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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
恥を忍んで、自作品の公開

詩文編(3)

 最終詩集の第1部の最後の詩文は教え子への追悼文で54年ほど前に書いたものです。その生徒と深く関わった級友たちの名前が出てきますが、私にとっても懐かしい名前だしそれを迷惑に思う級友は皆無だと思います。当時の文をそのまま全文転載します。

「もう一つの死――U・Rに――」

 彼女は9月に九州の高校から転入学してきた。入学して間もなくのこと、学校になれたかいと声をかけると、にこにこ微笑みながらこっくりとうなづいた。素直な明るいほほえみといくぶん子供っぽいしぐさ。弟二人・妹一人をもつ長女であったが、家庭ではおそらく一番の甘えっ子だったのだろう。級友にもすぐ好かれるようになった。リキちゃんと呼ばれ、皆に親しまれた。

 彼女は9月の末頃から足の痛みを訴えていた。「発育のアンバランスから起こる青少年にはよくみられることでたいしたことはない、しばらく患部を湿布していれば直るだろう。」と医者は言っていた。
 彼女はいつも左足の脛に包帯をまいていた。しかし足の痛みは一向にとれず、むしろ悪くなっていくようであった。2学期の末頃には通院のため時折学校を休まなければならなかった。期末試験をすませてからはずうっと休んでいた。

 二学期の終業式の前日、彼女はお母さんと一緒に学校へやってきた。私が応接室に入って行った時、彼女はいかにも甘えっ子らしくお母さんにもたれかかるようによりそって坐っていた。私が二学期の成績をほめると、はずかしそうに体をくねらせていた。成績表を手渡すと、うれしそうに見入っていた。
 足の痛みはその後、レントゲン検査によって、そのつもりで見なければ見落してしまいそうなほど小さいものであったが脛骨に腫瘍が見いだされ、骨腫瘍のためのものであることが判明した。その治療のため2ケ月ほど学校を休まなくてはならないとのことだった。長く休むため2年に進級できなくなってしまうのではないかと彼女は心配していた。早くよくなって3学期の期末試験だけでも受けに来たいと言っていた。
 彼女は墨東病院に入院した。

 私はさっそく彼女のことをクラスに報告した。級友たちはみな彼女のためによくやってくれた。特に石田・宮本・村上・山崎・栗林 ・仁野・山口などが最後まで献身的につくしてくれた。彼らは見舞に行ってくる毎に、私に様子を伝えてくれた。

 2月の初め、お母さんが学校へ訪ねてこられた。私たちの知らぬうちに、彼女の宿命は思わぬ方向へと転回していた。その後の経過は思わしくなく、もはや左足を切断しなければならないことになってしまっていた。
 初めは簡単な手術ですむとのことで、実際に患部をけずる手術が行なわれたが治癒しなかった。そのうち詳しい検査によって悪質な腫瘍であることが分ってきたので、大事をとって病院を東大の整形外科に変えた。しかし東大の教授たちの間では彼女の病気に対する見解が一致せず、その治療の方法もなかなか決定しなかった。それでも股(もも)のつけ根を切り開いて、そこの大静脈から強力なクスリを流しこむことが行なわれた。これが直接の原因かどうかは分らないが、まもなく腫瘍が左足全体に拡がってしまった。こうなってはもぅ猶予はならない。左足を切断する外はなかった。しかし度々の手術で彼女は衰弱していた。食事も進まない。その彼女が足を切断する大手術に耐えられるだろうか。だが腫瘍をからだの他の部分へ拡げぬためには体力の回復を待つ余裕はなかった。

 私はやりばのない憤懣で一杯だった。医学のことは分らないが、早く適切な処置が取られればこんな大事にはいたらなかったのではないか。私の怒りはおそらく医学の限界をたてに良心の疾しさをこれっぽちも感じていないであろう医師たちに向う。現在の医学の限界として簡単にかたづけられないものを強く感じた。彼女は病院では実験動物にすぎなかったのだ。医師たちにそのつもりがなくとも私には彼女がそう扱われていたとしか思えない。結果は同じであったにせよ、せめて彼女を一個の病気としてではなく一人の人間として扱ってくれたらと思う。私が見舞ったとき、彼女は言っていた。 
<私はモルモットよ。>

 2月5日朝、宮本と石田が職員室へやってきた。今日手術が行なわれる、手術の前に会いたいから行かせてくれとのことだった。彼女らは泣きながら学校を出て行った。彼女の左足は股の下10糎ほどを残して切断された。

 その日私は授業をしながらも3日前に見舞った時の彼女を思い出ださずにいられなかった。身体は衰弱していたが、あいかわらず明るい様子だった。いや、不安と悲しみを秘めてつとめて明るくつくろっていたのだろう。無残にいためつけられた心に、それでもけなげな決心をしていた。
<私はこれからは、うんと勉強をして、それで立っていかなければならないんだわ。>
 私が何かほしいものがあったら言ってごらんと言うと、いたずらっぽく笑いながら答えた。
<欲しいものあるんだけど、変なものなので笑われちゃう。……犬のぬいぐるみがほしいの。>
 私と前後して見舞いに来た原田と小堺にたせた細った腕を見せておどけた調子で言った。
<スマートになっちゃった。うらやましいでしょ。>
 そうしたうちにも彼女は学校のことを心配していた。試験を受けなくとも2年に進級できるから心配しないようにと私は伝えた。彼女は松葉杖をついてでも学校へ通いたいと言った。また学校の話をさかんにに聞きたがっていた。クラスの男子のいたずらぶりを話すところころと笑っていた。

 誰かの発案でホ-ムルームの時間に全員で千羽鶴をを折った。彼女が欲しがっていた犬のぬいぐるみも級友たちのカンパによって買った。それらを持って大勢の級友が見舞いに行った。にぎやかな見舞いだった。後で彼女はこう言っていたそうだ。
 <こんなに楽しく笑ったのはほんとに久しぶりだわ。>
 お母さんも大変感謝されていた。
 私たちに出来ることといえば、これぐらいのことしかなかったのだ。彼女やお母さんの感謝がかえって私の胸を苦しく刺す。

 手術後の経過は思わしくなかった。切口のガーゼを取り換える度に、その痛さのため押さえているお母さんや看護婦をはねのけるほど泣きもがいていた彼女が、ある日から突然苦痛を示さなくなった。下半身が麻痺してしまったのだ。
 からだが衰弱しているままに無理をして行なった手術であったのに、その手術はすでに遅すぎたのだ。腫瘍の病源はすでに上半身に移っていた。胸に、そして致命的なことには脊髄にも腫瘍ができてしまった。このための麻痺であった。もはや手の施しようはない。彼女の希望もあって、病床は自宅へ移された。
 家へ戻ってからいくらか元気を取り戻したようであった。彼女は自分の病気の本当の状態を知らないままでいた。だんだん良くなってきていると聞かされていた。しかし腫瘍は彼女のからだをますます深く蝕んでいった。なんとなく気づいていたのであろうか、死ぬのはいやだ、死ぬのは怖いというようなことを特に親しくしていた級友には言っていたとのことだ。

 4月の初め、私が石田・宮本・山崎らと一緒に見舞ったときには彼女のほほえみにはあの子供っぽさが消えていた。長い間生死の境を生きてきた彼女はすっかり大人になってしまったのだろうか。またたいへん疲れている様子だった。それでも私たちとの話しを楽しんでいるようだった。2年の新しいクラスの話しをすると、せっかくいい先生のクラスに入ったのに学校へ行けないと残念がっていた。早く学校へ行きたいと心から言っていた。また2学年を休学しようかすまいかということまで心配していた。まもなく学校へ通えるようになるという希望をまだ持っていたのだ。
 私が帰り際に、元気を出しなさい、と声をかけると、明るくほほえんで、しかし力なくこっくりとうなずいた。それが私の見た最後のリキちゃんだった。

 1964年4月11日12時25分、リキちゃんは死んだ。17回目の誕生日を迎えてから4日後のことであった。
 私たちが彼女と出会ってから、わずか8ケ月間ほどのことであった。

告 別

君の前には大勢の友らが集っています。
皆 君のことで胸が一杯です。
やがて友らの悲しみは忍び泣きとなり
その悲しみの波が君の柩をつつみます。
君のお父さんは静かに合掌しています。
君のお母さんや
弟や妹はただうつむいています。
静かなそれらの姿に
やりばのない悲しみがいっぱい溢れています。
今にも崩れいでそうな慟哭を
身をかたくしてこらえています。
こぼれる涙をぬぐおうともしません。
君の同胞(はらから)の嘆きより
君の友らの悲しみより
さらに深く大きい君自身の
嘆きや悲しみが
君の前に坐っている私の心に
はっきりと響いてきます。

柩の上の君は微笑んでいますが
柩の中の君のまぶたの底には
誰にも伝えられず
君一人で秘めていた
苦しみや悩みや不安が
心残りや嘆きや悲しみが
いまわの際(きわ)に涙となって
流れいでようとしても
流れいづることのできぬままに
冷たく滞っているのです。

やがて出棺の時となれば
君の友や同胞(はらから)は
最後の別れを告げようとして
柩の中のもの言わぬ君を見て
さらに激しく悲しみます。
しかし私は
柩の中の君を見まい。
柩の中の君を私は堪えられない。
私の見た最後の君は
明るくほころんだ笑顔なのだ。
柩の中の君を見まいとしてのがれた私の目に
畠中に群れ遊ぶ白鷺が映ります。
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