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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(27)

大日本帝国の植民地(10)

戦時下の植民地(7)


 朝鮮、台湾における人民支配と戦争への動員体制は徹底した「皇民化」政策によって推進されたということでした。
 今回は、朝鮮・台湾での人民支配の実態を詳説している第二節
 「朝鮮、台湾における「皇民化」政策の展開
を読んでいきます。

[「朝鮮での皇民化」政策]

 朝鮮では、日中戦争が開始されると、朝鮮総督府はただちに精神総動員運動にのりだし、37年8月から朝鮮各地で時局巡回講演や時局座談会を開催し、朝鮮人にたいする戦争宣伝の吹聴に全力をあげた。
 さらに10月には「皇国臣民の誓詞」(一般用と児童用の二種)を制定し、児童には、
「一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。一、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲツクシマス。一、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ国民ニナリマス。」
という文句を学校の朝会などで斉唱させ、一般の朝鮮人にたいしても同趣旨の「誓詞」を官庁・会社・職場その他のあらゆる集会で斉唱するよう強要した。

 一方、「皇民化」政策の一環として、朝鮮人を兵力として動員するため38年2月朝鮮人にたいする陸軍特別志願兵令が勅令で公布され、翌年4月から実施された。
 この実施にあたって末端では地方官憲による半強制的な動員が行われた結果、のちに1943年朝鮮に徴兵制が施行されるまでに志願者総数は80万2047人に、うち訓練所入所者は1万7664人におよんだ。

 志願兵制度の実施と関連して、同年3月には朝鮮教育令が改訂された。朝鮮語は随意科目に入れられ、学校での朝鮮語の使用は事実上禁止された。また各教科の重点ももっぱら天皇崇拝思想の注入におかれ、一切の民族教育は剥奪された。

 このほか総督府は国家神道によって朝鮮人に「国体観念」を浸透させることを目的として、改正神社規則(1936年8月)による一面(村)一神詞設置を強行するとともに、すべての朝鮮人に神社参拝を強制した。
 またキリスト者から信仰の自由を奪い、38年9月には全朝鮮キリスト者の6割を占める長老会の平壌総会に神社参拝支持の声明を出させた。

 このような一連の形式的画一的な「皇民化」政策の強行に加えて、さらに朝鮮人民にはかり知れない苦痛を強いたのは、総督府が「内鮮一体」の名の下に断行した、いわゆる「創氏改名」であった。

(「創氏改名」は『戦争意志とは何か』『昭和の15年戦争史』で取り上げていますが、ここではより詳しく解説されているので、重複を厭わず全文転載しておきます。)

 すなわち1939年2月の改正朝鮮民事令(制令一九号)は、朝鮮人の姓名制を廃止し、氏名の称呼を使用することを命ずるとともに、
「氏ハ戸主之ヲ定ム」「朝鮮人戸主ハ本令施行6月以内二新二氏ヲ定メ之ヲ府尹又ハ邑面長ニ届出ルコトヲ要ス」
と定め、その一方で天皇の
「御歴代御諱又ハ御名ハ之ヲ氏又ハ名ニ用フルコトヲ得ス」(制令二〇号)
と指示し、さらに総督府の通牒をもって「創氏改名」に具体的な制限を加えた。

 これにもとづいて翌40年2月から実施された「創氏改名」は、朝鮮人の家系伝統を根柢からくつがえし朝鮮人の民族性を抹殺するものとして朝鮮人民の怨嗟の的となった。
 しかし総督府は警察行政権力のすべてを動員して期限内の「創氏改名」を強要し、申告しない者には子弟の入・進学の拒否、就職の不採用・解雇などのあらゆる迫害と差別を加えた。

 その結果、期間内の創氏届出は317万戸(総戸数の75%)にたっしたというが、その一方、「創氏改名」を断固として拒否したり、激しく抵抗した朝鮮人も少くなかった。
 その一人、李甲基は
「氏ノ創設慫慂(しょうよう)ハ率直ニ云へハ朝鮮人ノ大ナル恥辱ニシテ朝鮮ノ旧習ニ従へハ姓ヲ変更スルコトハ自己の親ヲ更フルニ等シ、誰カ喜ンテ姓ヲ更フルモノカアラウ」
と批判し、また創氏を届出た者でも、たとえば田柄夏は「天皇陛下」をもじって「田農丙下」と改名し、文人の金文輯は「犬糞食衛」という氏名を届出て官憲の激しい問責をうけた。
 また詩人として知られた金素雲は、「鉄甚平」(自己の姓である金を失っても甚だ平気なりの意という)と創氏改名し、なかには全羅北道の中地主薛鎮泳や同南道の柳健永のように死をもって抗議した朝鮮人もいた。

 以上のような、おどろくべき無法かつ非合理な「皇民化」政策を中心的に推進するための官製ファッショ団体として、すでに38年7月に総督府学務局(局長塩原時三郎)を中心に国民精神総動員朝鮮連盟が発足していた。同連盟は下部組織に道・府郡島・邑面・町洞里部落の行政区域ごとの地方連盟と、官公署・学校・会社その他団体別の各種連盟を設け、その基底組織として愛国班(約10戸をもって構成)をおいた。愛国班は宮城遙拝・勤労貯蓄を必行事項とし、毎月一日を「愛国日」と定め、国旗掲揚、神社参拝、日本語常用、「皇国臣民の誓詞」斉唱、勤労奉仕などを通じて日常生活の末端レベルで「皇民化」運動に朝鮮人を動員した。

 1940年10月、朝鮮連盟は日本の大政翼賛会の成立にあわせて国民総力朝鮮連盟(以下、総力連盟と略す)と改称し、運動目標に挙国一致・堅忍持久・尽忠報国・皇国臣民化を掲げるとともに、1932年以来の農村振興運動をもくみ入れ、国民運動の一元的組織体制をととのえた。そして運動の眼目は、
「朝鮮同胞に皇国臣民たるの自覚を向上せしめ、道義の確立を期する奉仕的実践運動とし、内地に於けるが如き政治運動たる色彩を包合せざること」
とされる一方、その組織は中央から末端にいたるまで総督府の各級行政機構との表裏一体化を実現した。また総力連盟への改組時の愛国班数は約38万、班員は各世帯主たる代表班員のみで約530万余を算え、全愛国班員の「実数は半島住民の全部を包含して余す所がない」といわれた。

 かくて総力連盟への改組は、「満州国」の場合と同じく、朝鮮においても総督府と総力連盟の二位一体による一元的指導体制の下に朝鮮の全人民にたいするファッショ的支配がいちじるしく強化されたことを意味したのである。

[「台湾での皇民化」政策]

 植民地人民を戦争へ動員するための「皇民化」政策は、台湾においてもまた強力に推進された。
 すでに1936年7月台湾の軍官民有力者によって開催された民風作興協議会の答申は、
 「国体観念ヲ明徴ニシ国民精神ノ作興ヲ期スルト共ニ同化ノ実ヲ徹底セシムル為」
の民風作興が「刻下ノ急務」であるとし、国民教化の具体策として
 「敬神思想の普及」・「皇室尊崇」・「国語(日本語)の普及常用」・「国防思想の涵養」
などをあげ、台湾における「皇民化」政策の基本方向をうちだしていたが、日中戦争の勃発はその政策が本格的に開始される契機となった。

 まず37年7月17日台湾総督府は「時局ニ対処スル為精神動員ノ徹底ニ関スル件」を地方長官に通達し、ついで9月には中央に国民精神総動員本部を、各州庁に支部、市郡に支会、街庄に分会を設置して、
「国民精神総動員週間」(37年10月)・「経済戦強調週間」(38年12月)・「日本精神発揚週間」(39年2月)
などの各種の週間行事にあわせて勤労奉仕作業などに台湾人民を大量に動員した。

 台湾人民の「皇民化」のためにとくに重視された日本語普及運動は、すでに1931年から10ヵ年計画として実施されていたが、37年からは国語講習所・簡易国語講習所などの増設によってさらに促進され、日本語普及率は形式的には37年の37.8%から42年には約60%に達したといわれた。

 また台湾でも国家神道に対する信仰が強要されたが、そのために台湾人の土着信仰の対象たる寺廟整理が強行され、代って神社増設による神社参拝が強制されたところに特徴があった。

 さらに朝鮮の「創氏改名」と時を同じくして、40年2月台湾の戸口規則が改正され、台湾人から民族固有の姓名を奪い日本式の氏名に改めさせるための「改姓名」が実施された。ただし画一的強制によって強行された朝鮮の「創氏改名」と異なる台湾の「改姓名」の特色は、
「一、国語常用ノ家庭デアルコト、二、皇国民トシテノ資源涵養ニ努ムルノ念厚ク且公共的精神ニ富メル者タルコト」
の二要件を充たす者に「改姓名」を認めたことである。

 こうして「改姓名」運動は台湾人の「皇民化」促進の手段として実施され、改姓名者は1941年末までに9547戸、7万1785人におよんだが、その数は当時の台湾人総戸数・総人口の約1%にすぎなかった。ここには中国民族の一部たる台湾人民の「改姓名」にたいするかくれた抵抗をみることができよう。

 「皇民化」運動を推進する全国組織の結成も台湾ではやや遅れ、ようやく日本の大政翼賛会成立から半年後の1942年4月に皇民奉公会として発足した。皇民奉公会は朝鮮の総力連盟と同じく、最初から一切の政治性を否定された精神総動員組織とされ、総督府の行政機構との完全な表裏一体のもとに組織された。総裁には総督(長谷川清海軍大将・1940年11月就任)が、中央本部長には総務長官(斎藤樹)が任じ、各級地方行政組織に一致した下部組織(州庁支部・市郡市会・街庄分会)の長には当該行政機関の長が就任した。また市支会・街庄分会の下にそれぞれ区会・部落会をおき、その下に区域居住者を網羅する末端組織として奉公班をおいた。
 このほか奉公会の傘下団体として台湾連合青少年団・産業奉公団・商業奉公団などが結成され、さらに台湾人を南方進出の人的要員として養成するため奉公会によって拓南農業戦士訓練所(各州7ヵ所)・拓商工業戦士訓練所(台北)・海洋訓練隊が設置された。

 皇民奉公会結成直後の第二回地方長官会議で長谷川総督は奉公会についてのべ、
「本運動は島民各々その職分に奉公し、挙国一致臣道を全うし国防国家体制の確立東亜新秩序の建設を目的とする」
と語ったが、この方針にそって奉公会は、青年訓練の実施、指導者の養成のほか、各傘下団体を通じて生産増強や物資配給等の戦時行政に台湾人民を組織的に動員する体制となった。
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明治150年、何がめでたい(26)

大日本帝国の植民地(9)

戦時下の植民地(6)


第二章の表題は
植民地におけるファッショ的人民支配と戦争動員
です。

 ファッショ的人民支配政策は満州と朝鮮・台湾では異なる方法が執られていました。
 満州における人民支配の特質は協和会の「建国」イデオロギーにもとづく人民のファッショ的組織化と人民総服役制の完成にありましたが、これに対して、朝鮮、台湾における人民支配と戦争への動員体制は徹底した「皇民化」政策によって推進さました。
(「協和会」は前回で満州国の治安機構の一つとして取り上げられましたが、今回ではその実態が詳説されています。)

 では、満州での人民支配の実態を詳説している第一節
 「満州国の人民総服役制」
を読んでいきます。

 日本帝国主義の戦時植民地支配は、戦争遂行に必要な植民地資源の収奪にとどまらず、さらに植民地人民の戦争への動員体制の全面的な強化をもたらした。

 植民地人民の戦争への動員は主として人民のファッショ的組織化とイデオロギー的統合を通じて推進された。
 まず植民地人民のファッショ的組織化がもっとも先行したのは「満州国」においてであった。満州では、すでに満州事変前から満鉄中堅社員を中心とする満州青年連盟が満蒙権益擁護の活動を展開し、事変後は関東軍に協力して「建国」工作に従事する一方、山口重次、小沢開策らの幹部は関東軍参謀の石原莞爾らと結託して独自に満州協和党の設立を準備し、一国一党的政治組織による「満州国」統治を構想した。
 しかしその構想は中央集権的官僚支配による「満州国」統治を基本とする日系官僚のつよい反発にあって挫折した。

1932年7月 「満州国」協和会の結成
 この協和会は満州青年連盟が事実上の母体であったが、いわゆる「王道主義・五族協和」の「建国」イデオロギーを指導理念とし、執政薄儀(1934から皇帝)を名誉総裁に、関東軍首脳部と政府官僚を役員に配した官製団体である。

「満州国」の設立後まもなく協和会のような官製国民組織が結成されたのは、中国の国民革命に対決しつつ複雑な民族的構成と人口三千数百万におよぶ満州社会を「満州国」に統合するためには、満州各地の土着支配層を基盤とした協和会のごとき組織が必要とされたからである。したがって結成後の協和会の主な役割は、関東軍の治安工作に協力する一方、土着の中国人地主・商人層を組織した末端の分会活動を通じて民衆にたいする治安宣撫工作と行政の浸透をはかることにあった。

1936年7月 協和会の改組
 その後「満州国」の中央地方の官僚的支配機構が整備されるとともに、協和会に対する日系官僚の指導権は強化され、おりから日本の総力戦準備に即応する「満州国」の戦争準備体制の一環として、協和会は満州人民を戦争政策に動員するための画一的なファッショ的国民組織に改編された。

 また同時に会員の大衆化方針により住民の入会が積極的に奨励された。その結果、36年9月に約44万人であった会員数は、38年2月に100万人をこえ、さらに41年6月には200万人を突破し、急速な膨脹を示した。
 しかしその反面、精鋭会員の後退による協和会の指導力の弱体化を招き、これ以後協和会は会の大衆的拡大と指導性の弱化の相克に終始苦悩しなければならなかった。

37年4月 青年訓練の実施開始
 改組後の協和会は「挙国一致ノ実践組織体」(綱領)として国民動員を工作目標の一つに掲げ、青年訓練を実施した。
 青年訓練は、
 「青年の心身を陶冶して健全なる国民を育成し、警備並びに国防の維持能力の増強に資する」
ことを目的とし、16~19歳の青年を対象に青年訓練所において「建国」イデオロギーの注入と軍事訓練を施し、青年層の戦時動員への組織化の基礎となった。

 日中戦争勃発後、協和会は国家総動員の要請に応えて青年訓練をさらに発展させ、青少年の全国的動員組織としての協和青少年団の結成に着手した。

1938年6月 「青少年組織大綱」を発表
 この「大綱」は、
 「全国青年に建国精神を継承体得せしめ、……国礎の強化、国力の発展に資」
するため、16~19歳の青年を協和青年団に、10~15歳の少年を協和少年団に組織する方針を明らかにした。
 これによって協和会は指定された全国各市・街・村の行政区域ごとに当該協和会分会を基礎に協和青少年の組織化をすすめ、翌39年3月全国一斉に結成式を行った。
 その後、協和青少年団は結成時の概数3000団・60万人から42年1月には6800団・235万人に急速に組織を拡大するとともに、各種の国策事業に勤労奉仕として大量に動員されていった。

1938年12月 協和義勇奉公隊の結成
 最初に主要都市に結成された同奉公隊は、協和青少年団とならんで、「満州国」の戦時動員組織として重要な役割を担った。
 この奉公隊はさきに制定された国家防衛法を基盤として、
 「協和会組織と有機的関連において民族一体の協和義勇奉公心に基く警備動員並訓練組織」
とされ、20~35歳の青壮年男子を組織対象とし、その構成は総隊の下に地域区隊・分隊と特設区隊(官庁・会社等)をおき、その他特殊警備隊・消防隊・自動車隊等の特殊隊を設け、平戦両時に即応する民間警備活動を重要な任務とした。
 また奉公隊は協和会の総括的指導下におかれて隊勢をしだいに拡大し、40年2月には64総隊・25万人となり、43年には80総隊・52万人にたっした。

 こうして「満州国」における戦時動員組織の結成を推進した協和会は、その過程で政府の官僚支配との癒着をいっそう強めていった。

 協和会ではすでに1934年以来、中央地方の連合協議会を開催し、分会代表として参加した地方の土着支配者層を通じて「満州国」の施策の一般民衆への浸透をはかる一方、日本の植民地支配が生み出す満州の民衆との摩擦対立をある程度まで濾過吸収することに努めてきたが、35年から連合協議会の議決方式を当初の多数決制から満場一致制にきりかえて政府と協和会との形式的一体制の確保をはかった。
 しかし日中戦争開始後の戦時統制政策の強化は民衆の不満を反映する地方分会代表と政府との軋轢を増大させ、もはや満場一致制による連合協議会の運営は不可能となった。そのため協和会は、39年の第7次全国連合協議会から政府との一体的関係をさらに強化するための新たな議決方式として衆議統裁制を採用した。
 衆議統裁制とは、
 「議長において構成員の意見動向を達観しつつ国家並びに国民を貫く建設的目的意識の下に統裁帰一」
するものとされたが、このような全体主義的指導者原理による衆議統裁制の採用によって連合協議会は協和会による民衆支配のためのファッショ的機関に転化するとともに、政府の完全な翼賛組織になったのである。

1940年12月 「国民隣保組織確立要綱」を策定
   連合協議会の翼賛化につづいて、「満州国」政府は、戦時行政を末端の民衆レベルにまで浸透させるため農村における屯・牌、市街地における班・組を国民隣保組織として編成し、その指導に協和会員を当らせることとして「…要綱」を策定し、翌41年2月から実施した。

 さらに協和会では、同年4月の改組を通じて協和会の省・市・県・旗各級本部長と当該行政機関の長との兼務を制度化し、いわゆる政府との二位一体制を確立した。

 このような官僚組織としての政府と国民動員組織としての協和会の二位一体的指導体制によって「満州国」におけるファッショ的人民支配はいちじるしく強化されたが、それは同時に満州の植民地人民の戦争への総動員体制、いわゆる人民総服役制実施の前提であった。そして、その人民総服役制は次の様な経緯を経て実施された。

 「満州国」における兵力動員は、すでに「満州国」の設立と同時に関東軍の指導下に募兵方式による「満州国」軍が編成され、日中戦争には一部部隊の出動も実施されたが、戦争の長期化はさらに満州人民の兵力としての強制動員(徴兵制)を必要とした。

1940年4月 国兵法が公布実施される
 これは人民総服役制の一つの柱とされた法である。
 同法の骨子は兵役期間を3年とし、満19歳に達した青年に壮丁検査をうけさせて入営させ、また戸長に対しては壮丁適令者の本籍地市街村長への届出義務を課すことなどを規定した。そして第一回国兵検査は41年2月より4月にかけて全国的に実施された。

 しかし「満州国」における徴兵制の実施は容易ではなかった。たとえば佳木斯市では壮丁適齢者784名のうち、指定された3月末までに届出た者はわずかに24名にすぎず、満州人民の中に徴兵を忌避する傾向が強くみられたのである。

 もう一つ、「満州国」における労務動員政策上の問題もあった。
 日中戦争の勃発による華北からの出稼中国人労働者の激減に対処するための労働力の需給統制機関としての満州労工協会の設立(38年1月)、労働力移動防止のための「労働票発票規則」の制定(同6月)につづき、39年2月に新たに労働統制法が制定され、緊急時には平時においても行政機関を通じて割当募集による労働力の強制動員を可能にする道がひらかれたが、満州における中国人労働者の極端な低賃金と劣悪な労働条件は労働者の移動率を増大させたばかりでなく、さらに40年6月為替管理法の改正により円資金の国外流出を防止するため華北中国人労働者の送金額を最高50円に制限した措置は、40年下期に中国人労働者の入満数の激減、離満者の急増を招き、労働力不足に拍車をかけた。
 その上、41年7月、関東軍が対ソ戦準備のための、いわゆる「関特演」の実施に当って要求した莫大な労働力の緊急供出に応えるためにも、従来の「満州国」の労務動員政策はすでに限界に達していた。このため1941年9月「満州国」政府は、「労務新体制要綱」にもとづいて従来の労工協会を労務興国会に改組拡大する一方、労働統制法の改正によって新たに民生部大臣に人民徴用の強力な権限を与えた。

1942年10月 国民勤労奉公法・国民勤労奉公隊編成令の制定
   この制度は太平洋戦争開戦後の臨戦体制下で急増する労働力需要を充たすために制定された。
 その骨子は20~23歳の満州青年のうち健康で兵服に服さないすべての青年に通算12ヵ月以内勤労奉公隊に入隊し、軍事施設・鉄道道路の建設その他政府の指定する労働に服役する義務を課し、学生にも「学生勤労法」による毎年30~40日の労働を強制した。また勤労奉公隊の編成に際しても、各行政区域ごとの協和青年団が母体となって隊員の動員編成がおこなわれた。

 この頃既に、大日本帝国はミッドウェー海戦敗北(1942年6月)・本土初空襲(同年4月18日)…と降伏寸前の状況にあった。にもかかわらず、満州国の人民支配と人的搾取の強引な政策がなお続けられた。

 こうして先に実施された国兵法とならんで、「満州国」の人民総服役制の双璧をなす国民勤労奉公制は、43年に一部省市で、44年から全国的に実施され、43年に協和会の指導で勤労奉公隊に動員された青年は10万人におよび、44年には24万人の動員が計画された。また勤労奉公隊による動員に行政供出・一般募集を加えた労働力の総動員は、中央地方の労務動員計画にもとづいて各省に割当てられ、44年の動員数は延べ250~260万人にもおよんだ。

 かくて全国的国民組織である協和会を基盤とし、国兵法と国民勤労奉公制を二本の柱とする人民総服役制の実施によって、「満州国」における植民地人民の戦争への全面的な動員体制が完成されたのだった。
明治150年、何がめでたい(25)

大日本帝国の植民地(8)

戦時下の植民地(5)


抗日民族運動の展開(前回の続き)

 前回に確認したように、東北における抗日運動は持続的に展開されていた。これは日本の「満州国」支配の最大の桎梏となったが、これに対する日・「満」当局の対応は次のようであった。

 1937年以降も治安対策に最重点をおき、「満州国」の一般会計歳出額でも治安費は毎年総額の30~40%と最高の比重を占めた。このような厖大な予算を投入してあらゆる治安工作が試みられ、とくに「匪民分離」のための集団部落の建設はその数・規模ともに拡大され、39年末には累計1万3451ヵ所におよんだ。

 さらに日・「満」側は、39年10月から吉林・間島・通化三省の抗日勢力を一掃するために「東南部治安粛正工作」を実施した。
 以後二年半にわたるこの工作には、3000万円の予算と20万以上の兵力が投入され、三省討伐司令部(司令官野副昌徳少将)の下に日満軍警・司法行政機関・協和会など「満州国」の全治安機構が動員された。

 すでに日本の各種の治安工作によって困難な闘争を強いられていた抗日連軍は、この工作によってさらに大きな損失をうけた。

1940年2月
 第一路軍総指揮の楊靖宇が吉林省濠江県の山林中に包囲されて戦死し、各軍も多数の幹部と兵士を失った。その結果、抗日連軍の結成時には約2万6000人と推算された全満の抗日勢力は40年5月末にはわずか2000人までに減少したともいわれた。

1940年3月
 抗日連軍第一路軍は吉林省樺甸県頭道溜河で軍長会議を開き、今後の方針として民衆工作に主力を注ぎ党組織を整備するとともに、軍を小部隊に分散し、北上して第二・三路軍との合流を図る政策などを決議した。

 また、さきの 「東南部治安粛正工作」によっても日本側がついに捕捉しえなかった朝鮮人民革命軍が安図県大馬鹿溝で「満州国」警察討伐隊を襲撃し、前田武市中隊長以下56名を全滅させるなど、依然として活発な遊撃活動を展開していたが、日本側の治安強化に対処するため同年8月敦化県小哈爾巴嶺での軍政幹部会議から小部隊編成による地下工作に移り、ひきつづき間島省一帯と朝鮮内に潜入して抗日闘争を不断に継続した。

1941年1月
 前年3月の軍長会議後に第三路軍は各支隊に改編されたが、そのうち第一支隊(隊長徐沢民)は浜江省の肇州・肇東・肇原の平原地区で地下活動に従事していた。
 ハルビン郊外王崗の「満州国」軍第三飛行隊における84名の兵士の反乱事件(王崗事件)は、同支隊の工作によるもので日・「満」当局を震撼させた。

 以上は満州国での抗日運動のあらましでした。それには朝鮮人民革命軍も加わっていますが、朝鮮内での抗日運動はどうだったのでしょうか。

 朝鮮での抗日運動

 朝鮮内では組織的な民族抵抗運動はほとんど不可能にされていた。

1936年12月
 朝鮮総督府は新たに朝鮮思想犯保護観察令を制定し、日中戦争開始後は治安体制を全面的に強化していた。

 それにもかかわらず日本帝国主義の支配と収奪に対する朝鮮人民の抵抗を排除することはできなかった。
 朝鮮人労働者の争議…小作争議は、軍の資料によっても、
 1937年 79件・参加人員9148人…24件・2234人
 1938年 90件・参加人員6929人…30件・1338人
、1939年 146件・参加人員1万128人…28件・1401
 と、労働者の争議はむしろ漸増し、小作争議もほぼ持続的に展開された。

 また日本官憲による朝鮮人思想犯罪検挙数は、
 1937年~40年間に134件(1637人)・145件(1348人)・95件(1042人)・103件(1193件)を記録しているが、これらの数は、日本の徹底した取締りにもかかわらず、むしろ朝鮮人民の間で民族思想運動がたゆまず続けられていたことを示すものといえよう。

 さらに朝鮮の独立を求める一般民衆の民族意識も消えることはなかった。たとえば当時平壌駅構内の便所に、
「日本人ヨ殺サルル前ニ日本ニ帰レ、来ル暁ニ見エルハ朝鮮独立ダ」
と落書され、またソウルのある下請工場の脱衣場に、
「若イ青年ヨ、少年ニ独立ノ道ヲ教へヨ」
との落書が発見されたのは、それを示すわずかな例にすぎない。

台湾での抗日運動

 一方、台湾では日中戦争が自民族に対する新たな侵略戦争として台湾人民に大きな衝撃をあたえた。

 台湾では、日中戦争開始直後の台湾地方自治連盟の解散を最後に公然たる民族運動は不可能とされた。しかし日中戦争に対しては、1937年7月からわずか半年間に1000件以上の「流言蜚語」事件が日本官憲によって探知され、さらにその後一時台湾南方の枋寮地方に上陸した日本軍を中国軍の台湾進攻と誤認する流言が発生し、またたく間に全島に伝播した。

 これらの流言に示された台湾住民の民族意識の動きにつよい不安と衝撃をうけた日本当局は、台湾人民の抵抗を未然に弾圧するため、いわゆる「東港事件」を捏造した。
 この事件は、1941年前後に、かつての台湾独立運動の指導者であった欧清石、郭国基、呉海水らが澎湖・高尾・東港地方で多くの漁船を集め、また住民から資金を徴募し、東港・枋寮方面の海岸で国民政府軍の上陸作戦に合流を企てたという全く架空の理由で、欧清石、郭国基らをはじめ1000人以上の住民を逮捕し、欧の死刑をはじめ多くの住民を重刑に処した事件である。

 このとき中国大陸では、台湾出身の中国人による民族運動が積極的に展開されていた。台北州出身の李友邦(李肇基)は、日中戦争勃発後、新江省金華で在中台湾人を主体とする台湾独立革命党を組織し、さらに38年1月には福建省崇安で在中台湾人400人からなる台湾義勇隊と台湾少年団を結成し、みずからその指導にあたった。また日中開戦後に台湾を脱出した謝南光は重慶その他で抗日団体を組織して活動を展開した。

1940年には国民政府の援助によって在中台湾人抗日団体が統合され、重慶において謝南光を主席とする台湾革命大同盟が結成され、太平洋戦争の開始後、日本の戦局の悪化にともなって在中台湾人民の民族運動はあらたな高揚をむかえるのである。

(以上で「抗日民族運動の展開」を終わります。次回から著者が第二の課題に挙げていた「戦時体制下の植民地人民に対するファッショ的支配と戦争動員の特質」を取り上げます。)
明治150年、何がめでたい(24)

大日本帝国の植民地(7)

戦時下の植民地(4)


抗日民族運動の展開

 前回で取り上げたように、大日本帝国は総力戦体制の一環として植民地支配を全面的に強化した。
 当然のことながら、その結果として植民地各地で強力な抗日民族運動が展開され、日本はそれに対する対応に苦慮することになった。

 まずは満州国での展開を時系列に追って見ることにする。
(ちなみに、私は「ここ読んで」というソフトを使って資料の原文をブログ用文章に変換していますが、今回の原文は地名・人名などで正しく変換できない常用漢字外の漢字が多く使われています。漢和辞書などを調べて復元して何とか読めても、私の知らない地名・人名が多くなんとも厄介な記事です。しかし全体の概略がつかめればよいとして、そうした人名・地名にはこだわらずにそのまま転載することにしました。)

 日本が満州占領し「満州国」を樹立(1932年3月)して以来、「満州国」支配の最大の課題は反満抗日勢力に対する治安対策の強化であった。「満州国」政府によるその政策の変遷はおおよそ次のようである。

1932年9月
 暫行懲治叛徒法、暫行懲治盗匪法、治安警察法などを制定し、治安法体系を整備する。
1933年12月
 住民の相互監視と連座制を義務づけた暫行保甲法を制定して治安体制を強化した。

 このような法的規制を強める一方、関東軍による武力討伐も間断なく実施している。その結果、抗日勢力のうけた打撃は大きく、李杜、王徳林らの旧東北軍は1933年頃までに衰退していった。

 しかしこの間、吉林・間島地方を中心に主として共産主義者の指導の下に結成された各種の赤色遊撃隊はひきつづき反満抗日の闘いをつづけた。
 これらの抗日遊撃隊は33年以降しだいに民衆との結合をつよめて統一戦線を拡大しつつ東北人民革命軍に改編され、さらに35年からは、より広汎な抗日勢力を結集して東北抗日連軍に成長していった。

1936年1月
 黒竜江省湯原県で開かれた連軍幹部と民衆団体代表による東北抗日連軍軍政拡大会議で東北抗日連軍の正式成立を宜言。
 11箇軍からなる連軍の総司令に第三軍長趙尚志が就任。

 抗日連軍の成立によって各軍の出身構成もいちじるしく改善され、従来多数を占めた兵士出身者に代わって労働者・漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。

 また抗日連軍には当時間島地方を中心に抗日武装闘争を展開していた多くの朝鮮人も参加していた。なかでも金日成らの抗日遊撃隊は抗日連軍第二軍に属して遊撃活動を続けた。
(金日成というなじみの名前だ出てきた。念のためネットで調べたら、朝鮮民主主義人民共和国 の初代国家主席を務めた金日成と同一人物だった。)

1936年2月
 この抗日遊撃隊は寧安県南湖頭での幹部会議で朝鮮人民革命軍と改称するとともに、白頭山一帯の国境地帯に遊撃根拠地をつくり朝鮮解放のための武装闘争を国内に拡大する方針を決定した。

1936年5月
 祖国光復会を結成
1937年1月
 朴達・朴金喆らが朝鮮民族解放同盟を組織化。
1937年6月
 朝鮮人民革命軍による普天堡(咸鏡南道甲山)攻撃が軍事的成功を果たし、朝鮮の民族解放勢力は大きく前進した。

1937年7月
 大日本帝国主義が中国に対して全面戦争を開始。
 東北抗日連軍はこの新たな局面に対処するため、中国共産党中央の指示により二個軍を三路軍編成に改編し、
 第一路軍(第一、二軍・総指揮楊靖宇)は奉天省東部山地一帯を、
 第二路軍(第四、五、七、八、一〇、一一軍・総指揮周保中)は吉林省東部山地と松下江下流、ウスリー江左岸を、
 第三路軍(第三、六、九軍・総指揮張寿?[竹冠に銭という漢字で手元の漢和辞典にはなかった])は黒竜江省の山地平原一帯を
 それぞれ活動区域として果敢な遊撃活動を展開した。

 中でも第一路軍の楊靖宇部隊約500人は、38年3月通化県一二道溝附近のトンネル工事場を襲い、7月には同県七道溝の満州鉱山会社を襲撃したが、当時日本は東辺道地区(通化・安東両省とこれに隣接する地域を指す)の開発に主力を注いでいただけに、日本当局のうけた衝撃は大きかった。

 これらの例は当時の東北抗日連軍の活動の一端を示すにすぎないが、当時の日本側の資料によっても、「匪賊」現出回数は
1937年2万5487回、
1938年1万3110回、
1939年6547回
と記録され、その回数は日本の治安強化によって激減しているとはいえ、当時の抗日遊撃活動のはげしさを自ら物語っている。

(次回に続く)
 
明治150年、何がめでたい(23)

大日本帝国の植民地(6)

戦時下の植民地(3)


植民地の戦時的収奪

 前回概観した「植民地経済の戦時的再編」は、日本の植民地資源の収奪を著しく強化したばかりでなく、それが軍事部門と 偏ったため、植民地経済の矛盾をいっそう拡大していった。その矛盾を工業と農業の二分野分けて紹介していこう概観していこう。

[工業面での収奪]

「満州国」の場合

 前回見たように満州における戦時経済建設の要であった5ヵ年計画に必要な膨大な所要資金(60億円以上と言われている)に必要な国内費金の調達分は主として「満州国」政府・満州興業銀行・満州中央銀行による膨大な国家資金の撒布によってまかなわれた。
 その結果、「満州国」財政において、一般会計の歳出額は1937年度の2億6700万円から41年度には7億300万円に急増した。
 また満州中央銀行の通貨発行高も同期間に3億3000万円から13億1700万円へと急増し、満州経済に深刻な悪性インフレをもたらした。

 このようなインフレ政策の下で推進された5ヵ年計画は、前述の如く生産用資材の大部分を日本に依存し、その資材は日本戦時経済の一環として主として軍需産業の原材料として供給された。それはその資材に関連する満州の民間産業の犠牲の上に強行されたのだった。

 このような政策の結果、5ヵ年計画の進行とともに消費材の生産は抑制され、その上日本の統制経済から逃れて満州に流入する日本商品の高騰がインフレの昂進に拍車をかけ、民衆の経済生活を極度に圧迫することになった。

朝鮮の場合

 朝鮮では「大陸前進兵站基地」化政策にもとづく軍事工業化が、とくに豊富な地下鉱物資源の開発を中心に本格的に展開された。
 その結果朝鮮の工業生産額は1936年の7億3000万円から41年には17億2000万円に急増し、この間39年には鉱工業生産額が農業生産額をわずかながら上まわった。

 朝鮮の工業化は同時に日窒系資本をはじめとする日本独占資本の朝鮮民族資本の制圧過程でもあった。すでに38年末朝鮮工業会社の全払込資本金に占める日本人会社の比率は87.6%と圧倒的地位を占め、それにたいして朝鮮人会社は社数では47.9%を占めたが、払込資本金ではわずかに12.4%にすぎなかつた。

  台湾の場合

 台湾でも「南進基地」化政策による工業化が本格的に推進され、工業生産額は1937年の3億6380万円から40年には6億2914万円に倍増し、39年には農産額をわずかにこえた。

 従来から台湾工業の中心は、食料品工業(1940年の工産額の65%)特に中でも製糖業にあったが、その状況は当時もほとんど変らなかったが、38年から実施された生産力拡充5ヵ年計画によって新たに化学工業・金属工業を中心とする軍需部門が急速に伸び、これらの部門をはじめとする日本資本の台湾投資額は1937年から40年までに5億2140万円から8億8411万円に増加し、台湾工業の支配的地位に上った。


 以上のような植民地の工業化による軍需資源の確保収奪とならんで、日本の戦争政策の拡大は植民地の農業と農にも新たな収奪をもたらした。

[農業面での収奪]

「満州国」の場合

 満州農民から農産物を収奪する体制が次のように整備されていった。

   日中戦争開始後の食塩需給の逼迫にともなって、満州では1938年11月米穀の国内自給を目標とする米穀管理法の制定と満州糧穀会社の設立により米穀に対する一元的統制が実施された。

 39年11月からは第三国貿易の不振打開のため、輸出品の代表である大豆に対して、新設の特産専管公社による大豆の強制収買が実施され、この強制収買翌年2月には豆粕・豆油にも適用された。

 この結果、大豆三品は市場相場をはるかに下まわる価格で生産者農民から強制的に買上げられ、農民に大きな打撃を与えた。

 さらに「満州国」では農産物の集荷を促進するため40年4月に従来の金融合作社( 1933年設立)と農事合作社(36年発足)を統合した興農合作社を新設し、その下に農民統制の末端組織として村落ごとの輿農会を設け、その会員数は同年末に全満農家戸数の約6割をこえたと言う。
 またこれにともなって同年6月の中央行政機構改革による興農部(産業部の改組)の新設と翌年7月の農産公社(特産専管公社・満州糧穀会社・満州穀粉会社の統合)の創立による農産物の増産・集荷・配給の一元的統制のもとで、満州農民から農産物を収奪する体制が整備された。

 さらに満州農民を圧迫したのは、1937年から実施された20年100万戸移民計画(第一期5年10万戸)にもとづく日本人農業移民政策であった。
 この計画は日本国内の農村問題の解決とあわせて、主として軍事上の必要から東・北満国境地帯への日本人の移殖を企画したのだった。
 このため38年から日本国内では分郷分村計画による満州移民の送出が奨励され、また同年には満蒙開拓青少年義勇軍(満州入殖後は義勇隊と改称)が創設され、その募集と訓練もはじまった。

 こうして1941年には開拓団4万2636戸、義勇隊員5万4394人におよび、さらに45年5月には開拓団は6万9822戸、19万2492人にたっした。

 しかしこれらの開拓団の用地はすべて満州拓殖公社(37年8月創立)と「満州国」政府による強権的な土地収奪政策にたよって確保された。
 1939年3月の「満州開拓政策基本要綱」によれば、開拓用地の整備は、「原則としで未利用地開発主義」(『満州開拓年鑑 康徳7(1940)年版』10 頁) によるとされたが、40年末までに満拓公社と政府が取得した1068万ヘクタールにおよぶ土地の約二割は熟地(既耕地)であり、さらにこれを満拓公社取得地について地域的にみると、く南満三省では熟地が全体の九割をこえ、興安東・南二省でも四割以上におよんだ。しかもこれらの農民の耕作地は地方官憲の権力を背景に不当に買いたたかれ、農民に大きな犠牲を強要したのである。

朝鮮の場合

 一方、朝鮮農業にたいしても日本の戦時食糧確保のため新たに米穀の対日供給増が要求された。
 とくに1939年の大干害による朝鮮米産の激減は産米増殖を緊急の課題とした。このため総督府は1934年以降中止していた産米増殖計画を再検討し、40年度から新たな増殖計画を実施した。それは耕種法の改善と土地改良によって680万石を増産し、50年度の総生産量3500万石を目標とした。
 また総督府は対日移出米を確保するため40年4月から米穀生産の割当制を実施する一方、朝鮮米穀配給調整令(40年2月)にもとづいて朝鮮農民に米穀の供出を強制し、さらに41米穀年度からは輸移出米に加えて朝鮮内消費米についても配給に必要な米を各道に割当て供出制を実施した。

 このような全面的供出制による朝鮮米の強権的収奪によって対日移出が強行される一方、朝鮮人の米消費量は42年以降年々減少した。そのため朝鮮民衆は不足分を満州からの雑穀輸入でかろうじて生活を維持したのである。

 朝鮮と同じく、台湾もまた日本戦時経済の主要な食糧供給地であった。1939年5月台湾総督府は対日移出米確保のため台湾米穀移出管理令(いわゆる「米管」)を制定し、総督府による移出米の強制買上制度を実施した。
 この制度によって総督府は市場価格よりも不当に低い価格で農民から米穀を強権的に収買したばかりでなく、移出米たる蓮来米を島内消費米(在来米)より相対的に高く買上げることによって対日移出米の優先的確保をはかったのである。
 またこれと同時に総督府は産米増殖計画をも実施したが、土着農民を犠牲にする「米管」の実施によってむしろ台湾米産は減退し、38年の約981万石をピークとして、その後は停滞に向った。
 しかしそれにもかかわらず、37~39年の年平均対日米穀移出量は約460万石を確保し、それは同期間の年平均米産高のほぼ半ばにも達したのであった。

   _______________

 大日本帝国による満州・朝鮮・台湾への暴虐な収奪を知れば知るほど、『明治150年、何がめでたい!!』という思いが、さらに強く沸き上がってきます。

 さて、次回からは大日本帝国による暴虐な収奪に対して植民地の人たち示した抵抗と、それに対する大日本帝国の対応を取り上げることになります。第一章の最終節「抗日民族運動の展開」です。
 
明治150年、何がめでたい(22)

大日本帝国の植民地(5)

戦時下の植民地(2)


 前回、「はじめに」を読んで「戦時下の植民地」問題のあらましを知りましたが、 著者の鈴木さんは「はじめに」の末尾でその本論を次のように三章に区分して 進めることを提示しています。

① 「総力戦体制と植民地支配」
 日中戦争勃発後に日本の総力戦体制にくみこまれた植民地支配と収奪の過程およびそれ に対する抗日民族運動の展開をとりあげる。
② 「植民地におけるファッショ的人民支配と戦争動員」
 戦時体制下の植民地人民に対するファッショ的支配と戦争動員の特質をさぐる。
③ 「植民地支配の崩壊」
 戦時支配の下で累積された諸矛盾がいかに植民地支配を日本帝国主義との同時崩壊にみ ちびいたかを追及する。

 当初の予定では私にとって一番関心のある②に絞って論考を紹介していく予定でしたが、 私の狭い知見のせいかもしれませんが、読んでいるうちに、戦時下の植民地問題を全面的に 詳しく論じている鈴木さんのこの論考は他に見られない貴重なものに思えてきたので、全論考 を紹介することにしました。

 では、①から読んでいくことにします。
 (なお文章は、そのまま直接転載する部分もありますが、私の判断でできるだけ簡潔 になるように書き換えています。また鈴木さんは論考の裏付けとして随時詳細な統計表を提示 していますが、それらは割愛していきます。)

植民地支配の戦時的再編

 盧溝橋事件(1937年7月)に端を発する日中戦争の全面化により、戦争遂行に必要な総力戦体制 が不可欠となった。その一環として日本の植民地支配の戦時体制への再編が必要不可欠な要件と なった。

 植民地支配の戦時的再編は、まず治安体制の強化が前提であり、その基で植民地経済の戦時統 制経済への再編と人的物的資源の戦争への動員体制を強化することによって実現される。まず、植 民地経済の再編がどのように行われたか、その概略をまとめておこう。

「満州国」の場合

 前回で確認したように満州国は関東軍の実質的支配下にあったので、当初から強い軍事的性格をつ よく帯びており、戦時体制への移行は敏速であった。
 日中全面戦争が開始されると、国務総理張景恵は7月22日に
「満州国は日満共同防観の大義に基づき、官民一致団結して日本を支援すべきこと」
という声明を出した。
 日本を支援するための「満州国」の戦争準備は関東軍参謀部第四課が担っていた。その政策は 「産業開発五ヵ年計画」と呼ばれていたが、その実施に対応して、1937~41年度を期間とすると規定していたが「満州国戦 争準備指導計画」に具体化された。
 それは、
「満州国政治、その計画の基本方針は、経済の各分野に対して、実行第一主義を以て其組織運営を平時より努めて戦時態勢に近似せしめ速に物心両面に亙る戦争準備を完成せしむる如く指導すると共に、……随時の開戦並爾後の戦争指導に遺憾なからしむ」
と述べ、中央・地方行政機構改革をはじめ、国防上の諸設備諸法制の完備、5ヶ年計画による国防資源の開発促進などを要領 とし、その具体策として治安体制の強化から防衛法の制定、総動員体制の確立にいたる包括的な施策を提示した。
 ここに示された諸政策は戦争の長期化にともなってつぎつぎに実施に移されていった。

[治安体制の強化]
 37年7月1日 「中央行政機構の改革」を実施
  行政各部の整理簡素化によって政府の一元的指導体制を整備し、また軍政部と民生部警務司を合体した治安部の新設によって 治安体制の一元的強化をはかった。

[軍事態勢の強化]
  38年4月に国家防衛法が施行され、戦時・事変もしくは非常事態突発の場合の警備活動について政府に広汎な権限が与えら れた。
  さらに39年6月から関東軍の要望により3ヵ年計画としての「北辺振興計画」が実施された。
  この計画は対ソ戦に備えて国境地帯の軍事・交通施設の整備を主眼とし、同時に人的物的動員体制の強化をともなっていた。

[経済の戦時的再編]
  すでに37年5月には5ヵ年計画の実施にあわせて重要産業にたいして政府の許可制による国家統制が強化されたが、 さらに日中戦争開始後の日本経済が経済統制諸立法の制定によって全面的に戦争統制の段階に移行する。
  それにほぼ順応して「満州国」でも為替管理法の改定(37年10月)・貿易統制法(同12月)・暴利取締令(38年4月)・臨時資金 統制法(同9月)があいついで制定された。
  また一元的統制立法である「国家総動員法」は、38年2月に日本に先んじて公布され、5月11日に施行された。
  こうして満州の植民地経済は統制経済、物資需給などすべての面で日本戦時経済体制の一環に完全にくみこまれていった。

 さて当然なことながら、日中戦争の勃発は日本の直轄植民地である朝鮮・台湾にも直接的な影響を与えた。
 まず開戦後の日本の戦時経済統制立法は直ちに朝鮮・台湾におよび、暴利取締令(37年8月)、輸出人品等臨時措置法(同9月)、臨時資金調整法(同10月)がつぎつぎに適用された。
 さらに38年5月国家総動員法も施行され、朝鮮・台湾の植民地経済ははやくも日本戦時経済の一環に包摂された。

朝鮮の場合

 日中戦争に即応する朝鮮支配のあらたな方向は、朝鮮の「大陸前進兵站基地」化であった。38年8月の第一回各道産業部長会議で南総督は
 「第一に帝国の大陸前進兵站基地としての朝鮮の使命を明確に把握すること」
 を強調し、その内容として、
 「将来更に大なる事態に面したる時には、仮りに或期間大陸作戦軍に対して内地より海上輸送路を遮断される場合ありとするも、 朝鮮能力のみを以て之を補充し得る程度までに、朝鮮産業分野を多角化し、特に軍需工業の育成に力点を置いて万全を期する必要 があること」
 を力説したが、ここに示された「大陸前進兵站基地」化構想のねらいは、要するに朝鮮の軍需工業化により有事に朝鮮で戦争を持久しうる産業基盤を確立することにあった。
  総督府ではこの構想をさらに具体化するため、同年9月官制によって設置した「時局対策調査会」を開催した。この調査会は総会のほか、社会・文化・産業・経済・交通・通信の各分科会の審議結果を答申した。
  そのうち産業政策については、地下資源の開発をはじめ各種軍需工業部門の拡充とそのための一連の助成政策が提示され、 これに沿って朝鮮産業の軍事的再編成が急速に推進された。

 朝鮮産業の軍事化とともに、朝鮮における物動計画も本格的に実施された。
 まず37年9月、資源調査と総動員業務は従来の総督府官房文書課から新設の資源課に移され、38年8月には殖産局に臨時物資調整課が新設され、さらに39年11月には資源課と臨時物資調整課を統合した企画部の新設により、日本の物動計画と生産力拡充計画の要請に即応する朝鮮の総動員実施体制が全面的に強化されるにいたった。

台湾の場合

    台湾経済は従来から米・糖を中心とする食糧品生産を基軸としたものであった。
  これにに対して日中戦争の開始にともなって、新たに軍需生産のための工業化政策がつよく要求された。
   38年4月の地方長官会議で小林総督は台湾経済のあらたな方向について、国防上必要な資源の供給と重要産業の振興に重点をおく方針を明らかにした。
  この方針にそって38年度から日本の生産力拡充の一環として「台湾生産力拡充五ヵ年計画」が実施に移された。
  この計画の骨子は、硫安・アルミニウム・パルプ・ソーダなどの工業部門の生産拡充を主とし、農業・畜産・林業・鉱業の各部門における生産拡充は工業化のための原料供給に資することが目的とされた。

  また台湾の工業化政策に対応して総督府の機構も改革され、40年2月の物価調整課の新設に続いて、同年10月には地方制度の改革により州に産業部、庁郡に勧業課がそれぞれ新設されて、工業化推進の機関となった。

 こうして日中戦争の勃発によって急遽再編されていった日本の総力戦体制の一環としての経済の軍事化を中心とする植民地支配の戦時的再編は、日本の植民地収奪を容易にし、戦争の長期化にともなって植民地にたいする日本帝国主義の支配と収奪はさらに強化されていくのだった。
明治150年、何がめでたい(21)

大日本帝国の植民地(4)

戦時下の植民地(1)


 ここで言う「戦時」とは言うまでもなく「昭和の15年戦争」であり、その時の「植民地」とは朝鮮・満州・台湾です。
 カテゴリ『昭和の15年戦争史』 などの記事と重複する事項もあるかと思いますが、まずは15年戦争の総力戦体制とそのための植民地対策をめぐって次々と制定されていった法整備を追っていくことにします。
(『岩波講座 日本歴史21』第5章「戦時下の植民地」の「はじめに」を参考書として用います。この章の著者は執筆時・徳島大学教授の鈴木隆史さんです。)

 1936年8月 「国策の基準」策定
  軍部の政治的発言力を一挙に増大させ、軍部を中心に日本の総力戦体制の準備が本格的に開始される重要な画期となったのがあの2・26事件(1936年)だった。
  事件直後に成立した広田内閣が、同年8月の五相会議で南北併進と軍備拡充を基本とする「国策の基準」を策定し、これによって総力戦体制の準備を国策とする方針が確定した。

 同年6月 「帝国国防方針・用兵綱領」改訂
  これによって、大規模な軍備拡充計画が実施に移されることになった。
  これは満州事変後の戦争政策の拡大が生み出した国際的孤立化やソ連極東軍備の増強などに危惧を強めた軍部がつよく求めた結果だった。
  こうして確立した一元的な戦争指導体制のもとで戦争遂行するためには、それを支える軍需資源の確保が絶対的な要件であった。

満州への対応

  これまで重要資源をほとんど海外に依存してきた日本にとっては、長期の戦争に備える軍需資源の確保のためにはそれを日本の独占下にある植民地にもとめるほかはなかった。 そこで軍部は、日本の総力戦体制準備の一環として、国内政治体制のファッショ化を促進する一方、総力戦体制に不可欠な軍需資源の開発と確保を日本の植民地――主に満州(現在の中国東北)・朝鮮・台湾――における人的物的資源の戦争への動員体制強化をつよく求めたのだった。その植民地の中でも軍部は満州を重視した。満州を重視した理由は満州における軍部の次のような経緯があった。

 1931年の満州侵略と傀儡国家「満州国」の設立によって日本の独占的支配下におかれた満州は、陸軍の対ソ戦略のための前進基地としての重要性とならんで、鉄・石炭などの豊富な原料資源の供給地としてとくに軍部によって重視されてきた。そのため「満州国」の発足以来その実権をにぎる関東軍は、反満抗日勢力に対する治安強化に全力を注ぐ一方、1933年3月の「満州国経済建設基本綱領」によって軍事的必要を最優先させた満州の経済開発を強力に推進した。しかしまもなく当初期待された自足的な「日満経済ブロック」の限界が明らかになるや、軍部は35年から華北の軍事的制圧にのりだし、「日満経済ブロック」は新たに「日満支経済ブロック」に拡大されるが、同ブロックに占める満州の中核的位置は変らなかった。


 1937年1月 「満州産業開発五ヵ年計画」の策定
 そして、1936年から軍部を中心に日・満を一体とする総力戦準備計画が本格的に具体化されると、満州に対する軍部の要求は急速に増大し、たとえば同年7月参謀本部は、
「対蘇戦争準備の為戦争持久に必要なる産業は昭和16年迄を期間とし日・満・北支を範囲として之を完成し特に満州国に於で之が急速なる開発を断行すること」
を要望した。このような軍部の要求に応えて日本の総力戦準備の一環として策定されたのが、満州産業開発五ヵ年計画であった。37年1月関東軍司令部が策定した五ヵ年計画の綱要によれば、その主な内容は、
「有事の際必要なる資源の現地開発に重点を置き、併て成し得る限り国内の自給自足と日本不足資源の供給とを図」
ることが目的とされ、鉱工業、農畜産、交通の各部門ごとに具体的な開発目標を示すとともに、所要資金として総額25億7800万円が計上された。

朝鮮への対応

 満州とならんで、古くからの直轄植民地であった朝鮮も日本の総力戦準備に不可欠の存在であった。種々の地下鉱物資源に恵まれた朝鮮では、すでに満州事変以降北朝鮮の電力開発を基軸とする工業化政策が日本資本の進出によって推進されていたが、日本の総力戦準備の進行と満州の五ヵ年計画の策定は、はやくから満州と不可分の関係にあった朝鮮にも大きな影響をあたえた。

1936年10月朝鮮の「大陸兵站基地」化
 字垣一成に代って朝鮮総督に就任した南次郎(前関東軍司令官)は、着任と同時に「我国の目下の重点は満州国との不可分関係を愈々増加することに根底がある」と声明し、10月下旬に朝鮮産業経済調査会を開き、日本の総力戦準備に即応するあらたな産業政策を諮問した。同調査会の答申は、
「農工併進ヲ旨トシ……殊ニ揺籃時代ニ在ル鉱工業ニ付テハ、其ノ飛躍的振興ヲ期スルト共ニ内地及満州トノ連絡ヲ密ニシ、朝鮮ノ地理的且資源的特質ニ鑑ミ帝国全般ノ需要充足ニ十分寄与スル用意ナカルへカラス」
と指摘し、朝鮮の「大陸兵站基地」化の方向を明らかにした。さらに南総督は、10月29日図們(ともん 中国と朝鮮の国境にある都市)で植田謙吉関東軍司令官と会見し、満州と朝鮮の協力について協議した。そしてその結果は、翌37年3月の鴨緑江・図們江国際架橋協定、同年8月の両江売電事業協定の締結に具体化された。

台湾への対応

 また台湾は、さきの「国策の基準」において海軍の要求した南進政策が国策にとりいれられたことから、「南進基地」としての役割が改めて重視された。そのため1936年2月には台湾および華南・南洋の拓殖事業の促進と資源開発を目的とした台湾拓殖会社が国策会社として創設され、南進政策への布石となった。また同年9月に台湾総督が中川健蔵から予備海軍大将小林躋造(せいぞう)に代り、第八代の田健治郎(でんけんじろう)総督(1919年10月~23年9月)以来17年にわたる文官総督時代に終止符がうたれたことも台湾の「南進基地」としての重要性に海軍が注目したことの結果であった。

 以上のように、新たに戦争への協力体制を要求された各植民地は、さらに37年7月の日中全面戦争の勃発を契機として、確立を急ぐ日本の総力戦体制の不可分の一環に急速にくみこまれるにいたる。すなわち日中戦争の勃発とともに、日本国内では国民を戦争へ動員するためのファッショ的支配の強化と国家総動員体制の整備が進行するが、その一環として植民地においても戦争遂行に必要な人的物的資源の戦争への動員体制が急速に強化される。そしてさらに戦争の長期化と拡大にともなって日本の総力戦体制の矛盾と困難が露呈されるとその打開の方向はつねに植民地収奪のいっそうの強化にもとめられ、植民地人民に対するファッショ的支配と民族抑圧政策は文字通りその極限にまでおしすすめられるのだった。

 (次回からは、「日中全面戦争の開始から日本帝国主義の崩壊にいたるまでの満州、朝鮮、台湾の植民地支配の実態と、戦時支配の下で累積された諸矛盾がいかに植民地支配を日本帝国主義との同時崩壊にみちびいたか」 という問題を読み進めていくことになります。)
 長らくご無沙汰してしまいました。

 愛用していたパソコンを私の操作ミスで使えなくしてしまいました。
修復作業をいろいろとやってみましたが、ダメでした。
 そこで思い切って新たにパソコンを購入しました。
が、その使用設定にも時間がかかり、今日やっとこのご挨拶をアップすることが出来ました。
しかし、本格的な使用までにはまだいろいろと学習することがあり、
本格的な記事をアップするまでにはもう少し時間が掛かりそうです。
もうしばらくお待ちください。

なお、4月24日に、記事「明治150年、何がめでたい(20)」の中に
間違った表記があるとの指摘コメントを「石猿」さんから頂きました。
さっそく訂正しました。ありがとうございました。