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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
今日の話題3

共生社会への道

 東京新聞(2018.10.28:日曜日)に掲載された心温まるニュース記事を転載します。


介助の喜び広げたい

 地域で暮らす障害者を支える介助者やヘルパーらが27日、介助の魅力をアピールするため、東京・新宿でデモ行進をした。
 車いすの障害者らも合わせ、約80人が参加。着ぐるみをかぶったり、音楽を演奏したりしながら「介助は意外と面白い」と声を上げた。

 首都圏で働く介助者らのネットワーク「かりん燈(とう)関東」有志が呼び掛けた。
 在宅障害者らの介助を10年以上続ける小金菜穂子さん(44)=東京都墨田区=は
「一人一人の障害が異なり、マニュアルでできない仕事。生活を一緒に創造していく喜びがある」
と介助の魅力を説明。
「あまり知られていないので、街に出て伝えたい」と語った。

共生社会

 デモ前に集会があり、相模原市の知的障害者施設で元職員が入所者19人を殺害した事件について、参加者が意見を述べた。
 介助者の鶴峰まや子さん(50=東京都三鷹市=は
「私たちと同じ介助する側が起こした事件。被告は手紙で『職員の生気の欠けた瞳』と書いている。私たちが介助の現場を明るくすることで、反撃したい」と訴えた。

 参加者は新宿駅周辺を一時間歩き、通行人に手を振りながら
「みんな一人では生きられない」「生産性より、心が大事」
と声を合わせた。
 同時に介助者の給与や労働条件の改善も訴えた。 (平岩勇司)

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今日の話題3

管理教育といじめ

カテゴリ『自作品の公開』内の『論説編(4)』は45年ほども前の学校教育の体質を取り上げたものですが、その頃の学校教育は生徒を支配あるいは管理・操作の対象として扱っていたこと、その結果として、選別.分断された生徒たちの心身は「荒廃」にさらされていたことを論じ、その「荒廃」を示す事例の一つとして知的エリートたちの「足弱な子供に、なお足ばらいをかける」ような「いじめ」というエゴイズムを取り上げました。
 その記事を転載しながら、現在の教育の実態に疎かった私は、「現在の教育の実態はどうなのだろうか」という問題が随分と気にかかっていました。
 ところで、なんとその転載作業が終わる間際に次のような論説に出会いました。

 東京新聞の連載コラム「時代を読む」(2018年10月7日:日曜日)の貴戸理恵(関西学院大学准教授)さんの『古くて新しい管理教育』と題する論考です。読んでびっくりしました。45年前よりずっとひどい状況になっているのです。また現在の「いじめ」をめぐる問題について、第一面のコラム「筆洗」(2018・10・28)が取り上げていました。
 まず貴戸さんの論考を紹介し、最後に「筆洗」を転載しましょう。

管理教育

 貴戸さんはまず、1987年に出版された干刈(ひかり)あがたさんの「管理教育の闇をテーマにした」小説『黄色い髪』を次のように紹介しています。
 「中学校を舞台に、校舎に挨拶させる校則や、軍隊のように厳格な先輩・後輩関係、異様な緊張感のもとで行われる頭髪検査などが描かれる。」

  貴戸さんは『このような管理教育は「過去の遺物」と思っていたが、とんでもない。』と言います。そしてさらに管理教育を描く著書を二冊取り上げて、その内容を次のように紹介しています。


  『ブラック校則』(2018年、荻上チキ・内田良):『ブラック部活動』(17年、内田良、ともに東洋館出版社)は現在進行形で存在する学校の「異様なルール」を伝えている。

 校則で、生まれつきの髪色を黒く染めさせられる。「下着の色は白」などと決められ、教師にチェックされる。部活動は「自主的」なのに強制加入で、辞められない。土日はおろか、盆・正月も休みがなく、顧問教師の妻は休日を夫なしで過ごす「部活未亡人」になる…。

 しかも、著者らによれば状況は悪化している。かつての「丸刈り」や「水飲み禁止」といった校則が影を潜める一方で、毛髪指導やおしゃれ禁止などはより細かくなり、十代など若い世代で経験率が増加しているのだ。また、この十年で休日の部括動のための中学教師の勤務時間は増加しており、運動部の顧問などからは「早く負けてほしい」との声も聞かれるという。

 もちろん、校則が自由な学校もあるだろうし、充実した適度な部活動を楽しんでいる生徒や教師も多いだろう。だが、全体としてみたときに、厳しさを増す傾向がみられる現実をどう捉えればよいのか。
 冒頭に挙げた「黄色い髪」のような80年代の管理教育批判の文脈では「画一的・管理的な学校」や「受験競争にあえぐ子ども」の問題が取り上げられた。そして、子ども中心主義の立場から「個性尊重」「多様性」といった価値が提示された。個性を尊重すれば競争は緩和され、学校が多様化すれば不自由な管理はましになる、と考えられていた。
 しかし、現在起こっているのは「個性尊重で競争激化」「多様化して管理強化」という実態であるように見える。


 以下、貴戸さんの論考は問題の本質とその解決の道を次のようにまとめています。

なお、その引用文中にAO入試という、私にとっては初めての用語が出てきます。調べました。次のような入試だそうです。
 「アドミッション・オフィス入試の略語で学力だけではなく、高校時代の部活動、校内活動などによる学校生活での取り組みに加え、大学側が用意したテーマに沿った小論文の作成を行います。
  次に、志望理由書を作成し複数回の面接を経て合否の判定が出されます。」



 前掲の『ブラック部活動』によれば、学校の生徒評価がテスト一辺倒から「個性重視」になったことで、部活動が過酷化している面があるという。
 学力ではなく生活面に目を向けたとき、部活動はその子の個性をアピールする恰好のポイントだ。大学のAO入試などでも、部活動での良い成績が評価される現実があり、「試合・大会」の重要性は増している。

 また、学校が多様化し、保護者に選択肢が開かれるようになると、校則で生徒管理を強化して「わが校の評判」をコントロールする必要性も生じるだろう。生徒の背景や進路も多様化しているなか、まとまりを保つため、一括管理の必要性が現場で意識される局面も増えているのかもしれない。

 個性化・多様化が管理や競争からの解放にはつながらなかった現実を見据えつつ、今もう一度、反管理教育・子ども中心主義に立ち返って根底から考えたい。
 子どもの人権を侵害する校則が存在し続けて良いのか。生徒や教師の健康や生活のゆとりを犠牲にしてまで競争に追い立てる意味とは何か。
 市民社会の価値に照らして明らかに理不尽なルールが学校でまかり通っているのであれば、止めなければならない。古くて新しい課題である。


いじめ


【筆洗】(東京新聞のホームページから転載します。)
 映画監督の黒澤明さんの小学生時代のあだ名は、「こんぺと(金平糖(コンペイトー))」。<こんぺとさんはこまります いつも涙をポーロポロ>。当時そんな歌があったそうで黒澤少年はそう囃(はや)されていじめられていた。
 ▼ドッジボールでは集中的にぶつけられる。洋服は汚される。坊ちゃん刈りで、背広に半ズボンの黒澤少年の姿は他の子どもから、浮き上がり標的にされたそうだ。助けてくれたのは、四つ上のお兄さんだったそうだ。休み時間にいじめられているとどこからともなく現れて、救い出してくれる
 ▼その悲しい数字にいじめに泣くすべての子どもにそのお兄さんがいてくれたらと詮ない空想をしてしまう。
  過去最多の41万件。全国の国公立私立の小中高校、特別支援学校が2017年度に認知した、いじめの件数である。
 ▼41万件分の悲しみ、痛みとはどれほどか。まず、いじめられている子どもの分。大切な子へのいじめを知り、心配する親。黒澤さんのお兄さんのような兄弟、姉妹もいる。おじいちゃん、おばあちゃん…。親類やそれぞれの友人まで含めれば、途方もない数の悲しみになるだろう。
 ▼教室は閉ざされているので分かりにくい。が、泣いているのは、その子だけではない。その子につながる、たくさんの痛みを想像したい。
 ▼そして、いじめている君よ。その事実を知れば、君につながるたくさんの人も泣く。

今日の話題3

99%の生き方、そして闘い。

 99%の私たちは、日々1%が刳り出してくる腹立たしかったり心が痛むばかりの出来事に苛まれていますが、99%の中では心温まる営みや果敢な闘いが日々刳り出されています。今日は今朝出会った心温まる営みと果敢な闘いを紹介します。

 東京新聞は毎月一度『暮らすめいと』という生活情報紙を発刊していますが、第一面に「町の唄」というコラム欄があります。私が出会った心温まる営みは2018年11月号の『暮らすめいと』の「町の唄」で取り上げられた次のお話です。

 彼女は五十代の主婦ライター。
 家事と仕事をこなす一方、七年前から町内のお年寄りの買い物ボランティアを続けている。

 足の悪いおばあちゃんの買い物を代行し喜ばれたのがきっかけで、その善意が口コミで広がり高齢の方から次々と頼まれるようになったという。

「買い物は週一回土曜日で依頼は数人から多い時は十二人にも。主に食料や日用品で、自転車に満載し家々に届けています。時には何往復もすることも…」

 今では街を歩けば「いつもありがとう」と感謝の声を掛けられ、時には野菜やお菓子の差し入れも。入院した時は幾人も見舞いに来てくれた。

「小さなお手伝いですが今や私の大切な生きがい。多くの絆も生まれて日々が本当に楽しい。逆に私が皆さんに感謝しています」
 お年寄りの喜ぶ顔を思い浮かべ、元気な限り頑張りたいと思っている。 (哲)


『暮らすめいと』(2018年11月号)に、もう一つ取り上げたい記事があります。果敢な闘いの記事です。
「この人と1時間」というインタビュー記事で、インタビューを受けるのは東京新聞社会部記者の望月衣塑子(みちづき いそこ)さんです。森友問題(学校法人「森友学園」への国有地売却を巡る問題)に関係した記事を担当していた記者のお一人として私の記憶に残っていた方です。

 <前書き>

この人と1時間

 現代の新聞記者は戦士だ。ネットメディアとの競争が強まる一方、政治家や官僚らの疑惑・不祥事の隠ペいは悪質さを増し、真相解明には会社挙げての総力戦が求められる。政権を批判すれば「フェイク(虚偽)ニュース」と逆切れされ、命に危険が及ぶことも。
 そこで東京新聞(中日新聞東京本社)社会部記者の望月衣塑子さんに、取材現場の実態と現政権の本質、そして一市民としての思いを聞いた。


 <インタビュー本文>

 「これまでの歩みを」

 事件取材が多く、千葉県鎌ヶ谷市長汚職事件や、日本歯科医師連盟(日歯連)のヤミ献金問題などを手がけました。
 今は遊軍で税の使途などを調べています。

 結婚と出産を経て経済部に復帰した2014年4月、安倍晋三内閣は「防衛装備移転三原則」を閣議決定しました。
 戦後、憲法九条の下で歩んできた平和国家が大転換した。これを機に政治に強く関心を持つようになりました。

 □ ■

  「菅義偉官房長官への質問が注目されました」

  昨年5月、加計学園の獣医学部新設で「総理のご意向」の内部文書が明らかになり、文科省の前川喜平元事務次官も「確実に存在していた」と発言。
  ところが菅官房長官は「怪文書みたいな文書」と言い放ち、再調査に乗り出さなかった。

  居ても立ってもいられず、会見に出ました。
  「出所不明だから調べられない」という菅氏に
  「実名告発が出れば、告発者を保護した上で話を聞くか」と聞いても
  「仮定の話。文科省で判断する」と逃げ続ける。
  そこで
  「きちんとした回答をいただいているとは思わないので、繰り返して聞いています」と畳みかけたのです。

  「よくぞ聞いてくれた」と反響は大きかったですが、私としては自分が問いただすべきことを聞いただけ。
  励ましの声が届く一方、会社に「望月、出せや!」と脅しの電話が入るなど、バッシングもひどかった。

 □ ■

「よく通る声が印象的でした」

   小学生のころ地元の練馬児童劇団に入り、ミュージカル「アニー」の主役を演じて声を鍛えました。
 恥ずかしいですが「女優になります」と卒業文集に書いたほど(苦笑)

 □ ■

 「安倍政権目指す国の姿とは?」

  13年に「特定秘密保護法」、
  14年に集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更の閣議決定、
  15年に安全保障関連法、
  17年には「共謀罪」法
   を成立させました。
  国会での徹底議論なしに平和主義を放棄し、米国の言うままに戦争のできる国になったら、国民は本当に幸せでしょうか。
  ある官僚は、現政権の外交・安全保障政策は「積極的対米従属主義」と嘆いています。

 □ ■

「憲法改正も目指しています」

   その時に何が起こるのでしょうか。
 防衛省は少子化対策として、自衛隊員の募集年齢の上限を26歳から30歳に引き上げることを検討中です。
 米国では学資ローンの返済に苦しむ学生が兵役に就く「経済的徴兵制」の実態がある。日本でも同じことが起こる可能性が大きいと思います。

 □ ■

「新聞記者の役割は重いですね」

   「安倍一強」が続き、メディア支配が強まる今こそ、新聞記者は権力のチェック、特に政治の私物化や人権侵害などに対して、より厳しく追及する姿勢が求められています。
 本当はメディアが結束して批判の声を上げることが大事なのですが…。メディアのトップが首相と会食を繰り返していると、現場の記者は萎縮します。苦しんでいます。

 □ ■

「この仕事を選んだ理由は?」

   業界紙記者ながら権力への反骨精神を持ち続けた父の影響と、フォトジャーナリストの吉田ルイ子さんの著書を私に与え、ジャーナリストへの道を示してくれた母の存在が大きかった。
 二人ともすでに他界しましたが、今でも感謝しています。

 □ ■

       「家庭ではどんな存在ですか」

 先日、娘から「もっと背筋を伸ばして」とか「ゆっくり話そう」などとダメ出しされたことがありました。
 同業の夫は冷静で、焦りがちな私を支えてくれています。
 子どもたちが安心して暮らせる社会の実現を目指して、これからも質問しペンを執りたいと思います。

聞き手 大沢 賢  写真  宇田 稔

  (望月さんのプロフィールも転載しておきましょう。)
 1975年東京都生まれ。
2000年慶応義塾大学法学部卒業。  同年中日新聞社入社後、東京本社(東京新聞)管内の千葉、横浜、さいたま各支局及び整理部、経済部を経て、
 16年から社会部勤務。著書に「新聞記者」(角川新書)、「武器輸出と日本企業」〔同)など。
 夫と子ども二人と暮らす。趣味は温泉巡り。


今日の話題3

1%対99%

 これまで私はいろいろなブログ記事で、民主主義国家を標榜しているほどんどの国家が実は1%パーセントのブルジョアが階級が99%の一般住民を支配搾取しているブルジョア民主主義国家であり、現在のさまざまな社会問題の解決の道は1%対99%の闘いの道に他ならないと主張してきました。
 ところで、『週刊金曜日』(1199号:2018年9月7日刊)に「1%対99%」という観点を軸に書かれた論考に出会ってうれしくなり、それを取り上げることにしました。
(ここで念のため「1%対99%」をネット検索をしてみました。なあんだ!。「1%対99%」は既に広く使われている表記でした。)

 取り上げることにした記事は浜矩子・高橋伸彰・鷲尾香一・佐々木実、の四氏による「経済私考」というリレー連載記事の一つで、高橋伸彰さんによる『首相の実績強調とは逆に景気は失速の兆しぎりぎりまで追い込まれている99%の私たち』という表題の論考です(以下では「99%の私たち」と略記し、その著者は初めて知った方ですが、勝手ながら「高橋さん」と親しみを込めて呼ぶことにします。)

 さて、高橋さんは、「8日月3日に公表された今年度の『経済財政白書』(以下、白書)」を取り上げて、その白書の批判を行っていきます。
 まず、白書中で景気の現状を述べている次の解説文を取り上げます。
「所得の増加が消費や投資の拡大につながるという『経済の好循環』が着実に回りつつある」 
時の政治権力を忖度しながら回りくどく書く文の典型です。高橋さんは手始めにその文を次のように解読し、続けて「白書」全体に対する鋭い批判を行っています。


 「つつある」はわかりにくい表現だが、要するに所得増から消費拡大への好循環は「回っている」のではなく、いまだに「回っていない」と言っているのだ。ストレートに「回っていない」と表現しなかったのは安倍晋三首相への付度に他ならない。実際、報道(8 月28日付『産経新聞』Web記事)によれば、自民党総裁選で3選を目指す安倍首相の陣営が作成した党員向け政策ビラでは、経済再生やデフレ脱却などの実績が強調されているという。

 しかし白書を丁寧に読めば、政策ビラが強調するほど実績が出ていないことは明らかだ。白書の本文から修辞を削り、結論だけを抜き出せば貸金上昇は「労働需給のひっ迫に比べると緩やかで」あり、「個人消費も(中略)力強さに欠け」、2年程度で脱却と公言していたデフレも「安定的な物価上昇が見込まれるところまでには至っていない」。企業収益は過去最高を更新し、1億円以上の報酬を得る大企業役員は大幅に増えても、回復の成果は第2次安倍政権誕生から5年8ヵ月を経ても津々浦々には行き届いていないのである。

 政府の『月例経済報告』をみても、総括判断はこの1月以降「緩やかに回復している」と据え置かれているが、個別判断をみれば8月の同報告では輸出が2015年8月以来3年ぶりに「足踏みがみられる」と下方修正された。また、好循環の要となる個人消費の記述についても、この1月から5月までは消費者マインドは「持ち直している」だったが、 6月に「持ち直しに足踏みがみられる」と修正され、8月には「このところ弱含んでいる」とさらに表現が後退している。


 以上のような経済実態にもかかわらず、内閣府は政権の誤った施策を取り繕ろおうと躍起になっていく。

 それでも安倍首相の強気の姿勢を支持する(せざるを得ない?)政府・内閣府は、2018年度の実質GDP(国内総生産)成長率に関する年央試算で、民間調査機関20社の平均1.1%(第一生命経済研究所調べ)よりも0.4%高い実質1.5%程度の成長を見込む。参考試算の2019年度に至っては同1.5%と民間の平均0.8%に比し倍近くも高い成長を見通す。

 だが、官邸に顔を向けた官庁エコノミストがいくらアベノミクスの成果を取り繕っても、実績として現れる経済統計までは改竄できない。重要な情報を隠したり、公表された統計を都合良く解釈したりすることは可能でも、統計自体を意図的に操作するのは「安倍一強」の下でも禁忌である。そこで筆者が懸念するのは過大な政府見通しの実現を口実に、来年10月に予定されている消費税率の引き上げを再延期し、統一地方選挙や参議院選挙を有利に闘おうとする自民党の党利党略が総裁選後に急浮上してくる恐れである。

 野村鐙券の予測(『財界観測』2018年8月17日)によれば、消費増税が再延期されても2019年度の成長率は0.7%に止まる。有権者は選挙目当ての甘言に騙されてはならない。1%の彼らとは違い、99%の私たちの生活はアベノミクスによってぎりぎりのところまで追い込まれているのだから。

今日の話題3

左翼・右翼って何?

 前回で「自作品の公開」が一段落しました。今回から、元の内容に戻ろうと考えました。
 私の拙いブログは主として私が大きな心の糧を得てきた書籍の紹介記事ですが、初期のころには、「雑録」・「今日の話題」・「今日の話題2」などのカテゴリ名で、日常的に新聞・雑誌などから得た心に残った情報を題材にした論説を掲載してきました。
 今、紹介したい書籍がありますが、かなり厚く内容も濃い本で、いまだ読書中であり、終わるにはかなり時間が掛かりそうです。そこで「今日の話題3」という新たなカテゴリを設けて、日常的に得た情報を題材にした論説を書き継いでいくことにしました。

 初回は切り抜いて置いた東京新聞の記事から2018年8月29日の「『こちら特報部:「脱ネトウヨ男性の告白」(以下では「脱ネトウヨ」と略記します。また、「脱ネトウヨ」の筆者を特報部では単に「男性」と呼んでいますが、わたくしは「告白男性」と呼ぶことにします。)』を取り上げることにしました。記事を書かれた記者は「中沢佳子・榊原崇仁」のお二人です。お二人は前文で次のように問題提起をしています。

《「右翼」を標榜し、排外主義や差別的な言説をネット上で繰り返す「ネット右翼(ネトウヨ)」を締め出す動きが強まっている。ツイッターなどの会員制交流サイト(SNS)は違反認定を拡大し、大手検索サイトでもニュースのコメント欄のヘイト言説は激減。一般のネットユーザーによる問題発言の通報も定着しつつある。ならばもう、ネトウヨは卒業したらいかがか。元ネトウヨの男性の証言から、「脱ネトウヨ」へのヒントを探る。》


「ネトウヨ」って何?

 告白男性は
「自分は日本を救う聖戦士。そう信じていた。今にして思うと、オウム真理教に引き込まれた人と似ているかもしれない」
と振り返り、ネトウヨになっていった経緯を次のように語っている(記者が要約した文章を、告白男性が語ったであろう発言の形に書き換えでいます)。


  ネトウヨになったのは、高校一年生の時。家にも学校にも居場所がなかったのが原因だった。
  教育熱心な家庭に育ち、家族の学歴も高い。でも、自分は勉強が苦手で進学校に進めなかった。
  「家では『落ちこぼれ』と言われた。学校でも、家族は優秀なのにおまえは…とばかにされた」

  見下され、劣等感にさいなまれる日々。そんな時、ネットでネトウヨが作ったという太平洋戦争時の日本を正当化する動画を目にした。
 その考え方に興味を持ち、ネットの動画やサイト、右系論客の本を通じてどんどん引き込まれた。

 高校生だった私の目には、日本はどこか貶(おとし)められている気がしていた。日本や与党の批判をする「左系知識人」が悪人に思えた。自分も一人の日本人として、この国のことを真剣に考えたい――。


 募る思いは「日本を救わなくては」という切迫感になった。
 右翼的な書き込みをつづるブログを立ち上げ、共感できるサイトにリンクを張った。
 ネトウヨが作る動画に称賛を、反日的とみなした動画には批判や悪口を投稿した。

 「マスコミの情報や学校で教えることは間違っている」と家族に訴え、友だちにネトウヨの考えを植え付けようとした。
田母神俊雄氏や桜井よしこ氏などの本を読みあさってはうなずき、麻生太郎氏ら愛国的発言をする政治家に感銘。ネトウヨや右系論客は「聖戦士」に見え、自分もその一人だと思うと、自己肯定感や自尊心がよみがえった。


 上の赤字部分が孕んでいる意義の解釈として紹介したい論説があります。
   今回から始めたテーマ「左翼・右翼って何?」について、改めて学習しなおそうと思い、佐高信氏と鈴木邦男氏との対談を記録した著書『佐高信×鈴木邦男「左翼・右翼がわかる!」(発行:金曜日)』を読んでいます。その本の佐高さんによる「はじめに」の中で 、鈴木さんが代表だった新右翼一水会の機関紙『レコンキスタ』(1994年10月1日号)に載っていた次のような逸話を紹介しています。これが紹介したい論説です。


 左翼と右翼の違いについては、亡くなった弁護士の遠藤誠による、次の定義に優るものはないだろう。

 1994年春、遠藤が山口組の本部で暴力団対策法の裁判の話をしていると、当時組長だった渡辺芳則が、
 「遠藤先生は左翼だから、弁護団長を頼んでいると、山口組も左翼にされてしまうのではないかと心配する者がいる。そこでお尋ねするんですが、共産主義諸国が崩壊した現在、左翼と右翼はどこが達うんですか?」
と質問してきた。
 それで遠藤が、
 「太平洋戦争の見方が一つの分かれ目で、侵略戦争と見るのが左翼で正義の戦争と見るのが右翼となっています」
と答えたら、
 渡辺はすかさず、
 「そりゃ、あの戦争は侵略戦争に決まってますよ。だって、日本の軍隊が、中国や東南アジアというほかの国に攻めこんだわけでしょう。ほかの国の縄張りを荒らしたら、侵略になるのは決まってますわな」
と言った。
 それで遠藤が、そうしたら渡辺さんも左翼だということになりますよ、と続けると渡辺は
 「それが左翼だというなら、私も左翼ですなあ」
 と応じたとか。


 告白男性がネトウヨに絡めとられていった切っ掛けは、まさに太平洋戦争を「正義の戦争」とする論を正論と信じたことにあった。

 では、告白男性が脱ネトウヨに方向転換した切っ掛けは何だったのだろうか。告白の続きを読んでみよう。

 

  大学に進んでも、相変わらず家では孤立し、大学でも人間関係がうまくいかない。それがネトウヨ信仰を助長させた。
 現実社会で付き合いはなくても、ネトウヨのブログやサイトを見ると、一人じゃないと思えた。

  2012年末、衆院選で再び自民党が与党になり、安倍晋三氏が首相に返り咲く。私は大喜びした。

  だが、ほどなく自民党や首相に違和感を持った。きっかけは、環太平洋連携協定(TPP)。
  自民党は衆院選などで反対を公約にしていたはず。ところが、一転して交渉参加に翻った。
  私はTPPに参加したら日本の経済は落ちぶれると考えていたので、裏切られた気がした。
  消費税の増税、イスラエルとの関係強化、まやかしのアべノミクス、カジノ解禁……。
  私は政策に失望し、徐々に疑うようになった。
  さらに首相や自民党の実態を知り、その傲慢さに全くあきれ果ててしまった。

  時を同じくして、彼らを熱狂的に支持するネトウヨも疑うようになった。ネトウヨが流す情報もデマがあると分かり、ばかばかしくなった。
  自分に対しても、いい年して何やっているのかと思うようになり、ネトウヨをやめたくなった。
ただ、完全に抜け出すには三年近くかかった。


 自民党政権が方針転換した時、告白男性は、それ以前のようになぜ同じ方向になびかなかったのか。次のように自己分析をしている

 

  勉強し、成長するにつれ、自分の考えや政治観を持つようになり、次のように考えるようになった。

 声高で強い主義主張は、心の隙間に入り込む。先鋭化し、意見の異なる人を排除しがちになる。
 しかし、政治は人生のすべてじゃない。相手の人間性を政治思想で判断して差別してはいけない。それらのことは、自分の貴重な時間も未来も奪う。
 自身も今は違う意見にも耳を傾け、いいと思ったものを少しだけ受け入れて尊重し、一方に傾きすぎないよう心掛けている。

 自身の経験から、ネトウヨから抜け出すには、しっかりとした自分を持ち、極論を安易に受け入れずに考える姿勢が欠かせない。疑いを持つきっかけも必要あり、まずは政治そのものから離れるのが一番よい。
 ネトウヨのような国粋主義的な考え方は、かつて日本を戦争に導いた。ゆがんだ政治観で無駄にしてしまう人生を思ってほしい。


 『こちら特報部』の記事のうち告白男性の告白部分記事は以上で終わりました。この後『こちら特報部』の記者による次のような論考が続きます。これも転載しておきましょう。


 そもそもネトウヨとは、どういう人を指すのか。 経験者たちの声を集めるブログ「ネトウヨ大百科」の管理人によると、 一般的には「ネット上で右翼的な発言をする人」と認識されてきたが、近年は嫌韓中思想が激しい人から熱烈な安倍政権支持者、野党議員らを罵倒するタイプまで多様化しているという。
十~四十代の男性が多いとみられるが、誰でも染まる可能性があると指摘する。
 「初めは日本を美化する記事を見つけて気分が良くなる。徐々に反日発言を見つけて反撃する。そしていつも脳内の敵をたたく材料を探すようになる」

 ネトウヨを増やす最大の要因は「承認欲求」らしい。交流サイトで右翼的な発言をすると「いいね」が付きやすく、「自己肯定感が低い彼らは承認欲求が満たされる中で『ヘイトスピーチがいけない』という感覚がまひしていく」(同管理人)。

 しかし最近、ネトウヨは逆風にさらされている。 
 まとめサイト「保守速報」は昨年11月、人種差別や女性差別に当たる記事があったとして、在日コリアンの女性に二百万円を支払うよう大阪地裁に賠償を命じられた。大阪高裁の二審判決もこれを支持し、サイト上の企業広告は次々に掲載中止になった。
 ツイッターは昨年末に利用ルールを厳格化し、ユーザー名やプロフィル欄まで差別的表現の規制対象に。
 ユーザーがコメントを投稿できるヤフーのニュース欄は今年6月、「不適切な内容を複数投稿したアカウントは以後の投稿ができなくなることがある」と明示した。
 動画サイトのユーチューブも無縁ではない。今月7日付の産経新聞は「中国や韓国に批判的な保守系動画投稿者の利用停止が5月以降に相次ぐ」と事実関係を報じ、停止された当事者のコメントとして「これは言論テロ」などを紹介した。

 監視の目が厳しくなったとはいえ、ネトウヨなどによるヘイト言説は後を絶たない。どう対処すべきか。
 佐々木亮弁護士は、朝鮮学校への補助金交付を求める声明に関わったとして、所属する東京弁護士会に約三千件の懲戒請求が出された。背景には、ネットでの請求呼び掛けがあったとみられ、請求者に対し、損害賠償請求訴訟を準備する。佐々木弁護士は
 「声明には関わっておらず、身に覚えはなかった。匿名を盾に勢いづく中、きちんとくさびを打つ必要があると思った。名誉毀損などの責任を負うことを明らかにする」
と語る。

 一方、自社コラムで「学生時代にネット右翼だった」と明かした琉球新報の塚崎昇平記者(27)は脱ネトウヨのきっかけを
「私は当時、米軍基地建設に反対して座り込む現場に行き、自分の意見をぶつける中で沖縄戦の体験が受け継がれていると教えられ、考えが変わり始めました」
と語る。
 そのうえで、「現場と対話」の重要性を説き、こうアドバイスする。
 「言葉だけで判断して、相手に『ネトウヨ』とレッテルを貼ると、むしろ対話を遠ざけるかもしれません」


 最後に「デスクメモ」が「ネトウヨ」問題について次のようにまとめている。
《他人を傷つけるネトウヨの発言は決して許せない。だが、政治に関心が高いため、この男性のようにまともな政治意識に目覚める人もいる。そう考えれば、政治に無関心な大多数よりはマシかもしれない。米公民権運動の指導者キング牧師の言葉通り、最大の悲劇は「善人の沈黙」だ。(典) 2018・8・29》
恥を忍んで、自作品の公開

<論説編(4)>

 今回の二編の論説は『磯枕 第九号』に投稿したものです。その論説の表題は「言葉の死」と「夜間中学」です。それぞれの執筆時は1973年(35才)の10月・12月と記録されています。

  ではまず「言葉の死」を転載します。


言葉の死

 言葉が剽窃される。いやというほどこき使われる。手垢にまみ れ、すり切れる。やがて死ぬ。
 <愛>という言葉は歌謡曲や週刊紙にもてあそばれてすでに死 語に類する。<自由>。これは瀕死の状態。極右から極左にいたる あらゆる政治党派がこの言葉をいじめている。

 <愛>と<自由>が死語であることを強いられているいじめられ 方の一例。
 先の都議選の折、日本武道館で「自由社会を守る一万人大集会」 という茶番劇が行なわれたそうな。第一部「自由への序曲」。第二 部「自由日本への雄叫び」。テーマソングが「自由の旗のもとに」。 その歌詞の一節「愛ゆえの戦いの覚悟を示せ」だって。さらにシャ シャリ出ました実行委員長山岡荘八が「自由社会か、独裁か。じっ くり考えてわれらの歩む道を見極めてほしい」と言ったとか。相当 のハレンチカンだな、このお人は。加勢を受けている政治党派でさ え赤面するだろうなと思ったら、どうしてどうして。これを受けて田中角栄
「国家の利益を基調として個人の自由を束縛するか、それとも個人の自由を基調に国家・社会の利益をはかっていくか。これ が社会主義と自由主義の違いだ。」
  もうこれは噴飯ものである。真面目につきあっちゃいられない。
 -方共産党も敗けてはいない。同じ頃「自由を守る共産党」というパンフを各家庭に配ったとか。
まさか田中角栄の<自由>を守るというわけではないでしょうから、一体どんな<自由>を守るので しょぅか。
 きっと共産党の諸氏には守るべき自由があってそれを満喫しているのでしょうね。守るべき自由などまったく持たない人が たくさんいるんだがなあ。

 共産党が守ると言えば、ひらがな書きの「いのち」と「くらし」。
 これ、テレビコマーシャルでもいろんな大企業がこき使っているな。おかげさんで、ぼくは「いのち」と「くらし」が嫌いになった。
 <国民>という言葉もさかんに剽窃される可哀そうなやつ。国民不在の文脈でもっとも多く使われるというパラドックスを強いられている。
  クイズを一つ。次の文中の( )の中に適当を語を入れよ。
  「もとより教育問題は国民一人一人の問題である。しかし、最近の( )を見ると、教育界は国民不在のまま憂慮すべき方向に向いつつあるようだ。」

  「自民党政府の教育政策」とか「文部省」とかを入れた人は残念でした。正解は「教科書裁判、日教組の動向」でした。
 ちなみにこの引用文は「浪蔓」という憂国の士たちが初めた雑誌の新聞広告から。

 少しワルノリしすぎた。真面目になろう。
<差別><選別>という言葉を最近よく目にする。特に教育開係の本には必ずといってよいほど使われている。ぼくもよく使う。 殺さぬようにしなければならない。
 差別・選別を基調としている社会で、その構造を支えさらに強固なものとする役を担っているのは、以外にも各階層における被差別者である。まず自らを解き放つべき者が何によって自らを縛る役を担い通すのか。スケープ・ゴーツを作ることによつてである。
 この国でスケープ・ゴーツとは何か。ほとんど絶滅に追いこまれているアイヌ人たち、ヤマトンチューに収奪され続けている沖縄人たち、強制的に連行され日本に住むことを余儀なくされた朝鮮人たち、不当な差別に今なお苦しめられている被差別部落の人々、水俣病を初めとする高度成長の犠牲者たち、山谷・釜ケ崎などの最下層の労働者たち……。

 ぼくらがよって立つ原点というものがありえるとすれば、それをこれらの人々と共有できる限りにおいてである。これらの人々を欠 落したところで<差別>という言葉を発するとき、その言葉は死ぬ。このとき言葉を剽窃しているのは他ならぬぼくら自身である。ぼくらは小さな特権者としてふるまっている。これらの人々の生存の重さを自らの内部に不断に繰り込み続けながら、自らの生存の根拠を掘り続けることによってのみ言葉は蘇生する。政治党派のご託宣や御用学者の衒学的言説はいらない。あらゆる権威から言葉を奪還せよ。

  ずいぶんと気負ったことを言ってしまったが、ことは簡単ではない。
 「患者の言葉を聞く耳が私たちにはない。どうしたらいま鼓膜をおおっているなにかをひっぱげるのか。」
  「苦海浄土」の著者石牟礼道子さんをしてかく言わしめる「なにか」とは何か。
  死んだ言葉が人をうつはずがない。ぼくの拙い言葉が誰にも屈かないとすれば、それは拙いからではなく死んでいるからであろう。何よりもその言葉の死はぼくの耳の「鼓膜をおおっているなにか」の為せる結果である。この負い目は自ら進んで担うほかない。


夜間中学

一、平均的教師

     環境が人間によって変更されなければならず、
   教育者みずからが教育されなければならない。
               ――マルクス「ドイツ・イデオロギー」

  教育という仕事に対する深い理解もなく、学校教育がはらんでいるラジカルな問題に対してもまったく無知のまま、抱負らしい抱負を持たずに教師になったという点で、ぼくはデモシカ教師として出発した。しかし、教えられる者から教える者へと立場を入れかえたとき、初めて見えてきた教育現場の内実はデモシカ教師をも徹底的に滅入らせた。

 落第や単位不認定の問題に対する教師たちの冷酷な言動、生活指導という名の生徒処分、いつも悪くてバカなのは生徒で教師のくだらなさは自覚されようもない。一人の生徒の一生にかかわるような問題を何の痛みもともなわず「よろしくご指導」してしまう。知識の仲介者にすぎぬくせにいい気なものだと思った。すでに自己変革のエネルギーを失なって微温な日常に埋没し居直っている教師たちより、悩み苦しみ苛立ちもがいて、なお生きるすべを得られない「間題児」たちの方が人間として数等上であると思った。

 教師になって間もなく、日本数学教育会の研究大会の下働きにかり出されたが、そこで見聞した研究発表に対しても、教科書を焼き直しているだけで研究だなんて大げさな、という感想を持った。あんなつまらぬ研究をしなくとも教師はつとまるとうそぶいた。どうつくろっても教育はマイナーな仕事であると思えた。

 ところが、最近民間の教育研究団体には研究の名に値するすばらしい実践がたくさんあることを知った。今はそれらに多くを学んでいる。ぼくは数学の勉強を続けて、いずれささやかでも何かオリジナルを研究をすることを一生の仕事にしたいと考えた。

 また,儀式の折に「君が代」や「日の丸」に心から敬虔の意を表している教師たちの滑稽さもさることながら、日頃の言動とは裏腹 に何の抵抗感もなくそうした場に立ち会い、しかも生徒にそれを強要すらするような教師たちの思想的無節操の方に一層の憤りを覚えた。内部をくぐらせることによって苦闘して得た思想の片鱗すらなく、知識の量が多少多いだけでえらそうな顔をして生徒に対しているのが気にくわなかった。
 ではかく言うぼくはどうだったのか。軽蔑していた先輩教師たちと何ほどの違いもなかった。無知故の思い上がりは必ずシッぺガエシを受ける。誰に打たれるのか。むろん生徒にである。感覚的・心情的にしか間題に関わり合えぬかぎり、現状をただ補完するだけである。例えば「問題児」に心情的に組しても彼等にとってぼくは「同じ穴のムジナ」でしかない。

 最初の赴任校の校長に、酒の席で唐突にポツンと言われたことがある。
 「君、学問と教育とは違うものだよ。」
 校長が何を意図して言ったのかは知らないが、この何の変哲もない言葉が妙に耳にこびりついていて今だにはっきりとおぼえているのは、その頃ようやくぼくの内部で教育に対する認識がゆらぎ初めていたためだろう。

 見え初めた諸問題はいまだ断片にすぎず、対象化、論理化できるほどには見えてない。ぼくは苛立ち、さまざまのイエスとノ一を相手かまわずぶっつけた。
 大きなノーがぼくの中で反響する。ぼくはうちのめされる。苛立ちは自らへの告発となって凝縮した。
 「一体おれは何をしてきたのか。否、何をしてこなかったのか。」
 何をしたかより、何をしなかったか、という詰問がぼくをまいらせた。卒業生や生徒の顔が、とりわけいわゆる「問題児」の顔が文字どうり寝ても醒めても脳裏に浮かんで病的に苦しんだ時期があった。あの校長の言葉がさまざまに変奏した。
 「君、君の授業は教育とは違うよ。」
 「君、君のクラス運営は教育とは違うよ。」
 「君、君の生活指導は教育とは違うよ。」
 「君、君の進路指導は教育とは違うよ。」
 「君、君のクラブ指導は教育とは違うよ。」
 「君、君のやっていることはすべて教育とは違うよ。」

  一体ぼくは何のために教師を続けているのか、何故続けられるのか。「生徒のため」?… ウソつけ。
  「君、君のやっていることは教育ではなく飼育だ!」

  ぼくは何故このような長々とした私的繰り言から初めなければならなかったのか。
  「教育の荒廃」ということが言われて久しいが、ぼくは何よりもまず、教師の「荒廃」を、ぼく自身の「荒廃」を見定めたかった。
  恐らくぼくは最も平均的な教師の一人であろう。この「平均」の中に「荒廃」の根が胚胎している。
  今ぼくが行なっている日々の営みは十年前とさしたる違いがなく、教育現場の内実はますます悪化している。前述の自己告発は今なおぼく自身への告発である。
   「おれは一体何をしていないのか。」
  変わろうにも変われない状況を列挙して居直ることも、しようと思えばできる。しかしぼくにはそうした図太い神経がない。たてまえと優等生の論理が圧倒的な力を得て進行する職員会議で、失語状態になり苦いものを呑みこむしかない自らの卑小さを思う。ぼくは自らを告発し続けることによるほか、教師を続けることに堪えられない。絶えざる自己否定を通して徐々にでも望ましい営みを模索しつづけなければならない。

  だが「望ましい」とは何か。それが感覚的心情的なものである限り、ぼくは相変わらず「同じ穴のムジナ」だろう。自己告発を倫理的な問題として済ますわけにはいかない。「教育の荒廃」の根源を摘出しておく必要がある。常にその根源に意識的に関わり続けなければ、「望ましい」営みなどあり得ない。「何をしていないか。」という詰問に対峙する第一歩である。


二、なぜ夜間中学か

         時はなにがしかの魔力で人間からその思想を
         ひきはがし固定する。その時はじめて人は
         一瞬の己が影に責任をもたねばならなくなる。
         誰に向って?
                       谷川 雁「原点が存在する」

  『特殊学級に、息子をむかえに行く。息子たちに、一般の子供たちとの交流カリキュラムはないが、
  それでも、息子たちと同じ小学校の児童たちはかれらに優しい。通学途中の私鉄経営の学園に通う
  幼いエりートたちのみが、バスでいやがらせをすることがあった。ウツルゾ、と騒ぐ。
    障害によって足弱な子供に、なお足ばらいをかけたりもした。』 (大江健三郎「日記から」)

 この障害のある子供への幼いエリートたちの仕打ちは、子供の単なる悪ふざけではないし、特殊な事例でもない。ぼくは、社会全体を律するほどにあまねくはびこっている「教育の荒廃」の原型を見せられたように思う。

 今日教育問題の要は高校であると言われている。高校への進学率が約97%(東京都)と、ほとんど全入である今日、幼権園以来 の選別、分断の積み重ねによって傷つき発達を疎外されつくした子供たちが選別、分断の完成の場として振り分けられてくるのが高校である。高校が、国立、私立有名校-公立有名校-それ以外の公立普通科校-私立普通科校-公立職業科校(専門科目によってさらに細分される)-その他の私立校、というようにはっきりと序列つけされていることは周知のことである。
 この選別、分断によって「荒廃」させられているのは「できない子」だけではない。あらゆるランクの生徒が「荒廃」にさらされている。

 「私は、高校生活を、こう送ろうと思う。まず受験の科目以外は、テストの時以外、絶対に勉強しない。クラブも、生徒会も参加しな い。H・Rの時は、絶対発言しない。指名されても『どうでもいい』という。………どうでもいいから、三年間を無事に送って、希望の 大学へ行けたらそれでいい。(都立目黒高校生)」 (白鳥元雄 「十代との対話」)

 この他者や集団への無関心・無責任・無気力は次のような恐ろしいエゴイズムと五十歩百歩である。

 「……ぼく個人のもつ教育の理想ですが、それは、ぼく以外の人間が、ぼくより劣った環境で、ぼくより能力が高くならないように 教育されること、つまりぼくだけが甘い汁を吸えることが理想です。(日比谷高校生)」 (村田栄一 「闇への越境」)

 これが「足弱な子供に、なお足ばらいをかける」幼ないエリートの成長した姿である。こうした例は枚挙にいとまない。決して例外 ではないのだ。高校入試制度(小尾構想)に対する高校生の反応をまとめた記事で、「日比谷高校新聞」(1966年9月1日付)は 次のように結論しているという。

 「そこで提案する。普通科高校を減らせと。普通科が減ったぶんだけ、職業高校や専門高校をつくる。大学へ行っても意味のない人はそちらへまわすだけだ。」

 これがエリート高校生たちの平均的感性である。中教審答申が出されたのは1966年10月31日であるから、「日比谷高校新聞」はそれより2ヵ月も前に、「荒廃」の根をさらに強化する「後期中等教育の多様化プラン」を先取りしているわけである。やがてこのようなエりートたちが高級官吏、企業の首脳、政治の中枢をしめる。そして今の自民党政府、財界と同様に彼等も自分自身の「荒廃」を認める能力を持たないだろう。国家権力の保身のための「期待される人間像」のような徳目主義的、前近化的な道徳の注入がその教育対策となろう。相変らず人民を支配ないしは管理・操作の対象としてしか見られない。
 先に引用した文章の続きで、大江健三郎氏も指摘している。

 「かれらには、身ぢかて特殊児童たちを理解する機会がない。かれらには特殊児童への思いやり、すなわち弱い他人の立場になってものを考える想像力が育つことはむづかしい。受験競争をこえてかれらが入って行く社会が、またおよそそのような想像力に欠けた者たちのリードする社会である。」

 教育が社会機能の一つである以上当然のことであるが、教育はその時代の社会体制、祉会構造のくびきから自由ではあり得ない。教育の問題とまともに向き合うとき、ぼくらは政治や社会体制の問題からも目をそらすわけにはいかなくなる。
 現在のこの国の教育体制はその社会体制と見事なほどパラレルである。粗雑にすぎることを承知でその構造を図式化すると、下の図のようになる。
社会体制
  円柱は時代の状況が強いる本質的問題で、それは最下層から最上層までまっすぐ縦に貫いている。切り抜かれた円錐体は各層における特権性であり、上層にいくほどその特権性によって本質的問題が相殺され、間題の本質(各断面の斜線部分)は隠されている。例えば、最近「自由」とか「福祉」とかが自民党のキャンぺーンになっているが、「自由」 とか「福祉」とかは円錐部分であり、それは底辺にはとどかない。教師たちはBあたりであろうか。教師たちの多くは「自由」のおこぼれにあずかって、現状に埋没する。
  逆に「石油危機」のようなものは円柱であり、もろにいためつけられるのは最下層である。上の方はいたくもかゆくもない。儲ける奴は普段より以上に儲けている。「石油危機」が作られた「危機」と言われるゆえんである。

 現体制を擁護しながらの「自由」とか「福祉」とかはまやかしである。
 時代の情況が強いる本質的問題を、もっとも広い意味で「疎外」と言いかえてみる。先の図は「疎外」と「特権性」との相関関係を 示すことになる。



 「疎外は、私の生活手段が他人のものであるということにも、
 私の欲求するものが私の手に入らない他人の占有物であるということにも、
 またあらゆる事物そのものがそれ自体とは別のものであるということにも、
 また私の活動が他人のものであるということにも、
 最後に――そしてこれは資本家にもあてはまることだが――
  一般に非人間的な力が支配しているということにも現れる。」
                     (マルクス「経済学・哲学草稿」)


  上の引用文で「生活手段」を「教育手段」と、「資本家」を「教師」あるいは「エリート」といいかえて読むと、教育問題についてもすべてが言いつくされていると思える。

 先の図においてAが国立・有名私立高校あるいは東大である。問題の本質が最も鮮明に見えるあらゆる疎外の集中する極・C。それをぼくは原点と呼ぶ。現教育体制で原点Cは夜間中学であろう。自らの立つ場を掘り下げれば問題の所在にいきあたるはずであるが、夜間中学の実態を見ることによって問題の本質をより鮮明にしてみたい。

三、夜間中学

        特権性を拒むかどうかは、個人にとってはたかだか
        自己倫理の問題にすぎないが、特権性にたいして自覚的
        であるか否かは、感性的な変革の政治的課題でありえる。
                                   (吉本隆明 「情況」)

 恥ずかしいことだが、ぼくが夜間中学の存在を知ったのは教師になって8年目わずか4年前のことである。たいへんな衝激だった。

 夜間中学の存在が衝激とは、思えばうかつな話しである。ぼくは30近くになるまで、政治・経済・社会の問題についてほとんど無関心であった。自然成長的に身につけた程度の認識しか持っていなかった。
 敗戦後20年ほどのぼくの家庭はたいへん貧乏でぼくはあの頃のぼくの家庭ほど貧しい家庭はないと思っていた。そんな中でかなり恵まれた教育階梯をはせのぼってきたのは、兄や姉たちのおかげであるが、それ以上の内省はなく、しごく当り前のことのように見過してきた。だから、どんな家庭の子でも義務教育は必らず受けているはずだと思っていた。その義務教育を受けられない子がいるという事実がまず衝激的だった。さらにそうした子に普通の子と同じように義務教育を受けられる充分な手だてをせずに、 夜間中学を思いつく教育行政の無体さを改めて知って、今さらながら怒りを覚えた。

  「義務教育」というときの「義務」とは子どもが負うべきものではなく、子どもにはただ教育を受ける「権利」があるばかりだ。子 どもの側からは「権利教育」というのが正しい。
 小学校を終えたばかりの子どもが暖い団欒を望み得べくもない環境のもとで、苛酷な労働に従事しながら夜間中学に通っている。経済大国という虚像の裏側で最小限の権利さえ蹂躙されている人がたくさんいる。
 今ぼくが勤めている高校には地域の中学校卒業生のほとんど全員が入学している。中には漢字の読み書きが小学校二、三年程度だったり、くり上り、くり下りのある加減のできないような生徒もいる。
 夜間中学の存在は四年前に朝日新聞にのった中岡哲郎氏の文章によって初めて知ったのだが、今それを読み返してみると、一層のリアリティがあり多くの刺激と示唆を受ける。

 中岡氏はまずある夜間中学の国語の教師の実践を紹介している。
 漢字は勿論、ひらがなもろくに読めない生徒に一時間に五つという目標をきめて新しい漢字を教える。時間の終りに生徒に漢字カードを作らせる。生徒は職場で作業の合間や昼休みにそれをくりながら次の時間までにその五つの漢字を頭にたたきこもうとする。一年間で五百以上、二年かければ当用漢字は全部覚えられるはずだと、その教師は言う。

 「途方もなく気の長いその作業をとおして、彼はしかし、生徒の中に少しずつ確実に自信を育てていった。彼のクラスのダイナミズムの中に組みこんでいった。」と中岡氏は報告している。

 ぼくが現在の高佼に転勤して二年になる。この二年間、小中学をほとんど空白として過ごしたと言っても過言ではないような生徒と初めてぶつかって、ただ暗中模索するばかりであった。ぼくは彼等の中にどれほどの自信を育て得ただろうか。クラスのダイナミ ズムの中に組むことができただろうか。赤面するばかりである。日々ただ徒労感ばかりが残る。
 「このような根気よい努力をとおして、一体何ほどのことが教えられるか。何ほども教えられはしをい。」

 だがあの国語の教師は言う。
  「彼等が生きてゆくために最小限ぎりぎり必要ことが教えられれば成功であり満足だ。」と。
 この言葉は重い。ぼくは目からウロコが落ちる思いがした。過去十年間、ぼくは高校教師として
 「よりよい生活のための最大限」を求め、あるいは求められる教育の場しか知らなかった。そこで身につけた学校に対する認識がなかなか払拭しきれなかった。
 「僕たちのまわりですべての親と教師たちが熱中している『よりよい生活のための最大限』とでも言うべき教育の全体系を、その彼の言葉が告発している。」

  続けて中岡氏は、
  「よりよい生活のための最大限」の追求の下に足げにされてうめいているのは「人間として最小限」である、という。
  足げにされ続けてきた「人間として最小限」はぼくの高校でさらに足げにされる。大多数の教師や親や生徒はことあるごとに言う。
  「できない者のためできる者が犠牲になる、できない者自身が苦しむだけで本人にとってもマイナスである」と。こうした優等生論理が臆面もなくまかり通る中で、「低学力」の生徒たちは「学業不振」それ故の「度重なる問題行動」を理由に退学させられていく。
  こうした状況を打破できない自分の実践や力量の弱さに滅入ってしまう。教育とは何か、と改めて自らに問う。指導要領をなぞる教育観からは決して見えてこない視座がある。中岡氏は先の夜間中学生の履歴を紹介し言う。
  「『生きてゆくための最小限』の教育は何よりもまず子どもの背後にあるものとの格闘である。」
  「読めない漢字をとおして、教師はそのすべて(子どもの全生活史)と向き合うのだ。そのすべてとたたかうことが、彼にとって教育である。」
  この視座に立てば、文部省が決めた「学力」を基準に「できる子」「できない子」と振り分ける教育の犯罪性は明らかだ。だがこの視座はおそらく通りが悪い。この視座を肯んじない主要な論理を二つ考えることができる。

  一つは自称進歩派教師たちの考えである。
   勤評闘争の敗退期に論争された問題で、教師は「教室で勝負」すればよいとする。子どもたちの内部に好ましい資質・傾向をつくりあげれば、やがてその子どもたちが政治や経済にはたらきかけ社会の進歩に寄与すると言う。つまり教育をまっとうすることによって政治を超えるというわけである。
   この論理を俗に「二十坪の論理」という。なんというオポチュニズム!足げにされている「最小限」への目くばりがすっぽり落ちている。

  これに対して中岡氏は「二十坪」の外を切り離してはまともな教育はあり得ないと主張している。勿論ぼくは中岡氏に共鳴する。「二十坪」の外との対決を孕んだ緊張関係を欠落さすとき、教育は政治を切り離した一つのイデオロギーとしての機能を現実的に果すほかない。現状を補完するだけである。

  二つは現体制に埋没している教師たちの論理である。「最大限」の教育が「最小限」を足げにすることによって成り立っているということそのものを肯んじない。この国ではすべての国民がその能力と勤勉さに応じて、より豊かで文化的な生活を保障されており、貧困であったり文化の享受と無縁なのは当人の資質的欠陥や怠惰な生活態度の当然の結果であるという。この論理はこの国が民主的な自由国家であるということを先験的に前提とすることで成り立っている。
  はたしてそうであろうか。現在のこの国の体制は貧困が貧困を生み、無教育がさらに無教育を強いられる仕組になっている。  「低学力」の生徒たちの全生活史がそのことを雄弁に物語っている。

  1961年の日教組教研大会で20才の夜間中学生古江美江子さんが行なった鋭く正当な告発がある。
 「生活に追われ、四才頃から子守り、コンブ拾い、農家、パチンコ屋、飯場の飯炊き、バーのホステスなど手取り早く金になり、学歴を必要としない仕事だから学について考えた事がなかった。学とはなんだろう? ――空、山、川など簡単な字以外は新開も読めないし、九九もわからない。足し算引き算の計算は、指や足でやればできるが、34+12=式になると、前からやるのか後からやるのか全然見当がつかなかった。
 時計の見方や電話の掛け方など日常生活に必要な知識がなんにもわからず毎日苦しんだ。こんな私でも九年間の義務教育を受けたことになっているのです。」

 古部さんは夜間中学ではなく普通の中学校を卒業したことになっている。  「臭い、バカ、貧乏たかれ――などとののしられながら、学校に行きたくとも行けず、夢中に働き必死に生きてきた。今ようやく――勉強したい――と思ったら法律が目の前に立ちふさがり私の道をじゃまする。」
 古部さんは義務教育を終えたことになっていたので夜間中学への人学の資格がなかった。古部さんは一人でがんばって、とうとう夜間中学入学を果す。
 今、夜間中学は古部さんのような人たちが勉強をするための大事な場となって、新たな存在意義を持っている。この夜間中学を教育行政は、今度は、夜間中学誕生当初の存在理由はなくなったとしてつぶしにかかっているという。

  「学とはなんだろう?」という古部さんの問いかけは無視できない。ぼくの問題で言えば「高校とは何だろう?」「高校の水準」を 守るという観点に一体どれほどの正当性と意味があるのだろうか。
 ぼくの高校の「古部さん」を切り捨てることによって維持する「高校の水準」とは何だろう。

  古部さんは全員が何らかの疾病に苦しみながらもがくように生きている家族を紹介し、次のように続ける。
 「私自身も小さい頃の肺炎がもとで両耳があまり聞こえない。――我が家には健康で満足なのは一人もいない!もし、お金があったら、病院に行っていたら、学校に行っていたらこんなことにならなかったのだ!私や私の家族をこんなめにしたヤツを殺してやりたい!私たちが何をしたと言うのだ。われわれ形式卒業者を作ったヤツは責任をとれ!(中略)そして、私のようなかけ算の九九も時計の見方もわからないような形式卒業者をこれ以上一人もつくらないでほしい!そのために私や私の家族が食うものも食わないで働いた税をつかうべきだ!」

  古部さんがこう告発してから十年以上たった。今なお形式卒業者はあとをたたない。そして、教科書=文部省の手本を金科玉条のごとく忠実になぞることで、自らが「できない生徒」を作っていることに思い及ばない教師にかぎって、「きびしく落第させろ!」と 臆面もない。
  古部さんに、ぼくら高校教師もうたれている。いや現教育体制総体がうたれている。
恥を忍んで、自作品の公開

<>論説編(3)

「大人になる」ということ

詩を読みながら、「大人になる」って、どういう事なのかを考えた。
(引用の詩は、茨木のり子さんの詩集『鎮魂歌』所収の「汲む」からです。)

君はこれから間違いなく大人になっていくわけだけど、「大人になる」って、きみはどういうことだと思う?

     大人になるというのは
     すれっからしになることだと
     思い込んでいた少女のころ
     立居振舞の美しい
     発音の正確な
     素敵な女のひとと会いました

 「大人=すれっからし」という公式を、もし君が信じているとすれば、それは不幸なことだ。
 しかし、その思い込みは半分正しい。そして間違っている半分は、もちろん君の責任ではなく、反面教師の役しか果たせないすれっからしな大人のせいだ。でも君が、君の心の眼に広角レンズの機能を育てる営みをしなければ、君は、どこかにいるに違いない君にとっての「素敵なひと」に、ついに一生出会うことがないだろう。その責は君自身が負うべきものだ。

     そのひとは私の背のびを見すかしたように
     なにげない話に言いました
     初々しさが大切なの
     人に対しても世の中に対しても
     人を人とも思わなくなったとき
     堕落が始まるのね 落ちてゆくのを
     隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

  「初々しさ」は、少年少女の頃、誰もが等しく持っていた。成長するにつれて、それを奪っていくのは何なのか、誰なのか、ぼくはそれを言いあてることができるつもりだが、いまはそれをあげつらうのはよそう。ぼくらにとって大事なのは、「初々しさ」を自分でどう守り育てていくか、ということだ。
 いやいや、「ぼくら」などと、いい気な言いぐさだった。ぼくと君は一緒にできない。君には初々しさがまだいっぱい残っているが、ぼくはそのほとんどを失ってしまったらしいから。ぼくは君と、「人間関係」ではなく、「教師・生徒関係」という枠でばかり相対してきてしまったのではないかと恐れている。
 「人を人とも思わない」ということは、とりたてて冷酷なことを言い表しているわけではなく、そんな日常的な無自覚のことなのではないかと考える。君はぼくを反面教師としてしか認めなくとも、ぼくには、その点ではとりたてて異論はない。

     私はどきんとして
     そして深く悟りました
     大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
     ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
     失語症 なめらかでないしぐさ
     子供の悪態にさえ傷ついてしまう
     頼りない生牡蠣のような感受性
     それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

 ものごころのつく頃から、男らしさ、大人らしさ、教師らしさ……さまざまな「らしさ」にとらわれて、ぼくは自分をずいぶん「鍛え」てしまった。
 ぼくは、口惜しくてならなかった中学生の頃のぼくのあだな「タコ」(すぐに赤面した)を、愛惜の念をもって思いだす。どうか君は、君の「生牡蠣のような感受性」を変に「鍛え」ないでほしい。
  「らしさ」といえば、君はこの三年間「高校生らしさ」にずいぶん呪縛されていたはずだ。「らしさ」というような曖昧な社会通念からする発想は、たとえ肯定的であろうと否定的であろうと、自分自身をだめにする。「らしさ」という呪縛の中では、模範生も問題生も同じ鏡の裏表だ。(もっとも「高校生らしさ」の呪縛の一端を握っている教師も教師だけどね。)

     年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
     外にむかってひらかれるのこそ難しい

    この「難しい」ものには、第一級の価値があるとぼくは思う。多くの人は、老いるほどにかたく閉じていく。その度合いは、女らしさ・男らしさ・大人らしさ・日本人らしさ……などなどの社会通念にのめり込んでいる度合と正確に比例しているのだ。

 ぼくらには、社会通念などにつきあう必要はこれっぽちもない。常に自分の生活現実を掘り下げ、そこから自分自身を自立させていけばよい。その課題を、君が意識的に担っていくことをぼくは期待する。ぼくもそうするだろう。
 逆説的だが、それは「柔らかく外にむかってひらかれる」ための必須の条件だとぼくは思う。

     あらゆる仕事
     すべてのいい仕事の核には
     震える弱いアンテナが隠されている きっと……

 ぼくは今までに一度も「いい仕事」をしたためしがないが、それでもかろうじて「震える弱いアンテナ」は保持しているつもりだ。そのアンテナを「大人らしく」なく「男らしく」ないものと恥じた頃もあったが、今はそのアンテナだけは大事にして、なんとか鈍くなってしまった感度を増幅していきたいと思っている。……

     わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
     たちかえり
     今もときどきその意味を
     ひっそりと汲むことがあるんです

 ……いつかある日、飾りつくろったものではなく、内面からおのずと輝く美しさ・逞しさを獲得した「素敵な女のひと」あるいは「男のひと」になった時の君の「アンテナ」とひけめなく交感できるためにも。
恥を忍んで、自作品の公開

論説編(2)

 前回選んだ論説文「修羅賢治素描」の続きです。
 テーマは「賢治を理解するのに欠かせない要素三つをめぐって賢治を素描する」ことでした。
 前回はその「要素三つ」のうち二つを取り上げたのですが、では「第三の要素」は何なのでしょうか。
 今回のテーマはその「第三の要素」です。

修羅賢治素描(その2)

 さて、賢治の太い精神と強い意志にも拘らず、東北の自然は厳しく、賢治は何度も打ちのめされる。

   その真っ暗な巨きなものを
   おれはどうしても動かせない
   結局おれではだめなのかなあ

 敵意に満ちているのは自然ばかりではない。現実の賢治は、生涯独立の生計をもたず、親のスネをかじり通した素封家(そほうか)の息子であり、農民へのコンプレックスに悩むインテリである。
 農民になりきろうとしても、農民との同一化は、ついにできない。

   草地の黄金(キン)をすぎてくる
   ことなくひとのかたちのもの
   けらをまとひおれを見るその農夫
   ほんとうにおれが見えるのか

 1930年代の東北は、幾たびも大凶作に襲われ、娘を売って食いつなぐ農家も多かった。
 厳しい自然と、冷酷な社会状況に忍従し、理想もなく日常の悲惨にへばりつき生きなければならなかった農夫に、
 賢治の理想は見えるはずもない。

   まばゆい気圏の海のそこに
      (かなしみは青々ふかく)
   ZYPRESSEN しづかにゆすれ
   鳥はまた青空を截(き)る
      (まことのことばはここになく)
      (修羅のなみだはつちにふる)
          〈注:ZYPRESSEN(ドイツ語、糸杉)〉


 修羅賢治を痛めつけるものが、さらにあった。
 第三の要素、「妹トシの死」である。

 トシは賢治より二才年下の妹で、聡明な女性で、賢治の最もよき理解者であったという。  賢治もこの妹をこよなく愛していた。トシが東京で勉学中に病気でもすれば、すぐに飛んでいったし、旅先からでもかけつけている。

 賢治の童話に登場する何組かの幼い兄弟姉妹たちを、ぼくはどれも好きになってしまうが、ぼくはそのとき、否応なく、賢治・トシの兄妹愛に想いをはせてしまう。

 賢治にとって掛け替えのない妹トシは、1921年に23才の若さで夭逝した。このトシの死に賢治は打ちのめされる。
 トシの死が、以後の賢治の心を大きく支配し続けたことは想像に難くない。
 トシの死の打撃を背負い、救い求めるかのように、賢治は、1923年、樺太へ旅行する。
 トシの死から樺太旅行にかけて、「永訣の朝」「松の針」をはじめ、「無声慟哭」三部作、「青森挽歌」「オホーツク挽歌」など、トシの死をめぐって、一連の挽歌群を、嘔吐するように、賢治は書きまくった。
 その詩群の中で最も広く知られている絶唱「永訣の朝」を全文転載しよう。(思潮社の現代詩文庫『宮沢賢治詩集』を用いています。)



    永訣の朝

  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
  うすあかくいっさう陰惨な雲から
  みぞれはびちょびちょふってくる
      (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
  青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
  これらふたつのかけた陶椀に
  おまへがたべるあめゆきをとらうとして
  わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
  このくらいみぞれのなかに飛びだした
      (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
  蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
  みぞれはびちょびちょ沈んでくる
  ああとし子
  死ぬといふいまごろになって
  わたくしをいっしゃうあかるくするために
  こんなさっぱりした雪のひとわんを
  おまへはわたくしにたのんだのだ
  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
  わたくしもまつすぐにすすんでいくから
      (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
  はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
  おまへはわたくしにたのんだのだ
   銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
  そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
  …ふたきれのみかげせきざいに
  みぞれはさびしくたまってゐる
  わたくしはそのうへにあぶなくたち
  雪と水とのまつしろな二相系をたもち
  すきとほるつめたい雫にみちた
  このつややかな松のえだから
  わたくしのやさしいいもうとの
  さいごのたべものをもらつていかう
  わたしたちがいつしょにそだってきたあひだ
  みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
  もうけふおまへはわかれてしまふ
  (Ora Orade Shitori egumo)
  ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
  あぁあのとざされた病室の
  くらいびやうぶやかやのなかに
  やさしくあをじろく燃えてゐる
  わたくしのけなげないもうとよ
  この雪はどこをえらばうにも
  あんまりどこもまっしろなのだ
  あんなおそろしいみだれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
      (うまれでくるたて
       こんどはこたにわりやのごとばかりで
       くるしまなあよにうまれてくる)
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいまこころからいのる
  どうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変つて
  やがてはおまえとみんなとに
  聖い資糧をもたらすことを
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 (注)
  「兜率の天の食」という初めて接する言葉が出てきましたが、次のような意味を込めています。

 兜率天とは、「色・声・香・味・触」の五欲の楽しみが、完全に充足される天の世界のことである。
 つまり、「兜率の天の食」とは、食物としては,これ以上にはないという素晴らしいものを指しており、兜率天にあってのみ、味わえるものという意味です。


 夢と現実のはざまで、賢治が創り出した膨大な作品世界(童話百編、詩千数百編)の基底には、以上の三相が分かち難く渦巻いている。
 賢治は、天才と呼ばれるのに真にふさわしいことは勿論、人間としても類まれな魅力にあふれた人だった。
 賢治の詩を読むとき、激しく生きた賢治の、「春」と「修羅」の葛藤のめくるめく嵐に打たれて、ぼくは心を揺さぶられ、大きな感動を受ける。

 1933年9月21日、賢治喀血、そして死す。享年わずか38才。一生独身で通す。
恥を忍んで、自作品の公開

<>論説編(1)

 「磯枕第9号」に論説文が2編掲載されていました。論説文のようなものはまだあるはずだと思い、手元に残っている資料を調べましたら、論説文が2編見つかりました。
 この4編の論説文の初出は何時どこの文集に寄稿したものなのか、まったく記憶に残っていませんので、そのようなことの詮索はせず、『自作品の公開』に転載することにしました。いずれも二十代後半から三十代前半の頃に書いたものだと思います。内容から判断して古い順に転載していきますが、それぞれかなり書き換えることになりそうです。


修羅賢治素描(その1)

 ぼくらは修学旅行の終わりに、宮沢賢治の生地(花巻市)の郊外にある賢治の詩碑を訪ねることになっている。
 その詩碑に刻まれている詩句は、賢治の詩の中で最も広く知られている「雨ニモマケズ」の最後の17行である。念のため、「雨ニモマケズ」を全文転載しておこう(「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ」以降の行が「最後の17行」です)。

雨ニモマケズ                東ニ病気ノコドモアレバ
風ニモマケズ                行ッテ看病シテヤリ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ        西ニツカレタ母アレバ
丈夫ナカラダヲモチ             行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
慾ハナク                  南ニ死ニサウナ人アレバ
決シテ瞋ラズ                行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
イツモシヅカニワラッテヰル        北ニケンクヮヤソショウガアレバ
一日玄米四合ト               ツマラナイカラヤメロトイヒ
味噌ト少シノ野菜ヲタベ          ヒデリノトキハナミダヲナガシ 
アラユルコトヲ               サムサノナツハオロオロアルキ
ジブンヲカンジョウニ入レズ       ミンナニデクノボートヨバレ
ヨクミキキシワカリ             ホメラレモセズ
ソシテワスレズ               クニモサレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ            サウイフモノニ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ       ワタシハナリタイ
       

 この詩を高く評価する人もいるが、ぼくは「しみったれた愚痴」(稲垣足穂)とまでは言わないが、賢治が「ふと書きおとした過失」(中村稔)であるという見方にくみしたい。この詩の思想的内容や現実との関わり方の問題点はおくとしても、詩の発想や修辞の面からみて、この詩には賢治詩の真骨頂はない。賢治自身もこれを詩として書いたかどうか。病臥中に鉛筆で手帳に初号活字のような大きな字で、パラパラと書かれたものだという。発見されたのは賢治の没後で、むろん題はついていない。

 碑文にどうしてこの詩が選ばれたのか。ただ、最も広く知られ親しまれているから、というだけではないだろう。ぼくはそこに、伝説され聖化された賢治像をかいま見て、賢治のファンの一人として、かなしい思いがした。一部には「賢治菩薩」という呼び方まであるという。賢治が伝説化聖化されるのももっともと思える理由は、確かにある。が、だからといって伝説化聖化は正当化されない。賢治の伝説化聖化は、誰よりもまず、賢治自身がごめんこうむるだろう。

 では、賢治とは何ものだったのか。賢治を理解するのに欠かせない要素が三つあると思うが、その三相をめぐって賢治を素描してみよう。

 まず第一の要素は宗教がある。賢治は、すでに三才(1899年)のときに、家族の唱える真宗経典「正信偈」を暗誦していたという。後、18才のとき(1924年)「妙法蓮華経」を読み、激しく感動し、父母を改宗させようとして父と争論しているし、一時期街頭布教にもたずさわっている。また、死の直前、父に次のような遺言をしている。
「国譯妙法蓮華経全品一千部を出版下され、知己の方にお贈り下さい。……その後記に『私の全生涯の仕事は、此の経典をあなたのお手もとにおとどけして、その仏意に触れて、無上道に入られることを』という意味を記して下さい……」
 この遺言は賢治の死の翌年、家族の手によって生かされている。
 「雨ニモマケズ」は宗教人としての賢治の理想・徹底した無私と自己犠牲の精神のなまのままの吐露であるが、詩としてはしたり顔の説教臭さが強くていけない。しかしながら、例えば、「農民芸術概論」の中で賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という。この種のことばは、それを言う人によっては鼻持ちならぬものとなるが、賢治が言うとき、精彩を放つ。
 ただし、「賢治菩薩」の故ではなく、怒りや涙でクチャクチャの修羅として生きた賢治だからである。

 第二の要素は農民と共に生きようとした生き方にある。日照りや冷害と闘いながら泥まみれになって、賢治は歌う。

      唾し はぎしりゆききする
   おれはひとりの修羅なのだ
                   (「春と修羅」より)

 賢治は中学生(今の高校生)の頃から、植物や鉱石の採集に熱中しており、その後盛岡高等農林学校を卒業し、農学校の教師を務めながら、農業関係の研究を積んでいる。
 1926年(賢治30才)4月に教師を辞して、自炊生活をしながら、荒地で畑作を始めた。その年の8月、その地に「羅須地人協会」を設立し、肥料・稲作などで農村青年の指導に献身する。(賢治の詩碑が建っている場所は、この羅須地人協会の跡地である。)
 また後年、砕石工場の技師として、炭酸石灰の製法改良や加工にも従事している。
 賢治の作品には宗教語とともに化学・地質学などの学術用語がふんだんに取り入れられており、それが独特の効果を発揮しているが、むべなるかなである。(次回に続く。)