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《「真説・古代史」拾遺編》(12)

偽装「大化の改新」(4) ― なぜ偽装が必要だったのか


壬申の乱
 672年、天智天皇没後、その子・大友皇子(弘文天皇) に対して、大海人皇子(おおあまのおうじ 天智の弟 とされているが、それを疑問視する説もある。)が 反乱を企て勝利し、皇位を簒奪した。天武天皇 (672~686)である。大友皇子は縊死した。

 その後天皇位は、持統(天武の皇后)、文武、元明、元正、 聖武、孝謙、淳仁、称徳(孝謙重祚)と天武系統 によって継承されていった。日本書紀は元正のとき (720年 養老2)に編纂された。日本書紀編纂の目的の 一つに壬申の乱の正当化がある。この観点から、古 田さんは次のように論じている。

 すなわち、「文武・元明・元正」の時代の 「郡制」が、〝実は「645」のクーデターに 成功した、中大兄(天智)の創り賜うたところ″ と「偽称」したのである。

 では、どうしてそんな必要があったのか。

 その真の理由は「壬申の乱」と呼ばれる「天武 ・持統(天武の妻)の反乱」だ。兄(天智)の遺 言としての委嘱に反し、天武たちは反乱を起こし た。そして天智の子、弘文天皇(大友皇子)は木 に首をくくつて自殺したのである。

 そういう訳で、天武と持統たちの「後」を継い だ「文武・元明・元正」たち「反乱者の悩み」は、 「天智(兄)への裏切り」という評価であった。 表には出なくても、口から口へ周知のところだっ た。だから、本当は自分たちの創った制度 (郡制と大化の改新の詔勅)を、「天智の遺志の 実行」であるかに〝よそおった″のである。 「701」を「645」直後へと〝くりあげた″のだ。

 そのさい、「評の先進王朝」だった九州王朝、 その年号群(九州年号)から、三個抽出して借用 した。「大化と白雉と朱鳥」だ。その「大化」の 最末(7年)は九州年号群(6世紀中葉から7世紀末 まで31個が連続)の最末、「701」に当たっている。 「701」の一線こそ、文字通りの「大化の改新」だ ったのである。


 中村さんは更に突っ込んだ論考を進めている。

 これまで701年を九州王朝滅亡の時としてきたが、 そのときに九州王朝は完全に消滅したわけではな い。「白村江の戦」で完敗し、唐軍に筑紫を占拠さ れた九州王朝は、その後も薩摩を拠点にヤマト王 朝と対抗していた。それを「続日本紀」は「隼人 の反乱」として記録している。

(次の記事を参照してください。)

『「熊曾国」=「日向国」ではない。』

『九州王朝関係書物は「禁書」として処分された。』

 隼人の反乱の最後の記事は720(養老4)年6月17日 の元正天皇の詔の中に記録されている。 (岩波文庫・現代語訳『続日本紀』より)

いま西の辺境の小賊(隼人)が反乱を起こし、天皇 の導きに逆らって、たびたび良民に危害を加えてい る。そこで持節将軍・正四位下・中納言兼中務卿の 大伴宿禰旅人を派遣して、その罪を誅罰し隼人の拠 点を一掃させた。旅人は武器を整え、兵を率いて兇 徒を掃討したので、蛮人の首領は捕縛され下僚に命 乞いをし、賊の一味は頭を地につけ、争って良い風 俗に従うようになった。しかし将軍は原野に野営し てすでに一カ月にもなった。時候は最も暑いときで あり、どんなにか苦労したことであろう。よって使 者を派遣して慰問させる。今後もよく忠勤を励むよ うに。

 たいした反乱ではないかのように「小賊」と 侮った言い方で記述しているが、そうとうに手こずっ ていることが読み取れる。実はこの段階ではまだ 鎮圧できていなかった。8月12日に次のような詔が 記録されている。

隼人を征討する持節将軍の大伴宿禰旅人はしばらく 入京させる。ただし副将軍以下の者 は、隼人がま だ平定し終っていないので、留まってそのまま駐屯 せよ。

 中村さんはこの720年を言葉の真の意味での「九州王朝 滅亡の年」としている。この年は日本書紀編纂の年でも ある。

 さて、「大化の改新」は日本書紀の編纂者 が「持統(698~700年)の諸詔を孝徳紀に繰上げて 編集した」ものという立論にのって、中村さんは 「大化の改新」偽装の理由を次のように分析して いる。


 720年、隼人の反乱と表現されている九州王朝の 滅亡に伴い、西日本を確実に支配した大和朝廷は、 その過去を装飾する目的で、九州王朝の史書を盗 用し、自らこそ、上古から中国・朝鮮半島諸国と 交流していた「倭国」であるとみせかける『日本 書紀』を編集することを企てた。


 その編集方法は、本当の大和朝廷の成立である 「皇祖=天智」を晦冥し、「天皇」号の使用を神 武に遡らせるにあった。しかし、「皇祖=天智 (天命開別)」は、当時の常識であったので、 王朝成立の必須条件である「天命」の降下を、 遡らせるのは不可能であったので、天智紀に表現 せざるを得なかった。


 大和朝廷の成立時期である天智時代は、九州王 朝は、なお、相当の勢力を持っていたが、その後、 次第に大和朝廷の勢力が増大し、持統末期には、 その差は決定的になっていた。


 「公地公民制」「班田収授制」は、唐朝で始ま り、我国での採用は、先に中国文化を吸収した九 州王朝が先であったと推定され、次に大和朝廷で は、天武時代に一部で試験的に実施され、それが 成功したので、持統末期になり、701年から広く実 施される様になったと推定される。


 『日本書紀』編集に当たり、「公地公民制」 「班田収授制」を、実際の天武時代とすると、 間接的に大和朝廷の成立は新しく、天智時代であ ることを暗示することになるので、持統「大化」 の「改新の詔」を始めとする一連の諸詔を、645年 の天皇家勢力増大の一契機であった蘇我本家に対 するクーデターと結び付けて、孝徳紀に挿入した と推定される。


 史官の造作手法は、古田武彦氏が『盗まれた神 話』で、景行天皇の東・南九州平定説話が、 九州王朝の史書からのその儘の盗用であること (『「熊襲」とはどこか(6)』『「熊襲」とはどこか(7)』 を参照してください。) を論証されたのと同様に、持統の詔のその儘の 遡っての挿入であった為、前に指摘した通り、 孝徳時代にはなかった「郡司」「御宇」「倭根子」 等の矛盾が発覚したと推定されるのである。



(「倭根子」については割愛してきた。興味の ある方は直接「中村幸雄論集」をお読みください。)



 さて、ご自身の多くの論考を通して、中村さんは 最後に、「日本書紀」の信憑性について次のように 結論している。

 本稿で示した通り、『日本書紀』の造作は、 一般に歴史学者が想定している様に、その前期ま でに限定されていたのではなく、その全体は云う に及ばず、『続日本紀』も『日本書紀』編集の造 作を継承しており、今後の日本古代史研究は、こ のことを前提とすべきではなかろうか。



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2008/04/18(金) 06:17 | | #[ 編集]
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