきく耳があり
苦しむものにいつも味方する
おれのような高貴な心があると思っていた

暴力者の恣意から そもそも
おれを救ったのは誰か
死と奴隷から そもそも
おれを解放したのは誰か
聖なる火にもえる心よ
すべてはおのれ自身の行為にほかならぬのだ
だのに おれは
たわいなくだまされて
いつまでも切ない感謝を
天上のねむれる神々にささげていた

おれがおまえを崇める? 何のために?
おまえは打ちくだかれた人間の苦しみを
癒やしたことがあるか
悲しみなげく人間の涙を
かつて一度すら拭ったことがあるか
おれを一匹の男にしあげたのは
おれの主 そしておまえの主―
およそ一切の生きものの主である
全能の「時」と
永遠の「運命」のちからではなかったか

はかなく理想の夢がやぶれたからといって
おれが人生を呪い
砂漠に去らねばならぬと
強いておまえは妄想するのか

おれはここにいる
おれのすがたに似せて
人間をつくる
おれとおなじ種族をつくる
なやむことも 泣くことも
たのしむことも 歓喜することも
おまえを崇めぬことも
すべてがおれと同様の人間をつくる


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