FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(10)

明治以降の日本と戦争(5)

第二の戦争[日露戦争](2)


 日露戦争の宣戦布告の勅語についての板倉さんの解説は次の通りです。

 さて,これもやっぱり難しい文章ですね。昔の人々はこんな文章も理解できたのでしょうか。
 そんなはずはありません。このころの国民の大部分は4年制の小学校を卒業していれば,もっとも学力があったほうなのですから。

 ここでは,「日本の安全と利益を守るためには,韓国や満洲を守る必要がある」という論理が前面に出ています。「韓国の存亡はじつに帝国〔日本帝国の〕安危〔安全と危険〕の繋る〔かかる=つなぐ〕所」だというのです。

 本文の方に戻ります。

〔問題6〕
 日露戦争のとき、主要な戦場となったのは、どの国の領土だったと思いますか。
 ア.日本の領土
 イ.ロシアの領土
 ウ.日本でもロシアでもない【   の領土】

 どうしてそう思いますか。
みんなの考えを出しあってから、次の話を読みましょう。


「問題6」についての解説は通りです。

〔日露戦争の戦場〕

 日露戦争のときも,日本の国土はまったく戦場となりませんでした。ロシアの本土のうち,ウラジオストック港や樺太は戦場になりました。しかし,もっとも主要な戦場となったのは,日本でもロシアでもない清国〔と韓国〕の領土でした。
 とくに激しい戦闘が行われたのは旅順です。その旅順は,ロシアが1898(明治31)年に清国から「租借」していましたが,もとはといえば清国の領土で,日清戦争のときも戦場となったところです。また,最後の大戦争が行われた奉天〔瀋陽一シェンヤン〕も清国の東北部の大都会で,日露戦争の始まる前の年にロシア軍が清国から奪っていたところでした。このように,大部分の戦闘は,清国の領土で行われたのです。

日露戦争の戦地

〔問題7〕
 日露戦争のとき,清国や韓国は,日本とロシアのどちらに味方したのでしょうか。

予想
 ア.日本に味方した。
 イ.ロシアに味方した。
 ウ.中立を保った。


 「問題7」の解説を転載します。


〔中立を宣言した清・韓両国〕

 日本とロシアが戦争をはじめる気配が見えたとき,韓国と清国は,早めに「中立宣言」をしていました。1904年2月4日,つまり日露戦争が始まる6日前の『大阪朝日新聞』の「天声人語」欄には,そのことをこう書いてあります〔一部の漢字はかなになおした〕。

 朝鮮の中立宣言は,じつに近来の滑稽だが,駐フランス朝鮮公使は,ヨーロッパの真中でなおこの滑稽を繰り返し,念入りにかたって曰く―
〈日露開戦の場合,朝鮮は厳正中立を守るつもりだから,断じて両国の会戦地たるを許さぬ。もしこれがため朝鮮の主権を侵害されるようなことがあらば,列国に愁訴〔=なげき訴える〕するつもりだ〉
と。滑稽もここに至ると少々気の毒になる。

 そこになると支那はさすがにエライ。形式上列国に対して〈厳正中立〉を宣言したことだ。〈日露開戦のあかつきにはとても中立などは云うべくして行われぬ〉ということはチャンと知っている。日本と一緒には元よりなれないが,自ら干戈〔かんか=武器〕を取って主権をまもるだけの用意は十分できているらしい。時宜(じぎ)によっては露兵を満洲から追い払うという計画もあるらしい

というのです。

 「中立」を宣言しても、〈自分でその中立を実現できなければ,それは滑稽なだけだ〉というわけです。この戦争のとき,日本軍は大軍を韓国に上陸させて,そこからロシアの大軍がいる清国東北部一満洲に向かったのでした。世界の国々が弱い者いじめをしていた当時は,中立を宣言しても,それを守ることは大変なことだったのです。

 こうして,日清戦争も日露戦争も,戦争国のいずれの国も主戦場とはならずに,第三国の領土が主戦場となりました。いまから考えると不思議な話とも言えます。どうしてそんなことになったのでしょうか。これは,どちらの戦争ともが,「植民地をめぐる争い」として起きたことを物語っています。

 この後、『ミニ授業書』は日本による朝鮮の植民地化という民族収奪犯罪の実態を取り上げています。

〔植民地の獲得〕

 日清戦争に勝利したとき,日本は清国から「台湾」を獲得して,植民地にしました。また,日露戦争に勝利したとき,日本はロシアから「樺太(サハリン)の南半分」を獲得し,「大連」の租借権を受け継ぎました。そしてさらに,1910年にはそれまで独立国だった「朝鮮一大韓帝国」をも植民地にしてしまうのです。

(補足)
 朝鮮王朝は,1897(明治30)年に,その国号を「大韓帝国」と変え,それまで「国王」と呼んでいたのを,「皇帝」と呼ぶことに変えました。日本の天皇が「大日本帝国」の「皇帝」として,朝鮮に圧力をかけたので,せめて国の名や支配者の肩書を立派にして日本と対抗しようとしたのです。しかし,その願いもむなしく,1910年には,その大韓帝国も日本に「併合」されて,完全に植民地化されてしまうのです。


〔植民地の役割〕

 「植民地」というのは,もともと「民を植える一移住させる土地」という意味の言葉です。それなら,このころ,領土を拡げ新しい植民地を獲得すると,どんなにいいことがあったのでしょうか。

 このころの日本は人口が急速に増えていたので,「新しい領土を獲得して日本の農民のための農地を確保する」ということが目標だったのでしょうか。

〔問題8〕
 日本が朝鮮を支配するようになって以後,とくに1910年に朝鮮を正式に「植民地」にして以後,たくさんの日本人が朝鮮に移り住むようになったでしょうか。
 1920年までに朝鮮に移住した日本人の数は,どのくらいだったと思いますか。
 〔参考〕1910年の日本の総人口は約5000万人で,毎年60~70万人の人口が増えていました。

予想――朝鮮に移住した日本人は,
 あ. 5OO万人以上一日本の総人口の10%以上。
 イ. 50~500万人一日本の総人口の1~10%。
 ウ. 5~50万人一日本の総人口の0.1~1%。
 エ. 5万人以下一日本の総人口の0.1%以下。

 予想を出しあってから,次の話を読みましょう。


〔朝鮮への日本人の移住人口〕

 1910年に朝鮮に住んでいた日本人は17万人でした。そして,その10年後の1920年に朝鮮に住んでいた日本人は35万人に増えています。当時の日本の総人口の1%弱の人が朝鮮に住んだのです。

 その後,朝鮮に移住した日本人の数は少しずつ増えていますが,1910年から30年後の1940年になっても70万人足らず――当時の日本の総人口7000万人の約1%ということになります。

 日清戦争の結果日本が獲得したもう一つの植民地ー台湾に移住した日本人は,1910年に10万人,1940年に35万人で,朝鮮に移住した日本人数の約半分です。このころは,日本からハワイやブラジルヘ移民する人もたくさんいましたが,1935年の統計によると,ブラジルに在住する日本人は19万人,ハワイが15万人,米国本国は11万人となっています。ハワイやブラジルに移民した人とくらべると,朝鮮や台湾に移住した日本人のほうが多かったわけです。

 ところで,〈日本から朝鮮に移住した日本人の数〉を問題にするのなら,反対に〈日本に移住した朝鮮人の数〉も問題になります。そういう人々の数は,どのくらいいたのでしょうか。日本から朝鮮に移住した人の数とくらべて,ずっと多かったのでしょうか。それとも少なかったのでしょうか。

〔問題9〕
 朝鮮が日本の植民地にされて10年後の1920(大正9)年の人口は1700万人となっています。その年の日本の総人口は5600万人ですから,日本の約30%ということになります。それでは,その1920年には,何人くらいの朝鮮人が日本に移住していたと思いますか。
 日本から朝鮮に移住した35万人の30%,10万人とくべて,ずっと多かったのでしょうか。それとも少なかったのでしょうか。

予想① 1920年の場合――
 ア. 35万人以上。
 イ. 10~35万人。
 ウ. 10万人以下。

予想② 1940年の場合――
 ア. 70万人以上。
 イ. 20~70万人。
 ウ. 20万人以下。

(解説は次回に)
スポンサーサイト
明治150年、何がめでたい(9)

明治以降の日本と戦争(4)

最初の戦争[日清戦争](4)


( ブログの更新が五日間も出来ませんでした。ブログの管理ベージが23日に突然アクセス出来なくなってしまったのです。ブログ開設をさせて戴いているFC2さんに問い合わせて担当のスタッフさんと何度もやり取りをして、その御丁寧な対応のお陰で、昨日やっと元のようにアクセス出来るようになりました。)

 …ということで、ブログを再開します。前回は日本と朝鮮の貿易に関する「問題4」の紹介でした。その問題に対する板倉さんの解説を転載します。

〔初期の日本と朝鮮の貿易〕

 じつは、そのころの日本にも朝鮮にも、特別貿易したいものはなかったのです。日本が開国後欧米諸国、とくに英国から大量に輸入した木綿は、朝鮮でも自給自足体制にありました。もともと日本の木綿は朝鮮から輸入されたものだったのです。また、生糸は同じ東洋の国ですし………それなのに朝鮮の開国後、日本と朝鮮との貿易量は急速に増えました。どうしてでしょうか。

 じつは、日本の商船は、ヨーロッパから日本に輸入された衣料品―とくに木綿製品を再輸出したのです。そのころの朝鮮では木綿は自給自足していました。だから、英国製の木綿を買うことは必要ではありませんでした。本当は国内の産業を守るために関税を掛けたいところでした。ところが、日本との間の条約で、「関税はとらない」(注)ということに決められてしまったので、英国製の優秀な木綿製品がどしどし輸入されるようになってしまった、というわけでした。そこで、そういう問題がのちに「不平等条約」として問題になったのです。

(注:前回の「日朝修好条規」の第十一款で取り上げました。)


【補足】  自分の国で自給自足できているものでも、外国の製品のほうがずっと良質だったりずっと安かったりすると、大量に輪入されるようになります。 そこで、ふつうは〈保護貿易〉といって、輸入を禁止したり関税を高くするなどして、国内の産業を守るのが普通です。現在のアメリカの自動車産業や日本のコメの場合がそうです。しかし、そういうことが出来るのは〈関税自主権〉がある場合だけで、他の国の植民地同然になると、そういうことが出来なくなるわけです。


 さて、それでは、朝鮮が開国して間もないころ、日本が朝鮮から主に輸入したのは、どんなものだったのでしょうか。一一それは、コメと金の地金でした。

 幕末から明治初年には、不平等条約のうえ日本人の貿易に関する無知もあって、日本の金銀は欧米諸国にどんどん流出してしまいました。そこで、日本は朝鮮での日本の紙幣の流通を認めさせるなどして、朝鮮から金地金を日本に送ったといいます。

 また、米はのちのちまでも大切な輸入品になりました。日本で米が足りなくなると、朝鮮米がその不足分を穴埋めしてくれたのです。 1889(明治22)年には、朝鮮も不作で飢饉が起きそうだというので、朝鮮のある地方で米の輸出を禁止したことがあります。そのとき、日本は「条約違反だ」と主張して、朝鮮政府から賠償金を獲得しています。そんなことが重なって、朝鮮政府の自主権を認めない日本に対する反感が朝鮮の人々の間で高まることになったのです。

〔問題5〕
 日清戦争のあと、
①日本が最初に戦争したのはどこの国とで、
②それは日清戦争から何年ぐらい後のことだ、
と思いますか。また、
③当時のひと人はその戦争のことを何と呼んでいた、
と思いますか。

予想①
 ア.朝鮮(韓国)
 イ.清国(中国)
 ウ.ロシア(ソ連)
 エ.アメリカ(米国)
予想②
 ア.日清戦争から10年くらいあと。
 イ.日清戦争から20年くらいあと。
 ウ.その他。
予想③【      戦争】

 どうしてそう思いますか。知っていることを出しあってから、次の話を読みましょう。

第二の戦争[日露戦争](1)


 「問題5」についての解説は通りです。

〔〈日露戦争〉と〈征露丸〉の話〕

 日清戦争のあと、日本の政府が最初に宣戦を布告した国はロシア、いまのソ連で、それは, 1904(明治37)年のことです。ですから、日清戦争から数えてちょうど10年後ということになります。その戦争のことは、ふつう「日露戦争」といいます。当時「露西亜」と書いて「ロシア」と読ませるのがふつうで、「露」と書けば「ロシア」のことをさしていたからです。

 この戦争のことを、「三十七八年の戦役」ということもあります。この戦争は、明治37~38年にあったからです。日清戦争は「明治27~28年の戦役」ですが、今度は「明治37~38年の戦役」です。これを西暦に直すと, 1894~95年と1904~1905年ということになります。これは、ちょっと注意すると覚えやすい年です。どちらの戦争も、1900年の前後の「4、シ」つまり、「死の年」に起きているからです。

 ところで、この戦争のときも、「征露戦争」という呼び名がありました。あなたは、「正露丸」という胃腸薬の名を知っていますか。〈クレオソートを含有した腸内殺菌防腐剤〉で、腹痛、下痢などによく効く薬です。じつは、その「正露丸」を発案したのは軍医の河西健次という人で、日露戦争の〈戦場での胃腸薬〉として全軍に大量に配付されたのです。

 それでは、その薬はどうして「正露丸」と名付けられたか、分かりますか。一一そうです。その薬を作りだした人々は、それに「征露丸」と名付けたのです。その薬は評判がよかったので,日露戦争後も「征露丸」の名で売られました。しかし、今では、〈「征露」ではまずい〉というので、「正露丸」と改名したというわけです。いまでも「ラッパのマークの〈正露丸〉」と宣伝されていますが、そのラッパのマークも、もともとは〈病気に対する進撃ラッパ〉ではなく、ロシアに対する進撃ラッパのつもりだったのです。

 ここで「問題6」に入る前に、付録の「宣戦布告の詔勅」の「問題2」を取り上げることにします。
ふろくの問題2〕
 それなら,日露戦争のとき。日本はその宣戦布告の中で、その戦争の最大の理由はどんなことにある主張していたと思いますか。

予想
 ア.ロシアの軍隊が日本軍に攻撃を仕掛けたこと
 イ.日本の安全を維持するため。
 ウ.朝鮮=韓国や中国=清国を守るため。
 エ.その他の理由。

 どうしてそう思いますか。みんなの考えを出しあってから,次の文章(宣戦布告の勅語)を読んでみましょう。

( 宣戦布告の勅語は難解な語句が沢山得てきますが、日清戦争の時の勅語でふりがな・意味を注記した語句については注記を省きます。特に出だしの一節は殆ど同じ文です。)

宣戦布告の勅語一一(日露戦争)

 天祐を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆に示す。
 朕、ここに露国に対して戦を宣す。朕が陸海軍はよろしく全力を極めて露国と交戦の事に従うべく、朕が百僚有司はよろしく各々その職務に率い,その権能に応じて国家の目的を達するに努力すべし。凡(およ)そ国際条規の範囲に於いて一切の手段を尽し、遺算[いさん=誤算]なからんことを期せよ。
 おもうに文明を平和に求め,列国と友誼〔ゆうぎ=友情〕を篤(あつ)くして,もって東洋の治安を永遠に維持し、各国の権利利益を損傷せずして永く帝国の安全を将来に保証すべき事態を確立するは,朕つとに以て国交の要義となし,旦暮〔たんぼ=朝夕〕あえて違(たが)わざらんことを期す。朕が有司もまた能く朕が意を体して事に従い,列国との関係年をおうて益々親厚におもむくを見る。いま不幸にして露国と釁端〔きんたん=不和のいとぐち〕を開くに至る。あに朕が志(こころざし)ならんや。
 帝国の重きを韓国の保全に置くや一日の故に非ず。これ両国累世(るいせい)の関係に因(よる)のみならず,韓国の存亡はじつに帝国安危の繋る(かか=つなぐ〕所たればなり。然るに露国は,その清国との盟約および列国に対する累次の宣言にかかわらず依然満洲に占拠し,益々その地歩を鞏固〔きょうこ=強固〕にして,終にこれを併呑〔へいどん=一つに合わせ従える〕せんとす。
 もし満洲にして露国の領有に帰せんか,韓国の保全は支持するに由なく,極東の平和また素より望むべからず。故に朕は,この機に際し,切に妥協によりて時局を解決し,もって平和を恒久に維持せんことを期し,有司をして露国に提議し,半歳(はんとし)の久しきにわたりて屡次〔るじ=しばしば〕折衝(せっしょう)を重ねしめたるも,露国は一日も曠日〔こうじつ=日をむなしくすること〕彌久〔びきゅう=久しきにわたり〕徒(いたずら)に時局の解決を遷延〔せんえん=のびのびにする〕せしめ,陽に平和を唱道〔=先にたっていう〕し,陰に海陸の軍備を増大し,もって我を屈従せしめんとす。およそ露国が始めより平和を好愛するの誠意なるもの毫〔ごう=すこし〕も認むるに由(よし)なし。露国はすでに帝国の提議を容れず,韓国の安全は方(まさ)に危急に瀕(ひん)し,帝国の国利は将(まさ)に侵迫(しんぱく)せられんとす。
 事すでにここに至る。帝国が平和の交渉に依り求めんとしたる将来の保障は,今日これを旗鼓〔きこ=旗と太鼓〕の間に求むるのほかなし。朕は汝有衆の忠実勇武なるに倚頼し,速やかに平和を永遠にし,もって帝国の光栄を保全せんことを期す。
御名御璽
  明治37年2月10日

(続きは次回で)
明治150年、何がめでたい(8)

明治以降の日本と戦争(3)

最初の戦争[日清戦争](3)


宣戦布告の詔書

 〈天祐〔てんゆう=天のたすけ〕を保全し万世一系の皇祚〔こうそ=天子の位〕を践(ふ)める大日本帝国皇帝〉は、忠実勇武(ちゅうじつゆうぶ)なる汝有衆〔なんじゆうしゅう=人民〕に示す。
 朕、ここに清国に対して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕が百僚有司〔ひゃくりょうゆうし=多くの官吏〕はよろしく朕が意を体し、陸上に海面に清国に対して交戦の事に従い、もって国家の目的を達するに努力すべし。いやしくも国際法にもとらざる限り、おのおの権能に応じて一切の手段を尽くすに於いて必ず遺漏(いろう)なからんことを期せよ。
 おもうに朕が即位以来ここに二十有余年、文明の化を平和の治(ち)に求め、外国に構うるの極めて不可なるを信じ、有司〔=官吏〕をして常に友邦の誼(よしみ)を篤(あつ)くするに努力せしめ、幸いに列国の交際は年をおうて親密を加う。何ぞはからん、清国の朝鮮事件における我に対して着々隣交(りんこう)にもとり信義に失するの挙(きょ)にいでんとは。
 朝鮮は、帝国がそのはじめに啓誘〔けいゆう=啓発して導く〕して列国の伍伴〔ごはん=仲間〕につかしめたる独立の一国たり。而(しか)して、清国はつとに自ら朝鮮をもって属邦と称し、陰(いん)に陽(よう)にその内政に干渉(かんしょう)し、その内乱あるにおいて口を属邦の拯難〔しょうなん=難儀を救うこと〕にかり、兵を朝鮮に出したり。朕は、明治十五年の条約〔=済物浦さいもっぽ条約〕により兵を出して変に備えしめ、さらに朝鮮をして禍乱(からん)を永遠にまぬがれ治安を将来に保(たも)たしめ、もって東洋全局の平和を維持せんと欲し、先(ま)ず清に告(つ)ぐるに、協同ことに従わんことをもってしたるに、清国は飜(ひるがえ)って種々の辞柄〔じへい=いいぐさ〕を設けこれを拒(こば)みたり。帝国は是(これ)において朝鮮に勧むるに、その秕政〔ひせい=成熟しない政治〕を釐革〔りかく=改革〕し、内は治安の基(もとい)を堅くし、外は独立国の権義〔けんぎ=権利・義務〕を全くせんことをもってしたるに、朝鮮はすでにこれを肯諾〔こうだく=承諾〕したるも、清国は終始陰(いん)に居(い)て百方その目的を妨害し、剰(あまつ)さえ〔=おまけに〕辞(ことば)を左右に托(たく)し時機を緩(かん)にし、もってその水陸の兵備を整え、一旦(たん)成るを告ぐるや直ちにその力をもってその欲望を達せんとし、さらに大兵を韓土(かんど)に派(は)し、わが艦を韓海(かんかい)に要撃(ようげき)し、ほとんど亡状〔ぼうじょう=無法〕を極めたり。すなわち清国の計図〔けいと=計略〕たる、明らかに朝鮮国治安の責をして帰するところあらざらしめ、帝国が率先してこれを諸独立国の列に伍せしめたる朝鮮の地位はこれを表示するの条約とともにこれを蒙晦(もうかい)に付し、もって帝国の権利利益を損傷し、もって東洋の平和をして永く担保なからしむるに存するや、疑うべからず。つらつらその為すところについて深くその謀計(ぼうけい)の存するところを揣(はか)るに、じつにその始めより平和を犠牲(ぎせい)としてその非望を遂(と)げんとするものと謂(い)わざるべからず。
 事すでにここに至る。朕、平和と相終始してもって帝国の光栄を中外(ちゅうがい)に宣揚(せんよう)するに専(もっぱ)らなりといえども、また公(おおやけ)に戦を宣(せん)せざるを得ざるなり。汝有衆(なんじゆうしゅう)の忠実勇武に倚頼〔いらい=依頼〕し、速かに平和を永遠に克復(こくふく)し、もって帝国の光栄を全くせんことを期す。
 御名御璽(ぎょめいぎょじ)
  明治27年8月1日

 この詔書から、板倉さんは日本が主張した日清戦争開戦の理由は次の通りであったと解説している。

 どうですか。なんとか読めたでしょうか。
「日本は朝鮮を開国させて、朝鮮を独立国としてもりたてているのに、清国は朝鮮を従属国として、その独立を認めずに干渉するのは怪しからん」
といい、さらに、
「清国は、日本が朝鮮に獲得した権益を侵している」
と非難しているわけです。

 なお、最初に「大日本帝国皇帝」とあって、「天皇」となっていないことに気づいた人もあるでしょう。じつは明治以後1936(昭和11)年まで、多少とも対外的文書では、日本の天皇は「皇帝」の名を称していたのです。

 本論に戻ろう。

前回の〔征韓論と朝鮮開国〕に次の記述があった。
『日本は欧米諸国に習って朝鮮に軍艦を送り,<日朝修好条規〉を結ばせて開国させたのです。 1876年のことです。』

 まず、ここに出てきた<日朝修好条規〉を読んでおくことにします。『史料集』からの転載です(第十二款からなる条規ですが、この条規の重要部分を示す一部だけが掲載されています。また旧漢字を新漢字に改め、難読文字にふりがなを、さらに句読点を付記しています)。


日朝修好条規

第一款
朝鮮国ハ自主ノ邦(くに)ニシテ、日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ。嗣後(じご)兩国和親ノ実ヲ表セント欲スルニハ彼此(ひし)互(たがい)ニ同等ノ礼義ヲ以テ相接待シ毫(ごう)モ侵越猜嫌(しんえつさいけん=注1参照)スル事アルヘカラス。……
(注1:侵略しねたみきらうこと)

第八款
嗣後日本国政府ヨリ朝鮮国指定ノ各口(かくこう=注2参照)ヘ時宜(じぎ)ニ隨(したが)ヒ日本商民ヲ管理スルノ官(=領事)ヲ設ケ置クヘシ。若シ両国ニ交渉スル事件アル時ハ該官(がいかん)ヨリ其所ノ地方長官ニ会商(かいしょう=会合して協議すること)シテ弁理(べんり=弁別して処理すること)セン
注2:各港=釜山ほか。第五款で「通商に便利なる港口二箇所」の開港が規定され、のちに元山・仁川となった

第十款
日本国人民、朝鮮国指定ノ各口ニ在留中、若シ罪科(ざいか)ヲ犯(おか)シ朝鮮国人民ニ交渉スル事件ハ、総(すべ)テ日本国官員(かんいん)ノ審断(しんだん)ニ歸スヘシ。若(も)シ朝鮮国人民罪科ヲ犯シ日本国人民ニ交渉スル事件ハ、均シク朝鮮国官員ノ査弁(さべん=調べ弁別する)ニ歸スヘシ。尤(もっとも)双方トモ各(おのおの)其国律(こくりつ=国法)ニ拠(よ)リ裁判シ、毫モ回護袒庇(かいごたんひ=注3参照)スル事ナク務(つと)メテ公平允当(じゅうとう)ノ裁判ヲ示スヘシ。
注3:かばい守ること。自国人民の不利にならぬようにするの意。

第十一款
両国既(すで)ニ通好ヲ経(へ)タレハ、別ニ通商章程ヲ設立シ兩国商民ノ便利ヲ与(あた)フヘシ。且(かつ)現今議立セル各款(あくかん)中更(さら)ニ細目ヲ補添(ほてん)シテ以テ遵照(じゅんしょう)ニ便ニスヘキ條件共、自今六ヶ月ヲ過スシテ両国別ニ委員ヲ命シ、朝鮮国京城又ハ江華府ニ会シテ商議定立(注4参照)セン。
(注4:この既定に基づき、8月24日に「条規付録」「貿易規則」が決められるが、「付録」に「付属するおうふく文書」で関税廃止を強要した。

 日本は朝鮮に軍艦を送り,<日朝修好条規〉を結ばせて、無理矢理朝鮮に開国をさせたのですが、本文の話題はその後の日本と朝鮮との関係に関する事項が主題です。その取っ掛りとして次の問題が出されています。

〔問題4〕
 1876年に日本が朝鮮を開国させてから5年間というもの,日本は朝鮮と独占的な貿易をしました。日本と朝鮮とは江戸時代にもほそぼそと貿易していたのですが,開国以後その貿易額も急速に増えています。

 それなら,そのとき,日本の商船は朝鮮にどんなものを輸出したと思いますか。また,朝鮮からどんなものを輸入したと思いますか。次の中からそれぞれ二つずつ選んでみて下さい。

予想
 ア.食料品一米・麦,海産物・その他。
 イ.衣料品一羊毛・木綿やその製品・染料など。
 ウ.鉱産物一金・銀・銅・硫黄・石炭など。
 エ.工芸品一陶器・扇子など。
 オ.機械類一理化学機械・生産機械・車など。

日本から朝鮮に輸出…(1)【 】 (2)【 】

朝鮮から日本に輸入…(1)【 】 (2)【 】

 〔ヒント〕一一一一1876~1881 (明治9~14)年と言えば,日本も明治維新以後まだ10年あまりしかたっていません。日本はどんなものを輸出したくて,またどんなも のを輸入したかったのでしょう。
 日本の場合,幕末からこのころまで,欧米諸国からもっとも大量に輸入したのは,「衣料品」の木綿製品と羊毛製品でした。木綿は江戸時代には自給自足していたのですが,欧米の機械木綿のほうがずっと良質で安かったからです。一方,日本からもっとも大量に輸出したのは,生糸と蚕卵紙(さんらんし=カイコの卵)でした。

 次回に続く
明治150年、何がめでたい(7)

明治以降の日本と戦争(2)

最初の戦争[日清戦争](2)


 前回の記事で「日清戦争」が「征清戦争」とも呼ばれていたということを私は初めて知った。「清国を征伐する戦争」という意味と解説されていたが「日清戦争の本質を示している真っ当な呼び方であると、私は思った。 このことは後に再度取り上げることになるかもしれない。

 では次の問題に進んでみよう。
 〔問題2〕
 日清戦争のとき、主要な戦場となったのは,どの国の領土だったと思いますか。二つ○をしてもよい。
 ア.日本の領土
 イ.清の領土
 ウ.日本でも清でもない(     の領土)

 どうしてそう思いますか。みんなの考えを出しあってから、次の話を読みましょう。

 〔問題2〕についての解説

〔日清戦争の戦場〕

 日清戦争のとき,日本の国土はまったく戦場となりませんでした。清の領土のうち、朝鮮に接する遼東半島は戦場になりました。しかしもっとも主要な戦場となったのは、日本でも清でもない朝鮮でした。日清戦争のとき日本軍の戦死(即死)者数は364人でしたが,そのうちの216人は朝鮮で戦死しているのです。つまり、日清戦争のときの主な戦場というと、朝鮮(と清国)ということになります。

 この戦争のとき、朝鮮は「朝鮮王国」という独立国でした。いったい、その朝鮮はその戦争のとき、どちらの側についてどちらの国と戦争したのでしょうか。

 じつは、日本も清国も、「朝鮮を助ける」と称して勝手に朝鮮に入り込んで相互に戦ったので、朝鮮は「その一方に味方して他方と戦った」ということにはなっていないのです。

日清戦争の戦場

〔問題3〕
 それなら、その後、日本は、朝鮮(韓国)と戦争したことがあるでしょうか。正式に宣戦布告をして戦争したものだけについて予想して下さい。

予想
 ア、 朝鮮・韓国と戦争したことがある。
 イ、 朝鮮・韓国と戦争したことなない。
 〔問題3〕についての解説

〔日本と朝鮮(韓国)との関係〕

 昔…江戸時代になる少し前,日本の豊臣秀吉は「朝鮮征伐」といって,朝鮮を侵略したことがあります。しかし明治以後の日本は朝鮮(韓国)に宣戦布告をして戦ったことはありません。

 もっとも,明治以後,日本軍は何度も朝鮮に攻め入って,朝鮮軍と戦闘しています。けれども,それを<事件>とか〈事変〉と呼んで,正式な<戦争〉とは呼ばなかっただけとも言えるのです。

 明治以後の日本の戦争の歴史を理解するには,日本と朝鮮(韓国)の関係の歴史を知っておくことが必要です。そこで,簡単に見ておくことにしましょう。

〔征韓論と朝鮮開国〕

 1873(明治6)年には,明治維新を実現した新政府の人たちの間で,「朝鮮(韓国)を征伐しろ」という「征韓論」が盛んになったことがあります。じつは,当時は「朝鮮王国」というのが正式な国名でした。しかし,日本人は昔から,このお隣の半島の国のことを「韓(から)の国」とも呼んできたので,〈朝鮮〉も〈韓〉も同じ意味に使われてきたのです。

 1873年の「征韓論」のときは,さいわい戦争は沙汰やみになりましたが,それから間もなく,日本は朝鮮に開国をせまることになります。

 じつは,朝鮮は江戸時代の日本と同じく,長い間,他の国々と国交をもたずに〈鎖国〉していたのです。日本は,米国のペリー艦隊に軍事的な圧力を加えられて,しぶしぶ〈日米和親条約〉を結んで開国したのでしたが,朝鮮の開国に当たって米国のペリー艦隊の役割を演じたのは日本の艦隊だったのです。日本は欧米諸国に習って朝鮮に軍艦を送り,<日朝修好条規〉を結ばせて開国させたのです。 1876年のことです。

 日本の場合,〈日米和親条約〉は日本にとって不利な「不平等」な条約だったので,その後の日本は大きな政治変革の時代を迎え,明治維新が起きました。ところが,朝鮮の場合も,その条約は朝鮮側にとって不利な不平等条約だったので,その後大きな反対運動が起き,さまざまな政変が起きました。 1882年には反日本暴動が起きて,日本の公使館が襲撃され,公使が逃げ帰るという事件も起きました。そのとき,日本はまた朝鮮に圧力を加えて,〈必要に応じて日本軍を朝鮮に派遣する権利〉を得たのです。

 日清戦争のとき,日本はしきりに,「朝鮮は独立国だ」と主張しました。しかし,それは朝鮮の独立を尊重するためではなく,清国が朝鮮に大きな影響を及ぼすことに反対するためでした。それまでの朝鮮は長い間,清帝国の属国のようになっており,日本軍の干渉に困った朝鮮は,清国の軍隊に助けを求めたので,日本軍と清国軍が衝突したことがあったからです。清国の軍隊も日本の軍隊と同じように朝鮮に勝手に侵入して争うことになり,ついには日清戦争に発展したというわけです。

 板倉さんは[はしがき]で『「戦争は何故起きたか」……という問題には直接ふれないことにして,戦争の事実だけを取り上げて……』授業書を進めていこうと宣べていました。

 ところで、巻末に<ふろく>として「宣戦布告の詔勅」を掲載していて、その<ふろく>の冒頭の解説で、上の[はしがき]の記述の続きと考えられることを次のように述べています。

 戦争が起きる理由は,いろいろに考えることができます。しかし,ここではそういう憶測はやめることにして,「日本が外国に戦争を仕掛けたとき,どういうことをその理由として挙げていたか」という事だけを調べることにします。背後の事情はともかくとして,〈日本が宣戦を布告した表向きの理由〉を調べようというのです。それには,その戦争をはじめるときに政府が天皇の名で出した「宣戦布告文」を調べるのが一番でしょう。そこでくふろ<〉として,日清戦争・日露戦争・大東亜戦争のときに日本の政府が天皇の名で出した〈勅語〉を紹介することにしたわけです。

 もちろん,宣戦布告文というのは,一方の側の「正義の主張」ですから,そこにいくら正義らしいことが書いてあっても,それが正しいと考えてはなりません。相手側にもそれなりの理由があるわけですしどちらも表には出さない・あるいは両者ともが気づいていなかった本当の理由というのもあるのかも知れません。そういうことはともかくとして,「日本側が当時どういう正義を主張していたか」ということだけを見ようというのです。

 このように述べて、次のような問題を提出しています。
〔問題〕

 それなら,日清戦争のとき,日本はその宣戦布告文の中で,その戦争の最大の理由はどんなことにあると主張していたと思いますか。

予想
 ア. 清国の軍隊が日本軍に攻撃を仕掛けたこと。
 イ. 朝鮮における日本の利益を擁護するため。
 ウ. 朝鮮の独立を助けるため。
 エ. その他の理由。

 どうしてそう思いますか。みんなの考えを出しあってから,そういう点にとくに注意して,次の文章を読んで下さい。
 「次の文章」というのが日清戦争の時の宣戦布告の勅語です。これまでのように『史料集』から転載しようと思っていたのですが、板倉さんが
「これらの勅語はとても読みにくいので」と,本文のカタカナをひらがなに変え、難解漢字にはふりがなのほかに意味・解説などを付したものを掲載しているので、それを読むことにします。(次回に続く)
明治150年、何がめでたい(6)

明治以降の日本と戦争(1)

 半藤一利さんと保阪正康さん対談『「薩長史観」を超えて』を参考にカテゴリ「明治150年、何がめでたい」を始めたのですが、前回で『対談』を読み終えました。これで一区切り、このカテゴリを終わりにしようと思っていたのですが、もうしばらく続けることにしました。そのわけは…

 久し振りに本棚を眺めていたら『ミニ授業書 日本の戦争と歴史 明治以降の日本と戦争(板倉聖宣・重弘忠晴著 仮説社 1991年3刷版)というB6判の小さな本が目に止まりました。すっかり忘れていました。懐かしい。多分、中学生か高校生だった子供の読み物として購入したのだと思います。著者の板倉さんについては、10年ほども前の記事
『唯物論哲学 対 観念論哲学(2):番外編・私の師匠』
で紹介しました。その板倉さんが仮説実験授業という理科の楽しい授業書を開発していて、それを社会科にまで取り入れています。その一例「おかねと 社会 ─政府と民衆の歴史」を
『今日の話題:「オセト」のたよりもたえはてた』
で取り上げてその授業書の最終問題を紹介しました。私が久し振りに出会った「日本の戦争と歴史」はそうした社会科授業書の一つです。

 ところで、私がこの本を購入したのは1991年と17年も前のことです。今は絶版になっているのではと調べましたら、1993年に「 社会の科学入門シリーズ 日本の戦争の歴史―明治以降の日本と戦争 」という書名で再出版されていましたが、内容説明が「〈明治以後の日本の戦争の歴史的事実〉だけを取り上げたものです。」となっていて、ページ数も約1.6倍もあるのでミニ授業書の増補版あるいは改訂版というところでしょうか。もしかしたら授業書形式ではないかもしれません。(なお、これを調べている過程で、板倉さんが先月の七日に亡くなられていることを知りました。板倉さん、いろいろと学ばせて戴きました。これからもいろいろとお世話になります。ご冥福をお祈り致します。)

 ということで、「明治150年、何がめでたい」の総集編という意味で、手元にある『ミニ授業書 日本の戦争と歴史』(以下、『ミニ授業書』と略記する)を、生徒になったつもりで楽しみながら、読んでいくことにしました。一緒に楽しんで戴ければ幸いです。なお[はしがき]で板倉さんは「戦争は何故起きたか」という問題には直接触れないことにすると書いていますが、私の判断で、その問題について補足して行こうと思っています。

 では、まずは[はしがき]を読んでおきましょう。

〔はしがき〕

 この授業書は,<明治以後の日本の戦争の歴史的事実〉を話題にしたものです。
 戦争の歴史というと,「戦争は何故起きたか」ということが問題になりますが,そういう問題はすぐに党派的な話題になりがちで,すべての人々に十分納得してもらうことは困難です。そこで,この授業書では,そういう問題には直接ふれないことにして,戦争の事実だけを取り上げてあります。そのほうが戦争を冷静に考えることができて,自分なりに戦争の本質を考えるのにもいいと考えたからです。一度付き合ってみて下さい。

 はじめ私は。この授業書を作るには,<私自身がすでに知っている知識を文献的に確認をとってまとめれば十分だろう>と考えていました。ところが,多くの人々が気になりそうなことを〔問題〕に仕立てて,その答えを明確にするために調べてみたら,それまで私自身も知らなかった事実が次々と出てきました。そこで,この授業書は,「日本の戦争の歴史についてはかなり知っているつもり」という人々にとっても新しい基本的な事実がかなり含まれているとおもいます。
 それだけに,この授業書ははじめのねらいよりも少し欲張りすぎているような気もしないでもありません。そして,〈日本の戦争についてまるで知らない〉という人々には不親切なところもあるのではないか,と恐れています。目標としては,ごくごくふつうの大人,それと高校生・中学生が話し合いながら読みすすめられるようにしたいと考えています。
 この授業書では,<日本の明治以後の戦争の基本的な性格を浮き上がらせることのできるような基本的な事実〉だけにしぼって話をすすめるように努めたつもりです。しかし,先を急ぐあまり,その原則を踏み越えてしまったところもあるのではないか,と恐れています。

 この授業書は,仮説会館で開いている「授業書・総合読本開発講座」の成果として,まとめられたものです。そこで,この授業書を作るに当たっては,多くの人々の考えを取り入れることができました。最終的には,その講座参加者のうちこの問題にとくに関心と知識のある重弘忠晴さんにとくに協力して頂いてこのミニ授業書をまとめることになったのですが。その他大勢の方々,とくに「この前の戦争のことがどうもよく分からなくて」と話題を提供して下さった佐々木敏夫さんに感謝いたします。
            板倉 聖宣 (1989.10.3.)

最初の戦争(1)

 では、授業を始めましょう。
 なお、授業書が「今・いま」と言っているのは「ミニ授業書」が書かれた1989年を指しているので、全ての「いま」を2018年と読み替えて転載していきます。
 〔問題1〕
 明治維新(1868年)以後、
①日本が最初に戦争したのは、どこの国とで、
②それは今から何年ぐらい前のことだと思いますか。
 また,その戦争のことを
③当時のひとは何と呼んでいたと思いますか。

予想①
 ア.朝鮮(韓国)
 イ.清国(中国)
 ウ.ロシア(ソ連)
 エ.アメリカ(米国)

予想②
 ア.いまから130年くらい前のこと。
 イ.いまから110年くらい前のこと。
 ウ.いまから80年くらい前のこと。

予想③ 【     】戦争

 どうしてそう思いますか。
 知っていることを出しあってから,次の話を読みましょう。

 〔問題1〕についての解説

〔〈日清戦争〉または〈征清(せいしん)戦争〉の話〕

 明治維新以後、日本の政府が最初に宣戦を布告した国は清、いまの中国で、それは、 1894 (明治27)年のことです。ですから、いま(2018年)から数えると124年まえ、つまり「ほぼ130年前のこと」ということになります。

 その戦争のことをふつう「日清戦争」といいます。戦争が始まって間もなく、浅草座では「日清戦争」という劇を演じましたし、『日清戦争実記』という本も出始めました。しかし、当時の人々は、必ずしもそう呼んではいなかったようです。
 たとえば、当時ドイツに留学していた若い物理学者・長岡半太郎は, 1895年1月に日本に向けた手紙の中で、その戦争のことを「征清事件」と書いています。それだけではありません。当時の日本の議会の記録にも、この戦争のことを「征清事変」と呼んだことが残っています。また、戦争が終わった直後の1895年9月には、「征清戦史」という表題の本も出版されています。
 当時は、政府もこの戦争の呼び名を正式に決めていなかったのでしょう。その後も、「日清戦争」という呼び名のほかに、「明治二十七八年の戦役」という呼び名が広く用いられています。

 「征清戦争」とか「征清事変」というのは、「清国を征伐する戦争」という意味の言葉です。「桃太郎が<鬼を征伐しに〉鬼が島に行った」というのと同じで、「悪者をこらしめるために戦争した」というわけなのです。すべての人が「征清」という言葉を使ったわけではないようですが、当時の人々はその戦争をそんな気分で見ていたのでしょう。

 次回に続く。
明治150年、何がめでたい(5)

薩長藩閥が牽引していった日本の戦争

 『対談 4(最終回)』の表題は「教訓」で、司会者はまず次のように問題提起をしている。

 北朝鮮による弾道ミサイル発射や、核実験など軍事挑発が続いています。安倍政権は安全保障環境の厳しさを強調しています。

 対談は半藤さんの発言から始まっている。

石油禁輸は危険

半藤
 北朝鮮に元に戻れというのは無理でしょう。昭和史を勉強すればするほど分かるが、ある程度のところで凍結して話し合うべきだ。一番やってはいけないのは石油を止めること。旧日本軍のように「だったら戦争だ」となる。そういう教訓があるんだから、話し合いの席に導き出すような形に早くするべきで、いわんや安倍さんが言うように圧力一辺倒なんてとんでもない話だと思います。
保阪  半藤さんの議論に基本的に賛成なんですが、あえてもうひとつ別な視点を付け加えると、弾圧する側とされる側は、かなり相似形の組織をつくる。今の北朝鮮は、かつて日本の軍国主義が植民地にしていたわけで、金日成の統治は日本のまねをしているという感じはしていました。「絶対王政」が二代三代と続き腐敗していく中で、最終的に人民反乱が起きるのは歴史の教訓なんだけども、今のところ起こりそうもないですね。

司会者
 国際社会の歴史から教訓は得られますか。

半藤
 日本が1931年に満州事変を起こすのですが、その直前の29年に世界恐慌が起きて、それまで世界の平和をリードしていた米国が、アメリカファースト(米国第一)になって内向きになった。欧州各国も続き、日本はチャンスだと満州事変を起こした。同じことを今やっているんですよ、世界は。

対話ルート必要

保阪
 2002年、小泉純一郎元首相が訪朝しました。「行って話をしてくる」という姿勢を示したのは、一つの見識だったと思う。話し合いのルートをつくっていかないと。それさえ拒否するとなると、戦争しかないという方向を許容するのか。そういうことになるんだと思うんです。

 ちょっと横道へ
 北朝鮮問題に関しては、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長の妹、金与正(キムヨジョン)党宣伝扇動部第一副部長ら北朝鮮の代表団が平昌(ピョンチャン)冬季五輪の開会式に合わせて、2月9日に韓国入りした時を皮切りに、望ましい方向に動き始めた。その後、この動きは更に進み、3月12日の東京新聞(朝刊)が次のような記事を掲載している。
【ワシントン=後藤孝好】
トランプ米大統領は10日、東部ペンシルベニア州ピッツバーグ近郊で演説し、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長との首脳会談について「私はすぐに立ち去るかもしれないし、席に着いて北朝鮮を含めた世界の全ての国にとって最高のディール(取引)を成し遂げるかもしれない」と述べ、非核化実現に期待感を示した。
 トランプ氏は北朝鮮が自ら対話を求めてきた経緯を紹介した後、「オバマ前大統領やブッシュ元大統領、クリントン元大統領にはできなかったことだ。もっと早く対処されるべきだった」と最大限の圧力の成果を強調。
「北朝鮮はミサイルを発射しないと言った。多くのミサイルが上空を飛び越えた日本はとても喜んでいる」とも語った。
 その上で「北朝鮮は米国との和平を望んでいるだろう。その時期が来たと思う」と指摘。平和条約の締結などトップ同士の直接交渉による核・ミサイル問題の解決に意欲を見せた。
 正恩氏からの首脳会談の要請を受け入れて以降、トランプ氏が公の場で話すのは初めて。

 このことを報道している日刊ゲンダイの記事は、アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相の北朝鮮への圧力一辺倒という愚かな対応策と絡めてそれを辛辣に批判している。紹介しておこう。
『米朝会談ツマはじき 盟友に見限られた安倍首相は完全孤立』

 『対談 4』に戻ろう。
司会者
 戦争を始めても終わらせることは難しい。

保阪
 開戦前の大本営政府連絡会議で戦争終結に関する腹案というのが了承されてます。主観的願望を客観的事実にすり替えている内容で、これが戦争前の日本のすべての判断の根幹にありました。エリート軍人は無責任で、まったく国民のことを考えていない。多くの軍人に会い、官僚の体面の中で始められた戦争だということを徹底的に知った時、彼らは日本の伝統や倫理、物の考え方の基本的なところを侮辱したんだ、その責任は歴史が続く限り存在するんだということを次の世代に伝えたいですね。
半藤
 この年になって「世界史のなかの昭和史」という厚い本を出します。海軍中央にいたのは全部、親独派です。親米派はおん出されている。親独派はほとんどが薩長出身者です。ほんとなんですよ。陸軍も親独派はだいたい薩長です。戦争をやめさせた鈴木貫太郎(終戦当時の首相)は関宿(せきやど)藩、三国同盟に反対した元首相の米内光政(よないみつまさ)は盛岡藩、元海軍大将の井上成美(しげよし)も仙台藩で、薩長に賊軍とされた地域の出身者です。日米開戦に反対した山本五十六(いそろく)も賊軍の長岡藩。賊軍の人たちは戦争の悲惨さを知っているわけですよ。だから命をかけて戦争を終わらせた。太平洋戦争は官軍が始めて賊軍が止めた。これは明治150年の裏側にある一つの事実なんですよ。
=おわり
(この連載は瀬口晴義、荘加卓嗣が担当しました)

 お二人の最後の発言内容はどちらも大事な指摘だと感じ入っている。

 なお、保阪さんの発言の中の「戦争終結に関する腹案」に興味を持ったので調べてみた。「大本営政府連絡会議」でネット検索をすると沢山の記事がヒットした。そのうちの一つ
『大本営政府連絡会議、「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」決定』
という記事の内容を紹介しよう。  腹案の主観的願望の道筋は
「ドイツがイギリスを降伏させる → アメリカ国民が戦意を失う → 枢軸国の勝利」
であるとまとめ、その方針を「腹案」から引用している。
方針
一、
速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
二、
極力戦争対手の拡大を防止し第三国の利導に勉む

 この腹案について、ブログ作者の「taro」さんは次のように語っている。
『戦争は、始めるよりも終わらせる方がずっとむずかしい。 それは、けんかの経験などから子供にでもわかることだろう。 国力10倍の大きな国を相手に戦争を始めようというとき、 国には戦争終結プランがなければならぬと思うのだが、あのときの日本はどうだったのだろうか。 実はこの「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」がその唯一のもの。 しかも、この文書は開戦決定のわずか半月前に作成された。 この事実を知ったとき、taroは背筋には冷たいものが走った。 ちなみに、この「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」で頼みとしたドイツがモスクワ攻略を断念したのは12月8日、 つまり、時差はあるが日米開戦当日の出来事だ。 開戦と同時に唯一の戦争終結プランが崩壊。ああ。』
 最後にtaroさんは、保阪さんの著書「東條英機と天皇の時代(上)」からの次の文を引用している。これはそのまま転載しておこう。

 11月15日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。 ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。 二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、 蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、 そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。 この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。 そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、 中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。 願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。

 なお、『日本の歴史年表』というサイトの
『対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案編集する』
という記事では、「腹案」の全文を読むことが出来るので紹介しておこう。
明治150年、何がめでたい(4)

天皇って、何だ?

 『対談 2』の最後で保阪さんが「天皇問題」に言及していたが、『対談 3』はそれを受け継ぐ形で、明治時代から現在に至るまでの「天皇」問題の推移をテーマとして取り上げている。まず司会者は次のように問いかけている

明治憲法下の天皇の位置付けは?
 『対談 2』で半藤さんは「西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。」と語っていたが、今回の対談ではまず半藤さんが発言をしているが、西南戦争後の薩長の国づくりに関わる違いを語った上で明治憲法下の天皇について述べている。

半藤
 西南戦争が終わってから新しい国づくりを始めたときに、プロシア(ドイツ)かぶれの山県有朋や周りを囲んでいた優秀な官僚が軍事国家体制をつくります。明治憲法が発布される1889(明治22)年より10年も先にです。歴史に「もし」はありませんが、大久保利通が暗殺されていなければ、こうはならなかったと思います。英仏米などを歴訪し、軍事を政治の統制下に置く、今で言うシビリアンコントロールを学んでいましたから。憲法が制定される前から、日本は軍事国家として歩き出していたんですね。


 山県は長州出身、大久保は薩摩出身である。つまり、軍事主導体制で帝国主義的な道を推し進めていったのは長州藩閥だったということになる。『対談 3』には注として山県と大久保の履歴が記載されているのでそれを転載しておこう。

山県有朋
 1838~1922年。幕末~大正期の軍人、政治家。長州出身で、松下村塾に学ぶ。維新後は西欧の軍制を学び徴兵制の導入に尽力。天皇制の下での軍人の心構えを説いた「軍人勅諭」を起草させた。首相辞任後も元老として大きな影響力を持った。

大久保利通
 1830~78年。薩摩出身。西郷隆盛とともに討幕運動の指導者となり、新政府では全国の藩が所有していた土地と人民を朝廷に返還する版籍奉還などを主導し中央集権体制を構築した。77年には西南戦争を鎮圧したが、批判的な士族に暗殺された。

 半藤さんの発言は次のように続く。

 だから、憲法の中心に天皇を置くのと同じように、軍事のトップに大元帥としての天皇を置いたわけです。明治憲法で天皇と軍事を扱う項目は大ざっぱにいうと二つだけです。「天皇は陸海軍を統帥する」「陸海軍の編成と予算を決定する」。大元帥陛下をトップに立て、一方に憲法の定めるところの内政と外交を主に見る天皇陛下がいる。天皇と大元帥の二つが一つの人格の中にあった、と考えると非常に分かりやすい。

 大日本帝国憲法は1889(明治22)年2月11日に発布さてた。この憲法は7章76条から成るが、第一章が天皇条項で17条もある。つまり全条項の4.5割が天皇条項なのだ。 その中から「天皇と大元帥の二つ」規定している条文を抜粋しておこう。
第一章 天皇

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第八条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス…
第一一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第一二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第一三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第一四条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス…

 このような絶対主義天皇制国家を打ち立てた背景には、もちろん支配階級の自由民権運動の高まりへの大いなる危機感があった。自由民権運動の中の重要な運動の一つとして「憲法草案の起草」が各地で行われていたが、中でも、千葉卓三郎起草の「五日市憲法案」と植木枝盛起草の「東洋大日本国国憲按」が名高い。この二つの国憲案については『大日本帝国の痼疾(82)』
の中の「自由民権運動(36)―抵抗権」で取り上げている(興味があれば参照して下さい)。今回は『史料集』に「東洋大日本国国憲按」の一部が掲載されているので、それを転載しよう。
東洋大日本国国憲按

第一条 日本国ハ日本国憲法ニ循テ之ヲ立テ之ヲ持ス
第五条 日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス
第四十二条 日本ノ人民ハ法律上ニ於テ平等トナス
第四十三条 日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ自由権利ヲ犯サレサルヘシ
第四十九条 日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス
第五十条  日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ
第七十条  政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハサルコトヲ得
第七十一条 政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得、政府威力ヲ以テ擅恣暴逆ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得
第七十二条 政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ、国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得
第七八条 皇帝ハ兵馬ノ大権ヲ握ル、宣戦講和ノ機ヲ統フ……
第百十四条 日本連邦ニ関スル立法ノ権は日本連邦人民全体に属す
(牧野伸顕文書)

 日本を連邦制として皇帝に行政権を認めるものの、立法権は人民がにぎるという主権在民説を第百十四条で明確にし、第七十一条で抵抗権を明記している。このように明治憲法とはまったく異なる憲法構想が存在していたのだった。

さて『対談 3』の続きを読もう。司会者は天皇問題を次のように進めている。

来年四月末に天皇陛下が退位し、明治以降、四つ目の元号である平成も終わりを迎えます。
 これに対しては保阪さんから発言で始まっている。
平成は政治と災害

保阪
 平成のキーワードは「天皇」と「政治」と「災害」だと思っています。55年体制が崩壊し、衆院に小選挙区比例代表並立制が導入され、阪神大震災が1995(平成7)年に起きました。今の陛下は二つの側面を持っています。戦没者の追悼と慰霊という公的行為は昭和の清算。もうひとつは象徴天皇という形を何のサンプルもない中でつくったことです。

半藤
 昭和天皇は幼少期から軍人教育を受け、11歳で陸海軍少尉になった。軍人なんですよ、根は。44歳の時に戦争に負けて象徴天皇になったといっても、どういう天皇であるべきかは残念ながらなかなか理解できなかったと思います。
国民の痛み理解

 それを受けた現在の天皇陛下は、私より三歳下ですが、十一歳の時に戦争に負けて自分の戦争体験はなくても、国民がいかに悲惨な目に遭ったかをよく知っているんです。象徴天皇とは何かを、おやじさんから教えを受けたわけではないんです。皇后さまとともに真剣に考えてつくりあげていったと思うんですね。
 かなり歴史を勉強されている方ですから、軍事国家の大元帥、ならびに天皇というのは、どうにでも使われちゃうから危険だということを分かっていると思います。自分は国民統合のために一番良いと思う象徴天皇の形をつくった。これを何とか残し、次の時代も続けることが、皇統を守るためにも一番良い、元気なうちに皇太子さまに譲って、それを見届けたいというのが、今度の退位の動機でしょう。

保阪
 自民党の改憲草案は、天皇を元首と位置づけています。天皇自身の意思を考えず、政治家の都合のいいように扱っていいのか。山県や伊藤博文がやった明治憲法と同じじゃないかと指摘できます。意思なんか持つな、存在するだけで良い、というなら、それはそれで論理は成り立つけど、天皇陛下は「それは嫌だ」と2016年8月のビデオメッセージで明かしたわけだから、根本にあるものは黙視できる問題ではありません。
 半藤さんも保阪さんも現天皇に対して大変好意的な理解を示している。

 私は皇族には基本的人権がないという点で気の毒に思っている。天皇問題は憲法にその核心があるが、その観点からは
『憲法について』

で取り上げている。
明治150年、何がめでたい(3)

明治時代に始まった「軍事主導」

 『対談 2』のテーマは「軍事主導」であり、司会者は次のように問いかけている。
 明治から、大正、昭和にいたる歴史の連続性をどう考えますか?

 今回は保阪さんの発言から始まっている。

保阪
 日露戦争の本当の部分が隠蔽(いんぺい)されてきました。昭和史を追いかけるとそこに行き着きます。明治を高く評価する人は、日本人には良質な精神があると言いたいのだと思うが疑問です。日本には選択肢がいくつもあった。皇后さまが言及した「五日市憲法」のように、日本各地で自主的な憲法案が80いくつもつくられた。しかし、選んだのは軍事主導体制で帝国主義的な道でした。

 司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」で書いているのは、国家の利益に庶民がどう駆り出され、尽くしたのか、という物語です。明治100年の首相は佐藤栄作氏。安倍晋三首相の大叔父です。明治150年は安倍首相です。ともに山口県(長州)選出。今から100年後の歴史家には、150年たっても薩長政府が影響力を持っていたと書かれますよ。隠された史料や視点を拾い上げ、もう一度史実の検証をするべきだと思うんです。

薩長が権力闘争

半藤
 結局、明治政府ができてから西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。江戸幕府を倒したが、どういう国家をつくろうという設計図が全くなかった。薩摩も長州もね。

保阪
 日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り、軍人は戦争に勝って賠償を取るのに味をしめました。日露戦争でも南樺太など、いくつかの権益は得ました。第一次世界大戦でも。日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも、要は政府が賠償金のつり上げをやったからです。

 薩長政府は日本を「軍事主導」体制の国へと作り替えていったが、それをより強化するためにその体制に天皇を引き込んでいった。司会者は対談のテーマをその問題へと振り向けた。
 明治政府は、国民統合のために天皇を持ち出しました。国家の基軸に天皇を置いて立憲君主国家をつくりました。

 保阪さんの言説が続く。

保阪
 明治150年を起承転結で考えると、一番分かりやすいのが、明治天皇が「起」、大正天皇が「承」、昭和天皇が「転」、今の天皇陛下が「結」。昭和を語るキーワードの「天皇」「戦争」「国民」は、みな二面性を持っています。天皇は戦前は神格化された存在で、戦後は象徴であり人間天皇。国民は臣民から市民、戦争は軍事から非軍事です。

皇統を守る手段

 あえて言えば、天皇というのはどの時代も皇統を守ることを目的としています。目的があれば手段があり、例えば今は宮中で祈る、国事行為を一生懸命するということですが、戦前は戦争も手段だったんですね。1941年4月から11月までの日米交渉の記録を読んでください。御前会議、大本営政府連絡会議、閣議、重臣会議などの記録を丹念に読むと、軍部は天皇に対して「戦争をやらなきゃだめだよ。この国はつぶれるよ。皇統は守れないよ」と強圧的に昭和天皇を脅していることに気付きますね。それで昭和天皇は「戦争しかないのか」と手段として戦争を選んだんです。3年8ヵ月の太平洋戦争の間をひと言で言えば「悔恨」でしょう。皇統を守る手段として昭和天皇は戦争を選んだ。今の天皇はこの苦しみを深く理解しているはずです。

 薩長政府が日本を「軍事主導」体制の国へと作り替えていったきっかけは日清戦争であったという保阪さんの発言に沿って、日清戦争当時の軍部の実態を調べることにした。『近代史…2』に「軍事・警察機構の確立」(執筆者 岩井忠熊)という章があるが、その中の最終節「日清戦争と軍部」と「むすび」の文を転載する。

3 日清戦争と軍部

 日清戦争じたいの経過と分析は本講座『近代3』にゆずり、ここでは日清戦争で軍部がいかなる役割りを果たし、その結果が軍部になにをのこしたのかを考えておきたい。まず開戦にさいしての陸軍の主導的役割りである。

 すでに陸軍は多数の将校を清国各地に派遣して情報の収集につとめ、また開戦前年の1893(明治26)年には参謀次長川上操六がみずから俊秀の幕僚4名をひきいて清国と朝鮮を約2ヵ月にわたって視察していた。兵制改革をなしとげた陸軍は、すでに大陸野戦に対する一定の成算をきずきあげていたといってよかろう。参謀本部が、清国の朝鮮出兵の報を得て、ソウル駐在公使の派兵不要論を押し切って日本陸軍の出兵をあくまで執拗に主張したのは、要するに開戦の時機をのがすまいとしたからにほかならない。陸軍は終始攻勢的であった。外務大臣睦奥宗光はこの陸軍の態度を外交的に承認し、うらづけることにつとめ、首相伊藤博文はそれを追認していった。

 しかし他面からいえば、軍部の戦争準備はお粗末な点があった。開戦に先だって閣議が出兵を決定するため、陸海軍の計画を聴取したさい、陸軍の上陸作戦は、海軍に輸送船団の護衛以上のことを期待していないことが判明した。そのさい山本海軍省官房主事は、海軍の任務は海上権の制覇が第一であることを主張し、当面、前進根拠地の獲得の必要を説いた。陸軍ははじめてその意見に服し、海陸軍協同策についての研究に入ったという。このエピソードは海上権の征覇というもっとも常識的な海軍戦略に対する理解すら、陸軍にも政府にも欠けていたことをしめす。兵制改革以来の努力は、いわば陸海軍それぞれのセクト的な努力であって、両軍の共同作戦の研究が平常からまったくおこなわれていなかったことを物語るものといわざるをえない。

 陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥の主として支配するところであったことはいうまでもない。この戦争は、やはり藩閥的な人事政策で遂行されている。開戦に先立って薩摩出身の川上参謀次長は、おなじ薩摩の大山陸相の使として西郷海軍大臣をたすねずね、中牟田軍令部長に内閣と陸軍首脳がみな不安をいだいているという理由で、樺山資紀中将を現役に復帰させて中牟田にかわらせることを提案した。西郷大臣は山本官房主事と相談して、陸軍の希望どおりに取りはからっている。西郷も樺山も山本もみな薩摩の出身であった。しかも樺山は陸軍少将から海軍に転じた人物で、海戦について何の経験ももたない軍政畑の人物である。この人物をわざわざ予備役から現役にもどして、きっすいの海軍軍人である佐賀出身の中牟田にかえたのであるから、これはまったくの藩閥的人事というほかはない。ついでにいえば西郷海軍大臣も陸軍卿から海軍に転じた、いわば海軍のしろうとである。それにしても大本営の御前会議に出席する海軍の軍政・軍令の責任者が、いわばしろうと同然の人物であったことは驚くほかない事実である。

 藩閥はまた軍の統制の上の障害でもあった。山県有朋は開戦時に枢密院議長の職にあったが、その職に在任のままの第一軍司令官に任命されて出征している。山県が功名にはやって出征を熱望したからだと伝えられている。その山県は大本営の訓令に反して海城攻撃を強行した。本来なら軍法にもとづいで責任を追及されるべき事件であるが、結局病気にかこつけて召還する天皇の恩命によって、山県は帰国し、間もなく陸軍大臣に就任している。長州藩の有力者、陸軍の実力者という立場でこの統制違反が看過されたといえるであろう。

 日清戦争にはまた文官である伊藤首相の大本営御前会議出席、そこでの「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スベキ方略」の提案など、統帥への干与と思われる事実もあった。しかも伊藤のこの作戦案は採用され、実行された。伊藤は、陸軍の主張のとおり北京をつけば清国は無政府状態におちいり、列国の干渉をまねく結果になることを恐れて、この作戦を提案したのである。この伊藤の見通しはなかば適中し、威海衛攻略だけで三国干渉を受けるにいたった。するどい外交感覚をもった伊藤は、政戦両略を実際上で指導していたのである。

 日清戦争を検討すると、兵力や装備の総量では清国がまさっているにもかかわらず、個々の戦闘において動員した兵力や装備では、ほとんどの場合日本軍が清国軍よりも優勢になっていた。国家機構の立ちおくれと交通手段の未発達のため、清国軍は機動性でいちじるしくおとっていた。それにひきかえ日本は鉄道等の運輸交通手段が清国よりも発達しており、動員・輸送・兵力の集中が敏速であった。いわば国家と経済の相対的な近代化およびたくみな戦略によって日本は清国軍に勝つことができたといいうるであろう。

 む す び

 近代日本の進路はしだいに軍国主義化し、ついに日本国民および日本軍国主義に侵略された諸民族に絶大な苦悩をもたらすことになった。近代日本のそのような歴史の出発点は、明治維新における日本の軍隊の成立そのものの中にすでに胚胎されていたといいうる。それははじめから農民一揆に対する敵対者として出現したのである。その軍隊はしかも当時の国際情勢に対応するため、新式の軍事技術と徴兵制の採用をさけることができなかった。徴兵とは、当時、実質において農民兵のことにほかならぬ。日本の軍隊は反農民的でありながら、同時に農民に基盤をもとめるという矛盾をもって成立したのである。

 このような矛盾は、寄生地主制の発展と統治機構の形成、なかんずく地方自治と立憲政の採用によって、農村に新しい支配秩序ができるにしたがって変化し、緩和されていった。かつて一揆に立ち上がった農民も、合法的な兵役免脱闘争をおこなうようになり、また地方自治や政党運動にエネルギーを割くことになった。そのようないわば明治憲法体制は、農民をはじめ国民に徐々に国家意識をひろめ、天皇制への統合を実現していくのである。

 しかし統合されていく天皇制じたいは、大日本帝国憲法にみられるとおり、天皇の神聖不可侵と一切の大権の天皇への集中を特色とする、専制支配機構である。

 軍隊には、天皇の軍隊であることによって、そのような専制支配的な構造が貫徹される。そして天皇制の社会的基盤である地主の社会的性格をつよくおびていた。将校と兵士の関係は、新しく再編成された農村での、地主と小作の関係さながらであった。このころの日本の軍隊の編成原理は、地主・ブルジョア支配の下における階級的編成原理であるとさえ指摘されている。

 藩閥的特権階級に指導され、階級的編成原理でできている軍隊には、厳格な服従と紀律はあっても、自主的愛国心にもとづく兵士は出現しない。彼らは自分の国のためにたたかうという意識をもつことができないまま、天皇への忠誠が強要されていった。日本の軍隊は、このような問題をはらんだまま、日清戦争の勝利によって、帝国主義的軍隊へと発展していくのである。

明治150年、何がめでたい(2)

日露戦争をめぐるフェイクニュース

 『対談 1』のテーマは日露戦争で、前回はこの問題についての半藤さん・保阪さんの基本的な認識を確認したが、対談の本文でその詳細を追ってみよう。

まず、対談の司会者が次のように問いかけている。
 「明るい明治、暗い昭和」という歴史観を持つ人が多い気がします。日露戦争を描いた司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の影響もあるようです。生前の司馬さんと交流があった半藤さんはどう捉えていますか?

半藤さんは「坂の上の雲」が描く明治が「明るい明治」となっている理由を次のように解説している。

 日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史をつくりました。しかし、公表したのは、日本人がいかに一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアをいかに倒したか、という「物語」「神話」としての戦史でした。海軍大学校、陸軍大学校の生徒にすら、本当のことを教えていなかったんです。

 海軍の正しい戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に残し、一部が皇室に献上されました。海軍はその二部を太平洋戦争の敗戦時に焼却しちゃったんですね。司馬さんが「坂の上の雲」を書いた当時は、物語の海戦史しかなく、司馬さんはそれを資料として使うしかなかった。
 半藤さんは書き残された正史を読む機会を得て、正史は小説とは全く違うと、次のように述べている。

 ところが、昭和天皇が亡くなる直前、皇室に献上されていた正しい戦史は国民に見てもらった方がいいと、宮内庁から防衛庁(現防衛省)に下賜されたんです。私はすぐ飛んでいって見せてもらいました。全然違うことが書いてある。日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げたとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは大うそでした。あやうく大失敗するところだった。

 陸軍も同じです。二百三高地の作戦がいかにひどかったかを隠し、乃木希典と参謀長を持ち上げるために白兵戦と突撃戦法でついに落とした、という美化した記録を残しました。日露戦争は国民を徴兵し、重税を課し、これ以上戦えないという厳しい状況下で、米国のルーズベルト大統領の仲介で、なんとか講和に結び付けたのが実情でした。

 それなのに「大勝利」「大勝利」と大宣伝してしまった。日露戦争後、軍人や官僚は論功行賞で勲章や爵位をもらいました。陸軍62人、海軍38人、官僚30数人です。こんな論功行賞をやっておきながら国民には真実を伝えず、リアリズムに欠ける国家にしてしまったんですね。

 半藤さんの発言を受けて、
保阪さんは「明治のうその戦史」が後世に与えた悪影響を語っている。

 昭和50年代に日米開戦時の首相だった東条英機のことを調べました。昭和天皇の側近だった木戸幸一がまだ生きていて、取材を申し込みました。なぜ、東条や陸海軍の軍事指導者はあんなに戦争を一生懸命やったのか、と書面で質問しました。その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とありました。満州事変の際の関東軍司令官の本庄繁は男爵になっています。東条たちは、あの戦争に勝つことで爵位が欲しかった。それが木戸の見方でした。

 当たっているなあと思いますね。何万、何十万人が死のうが、天皇の名でやるので自分は逃げられる。明治のうその戦史から始まったいいかげんな軍事システムは、昭和の時代に拡大解釈され肥大化したのです。

 では、日露戦争の戦局は本当はどのようだったのか。その真相を調べてみよう。日露戦争開戦に至るまでの経緯やその終結に向けての動きについては、出来るだけ最小限に止めて、ここでは問題を戦局の真相に絞ることにする。以下は『近代史 4』の第1章「日露戦争」による。

 日清戦争後の朝鮮問題・満州問題を巡る日露交渉が決裂したのは1904(明治37)年1月であった。この時から日露の軍事面での大きな動きが始まった。

 1904年1月はじめのロシアの第三次回答は、内容的に今までのものと変化がなく、日本は外交交渉による妥協を断念した。その間、ロシアの満州地域への軍事力増強が急ピッチで進行しているとの情報が伝えられ、1月30日元老・政府首脳会議でついに開戦を決意した。これ以後、陸海軍は具体的な作戦行動について協議を進めていたが、2月3日本政府は旅順港内にあったロシア艦隊がほとんど出港したとの電報をうけとり、海軍の先制攻撃による制海権掌握の作戦計画が破綻したものとして焦慮した。翌4日直ちに元老と政府首脳による御前会議が開かれ、国交断絶を決め、以後陸海軍が自由行動をとることを承認した。

 6日佐世保を出港した連合艦隊主力は、8日旅順港外でロシア艦隊を捕捉して攻撃を開始し、他方仁川に向った一部艦隊も同日陸軍の先遣部隊の上陸を支援し、ここに日露戦争は勃発した。かくして海軍が予定通り朝鮮海峡から黄海にかけての制海権を握ったため、陸軍部隊の上陸作戦は順調に進み、第一軍は朝鮮から満州に入り、第二軍は遼東半島の塩大澳に直接上陸し、さらに第二軍の一部をもって第三軍を編成しこれを旅順の攻略に当てた。

 これ以後満州において陸軍部隊が体験した戦闘では、塹壕や鉄条網などによって堅固に構築されたロシア軍の防衛線に山砲による攻撃は大して効果がなく、榴弾砲を主体とする本格的な砲撃戦となり、そのため砲弾の補給が間に合わず、結局日本軍は肉弾戦に依存したため多数の死傷者を続出させることになった。こうした戦闘展開は、日露戦争中の陸戦を通じ一般的な形態であり、日本軍の死傷者の累増と弾薬の消耗は予想を遙かに超えた。

(中略)

 つぎに日露戦争の全期間を通じての軍事上の問題としては陸海軍の協同をいかに維持するかということがあった。海軍側には、日露戦争の帰趨は海戦によって決するという考えがあり、
「満韓ノ野ニ我大兵ヲ出シ露兵ヲ満州ヨリ駆逐セムトスルハ難シ、只ダ我海軍ヲ以テ彼ガ海軍ヲ破レバ戦争ハ終結ヲ見ルニ至ラム」
との認識がその根底にあった。従って陸海軍の協同行動にあっては、海軍側の作戦計画を優先させたため、たとえば第二軍の糧秣(りょうまつ 兵糧と軍馬の食料)供給のための輸送船護送の要請などについては海軍軍令部は連合艦隊に
「国家ノ運命ヲ決スルハ我海軍ノ勝ヲ全フスルに如何ニ在リテ軍ノ前進多少遅滞スルカ如キハ共ニ比スルニ足ラス」
とし、
「此際之カ為メニ強テ海軍ノー部ヲ割クカ如キハ大局ニ害アルモノト認ム」
と指示するのであった。

 こうした海軍側の態度は、陸軍の作戦行動をかなり制約することになった。とくに三回に及ぶ旅順港閉塞作戦が失敗したため連合艦隊は、港内のロシア艦隊を封鎖するため港外に釘付けにされる事態となり、陸軍部隊や兵站(へいたん 食糧などの必需品を運ぶ部門)輸送のための協同作戦は大きく制限された。たとえば陸軍が緒戦の作戦計画として策定していた朝鮮の日本海側に第八師団を上陸させ、朝鮮北部からウスリー方面にかけて展開しようとしていた作戦行動は海軍側の非協力のため実行できなかった。旅順港封鎖が長期化するにつれて海軍側は焦慮し、バルチック艦隊の東航に備える必要があるとしてすでに1904年の7月下旬には第三軍による旅順攻略作戦の早期開始を陸軍側に要請している。これに対して満州軍総司令部は、旅順の要塞は
「長日月ヲ費シテ構築シタル要塞ナルヲ以テ其攻撃ノ為メニハ十分ナル銃砲火ノ威力ヲ発揚スル如ク準備スルニアラサレハ之ヲ攻略スルコト能ハサルコト」
を強調し、早期攻略は困難であると回答している。これ以後、海軍と陸軍、さらに大本営と現地軍との間で何度か旅順攻略問題をめぐって要請と回答がくり返され、海軍側の強い要求を前に乃木希典指揮下の第三軍は強引な攻略法によって約六万人の死傷者を出すという予想を越える犠牲が払われたのである。

 この日露戦争では日清戦争の体験から補給・兵站業務は格段に整備・改善され、とくに緒戦ではロシア側に比して日本側の補給線が短いため、軍隊と兵器を短期間で戦線に集中するには有利であった。ところが戦場が北方へ移勤し、大部隊を集結しての大会戦になると兵站業務に日数を要することになり、一方ロシア軍は時間の経過とともに兵力の増強が着々と進行するに至った。たとえば、1904年8月下旬からの遼陽会戦では日本軍の兵站業務が遅延し、また部内の作戦方針が決定しないこともあって、軍事行動の開始が遅れることになり、よく準備された優勢なロシア軍と対戦しなければならなくなった。一週間の激闘の未、日本軍はロシア軍を後退させたが、日本軍の死傷者は激増し、兵力不足と砲弾の欠乏、それに加えて将兵の疲労が重なり、今までの戦闘のような「光輝アル戦勝ナカリシ事」が現実のものとなった。総司令部参謀田中義一は、それ以後の作戦への見通しについて、ロシア側が
「此際敵若シ大優勢ノ兵力ヲ使用セバ、仮令ヒ我兵勇敢ナリト雖ドモ、兵力ノ弱勢且ツ軍隊ノ未整頓ハ或ハ折角得タル主作戦ノ勝利ヲ水泡二帰セシムルコトナキカ」
との危惧を吐露し、内地残留の唯一の常備軍である第八師団の派遣を要請している。

 これ以後の各戦闘における実態は、いずれも兵力量では日本軍が劣勢におかれ、激烈な砲撃戦と突撃戦法のため将兵の損耗は激しく、1905年3月の奉天会戦を境に日本軍がそれ以上陸上戦闘を継続することは極めて困難な状況にあったといえよう。その現状について会戦後に参謀総長山県有朋が政府首脳に提出した『政戦両略概論』の中で次のように指摘している。
「第一、敵は其の本国に尚ほ強大なる兵力を有するに反し、我れは已に有らん限りの兵力を用ゐ尽し居るなり、第二、敵は未だ将校に欠乏を告けさるに反し、我は開戦以来已に多数の将校を欠損し、今後容易に之を補充する能はさるなり」
と。大本営にあっても現地軍にあっても、すでにわが国の軍事力が限界に達しているという点では陸軍首脳の認識は一致していた。

 以上のように、公表され広く流布された「物語」「神話」としての戦史がいかに事実と懸け離れたとんでもないフェイクニュースだったことがハッキリとした。
明治150年、何がめでたい(1)

「薩長史観」を超えて

 1週間も休載してしまいました。『自由のための「不定期便」』を再開します。

 昨年、作家の佐藤愛子さん(94歳)が「九十歳。何がめでたい」と題したエッセー集を出版して大きな話題になったが、その書名を真似させて頂いて新カテゴリを「明治150年、何がめでたい」とした。ちなみに、中学生だったか高校生だったか、私は日本史で明治維新の年を「いやロッパさん(1868)と覚えていた。つまり今年(2018年)は明治150年なのだった。

 明治150年をとりあげることにしたきっかけはアベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相の今国会の施政方針演説であった。アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相はこの演説を次のように明治維新の話題から語り始めた。

 150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。

 しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を活かし、活躍のチャンスを開きました。
 「国の力は、人に在り。」

 東京帝国大学の総長に登用された山川は、学生寮をつくるなど、貧しい家庭の若者たちに学問の道を開くことに力を入れました。女性の教育も重視し、日本人初の女性博士の誕生を後押ししました。

 身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代が育てた数多(あまた)の人材が、技術優位の欧米諸国が迫る「国難」とも呼ぶべき危機の中で、我が国が急速に近代化を遂げる原動力となりました。

 今また、日本は、少子高齢化という「国難」とも呼ぶべき危機に直面しています。
 この壁も、必ずや乗り越えることができる。明治の先人たちに倣って、もう一度、あらゆる日本人にチャンスを創ることで、少子高齢化もきっと克服できる。今こそ、新たな国創りの時です。
 女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、全ての日本人がその可能性を存分に開花できる、新しい時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。

 勿論、首相のブレーンの作文だろう。なかなかいい事を言っている。が、残念ながら、アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相がやって来た政治は全く真逆な政策の連続だった。

昨年から明治150年が色々な形で語られ始めたが、アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が取り上げる程に明治維新を顕彰する動きが盛んになってきたのだ。この動きはいつ頃から始まったのだろう。調べてみて驚いた。首相官邸のホームページに『内閣官房「明治150年」関連施策推進室』という政策会議が既に2016年に設けられていた。その記事は明治150年の施策推進を次のように謳っている(明治以外の元号表記は西暦表記に変えた)。大変な力の入れようである。

「明治150年」関連施策各府省庁連絡会議/内閣官房
「明治150年」関連施策推進室
「明治150年」関連施策各府省庁連絡会議/内閣官房
「明治150年」関連施策推進室

「明治150年」に向けた関連施策の推進について
                    2016年11月4日

 2018年は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。
 明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。

「明治150年」ポータルサイトの開設

 「明治150年」ポータルサイトを開設しました。「明治150年」に関する政府、地方公共団体、民間団体の取組みやデジタルアーカイブをご覧いただけます。
『明治の歩みを…つたえる、つなぐ』

 この明治時代を検証する官僚たちの動きは勿論アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相の指示を拝受して始めた仕事だろう。

 折しも、東京新聞が『「薩長史観」を超えて』と題して、半藤一利さんと保阪正康さんの対談を4回にわたって連載(2月20日~23日)した。お二人ともブログ記事を書くに当たってその著書を使わせていただいた方で、期待しながら読んできた。この対談については「新聞を読んで」というコラムで森健(ジャーナリスト)さんが次のように評価している。
『もう一つ東京新聞らしい企画は、明治150年に対する疑義溢れる連載だ。五木寛之氏が皇民化教育について「欧米の機械文明に到底追い付けなかった」から精神主義に走ったと指摘(1月30日6面)すれば、作家の半藤一利さんと保阪正康さんの対談「『薩長史観』を超えて」では、開戦に走った東条英機が「華族になりたかった」という木戸幸一の視点を紹介した(2月20日7面)。長州出身の政治家がいまだ権力を握る中、物語から実相を突く指摘は東京新聞ならではだろう。』

 さて、私は『「薩長史観」を超えて』を基軸にして、この明治150年問題を取り上げようと思った。そこでこの記事をOCRを用いてキストデータ化しようと思っていた。これだけでずいぶん時間がかかるなあ、と思っていたが、なんと、東京新聞のホームページで全てを読めることが分かった。その連載の第1回のURLを紹介しておこう。
<対談「薩長史観」を超えて>(1)

 さて、『「薩長史観」を超えて』を基軸にして問題解明を進めたいが、その対談内容の裏付けを得るための参考書を2冊用いることにする。

これから用いる資料
 対談『「薩長史観」を超えて』→『対談』と略記する。
『岩波講座 日本歴史14ー17 近代1ー4』→『近代史…』と略記する。
 『詳説 日本史資料集』(山川出版社)→『史料集』と略記する。

 前書きがずいぶんと長くなってしまったが、取りあえず今回は、『対談 1』に『対談』をするお二人の基本姿勢を紹介している前文があるので、それを転載しておくことにする。

 今年は明治150年。安倍晋三首相が今国会の施政方針演説を維新の話題から切り出すなど、明治時代を顕彰する動きが盛んだ。維新を主導した薩摩(現鹿児島県)、長州(現山口県)側の視点で「明るい時代」と明治期をたたえる「薩長史観」は根強い。来年4月末に平成が終わり、改憲の動きが活発化する時代の節目に、近現代史に詳しい作家の半藤一利さん(87)とノンフィクション作家の保阪正康さん(78)が語り合った。

 米国の仲介で薄氷を踏む形で講和に至った日露戦争について、

 半藤さんは大正、昭和の軍人に正しい戦史が伝えられなかったと指摘。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」では「正しい戦史は資料として使われなかった」と語り、人気小説がノンフィクションと思われていることに懸念を示した。
「太平洋戦争は維新時の官軍(の地域出身者)が始めて賊軍(の地域出身者)が止めた。これは明治150年の裏側にある一つの事実」と強調した。

 保阪さんは「日露戦争の本当の部分が隠蔽(いんぺい)された。昭和史を追うとそこに行き着く」と指摘。日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り、軍人は味を占めたと述べ、「日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも政府が賠償金のつり上げをやったから」と分析。
「軍部に強圧的に脅され、昭和天皇は皇統を守る手段として戦争を選んだ。太平洋戦争の3年8ヵ月を一言でいうと『悔恨』。今の陛下はその苦しみを深く理解しているはずだ」と語った。