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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(20)

大日本帝国の植民地(3)

アイヌモシリへの侵略と略取(2)


 アイヌ人で参議院議員(1994年~1998年)を務めた萱野茂(かやのしげる1926年6月15日 ~ 2006年5月6日)という方が参議院の内閣委員会での質問で松浦武四郎を取り上げています。平田さんはこの時の議事録を引用して松浦をめぐる問題の補充を次のように語っています。

アイヌ民族・萱野茂の松浦観

 アイヌのおぼえも悪くはない。国立国会図書館のウェブサイト「国会会議録検索システム」を開いてキーワード欄に「松浦武四郎」と打ち込むと、5件がヒットする。うち2件は故・萱野茂参議院議員によるスピーチだ。萱野は、現在のところ、後にも先にもただ一人の、アイヌのアイデンティティをもつ国会議員である。1994年11月24日、第131回国会参議院の内閣委員会で質問に立った萱野は、こんなふうに松浦を引いた。

〈今から130年ほど昔に三重県三雲町出身の松浦武四郎という方が北海道へ行っております。(略)アイヌからいろいろと地名を聞きまして、それを書き残してあるのが8000ヵ所から9000ヵ所ある(略)。その地名を私の生まれて育った二風谷(にぶだに)のアイヌの村へ持ってきてみますと、武四郎が書き残したと言われる地名がわずか14ヵ所、大正15年生まれの私が二風谷の地名を調査してみますと72ヵ所ありました。(略)北海道で使われている地名の90%以上はアイヌ語であるということをまず皆さんに知ってもらいたい〉(議事録から抜粋、誤記を修正)

 1868年の王政復古――いわゆる明治維新――をはさんで、松浦は旧・新の日本政府に仕え、一種の外交コンサルタントの役目を担った。先住民族(インデイジナス・ピープルズ)の萱野にすれば、「アイヌモシリ(現在の北海道)に侵略の触手を伸ばす日本政府の手先」と批判的に語ることも可能だったろう。でも彼はそうせず、松浦が残した史料に信頼を寄せていた。

 念のために付け加えるが、萱野議員(当時政権与党だった日本社会党所属)には、日本政府に媚びたり遠慮したりする気持ちはなかったと思う。同じ日の国会質問で、彼はきっちり核心をついでいる。

〈日本政府はアイヌが独自の社会をつくっていたアイヌモシリ、北海道に無断で踏み込み、やがてアイヌモシリを勝手に自国の領土に編入するのでありますが、このようなことは他国に対する侵略行為であり、武力による行為は武力侵略なのでありますが、そのような歴史認識でよいのでしょうか。〉(同前)
 ウィキペディアの萱野茂の項に、参議院議員在任中の次のようなエピソードが記述されていました。念のため転載しておきます。

<在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。>

 「北海道命名150年」事業問題に戻ろう。

コロニアリズムの「黒歴史」は封印

北海道命名は植民地化宣言そのもの

 松浦武四郎は少なくとも1980年代からこっち、このように弱者の味方・反権力・反骨の人、といった描かれかたをしてきた。それが2018年のいま、官製の「北海道命名150年」のイメージギャラにされている。
 これって、主催者=行政機関が、松浦や、松浦に続く告発者たちとついにマジメに向き合って、150年にわたる対アイヌ政策を自己批判します、という反省の表れな んだろうか?

 その名も「北海道150年事業実行委員会」(会長=高橋はるみ北海道知事、2016年11月設置)は、「基本理念」をこう述べる。

〈本道が「北海道」と命名されてから150年目となる2018年(平成30年)を節目と捉え、積み重ねてきた歴史や先人の偉業を振り返り、感謝し、道民・企業・団体など様々な主体が一体となってマイルストーン(=通過点の節目)として祝うとともに、未来を展望しながら、互いを認め合う共生の社会を目指して、次の50年に向けた北海道づくりに継承します〉(同委員会ウェブサイト)

 自己批判など、どこにもない。
 そもそも「北海道への名前付け替え」(1869年8月15日)は、日本政府によるアイヌモシリ植民地化宣言にほかならない。

北海道命名を祝うとは?

 それをいま「祝う」とは、150年前の植民地化宣言を改めて肯定するということだ。
 20世紀後半になって「告発者」として再評価された松浦武四郎のイメージは、もういちど無害な「北海道の名付け親」にリセット。"黒歴史"は水に流して、前向きにいきましょう、というわけだ。

 これは、日本社会のマジョリティにはまことに心地よい。マジョリティとは、言うまでもなく和人のことだ。かくいう筆者もその一員。わが政府・同胞が先住民族にどんな仕打ちをしてきたか(前回の年表)、見聞きするたび後ろめたく、けれど戦後世代の戦争責任感にも似て、ついまわりのみんなと一緒に「昔のことと自分は無関係」と知らんぷりを決め込みたくなる。「いいんだよ、それで」とヤサシク背中を押してくれるのが、上記の「基本理念」である。
 でもこれでは、先住民族に対する「歴史的な不正義」(『先住民族の権利に関する国際連合宣言』前文、2007年採択)に荷担してしまうことになる。正義漢を気取るつもりはない。でも後ろめたい気持ちのままここに暮らし続けたとしても、幸せにはなれない。

 勇気をふるうのに、今だからこその好材料がある。2016年から17年にかけて、北海道の3つの地域のアイヌグループが、非アイヌたちの支援も受けながら、地元墓地から大学に持ち去られた先祖の遺骨を奪回し、みごとに権利を取り戻してみせたのだ(本誌17年9月22日号など)。現代を生きる私たちには、チャンスがある。

 この機に取り組むべきは、この150年を〈次の50年に……継承〉することじゃない。松浦を含め、かつてどの和人も果たせなかったけれど、今度こそ歴史的不正義に終止符を打ち、これまでとは異なる未来を語るのだ。

 以上が平田さんの論説からの転載ですが、一つ追加したいことがありました。『史料集』に「北海道旧土人保護法」(全13条)の抜粋条文が掲載されていました。これを転載します。(アイヌ民族は狩猟・漁猟を主とした民族であったことを踏まえてお読み下さい。)
北海道旧土人保護法

第一条
 北海道旧土人ニシテ農業ニ從事スル者又ハ從事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得
第四条
 北海道旧土人ニシテ貧困ナル者ニハ農具及種子ヲ給スルコトヲ得
第五条
 北海道旧土人ニシテ疾病ニ罹リ自費治療スルコト能ハサル者ニハ薬価ヲ給スルコトヲ得
第七条
 北海道旧土人ノ貧困ナル者ノ子弟ニシテ就学スル者ニハ授業料ヲ給スルコトヲ得
第九条
 北海道旧土人ノ部落ヲ爲シタル場所ニハ国庫ノ費用ヲ以テ小学校ヲ設クルコトヲ得

 この法律について、ネット検索していましたら、『コトバンク』というサイトの
『北海道旧土人保護法』
の解説集と出会いました。最後に、その中から最も充実している日本大百科全書(ニッポニカ)の解説文を全文転載することにします。

 1899年(明治32)に制定されたアイヌ政策に関する基本法。近代日本のアイヌ政策の特質は、アイヌの「日本人」化の強制と「日本人」社会からの排除という二重の差別構造を内在化した同化政策と規定できる。同法はそれを象徴するもので、アイヌの生活・文化に大きな影響を与えた。

 同法は13条から構成され、アイヌへの土地給与、農耕の奨励と初等教育の普及を通してアイヌを「開拓農民」に仕立てあげ、かつ「日本人」になるための教育を受けさせることを主目的としている。その基本理念は、同化主義の法的フィクションにすぎない「一視同仁」の天皇制思想に基づいていた。

 なかでも、「旧土人」小学校は、その第9条「北海道旧土人ノ部落ヲ為(な)シタル場所ニハ国庫ノ費用ヲ以(もっ)テ小学校ヲ設クルコトヲ得」を法的根拠として設立されたアイヌ児童の分離教育機関で、児童のみならず、アイヌ・コタン全体の同化中枢的機能を果たした。同小学校は全道に23校が設立されたが、そこでの教育の実態は、尋常小学3ヵ年で学ぶ程度の内容をアイヌ児童の「能力の遅れ」を前提に4ヵ年としたり、あるいはアイヌ語・アイヌ文化を教科目に取り入れなかったり、きわめて差別的な色彩が濃いものであった。

 「旧土人」という差別的呼称を冠した同法は、アイヌの「同化」とともに五度にわたる改正を経た。しかし、その存廃をめぐって北海道ウタリ協会は、1984年(昭和59)5月、現行法を撤廃し、それにかわる新法の素案としてアイヌ民族の権利保障を盛り込んだ「アイヌ民族に関する法律」(案)をまとめ、同協会総会で承認を得、北海道知事の私的諮問機関であるウタリ問題懇話会および北海道議会厚生常任委員会にそれぞれ付託され、その内容が審議された。

 また、国会では、1986年10月の中曽根首相のアイヌ民族の存在を否定する「単一民族国家発言」に対する当事者からの抗議を機に、同法の名称変更を骨子とする改正案を継続審議し、政府は同法の見直しを約束した。

 1994年(平成6)2月には、連立与党に「アイヌ新法」制定のためのプロジェクト・チームがつくられ、同年7月、萱野茂がアイヌ民族として初の国会議員(参議院議員)となり、懸案だった「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ新法」の立法化に向けての作業が進められた。97年5月8日、「アイヌ新法」正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(略称、「アイヌ文化振興法」)が、国会で成立、同年7月1日に施行され、これに伴い「北海道旧土人保護法」は廃止された。[竹ヶ原幸朗]

 次回から『岩波講座 日本歴史21』の第5章「戦時下の植民地」を読んでいきます。
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明治150年、何がめでたい(19)

大日本帝国の植民地(2)

アイヌシモリへの侵略と略取(1)


 大日本帝国による沖縄琉球への侵略の始まりは、1879年3月27日に断行された琉球処分でした。それでは、アイヌシモリへの侵略はいつどのように行われたのでしょうか。

 以下は、前回紹介した平田さんの論説『「松浦武四郎とアイヌモシリ侵略」 「北海道命名150年祝賀」に漂うコロニアリズム』を教科書として話を進めますが、私の勝手な判断で、論述を分かり易くする観点から、平田さんが書き進めている順序を変えて紹介していくことにします。

 平田さんはまず前書きとして、次のような問題提起をしています。


 日本政府は1869(明治2)年、それまで蝦夷地などと呼んでいた大島に「北海道」と命名して、植民地化した。先住民族アイヌにとっては「日本政府による歴史的不正義の始まり」なのに、いま北海道庁が展開する祝賀事業に、自省の色はない。


 まず、本文の欄外に参考資料として掲載されている日本政府によるアイヌモシリの植民地化政策の年表を転載しておきます。


日本政府による主な対アイヌ政策

1869(明治2)年
 日本政府が「土人」(アイヌ)を「教導」すると宣言。蝦夷地・北蝦夷地を内国化してそれぞれ北海道・樺太州と改称。

1871 (明治4)年
 戸籍法公布。アイヌを「日本国民」へ編入。アイヌ語を禁止。女性の入れ墨、男性のイヤリングを禁止。死者の出た家屋を燃やす儀礼を禁止。

1872(明治5)年
 官有地の売り渡し先からアイヌを除外。

1875(明治8)年
 アイヌのシカ猟を規制。樺太州在住のアイヌ840名あまりを北海道へ強制移送。

1876(明治9)年
アイヌに和人風の姓名を強要。

1878(明治11)年
アイヌの公式呼称を 「旧土人」に統一。


 さて本文は、「アイヌモシリを北海道と名付けた」とされている松浦武四郎という探検家の業績を検討することから始めています。

北海道150年のキーパーソン?

 筆者が暮らす北海道で、このところ松浦武四郎の名前を目にする機会が増えている。「幕末の探検家」「北海道の名付け親」といった肩書きつきで紹介されることの多い歴史上の人物である。

 といっても、坂本龍馬や西郷隆盛あたりの同時代人に比べると知名度は低い。それがいま、にわかに露出し始めたのは、来年2019年が「北海道命名150周年」の節目にあたり、たぶん中央政府の「明治150年記念」(2018年)にムリヤリ同期させたのだろう、北海道庁がプロデューサー、電通北海道(随意契約)がディレクターになって、この人を「北海道150年事業のキーパーソン」に起用しているせいだ。

 でも、まったく解せない。松浦武四郎って、官製の祝賀行事なんかに召還されるタイプの人だっけ? それに厳密には彼は「北海道の名付け親」ではなかったはずだ。

80~90年代の武四郎イメージ

 筆者がその人となりに初めて触れたのは、ちょうど30年前、花崎皋平(こうへい)『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、1988年)を介してだった。
 〈松浦武四郎をできるだけ簡潔に紹介しようとすると、二つの、裏と表といってもよいほど角度のちがう見方がある〉
と書き起こされている。

 ひとつ目の見方は、最初に記した肩書きどおりで、同書出版時の『広辞苑第3版』(1983年発行)に
「まつうら・たけしろう 幕末・維新期の北方探検家。伊勢の郷士の子。幕府の御用掛として蝦夷・樺太を調査。維新後は開拓使大主典となり、蝦夷を北海道と改称すべきことを提案。著『三航蝦夷日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌』(1816一1888)」
とあるから、こちらがオモテということだろう。

(管理人:余計な注ですが『広辞苑』に人名が掲載されていることを私は知りませんでした。念のため手元の『広辞苑第2版』(1970年発行)を調べてみたら、坂本竜馬と西郷隆盛は取り上げられていましたが、松井武四郎はまだ取り上げられていませんでした。辞典に取り上げられるようになったのは30年ほど前くらいからなのですね)

 対するウラの見方はこうだ。
 〈(松浦は)明治2年には開拓判官に任ぜられ開拓大主典(官名)の職に就いている。いまでいえば北海道開発庁の次官級の職である。……しかし彼は、半年ほどその席を暖めただけで、明治3年3月、慰留をふりきって一切の官職を辞し、位階(従五位)も返上してしまう。〉
 〈彼は、そのまま放置すればアイヌ民族を絶滅させかねない松前藩と場所請負人の搾取と虐待、それに蝦夷地資源の略奪を、新政府の政策によって終止符を打つことに、幕末期蝦夷地における自分の活動のしめくくりを置いていた。〉(前掲書)

 この本を書いた花崎は、「ウラの見方」に傾斜しつつ、〈彼の生涯は、おのれの立身出世のために権力者に媚びたり、民衆を踏み台にしたものではなく、むしろ、民衆の側に立って権力と資本の搾取・抑圧を告発したもの〉と書いている。

 1971年に国立大学教員の職を辞して、アイヌの人権回復活動をはじめとする市民運動に軸足を置きながら執筆活動を続けていた花崎は、松浦の生きざまに自身を投影したかったのかもしれない。それはともかく、花崎の造形する「権力者に媚びたり」せず「民衆の側に立って権力と資本の搾取・抑圧を告発」するヒロイックな――けっきょく黙殺されてヒーローにはなれなかったが――松浦像が、こうして新たに印象づけられた。

 少し遅れて1993年に出た本多勝一『アイヌ民族』(朝日新聞社)の視線も、花崎に近い。
 本多はこの本で松浦を
〈アイヌモシリを徹底的にさぐり、近代西欧の探検家たちも及ばぬほどの傑出した記録精神によって膨大な探険記を書いた。(略)アイヌに対するシサム(日本人のこと=引用者注)の残酷きわまる仕打ち、働き手を次々と強制連行されたあとのアイヌ社会の惨状、それに対する松前藩や幕府の無策ぶりも詳細に記録されているため、そのままのかたちで刊行することが体制側から許されず、当時は抄録的なものが出版されていた〉
と、プロファイルした。

 やっぱり読者は「弱者に共感を寄せ、権力にあらがった反骨の人」というイージを松浦に重ねただろう。
 「オモテ」の見方では「蝦夷を北海道と改称すべきことを提案」となっているが、本当に名付け親だったのだろうか。この問題の真相を平田さんは,榎森進著『アイヌ民族の歴史』(草風館)の一節(アイヌモシリの改名の経緯:次の段落の太文字部分)を引用して次のようにまとめています。

〈「北海道」という呼称は、古代天皇制国家の「五畿七道」、すなわち都に近い大和(奈良)・山城(京都)・河内(大阪)・摂津(大阪・兵庫)・和泉(大阪)の五国を「畿内」とし、他の諸国を山陰道・山陽道・南海道・西海道・東海道・北陸道・東山道の七道に分けた行政区画にならつたもので〉
〈「北海道」と改称された地域が名実共に日本の領土・天皇制国家の支配領域になったことを意味するものであった。〉


 このとき松浦が新政府に提出した新しい改名案は、日高見道(ひだかみどう)・北加伊道(ほっかいどう)・海北道(かいほくどう)・海島道(かいとうどう)・東北道(とうほくどう)・千島道(ちしまどう)の6つ。「北海道」はない。

 松浦自身の解説によれば、候補のうち北加伊道は、アイヌ同士が互いを呼び合う「カイノー」というアイヌ語にちなんだ名前だった(松浦武四郎『北海道々国郡名撰 定上書』1869年)。ところが政府は、原案者が込めた「アイヌのくに」の意味をばっさり切り捨て、「加伊」の2文字を本州島の行政区画名に合わせて「海」と入れ 替えた。スタート時から先住民族同化政策を掲げた政府にふさわしい植民地改名エピソードではある。

(次回に続く)
明治150年、何がめでたい(18)

大日本帝国の植民地(1)

 大日本帝国の植民地の一つである朝鮮については「明治以降の日本と戦争」でかなり詳しく取り上げていますが、台湾と満州については実質的には殆ど触れていません。また太平洋戦争で侵略した植民地については全く触れることが出来ませんでした。そこで『岩波講座 日本歴史』の第5章「戦時下の植民地」を用いて学習しようと思っていましたが、この問題について盲点を一つ突かれました。

 『週間金曜日』が「―歴史の偽造には騙されない―明治150年を斬る」というシリーズを始めました。その第1回目は、成澤宗男さんが聞き手となり、原田敬一さんが語る形で進められています。テーマは「日清戦争を美化した『坂の上の雲』の誤り」(2018/3/9刊 1175号所収)でした。これについては
『日露戦争をめぐるフェイクニュース』
でちょっと触れる程度でしたが、取り上げています。いずれ必要ができたらこの論考を教科書として使わせて戴こうと思っています。

 「明治150年を斬る」の第2回目のテーマは『「松浦武四郎とアイヌモシリ侵略」 「北海道命名150年祝賀」に漂うコロニアリズム』(2018/3/23刊 1177号所収)でした。執筆者はフリーランス記者の平田剛士さんです。この論説に私は盲点を突かれたのでした。今思えば、
『沖縄に学ぶ』
を書いていた時も、私の問題意識にはアイヌモシリは全く抜けていました。今回から大日本帝国の植民地問題を取り上げることにしましたが、まず上記の論説を教科書として大日本帝国によるアイヌモシリの植民地化から始めようと思っていましたが、その前に植民地という観点から沖縄を再考しておこうと考え直しました。(これから取り上げようとしている事項が頭の中で入り乱れて構想がなかなかまとまりませんでした。ごめんなさい。)

沖縄への侵略と略取


 沖縄へのはじめの侵略は1609年に薩摩によって行われています。大日本帝国による侵略の始まりは、その170年後(1879年3月27日)に断行された、いわゆる「琉球処分」でした。

 現在進行中の辺野古新基地建設工事の住民無視の強行が象徴するように、沖縄はまさに植民地扱いされています。大日本帝国の植民地問題を考えるとき、沖縄はその一つとして私の念頭にありましたが、「明治150年」という観点から沖縄を論じている新聞記事を切り抜いておいたので、それを紹介しておきたいと思ったのです。その記事は東京新聞「日々論々」というコラムの「視点 沖縄から」という次の二つの記事です。


『明治維新受難の始まり(2018.3.2)』執筆者・比屋根照夫氏(ひやねてるお 琉球大名誉教授)

『加害認識欠く「明治150年」(2018.4.6)』執筆者・又吉盛清(まよしせいきよ 沖縄大客員教授)

 『沖縄に学ぶ』と重複する部分があるかもしれませんが、①・②の順で、全文を転載することにします。


明治維新受難の始まり

 国家の行事は、およそ時の政府の権力基盤の安定を目指して行われる。日本政府は今年の「明治維新から150年」を、日本の近代化を進化させた時代として高々とうたい上げ、地方と連携してさまざまな礼賛の行事を行っている。しかし、琉球・沖縄にとっての「維新150年」は、全く異なる深刻な意味を持つ。それは、犠牲の強要による受難の時間でしかなかつた、ということだ。

 1972年の復帰から46年。今も在日米軍専用施設の7割が集中している沖縄は、陸も空も海も、日米両政府によつて暴力的状況にさらされている。
 陸では、米軍による女性暴行・殺害事件や飲酒運転死亡事故が起き、空からは人の命をも奪いかねない米軍機の部品が落ちてくる。米軍機自体の墜落や不時着も相次 ぐ。名護市辺野古の海では、新たな米軍基地建設のための埋め立てが強権的に推し進められている。辺野古の海には古来、住民たちの命の糧を育んできた豊かな自然がある。それを守るため工事に反対する人々を、警察は物理的な暴力で平然と排除している。

 日本政府による沖縄の生命、自然、文化をないがしろにする行為、歴史をさかのぼれば、沖縄が長年にわたる独自の歩で築いた琉球王国を、強力な国権拡張主義の下で解体、併合した「琉球処分」を出発点とする。那覇出身の民俗学者で「沖縄学の父」とされる伊波普猷(いはふゆう)は明治末期、琉球処分は「土着の沖縄人を軽蔑すること其の極に達し」、沖縄人の本土に対する「新たな敵愾心」を起こさせたと弾劾。今こそ、日本の同化の強制という「旧物破壊、模倣の単純な社会」を脱して沖縄人としての自覚を目覚めさせ「旧物保存、模倣排斥』、すなわち自らの歴史と文化を重んじて日本同化から解放されるべきだと説いた。普猷と、普猷の実弟で文筆家の伊波月城(げつじょう 本名:普成(ふせい))らを筆頭とする明治の沖縄知識人は、自立・自存を追求し、明治政府に切実な抵抗を試みたのだ。

 彼らの国家主義、帝国主義に対する痛烈な批判と抗議は、西洋列強のアジア侵略に対しても繰り広げられた。フィリピンの独立運動、インドの反英闘争、中国の辛亥革命などに共鳴してのものだ。沖縄の明治維新は、こうしてアジアとの連帯を強めたことも大きな特徴だった。沖縄戦後の米軍統治下、抑圧の行政に抗する住民運動が高まったのは、このような歴史的背景があったからこそである。

 日本本土が謳歌した維新による『文明開化』は、沖縄にとってはまさに「苦い果実」以外の何物でもなかった。いま、問われているのはそのことだ。



加害認識欠く「明治150年」

 安倍政権が記念事業などにより称揚しようとしている「明治150年」とは、一体何か。

 内閣官房は「次世代を担う若者にこれからの日本のあり方を考えてもらう契機」であり、「明治期の人々のよりどころとなった精神を捉えることにより、日本の強みを再認識し、日本の更なる発展を目指す基礎」にしたいという。  戦後、明治への再評価と賛美が高まったのは、1960年代だ。

日米安保条約が改定されて米国との間に従属的な軍事同盟が成立すると、国際的地位の向上など「日本大国論」が唱えられ、欧米諸国の侵攻をはね返したアジア唯一、最高の「近代文明国」として、明治期の日本の誇りが強調されるようになる。

 前後には、戦後の民主化に逆行する復古調の愛国心教育が重視され、侵略戦争と植民地支配の正当化が行われるようになる。

 改憲を信念とする岸信介首相からは「自衛のための核兵器保有は許される」との発言もあった。戦後日本の右傾化の始まりである。68年に政府は「明治100年」記念行事を挙行。「明治は世界的にも類例を見ぬ飛躍と高揚の時代、封建制度から脱却し勇気と勢力を傾けて近代国家建設に邁進した」と位置付けた。

 ここに欠如していたのは、アジア侵略と植民地支配に対する加害、責任の認識である。

 明治からの一世紀における最大の汚点は、日本国家が民衆を戦争から戦争へと引きずりまわし、大量死をもたらしたこと、東アジアの戦場にも、戦闘や虐殺により罪なき民の屍の山を築いたことにほかならない。

 この「国家死」の責任者は誰か。戦後の日本の総懺悔の中で「共同責任」であるかのようにして、軍人、政治家らの責任を主体的に追及することなく放免してきた。そのツケが、今日の憲法改悪、自衛隊の海外派遣、軍備強化に結び付いている。

 琉球沖縄にとって明治維新以降の歴史観は、決して本土側と一様ではない。

 「琉球併合」によって琉球王国が解体され、大日本帝国の植民地になると、沖縄には南方の防波堤から攻撃的な海外侵略、植民地支配の拠点として役割が与えられるようになる。

 「万国津梁(しんりょう)」(世界の架け橋)の精神をもって東アジアの海域を平和の民として生き抜いてきた琉球沖縄人が、台湾出兵や日清、日露、日中戦争を通して、東アジアの民衆を抑圧する加害者に転落したのである。

 筆者が主宰する「又吉学級」は19~20日、東京の中の琉球沖縄ゆかりの地などを訪ね、明治維新から150年の中で東アジア人がどう生きてきたかを考えることにしている。

 次回は大日本帝国によるアイヌモシリ侵略を取り上げます。
明治150年、何がめでたい(17)

明治以降の日本と戦争(12)

大東亜戦争[=太平洋戦争](4)


 前回で「明治以降の日本と戦争」を終わる予定でしたが、一つ補充したいことがあって、もう一回追加することにしました。

 前回の戦没者数は軍属・軍人の戦死者数であり、一般国民は含まれていません。空襲や原爆での民間死者数はどのくらいあったのでしょうか。

 日本政府は、すでに降伏しか選択肢がなくなっていた状況で、なお連綿と降伏を延ばしていました。民間人の死者の殆どはそのための犠牲者だったのです。この経緯を『昭和の15年戦争史 48』から抜粋しておきます。

 「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答していた。1945年2月のことである。

 その後、東京大空襲(3月10日)をかわきりに沢山の都市で多く国民が死亡し、都市が焦土と化していった。そして太平洋の各地で日本軍の敗北が続き、多くの兵士が戦死した。にもかかわらず、日本政府は連合国が与えてくれた終戦の恰好の機会であったポツダム宣言(7月26日)を無視した。

 こうした結果がアメリカの残忍な原爆投下を引き寄せてしまった。
8月6日
広島に原爆投下さる

8月9日
長崎に原爆第二弾投下さる


 このブログではこれまでに、これらの悲劇を悼み苦しんだ人たちの悲痛な言葉をいくつか紹介してきましたが、そのうちのいくつかを紹介しておきます。
《詩をどうぞ》―『戦争、そして原子爆弾』
《詩をどうぞ》『追悼・石垣りん』
《今日の話題》『飢餓の果て人が壊れる』
《沖縄に学ぶ》『琉球処分から沖縄戦まで(4)』
 さて、では民間人の犠牲者数はどのくらいだったのでしょうか。サイト『社会実情データ図録』さんの記事「第二次世界大戦各国戦没者数」を利用させて戴きます。


第2次世界大戦における軍人の戦死者数と民間人の犠牲者数については、諸説があるが、ここでは、「タイムズ・アトラス 第二次世界大戦歴史地図 」のデータを元にグラフ化した(日本は厚生労働省資料)。
(中略)

 日本について、国内・海外の別に数字を示すと以下の通りである。

           国内    海外       計
軍人・軍属     20万人   210万人    230万人
民間人        50万人  30万人      80万人

 民間人犠牲者が多かった主な戦闘

  東京大空襲   10万人
  広島原爆投下  14万人
  長崎原爆投    7万3千884人
  沖縄         9万4千人

(資料)毎日新聞HP(数字は証言する~データで見る太平洋戦争~)

 以上で「明治以降の日本と戦争」を終わることにします。
明治150年、何がめでたい(16)

明治以降の日本と戦争(11)

大東亜戦争[=太平洋戦争](3)



〔太平洋戦争の進展〕

 「大東亜戦争」が始まると,日本ははじめのうち圧倒的な勝利をおさめつづけました。 1941年12月8日の真珠湾の攻撃は,宣戦布告の文書がアメリカに届く前のことで,完全な奇襲作戦だったので,敵の不意を衝いたこともあって大きな戦果をあげました。 12月10日のマライ沖の海戦では,イギリス極東艦隊の主力である戦艦2隻も撃沈させました。そして,日本は蘭領東インドを目指して軍を進め, 1942年の3月9日には蘭領東インドの連合軍を無条件降伏させることに成功したのです。

 しかし,米軍を中心する連合国軍は間もなく勢力をもり返しました。そして,戦争が始まって半年もたたない1942年4月18日には東京・名古屋・神戸などが米軍機の空襲をうけるまでになりました。従来の日本の戦争では経験しなかった日本本土がついに戦場になったのです。そして,その年6月5日に西太平洋のミッドウェイ島沖での海戦で日本海軍が大きな損害をうけて以来,日本軍はつぎつぎと敗北するようになるのです。

 真珠湾攻撃が奇襲作戦だったという記述がありますが、最近インターネット上で、この問題には「ハル・ノート」というアメリカから日本への最後通告が絡んでいることを指摘する記事を頻繁に目にします。この事については2007年の記事
『戦争意志とは何か』
で取り上げています(9月20日…第7回と9月21日第8回)。最近では2017年の記事
『昭和の15年戦争史』
でも取り上げました(12月21日第34回と12月23日第35回)。

 さて、大東亜戦争は連合国軍との戦闘となり、敗戦に向かいます。次の問題は大東亜戦争のまとめの問題です。

〔問題18〕
 大東亜戦争のとき,日本軍にもっとも大量の戦没者が出たのは,どの地域での戦争だったと思いますか。

予想
 ① ソ連・満洲
 ② 中国本土
 ③ インドシナ半島
 ④ インドネシア
 ⑤ 沖縄
 ⑥ フィリッピン
 ⑦ 中部太平洋諸島
 ⑧ パプアニューギニア


 〔問題18〕についての解説を転載しましょう。

〔日本の戦没者の数〕

 富永謙吾「太平洋戦争決算報告」によると,太平洋戦争での地域別の日本の戦没者数は,

① ソ連・満洲……………30万人
② 中国本土……………・47万人
③ インドシナ半島………20万人
④ インドネシア‥‥‥‥10万人
⑤ パプアニューギニア…25万人
⑥ 中部太平洋諸島……25万人
⑦ フィリッピン…………・52万人
⑧沖縄…………………・・19万人

となっており、その他の地域を含めて,全部で240万人の戦没者がいたことになっています。
 このうち,一番多いのがフィリッピンで52万人,次が中国本土の47万人。三番目がソ連・満洲の30万人ということになります。「太平洋戦争」とはいっても,中国や満洲などで死んだ人が多かったのです。

〔なお,第二次世界大戦全体での国別での戦死/行方不明者の数は,①ソ連―612万人,②ドイツ―325万人,③日本―257万人,④中国―150万人,⑤ポーラソド―55万人,⑥米国―55万人だそうです〕

 さて、次はいよいよ「明治以降の日本と戦争」のまとめの問題です。

〔まとめ〕
 明治維新以後,日本はいろいろな国と戦争をしてきました。それなら,どんな国(独立国)と戦争したことがあったでしょう。まとめて思いだしておきましょう。

 正式に宣戦を布告して戦争した国には《》内に,×をつけ,戦争はしたのに宣戦布告をしていない国には△をつけてみて下さい。また,戦争をしたことのない国には○をつけてみて下さい。

《》(1) 朝鮮・韓国
《》(2)-a 清国
《》  -b 中国
《》(3)-a ロシア
《》  -b ソ連
《》(4) 米国
《》(5) 英国
《》(6) ドイツ
《》(7) フランス
《》(8) オランダ
《》(9) イタリア
《》(10) スペイン
《》(11) スイス
《》(12) タイ
《》(13) フィリッピン
《》(14)その他(    )

まとめの問題についての解説は次のようになっています。

〔明治以後,日本が戦争をした主な国〕

 前のページの国々のうち, (1)の朝鮮・韓国とは,明治以後には正式に宣戦を布告して戦争をしたことかありません。それなら,「日本は朝鮮とずっと平和を保って一度も戦争をしなかったか」というと,そうではありません。明治9年には朝鮮に開国を迫った日本の海軍が朝鮮軍と衝突して,戦闘しています。

 清国とは「日清戦争」のとき戦争しています。中国とも,「日中戦争」をしています。ロシアとは「日露戦争」をしており,ソ連とも,「大東亜戦争」の末期に戦争をしています。

 米国・英国とは「大東亜戦争」のとき,またドイツとは「第一次世界大戦」のとき戦っています。フランス・オランダも連合国に属していますから敵国になっています。しかし,イタリアとは第一次・第二次大戦とも味方同士でした。スペインとスイスは第二次大戦のとき中立国だったので戦っていません。タイは同盟国。フィリピンはアメリカの植民地だったので,米国と戦ったことになります。第二次世界大戦のときは,その他の国を含めて合計51ヵ国の連合国と戦ったことになっています。


 上の解説とこれまでの問題も振り返って、「まとめ」の問題の解答を作ってみましたが、間違っている所があるのではないかと危惧しています。間違いがあったら教えて下さい。

《△》(1) 朝鮮・韓国
《×》(2)-a 清国
《△》  -b 中国
《×》(3)-a ロシア
《×》  -b ソ連
《×》(4) 米国
《×》(5) 英国
《×》(6) ドイツ
《×》(7) フランス
《×》(8) オランダ
《○》(9) イタリア
《○》(10) スペイン
《○》(11) スイス
《○》(12) タイ
《×》(13) フィリッピン
《△》(14)その他(51ヶ国)
(日本が他国の植民地を攻めた場合もその領主国と戦争をしたことと解釈しました。)

 さて、以上で『ミニ授業書』の学習が終わりました。私の中では『明治150年、何がめでたい』という気持ちがますます強くなってきました。

 最後に〔あとがき〕を読んで「明治以降の日本と戦争」を終わることにします。

〔あとがき〕

 さて,いかがだったでしょうか。
 第二次世界大戦一大東亜戦争一太平洋戦争以後も日本の近くで,朝鮮戦争が起き,ベトナム戦争がつづきました。日本はそれらの戦争と「完全に無関係」とも言えないので,そのことも話題にすることを考えましたが,それはやはり「日本の戦争」ではないので,ここには取り上げないことにします。

 それにしても,第二次世界大戦以後日本が一度も戦争をしていないことは幸せなことです。 1868年の明治維新以後の日本は,1894~5年,1904~5年,1914~18年,1931~45年とほぼ10年ごとに戦争をしてきたことを考えると,1945年から今日まで40年以上も戦争を経験しなかったことは素晴らしいことです。私たちの生活が,戦前の日本人には考えることも出来ないほどに豊かになることができたのも,その長い平和のお陰といってもいいでしょう。そういう生活を守るためにも,私たちは今後とも戦争に巻き込まれないように,いや,この地上から戦争をなくすようにしたいものだと思います。そのためにはどんなことに心したらいいか―そんなことを考えるための一つの足場ともなればと思って,このミニ授業書を作ったのです。

 〔はしがき〕に書いたように,この授業書では,「戦争は何故起きたか」といったことについて,押しつけがましいことには一切触れなかったつもりです。そういうことについては,ここで取り上げた諸事実をも参考にして一人ひとりで考えていただければ嬉しいと思います。

 なお,最後に,付録として,日清戦争・日露戦争・大東亜戦争のときに日本の政府が,天皇の名で出した「宣戦布告」の文書〔勅語〕を収録しておくことにします。やたらに難しい漢字が沢山使ってあって,とても読みにくい,理解しにくい文章です。ですから,全部を理解するのは困難だとは思いますが,いろいろ参考になるところもあると思います。ひと通り眺めてみて下さい。
「こんなにむずかしい文章で,いったい誰が理解できたのだろう。ふつうの日本人にはまったく理解できないような文章を綴って戦争をしたということだけでも,その戦争がいかに非民主的なものであったかが分かるものだ」
といった感想が得られるだけでも,意味があると思うのです。

                                      板倉聖宣

明治150年、何がめでたい(15)

明治以降の日本と戦争(10)

大東亜戦争[=太平洋戦争](2)


 前回最後に掲載した〔問題14〕に対する解説を転載します。

〔東アジアの植民地〕

 東アジアには,米国・英国・フランス・オランダの植民地がありました。そして,ドイツ・イタリア・スペインの植民地はありませんでした。

 前ページの地図の範囲の国々でいうと,
① いまのインドネシアは,当時「蘭(=オランダ)領東インド」と呼ばれていて,オランダの植民地で,
② いまのベトナム・ラオス・カンボジアの3国は,当時「フランス領インドシナ〔仏印〕」と呼ばれていて,フランスの植民地でした。
そして,
③ インド・ミャンマー〔=ビルマ〕・マレーシア・シンガポール・ホンコンとパプアニューギニアその他の小さな島々は,英国の植民地,
④ フィリピンとグアム島は,アメリカの植民地で,
 そのほかに,
⑤ 台湾と朝鮮とサハリンと「満洲国」が日本の植民地で,サイパン島などの南太平洋の島じまは,日本の〈国際連盟信託統治領〉でした。

 上の解説によれば、〔問題14〕の解答は次のようになります。
 1.《×》ベトナム………(フランス)
 2.《×》ミャンマー〔=ビルマ〕…(イギリス)
 3.《 》タイ………(      )
 4.《×》マレーシア………(イギリス)
 5.《×》フィリピン………(アメリカ)
 6.《×》インドネシア………(オランダ)
 7.《×》グアム島………(アメリカ)
 8.《 》サイパン島………(日本の信託統治領)
 9.《×》シンガポール………(イギリス)

 上の解説にはタイ国がありませんが、これが次の〔問題15〕の第一問
「前のアジア地図に描かれている地域には,日本と中国のほかにも,独立国といえる国が一つありました。その国の名は何でしょう。」
の答えです。〔問題15〕の第二問はそのタイ国について次のように問いかけています。
〔問題15〕第二問
 その国は,「大東亜戦争」のとき,日本の味方についたのでしょうか,それとも日本の敵となって戦ったのでしょうか。
予想
 ア.日本と同盟。
 イ.日本と戦争。
 ウ.中立。


 板倉さんはこの問いの解答を次のように解説しています。

〔タイ国と日本との関係〕

 「大東亜戦争」当時,東アジアで独立を保っていた国は,日本と中国のほかにタイ王国〔シャム〕がありました。そのタイ王国はフランス領インドシナと英国領ビルマ〔=ミャンマー〕の間にはさまれていたために,英仏両国の植民地にされずに済んだのでした。

 太平洋戦争が始まると,タイ国政府は仏領インドシナとの国際紛争を有利に解決するために日本の援助を求めて,日本軍をタイ領内に入れ,その年の12月21日には〈日タイ軍事同盟〉を調印しています。そして,翌年1月25日にはタイ国政府は,日本にならって,米英両国に宣戦布告するまでになっています。

 つまり,タイ王国は日本と同盟を結んで米英両国と戦ったのです。しかし,日本が戦争に負けはじめた1944年7月にはタイ国にも政変がおき,1945年8月には対米英宣戦を撤回しています。

 日本が宣戦布告をしたのは米英両国だけでしたが、東南アジアのフランスやオランダの植民地にも侵攻しています。このことについての問いが次の〔問題16〕です。

〔問題16〕
 「大東亜戦争=太平洋戦争」のとき,日本が1941年12月8日に宣戦を布告したのは米英両国だけでした。そこで,当時の日本人は,「鬼畜米英」という言葉を聞かされたり言ったりするようになりました。

 それなのに,日本軍は戦争がはじまる前から,フランス領インドシナに進駐していました。また,「大東亜戦争」がはじまると間もなく,日本は大軍をオランダ領東インドに上陸させて占領しました。いったいどうなっていたのでしょう。

予想
 ア. あとで宣戦布告した。
 イ. 宣戦布告せずに侵入
 ウ. その他(      )


 この問題では大東亜戦争だけではなく、ヨーロッパの戦争の動向も視野に入れる必要があります。解説はまずその問題を取り上げています。

〔ヨーロッパの戦争と日本の戦争との関係〕

 フランスとオランダはヨーロッパの国ですから,それらの国々との関係を知るためには,当時のヨーロッパでの戦争のことを知らなければなりません。

 じつは,ヨーロッパでは,日本が「大東亜戦争」をはじめた1941年12月よりも1年半ほど前の1939年9月に,英仏両国がドイツに宣戦を布告して,第二の欧州戦争―第二次世界大戦がはじまっていたのです。

 ところが,フランスは,1940年6月にドイツ軍に首都パリを占領されて降伏してしまいました。そこで,日本軍はその弱みにつけこんで,〈大東亜戦争〉のはじまる少し前の1941年7月に,仏領インドシナに軍隊を進駐させたのです。この日本の侵略的な動きはとくに米国の強い反発を買うことになりました。そして,その年の8月1日には米国から,石油の輸出禁止を通告されて,対米英戦争の道を早めたのです。

 オランダについては,日本は最初,米英蘭の3ヵ国に宣戦を布告する計画でした。日本の軍部にとってはアメリカの石油輸出禁止に対抗するために,蘭領東インドでとれる石油その他の軍需物資を手にいれる道を確保することが重要だったからです。ところが,オランダはそれより前,ドイツと英仏の戦争に中立を宣言してしたにもかかわらず,1940年の5月にドイツ軍に侵入されて降伏してしまっていました。

 それに,1941年12月11日にはドイツとイタリアが米国に宣戦を布告しました。そこで,東アジアでの日米中心の戦争と,ヨーロッパでの独英中心の戦争とが結びつくことになりました。そこで,日本はオランダに対して宣戦布告をすることもなく,大軍をオランダ領東インドに上陸させて, 1942年3月にはもうジャワ島の蘭領東インド軍を無条件降伏させたのです。

 日本はヨーロッパでの独英中心の戦争と結び付くことによって、大東亜戦争→第二次世界戦争への道を進むことになったのでした。

〔問題17〕
 日本がはじめ宣戦を布告したのは米英両国だけでした。しかし,戦争の最後には,沢山の〈連合国〉を敵とすることになりました。いつごろから,そんなに沢山の国が戦争に関わるようになったと思いますか。

予想
 ア. 1941年12月8日から1ヶ月以内。
 イ. 1941年12月から<1月~1年〉の間。
 ウ. 1年以後(日本の負け戦がはっきりしてから)。


 この問題についての解説は次の通りです。

〔連合国の参戦〕

 「大東亜戦争」が始まってひと月もたたない1942年1月1日,アメリカ・イギリス・ソ連など26ヵ国代表は米国のワシントンに集まり,〈連合国共同宣言〉に調印しました。「民主主義の擁護」のために日本やドイツとの戦争を行って,日本やドイツと単独に講和を結ばないことなどの原則を確認したのです。そこでそれ以後,これらの国ぐにのことを〈連合国=United Nations〉と呼び,日独伊の軍事同盟を中心とした国々のことを〈枢軸国=Axis Powers〉と呼んで区別するようになりました。(…枢軸というのは車の心棒のことです。)

 連合国の参戦により、大東亜戦争は激変します。(次回で)
明治150年、何がめでたい(14)

明治以降の日本と戦争(9)

大東亜戦争[=太平洋戦争](1)


 〔問題13〕の答えは
「《大東亜》戦争は、《1941年》年に始まった。」
でしたが、始まったのは年月日で詳しく言うと《1941年12月8日》です。この日に宣戦布告の勅語が発布されたのです。この大東亜戦争の宣戦布告を読んでみます。(日露戦争の時の宣戦布告と同じ文言についてはふりがな・意味の付記は省きました。)

宣戦布告の勅語――大東亜戦争

 <天祐を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇〉は,昭(あきらかに)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕,ここに米国および英国に対して戦を宣す。
 朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し,朕が百僚有司は励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し,朕が衆庶は各々(おのおの)その本分を尽(つ)くし,億兆一心,国家の総力を挙(あ)げて征戦の目的を達成するに遺算なからしむことを期せよ。
 そもそも東亜の安定を確保しもって世界の平和に寄与するは丕顕顕〔ひけん=大いに明らか〕なる皇祖考丕承〔こうそこうひしょう=偉大な継承〕なる皇考〔こうこう=先代の天皇〕の作述せる遠猷〔えんゆう=遠謀〕にして,朕が拳々措(けんけんお)かざるところ,而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤(あつ)くし,万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするはこれまた帝国がつねに国交の要義となすところなり。いまや不幸にして米英両国と釁端〔きんたん=不和のいとぐち〕を開くに至る。洵(まこと)にやむをえざるものあり。あに朕が志ならんや。
 中華民国政府,さきに帝国の真意を解せず,みだりに事を構えて東亜の平和を撹乱(こうらん)し,ついに帝国をして干戈〔かんか=武器〕を執るに至らしめ,ここに四年有余をへたり。さいわいに国民政府更新するあり。帝国はこれと善隣の誼(よしみ)を結び相提携(あいていけい)するに至れるも,重慶(じゅうけい)に残存する政権は米英の庇蔭〔ひいん=助け〕を恃(た)みて,兄弟(けいてい)なおいまだ牆(かき)に相鬩ぐ〔あいせめ=うちわもめ〕を悛〔あらた=改める〕めず。米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱〔からん=騒動〕を助長し,平和の美名に匿(かく)れて東洋制覇の非望を逞(たくま)しうせんとす。剰え〔あまつさえ=そのうえ〕与国〔=同盟国〕を誘(いざな)い,帝国の周辺において武備を増強して我に挑戦し,さらに帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え,ついに経済断交をあえてし,帝国の生存に重大なる脅威を加う。朕は,政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし,隠忍久(いんにんひさ)しきにわたりたるも,彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく,徒(いたずら)に時局の解を遷延(せんえん)せしめて,この間かえって益々経済上・軍事上の脅威を増大し,もつて我を屈従せしめんとす。
 かくの如くにして推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し,帝国の存立また正に危殆〔きたい=非常に危ない状態〕に瀕(ひん)せり。
 事すでここに至る。帝国は今や自存自衛のため蹶然起って〔けつぜんたって=勢いよく事を起こす〕一切の障礙〔しょうがい=障害〕を破砕(はさい)するのほかなきなり。
 皇祖皇宗〔こうそこうそう=天皇の歴代の祖先〕の神霊上(かみ)に在り。朕は,汝有衆の忠誠勇武に信倚〔しんい=信頼〕し,祖宗(そそう)の遺業を恢弘〔かいこう=広める〕し,速やかに禍根〔かこん=禍の元〕を芟除〔さんじょ=刈り除く〕して,東亜永遠の平和を確立し,もって帝国の光栄を保全せんことを期す。
 御名御璽
     昭和16年12月8日

 この勅語について、板倉さんは次のように解説している。

 さて,どうでしたか。
 日本はこれより先,<満洲事変―支那事変〉と称して,中国=中華民国政府と戦争して,親日本派に傀儡(かいらい)政権を作らせていたのでしたが,
「米英両国は,日本に抵抗している政府〔重慶政府〕を応援して日本の邪魔をし,平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞しくしている」
と言って攻撃し,さらに
「日本の通商に妨害を加えて,ついに経済断交をした」
ということを戦争の理由にあげているのです。

 ところで,日清・日露の戦争のときの勅語では,「いやしくも国際法にもとらざる限り」とか,「凡そ国際条規の範囲に於いて一切の手段を尽くし」などと,とくに国際的な問題に注意を払っていました。ところが,この勅語にはそういう文章がまったく入っていません。これは注目すべきことと言えるでしょう。日清・日露の戦争のときは,国際世論を味方につけようと懸命だったのに,今度は国際世論が味方につかないことを承知の上で,戦争をはじめたというわけです。そういう意味でも,日清・日露の戦争と大東亜戦争とでは違っていたのです。

 この国際世論に対する離反の背景を『近代4』第5章「朝鮮併合」の最後のまとめ文が次のように指摘しているので、紹介しておきます。
 なお、日本による植民地化は朝鮮とともに台湾でも行われていました。朝鮮と台湾の植民地化の違いから書き始められています。

 このように台湾がいちはやく資本主義的開発のなかにおかれていくのに対して、朝鮮は日本資本主義の安価な食糧・原料供給地とすることに統治の主眼がおかれ、その資本主義的植民地経済への体制的な再編成は、第一次大戦後のこととなる。

 以上みてきたとおり、日露戦争後日本はアジア諸民族の解放運動の新たな高まりに敵対し、帝国主義的支配秩序の憲兵として、帝国主義的再分割競争に主体的に加わることによって、一大植民帝国に成長した。第一次世界大戦にむかう国際的諸条件がそれを一時的に可能にした。しかし日本が主要な植民地とした台湾・朝鮮・「関東州」などの諸地域は高度な文明をもつ諸民族の地域であった。当然のことながら強固な民族的抵抗に対抗せずにはこの植民地支配はありえなかった。ここにはその支配は軍事・警察的支配以外になく、権力の末端に至るまで日本人による直接的な掌握の方法以外にありようもなかった。かくて生来の軍事的・政治的目的による海外領土の獲得・支配は一層倍加され、同時に植民帝国の形成は軍部を巨大な政治勢力に成長せしめる大きな要因の一つともなった。

 だが第一次世界大戦とともにこれらの諸条件は大きく変化していく。日本は帝国主義列強間の対立のなかで孤立していくとともに、植民地における新たな民族解放運動の高まりに直面し、植民帝国は動揺する。日本は成長した独占資本とその軍事力を背景に新たな侵略と戦争のなかにその解決の方途を見出さんとする。

 『ミニ授業書』に戻ります。

〔問題14〕
 現在の次の国々は,太平洋戦争当時,独立国だったでしょうか。それともどこかの国の植民地だったでしょうか。《 》内に、独立国には○をつけ,植民地には×をつけて、《×》の場合は( )内にその地域を支配していた国の名を書いてみて下さい。

 1.《 》ベトナム………(      )
 2.《 》ミャンマー〔=ビルマ〕…(      )
 3.《 》タイ………(      )
 4.《 》マレーシア………(      )
 5.《 》フィリピン………(      )
 6.《 》インドネシア………(      )
 7.《 》グアム島………(      )
 8.《 》サイパン島………(      )
 9.《 》シンガポール………(      )

『ミニ授業書』は〔問題14〕の関連資料として「1940年の東アジアの国々」という地図を掲載していますが、2ページにわたる地図で鮮明な複写ができず、転載することをあきらめました。そに代わりに、1940年頃のではなく現代の地図になりますが、外務省の「ASEAN(東南アジア諸国連合)地図」を転載します。

ajia2.jpg


(フィリピンの東方に〈〉〈〉のようなしるしを記入しておきましたが、そこがサイパン島・グアム島です。)
明治150年、何がめでたい(13)

明治以降の日本と戦争(8)

第一次世界大戦


 〔問題10〕に関する解説を転載します。

〔〈欧州戦争〉と〈第一次世界大戦〉の話〕

 日露戦争のあと,日本が宣戦を布告したのはドイツで,1914年のことです。つまり,日露戦争からちょうど10年あとで,また「4―シ―死の年」です。

 この戦争のことを,当時は「欧州大戦」と言いました。しかし,のちには「世界大戦」と呼ばれるようになりました。はじめは,英・仏・露・伊を中心とする同盟国とドイツ・オーストリア・ブルガリア・トルコの同盟国とが戦って,ヨーロッパ(欧州)のすべての強国を戦争に巻き込んだので,「欧州大戦」と呼ばれたのです。ところがその後,東洋の日本のほか,1917年には米国もドイツに宣戦を布告して戦争に参加したので,「世界大戦」と呼ばれるようになったのです。そしてその後,「第二次世界大戦」が起きたので,今では「第一次世界大戦」と呼ばれるようになりました。

 この戦争のとき,日本は直接の敵対関係があって戦争に参加したのではありません。 1902年以来日本は,英国と〈日英同盟〉を結んでいたので,同盟国の英国がドイツと戦争したのを理由にドイツに宣戦を布告したのです。

 この戦争は「世界大戦」とは言っても,その主要な戦場はヨーロッパにありました。それなら,日本は遠いヨーロッパのドイツまで軍隊を送ったのでしょうか。いいえ,そういうことはありません。それなら,日本は名目上だけ戦争に参加したのでしょうか。


〔問題11〕
 第一次世界大戦のとき,日本は実際に戦闘に参加したのでしょうか。それとも,名目上だけ戦争に参加しただけでしょうか。

予想
 ア. 日本は実際にドイツ軍と戦った。
                  ―どこで?(     )
 イ. 日本軍は実際には戦闘に参加していない。
 ウ. その他(       )

 どうしてそう思いますか。
 みんなの予想を出してから,つぎの話を読んでみましょう。


 〔問題11〕の解説を転載します。

〔欧州戦争=第一次世界大戦と日本軍〕

 欧州戦争のとき,日本軍も戦闘に参加しています。当時,清国(中国)の山東地方にドイツの租借地があったので,そのドイツ領を攻撃,占領したのです。

 また,南太平洋のグアム島以外の<南洋群島〉もドイツ領だったので,日本の海軍はそれらの島も占領しました。日本は,ヨーロッパヘの派兵は拒絶していましたが,ドイツの潜水艦の活躍を抑えるために地中海まで艦隊を出動させています。

 しかし,第一次世界大戦は,ヨーロッパ(欧州)が中心だったので,日本軍が戦争に参加したのは短期間だけでした。そこで1917年,ヨーロッパではまだ戦争が完全に終わっていなかったのに,日本では「戦後」と呼ばれるようになりました。

 この戦争のあとの1920年,日本は,国際連盟から,「米国領のグアム島以外の旧ドイツ領の<南洋群島〉」の統治を委任されました。そこで,日本は,「南洋庁」という役所を設けて,1945年までそれらの島々を統治しました。

〔欧州大戦と大正デモクラシー〕

 第一次世界大戦=欧州大戦が始まると,日本や東アジアの国々の人々は,ヨーロッパからの医薬品などの輸入が止まって,大変困りました。そこで,日本でそれらの製品を自給自足する研究が始まり,かなりの粗悪品でも飛ぶように売れるようになりました。そこで日本の産業界はこのとき,いまだかつてないほどの好景気に恵まれ,「科学技術の振興」が叫ばれるようになりました。また,このとき,日本と同じくドイツと戦ったアメリカから民主主義の思想がさかんに紹介されて,デモクラシーの運動か盛んになりました。

〔問題12〕
 第一次世界大戦のあと,日本が宣戦を布告して正式に戦争したのはどこの国だと思いますか。

予想
 ア.清国(中国)
 イ.ロシア(ソ連)
 ウ.米国
 エ.英国
 オ.その他(    )

 みんなの意見を出しあってから,次の話を読んでみ ましょう。

 〔問題12〕の解説を転載します。

〔太平洋戦争と支那事変〕

 第一次世界大戦のあと,日本が正式に宣戦を布告して戦争をした国というと,「米国と英国」ということになります。

 こういうと,「その前に,中国と戦争をしていたではないか」という人がいるかも知れません。たしかにそうです。しかし,その中国との戦争のとき,日本は最後まで正式に宣戦を布告しなかったのです。そこで,欧州大戦=第一次世界大戦のつぎの正式の戦争というと,「米国・英国などとの戦争――太平洋戦争=第二次世界大戦」ということになるのです。

 日本が米英両国に宣戦を布告する前,日本は長い間中国と戦争をしていました。中国では1911年に清王朝が滅んで,新しく「中華民国」という国になっていたので,日本はその中華民国と長い間戦争を続けたのです。その戦争の期間は,
① 1931(昭和6)年9月に始まる〈満洲事変〉と
② 1937(昭和12)年7月に始まる〈支那事変〉
に分けられ,1945年まで足かけ15年間も続いたので,「15年戦争」と呼ばれることがあります。その間には1939年5月に〈満洲・日本軍〉と〈外蒙古・ソ連軍〉が外蒙古で衝突して起きた<ノモンハン事件〉という戦闘も起きています。

 〈支那事変〉というのは当時の日本側の呼び名ですが,中国側では<抗日戦争〉と呼びました。<日本に抵抗する戦争〉というわけです。<支那=しな〉というのはもともと中国古代の<秦=しん〉帝国の名がもとになって出来た地名で,英語の〈China=チャイナ〉と同じことです。しかし,いまでは当時の中国の国名<中華民国〉をとって〈日中戦争〉とか〈日華事変〉と呼ぶのが普通です。

 「明治以降の日本と戦争」はついに「15年戦争」に到達しました。「15年戦争」については
『昭和の15年戦争史』(昨年10月15日から今年の2月21日までの記事です。)
で詳しく紹介しています。重複する部分があるかもしれませんが、このまま『ミニ授業書』の学習を続けます。

〔問題13〕
 「太平洋戦争」というのは,当時アメリカ側がつけていた名前です。それなら,当時日本ではその戦争を何と呼んでいたか知っていますか。また,「その戦争は何年にはじまったか」知っていますか。

 《     》戦争は、《19  》年に始まった。


〔問題13〕の解説を転載します。

〔大東亜戦争と太平洋戦争〕

 その戦争の名は,「大東亜戦争」といい,1941年12月8日に始まり,1945年8月15日に終わりました。

 日清戦争は1894年,日露戦争は1904年,第一次世界大戦は1914年と,「四,シ」のつく年ごとに10年間隔で戦争が起きていたのですが,今度は1914年の「14」をひっくり返した「41」年に戦争が起きたのです。これは,日本史を理解するときに役立つので,一緒に覚えておくといいでしょう。
「1900年の前とあとの4のつく年(1894,1904)と,その10年後の4のつく年(1914)に戦争があって,1914の後ろの二つの数(14)を引っ繰り返した年(1941)に戦争が起きた」
というわけです。

 日清戦争と日露戦争のとき,日本の政府は正式にその戦争の呼び名を決めませんでした。しかし,今度の戦争のときには米英両国に宣戦布告をして4日後に,「〈支那事変〉をも含めて〈大東亜戦争〉と呼称す」と決めています。
 <大東亜〉の〈亜〉というのは<亜細亜=アジア〉を略したものですから,「大東亜戦争=東アジア大戦争」ということになります。「太平洋戦争」という呼び名は,当時アメリカでその戦争のことを〈Pacific War〉と呼んでいたのがもとになっています。しかし,この戦争は太平洋だけで行われたのではないので,<大東亜戦争〉という呼び名のほうがよく戦争の場所を現しているといえるかも知れません。

明治150年、何がめでたい(12)

明治以降の日本と戦争(7)

日本による朝鮮統治の実態


 まず前回の復習を一つ。日韓協約で知ったように日本は朝鮮に統監府をおき、統監による支配を行っていた。これを「統監政治」と呼んでいる。

 ところで、『岩波講座 日本歴史』の「近代 4」の第4章の表題は「朝鮮併合」(筆者:井口和起さん、現在、福知山公立大学学長)です。これを教科書として、「朝鮮の植民地化」問題についの詳しいを学習もう少し続けようと思います。まずは、第3節「朝鮮併合」を用いて、朝鮮併合の時の日本政府の強引な手法と、日本国内の民意の動きを改めて確認しておきます。


 統監府の朝鮮支配は、朝鮮の旧来の支配機構を利用して遂行されるというよりは、その一つ一つを破壊ないし再編成しつつ、権力の末端に至るまで日本人官吏を就任させて直接に日本が掌握していくかたちで進められた。朝鮮の旧来の封建官僚群を全体として植民地支配のための官僚に再編成することなどはできず、わずかに李完用内閣の如く一握りの買弁官僚によって形式的に内閣を組織させたにすぎない。「一進会」(下の注を参照して下さい)なども幹部自らが「味方会員の為めにも亦身を危ふくせざるを得ざる形勢」でしかなかった。したがって朝鮮人による植民地軍隊の育成などはありうべくもなかった。

注:「一進会」(ウィキペディアから転載しました)
宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも大韓帝国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。


 かくて「統監政治」のむかうところは、朝鮮支配の最も確実なる方法として朝鮮の併合を強行する以外になかった。

 1909年7月、閣議は朝鮮併合の断行を基本方針として確定し、1910年8月22日、日本はついに朝鮮を併合した。

 日本はこの「併合」を朝鮮の国王が申し出、天皇がこれを受けいれたという形式をとらせ、一進会をつかってこの「併合」が朝鮮民族の希望であったかのようにみせかけようとした。だが事実は全く逆であった。条約は寺内統監のもとで極秘のうちに準備され、調印は軍隊による厳戒体制のなかでクーデターにも似たやり方で行なわれた。

 「併合」条約の公表された8月29日、東京市では軒並みに日の丸が掲げられ、記念の花電車に喜々として乗りこむ市民の姿があちこちでみられた。諸新聞は連日社説で朝鮮問題を論じ「併合」を祝した。それらはいずれもこれが両国の合意の下で成立したものだと強調し、朝鮮は「大日本帝国」という世界の「一等国」にくみいれられたのだから、朝鮮人こそ「併合」を喜ぶべきであり、日本人は朝鮮を「指導啓発」する責任を自覚せよと主張した。日露戦争前後から朝鮮併合に至る間に日本の新聞・雑誌はしばしば朝鮮問題を論じたが、その大半は日本の朝鮮支配を当然のこととするばかりか、政府や統監のやり方が手ぬるいとしてより強硬な朝鮮支配の遂行を要求するのが常であった。内政については藩閥元老政治を批判して民本主義的論調を展開した『東洋経済新報』のような場合でも、朝鮮政策を論じたときには、きわめて積極的な朝鮮支配を主張した。わずかに日露戦争に際して反戦論を展開した一群の社会主義者たちが、『週刊平民新聞』『大阪平民新聞』『週刊社会新聞』『熊本評論』等々で、日本の朝鮮侵略を批判し、朝鮮人民の反日運動を紹介してこれに同情を寄せる主張を掲げた。だが、それも「大逆事件」と社会主義者への弾圧の重なるなかで、「併合」当時には全く行動をおこしえなかった。唯一発行を維持していた片山潜らの『社会新聞』が、「併合」直後の9月15日号に「日韓合併と我責任」と題する所感を掲げたが、それは「日韓併合は事実となった。之が可否を云々する時ではない。今日の急務は我新朝鮮を治むるに当り高妙なる手段方法を用ゐることである」として「高妙なる」統治と同化を主張するものでしかなかった。

 朝鮮併合を反帝国主義・反侵略主義の立場から批判する主張はついに現われなかった。

 併合後の日本による朝鮮統治はどのように行われたのでしょうか。その併合後の統治は「憲兵政治」と呼ばれる露骨な軍事的支配でした。第三章「植民帝国」の第2節「朝鮮統治」にその収奪の実態が、統計上の詳しい数値を挙げながら詳細に論述されていますが、その冒頭の「憲兵政治」の実態を述べている部分だけを転載しておきます。

2 朝鮮統治

 日本の朝鮮統治の大きな特徴の一つは、周知のとおりその露骨な軍事的支配にあった。統監府の時代から朝鮮には一個師団ないし一個師団半の兵力が配備されていたが、「併合」後もこの軍隊は常駐し、のちに軍部の二個師団増設要求が実現すると、その兵力は二個師団に増強される。この軍隊は朝鮮の民族運動を鎮圧するために分散配置されていたが、同時に竜山・羅南・平壌と北部に重点配置され、中国侵略の先鋒的役割もになっていた。

 これとならんでいわゆる憲兵警察が組織され、朝鮮統治の中核にすえられていた。この制度は義兵運動(朝鮮 民衆による反日武装闘争)の鎮圧過程で創設されていったものであるが、朝鮮に駐屯する日本軍憲兵隊の司令官が警務総長を兼ね、各道に配置された憲兵隊の隊長が警務部長、将校が警視、下士官が警部を兼ねるという、憲兵と警察の一体化した治安機構であった。1911(明治44)年憲兵・警察機関は1613ヵ所、人員1万3756人であったが、その後さらに増強され、1919(大正8)年の三・一運動(朝鮮人による独立運動)当時には1826ヵ所、1万4518人に達した。この憲兵は普通警察事務のほかに、「日本語ノ普及」「殖林農事ノ改良」「副業ノ奨励」「法令ノ普及」「納税義務ノ諭示」等々、一般行政にわたる広範な権限を有していた。日本の朝鮮支配が憲兵政治といわれる所以である。

 「併合」にともなって設置された総督府の朝鮮統治は、この軍事的支配に基礎をおいていた。総督は武官に限られ、天皇に直隷して在朝鮮軍を使用する権限を持ち、「必要ニ応シテハ朝鮮駐屯ノ軍人軍属ヲ満洲北清露領沿海州ニ派遣スル」ことも認められていた。総督の下に政務総監がおかれ、その行政系統と警務総監を頂点とする警察系統が末端に至るまで並立していたが、あらゆる面で後者が優位にたち、政務総監に警察権はなかった。この点で台湾の民政長官が警察権を握り、民政から守備軍の干渉を排除していたのと著しく異なる。

 この憲兵政治の下で、朝鮮人民の言論・出版・集会・結社等の諸権利はことごとく奪われた。大韓協会、西北学会などの民族的団体は勿論、一進会さえも解散させられ、3人以上の集会はそれが社交上の目的であるにせよ憲兵警察の糾問監視を受けねばならなかったという。新聞・雑誌はあいついで発刊停止にあい、残されたのは官有の『京城日報』『毎日申報』、若干の日本語地方紙、雑誌『朝鮮』『朝鮮公論』のみであった。そのうえで、1911年、天皇制日本の「忠良ナル国民」となることを要求した「朝鮮教育令」が出され、いわゆる同化教育が強制されるとともに、「私立学校令」や「書堂規則」によって、朝鮮人の自主的教育活動は抑圧される。

 日本による朝鮮に対する独立国家収奪(植民地化)の凄まじさに心が痛むばかりです。

 『ミニ授業書』に戻ります。

〔問題10〕
 日露戦争のあと,
① 日本が最初に戦争したのは,どこの国とで,
② それは日露戦争から何年ぐらい後のことだと思いますか。また,その戦争のことを
③ 当時のひとは何と呼んでいたと思いますか。

予想①
 ア. 清国(中国)
 イ. ロシア(ソ連)
 ウ. アメリカ(米国)
 エ. その他(      )

予想②
 ア. 日露戦争から10年くらいあと。
 イ. 日露戦争から20年くらいあと。
 ウ.その他。

 どうしてそう思いますか。
 知っていることを出しあってから,次の話を読みましょう。


 (この問題に対する解説は次回で。)
明治150年、何がめでたい(11)

明治以降の日本と戦争(6)

日清・日露戦争と植民地問題


 前回最後の〔問題9〕に関する解説を転載します。

〔在日朝鮮人の数〕

 1910年現在,日本に移住していた朝鮮人の数は4000人ほどで,1920年には,4万人になっています。つまり,当時の〈日本人の朝鮮への移住者数35万人〉と比べると10分の1ほどで,ずっと少ないのです。 1923年に起きた関東大震災のときには,「東京近辺に住む朝鮮人が暴動を起こした」というデマが流れましたが,そのころ日本に住んだ朝鮮人の数はとても少なかったのです。

 しかし,この数はその後急速に増えました。そして1930年には42万人に達し,1940年には120万人を突破しました。当時朝鮮に在住した日本人の数の70万人の1.7倍です。朝鮮が<日本人の移民先〉というよりも,日本が朝鮮人の移民先となっていたわけです。

 現在,日本に在住している韓国・朝鮮人は67万人で1940年ころの約半分に減っています。

〔植民地の役割〕

 植民地の役割には,〈大量の移民を送り出す〉ということのほかに,いくつか考えられます。その一つは,貿易上の有利な地位を確保することです。たとえば,日本からの輸出物だけは関税を安くする」とか,「日本にとって大切なものを輸入しやすくする」ということがあります。

 日本が1876年に軍事的な圧力を加えて朝鮮と貿易をはじめたとき,日本の商船は,ヨーロッパから日本に輸入された繊維製品―とくに木綿製品を再輸出したことについては,すでに説明しました。ところが,その後日本にも近代的な機械産業が成長してきました。すると,その輸出産業界の人々にとって,植民地の獲得は魅力のあるものになりました。植民地なら,日本の製品を有利に輸出することができるからです。

 当時は,ヨーロッパ諸国が産業の遅れた国々に対する支配力を少しでも強めて,自分たちの国の製品が少しでも有利に売れるように,またその地域の特産物が少しでも有利に買えるように,政治的・経済的に努力していたのです。そして,ときには自分たちの国の利益を守るために軍隊を動かすこともしていたのです。

 じつは,日露戦争の4年前の1900年に,清国に排外主義の民衆の反乱が起きて,北京にある各国の公使館が包囲されたことがありました。そのとき,英・米・仏・露・独・伊・オーストリアに日本を加えた8ヵ国は,連合軍を組織して北京に攻め入ったこともあります。この事件を〈北清事変〉というのですが,ロシア軍はそのとき清国の満洲地方にとどまって,その地方を占領してしまったので,日本と対立して日露戦争に発展することになったのです。

 日本はヨーロッパ諸国よりもずっと遅れて,産業を機械化しました。そこで,大量生産した製品が国内の需要を超えるようになると,その製品を輸出するところを確保するのが大変でした。そこで朝鮮や清国に少しでも有利な輸出市場を確保しようとして努力して,清国やロシアその他のヨーロッパ諸国とはげしぐ衝突するようになったのです。そして,日本は遅れただけに無理をするようになり,たび重なる戦争をするようになったというわけです。

 『ミニ授業書』によって、日本による朝鮮植民地化の基本知識を学んでいながら、つくづくと自らの日本の近代史への無知ぶりを思い知らされています。そして私は常々、在日朝鮮人へのヘイトスピーチに限らず、そのようは行為を得意顔で行っている人たちの根源的な問題は事実誤認(無恥)であると思ってきました。なので、自分自身の無知も放置しておいてはいけないと思っています。 そこで、この問題(朝鮮の植民地化)について、もう少し詳しい学習をしておこうと思い立ちました。

 さて、前回の〔植民地の獲得〕の項に書かれていたように、朝鮮の植民地化は1910年の朝鮮併合から始まります。この併合に至るまでに日本は朝鮮に対して「日韓協約」を強い、三回にわたって改定をしています。 その三つの日韓協約と併合に関する条約を『史料集』から転載します(出典は全て日本外交文書) 。

第一次日韓協約
  (1904(明治37)年8月22日調印、全三条)

 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ、財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢(と)ヒ施行スヘシ

 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘(ようへい)シ、外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ

 韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件、即(すなわち)外国人ニ対スル特権譲与若クハ契約等ノ処理ニ関シテハ、予(あらかじ)メ日本政府ト協議スヘシ

第二次日韓協約
  (1905年11月17日調印、前文と5条からなる。)
第一条
 日本国政府ハ、在東京外務省ニ依り今後韓国ノ外国ニ対スル関係及事務ヲ監理指揮スヘク、日本国ノ外交代表者及領事ハ外国ニ於ケル韓国ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ
第二条
 日本国政府ハ韓国ト他国トノ間ニ現存スル条約ノ実行ヲ全(まっと)フスルノ任ニ当リ、韓国政府ハ今後日本国政府ノ仲介ニ依ラスシテ国際的性質ヲ有スル何等ノ条約若クハ約束ヲ為ササルコトヲ約ス
第三条
 日本国政府ハ、其代表者トシテ韓国皇帝陛下ノ闕下(けつか)ニ一名ノ統監(とうかん=レヂデントゼネラル)ヲ置ク、統監ハ専(もっぱ)ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル為メ京城ニ駐在シ親シク韓国皇帝陛下ニ内謁(ないえつ)スルノ権利ヲ有ス……

第三次日韓協約
  (1907年7月24日調印、前文と7条からなる。)
第一条
 韓國政府ハ施政改善ニ関シ統監ノ指導ヲ受クルコト
第二条
 韓国政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ処分ハ予(あらかじ)メ統監ノ承認ヲ経ルコト
第四条
 韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト
第五条
 韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト

韓国併合に関する条約
  (1910年8月22日調印、前文と8条からなる。)
第一条
 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スルー切ノ統治権ヲ完全且(かつ)永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス
第二条
 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス


 徐々に国家主権を奪いつつ併合に至っていることがよく分かりますね。少し詳しくたどってみます。

 日露戦争に対して韓国政府は中立を宣言していましたが、日本は戦争開始の2週間後の2月23日に「日韓議定書」を強要して、朝鮮における軍事行動の自由を押しつけています。その後、軍事力を背景に第一次日韓協約~第三次日韓条約へと、韓国政府に対する管理・指導の強化をはかっていきました。第二次協約は保護条約と言われていますが、その所以は第一・二条で韓国の外交権を接収し、第三条で漢城に統監府を設置して一切の外交事務を統括することにした点にあります。

 1907年6月、韓国皇帝高宗がハーグ平和会議に密使を送り「(保護条約) が日本の強圧による もので無効であることを訴えた事件」がありました。「ハーグ密使事件」と呼ばれています。これに対して政府は高宗を退位させ、7月24日第三次日韓協約を調印させました。この協約では、外交権だけではなく、さらに内政権をも全面的に掌握したことが分かります。統監は韓国政府内に配置した日本人次官・高級官僚を通じて行政権を、日本人判事・検事を通じて司法権(秘密協定)をにぎったのです。そしてさらに、7月31日には韓国軍隊を解散させています。

 朝鮮民衆は日本の露骨な侵略政策に反対し、旧軍隊を中心に反日義兵闘争に立ち上がりました。1909年10月には民族主義者安重根がハルビンで前統監の伊藤博文を暗殺する事件も起きました。しかし、日本は予定通り1910年8月に韓国併合条約を強引に調印させました。第一・二条で韓国皇帝があたかも自由意志で日本皇帝に統治権を譲るという形にしていることが分かりますね。

 (この項次回に続く。)