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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(37)

大日本帝国の住民抑圧政策(4)

日本ファシズム論(3)



(今日はちょっと横道に入ります。)

【国体論】

 前回の国民精神総動員運動の展開の要点は次のようにまとめることができるでしょうか。
 政府はこの運動が民間から盛上がる自発的運動であるという偽装をしょうと、様々な手法を試みてその施策を推し進めようとしましたが、 どれも思わしい結果得られず、最終的には民間人主導の偽装をあきらめて、政府とりわけ内務官僚と警察主導の方向に進んでいきました。

 私はここで運動推進の主導に警察が加わっていることに大きな驚きを覚えました。しかし、この点については前回に直接転載した文中の赤字部分の論説 ですっかりと納得することができました。国体維持がそれを必要としたのですね。

 天皇を頂点とする国体の下での官製国民運動には「警察取締り的性格」が不可避なのでした。
 では現在の日本ではどうでしょうか。この問題はいずれ取り上げることになると思いますが、最近現在の日本の「国体」についての 納得できる解説に出会いました。この国体論を使わせていただくことがあるかと思いますので、それを紹介しておきます。『週刊金曜日(1189号・6月22日発刊)』の「白井聡さんに聞く:『国体論』で斬る米朝首脳会談と安倍外交」 という記事です。
(この記事をブログ用文章に変換していたら、東京新聞(6月27日付)の一面に白井聡著「国体論:菊と星条旗」の広告が掲載されていました。いずれ読んでみようと思いました。)

 では、「『国体論』で斬る……」を転載します。
     (━━……━━は聞き手の発言です。)

米国への隷属を続け、日本を破滅に導くのか
 北朝鮮に対し最大限の圧力を唱え続けた安倍晋三政権は、米朝首脳会談後、態度を一変させ、日朝会談に前向きとなった。  なぜ、ここまで米国に隷属するのか。「国体」の視点から政治学者の白井聡さんが斬る。

   ━━トランプ米大統領が5月24日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正恩(キムジヨンウン)委員長あて書簡で首脳会談の「中止」を表明したとき、安倍晋三首相は翌25日に
「米朝首脳会談に向けトランプ大統領と緊密に連携しており、方針は完全に一致してきています。実施されなくなったことは残念ですが、大統領の判断を尊重し、支持します」
と記者団に言い切りました。
 ところが、史上初の米朝首脳会談が6月12日にシンガポールで開かれ、両首脳が共同声明に署名すると、安倍首相は日朝首脳会談を可能な限り早期に実現するよう関係当局に指示しました。━━

 対米従属に徹している安倍政権にとって、きわめて必然的な対応でしょう。この間、赤裸々に可視化されてきたのは、戦後日本の支配体制が
「朝鮮戦争が終わってしまったら絶対困る。終わるくらいなら再開してほしい」
と考えていることです。なぜなら、安倍政権にまでつながる戦後の親米保守支配権力は、朝鮮戦争など東西冷戦が厳しくなっていくなか、米国によって戦争責任を免じられて戦後日本の支配者として選ばれたという出自を持つからです。冷戦構造が対米従属を必然化し、対米従属が彼らの権力基盤となってきた。したがって、冷戦構造の残滓である朝鮮戦争の終結は、彼らの支配構造を直撃します。朝鮮戦争が終結すれば戦争当事者としての国連軍(実質は米軍)は解散するでしょう。米軍が日本にいる根拠は、日米安保条約と国連軍なのですが、二本柱の一つがなくなるのです。

米軍の駐留リスク

━━ 「永続敗戦論」で白井さんが明示した「永続敗戦レジーム」ですね。━━

 はい。最新刊「国体論」で指摘したように、永続敗戦レジームを無限延命させたい勢力から見れば、朝鮮半島有事の発生はすべての懸案を解決します。衝突にいたった場合、さまざまなケースが考えられますが、いずれにせよ大規模な復興需要が南北朝鮮に発生します。戦争そのものによる需要と相俟って、アベノミクスなるインチキ膏薬で危うさを増した日本資本主義を救いえます。現に戦争をしているのだから「憲法9条と自衛隊」の問題も吹き飛びます。

 この「解決」は最悪の場合、日本が核攻撃を受けるリスクと引き替えです。そもそも、この危機がもたらされた大半の要因は、朝鮮戦争が休戦状態のまま放置され、それを根拠に巨大な米軍が日本に駐留し続けたことにあります。北朝鮮は自国を存続させるために核ミサイル開発に走ったのです。本来ならば、強調すべきは、懸案を解決し北朝鮮国家を国際社会の中に軟着陸させるために朝鮮戦争の終結へ向けて努力すべきだということですが、政府にはそのような姿勢は一切ありません。>

米軍の日本駐留はリスクが大きいのですが、そこを見ない人が多い。「米軍がいるから大丈夫だ」という日本人の漠然たる安心感、米国を頂点とする「国体」に抱かれた感覚は、米軍駐留がリスクの根源となっている事実から目を背けさせています。。
 新聞など大メディアも鼎の軽重が問われています。安倍政権への論調は、批判的な『朝日』『毎日』『東京』と、擁護的な『読売』『産経』『日経』に分かれていますが、米朝共同声明については「非核化のプロセスが固まっていない」と、ほとんどが批判しています。

 しかし、「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」とは何を指しているのか。核施設を破壊しても技術者がいる限り、再開発は可能です。能力を持っていることを、「潜在的核武装」だと批判するならば、翻って日本はどうなのか。余剰プルトニウムを多く抱え、技術もあります。こういう具合に自己を客観視できないのも、「国体」の中で内閉しているからなのでしょう。

━━ 「戦前の国体」は、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」を全国民に強制する体制でした。米国の媒介で戦後も「国体」が再編され維持されたと捉えるのが『国体論』の眼目ですね。━━

 はい。フルモデルチェンジを経て維持されたのです。頂点をアメリカが占める国体になった。天皇がその臣民を「赤子」として愛するという大日本帝国の物語に代わって、「アメリカは日本を愛してくれている」という物語がつくられた。だから、米軍駐留に抵抗がないのです。 ━━ 外国の軍隊にいてほしいとの願いは極めてねじれています。━━ 

 そろそろそのねじれも強制解消に向かうかもしれません。米朝共同声明をめぐっては、親米保守層が肯定派と否定派に分裂して〝発狂〟し始めるでしょう。トランプ政権の登場によって、「日本を愛してくれるアメリカ」という「戦後の国体」を支えてきた虚構がいよいよ通用しなくなってきたのです。

戦後国体の崩壊期

━━ 『国体論』では、戦前と戦後の国体について「形成期」「相対的安定期」「崩壊期」に分類し比較しています。米国を頂点とする「戦後の国体」も崩壊期に入ったのですね。━━

 ヘーゲルは「歴史的な大事件は二度起こる」と言いました。なぜかと言えば、一度では納得できないからです。歴史を画する重大な事件であればあるほど、自分たちの世界観が崩壊するため「たまたま起こっただけだ」と人はやり過ごそうとする。しかし、重大な出来事は構造的な必然性から起きるので、やり過ごしても必ずもう一度起こるのです。
 明治時代に形成された国体は、敗戦によって一度死んだように見えましたが、実は再編されただけだった。だからもう一度死ななければならないのです。

━━ この危機的な状況の中で、白井さんは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年8月8日)を「天皇が発する、歴史の転換を画する言葉となりうる」と受けとめました。後醍醐天皇による倒幕の綸旨や孝明天皇による攘夷決行の命令、明治天皇による五箇条の御誓文、昭和天皇の玉音放送の系譜に連なると指摘しています。━━

 歴史上天皇による重大な言葉が発せられたのは、激しい混乱、危機の時代です。その際には、権威としての天皇と実質的な権力との間で不和・対立が表面化します。いま天皇と最高権力者(首相)が対立していることは明らかで、だからこそ重みを持つ「おことば」が発せられた。

 ━━〈腐朽した「戦後の国体」が国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出た〉というのですね。━━。

 現在が国体の二度日の崩壊期であることを前提としてその文脈に置いたとき、「おことば」がどう位置づけられるかは、明らかではないでしょうか。その本質は「米国を事実上の天皇と仰ぐ国体でいいのか」という危機感に満ちた問いかけだと私は思った。。
 もちろん主権在民ですから、「おことば」が歴史の転換を画するものになるかどうか、その潜在性・可能性を現実に転化するのは民衆の力です。。

         〈聞き手・まとめ/伊田浩之(編集部)〉。

 次回は「本道」に戻ります。
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明治150年、何がめでたい(36)

大日本帝国の住民抑圧政策(3)

日本ファシズム論(2)



(勝手なおことわり……前回で木坂(執筆者)さんは「国民精神総動員運動」・「産業報国運動」をそれぞれ「精神運動」・「産報運動」と略称すると提示していましたが、その後の論説を読んでいて、私にはその略称はとても不便でした。以下、略称ではなく、本来の表記を用いることにしました。)

 国民精神総動員運動は、天皇制イデオロギーによる人民の思想的統合と団結をはかり、人民を自発的に戦争体制に動員することを目的とした、政府主導による上からの精神運動でした。それがあたかも人民による自発的な精神運動であるように偽称されていった経緯を追ってみます。

 林銑十郎内閣時代(1937年2月2日~6月4日)に内閣情報委員会が立案していた「国民教化運動方策」がその運動の出発点でした。
1937年6月24日
 各省次官会議が「国民教化運動に関する宣伝実施基本計画」を策定。
8月14日
第一次近衛文麿内閣、日中戦争の全面化に踏み切り、「国民的思想運動」を起こすことを決定。
8月24日
 「国民精神総動員計画実施要綱」を閣議で決定。
9月2日
 政府主催で国民精神総動員大演説会を東京の日比谷公会堂で開催。

 これが国民精神総動員運動の開始でした。その後は次のように進展していった。
10月12日
 馬場鍈一内相と安井英二文相の指導のもとに、運動の推進団体として国民精神総動員中央連盟が結成される

 この連盟は、民間から盛上がる自発的運動であるとの外観を国民精神総動員運動に与えるためにつくられた政府の外郭団体であり、、会長に有馬良橘海軍大将、役員には政界・官界・財界の代表者が就任。同時に政府は、民間団体に連盟への参加を要請しました。その結果、加盟団体は1938年3月31日現在で74団体に達しています。
 その後の進展については論考をそのまま転載します。


 国民精神総動員運動は、日本主義精神による精神教化運動と国策協力運動を二本柱として全国的に展開されたが、運動の熱心な推進団体は
帝国在郷軍人会・海軍協会・海軍有終会などの軍人団体、
国体擁護連合会・時局協議会などの「観念」右翼団体、
愛国婦人会などの婦人団体、
壮年団中央協会・大日本連合青年団などの青壮年団体、
全国神職会・仏教止連合会その他の教化団体
などであり、それらの団体役員の多くは小工場主・小売商店主・小地主・教員・神官・僧侶などのいわゆる地域の有力者=名望家であった。

 国民精神総動員運動の地方組織は、道府県単位の国民精神総動員地方実行委員会が中心となり、これに地方官庁が協力するという形でつくられた。実行委員会は、精動中央連盟よりもひと足早く10月6日までに結成され、全国で2845名の委員が任命されたが、そのうちわけは貴衆両院議員203名、道府県会議員198名、団体代表625名、通信報道機関代表者220名、教育家238名、宗教家76名、社会事業家79名、実業家139名、その他の有力者103名(以上民間人)、官吏588名、待遇官吏41名、市町村吏員325名(以上官僚)であり、民間人1891名(66%)にたいし官僚954名(34%)というように、民間人中心の運動いう外観をあたえるように配慮されていた。しかし市町村単位の組織をもたない実行委員会は、内務省の統轄下にある市町村役場とその指導下にある町内会・部落会に依存しなければ事実上運動ができないという限界を、発足の最初からもっていた。

 国民精神総動員運動の表面的な華々しさにもかかわらず、1938年になると早くも公然たる批判の声があげられるにいたった。
 第一の批判は、下部組織の弱さを克服するために部落会・町内会などを整備して利用せよというもので、内務官僚出身の産報中央連盟理事松井茂の意見がそれを代表していたが、それはすでに農山漁村経済更生運動や選挙粛清運動を通じて部落会や町内会の整備に着手しはじめていた内務官僚の意向を示すものであった。
 第二の批判は、運動の天降り的官僚主義や形式主義にたいするもので、1938年7月11日の『大阪朝日新聞』社説「精神総動員当面の目標」は、。
「地方実践網を命令一本で作れるように考えたり、散発的講師の派遣や講習済みの弁士の巡回で実効があるように思う安易な官僚風を修正せよ」。
と指摘した。

 その約一ヵ月まえの6月25日、大本営は徐州作戦につづいて武漢・広東両作戦の実施を決定し、6月23日には政府が物資総動員計画を発表するなど、さらに大規模な人民動員が必要となっていたにもかかわらず、精神運動中央連盟は上のような批判にたいする適応能力を欠いており、政府による強力な指導を要望する意見が連盟の内外から高まってきた。
 そこで政府は、7月29日、内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)に精神運動にたいする企画と指導の権限をあたえるという措置をとり、ここに国民精神総動員運動は、民間人主導の外観を放棄し、政府とりわけ内務官僚と警察主導の方向にすすむことになった。
 ところがこのような動きと並行して、7月2日、有馬頼寧農相が「下からの盛り上がる国民運動」を推進するための「国民総動員の再組織」=国民再組織論を提唱したことは、きわめて重大な意味をふくんでいた。というのは、「精動方式か、国民の自発性尊重か」という論争は、実は天皇制下における人民支配の基本原理とその方式をめぐる深刻な論争であったからである。すなわち、国民精神総動員運動の指導理念は、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」という三大スローガンにみられるように、明治以来の伝統的な天皇制イデオロギー=日本主義精神であり、きわめて抽象的かつ精神主義的性格をもち、実社会の生活と直結したものではなかった。そのためこれらのスローガンを実社会の生活と結びつけて機能させようとすれば、スローガンの内容を具体的に確定することは困難となり、結局主観的かつ恣意的な基準(多くは政府の国策)によって異端者と判定されたものを「国賊」「非国民」などのレッテルをはって排余するという消極的対応しかできなくなる。つまり天皇制が政治権力=権力的絶対者であると同時に精神的権威=倫理的価値内容の独占的決定者として社会に君臨している戦前の日本にあっては、「倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけずして却って直ちに外的な運動として押し迫る」ことになる。したがって国民精神総動員という方式こそ、天皇制支配下における「国民運動」方式による人民支配の基本的形態なのである。そしてまた「精動方式か、国民の自発性尊重か」という問題が、戦時下のあらゆる官製国民運動のあり方が議論されたときにかならず深刻な論争となった理由は、それが官製国民運動のもつ警察取締り的性格と人民の自発性喚起との矛盾を示すものであったからにほかならない。


 この後、日中戦争の戦局の変化が国民精神総動員運動にも大きな影響を及ぼしていく。


 1938年10月の広東・武漢両作戦終了を契機に戦局が持久戦段階にはいり、11月3日に「東亜新秩序建設」声明を発表したのち、近衛内閣は戦争解決のめどを完全に失って総辞職した。
 1939年1月5日に成立した平沼騏一郎内閣は、首相の「観念」右巽的体質を反映して国民再組織論には冷淡であり、木戸幸一内相は、1月9日、「「国民再組織」という言葉は国民を侮辱するようにおもえる」と語った。平沼内閣は、国民精神総動員運動に対する政府主導の方向を強化し、3月28日、荒木貞夫文相を委員長とする国民精神総動員委員会を設置し、内政会議が持っていた精神運動に対する企画と指導の権限を委員会に委譲した。ここに国民精神総動員運動は、精神運動委員会の企画と指導のもとに精神運動中央連盟がその実行にあたるという体制で推進されることになった。これにともない精神運動委員会は、4月7日、「国民精神総動員新展開の基本方針」を決定し、そのなかで「(一)肇国の大理想を顕揚し東亜新秩序の建設を期す、(二)大に国民精神を昂揚し国家総力の充実発揮を期す、(三)一億一心各々其の業務に精励し奉公の誠を効さむことを期す」との三大綱領を決定したが、そこには初期の三大スローガンにかわり、「東亜新秩序建設」声明以後における内外情勢が反映されていた。

 この時期の動きで重要なことがらは、地方組織の整備が急速にすすめられたことである。地方組織については、内務省が指導して道府県庁内に精勤運動の主務課(名称は総動員課・総動員事務局・地方課・事変課・時局課などさまざまであった)を新設する一方、4月28日、精神運動中央連盟理事会は、(一)道府県連盟の設置とそれによる郡市連盟支部の指導および郡市所在の各種団体との連絡強化、(二)町村における町村分会の設置と分会による隣保組織(部落会または五人組・一〇人組あるいは隣保班など)の指導、の二点を決定し、講演会・座談会・講習会などの開催と興亜奉公日(9月1日より毎月1日と決定)の行事を通じて実践網の整備にのりだした。その結果、1939年10月31日現在の道府県内実践網設置状況は、大きく伸びた。しかし、この実践網の整備は、表面的には精神運動中央連盟がおこなった形をとったが、実質的には内務官僚と警察の手によって推進され、のちの大政翼賛運動における内務官僚と警察の指導力の強さを保証する源泉となった。同時に世親運動中央連盟は、道府県庁あてに通牒を発し、各道府県ごとに1~6名の実践網優良指導者を上申させた。それによると、優良指導者の職業別構成には市町村長など内務大臣の統轄下にある地方官僚主導型の体質がはっきりと示されていたのである。

 その後1940年4月24日、米内光政内閣は、ついに精神運動委員会と精神中央連盟を廃止して新たに国民精神総動員本部を設置し、米内首相を本部会長、児玉秀雄内相と堀切善次郎(本部理事長兼任)を副会長とする一元的指導体制を確立した。同時に地方組織については、道府県知事を本部長とする地方本部が設置され、内務省はみずから「新機構に進んで参画し、中央地方共にその運動の主体となる」との考えのもとに、部落会・町内会などを国民精神総動員運動の下部組織として整備する方針を全面的に打ちだした。この内務省の方針は、新体制運動が展開中の9月11日にだされた内務省訓令「部落会町内会等整備要綱」にうけつがれてゆくのである。

明治150年、何がめでたい(35)

大日本帝国の住民抑圧政策(2)

日本ファシズム論(1)



 前回「日本ファシズム論」を取り上げる予告をしてから、早くも一週間が過ぎてしまいました。参考書に選んだ『岩波講座 日本歴史20 「近代7」』のどの章を紹介しようかと、ファシズムに関連する章を読んできたのですが、随分と時間がかかってしまいました。
 その過程で、日本ファシズムの形成過程がかなり複雑であることを知りました。その形成過程を出来るだけ簡素に纏めてくれている章として第七章を紹介することにしました。章題は「大政翼賛会の成立」で執筆者は木坂順一郎(執筆時、竜谷大学法学部教授)さんです。

 まず、日本ファシズムの特異性を指摘している「はじめに」を読んでおきましょう。

 日本のファシズムは、ドイツやイタリアのファシズムが「下からのファシズム」とよばれているのにたいし、「上からのファシズム」とよばれている。その最大の理由は、日本のファシズム化がドイツやイタリアのようにファッショ政党による擬似革命の成功という形態をとらず、天皇制支配体制内部の軍部を中心とする勢力が政治の主導権をにぎり、既存の国家機構をなしくずしに再編成することによって達成されたからにほかならない。
それだけに日本のファシズムには、極端な排外主義・侵略主義イデオロギーによる武力的対外進出の正当化とその実行、ファシズム以外の思想や運動を抹殺する暴力的専制支配、独占資本の利益の擁護といったファシズムに共通する特徴と同時に、ドイツやイタリアのファシズムとは異った特徴がつきまとっていた。

 言うまでもなく、ドイツ・イタリアのファシズムとは、それぞれ、ヒットラー・ムッソリーニが構築した政治体制である。そのファシズムと日本ファシズムの大きな違いは大政翼賛会の結成に顕著に現れていた。
1940(昭和15)年10月の大政翼賛会の結成は、日本ファシズムが体制として成立したことを示すばかりでなく、そこには日本ファシズムがもつ三つの特異な問題点が集中的に表現されていた。
その
 第一の問題点は人民支配の方式に関する問題であり、
 第二は権力集中の問題であり、
 第三は戦争と国際政治の推移がもたらす衝撃によってつねに上からのファッショ化が促進されたという問題である。

 ところでこのうちの第一と第二の問題は、国家総力戦体制の樹立という当時の支配層にとっての緊急課題と分かちがたく結びついていた。一般に国家総力戦体制とは、一国のすべての構成員と物的資源を有機的かつ有効に組織・統制・動員し、現代戦争を遂行するために必要な一元的戦争指導体制である。
 しかし天皇制支配下の日本でこのような体制を構築するためには、治安立法の強化による人民諸勢力への徹底的弾圧を前提としつつ、国家による人民の直接的把捉をつうじて人民の戦争協力への自発性を喚起することが必要であり、また大日本帝国憲法が定める多元的国家機構を整備統合することを中心に強力な権力集中を実現すること、具体的には国務と統帥の矛盾の解決、官僚制のもつセクショナリズムの打破、支配層内部の対立の一掃などが必要となる。しかも人民支配のあり方をめぐっては、治安対策の強化と人民の自発性喚起という本来矛盾する問題を同時に遂行しなければならないという困難がつきまとい、権力集中に関しては、憲法改正にまで行きつかないことには兵の一元的戦争指導体制が実現できないという困難な問題がふくまれていた。しかもこれらの問題は、いずれも天皇制存立の根本原則にかかわる重大な問題を内包しており、とくに近衛文麿内閣以後の歴代内閣は、これらの問題解決のために苦悶しなければならず、それだけにまたこれらの問題は、大政翼賛会の結成をめぐってもっとも深刻に争われなければならなかったのである。

 また第三の問題についていえば、日本の場合、一五年戦争の全期間をつうじて戦争と国際政治の推移がもたらす強烈な衝撃力によって常に上からのファッショ化が促進されたのであり、そうであればこそ日本ファシズム体制の成立・展開・没落の全過程を分析するにあたり、戦争と国際政治の推移を国内政治の動向と結びつけて考察することをつねに視野のなかにいれておくことが必要となる。

木坂さんはこれ以降の論考の課題について、  『以上のような三つの問題を念頭におきながら、大政翼賛会成立前後の政治過程を分析することにある。』
 と述べている。

 それでは第一節
「国家総力戦体制樹立への指向」
 に進もう。

1 官製国民運動の展開

 日中戦争の勃発(1937年7月7日)により大日本帝国は戦時国家の道を進み始めることになり、人民支配政策に大きな変更を強行した。

   日中戦争の勃発は、人民支配の方式に大きな変化をもたらした。
 それは、治安対策の強化を前提とし、国家による上からの人民の組織化が強行されたことであり、具体的には国家総動員法を根幹とする戦時統制法の乱発と、国民精神総動員運動(以下精動運動と略称)や産業報国運動(以下産報運動と略称)などの官製国民運動の大規模な展開となってあらわれたのである。

 治安対策の面では、治安維持法などの拡大適用のほかに、
 戦時治安法体制への移行を象徴する思想犯保護観察法(1936年5月28日公布)
 不穏文書臨時取締法(同年6月3日公布)の制定
 軍機保護法の改正(1937年8月24日公布)
 防空法の施行(同年10月1日)
などの措置がとられ、
 国家総動員法(1938年4月1日公布)の制定によって、政府は国防目的の達成を大義名分として一切の人的・物的資源にたいする統制権を手中に収めたた。
 そして国家総動員法にもとづき強力な労働力統制が実施され、
 国民徴用令(1938年7月8日公布)の制定によって全般的労働義務制が成立した。

 一方人民運動の側では、日中戦争の勃発を契機に労働争議が激減し、1932(昭和22)年3月の人民戦線事件によって全国的な組織的抵抗運動は不可能となった。
 しかし弾圧と労働力の統制によって人民の自主的組織を壊滅させても、それによってただちに人民の戦争協力への自発性が喚起できるわけではない。これらの措置と並行して各種の官製国民運動が展開された理由は、ここにあった。

人民戦線事件とはどういう事件だったのか。サイト「コトバンク」から「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」を転載しておこう。
1937年 12月 15日および,38年2月1日の2回にわたって,人民戦線派といわれた日本無産党,日本労働組合全国評議会,社会大衆党などの左翼労農派を治安維持法違反で一斉に検挙した事件。1回目の検挙者は約 400人に及び,山川均,猪俣津南雄,荒畑寒村,鈴木茂三郎,向坂逸郎,加藤勘十,江田三郎,黒田寿男,稲村順三らが含まれていた (第1次人民戦線事件) 。2回目も全国に及び,有沢広巳,大内兵衛,美濃部亮吉,脇村義太郎ら教授グループを中心として,佐々木更三を含む 38人が検挙された (第2次人民戦線事件) 。

 次回は、精動運動と産報運動の大規模な展開が大政翼賛会成立の前提条件を形成していった経緯をたどっていきます。
明治150年、何がめでたい(34)

大日本帝国の住民抑圧政策(1)

日本ファシズム論(前書)



 東京新聞に毎回異なる人が執筆している「言わねばならぬこと」という連載コラムがあります。その記事のほとんど全てが現在の日本の危うい状況についての論評です。
 そしてなんと、この連載は2013年12月13日から始まっています。そして、さらになんと、すべての論評の記録が全部公開されていて読むことができます。その記事一覧を紹介しておきます。
 『言わねばならないことの記事一覧』
 最新の記事は第110回(2018年6月15日)で、斎藤貴男さんの「奪われた自由 戦前想像して」という論評です。実は、私はこの論評に大いに刺激されて調べた結果「記事一覧」を知ったのでした。
 (これまでに私は私のブログ記事で斎藤さん著作の『「非国民」のすすめ』・『機会不平等』・『空疎な小皇帝-「石原慎太郎」という問題』を利用させて頂いています。改めてありがとうございます。)

 さて、私が大いに刺激された斎藤さんの論評「奪われた自由 戦前想像して」を転載します。

 「共謀罪」法(改正組織犯罪処罰法)の成立から一年。権力が市民を監視し、民主主義の絶対条件である「思想信条の自由」を奪う内容に危機を感じ、廃止を訴え続けてきた。その自由を安倍政権に奪われてしまったことに、改めて怒りと屈辱を感じている。

 共謀罪は、テロの未然防止の名目で一般市民がテロリストか否かを見分けるところから捜査を始める。性悪説に立ち、市民を見張るべき対象に位置づけている。本来、見張るべき対象は権力側ではないのか。
 この一年間に財務省の文書改ざんや自衛隊の日報隠蔽(いんぺい)などの問題が次々と明らかになった。権力こそ暴走したら恐ろしい。「権力は判断を誤らない」という考えはもはや信用できない。
 こういう話をすると「被害者意識ばかり膨らませている」と批判を受ける。確かに共謀罪の疑いで逮捕された人はまだいない。でもそれは、単に権力が逮捕しなかったということにすぎない。恣意(しい)的な判断で逮捕できるという現状は変わらず、むしろ社会は監視の度合いを強める方向に向かっている。

 共謀罪法が成立した前年には通信傍受法が改正され、警察が会話を盗聴できる対象犯罪が広がった。今月から他人の罪を密告すれば自分の罪を軽くできる司法取引制度も始まっている。全ての動きは連動している。この国の「自由度」は極端に狭まっている。

   気掛かりなのは、社会が現状に無関心であるように感じられること。戦争がない状態が当たり前の時代に育った人が大半を占めているから仕方ないかもしれない。だが、思想信条の自由が奪われた戦前を思い起こしてほしい。無理にでも想像する力を働かせないと、歴史は必ず繰り返される。

   もう一つ、私が大いに共感した記事を紹介します。これは実は今朝(㋅18日)の事で、日刊ゲンダイのホームページで出会ったばかりの記事です。紹介しておきます。
『作家・中村文則氏が警鐘 「全体主義に入ったら戻れない」』
 これは長い記事ですから記事全体の転載はしません。直接お読みいただければと思いますが、私がこれから取り上げようとしている問題とかかわる部分だけを転載しておきます。

 この記事は日刊ゲンダイの記者さんのインタビューを纏めたものですが、まず導入部の記者さんの問題提起です。
 『ウソとデタラメにまみれた安倍政権のもと、この国はどんどん右傾化し、全体主義へ向かおうとしている――。そんな危機感を抱く芥川賞作家、中村文則氏の発言は正鵠を射るものばかりだ。』

 次は第6節(?)ほど先の記事で『――第2次安倍政権の発足以降、「この数年で日本の未来が決まる」と警鐘を鳴らされていましたね。』という記者さんの問いかけに対する中村さんの談話です。

 『これほどの不条理がまかり通るのであれば、何でも許されてしまう。「ポイント・オブ・ノーリターン」という言葉がありますが、歴史には後戻りができない段階がある。そこを過ぎてしまったら、何が起きても戻れないですよ。今ですら、いろいろ恐れて怖くて政権批判はできないという人がたくさんいるくらいですから、全体主義に入ってしまったら、もう無理です。誰も声を上げられなくなる。だから、始まる手前、予兆の時が大事なんです。』

   いま日本が全体主義に向かいつつあることへの警鐘を強く打ち出しています。ここで言われている「全体主義」は別の言葉で言い表せば「ファシズム」でしょう。

 さて私は前回まで15回に亘って「大日本帝国の植民地」問題を取り上げてきました。植民地で行われた住民に対する苛酷な経済搾取や残虐な住民動員は、程度の差はあれ当然大日本帝国本土の住民に対しても行われていた。今回からこの問題を取り上げようと思っていましたが、この問題はこれまで書いてきたいろいろなカテゴリで取り扱っていましたので、重複を恐れてためらっていました。それが上の二つの記事に出会って、ファシズムに向かいつつある今、住民をがんじがらめに抑圧しつくしていったファシズムの時代を、新たなカテゴリを設けて取り上げ直すべきだ、という思いに至ったのでした。

 (だいぶ長い前書きになってしまいましたが、)
 ……ということで、次回から日本のファシズムをとり上げることにしました。参考書として、『岩波講座 日本歴史20 「近代7」』を用います。
明治150年、何がめでたい(32)

大日本帝国の植民地(15)

戦時下の植民地(追記)



 前回で『戦時下の植民地』を読み終わりました。
 この論考を読み始めたとき、私はこの論考を
 【「戦時下の植民地」問題を全面的に 詳しく論じている鈴木さんのこの論考は他に見られない貴重なものに思えてきた。】
と書きましたが、読み終えた今、この判断は間違っていなかったと思っています。大日本帝国の植民地に対する残虐な政策については 『昭和の15年戦争史』『大日本帝国の痼疾』など、いろいろなところで取り上げてきていましたが、今その全貌を知って改めてその国家犯罪のおぞましさを痛感しています。

さて、前回でこのカテゴリは終わりにしようと思っていたのですが、最近ぜひ紹介しておきたい二つの関連記事に出会ったので、もう一回追加することにしました。

 一つは、「戦時下の植民地」問題を短いながら鋭く指摘している論説に出会ったので、それを紹介しておきます。『週刊金曜日1186号(2018年6月1日)号』の編集後記で成澤宗男さんが記述している次の論説です。

 いったいこの国は、われわれに何をしたからといって隣国を滅ぼして植民地にし、その国の人々の言葉と名前、尊厳を奪ったのか。
 しかもそれを実行したり、煽動した輩の肖像を紙幣に収めるというのは、正常な神経なのか。
 いったい隣国の人々が何をしたからと関東大震災で多数を殺め、戦争になると「帝国臣民」として死地に送り、女性を性奴隷にし、炭鉱や鉱山で強制労働をさせ、戦争が終わると民族教育を禁じてこどもたちを学校から放逐したのか。

 そして今また民族教育の場を高校無償化から除外し、そこに学ぶ女性徒に制服の民族衣装を着られなくしたのか。
 彼らの民族性に対する侮蔑が、なぜこれほどまでに社会で溢れているのか。
 そして何よりも、過去と現在のこうした悪行を、どうして懺悔と羞恥の対象として自覚できないのか。

 誰しも「日本人」という出自は、おのおのの選択の結果ではない。だがこのままでは、それは末代まで恥知らずと道徳的欠損、健忘症の同義語と見なされ続けるほかない。

 「懺悔と羞恥の対象」どころか、臆面もなくヘイトスピーチに興じる無知蒙昧な輩が後を絶ちません。

 二つ目は、そうした輩と同等の無知蒙昧さをさらけ出している国会議員がいることをつい最近知って、それを記録しておきたいと思いました。
 その記事は東京新聞朝刊(2018・5・30)の『こちら特報部』の【自民国会議員ら科研費口実に政権批判学者らに圧力?】と題する記事(以下、特報部と略称する)で、「脅かされる学問の自由 法大総長、異例のメッセージ」という副題が添えられている。

 自民党の議員等が繰り広げているキャンペーンの無知蒙昧ぶりを特報部は次の様にまとめている。
 背景にあるのは、自民党の杉田水脈衆院議員や、その賛同者による科研費をめぐる一部研究者へのバッシングだ。同議員は二月の衆院予算委で、戦前に朝鮮半島から徴用された徴用工問題に取り組む研究者に科研費が交付されたことを引き合いに
「徴用工間題は反日のプロパガンダ。科研費で研究しているひとたちが、韓国の人たちと手を組んでやっている」
と訴えた。
 その後もネット番組などで、政権に批判的な研究者らを名指しし、「科研費が反日の人のところに使われている」などと主張。「国益に反する研究は自費でお願いいたします」と発信し、物議を醸している。

 特報部は法政大学の田中優子総長に取材して、このキャンペーンに対する田中総長の批判を次のようにまとめてている。
 「科研費をめぐる問題は学問の自由が失われるか否かの問題。法政大だけでなく、学問全体にとって深刻な事態だ」
田中総長は取材にそう語気を強めた。

 田中総長はメッセージに
「適切な反証なく圧力によって研究者のデータや言論をねじふせるようなことがあれば、断じてそれを許してはなりません」
と記したが、科研費閻題に加えて、働き方改革の不適切データ間題で同大学の教授が中傷されたことも異例の発表の動機になったという。

 科研費は文系か理系かを問わず、幅広い分野の研究を支援する制度。研究者が応募し、同じ分野の研究者が審査、採択されれば研究費が助成される。年間の予算額は約二千二百億円で、応募件数は約十万件(2016年度)に上る。研究者の政治的立場などは審査の対象外で、交付後は大学など研究機関が管理するため、研究以外の用途で使うことは不可能だ。

 杉田議員の趣旨は「科研費は税金で、日本のために使われなければならない」ということだが、田中総長は
「科研費の交付を研究者の政治的立場や考え方で線引きすることは絶対にあってはいけない。憲法で定められた学問の自由が脅かされる。議員にはまず、憲法を学んでほしい」
と語る。
 「宇宙の研究、外国の研究、戦争の研究など全てが日本のためになっている。『日本=政権』ではなlい。時の政権にとって役に立っているか否かで判断すこと自体、ナンセンスだ」

 今後、事態の推移によっては、法的手段も辞さないという。
「一部の弁護士会に対する特定弁護士への大量の懲戒請求と同様、研究に差し支える事態になれば、検討せざるを得ない」
 「こちら特報部」は、杉田議員にも発言の真意を尋ねたが「本人がいないため回答できない」(同議員事務所)とのことだった。
 ちなみにこの間題では、林芳正文科相が22日の参院内閣委員会で
「科研費は、研究者の自由な発想に基づく研究を支援する。科研費の執行は適正に行われている」
と答弁している。

 特報部は杉田議員に問題視された学者たちの反応を次のようにまとめている。

 杉田議員に問題視された学者のお一人法政大学の山口二郎教授は、本欄「本音のコラム」(4月29日)で反論しているが、他の研究者らはどう受け止めたか。

 「慰安婦」問題などを論じた研究グループの牟田和恵・大阪大教授(ジェンダー諭)は、杉田議員のツイッターで
「慰安婦問題は女性の人権問題ではありません」「税金を反日活動に使われることに納得いかない」
などと批判された。
 同グループは
 「規程に従い予算執行しており、不正使用や無駄遣いはない。幾人かは日本政府の『慰安婦』問題対応を批判する論文を執筆しているが、日本が国際的な人権を支持する国になってほしいからで『反日』とされるいわれはない」
と反論。牟田教授は
 「無知や誤解に基づく誹謗中傷だ。国会議員にあるまじき偏った言い方」
と憤る。

 琉球独立論などを研究している松島泰勝・龍谷大教授(島嶼経済学)は「八重山日報」に寄せた杉田議員の論稿で「沖縄県の振興開発と内発的発展に関する総合研究」という研究名で科研費を受け取ったとされ、税金を使って「『琉球独立』を主張するのはいかがなものか」と指摘された。
 しかし、実際の内容は主に経済研究。松島教授は
 「科研費で琉球独立は研究していない。国会議員の影響力を使い、自らの意見に合わない研究を抑圧しようとしている。琉球ヘイトもここまで来たか」
と驚く。

  上に、山口二郎教授が「本音のコラム」(4月29日)で反論しているとあった。私は「本音のコラム」も欠かさず読んでいるが、山口教授のその反論は記憶に残っていない。改めてその反論を知りたいと思い調べてみたら、山口教授のブログに掲載されていた。転載しておこう。

 公のメディアで発言する以上、私の主張に対して批判があるのは当然である。しかし、根拠のない言いがかりには反論しなければならない。

 このところ、政府が研究者に交付する科学研究費について、杉田水脈、櫻井よしこ両氏など、安倍政権を支える政治家や言論人が、「反日学者に科研費を与えるな」というキャンペーンを張っている。
 私は反日の頭目とされ、過去十数年、継続して科研費を受けて研究をしてきたので、批判の標的になっている。
 櫻井氏は科研費の闇という言葉を使っているが、闇などない。研究費の採択は、同じ分野の経験豊富な学者が申請書を審査して決定される。交付された補助金は大学の事務局が管理して、各種会計規則に従って、国際会議の開催、世論調査、ポスドクといわれる若手研究者雇用などに使われる。今から十年ほど前には、COEと呼ばれる大型研究費が主要な大学に交付されたので、文系でも億単位の研究費を使う共同研究は珍しくなかった。研究成果はすべて公開されているので、批判があれば書いたものを読んで具体的にしてほしい。

 政権に批判的な学者の言論を威圧、抑圧することは学問の自由の否定である。天皇機関説を国体の冒瀆と排撃した蓑田胸喜が今に生き返ったようである。こうした動きとは戦わなければならない。

 さて、特報部は以上のようなまるで戦前の亡霊がよみがえったような政治の劣化状況を次のようにまとめている。

 こうした動きで想起されるのは戦前の事例だ。1933年、京都帝国大(現京都大)の滝川幸辰(ゆきとき)教授(刑法)が、菊池武夫・貴族族院議員らから講演内容などが共産主義的と攻撃され、大学を追われた「滝川事件」が発生。35年には、東京帝国大(現東京大)の美濃部達吉名誉教授の憲法学説「天皇機関説」をやはり菊池議員らが批判し、政府が同学説の流布を禁じた「天皇機開説事件」がl起きた。

 戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は
「いま国会議員が非難している構図は、まさに天皇機関説事件で菊池が「学匪(がくひ)』と批判したのと同じ。もともと美濃部を目の敵にしている右翼がいたが、口実が見つからず、そこに出てきたのが天皇機関説だった。学問レベルでの反論ではなく、国体に反するといった一方的な言い掛かりだった」
と説明する。

 その後、日本では軍部批判も姿を消し、破滅的な戦争に突入していった。
「現在も威圧や恫喝が増え、空気の流れは当時と同じように段階的に進んでいる。『反日』の背景にある国防の概念を大義名分に振りかざすのは、戦前の日本でも繰り返されたパターンだ」
 上智大の中野晃一教授(政治学)も
「ここでの『反日』は『反安倍』のこと。政権に異を唱えるのは許さないということだ。そもそも学問は国のために奉仕するものではなく、すぐ役に立つものも、そうではないものもある」
と話す。
 そして、一連のキャンペーンの狙いを「改憲」とみる。
「国民投票のときに自由な議論をされては困るので、学者を黙らせ、萎縮させようと仕掛けている。こんなことがまかり通れば、日本の大学の競争力や国力もますます弱まる」
 田中総長は、科研費を口実にした学者への圧力について
「看過してまえばどんどん広がってしまい、学問の自由や大学での言論が萎縮してしまう。ひいては学問の自主性が失われ、学問が政権の道具になってしまいかねない」
と危ぶむ。

 「誰かの発言に対し、わけも分からず乗っかってしまうことは危険だ。今回の件も科研費の仕組みを調べてみれば、国会議員の発言が誤りだとすぐに分かる。賛同する前に踏みとどまり、自分で考えほしい」

(デスクメモ)
「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴とののしられた世の中を私は経験してきた」。
 こう記したのは昭和天皇の末弟で、歴史学者の故三笠宮崇仁親王だった。この感覚は一昔前までは「常識」だった。ここでいう常識は「正気」と言い換えてもよい。(牧)

明治150年、何がめでたい(31)

大日本帝国の植民地(14)

戦時下の植民地(11)


『植民地支配の崩壊』(2)

 前回見たように、戦時下の大日本帝国による植民地支配は、戦争末期には総力戦体制を支えるための徹底的な植民地収奪によって植民地経済は生産力拡充、農産物の増産集荷、労働力動員、物資の配給統制などすべての面でほとんど破綻していました。
 この状況をさらに植民地支配の内部からの崩壊へと推し進めたのは、各植民地でたえまなく続けられた抗日民族運動と植民地人民の様々な抵抗でした。今回はその「植民地支配の崩壊」に至る経緯を取り上げます。

[満州国の場合]

1941年12月末 治安維持法を公布施行
 治安維持が終始最大の課題であった「満州国」では、太平洋戦争勃発後、従来の暫行懲治叛徒法・暫行懲治盗匪法を改正統合して新たに治安維持法を公布施行した。この法に、すべての反満抗日勢力を「国体ヲ変革スルコトヲ目的」とするものとして極刑に処すという規定を設けて、治安体制の強化をはかったであった。

   しかしなお、国内の抗日勢力の一掃は不可能であった。
 前回に取り上げたように、1940年から小部隊編成に移った満州の東北抗日連軍は、その後も引き続き各地で遊撃活動を展開した。
 たとえば42年初には第三路軍系の王明貴部隊は黒河省に進出し、ついで北安・竜光・興安東省に遊撃戦線を拡大した。
 また1938年から熱河省に進出した八路軍部隊と抗日連軍の冀察熱(地名)挺身隊はその後も遊撃地区をしだいに拡大し「満州国」支配を側面から脅かした。
このため日本は、41年10月から「西南地区治安粛正工作」を実施し、熱河地方の抗日勢力の一掃をはかったが、日本の敗戦にいたるまでその目的は達せられなかった。

[朝鮮の場合]

 一方、朝鮮人民革命軍も1940年8月以来小部隊編成の下に間島省一帯と朝鮮内に深く潜入して活動をつづけ、これに呼応して朝鮮各地に祖国光復会をはじめとする地下抗日組織が拡大していった。

 このような人民革命軍の活動は朝鮮人労働者に強い影響を与えた。1942年7月には朝鮮窒素興南工場、片倉製糸咸興工場などでストライキがおこり、43~44年にはソウル・平壌の電気部門労働者が反日秘密結社を組織して強制徴用反対の闘争を行い、日本製鉄清津製鉄所の労働者はサボタージュ闘争を展開する一方、大規模な反日暴動の準備のため人民革命軍との連絡をはかった。また平壌の鉄工労働者もひそかに武器をつくり、人民革命軍に合流して祖国解放の武装闘争への参加を計画した。労働者の抵抗とならんで、一般民衆の中にも民族的抵抗は根づよく続いた。

1941年2月 総督府、朝鮮思想犯予防拘禁令(制令八号)を施行
   朝鮮人の反日思想を極度におそれた総督府は、この政令施行で抗日朝鮮人の取締りの徹底を期した。
 また42年10月には『ハングル大辞典』の編纂をすすめていた朝鮮語学会を治安維持法によって弾圧し、李允宰、李克魯ら多数の朝鮮人を検挙し、起訴した12名のうち李允宰と韓澄を獄死させ、他の者を二年から六年の刑に処した。
 しかしこれでもって朝鮮人民の反日思想を抑えられるはずはなかった。たとえば日本官憲によって検挙された思想事件数だけをみても、42年の183件から43年には322件に、さらに44年は上半期のみで132件に達している。

 さらに日本の敗戦が近づくと、国外の朝鮮民族の独立運動もあらたな高揚を迎えた。中国本土では1942年秋、国民政府の要請によって金元鳳派の朝鮮義勇隊が韓国光複軍に合流し、朝鮮民族革命党も臨時政府支援を表明した。また中国共産党の援助下にあった華北朝鮮青年連合会は、朝鮮義勇隊の参加をえて43年8月に華北朝鮮独立同盟と改称し朝鮮独立の闘争に参加した。

 1943年11月 米・英・中三国によるカイロ宣言採択
  この宣言で
 「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ(やがて)朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシメルノ決意」
  を表明したことは朝鮮の独立運動をつよく刺激した。翌年3月韓国光複軍は朝鮮独立に備えて国内工作委員会(委員長金九)を設置した。また朝鮮でも44年8月呂運享らが建国同盟を結成し、下部に農民同盟、軍事委員会などを組織するとともに、海外の独立運動と連絡をとりつつ朝鮮解放の日に備えた。

[台湾の場合]

 この間、台湾人の民族運動も絶えることはなかった。
 前回に取り上げたように、1940年に在中台湾人の抗日民族団体を糾合して重慶に台湾革命大同盟(翌年台湾革命同盟会と改称)が結成されたが、1942年国民政府は台湾回収に備えて革命同盟会を母体とする軍事委員会直属の台湾工作用団と国民党台湾省党部準備処を設立した。
 さらに43年のカイロ宣言により台湾の中国返還が約されると、国民政府は中央設計局に台湾調査委員会を設け、台湾の実情調査と行政経済幹部の養成にあたった。
 また台湾島内では日本の徹底的弾圧によって人民の組織的抵抗はほとんどみられなかつたが、戦争末期に日本の台湾統治の動揺が深まると、台湾人民の反抗をおそれた総督府官憲は、蘇澳スパイ事件(10人以上の台湾人漁民が軍法会議にかけられて処刑された)を捏造して台湾住民に激しい弾圧を加えた。

 このように各植民地の内外における抗日民族運動と人民の抵抗が日本の植民地支配に重大な脅威を与えていたとき、太平洋戦争における日本の破局化は、さらに日本の植民地支配を最終的に支えてきた日本帝国主義の軍事力を急速に衰退させるにいたった。

 まず「満州国」支配の軍事的支柱をなした関東軍は、1943年以降南方作戦のためた相次いで基幹兵力を抽出され、43年の兵力保有量(実質九箇師団程度)は42年の半分以下に減少した。
 このため43年8月大本営は関東軍の任務を根本的に変更し、
 「概ネ京図線(新京・図椚間)以南、連京線(大連・新京間)以東ノ要地ヲ確保シテ持久ヲ策シ以テ全般ノ作戦ヲ有利ナラシム」
 こととし、対ソ戦に備え「満州国」全土の防衛に当るとされた関東軍の従来の任務は完全に放棄された。
 関東軍からの兵力抽出はその後もつづき、45年3月には陸海軍の本土決戦計画にもとづいて七箇師団が日本と朝鮮南部に送出された。

 このような兵力の激減を補うため関東軍はいわゆる「根こそぎ動員」を計画し、同年7月から在満日本人適齢男子約40万人のうち必要最少限の要員を除く約25万人の臨時召集を実施した。
 しかしすでに関東軍の装備は絶対的不足を示し、あらたに動員された部隊の兵器も国境守備隊の全面的撤退と「満州国」軍の改編整理によって浮いた兵器を流用するほか、「尚足らざるは竹槍装備をするも可なり」といった有様で、関東軍を主力とする「満州国」の軍事体制は、ソ連の参戦を目前にしてすでに解体寸前の状態に陥っていたのである。

 また朝鮮では、44年10月のアメリカ軍のフィリピン上陸作戦後に戦場化の危険性が急速に高まると、45年2月朝鮮軍は本土決戦準備にあわせて第一七方面軍(司令官上月良夫)に改編され、3月には大本営の指示によって済州島と南朝鮮の兵力増強が行われ、とくにアメリカ軍の攻略が予想された済州島は全力をあげて要塞化された。また済州島以外の南朝鮮の兵力不足は、在朝鮮日本在郷軍人の最大限召集と多数の朝鮮人兵士の編入によって補われたが、その戦闘能力の劣勢は覆うべくもなかった。

 一方、総督府では、6月の日本における国民義勇隊の組織化にならって、翌月総力連盟を解散させ、新たに朝鮮国民義勇隊を編成し、朝鮮人を軍隊的に組織して戦争への総動員をはかった。

 さらに台湾では、44年7月サイパン島の日本軍全滅を契機とする戦局の急激な悪化によって台湾の戦場化は不可避とみられた。そのため同年8月5日総督府は「台湾戦場態勢整備要綱」を発表し、
 「台湾戦場化必至の情勢に鑑み陸海軍の作戦に即応して台湾の有する人的物的総力の戦功的切替を断行」(『台湾時報』1944年8月号、4頁)
する台湾防衛の方針を明らかにし、軍事・行政・経済・民生の全般にわたる臨戦体制化を実施し、総督府に防衛本部・経済動員本部・運輸通信本部の三臨時機構を創設し、戦時行政を一元化した。
 また9月には台湾軍が第一〇方面軍に改編され、12月末同方面軍司令官安藤利吉陸軍大将が長谷川清に替って総督を兼務し、軍と行政の一体化を実現した。

 このような台湾の臨戦体制の下で台湾人民の戦争への動員はさらに強化された。すでに44年7月から国民徴用令が全面的に発動されたほか、45年2月産業奉公会は台湾護国勤労団に改編され、勤労隊編成によって軍特殊工事などに従事する台湾人労働者は一日当り27~30万人におよんだ。
 また6月には台湾でも皇民奉公会と保甲制度(行政機関の最末端組織。10戸で「甲」を、10甲で「保」を編成。)をともに解消し、これらを基盤として本島防衛の実践組織としての国民義勇隊が中央・地方に結成され、台湾人民の決戦体制への動員が計画された。

 しかし、このときすでに台湾の植民地支配は事実上麻痺していた。
 45年4月アメリカ軍の沖縄上陸作戦の開始によって日木本土との海上連絡は完全に杜絶し、5月末の米軍機の台北大空襲によって軍=総督府の統治機能は半身不随の状態におちいった。
 こうして日本の敗色が濃厚になると、前述のように台湾住民の日本支配からの離反傾向は様々な形で表面化したのである。

1945年8月15日 大日本帝国、無条件降伏。
 敗戦による日本帝国主義の崩壊は、すでに戦争末期にあらゆる面で崩壊に瀕しつつあった日本帝国主義の植民地支配の解体を最終的に決定づけた。

 8月9日未明、ソ連極東軍がソ満国境の三正面から一斉に進攻を開始すると、すでに決定的に空洞化していた関東軍は一挙に潰走した。8月13日「満州国」皇帝と政府首脳は関東軍総司令部とともに通化省臨江県大栗子まで後退し、日本降伏後の8月17日最後の重臣会議は皇帝の退位と「満州国」の「解散」を決定した。これが「満州国」の最後であった。
 また朝鮮、台湾では、日本降伏後もしばらくは各総督府の機構が形式上残存したが、植民地支配権力としての実質が日本帝国主義の敗北と同時に喪失したことはいうまでもない。

 かくて満州、朝鮮、台湾をはじめ日本帝国主義の全植民地支配体制は、戦時体制の下で埴民地支配のあらゆる矛盾を露呈しつつ、日本帝国主義の敗北と同時に瓦解した。それはまた、各植民地で長年にわたって絶えることなく続けられた各民族の抗日と独立と解放の闘いの歴史的結実だったのである。
明治150年、何がめでたい(30)

大日本帝国の植民地(13)

戦時下の植民地(10)


 今回から、『戦時下の植民地』の最終章に入ります。

『植民地支配の崩壊』(1)

戦時植民地支配の破綻

1941年12月 太平洋戦争勃発
 この戦争のあらたな拡大は、植民地に対たいする日本の軍事的要求をさらに増大させたが、すでにそのとき各植民地の戦時体制はあらゆる面で行詰りつつあった。
 この状況に対応する植民地政策は次の様に進められた。

[満州国の場合]

 12月22日 「満州国」政府は「戦時緊急経済方策要綱」を発表。
  「日本における戦時緊急需要の応急充足に対処」するために石炭・鉄・非鉄金属など重要物資の対日増送を最重点とする経済再編の緊急方策を明らかにした。

  すでに41年9月に策定された満州産業開発第二次五ヵ年計画原案でも主力を石炭と農産物の増産におく極端な重点主義の方針が確認されていたが、開戦による日本の軍需の急増は計画の確定を困難にし、さらに必要な資金・資材の調達の見通しもなく、結局第二次計画は、第一次計画における満州産業の「開発」主義からもっぱら日本の軍事的必要に即応する生産拡充主義にその性格を一変させていた。
  そして、上記のような戦略物資の増産と対日増送のみを追求する経済政策の強行は、満州戦時経済の矛盾と偏頗性を、次のようにさらに拡大した。

 生産力拡充資金調達のため満業は、41年6月満州投資証券株式会社(「満州国」特殊法人)を設立する一方、同年9月に自社資本を6億7500万円に増資し、45年には関係会社への投融資額は41億円をこえた。
 また42~45年の日本の対満投資総額も25億9300万円にのぼったが、日本からの資材供給は41年をピークとして減少し、さらに不足する資材の政府による配給も不均衡となった。たとえば42年度の昭和製鋼所の各種割当資材の実績配給率は平均約七割にとどまり、満州炭鉱でも平均約六割にすぎなかった。したがって膨大な投資にもかかわらず満州の生産拡充計画は破綻を免かれなかった。
 たとえば石炭生産の43年度実績は2650万トンで計画の90%にも充たず、家庭炭、一般産業用炭を極度に制約した。また同年度の銑鉄・鋼材の生産実績もそれぞれ計画目標の57%、44%にすぎなかった。その上、44年7月にはじまる米軍機の鞍山・大連地区の空襲は軍需産業に甚大な打撃を与え、満州戦時経済を混乱させた。

 このように、生産拡充と戦時行政の拡大は巨額の国家資金の撒布を要求した。そのため満州中銀券の発行高は41年から急激な膨脹を示し、戦時インフレの深刻化は民衆生活を破滅に追いこんだ。

 このような植民地の戦時インフレーションは朝鮮・台湾でも例外なく昂進した。朝鮮では膨大な臨時軍事費の撒布と総督府財政の膨脹、生産力拡充資金の放出等によって朝鮮銀行の通貨発行高は累増し、台湾でも軍資金が台湾銀行券の形で撒布され、生産力の減退による物的裏付を欠いたまま悪性インフレを昂進させ、物価の急騰を招いた。植民地の戦時経済における通貨の膨脹と物価の上昇は日本本国に此してはるかに急激であり、植民地人民が戦時インフレによっていかに激しい収奪にさらされていたことが分かる。

 さらに満州では、上述のようなインフレに加えて消費物資の絶対的不足により41年8月から実施された日常生活必需品の配給切符制は、43年6月の通帳切符配給統制規則の制定によって全面的に強化された。しかし戦時統制経済が広汎かつ複雑になるにつれ、経済の混乱とヤミ市場の拡大を招き日本当局者でさえヤミ市場で重要物資の収買に当る有様で、戦争末期には満州の統制経済は完全な行詰りに逢着した。

[朝鮮の場合]

 また朝鮮でも太平洋戦争開戦後の日本の要求は鉄鋼・石炭・軽金属などの重要地下資源に向けられた。しかし朝鮮の生産力拡充計画は、満州の場合と同じく資材・労働力の不足に阻まれ、その実績は41年度84%、42年度75%、43年度90%といずれも目標に達しなかった。
 そのため総督府では、44年4月から生産責任量を指示し、併せて総督府の行政機関、総力連盟をあげての責任完遂総決起運動を展開し、生産増強に狂奔した。
 また44年から生産力拡充計画を重点主義に移すとともに「企業整備」を実施し、その結果、朝鮮の中小民族資本は日本独占資本にほとんど吸収され、同年の朝鮮産業会社に占める朝鮮民族資本の比率はわずか2.9%にすぎなかった。

[台湾の場合]

 台湾では太平洋戦争勃発後の「南進基地」としての役割の増大に即応して、42年4月から先の臨時台湾経済審議会の答申にもとづいて生産力拡充第二次五ヵ年計画を実施した。
 この計画は主として台湾の重化学工業化に重点をおき、石炭・鉄鋼・軽金属などの鉱物資源の増産がはかられた。しかし戦局の悪化と船舶の絶対的不足による海上輸送力の減退は、必要な資源・資材の供給を困難にし、台湾の生産計画そのものを破綻にみちびいた。
 たとえば第二次五ヵ年計画の一環として42年から着手された出力46万キロワットの大甲渓電源開発事業も日本からの必要資材の供給不能によって翌年にははやくも計画はうちきられた。
 さらに44年7月のサイパン島の日本軍全滅、10月の米軍のフィリピン上陸作戦による戦局の破局化は日本との海上連絡をほとんど杜絶させ、また同年10月から開始された米軍機の台湾空襲は台湾工業に重大な損害を与え、44年度の生産実績は計画の65.4%にとどまった。

[植民地農業の荒廃]

 太平洋開戦後の植民地の臨時体制は、鉱土業資源とともに農産物にたいする日本の収奪をさらに強化し、植民地農業を荒廃にみちびいた。「満州国」では累増する食糧需要を充たすため、1942年2月「戦時農産物集荷対策要綱」を策定し、軍・政府・協和会・合作社などの関係機関に総力をあげて農産物集荷を促進するように命じた。すでに41年度から実施された農産物の計画的集荷は年度初に中央から省別の出荷量が指定され、それによって県・村・屯に順次供出割当が通告される仕組みであったが、農民に対する供出割当は全国集荷目標の累増によって加重されたばかりでなく、収買価格も日本で一方的に決定され、インフレによって増大する生産費コストを大幅に下まわり、農民に大きな犠牲を強要した。
 その上、出産物の出荷奨励のため42年から実施された綿布の特配(出荷量トン当り綿布15平方ヤール)も、43年にはトン当り10平方ヤールに、44年には7平方ヤールに減少されたばかりでなく、45年から新たに 「報恩出荷」の名目で当初割当の15%増の供出が強制された。
 こうして、満州農民に対する苛酷な収奪の結果、農産物の集荷実績は、42年度678万トン、43年度783万トン、44年度890万トンと累増し、45年度には950万トンが目標とされた。しかしこれらの農産物も44年以降の戦局の悪化による輸送力の激減によって朝鮮の諸港や産地駅頭に山積放置され、戦争末期における満州戦時経済の破綻の一面をするどく露呈したのである。
 その上、太平洋戦争開始後にとくに強化された農産物の掠奪的収奪は、すでに述べたような人民総服役制による労働力の強制動員、日常生活必需物資の不足と経済統制の強化、さらには主食等の配給における民族的差別(たとえば日本人には白米を主とし、満州の民衆には高梁米・粟・玉蜀黍粉を当てた)やインフレの深刻化とあいまって、満州人民の日本にたいする不満と反感を増大させた。それは政府にたいする民衆の不信をつのらせ、戦争末期の満州では、 「建国以来未だかつて見られなかった険悪な様相が、次々に点滅するようになった」。

 朝鮮でも日本の戦時食糧需要の逼迫にともなって、1940年度の新産米増殖計画は、はやくも42年度に改定されたが、すでに39年以来の米産は天候不順と労働力・資材の不足などの悪化する条件の下で連年不作を続けた。
 しかし日本の食糧需要を充たすための強制供出は年ごとに加重され、43年からは供出米の事前割当制が実施され、44年には農業にも生産責任制が導入された。
 しかしこのような苛酷な農民収奪は、労働力の強制動員やインフレによる経済生活の悪化と重なって朝鮮農民に強い反日感情をうえつけるとともに、様々の抵抗をよびおこしたのは当然であった。前引の朝鮮総督府の報告(『第八四回帝国議会説明資料』)をみても、
「食塩供出ノ朝鮮農村ニ加へツツアル重圧ハ蓋シ深刻ナルモノアリテ最近農民大衆層ハ時局ノ重圧、統制経済ノ強化ト相俟テ、殊ニ自家食塩ノ窮屈化ハ農民ノ不平不満トナリテ日ト共二深刻化シ逐ニ大拳増配陳情、供出関係職員トノ暴力的魔擦事案悪質ナル供出忌避事案多発ノ傾向ヲ示シ延テ厭農、反官思想スラ醸成セラレツツアリ」
として、総督府が食糧供出問題を治安上もっとも重大視していたことが分る。

 日本の戦時植民地収奪に対する民衆の反日感情の弥漫は戦争末期の台湾にも共通してみとめられた。前述のごとく台湾では44年から工業生産が急速に低下する一方、農業生産も衰退し、米穀は38年の約982万石から44年には747万石に減じ、甘蔗も39年の222億8000万斤から44年には138億斤に減産した。それに加えでインフレの深刻化による物価の急騰は台湾経済を急速に悪化させ、総督府の経済統制力も失われていった。
 しかも台湾の統制経済の破綻を促進したのは軍部であった。軍部は公定価格をはるかにこえる「調弁価格」で軍需物資と労力を買いあさり、経済の混乱に拍車をかけたのである。そのため総督府の権威は衰退し、台湾住民の中から租税の滞納、脱税などがあらわれた。
 さらに45年3月ごろから米軍機の空襲に備えて全島の都市住民の疎開が開始されると、社会生活も混乱の度を深め、総督府の支配力は戦争末期には急速に弱体化の方向をたどったのである。
明治150年、何がめでたい(29)

大日本帝国の植民地(12)

戦時下の植民地(9)


 前回予告した通り、今回は第二章第三節を読んでいきます。

「労働力・兵力動員と強制連行」

朝鮮における戦争への人民動員

 日中戦争勃発後の朝鮮における工業化政策の展開は労働力の需要を急速に増大させた。
 そのため朝鮮では、38年5月の国家総動員法の適用後、同法にもとづく一連の労働統制立法の制定適用によって労務統制はいちじるしく強化されたが、さらに注目すべきことは1939年から日本の企画院の労務動員計画にもとづいて日本国内の労働力不足を補うための「朝鮮人労働者の日本への強制連行が開始されたことである。

 同年7月の内務・厚生両次官の依命通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」により39年度には8万5000人の朝鮮人労働者の送出が計画された。これは従来の募集許可による朝鮮人の個別的渡航とは異なり、新たに朝鮮総督府を通じて日本国内の雇用者に朝鮮人の集団的連行を認めるものであった。
 こうして39年度には5万3000人にのぼる朝鮮人労働者が日本に強制渡航させられ、以後連行数は年を追って累増の一途を辿った。

 日本に連行された朝鮮人労働者の大部分は鉱山や土建部門のもっとも危険な作業所に配置され、極端な低貸金とあらゆる民族的差別の下で苛酷な労働を強制された。
 またこれらの移住朝鮮人はかれらの生活と思想を監視するために1939年6月に設立された官製団体の協和会への加入を強要された。

 しかしこのような強制連行は朝鮮人の種々の抵抗によってけっして容易に行われたわけではなかった。39年以降の連行数はつねに計画数を下まわったばかりでなく、連行労働者の逃亡もあとをたたなかった。たとえば39月10日から三年間に石炭鉱業の移入朝鮮人労働者中三分の一以上が逃亡した。

 1941年12月太平洋戦争の勃発とともに国内労働力はさらに逼迫し、朝鮮人労働者を「常備労力」として確保することがいっそう必要なこととなった。
 そのため42年2月朝鮮総督府は日本政府の方針にしたがって「鮮人内地移入斡旋要綱」を策定し、従来の募集方法に代って朝鮮人労働者の供出および輸送事務を一元化し、いわゆる「官斡旋」による強制連行策を実施した。これによって募集主体は総督府内の朝鮮労務協会(41年6月設立)とされ、募集の許可をうけた雇用主に対して同協会は総督府の指示する募集地域の道支部を通じて郡分会に労働者の強制徴募を指令し、部分会は所定の期日に労働者を徴募選考し、一定の訓練を経て隊組織に編成して雇用主に引きつぐ方式がとられた。
 このような「官斡旋」方式によって総督府権力による朝鮮人の強制連行は全面的に強化されたのである。

 さらに1939年11月以来、軍要員に限って朝鮮に通用されていた国民徴用令が、44年9月から全面的に適用されるにおよんで朝鮮内での労務動員と日本への強制連行を合せた労働力動員数は急増し、44年の動員数は実に284万8224人にのぼったのである。

 このほか太平洋戦争中に、日本・中国・満州・南方方面に軍要員として送出された朝鮮人も多数にのぼり、その中には「軍属」の名目で実際には「慰安婦」として中国・南方の戦地に送出された多数の朝鮮女性が存在していたことも見逃がすことはできない。

 しかし以上のような朝鮮人労働者の強権的徴発の強行は、朝鮮人の中に種々の反感と抵抗をよびおこさずにはおかなかった。それは総督府自身が『第八四回帝国議会説明資料』(44年8月作成)において、朝鮮人の反骨的気運の増高、労務供出にたいする集団忌避、輸迭途次における逃亡、関係官公吏にたいする暴行脅迫などの事件が多発しつつあることを認めざるをえなかったことでも明らかであった。

台湾における戦争への人民動員

 台湾でも1939年から本格的な労務動員計画が実施されたが、台湾の労務動員政策に決定的な影饗を与えたのは、39年10月高雄州で起工された海軍特殊工事への労働力動員であった。このため高雄州に労務協会が設立され、労働者の幹旋管理にあたったが、工事拡張にともない必要稼働労働者は当初の1日300人程度から6000人にもおよんだため、協会の動員業務は総督府に移され、40年8月殖産局商工課内に台湾中央労務協会が設置され、その下部組織として市郡に支会、街庄に分会が置かれ、総督府行政機構と一体化した労務動員体制が確立した。同10月には各州に労務協会が設置され、その下部組織として市郡に支会、街庄に分会がおかれ、総督府行政機構と一体化した労務動員体制が確立した。
 なお労務協会は、のちに1943年2月産業奉公会と改称し、皇民奉公会の傘下団体となった。

 さらに同年10月、台湾軍は総督府に南方兵砧労務要員の供出を要求した。これに対して総督府は20~30歳の台湾青年による「台湾特設労務奉仕団」を編成し、翌年10月までに六次にわたる奉仕団を送出した。これらの奉仕団は主としてマレー半鳥とフィリピンで弾薬兵器糧秣(りょうまつ 兵糧とまぐさ)の運搬や飛行場・道路の建設整備などの軍役に従事させられた。また同じく台湾軍の要求により高砂族青年による「高砂義勇隊」も軍要員として南方に送り出された。
 これら軍関係労働者の動員数は、43年末までに約15万人にのぼり、また労務動員計画にもとづく台湾人労働者の動員数も毎年数万人をかぞえた。


 以上のような植民地労働力の強制動員に加えて、戦争の長期化と戦局の悪化は、戦争遂行のためにさらに植民地人民の兵力としての強制動員を必要とした。すでに朝鮮では38年度から陸軍特別志願兵制度が実施されていたが、その実績の上に、1942年5月8日、日本政府は閣議で44年度からの朝鮮における徴兵制の施行を決定した。

 この決定は内外に大きな反響をよんだ。日本人の中には長い民族独立運動の伝統をもつ朝鮮人に武器をもたせることは時期尚早であり、徴兵に際しては思想関係に充分注意すべきだとの意見が多く、また朝鮮人の中には、徴兵制を実施する以上は義務教育の実現、参政権の付与、日本への渡航制限の撤廃など一切の民族的差別を撒廃せよとの主張がみられ、さらに在日朝鮮人の中には、
 「一般に朝鮮人が兵隊になったら米国のフィリピン兵に対する如く又英国の印度兵に対する様な差別観念を以て臨み、或は弾除けにされるのではないか」
と危惧する者も多かった。

 こうした動向に対して、植民地人民を戦争に動員するためには、日本は朝鮮(台湾も同じ)に対する一定の「処遇改善」にふみきらねばならなかった。

 1942年11月太平洋戦局の進展にともなって、いわゆる「大東亜」地域の政務施行の一元的機関として大東亜省が新設され従来植民地行政を統轄していた拓務省は廃止され、朝鮮、台湾、樺太に関する事務の統理は内務省の所管に移されたが、この機構改革による「内外地一体化」は、予定された朝鮮、台湾における徴兵・徴用制実施の一布石でもあった。
 また朝鮮では同年2月に46年度から初等普通教育の義務制を施行する方針を決定し、台湾では43年度から義務教育制が実施された。

 一方、参政権については戦争末期の45年1月貴族院令・衆議院議員選拳法改正法律案が第86帝国議会を通過し、4月1日に公布され、朝鮮、台湾での選挙法の施行と貴族院議員の勅選が決められたが、選挙制度は有権者を直接国税15円以上の納税者に限るなど日本本国と極端に差別された上、選挙法の施行期日も勅令によって別に定めるとされ、結局日本の敗戦によって実現しなかった。ただし貴族院には4月に朝鮮から6名、台湾から3名の勅選議員が送りこまれた。

 このような朝鮮、台湾に対する見せかけの「宥和」政策とひきかえに現実に進行したのは、植民地人民にたいする収奪の一層の強化であり、前述の労働力の強制動員の強化につづく徴兵制の実施であった。
 徴兵制の朝鮮施行が決定された直後の42年、南次郎に替って朝鮮総督に就任した小磯川昭(元朝鮮軍司令官)は、
 「聖戦目的完遂の為必須不可欠の要件たる国体の本義の透徹に至りては朝鮮尚末だ十分ならざるの憾あり」
と諭告し、朝鮮統治の重点をなによりも朝鮮人の「皇国臣民としての錬成」においた。

 朝鮮人の「錬成」を中心とする徴兵制の準備は総力連盟の日本語普及常用運動にはじまり、官公立中等学校以上の学校では現役の配属将校による軍事訓練が行われ、国民学校卒業者に対しては青年訓練所で、未修了者には42年11月施行の朝鮮青年特別錬成令によって設置された青年特別錬成所でそれぞれ訓練が実施された。

 こうした「錬成」政策の下に43年8月改正兵役法が朝鮮に施行され10月から朝鮮全土で徴兵適令届出が実施された。徴兵を忌避するものに対しては当局の「強力なる指導と啓蒙」が加えられた結果、予定人員の96%にあたる約25万5000人の届出があった。ついで44年5月から徴兵検査が実施され、敗戦までに陸海軍に動員された朝鮮青年は約21万人にのぼったという。

 一方、台湾では朝鮮に遅れて、1942年4月から陸軍特別志願兵制度が実施され、ついで43年8月から朝鮮と同時に海軍特別志願兵制度も実施に移された。これをうけて同年9月に台湾においても45年度から徴兵制施行の方針が決定された。このため台湾総督府は、朝鮮と同様、44年4月台湾青年特別錬成令(律令)を公布し、全島18ヵ所に錬成所を設置して約3万6000人の青年の錬成訓練にあたった。
 こうして45年1月に全島一斉に徴兵検査が実施され、受検者の約半数にあたる2万2000人の台湾青年が現役兵として召集され、日本の激戦までに兵役に動員された台湾人は約3万6000人に達したという。

 以上のように日中戦争から太平洋戦争への戦争の長期化と拡大は、満州、朝鮮、台湾の各人民の徹底的な戦争動員をともなって遂行されたのである。
明治150年、何がめでたい(28)

大日本帝国の植民地(11)

戦時下の植民地(8)


 朝鮮、台湾におけるファッショ的人民支配の強化と「皇民化」政策の強行は、朝鮮、台湾の人民を日本の侵略戦争に動員するための施策に他ならなかったが、それは大日本帝国本国で行われていた戦時体制を強固にするための政策と並行しながら行われていた。

 今回は、次のテーマ(第二章第三節「労働力・兵力動員と強制連行」)に入る前に、本国で行われていた人民統制と搾取の実態について知っておきたいと思い、それを取り上げることにしました。
 しかし、そのあらましを知ればよいと考え、年度別に重要項目だけを列挙してまとめることにしました。(もし必要が起こればその項目ごとに詳論することにします。)

 資料としては『日本史総合図録(山川出版)』の「恐慌と統制経済」というページ掲載されている年表[戦時体制と統制]をもとに、『戦争意志とは何か』
に掲載した「昭和の15年戦争年表」などから補充して作成しました。以下に掲載します。(月日は省略します。順序は月日順になっていません。)

年表「大日本帝国本国での戦時的収奪」

1936年
  二・二六事件勃発
  メーデー禁止通達
1937年
  文部省 「国体の本義」を学校などに配布
  臨時資金調達法・輸出入品等臨時措置法公布
  軍需工業動員法適用
  国民精神総動員中央連盟結成
  全日本労働総同盟大会、事変中の罷業絶滅と戦争支持決議
  内務省、検閲方針をさらに強化
1938年
  国家総動員法施行
  文部省、集団的勤労作業運動実施を通達(勤労動員始まる)
  産業報国連盟創立
  筆禍事件、「生きている兵隊」(石川達三)・「麦と兵隊」(火野葦平)発禁
  ガソリン切符制実施・国内向け綿製品の製造販売制限・鉄鋼配給統制規則公布
1939年
  国民職業能力申告令公布
  国民精神総動員強化方策決定
  全国の招魂社を護国神社に改称
  国民徴用令施行
  興亜奉公日制定
  満蒙開拓青少年義勇軍の計画発表
  「青少年学徒に賜はりたる勅語」を下賜
  国民精神総動員委員会・「生活刷新案」を閣議決定。(男子の長髪及び女子のパーマネントを禁止している)
  国民徴用令公布
  「賃金統制令」・「価格統制令」公布
  米穀配給統制令法」を公布
  国民へ「白米禁止令」公布
  石油・国内の木炭が統制品となり、配給制となる
  製鉄不急品回収
1940年
   紀元2600年祝典
  大日本産業報国会創立
  経済新体制確立要綱案発表
  内務省、「不敬な」名前の芸能人十六名に改名を指示
   米の強制出荷、砂糖・マッチ切符制を実施
   日本労働総同盟解散・大日本農民組合解散
   国民精神総動員本部、東京市内に 「贅沢は敵だ!」の立看板を立てる
   立憲民政党解散、議会制民主主義が実質上停止
  大政翼賛会発会
  ダンスホール閉鎖
1941年
  国民学校令公布
  文部省、「臣民の道」を学校などに配布」
  全国の映画館でニュース映画強制上映開始
  情報局が各総合雑誌に執筆禁止者の名簿を示す
  改正治安維持法公布、予防拘禁制を追加
  貿易統制令・重要産業団体令。・金属類回収令公布
  生活必需物資統制令公布
  六大都市で米穀配給通帳制実施(一日2合3勺)
  酒切符制実施
1942年
  大日本翼賛壮年団結成
  大日本婦人会発会
  翼賛選挙実施
  翼賛政治会結成
  企業整備令公布
  塩通帳制配給実施
  衣料・味噌醤油切符制実施
  金属類回収令により梵鐘など強制供出
1943年
  大学予科・高校高等科の修業年限1年短縮
  学徒勤労動員計画決定
  徴兵猶予停止による学徒出陣
  徴兵年令を19才に引き下げ実施
  戦時衣生活簡素化実施要綱決定