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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(44)

大日本帝国の住民抑圧政策(11)

日本ファシズム論(10)



【大政翼賛会の変貌】

 神武天皇の即位日とされ戦前「紀元節」と呼ばれた国民の祝日がありました。呆れたことに「建国記念の日」と言い換えられていますが、この祝日が戦後にも受け継がれています。
 私は「呆れたことに」と書きましたが、ネット検索をしてみましたらこの物言いに怒りそうな人が沢山いるのでびっくりしました。しかし、『真説古代史・近畿王朝草創期編』を書いた私は、やはり「呆れたことに」としか言いようがありません。

 何だか可笑しな書き出しになってしまいましたが、実は今回は「紀元節」から論説が始まります。

 なお、前々回あたりから「観念右翼」という今まで知らなかった言葉が出てきましたが、念のためブリタニカ百科事典の解説(https://kotobank.jp/word/観念右翼)を転載しておきます。
『特定の右翼党派ではなく,純粋な日本精神主義を思想や行動の原理とする諸団体。上杉慎吉をその源流とする。第2次世界大戦前の右翼運動を思想形態から分類すると,国家社会主義派 (組織右翼) と日本精神主義派 (観念右翼) に大別される。』

 では本題に入ります。

1940年2月10日  「紀元二千六百年記念式典」挙行

 これは大政翼賛会の結成から約1ヵ月後のことです。この式典が日本領土内はもとより中国の占領地においてまで盛大に挙行されたのでした。部落会・町内会等や官製国民運動団体などを通じて、大規模な人民動員がおこなわれた結果でした。かくて天皇制イデオロギーによる人民統合は成功したかにみえました。が、しかしその裏で、大政翼賛会に不満をもつ諸勢力の翼賛会攻撃がはじまっていました。この攻撃は次のように展開していきました。

 「観念」右翼の団体は、翼賛会を「幕府政治の再現」であると非難し、有馬翼賛会事務総長・後藤組織局長・風見法相ら近衛側近グループを「赤」であると攻撃した。
 その理由は、有馬が大正末期から農民運動などを支援する進歩派として異端視されていたこと、後藤と風見が近衛のブレーン・トラストであった昭和研究会に所属し、同研究会に左翼転向者や社会民主主義者が含まれていたこと、翼賛会の一部に財産奉還論を唱えるものがいたことにあった。

 「観念」右翼の翼賛会攻撃は、「10月下旬頃に至り特に顕著となり」、12月になると彼らは有馬事務総長の除名・退陣決議をおこなうなど、翼賛会精動化の尖兵の役割をはたした。

 内務官僚は翼賛会と地方行政機関との対立を恐れ、翼賛会を精動化させて行政補助機関化することをめざしていた。政党人は、いったんは翼賛会に政治力の結集を期待したが、その期待が裏切られると一転して翼賛会の精動化を唱えだし、12月20日には翼賛会との表裏一体を表看板に翼賛議員倶楽部(435名の代議士が参加し、不参加者は5名)を結成して独自の方向へあゆみだした。

 これにたいして財界は、大政翼賛会の結成には賛成していた。しかし企画院が立案した「経済新体制確立要綱」が2月12日の経済閣僚懇談会に付議されると、財界は官僚統制の排撃と「自主統制」の貫徹を叫び、小林一三商工相を先頭に猛烈な反対運動を展開した。
 もめぬいたすえ、数度にわたる改訂をへて12月7日に決定された「要綱」は、「企画院を中心とする革新官僚と、財界との間の妥協の産物」であったが、その間財界は「観念」右翼に便乗して翼賛会にたいする「赤」攻撃をくりかえした。

 一方、大政翼賛会成立の前後から翼賛会違憲論が高まってきた。
 口火を切ったのは佐々木惣一であった。彼は、大日本帝国憲法の原則から判断して、首相が総裁を兼任する翼賛会は「幕府的存在」となる恐れがある、翼賛会は私的団体であって政事結社であり、これに官吏が参加しその経費を国家が負担する法的根拠はどこにあるかと批判した。
 また枢密院でも原嘉道議長以下、金子堅太郎・鈴木貫太郎・石井菊次郎らは
「憲法上幾多ノ疑念アリトシテ最モ反対的意見強シト伝へラ」
れ、荒木貞夫は
「新体制ハ国体二反スルモノナリトノ見解ノ下二参議ヲ拒絶セリ」
というありさまであった。

   翼賛会の性格論争は、12月16_18日の臨時中央協力会議でも展開され、入江種矩が翼賛会存立の法的根拠および治安警察法との関係、国家からの補助金支出の根拠などについてただし、土屋忠が総裁の首相兼任と天皇大権事項との抵触の有無を問い、窪井義道が再度翼賛会存立の法的根拠、翼賛会と政党との相違点などについて質問し、船田中翼賛会内政部長らをするどく追及した。

 総攻撃に耐えかねた近衛首相は、12月21日、閣内にあって新体制運動の中心的推進力となっていた風見法相と安井内相とを更迭し、代わって皇道派の柳川平助陸軍中将を法相に、「観念」右翼と内務・司法官僚の巨頭である平沼騏一郎元首相を内相に起用した。
 近衛は「陸軍と手を組んだ末次・中野一派のナチ化運動」を排撃するため内閣改造にふみきったとのべているが、この改造は翼賛会精動化の第二歩となったのである。

 反対勢力の集中攻撃は、第七六議会で頂点に達した。衆議院では川崎克・尾崎行雄ら、貴族院では岩田宙造らが違憲論をひっさげてはげしく政府を追及した。その結果、1941年1月28日の衆議院予算委員会で、ついに近衛首相は議会終了後に翼賛会を改組するとの言質をとられたばかりでなく、平沼内相も翼賛会が公事結社であると言明し2月8日の同委員会ではあらためて政府の統一答弁がおこなわれ、翼賛会が公事結社であることが最終的に確認された。
 大政翼賛会による強力な「国民政治力の結集」 の企図は、ここに完全に挫折したのである。

 改組問題をめぐっても各勢力は衝突した。政党人は議会局の廃止・調査委員会制度の採用および翼賛会役員への政党人の登用を強く要求し、「観念」右翼は有馬・後藤らの退陣をせまり、内務官僚は翼賛会全体にたいする自己の主導権確保を主張した。
 これにたいし軍部は、改組のさいの新人事は親軍的人物をもってあてることが絶対の条件であると近衛に申し込み、「革新」右翼は翼賛会の精動化に反対して軍部の意見に同調した。

 こうしたなかで有馬事務総長以下の翼賛会本部事務局員全員が辞表を提出し、4月2日に第一回改組がおこなわれた。
 国務大臣による副総裁制の新設、調査委員会制度の採用、本部機構の簡素化、東亜局と中央訓練所の新設、道府県支部長の知事による兼任が実施され、人事異動では有馬・後藤らの近衛側近グループが本部事務局から一斉に姿を消し、かわって副総裁に柳川法相、事務総長に石渡荘太郎元蔵相、総務局長に熊谷憲一元内閣情報部長、組織局長に挟間茂元内務次官らが就任した。
 大政翼賛会の主導権は、近衛側近グループから内務官僚と警察の手へ完全に移行した。内務官僚出身の貴族院議員藤沼庄平は、4月3日の日記に「愈精動化した」と書いてこの改組を歓迎した。
 かくてこの改組こそ、翼賛会精動化過程における最後の決定的転換点であり、大政翼賛会にのこされた道は内務官僚と警察が指導する行政補助機関化することだけであった。

 大政翼賛会の改組に不満をもった各勢力は、公然と独白の行動をとりはじめた。翼賛会の精動化に失望した軍部は、青壮年の自発性喚起をくわだて、大政翼運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団を育成する方針をとりはじめた。
 同じく期待を裏切られた「革新」右翼の中野正剛と橋本欣五郎は常任総務を辞任し、中野は新体制運動のなかで思想団体(公事結社)振東社に攻撃れていた東方会を政事結社に再改組し、独自の政治活動にのりだしていった。
 また政党人は、議会局の廃止とともに翼賛会との有機的関係を断ち切ったまま衆議院議員倶楽部を翼賛議員同盟に改組する方向へすすんでいった。
 こうして大政翼会の精勤化により支配層内部の矛盾は解決されず、人民の自発性喚起という課題もまた解決されずにおわったのである。

 その後太平洋戦争が勃発し、大政翼賛会の精動化がさらにすすむなかで、東条内閣は、一方では1942年4月30日に二一回衆議院議員総選挙を実施して翼賛議会体制の確立をはかり、他方では同年6月24日官製国民運動六団体(大日本産叢国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団)を大政翼賛会の傘下に統合し、8月14日には従来の推進員を廃止して部落会・町内会に大政翼賛会の世話役を、隣保班・隣組に世話人をおくことを決定した。
 人選にあたっては部落会長・町内会長と世話役を、隣保班長・隣組長と世話人とをそれぞれ一致させる方針がとられ、ここに約154万名(部落会・町内会数約21万、隣保班・隣組数約33万)の世話役と世話人が誕生し、形式的には人民支配組織の一元化が達成された。
 そして1945年6月13日、大政翼賛会は解散し、国民義勇隊へ発展的解消をとげたが、この国民義勇隊こそ本土決戦段階における人民の根こそぎ動員の中核組織であり、生産と防衛とを直結し、かつ戦闘隊へ転化した場合には統帥部による直接の人民支配が実現することになった。
 「国民義勇隊の活撃こそ正に大政翼賛運動の延長であり発展に外ならぬ」といわれたように、国民義勇隊は大政翼賛会精動化の到達点であった。

 最後に大政翼賛会成立の意義と特徴を概括すると次のようになる。

 第一、
    大政翼賛会は、「大東亜共栄圏建設」をスローガンとする日本帝国主義の「生存圏」獲得のための「高度国防国家」=侵略的な国家総力戦体制の中心組織として紹成された。したがって翼賛会は、日独伊三国同盟という国際的な反共ファッショ枢軸の一環に組みこまれた政治体制であり、それに対応した日本ファシズムの外交原理が「皇道外交」であった。

 第二、
    大政翼賛会はすべての政治結社を解散させ、天皇制イデオロギーにもとづく事実上の一国一党的政治体制として出現した。その事実は、大日本帝国憲法がもつ立憲主義的側面が否定され、行政補助機関的な翼賛会の出現によって、行政権の肥大化が極限に達し、同時に上からの天皇制の官僚支配の貫徹による画一的な人民把握の体制が成立したことを意味していた。換言すれば、天皇は軍部と官僚、とりわけ軍部の主導権のもとに戦争と国際政治の圧力を直接の促進剤としながら、上からファッショ的体制に再編成され、大政翼賛会の結成をもって日本ファシズムは体制として成立したのである。こうして天皇制は、支配階級の特定のグループ、とりわけ議会や既成政党などにたいする相対的に独自な役割を保持しつつ、階級的には資本家と地主、とりわけ独占資本の階級的利益を最大限に擁護するファッショ的権力として人民のうえに君臨することになった。

 第三、
    人民支配の側面からみた場合、ドイツ・イタリアのファシズムのように人民統合が下からの国民運動にささえられて実現するのではなく、もっぱら上からの天皇制の官僚支配の強化として実現したところに日本ファシズムの特徴があった。そのことは、国民再組織論の提起から大政翼賛会の精動化による近衛新体制構想の挫折にいたるまでの政治過程のなかにはっきりと示されており、人民は内務官僚と警察が指導する部落会・町内会等と各種の官製国民運動組織をつうじて画一的なファッショ的支配をうけることになった。人民の自発性喚起という主張は、天皇制の官僚支配の貫徹のまえに圧倒されておわったのである。

 第四、
    大政翼賛運動の指導理念については、国民再組織論が否定されたかわりに、「万民翼賛、一億一心、職分奉公」が強調され、「臣遺実践体制の実現」が運動の目的とされた(「大政翼賛運動規約」)。とくに「職分奉公」が重視され、人民を生産活動へかりたてるスローガンとなったが、基本的には精動的理念が貫徹していた。

 第五、
    大政翼賛会の成立にもかかわらず、支配層内部の矛盾を解決して極力集中を実現することはできなかった。その理由は、なによりも新体制運動が挙国一致内閣的な寄合世帯という政治的・組織的枠組を打ち破り、ひいては天皇制国家機構を改革する理論と行動力をもちえなかったところにあった。

 かくて日本ファシズムは、人民統合と権力集中の両面にわたって自己の脆弱性を克服することができず、その崩壊の日までこれらの問題の解決をめぐって苦悶しつづけなければならなかったのである。

 以上で「日本ファシズム論」を終わります。が最後に寝言を一つつぶやいておきます。

「日本ファシズム体制形成への様々な局面でその推進に大きく関与してきた観念右翼は大東亜戦争の敗北後も生き延びさらにその勢力を拡大してきている。そしてその観念右翼の下で大東亜戦争の敗北と共に崩壊したはずの日本ファシズムが現在再生しつつある」
 と主張したら、「何を寝惚けたことをおっしゃる」と、今は歯牙にも掛けてもらえないだろうと思っていますが、それでももう少し勉強を重ねて、「いつか取り上げてみたいなあ」と寝惚け続けています。
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明治150年、何がめでたい(43)

大日本帝国の住民抑圧政策(10)

日本ファシズム論(9)



【ファシズムの末端構造】

        『日本ファシズム論(2)』で、国民精神総動員運動の末端機構について取り上げました。その時の末端機構を利用しながら、大政翼賛会の末端機構が次のように整備されていきました。

 大政翼賛会の成立に対応し、部落会・町内会等の整備、大政翼賛会支部組織の結成および官製国民運動団体の再編成という三つの方法によって、日本ファシズムの末端機構が急速に整備されていった。

 部落会・町内会等は内務官僚と警察の指導のもとに国民精神総動員運動の末端機構として利用されていたが、十戸内外の隣保組織(隣保班・隣組)は同時に防空演習のさいもっとも活動しやすい家庭防火活動単位として位置づけられていた。
 しかも1939年末以降に生活必需品の配給制が実施されるにともない、部落会・町内会等は物資配給機構としても重視されていた。部落会・町内会を「上意下達」の行政補助機関と考え、国民再組織論に反対していた内務官僚は、新体制準備会の席上、大政翼賛会の道府県支部長を知事の兼任とすることを強く主張したが、「革新」右翼の反対によって支部長の選任が未決定におわる見通しとなったため、内務省は9月2日「部落会町内会等整備要領」を発表し、大政翼賛会の地方支部組織とは別個に部落会・町内会等を整備・強化して国民組織にたいする自己の主導権を固守しようとはかった。
 その結果、9月30日までに約19万9000の部落会・町内会と約120万の隣保班・隣組が整備され、さらに1941年4月には部落会・町内会は約21万に増加した。

 かくて人民は、一方では各地域の名望家支配とむすびついた部落会・町内会等の組織によって内務官僚と警察の直接的支配下におかれ、他方では日常生活を互いに監視させられるばかりでなく、生活必需品の配給・防火・防犯・その他の国策協力組織として機能するこれらの組織をはなれては生活することができなくなった。その意味において、部落会・町内会等こそ戦時体制下におけるファッショ的官僚支配の背骨をなすものであった。

 大政翼賛会の地方支部組織については、道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部をおき、「下情上通」のための機関として中央に中央協力会議を、各段階の支部にそれぞれ協力会議を付置することがきめられたが、道府県支部長は当分置かず、常務委員がその職務を代行することになった。しかし知事は常務委員として委員会を主宰することになったので、内務官僚の主導権は実質的に確保された。

 こうして1940年12月中に道府県支部が結成されるとともに476名の常務委員が近衛総裁から委嘱され、1941年2月には結成支部数が郡支部502、市支部175区支部82、町村支部1万0322に達し、1町村5名内外、合計約5万名の推進員が全国に配置されたのである。

 このように大政翼賛会は、国民運動組織としての外観をあたえられたが、支部長などの役員選考はすべて警察が極秘のうちにおこなっており、多くの郡市区町村支部長には町村長会の会長や市区町村長が就任した。そのため後藤隆之助組織局長は、12月15日の支部代表者会議で
「現在までに推薦して来た郡市区町村支部長の顔触れでは、世間は必ず新味の乏しい旧体制の人物と見、あるいは憤慨し、あるいは失望するであろう」
と批判せざるをえなかった。
 しかも新体制批判の言論取締りは、8月24日の内務省警保局長の通牒によって厳重におこなわれており、地方支部組織にたいする内務官僚と警察の主導権はまぎれもない事実であった。

 表面は華やかに展開された新体制運動も、その内部における形骸化はおおうべくもなく、それはやがて大政翼賛会の地方支部組織が地方行政組織と一体となり、翼賛会が完全な行政補助機関化することを予測させるものであった。

 新体制運動の高揚は、従来からあった官製国民運動団体の再編・統合を促進させた。1940年11月から翌年1月にかけて商業報国会・日本海運報国団・大日本産業報国会・大日本青少年団などが結成され、大政翼賛会の組織局がそれら諸団体との連絡指導にあたり、企画局が経済団体と文化団体の再編成を指導することになった。しかしこれらの諸団体は、いずれも警察取締り的性格がわざわいして人民の自発性喚起という問題を解決することができなかった。たとえば大日本産業報国会の支部の実態は、1940年2月30日現在で支部数1181、支部長のうちわけは警察署長971名、民間人210名であり、ここでも内務官僚と警察の主導権は確立していた。そのため産報運動は支配者が期待したほど盛り上がらず、1941年3月には「職場実践組織」としての産報青年隊の結成が指示され、これを契機に産報会は軍隊的編成による労働者統轄組織に変貌していったが、1942年後半になっても「産報不振を云々する論議が活発に展開された」という状態であった。

 かくて天皇制支配体制のファッショ的再編成のなかから国家総力戦体制の中心組織たる大政翼賛会が結成され、それに対応して内務官僚と警察の指導のもとにファッショ的人民支配の末端機構が構築されていったのである。

 このようにして天皇制支配体制下の日本ファシズムが全国の隅々までを席捲するに至ったのですが、その推進母体である大政翼賛会はどのような変貌を遂げながら敗戦を迎えることになったのでしょうか。次回はその「大政翼賛会の変貌」がテーマです。
明治150年、何がめでたい(42)

大日本帝国の住民抑圧政策(9)

日本ファシズム論(8)



【大政翼賛会の成立】

 近衛文麿の新体制構想の実現で絶対的な影響力を発揮しようとする軍部と、近衛文麿に取り入ろうとする政治家集団の暗闘が「大政翼賛会成立」の原動力でした。そこでは「自律的に盛り上がる国民政治力の結集」など全くの絵空事でした。

 では「大政翼賛会の成立」までの経緯を読んでいくことにします。

 近衛文麿の出馬声明は、新体制運動を高揚させるとともに、陸軍内部の倒閣気運を高めた。陸軍は、軍部大臣現役武官制を利用して倒閣運動をおこし、1940年7月26日、米内内閣は総辞職に追いこまれた。

 翌17日、重臣会議の推薦により組閣の大命は近衛に降下し、22日に第二次近衛内閣が成立した。しかし近衛が企図した最高国防会議の設立は実現せず、1938年1月から中断したままになっていた大本営政府連絡合議が複活したにとどまり、国務と統帥の矛盾はいっこうに解決されなかった。

 近衛内閣の基本方針の大綱は、前例のない方法で定められた。
 すなわち近衛は5月26日の木戸・有馬との「申合せ」の線にそい、組閣まえの7月19日、東条英機陸相・吉田善吾海相・松岡洋右外相の三閣僚候補者を私邸にまねいていわゆる荻窪会談をひらき、「戦時経済政策ノ強化確立」のほか対外政策として、
(一)「日独伊枢軸ノ強化」、
(二)日ソ不可侵協定の締結と対ソ軍備の充実、
(三)「英仏蘭葡殖民地ヲ東亜新秩序ノ内容二包含セシムルタメノ積極的処理」の実施、
(四)東亜新秩序建設にたいするアメリカの干渉排除という政策の大綱
を決定した。そしてこの大網は、7月26日の閣議決定による「基本国策要綱」と翌27日の大本営政府連絡会議決定による
「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」
となって具体化され、第二次近衛内閣の基本方針となったのである。

 「基本国策要綱」は、
 「世界ハ今ヤ歴史的一大転機二際会シ数個ノ国家群ノ生成発展ヲ基調トスル新ナル政治経済文化ノ創成ヲ見ントシ」、
 これが「世界史発展ノ必然的動向」であるという独断的な国際認識に立脚し、
 「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一字トスル挙国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在り」、
としていた。、
 そこにはナチス・ドイツの「生存圏」理論と同じように、ファシズム諸国による世界再分割を世界史上の「一大転機」「必然的動向」と捉える国際認識があり、従来の「東亜新秩序」よりもさらに広大な「大東亜ノ新秩序」建設の野望を「肇国ノ大精神」によって合理化しているだけでなく、従来から外交文書に常用されていた「帝国」という用語をあえて「皇国」とおきかえるなど、日本主義イデオロギーが前面に押しだされていた。、
 さらに「要綱」は、「大東亜ノ新秩序ノ建設」という「新事態ニ即応スル不抜ノ国家態勢」=「国家総力発揮ノ国防国家体制」の完成のための具体策として、「強カナル新政治体制ヲ確立シ国政ノ綜合的統一ヲ図ル」こと、「国防経済ノ根基ヲ確立ス」ることなどの諸項目をかかげていた。

 これに対し「時局処理要綱」は、具体的な外交方針として日独伊三国同盟の締結と南方武力進出とを決定していたが、それらは9月23日の北部仏印進駐と9月27日の日独伊三国同盟調印となって実現した。
 その間8月1日、松岡外相は談話のなかではじめて「皇道外交」と「大東亜共栄圏の確立」という言葉を使用し、以後これが日本帝国主義の基本的対外政策を表現する公式のスローガンとなったのである。

 これら二つの「要綱」と松岡談話のなかで示されたものは、
 「八紘一宇」の「肇国ノ大精神」という特殊日本的原理を普遍化することによって「大東亜共栄圏」の建設をはかるという日本主義=皇道主義の理念である。
 「これはイデオロギーの面から見るならば1938年2月の東亜新秩序声明にはじまる〈皇道外交〉の完成形態」であった。
 しかも「皇道外交」の帰結として調印された日独伊三国同盟は、日独伊ファシズム三国が世界の軍事的再分割による「生存圏」獲得のために締結した反共的・侵略的軍事同盟であった。
 そして大政翼賛会は、このような侵略戦争を推進するための政府主導による「強力ナ新政治体制」=国家総力戦体制の確立、すなわち天皇制支配体制のファッショ的再編成の結果として結成されるべきものであり、それはなによりも当時の国際情勢に強力に規定され促進されつつ、日独伊三国同盟に照応した特殊日本的ファシズム体制として成立することになるのであった。

 こうして内外政策の全面転換がおこなわれ、事態は近衛が心中ひそかに考えていた軍部の抑制による日中戦争の解決という方向とは、まったく逆の方向へ急速に動いていった。

 事態は近衛の意図する方向とは全く逆の方向に進んでいったにもかかわらず、近衛の再登場は国民から圧倒的な人気をもってむかえられました。それは何故なのでしょうか。その要因の一つとしてまず天皇制体制の下での洗脳によって国民に浸透していったイデオロギーが考えられますが、勿論それ程単純ではありません。

 彼の人気の秘密は、第一に彼が天皇家にもっとも近く、しかも心情皇道派的な適度の「革新」思想の持ち主であったこと、第二に西園寺の信任をえていたこと、第三に近衛篤麿の子として大陸経営にも関心をもっていたこと、第四に知識人、とりわけジャーナリズムから支持されていたこと、第五にいわゆる「聞き上手」によって面会者に彼を自分への賛同者・理解者と思い込ませる独得な人柄などによるものであり、彼に面会した人はいずれも「近衛の「無個性」の中に思い思いの新体制の幻想を投映していた」のである。また近衛の人気とともに「新体制」は一躍流行語となり、「政治新体制」から「家庭新体制」まで社会のあらゆる分野における「革新」のスローガンとして浸透し、解決のめどのない戦時体制の重圧に苦しむ人民の多くは、「近衛新体制」に莫然とした現状打破の幻想を託したのであった。

 近衛ブームは新体制運動の推進に大きなエネルギーを提供し、支配層は先をあらそって新体制へのなだれこみを策した。とくに政党は、「バスに乗りおくれるな」を合言葉にあいついで解散していった。まず7月1日に赤松克麿らの日本革新党、6日に社会大衆党、16日に政友会正統派、26日に安達謙蔵らの国民同盟、30日に政友会「革新」派がそれぞれ解党した。たちおくれていた民政党では、町田総裁の態度にあきたりない永井派の代議士40名が7月25日に脱党して解党を宣言し、のこる町田派も時流に抗しえず、8月15日に解党した。ここに全政党が解散し、いわゆる無政党時代が出現するにいたった。
 字垣一成は、8月1日の日記のなかで当時の状況と雰囲気を
「盲目的に此大勢便乗を政治家の仕事の様に考へて居る連中が其辺に累々として存在してある。最近流行の新体制運動も此類に近き様なる感じがする」
と評していた。

 近衛の新体制構想は、新体制準備会の発足によって具体化した。
 8月23日に発表された準備委員は、貴族院5名・衆議院7名・学界1名・財界2名・外交界1名・「革新」右翼3名・「観念」右翼1名・地方自治団体1名・言論界4名および閣僚会員であった。それはまさに呉越同舟・同床異夢・勢力均衡の人選であって、支配層丸抱えというにふさわしい顔ぶれであり、有馬頼寧は8月22日の日記に「準備委貝の顔ぶれを聞き失望す」と書かざるをえなかった。

 8月23日、近衛首相は第一回準備会の冒頭に声明文をよみあげたが、それは国務と統帥の調和・政府部内の統合と能率の強化・議会翼賛体制の確立などの政治目的を羅列すると同時に、新体制運動が国民の自発性にもとづく「国民運動」であって単なる「精神運動」ではなく、また「高度の政治性」を有しながらも「政党運動」ではないことを強調し、とくにナチス的一国一党論を強く排撃していた。ちなみにその声明文は矢部貞治が起草し、武藤軍務局長に見せたところ、武藤が一国一党を否定した部分を全部削除したため、富田健治内閣書記官長が狂信的「観念」右翼の蓑田胸喜をひそかに招致して校閲をうけ、武藤の削除部分を復活・修正してできあがったものであり、近衛らはまず「観念」右翼からの新体制=「幕府」攻撃を回避しようとしたのであった。

 新体制準備会の紛糾を避けるため、近衛は多数決原理にかわる「衆議統裁」という新しい運営方式を採用し、委員全員に協力の「誓」に署名させてから会議にのぞんだ。その結果、6回にわたる準備会(8月28日_9月17日)は、ともかく破綻せずにおわったが、準備会では各勢力の意見が正面からぶつかりあい、つぎのようなきわめて深刻な内容をもった論争が展開された。

第一、新体制と軍部との関係について、
 軍部は新体制を全面的に支援するが「統帥上独自の存在」であるから一般の現役軍人が新体制に参加することはできないとの態度を表明したため、新体制による軍部の抑制という近衛らの意図は挫折した。
第二、新体制の基本的性格とその「中核体」の構成員について
 近衛が「中核体」に強力な「政治力、実践力」をあたえることを力説し、ナチス的一国一党論を唱える軍部と中野正剛・橋本欣五郎らの「革新」右翼がこれを支持した。同志的結合による親革新党をめざす金光庸夫・秋田清らの政党人もこれに同調し、「中核体」を「会員組織」として治安警察法にいう政事結社とすべきであると主張した。これにたいし精動的官製国民運動を主張する井田磐楠らの「観念」右翼と内務官僚の意を体した岡崎勉がこれに反発し、「会員組織」は会員・非会員という形で国民を分断するものであると反論した。その結果、新体制運動は「大政翼賛運動」、「中核体」は「大政翼賛会」と呼称され、いずれも「公的・挙国的のもの」であるから大政翼賛会は「部分」をあらわす政党=政事結社ではないことが確認されたが、公事結社とも断定されないまま問題をあとに残し、構成員については同志的結合論と国民運動論とを折衷させ、運動参加者は「全国民」であり、構成員は総裁が「指名する」ことが決定された。しかし政府が、大政翼賛会への団体加入を認めず、すべての政事結社の解散を要求したため、翼賛会は事実上の一国一党を体現することになった。
第三、綱領草案は
 大東亜新秩序の建設と世界新秩序の確立、国体の本義の顕揚と庶政一新および国防国家体制の完成、大政翼賛の臣道実践の三ヵ条にまとめられた。

 こうして新体制準備会は、各勢力の意見を折衷させながら一応の結論をだすことに成功し、その過程をつうじて明白になったことは、第一に近衛新体制構想は後退したが、近衛総裁の大政翼賛会構成員にたいする指名権の確保によって近衛グループの主導権がかろうじて確保されたこと、第二に軍部と「革新」右翼が提携して事実上の一国一党の出現に成功したこと、第三に立場こそちがえ「観念」右翼と政党人が大政翼賛会に不満をもったこと、すなわち「観念」右翼は事実上の一国一党の出現に敵意をいだき、政党人は大政翼賛会議会局に押しこめられたことにたいし憲法上の疑義を表明して不満を内訌させたことなどであった。

 一国一党論と精動的官製国民運動論が激突するなかで、近衛の新体制構想は後退をよぎなくされていたが、その後退は10月12日の大政翼賛会発会式の席上で決定的なものとなった。
 近衛と有馬は、その日の午前2時ごろまで宣言と綱領の作成に没頭したがついに考えがまとまらず、発会式で挨拶にたった近衛は、富田内閣書記官長が即席に書いた短い草稿を手に、大政翼賛運動の綱領は「大政翼賛の臣道実践」の一語につきるとだけのべて降壇してしまった。宣言と綱領の発表を期待していた会衆は「唖然」とし、「これに拍手を送ったのは観念右翼だけであった」。

 かくて大政翼賛会は、日本主義国体諭を前面に打ちだし、大東亜共栄圏建設を推進するためのファッショ的政治体制の中心組織として結成され、ここに日本ファシズムは体制として成立した。
 そして近衛の豹変ぶりは、「観念」右翼の唱える日本主義国体論にたいする近衛の屈服であるばかりでなく、大政翼賛会が精動化する第一歩でもあったのである。

 このようにして日本ファシズムが「体制として成立した」のですが、この大政翼賛会はその後(日本敗戦まで)どのような役割を担っていったのでしょうか。
明治150年、何がめでたい(41)

大日本帝国の住民抑圧政策(8)

日本ファシズム論(7)



【ファシズム体制の成立(2)】

 新党運動に乗り出した近衛文麿が三つの文書を用いてその構想を語りましたが、その構想を改めてまとめると、次のようです。

 (1)
    全政党の解散を前提に自由主義的な民政党主流派(町田派)と政友会正統派中の鳩山派を除外した事実上の一国一党の結成をめざしている。
 (2)
    第二に新党は下からの盛り上がる国民政治力の結集体であり、人材を広く政党外に求める。
 (3)
    軍部の政治への容喙を排除し、統帥を国務に従属させて軍部を抑制しようとしている。

 つまり近衛たちは、一方では陸軍や「革新」右翼や親軍的政党人が唱えるナチス的な一国一党には反対し、さらに観念右翼や内務官僚が指導する精動運動を否定し、組織化された国民的政治力を背景として軍部・官僚を抑制しうる事実上の一国一党=近衛新党を構想していたのでした。
 そしてまた彼らは、新党運動という言葉がもつ既成観念を一新するため、新党のことを「政治新体制」とよぶことにしていたのでした。

   しかしこの構想には三つの重大な矛盾が内包されていました。そもそも、一元的な天皇制体制下での「政治新体制」が矛盾を孕むことは当然のことではないでしょうか。この論考の筆者はその矛盾を三点にまとめて、次のように論じています。


 第一は、国民再組織論と天皇制支配原理との矛盾である。
    既に述べたように、人民の自発性の喚起を重視し、国民政治力の結集をはかるという国民再組織論は、「天皇帰一」「承詔必謹」などの天皇制イデオロギーによる国民精神総動員方式 (=天皇制支配下における人民支配の基本的原理と運動)を修正するものであり、現実政治の次元では天皇制特有の官僚主義やセクショナリズムをはじめ国民再組織を阻害する要因を除去しなければならず、論理的には多元的な天皇制国家機構の改革にまでおよばなければ事態の本質的解決はありえないという矛盾をはらんでいた。
    それだけに改革を実施しょうとすれば軍部や官僚の抵抗が予想され、また「一国一人」という天皇制の支配原理を唯一絶対のよりどころとして精動運動を推進してきた勢力、とりわけ「観念」右翼にとっては、国民再組織論に根ざす近衛新党運動こそ反国体的行動であり、がまんならない性質のものであった。彼らは、近衛新党を「反国体」「幕府政治の再現」ときめつけてこれに反対した。
 こうした「一国一人」と事実上の「一国一党」との矛盾に逢着し、「国体」の壁にたじろいだ天皇主義者の近衛は、しだいに新党運動にたいする熱意を失いはじめるにいたった。

 第二は、新党の性格と治安対策との矛盾である。
    治安警察法は、すべての集会と結社を「政事」と「公事」の二種類に分類し、それらの警察にたいする届出を義務づけ、かつ現役軍人・警察官・神官・僧侶・官公私立学校の教員と学生生徒・女子・未成年者などの「政事結社」への加入を禁止していた。近衛は、新党への加入をすべての国民によびかけると語ったが、新党を「政事結社」とすれば右の人びとは排除され、「公事結社」とすれば参加は認められるが政治活動は禁止される。さきにあげた5月26日の「申合せ」の最後には「新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入すること」とあるが、これには陸海両相はふくまれるのかどうか。しかしこのような新党構成員の資格問題について、近衛らがどこまで詰めた議論をおこなっていたかどうかは疑わしい。
 それなら治安警察法を改正して二つの結社の区別を撤廃すればよさそうだが、これは天皇制下の治安対策の根本的修正であり、人民の本来的な自発性の噴出を本能的に恐れる支配者にとっては提起不可能な問題であった。

 第三は、新党の組織原理がきわめてあいまいであったことである。
    既存の国家機関とくに軍隊・官僚機構・議会などと新党との関係が不明確であり、かつ新党結成の方法と手段もあいまいなままであったため、軍部・官僚・政党人などの諸勢力が新党へのなだれこみを策し、そのなかで主導権争いを演ずるであろうことは始めから予想されるところであった。
    しかも近衛自身は、宮廷勢力と少数の側近以外に特定の政治基盤をもっていなかったから、統制派や「革新」右翼を抑制するためには皇道派や「観念」右翼を利用するという「毒をもって毒を制す」式の政治技術を身につけざるをえなかった。
    したがって組織原理があいまいなまま近衛が新党の党首になるとすれば、それはけっきょく支配層内各勢力の均衡と制御のうえに身をおく以外に道はなかった。その意味で近衛新党は、歴代の挙国一致内閣がもっていたのと同じ寄合世帯的な弱点をはじめから内包していたのである。


 近衛新党構想に内在するこれら三つの矛盾こそ、近衛を困惑させ、新党運動を変質させたばかりでなく、ひいては新体制運動を精動化させ、大政翼賛会を上意下達の行政補助機関たらしめる根本原因となったのである。
 また、ここでもヨーロッパの戦況が新党運動の成り行きに大きな影響を及ぼしていた。

 6月に入りドイツ軍のパリ占領が近づくにつれ、これに呼応するかのように新党運動は倒閣運動と交錯しながら急速に発展した。
 6月4日、近衛ははじめて新党問題についての抱負を記者団に語ったが、近衛新党にたいする陸軍の諒解がとりつけられていなかったため、かんじんの出馬問題にはふれなかった。
 6月10日、武藤章軍務局長は金光庸夫と会い、「近衛公の出馬、新党の結成には軍は挙げて賛成」であり、第二次近衛内閣の陸相には東条英機か阿南惟幾が適任であると言明した。
 米内内閣に不満をもつ陸軍は、倒閣=第二次近衛内閣の成立による内外政策の全面転換と、近衛新党によるナチス的な親軍的一国一党の実現とを期待していた。この会談内容は、なんらかの方法で近衛につたえられたと推測されるが、近衛は6月17日に犬養健をつうじて陸軍の意向を再確認のうえ、24日に枢密院議長を辞任し、「新体制」の確立に挺身するとの声明を発表した。

 新党賛成派は6月4日の近衛談話に色めきたち、新党へのなだれこみを策した。6月11日、加盟議員が議席の過半数をこえる約250名にふくれあがっていた聖戦貫徹議員連盟は、各党首に解党を進言したが、政友会の両派と各小会派は賛成し、民政党も方向転換の断行を宜言せざるをえなくなった。既成政党の新党派は、米内内閣への対決姿勢を強める一方、近衛新党のなかで主導権を確保することに活路を見いだそうとしていた。

 ナチス的一国一党を主張する「革新」右翼は、新党運動に積極的であった。6月23日、「革新」右翼団体の連合体である東亜建設国民連盟は、聖戦貫徹議員連盟と共同して国民時局懇談会を開催し、「時代錯誤的政治諸勢力の総退却を要求」した。
 ついで27日には聖戦貫徹議員連盟と島中雄三・角田順・矢吹一夫、津久井竜雄らが会合し、新党への「協力」を申し合わせた。そして東方会の中野正剛も「安達、末次、小生、橋本を招請せらるればその他は自ら疎通致すべく」と自信のほどを近衛に書き送っていた。
 これにたいし日本主義を唱える「観念」右翼は、新党がナチス的一国一党となることを恐れ、新党運動に「幕府政政治の再現」「公武合体運動」などの非難をあびせかけ、活発な運動を展開した。

 その間近衛は、出馬声明以後なに一つ新党運動のために積極的行動をとることなく、7月6日、政治新体制の構想をねるためと称して軽井沢へでかけ、27日まで滞在した。
天皇主義者の近衛にとっての焦眉の急は、「一番不愉快」な「反国体」「近衛幕府の再現」という「観念」右翼からの非難をかわすことであり、そのため彼は7月7日の記者会見で、わざわざ新体制が憲法に基礎をおくものであることを強調したのであった。
 しかし近衛は、新党の理論的基礎づけを依頼した矢部貞治からも「関白が首相となってから又挙国的政党組織をやるといふことは、国体上、憲法上、どうも疑はしい。幕府論になる」といわれ、さらに三上卓・菅波三郎らの元青年将校一派も軽井沢へ押しかけ、近衛に声明発表を強要するといったありさまであった。
 そのうえ新党の構想と運動方針はいっこうに具体化されなかった。

 かくて近衛は、「国体」の壁の厚さにたじろぎ、具体的な構想と運動方針を見出しえないまま、軽井沢滞在中に「新党」構想を放棄し、「新体制」構想、つまりのちの大政翼賛会のように、支配層内部のあらゆる勢力を無原則のまま丸抱えにして組織するという構想に移行していったのである。

 このようにして政局は一気に日本ファシズム体制への道を突き進むことになったのでした。ということで、次回からいよいよ「日本ファシズム体制の完成」つまり「大政翼賛会の成立」を取り上げることになりました。
明治150年、何がめでたい(40)

大日本帝国の住民抑圧政策(7)

日本ファシズム論(6)



【ファシズム体制の成立(1)】

『昭和の15年戦争史(28)』 で、軍部が国政を牛耳るようになってきた苛酷な状況の下で、軍部に敢然と抵抗して議会で「反軍演説」を行った斎藤隆夫という政治家を取り上げました。この時の「反軍演説」事件が政党の自壊作用を早め政界再編成の気運を高めるきっかけとなったのでした。今回からのテーマ「ファシズム体制の成立」はここから始まります。

19401940年2月2日 第七五議会再開2日目、民政党斎藤隆夫が反軍演説を行う。

 この事件以降の政界再編成は次のように進んでいきます。

 陸軍は強硬に斎藤の処分を要求し、これに呼応して政友会「革新」派・時局同志会・社会大衆党・第一議員倶楽部は斎藤の懲罰除名を主張した。
 これに対し民政党と政友会正統派の中には除名反対の空気が強かったが、結局軍部などの圧力に抗しきれず3月7日の衆議院本会議で斎藤の議員除名が圧倒的多数で可決された。
 しかし採決にあたり政友会正統派の五名(牧野良三・芦田均ら)が反対投票を行い、社大党の十名(党首安部磯雄・鈴木文治ら旧社会民衆党七名と水谷長三郎ら旧労働農民党系三名)は欠席し、除名の党議に反対する行動をとった。
 そのため政友会正統派では、反対票を投じた五議員の処分方法に不満な西岡竹次郎らの親軍派五名が脱党して政友会新中立派を名乗ったほか、親軍的一国一党結成に積極的な久原派とこれに消極的な鳩山派との対立が激化した。
 民政党では、分裂の動きはなかったが、親軍新党運動に熱心な永井派とそれに反対する町田派との対立が深まり、特に町田派は各方面の「革新」派から集中攻撃を受ける破目になった。

 これに対し社大党では、1939年2月の東方会との合同によるファッショ的新党樹立の試みが失敗したのち、産業報国運動に便乗し国家社会主義的一国一党を唱える麻生久・亀井貫一郎・三輪寿壮らと、日本労働総同盟に依拠して産報運動に消極的な安部磯雄・松岡駒吉・西尾末広らとの内紛が表面化していたが、麻生らが斎藤除名の票決に加わらなかった一〇名のうち八名を除名したため、党は分裂し、安部らは勤労国民党を結成しようとして5月7日に結社禁止を命ぜられた。

 こうした状況を背景に、政友会正統派の山崎達之助・民政党水井派の山道嚢一らは、政友会正統派中の久原派、社大党麻生派、時局同志会および第一議員倶楽部各派の有志議員約百名を糾合し、3月25日、聖戦貫徹議員連盟を結成した。連盟は全政党の解消と「一大強力新党」の結成を旗印とし、政党側における新体制運動の推進母体となった。
 かくて政党の解体は必至の情勢となったのである。

 以上のような政党解消の動きの中から新体制運動が急速に高揚していきますが、その直接の原因は、ヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の大攻勢による衝撃でした。ヨーロッパ戦線におけるドイツ軍の攻勢は次のように進行しました。

   1939年9月に第二次世界大戦が勃発して以後、東ヨーロッパでは独ソ両国によるポーランド分割やソビエトによるフィンランドおよび東欧諸国にたいする進出の動きが目立ったが、西部戦線ではドイツと英仏間には大戦闘がおこなわれず、いわゆる「奇妙な戦争」とよばれる状態がつづいていた。
 ところが1940年4月9日、ドイツ軍は突如ノールウェとデンマークに侵入したのち、5月10日には西部戦線で大攻撃を展開し、たちまちのうちにベルギー・オランダ・ルクセンブルグ三国を席捲、さらに6月5日からフランスにたいする総攻撃を開始し、14日にはパリを占領した。22日、フランスはドイツに降伏した。その間イギリスでは、5月10日にチェンバレン内閣がたおれてチャーチル内閣が成立し、6月10日にはドイツの勝利を信じたイタリアが英仏両国に宣戦した。ドイツは西ヨーロッパを制覇したかの観があった。

 ドイツ軍の勝利を契機に軍部とりわけ陸軍は、日独伊三国同盟の締結・南進政策の推進および政治新体制の樹立という内外政策の全面転換を要求して勢力を盛り返したのでした。民間右翼もこれに呼応して活発な活動を開始します。

 こうした動きを察知した久原房之助政友会正統派総裁は、4月30日の臨時党大会の席上、「一大強力政党」結成のためには解党辞せず」と演説し、その後各党を歴訪して同意をうながした。
 社大党麻生派などの小会派は、久原提案を積極的に支持したが、町田民政党総裁はこの提案に反対して政党連携を主張し、中島知久平政友会「革新」派総裁は静観の態度をとった。

 しかし、5月25日には聖戦貫徹議員連盟が正式に強力新党結成の方針を打ち出し、6月2日には中島総裁も連盟の方針を容認するにいたり、4日には金光派と新中立派よりなる政友会統一派が「政治新体制」への参加を表明して解党を決議した。そしてこれらの新党運動は、いずれも近衛の出馬を前提として展開されたのである。

 このような新党運動の動きのなかで、近衛や彼の側近はなにを考え、どのように行動したか。
 近衛が新党運動にのりだす決意を固めるにいたった主観的意図は、第1次近衛内閣のような「何等の輿論の後楯も無い」「中間内閣」を否定し、「既存政党とは異なった国民組織、全国民の間に根を張った組織とそれのもつ政治力を背景とした政府」を樹立し、「軍部を抑へ日支事変を解決すること」にあった。そして近衛新党の下部組織を固めるための理論として唱えられたのが、「ドイツのナチスの如く国民の政治組織化」にあるという国民再組織論であった。そこには官製国民運動を排し、下からの盛り上がる人民の自発性に期待する姿勢が示されており、具体的には有馬が指導する産業組合、近衛の友人河原田稼吉元内相が理事長をつとめる産業報国連盟、近衛側近の後藤隆之助を指導者とする壮年団のほか各種の婦人会や青少年団などの教化団体を新党のもとに再編成することが予定されていた。

 有馬頼寧の日記によれば、近衛は1940年3月下旬から新党問題に取り組む姿勢を示しはじめている。しかし近衛新党の具体的なプログラムとしては、5月26日に近衛・木戸・有馬の三者間で決定されたつぎのような「申合せ」が最初であった。それは次の四項目から成っていた。
「 (一)大命を拝する以前に於ては新党樹立は積極的にやらぬこと。但し政党側の自発的行動によって新党樹立の気運を生じる時は考慮すること。
  (二)大命降下ありたる場合考慮すべき事項
     (イ)陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣を以て最高国防会議を設置すること。
       (ロ)陸海軍の国防・外交・財政に関する要望を聴取すること。
     (ハ)新党樹立の決意を表明し各政党に対し解党を要求すること。
  (三)総理と陸海軍大臣だけにて組閣し他は兼任とすること。但し情勢により二三の閣僚(例へば外務等)を選任すること。
  (四)新党成立の暁党員中より人材を抜擢して全閣僚を任命すること。新党結成前に選任したる閣僚は必ず新党に加入するこ     と。」

 ついで三日後の5月29日、近衛・木戸・有馬に風見章と太田正孝を加えた五名によって、つぎのような「申合せ事項」が決定された。
 「(一)政党側は左の目標により自発的に運動を開始すること、
     (イ)国防国家の完成、
     (ロ)外交の振張、
     (ハ)政治新体制の建設、
 (二)諒解事項(秘密)、
    (イ)既成陣営中参加せざるものに対しては対手とせざること(民政党の主流及び久原の一部)、
    (ロ)参加政党側の事実上の解党手続は新体制結成準備次第直ちに行ふこと、
    (ハ)広く人材を政党外に求むること」。

  さらに近衛と彼の側近たちとのあいだで当時作成されたと推定される「国務と統帥とについて」という文書のなかでは、大命拝受の条件として「国防会議」の設置のほかに、
 「(一)軍が直接政治に干与せざること(要すれば大本営命令を出す)、
     (イ)陸軍省、参本、海軍省、その他軍付属庁の機構改革並に整理(情報の統合を含む)、
     (ロ)関東軍並に支那総軍の編成替(特務部廃止、特務機関の任務を明確にすること等を含む)、
  (二)駐支、在満軍隊の政治機構に改革を行ひ、直接政治に干与せざることとすること」
 これらの数項目について
 「大本営との諒解を遂げ御前会議の決定を経べきなり。その諒解決定を得ざる場合は大命を拝辞すべきが国家を思ふ忠誠の所為なりと信ず」
というように、思いきった軍政改革構想がのべられている。


 以上のような近衛新党構想には重大な矛盾が内包されています。(この問題は次回で)
明治150年、何がめでたい(40)

大日本帝国の住民抑圧政策(7)

日本ファシズム論(6)



【権力集中をめぐる政争(2)】

 前回は
「国家総動員法の成立に伴って、新党運動が挫折し、衆議院の解散も立ち消えになった」
ところまで読みました。今回はそれ以後の政争を追っていきます。

 前回に「15年戦争」下の挙国一致内閣」のトラウマとなった事項として
 「人民の組織的抵抗を排除することには成功しながら、……つねに戦争と国際政治の圧力にふりまわされることになった」
という指摘がありましたが、 「国家総動員法」成立後の政局はこのトラウマに振り回されながら、着実に「ファシズム体制」の道を進んでいきます。

 これも前回取り上げたことですが、近衛首相は1938年1月16日に「国民政府を対手とせず」との声明を発表し和平交渉を中止してしまいました。
 その後、1938年4月7日~5月19日に徐州作戦(中国軍の抗戦意志を喪失させようとした作戦で、中国の徐州付近に集結した中国軍70個師団を日本軍が南北から挟撃)が遂行されました。

 その徐州作戦終了直後の5月から6月にかけて、近衛首相は、局面打開のために内閣改造(字垣外相・池田蔵相兼商工相・荒木文相・板垣陸相入閣)を断行します。さらに内閣の強化のため、

6月10日 最高国策検討機関として五相会議(首・外・蔵・陸・海相)を設置。

 しかし対外政策の面では日中和平交渉と興亜院設置問題をめぐる対立から9月30日に宇垣外相が辞任(後任有田八郎)します。
 また、日独伊防共協定強化問題ではその対象をソビエトに限定しようとする近衛・有田・池田・米内と英仏をもふくめよという板垣・末次の意見が対立します。
 また、対内政策の面では議会での公約に反して国家総動員法の発動が陸軍省や内務省から強要され、池田がこれに反対します。

 このように、基本国策をめぐる支配層内部の対立が目立ってきましたが、その間政界の裏面では、各種の新党運動がひそかに進行していました。
 7月2日には国民精神総動員運動の不振にあきたりない有馬農相が国民再組織論にもとづく政界再編成を近衛首相に進言し、
 8月下旬から9月上旬にかけて近衛が新党運動に積極的であるとの情報が政界に流れました。これをきっかけに近衛の擁立を前提とする新党運動が表面化します。その主な推進勢力は次のようです。
(80年も前のことであり、登場してくる人たちは全て未知の人たちですが、一応そのまま転載しておきます。)

 産業組合青年連盟を背景とする有馬頼寧のグループ
 後藤隆之助らの昭和研究会、
 一国一党論の久原房之助グループ
 前田米蔵・中島知久平・桜内幸雄ら政民両党内の「革新」派グループ
 風見章のグループ
 秋田・秋山・麻生・亀井らのグループ

 このうち具体的な新党計画を持ちある程度組織的に行動したのは秋田らのグループでした。
 このグループは「既成政党の解消を前提とする一国一党=大日本党」を構想していました。そのグループの「大日本党部綱領」によると、その党は、
『「国体ノ本義」を立党の精神として「国民各般ノ組織ヲ指導」「皇謹ヲ翼賛シ聖慮ヲ安ンジ奉ル」』
ことを目指していました。
 木坂さん(この論考の執筆者)はこの新党運動の問題点を次のように指摘しています。

 ここで重要なことは、
 第一に新党と各国家機関との関係が明示されていなかったことであり、
 第二は大日本党部を頂点とする「国家ノ新体制ヲ整備完成スル」ことが、「反共圏ノ確立」による「新世界秩序ノ樹立」、とりわけ「東洋国家協同体ノ実現」をはかることと表裏一体と なってl認識されていたこと、すなわち新党結成が帝国主義的侵略のための体制づくりとして考えられていたことである。

 なぜなら前者は、のちに述べるように新体制運動のなかでも問題にされ、大政翼賛会が精神運動家化する重要 な原因となり、後者も大東亜共栄圏建設のための新体制樹立という認識と同一次元のものであったからである。

 こうして各種の新党運動が交錯するなかで、9月下旬から三相会議(末次内相・塩野法相・木戸厚相)が新党構想の検討を開始し、10月末にはナチス的一国一党の色彩が濃い「大日本皇民会案」ができあがった。

 ところが近衛は、10月22~25日になんらかの心境の変化をきたして新党運動を放棄し、精神運動中央連盟の改組による官製国民運動指導体制強化の方向へ方針を転換したため、新党運動は画餅に帰した。

 以上のように新党運動挫折の直接の原因は、近衛の変心と新党運動を担ったグループのカ量不足でしたが、日中戦争と国際政治の圧力による政党政治の大混乱も新党運動挫折の大きな一因だったのです。論考のその問題を論じている部分を直接転載しておきます。

 1938年10月下旬に広東・武漢作戦が終了しても政府は日中戦争解決のめどがつかめず、ヨーロッパ情勢も1938年3月の独墺合併以後のドイツの東方領土侵略政策よって戦争の危機がさしせまったが、小国の犠牲によって 侵略者と和解するという英仏両国の宥和政策の結果、9月30日にミュンへン協定が調印され、戦争の危機は一時回避された。
 しかしヨーロッパ情勢が流動的であるため、日独伊防共協定強化問題をめぐる支配層内部の対立も容易に氷解せず、国際政治の圧力を利用して新党運動を推進するといったような状況はついに生まれなかった。
 そして近衛内閣は、11月から12月にかけて東亜新秩序声明と近衛三原則を発表したのち、1939年1月4日に総辞職した。

 後をついだ平沼・阿部・米内の三内閣は、新党運動にたいしていずれも冷淡であり、権力集中への道を模索したが失敗し、泥沼化した日中戦争の現状と変転する国際情勢に対応した確固たる軍事・外交政政策を確立しえず、いずれも挙国一致内閣の弱点をさらけだして短命に終わった。
 まず1月5日に成立した平沼内閣は、日独伊防共協定強化問題をめぐって小田原評定をつづける一方、南進政策(海南島・新南群島・汕頭(スワトウ)・福州などの占領)と北進政策とを同時に遂行したが、ノモンハン事件で大打撃をうけて北進に失敗し、独ソ不可侵条約締結の衝撃を受けとめきれずに、8月28日総辞職した。

 ついで8月30日に成立した阿部内閣は、9月3日に勃発した第二次世界大戦への不介入と日中戦争解決への邁進を声明し、日独伊防共協定強化交渉の打ち切りとノモンハン停戦協定の調印によって平沼内閣から引きついだ外交課題を処理したのち、野村吉三郎を外相に起用し、対中国政策の修正と米ソなどに対する「協調外交」を展開しようとした。
 しかし現実の対中国政策、とりわけ「江兆銘をして新政権を立てしむるの件は現下陸軍の謀略として取り扱う所」となっていたため、その修正は不可能に近く、日米通商航海条約廃棄をめぐる対米関係の調整も、日本の中国独占政策阻止を主張するアメリカとのあいだで折り合いがつかず、1940年1月27日から日米両国は無条約時代に突入した。

 一方阿部内閣は、権力集中を実現するため、平沼内閣時代の五相会議を廃止して全閣僚10名という少数閣僚制をとって発足し、9月30日には枢密院の審議をへることなく、国家総動員法などの施行に関する首相の指示権を認めた勅令を公布・施行した。
 しかし少数閣僚制は、支配層内部の抵抗にあってわずか一ヵ月半で原則を放棄することになり、貿易省設置問題では外務省と正面衝突して方針を撤回し、官吏の身分保障制度撤廃の企ては枢密院の反対にあって無期延期となるなど、阿部内閣はその弱体ぶりを暴露した。

 そのうえ戦時統制経済の矛盾の深化によって国民生活の不安がひろがり、政党はそれを口実に公然たる倒閣運動を開始し、1940年1月7日には内閣不信任署名代議士276名の氏名が公表された。秋田厚相と永井逓相は、衆議院解散強行論を唱え、阿部首相もこの意見にかたむいたが、陸軍は選挙期間中に反戦反軍気運が高まることを恐れて解散に反対し、江兆銘派との間で妥結をみた「日支新関係調整要項」が1月8日の閣議で承認されるのを待って、政府に退陣を勧告した。かくて1月14日、阿部内閣は総辞職に追いこまれた。

 1月16日に成立した米内内閣は、その親英米的・現状維持的性格のゆえに、陸軍やそれと提携する「革新」派からの攻撃にさらされなければならなかった。1月21日の浅間丸事件をきっかけとする反英運動の高揚は、その最初の現れであり、2月23日に松井石根・末次信正・松岡洋右の三名が米内首相の留任懇請をふりきって内閣参議を辞任したのは、その第二のあらわれであった。

 また米内内閣は、外交面では陸軍の主導する東亜新秩序建設路線に押され、3月30日に汪兆銘の「国民政府」を成立させ、4月以降ヨーロッパ戦局の急展開を契機に陸軍を中心に高まってきた南進論に対応し、仏印・蘭印・タイへの進出を企図したが、これらの措置は蒋介石政権との和平交渉の道をみずからとざし、かえって対米英関係を悪化させる結果をまねいた。

 このように平沼・阿部・米内の三内閣は、日中戦争の解決・対欧米諸国との関係の調整・国家総力戦体制の樹立といった政治・軍事・外交の基本課題の解決に失敗したばかりか、深刻化する経済危機を打開することもできず、政局の混迷状態が1年以上にわたって続いた。そのため国民の不満やいらだちは内訌し、しだいに現状打破のための強力政治体制の実現を待望する気運が高まり、やがて新体制運動が展開されることになるのである。

 この「新体制運動の展開」により「ファシズム体制」が成立していったのでした。次回から「ファシズム体制の成立」に入ります。
明治150年、何がめでたい(39)

大日本帝国の住民抑圧政策(6)

日本ファシズム論(5)



【権力集中をめぐる政争(1)】

(ごめんなさい。ついつい1週間ほど空けてしまいました。再開します。)

 第一次近衛内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)の緊急課題は「天皇制の多元的国家機構を整備統合し、支配層内部の対立を一掃して強力な権力集中を実現すること」でした。
 この課題は日中戦争勃発後に「挙国一致を目指す政治・軍事体制の整備と新党運動による政界再編成の問題」へと展開していきました。

 ではまず、近衛内閣成立に至るまでの「挙国一致」政策の推移を確認しておくことにします。

1932年 五・一五事件勃発
 この事件以後に成立した斎藤実内閣以後の歴代内閣は、いずれも軍人・官僚または宮廷政治家を首相とする挙国一致内閣でした。
 斎藤・岡田啓介両内閣は、軍部・官僚・政党・財界など支配階級内部の各勢力の微妙なバランスのうえに成立していました。

1936年 二・二六事件勃発
 この事件を契機に支配階級内部のバランスがくずれ、その後は軍部が政治の主導権を掌握していきました。
 このような政党政治を抹殺したような挙国一致内閣の成立は、これまで曲りなりながら実現していた普通選挙を基礎とする国民代表制の原理が人民統合の機能を果しえないまま空洞化したことを意味していました。
 しかもこの挙国一致内閣は、普通選挙にかわる新しい人民統合の政治原理を創造したわけではなく、「挙国一致」という抽象的スローガンをかかげたに過ぎなかったのですから、そのことによってただちに強力な国民的基盤をもつ政治主体に成り得ないのは当然なことでした。
 また、軍部が政治の主導権を掌握したといっても、挙国一致内閣はしょせん支配階級内各勢力の寄合世帯にすぎず、各勢力は国民的基盤を欠いているためにかえって挙国一致内閣に依存せざるをえず、かつ現実の政治判断をくだす場合には、「挙国一致」の名のもとに自己の利害を主張することになり、それがまた各勢力間の新たな相剋と対立をひきおこす原因にもなっていたのでした。そしてこの相剋と対立のくりかえしは、つねに政治的不安定をもたらす重大な要因となり、その政治的不安定は逆に戦争と国際政治の圧力がつねに国内政治の動向を規定し左右する条件になっていったのでした。
 その結果、15年戦争下の挙国一致内閣は、人民の組織的抵抗を排除することには成功しながら、いずれも短命におわり(もっとも長かった東条英機内閣でさえ2年9ヵ月)、重大な局面に遭遇しても主体的かつ的確な判断をくだしえず、つねに戦争と国際政治の圧力にふりまわされることになったのでした。そのうえ天皇制国家機構は、その頂点に立つ天皇による以外には統合のすべをもたないという多元的性格をその本質としていたのでした。
 近衛内閣はこうした挙国一致内閣と天皇制国家機構がもつ矛盾を解決しうるかどうかという深刻な問題と対応する課題を担うことになったのでした。

 続いて、近衛内閣成立((1937年6月4日)後の政治動向の推移を見てみましょう(以下、一部書き換えがありますが、資料の論説を転載します)。


 近衛内閣による権力の集中は、行政権の強化と国務・統帥の矛盾解決をめざしてすすめられた。すなわち
  1937年9月25日
    内閣情報委員会の内閣情報部への昇格による言論・思想統制と報道・宣伝のための機関の整備、
  10月25日
    内閣参議設置、
  10月22日
    木戸幸一の文相就任による天皇側近との結合強化、
  10月25日
    企画院設置、
  10月27日
      郷誠之助・池田成彬ら財界巨頭6名の大蔵省顧問任命、
1938年1月22日
      厚生省設置、
    4月1日
      国家総動員法公布

 などの措置がそれであった。また政戦両略の一致について近衛首相は、
  (一) 憲法改正による統帥権の首相への移譲、
  (二) 首相の信任する少数閣僚と陸海相による戦時内閣制、
  (三) 首相の大本営列席
  という三方法を考えたが、いずれも閣内の同意がえられず、日の目をみなかった。

そこで1937年11月20日、大本営の設置と同時に大本営政府連絡会議が創設されたが、たんなる連絡機関であって決定機関ではなかったために十分な機能を果すことができなかったばかりか、1938年1月16日の「国民政府を対手とせず」声明による和平交渉中止問題をめぐり、多田駿参謀次長の強硬な反対によって会議が紛糾したため、それ以後は自然休会となった。 そこで
1937年11月20日 大本営の設置と同時に大本営政府連絡会議を創設

 しかしこの会議は単なる連絡機関であって決定機関ではなかったために十分な機能を果すことができなかったばかりか、

1938年1月16日  「国民政府を対手とせず」声明による和平交渉中止

 という問題をめぐり、多田駿参謀次長の強硬な反対によって会議が紛糾したため、それ以後は自然休会となった。
 その後平沼騏一郎・阿部信行・米内光政の三代の内閣のもとでは、連絡会議は一度も開催されず、国務と統帥の矛盾は解決されなかった。

 このような動きとならんで、1937年暮から新党運動が起こってきた。
 既成政党は、すでに政権の中心から疎外されていたとはいえ、その拠点である衆議院は憲法によって一定の地位と権限を保障されており、いかなる内閣も衆議院安定した与党を持たないことには政局の運営が困難であった。そのため挙国一致内閣は、つねに既成政党の与党化に腐心しなければならなかったし、反対に既成政党は有権者のエネルギーを掘り起して国民的基盤を固めることよりも、国策に順応して内閣に協力するか、あるいは挙国一致を旗印に新政党を結成して衆議院で圧倒的多数派を形成する方が、政権の中枢部へくいこむ近道であった。
 また政治の「革新」=ファッショ化を主張していた小会派や一部の無産政党は、政治の先物買いによって自己の存在を印象づける手段として新運動にとりくむ傾向が強かった。 挙国一致内閣のもとで多くの新党運動があらわれた害はここにあり、各派による近衛擁立の新党運動もまたその一つであった。

1937年12月 南京占領

 この戦捷に国内が歓呼にわきかえり、第七三議会の開会がせまるなかで、政友・民政両党の議員からなる常盤会が、両党合同による新党樹立を提唱した。この動きは、両党の主流派を動かすにいたらなかったが、1938月1月には政界の黒幕秋山定輔配下の右翼中溝多摩吉がひきいる防共護国団が、既成政党の解消と挙国新党の樹立を唱えて代義士を歴訪し、2月17日には政友・民政両党本部占拠事件を引き起して政界に衝撃をあたえた。中溝の背後には近衛がいたといわれ、さらに社会大衆党の麻生久や亀井貫葺一郎、第一議員倶楽部の秋田清らも秋山と結んで近衛新党結成に動いていた。
 ときあたかも第七三議会の衆議院では、国家総動員法の審議が難航中であり、閣内には末次内相のように新党樹立と解散・総選挙によって政局安定をはかろうとする意見もあったが、政民両党の腰くだけによって国家総動員法が成立し、近衛自身も出馬の意志を示さなかったので、新党運動は挫折し、衆議院の解散も立ち消えとなった。

         (この項、次回に続きます)
明治150年、何がめでたい(38)

大日本帝国の住民抑圧政策(5)

日本ファシズム論(4)



 本道に戻ります(前々回の続きということになります)。

 日本ファシズムを体制として成立させた大政翼賛会の結成にいたる前提条件が「国民精神総動員運動」と「産業報国運動」の大規模な展開だったのでした。 前々回では「国民精神総動員運動」の展開の経緯とそれが全くの官製運動だったことを学習しましたが、今回は「産業報国運動」の展開を取り上げます。

 産業報国運動も国民精神総動員運動と同様、日中戦争の勃発にともなう国家総力戦体制の樹立と生産力拡充政策推進の一環として展開されましたが、  それはまず、懇談会や工場委員会制度のような労資協議機関の運営を中心に産業報国運動を推進しようとする内務官僚と 企業活動への官僚の介入を排除し「労資一体」の精神運動として展開しようとする資本家との間での、対立と妥協として展開されていきました。

 官憲の側では労働運動対策として産業報国運動が取り上げられました。その端緒となったのは愛知県工場課が立案した
1937年10月 時局対策労資調整案」
 でした。これを一部修正して、愛知県警察部が公表したのが
1938年2月 「労資調整組織案」
 です。
 この案は「産業報国」「国体に基く労資一体」の指導理念のもとに、各工場に労資双方を構成員とする工場懇談会を組織させ、 そこで労働時間・賃金・労働災害防止・職工養成訓練などの問題をとりあげさせることを提案していました。
 しかし資本家側は、企業にたいする官僚統制を懸念してそれに反発し、労働組合側も同案が組合そのものを否認していることに不満を表明したため、 同案は廃棄されました。

 一方戦時下の新たな労働政策を模索していた協調会は、国民精神総動員運動に協力しかつ軍需工業動員法の施行を円滑にするため、 1937年9月から11月にかけて主要工業都市で戦時労働対策懇談会を開き、翌年2月2日にはこの懇談会をもとに政界・財界・官界・軍部の代表 31名からなる時局対策委員会を設置しました。

1938年3月30日 「労資関係調整方策」を決定
 時局対策委員会内の第二専門委員会が「労資関係調整」問題を審議したのえすが、ここでも産業報国運動の国民精神総動員運動化を 主張する財界代表と懇談会中心の運営を主張する厚生省および松岡駒吉が対立しましたが、結局は双方妥協のうえ第二専門委員会が策定した 「労資関係調整方策」が総会で正式決定され、4月28日に近衛首相以下の関係各大臣に手交されました。

 これに対し全国産業団体連合会は、6月16日、
「産業報国運動ハ産業部門ニ於ケル国民精神総動員運動ノ一翼トシテ出発スルモノナルコト」
を強調する決議を行い、政府に圧力をかけました。財界は、企業活動への官僚の介入と同時に、懇談会が労働者の不満のはけ口となることを 恐れたのです。
 いずれにしても1938年2月以降、産業報国運動のプラン作りが急速にすすんだ背景には、国家総動員法の制定に象徴される内外情勢の進展 とならんで、日中戦争の勃発後激減した労働争議が1938年にはいると増加しはじめてその争議が戦時体制下の矛盾のしわ寄せをうけた未組織労 働者のあいだにも広がる傾向があらわれてきたという事情があったのです。

(以下、その後の経緯は原文をそのまま転載します。)


 かくて近衛内閣は、7月30日、産業報告運動の中央指導機関として産業報国連盟を発足させ、理事長には河原田稼吉元内相、理事には本間精内務省警保局長・横溝光暉内閣情報局長・膳桂之助全国産業団体連合会常務理事・三輪寿壮社会大衆党代議士ら9名がそれぞれ就任した。 そこには労働組合代表は一人もみられず、産業報国運動ははじめから労働者不在の官製国民運動として出発した。

 同時に発表された「綱領」は、「国体の本義に則り」「産業報国の実を挙げ以て皇運扶翼の仕命を完了せむことを期す」とし、 「労資一体」「事業一家」の実をあげることを宣言したのである。

 ついで8月24日、内務・厚生両次官名による「労資調整方策実施に関する依命通牒」が知事あてに発せられ、労働者選出委員が参加する懇談会をもった企業単位産報会の結成が奨励・指導されたが、資本家側はこれに不満であった。そこで産報連盟理事会は、一方では「産業報国会規約例」を作成して資本家側が懇談会の労働者委員を任命しうる道をひらき、他方では産報連盟の事業を機関誌発行・指導者養成・講習会開催などに限定しつつ、同時に産報連盟と企業単位産報会との関係を強制的なものとしないとの措置をとらざるをえなかった。そして産報連盟は、9月中旬から10月にかけて厚生省や地方官庁と協力して資本家にたいする産報会結成奨励のための懇談会をひらいたが、実際に各地で産報会の結成を指導したのは道府県警察部であった。

 このように産報連盟は、地方組織をもたず、また企業単位産報会の連盟への加盟が任意であったため、1938年末の企業単位産報会数1158のうち連盟へ加盟したものは23、1939年3月になっても30余を数えるにすぎなかった。その原因は、なによりも「官憲からすすめられたから」産報会を作るという風潮が労資双方に根強かったことにあり、また懇談会の運用についても、待遇問題をとりあげる場合には、紛争予防のため警察が労働者委員を事前に呼び出して自粛を命ずるか、または臨席して適宜発言を抑えることが少なくなかったから、労働者の自発性喚起というにはほど遠い状況であった。

これにたいし1938年10月末日の全国産業団体連合会常任委員会では、産業報国運動の官僚主義化を批判し、産業報国運動を民間の自発的運動とするために産報連盟を強化すべLという意見が支配的であった。しかし産報連盟にはその要求に応ずるだけの力量がなく、結局1938年4月22日、産報連盟は平沼内閣にたいし産業報国運動への積極的指導を要請するとともに、自らは政府の指導に協力する立場を表明した。そこで政府は、4月28日、内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を知事あてに発し、知事(東京府は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成するよう指示し、ここに中央機関の産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成した。
こうして内務官僚と警察は、財界の意向と妥協しつつ産業報国運動の指導権を掌握するにいたったのである。

 これを契機に企業単位産報会の多くは、道府県警察部の行政指導によって結成された。産報会の設立状況は、1939年と1940年の一企業単位産報会あたりの平均会員数を比較すると、111名から47名へ減少しており、それは企業単位産報会が中小企業を中心に急増したことを示していた。かくて産報会は、その内実はともかくとして、1941年12月には全労働者の70%を組織することに成功したのである。

 産業報国運動の展開は、労働組合や無産政党に大きな衝撃をあたえた。まず日本主義を横棒する労働組合は官憲と一体になり、産報会結成の尖兵の役割を果たした。しかし産報会の結成が具体化すれば、既存の労働組合の存廃が問われることになり、混乱を恐れた官憲は、産報会設置を理由に「労働組合の解散を強ふるが如き挙に出づることは之を避けしむること」を注意したが、これによって現実の動きを押えることはできなかった。すなわち社会大衆党は、労働組合の解散による産報会一本化の方針に全面的に賛成し、同党組織部長で代議士の三輪寿壮を産報連盟理事におくりこみ、日本労働組合会議はやや消極的ではあるが産報連盟に協力した。これにたいし全日本労働総同盟は、すでに自身の手で「産業報国」の実をあげていることを理由にいちおう産業報国運動を批判したが、消極的協力を表明せざるをえなかった。こうして1940年7月から8月にかけてほとんど全ての労働組合が解散し、産業報国運動の第一の目的は達成されたのである。

 以上のべたように、国民精神総動員運動精動運動と産業報国運動は共に、内務官僚と警察が指導する官製国民運動として展開され、いずれの場合にも運動がもつ警察取締り的性格と人民の自発性喚起との矛盾が露呈されていました。しかも常に官権が人民の自発性を圧倒する形で運動が発展していったのでした。

 そして、1940年の新体制運動が展開される重要な要因がもう一つあります。政党政治の自壊です。 次回はそこに至る「権力集中をめぐる政争」を取り上げます。