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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
恥を忍んで、自作品の公開

<>論説編(1)

 「磯枕第9号」に論説文が2編掲載されていました。論説文のようなものはまだあるはずだと思い、手元に残っている資料を調べましたら、論説文が2編見つかりました。
 この4編の論説文の初出は何時どこの文集に寄稿したものなのか、まったく記憶に残っていませんので、そのようなことの詮索はせず、『自作品の公開』に転載することにしました。いずれも二十代後半から三十代前半の頃に書いたものだと思います。内容から判断して古い順に転載していきますが、それぞれかなり書き換えることになりそうです。


修羅賢治素描(その1)

 ぼくらは修学旅行の終わりに、宮沢賢治の生地(花巻市)の郊外にある賢治の詩碑を訪ねることになっている。
 その詩碑に刻まれている詩句は、賢治の詩の中で最も広く知られている「雨ニモマケズ」の最後の17行である。念のため、「雨ニモマケズ」を全文転載しておこう(「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ」以降の行が「最後の17行」です)。

雨ニモマケズ                東ニ病気ノコドモアレバ
風ニモマケズ                行ッテ看病シテヤリ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ        西ニツカレタ母アレバ
丈夫ナカラダヲモチ             行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
慾ハナク                  南ニ死ニサウナ人アレバ
決シテ瞋ラズ                行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
イツモシヅカニワラッテヰル        北ニケンクヮヤソショウガアレバ
一日玄米四合ト               ツマラナイカラヤメロトイヒ
味噌ト少シノ野菜ヲタベ          ヒデリノトキハナミダヲナガシ 
アラユルコトヲ               サムサノナツハオロオロアルキ
ジブンヲカンジョウニ入レズ       ミンナニデクノボートヨバレ
ヨクミキキシワカリ             ホメラレモセズ
ソシテワスレズ               クニモサレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ            サウイフモノニ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ       ワタシハナリタイ
       

 この詩を高く評価する人もいるが、ぼくは「しみったれた愚痴」(稲垣足穂)とまでは言わないが、賢治が「ふと書きおとした過失」(中村稔)であるという見方にくみしたい。この詩の思想的内容や現実との関わり方の問題点はおくとしても、詩の発想や修辞の面からみて、この詩には賢治詩の真骨頂はない。賢治自身もこれを詩として書いたかどうか。病臥中に鉛筆で手帳に初号活字のような大きな字で、パラパラと書かれたものだという。発見されたのは賢治の没後で、むろん題はついていない。

 碑文にどうしてこの詩が選ばれたのか。ただ、最も広く知られ親しまれているから、というだけではないだろう。ぼくはそこに、伝説され聖化された賢治像をかいま見て、賢治のファンの一人として、かなしい思いがした。一部には「賢治菩薩」という呼び方まであるという。賢治が伝説化聖化されるのももっともと思える理由は、確かにある。が、だからといって伝説化聖化は正当化されない。賢治の伝説化聖化は、誰よりもまず、賢治自身がごめんこうむるだろう。

 では、賢治とは何ものだったのか。賢治を理解するのに欠かせない要素が三つあると思うが、その三相をめぐって賢治を素描してみよう。

 まず第一の要素は宗教がある。賢治は、すでに三才(1899年)のときに、家族の唱える真宗経典「正信偈」を暗誦していたという。後、18才のとき(1924年)「妙法蓮華経」を読み、激しく感動し、父母を改宗させようとして父と争論しているし、一時期街頭布教にもたずさわっている。また、死の直前、父に次のような遺言をしている。
「国譯妙法蓮華経全品一千部を出版下され、知己の方にお贈り下さい。……その後記に『私の全生涯の仕事は、此の経典をあなたのお手もとにおとどけして、その仏意に触れて、無上道に入られることを』という意味を記して下さい……」
 この遺言は賢治の死の翌年、家族の手によって生かされている。
 「雨ニモマケズ」は宗教人としての賢治の理想・徹底した無私と自己犠牲の精神のなまのままの吐露であるが、詩としてはしたり顔の説教臭さが強くていけない。しかしながら、例えば、「農民芸術概論」の中で賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という。この種のことばは、それを言う人によっては鼻持ちならぬものとなるが、賢治が言うとき、精彩を放つ。
 ただし、「賢治菩薩」の故ではなく、怒りや涙でクチャクチャの修羅として生きた賢治だからである。

 第二の要素は農民と共に生きようとした生き方にある。日照りや冷害と闘いながら泥まみれになって、賢治は歌う。

      唾し はぎしりゆききする
   おれはひとりの修羅なのだ
                   (「春と修羅」より)

 賢治は中学生(今の高校生)の頃から、植物や鉱石の採集に熱中しており、その後盛岡高等農林学校を卒業し、農学校の教師を務めながら、農業関係の研究を積んでいる。
 1926年(賢治30才)4月に教師を辞して、自炊生活をしながら、荒地で畑作を始めた。その年の8月、その地に「羅須地人協会」を設立し、肥料・稲作などで農村青年の指導に献身する。(賢治の詩碑が建っている場所は、この羅須地人協会の跡地である。)
 また後年、砕石工場の技師として、炭酸石灰の製法改良や加工にも従事している。
 賢治の作品には宗教語とともに化学・地質学などの学術用語がふんだんに取り入れられており、それが独特の効果を発揮しているが、むべなるかなである。(次回に続く。)
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