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《「真説・古代史」拾遺編》(11)

偽装「大化の改新」(3) ― 「改新の詔」の矛盾を解く



645年
 中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター。蘇 我氏宗家滅亡。
 皇極退位、孝徳即位難波に遷都。



646年~649年
 「改新の詔」を始め、中央集権・律令政治の 施行を命ずる画期的な諸詔勅を発布。

 上の①、②を合わせて「大化の改新」と呼ん でいる。「定説」は①により天皇家の権威が強ま り、②の実行が可能になったと言う。

 ①は史実通りとして問題はないだろう。もちろ ん、蘇我氏を一方的に悪者に仕立て上げている点 については留保する必要があろう。さて、②である。 ②は偽装された疑い濃厚である。その決定的な証 拠の一つが「郡評問題」だった。郡制の詔にもか かわらず、701年まで評制が続いている。その外に も、「公地公民制」・「班田収授制」の実施開始 は天武時代(672~686)であり、やはり時代的に 大きなずれがある。まるで「詔」が無視されてい る態である。そのときの「詔」はそんなに権威がなかったのだ ろうか。

 上に挙げた問題点から、「改新の詔」は日本書 記編纂者が造作した虚構であり、実際には「改新 の詔」はなかったとする論者もあるようだ。 それに対して中村さんは、上記の諸問題の外に 「改新の詔」には養老律令(718年)の戸令(こりょう) の定郡条(「郡こおり」の大きさについての規定)、取坊令条 (京の各区画行政官の登用条件の規定)と類似した 箇所があることも指摘している。そして、これらの疑問点を明きら かに解くことができる鍵として、次の仮説を 主張する。

「大化」の諸詔はその儘の型で実在したが、 『日本書紀』の史官の造作により、実際に制定さ れた年代から繰上げて孝徳紀に編入されている。


 この立場から、ではその諸詔は本来どの時代の ものだったのかを問うている。以下その論考をか いつまんで紹介する。 (詳しくは 中村幸雄論文集 をお読みください。)

 まず、「改新の詔」が還元されるべき時代を比定する ための必要条件を三つあげている。

Ⅰ 天智以後であること
 「白村江の戦」に敗れて勢力を減じた九州王朝 と拮抗する力をもつようになったヤマト王権は、 一豪族から実質的にヤマト王朝となって、九州王朝と並立し ながら九州王朝を滅亡に至らしめていった。 そのヤマト王朝の皇祖が天智であると、中村さんは 論証している。そのあらましは次のようである。

 「アマノシタシロシメス(天皇)」という天皇の称号 が日本書記に頻出する。その漢字表記は天智以前は 「治天下(天皇)」であったのが、天智以後は一貫 して「御宇(天皇)」に変わっている。また天智の 和風諡号「天命開別」は「アメノミコトヒラカスワケ」 という訳の分からない読みが振られているが、この 本来の意味は「天命を受け、別国を開いた」という 意以外ではありえない。「天命」を受けたものが 「皇祖」と呼ばれる。日本書紀では「天命」を受けた 者が二人いる。ニニギ尊と天智である。同じ国に 「皇祖」が二人いるということはあり得ない。 ここでも九州王朝の存在がヤマト王権に認識されてい たことが明らかである。つまり、 ニニギ尊は九州王朝の皇祖であり、天智はそれとは 別国(ヤマト王朝)の皇祖である。「天皇」という称号も 天智から使用されたと、中村さんは推定している。

Ⅱ 文武大宝元年(701年)以前であること
 「改新の詔」は、「大宝律令(701年)」の条 文と推定される「郡」「戸令」を含んでいるので、 「大宝律令」が公布・実施されることを予告した 詔であったとも考えられる。従って、文武大宝元 年に接近した年代である。

Ⅲ 「薄葬」された天皇問題
  改新の諸詔のなかに「薄葬令」(646年)があ る。「薄葬」は盗掘を避けるためであり、その制 定者は自らも「薄葬」したはずである。 「薄葬」が確認できる最初の天皇は持統 である。持統が「薄葬令」の制定者であり、しか も、その制定はその晩年(自らの死を自覚する頃) であったと推定される。

 さらに中村さんは、伊勢神宮に伝承されている 『皇代記附年代記』に現れる年号「大化」を検討 して、「改新の諸詔」の実年代を「698年~700年」 (持統)と結論している。それは九州年号の「大化3年 ~大化5年」にあたる。この仮説に従えば、 「改新の詔」は次のように解釈することが 妥当となる。

(1)「郡評問題」
 701年まではなかった「郡」が「改新の詔」のかなで 使用されているは、「郡」に変更する「大宝律令 (701年)」の実施は既に決定されており、 「予告令」である「改新の詔」も、「大宝律令」 の用語を先立って使用したと推定できる。

(2)「公地公民」、「班田収授」の問題
 「公地公民」、「班田収授」はすでに、天武時 代から実施されていた。それを改めて「大宝律 令」の「予告令」である「改新の詔」で取り上げ ているのは、天武時代の実施は小範囲における 試験的な実施であり、その結果が良好であったの で、701年「大宝律令」により、その実施範囲を 一挙に拡大することに決定した。その過渡期 として「改新の詔」で予告したと推定できる。

(3)「養老律令」と類似問題
 「戸令」の「取坊条」「定郡条」が「養老律令」 と類似している点については、699年の時点において 「大宝律令」は完成し、二年間の過渡期間を経て、 701年から実施された、と考えられる。

 以上、私にとってはまだ不明な点があるが、 日本書記の記述通りの「改新の詔」があったする 仮説での議論を初めて知ったので紹介した。

 さて、「改新の詔」が実際に存在した「詔」 を時代をずらして編入したものであったにせよ、 日本書紀編纂者の造作の「詔」であったにせよ、 ではなぜそのような造作が必要だったのだろうか。 つまりどうして「大化の改新」を偽装する必要があったのかという問題 が残った。

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