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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(51)

戦後処理(1)

 戦後処理として、敗戦国が国家主権を獲得して新たな自立国家となることを以て戦争終了と考えるとすれば、本当に戦争は終了したのだろうか。

 前回で「昭和の15年戦争史」を終えようと思ったが、戦後処理も「昭和の15年戦争史」の継続と考えて、戦後処理を「昭和の15年戦争史」の続きとして取り上げることにした。

 前回に出てきた「各方面に異常な衝動を与え…議会をも震駭せしめた」という軍布告は「アメリカの初期対日政策」のことだろう。この政策は8月30日に連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立ってから20日余のちに布告されている。そして、1945年9月22日に公表され、9月24日付の各新聞に全文が掲載されたという。この布告では占領政策は総てアメリカの主導によって行われることが書かれていて、日本政府には拘わる余地が全くない。これが「各方面に異常な衝動を与え…議会をも震駭せしめた」理由であろう。『史料集』にその全文が掲載されているのでそれを転載しよう。

アメリカの初期対日政策

 本文書ハ降伏後ノ日本国ニ対スル初期ノ全般的政策ニ関スル声明ナリ。本文書ハ大統領ノ承認ヲ経タルモノニシテ、連合国〔軍〕最高司令官及米国関係各省及機関ニ対シ指針トシテ配布セラレタリ。……

第一部
 究極ノ目的……

(イ)
 日本国が再ビ米国ノ脅威トナリ、又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト
(ロ) 他国家ノ権利ヲ尊重シ、国際連合憲章ノ理想ト原則ニ示サレタル米国ノ目的ヲ支持スベキ平和的且責任アル政府ヲ究極ニ於テ樹立スルコト、……
第二部
 連合国ノ権限

一、軍事占領
 降伏条項ヲ実施シ、上述ノ究極目的ノ達成ヲ促進スル為日本国本土ハ軍事占領セラルベシ。右占領ハ日本国卜戦争状態ニ在ル連合国ノ利益ノ為行動スル主要連合国ノ為ノ軍事行動タルノ性格ヲ有スベシ。右ノ理由ニ由リ対日戦争ニ於テ指導的役割ヲ演ジタル他ノ諸国ノ軍隊ノ占領ヘノ参加ハ歓迎セラレ且期待セラルルモ、占領軍ハ米国ノ任命スル最高司令官ノ指揮下ニ在ルモノトス。……主要連合国ニ意見ノ不一致ヲ生ジタル場合ニ於テハ米国ノ政策ニ従フモノトス

二、日本国政府トノ関係
 天皇及日本国政府ノ権限ハ、降伏条項ヲ実施シ且日本国ノ占領及管理ノ施行ノ為樹立セラレタル政策ヲ実行スル為必要ナルー切ノ権力ヲ有スル最高司令官ニ従属スルモノト

第三部 政治

一、武装解除及非軍事化
 武装解除及非軍事化ハ軍事占領ノ主要任務ニシテ、即時且断乎トシテ実行セラルベシ。……日本国ハ陸海空軍、秘密警察組織又ハ何等ノ民間航空ヲモ保有スルコトナシ。……軍国主義及侵略ノ重要ナル推進者ハ拘禁セラレ、将来ノ処分ノ為留置セラルベシ。軍国主義及好戦的国家主義ノ積極的推進者タリシ者ハ、公職及公的又ハ重要ナル私的責任アル如何ナル地位ヨリモ排除セラルベシ。……

第四部 経済

一、経済上ノ非軍事化……
二、民主主義勢カノ助長 ……
(イ)将来ノ日本国ノ経済活動ヲ専ラ平和的目的ニ向テ指導セザル者ハ、之ヲ経済界ノ重要ナル地位ニ留メ又ハ斯ル地位ニ選任スルコヲ禁止スルコト
(ロ)日本国ノ商工業ノ大部分ヲ支配シ来リタル産業上及金融上ノ大「コンビネーション」ノ解体計画ヲ支持スベキコト

        (日本外交主要文書・年表)
(出典解説:鹿島平和研究所編。1941年から1980年までの重要外交文書を収録している)

第一部・第二部では米国最高司令官と米国の政策が絶対優越し、日本国政府は権限は一切の権力を持つ最高司令官に従属するし、アメリカの主導権のもとで占領政策を進める根本方針を明示している。

 また、第三・四部では
「密警察組織」・「治安維持法」の廃止
「政治犯釈放」・「重工業の非軍事化」
  で重工業と商船隊の制限や「労働・産業・農業における組織の発展」
「財閥解体」
などが支持されている。これらは全て大日本帝国の悪政の解体であり、歯ぎしりをするのは支配階級だけである。

 この戦後処理の基本方針の実行を渋っていた東久邇宮稔彦内閣に対して、10月4日、総司令部(GHQ)は治安維持法の廃止、政治犯の釈放と内務大臣・特高警察関係者の罷免などを指令した。翌日、東久邇宮内閣は総辞職して幣原喜重郎内閣が成立した。11日、幣原新首相がマッカーサー訪問したとき「五大改革指令」が出され、また「憲法改正」が示唆された。これが日本政府の絶対的課題になった。では、「五大改革指令」とはどのような内容だったのだろうか。これも『史料集』から転載する。

五大改革指令

一、 選挙権付与による日本婦人の解放
 政治体の一員たることに依り、日本婦人は家庭の福祉に直接役立つが如き政府に関する新しき観念を齎すべし。

二、 労働組合の結成奨励
 右は労働者を搾取と酷使より保護し、その生活水準を向上せしむるために有力なる発言を許容するが如き権威を労働組合に賦与せんが為なり。又現在行はれ居る幼年労働の弊害を矯正するに必要なる措置を講すべきこと。

三、より自由なる教育を行ふ為の諸学校の開設
 国民が事実に基く知識によりその将来の進歩を形作り、政府が国民の主人たるよりは寧ろ公僕たるが如き制度を理解することに依り利益を受くる為なり。

四、秘密検察及びその濫用に依り国民を不断の恐怖に曝し来りたるが如き諸制度の廃止
 即ち右に代り人民を圧制的専断的且不正なる手段より保護し得るが如き司法制度を確立すべきこと。

五、所得並に生産及商業上の諸手段の所有の普遍的分配を齎すが如き方法の発達に依り、独占的産業支配が改善せらるゝやう日本の経済機構を民主主義化すること。

      (『幣原喜重郎』)
(出典解説:幣原平和財団編。幣原喜重郎の伝記。1955年刊)

(1)選挙権付与による婦人の解放
(2)労働組合結成の奨励
(3)学校教育の自由化
(4)圧制的政治機構の廃止
(5)経済機構の民主化

 どれも大変結構な改革ではないか。
 これらを実施するため、10月から1948年にかけて次々と具体的指令が出されていった。
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昭和の15年戦争史(50)

降伏文書調印式(2)

 降伏文書調印の日本代表重光が天皇への内奏に際してしたためた案文を掲載する。
                        臣 葵
 大命を奉じ将に東京湾上米艦に到り、天皇及日本政府を代表して降伏文書に署名調印せんとす。之に依ってポツダム三国宣言の受諾は正式に確定する次第にして、今後日本及日本国民上下の忍苦は長期に亘りて極めて深刻なるものあるべし。聯合軍は既に上陸を開始し空海は急速に其の管理に帰しつつあり。
 ポツダム宣言なるものは其の内容は概括的にして其の運用は敵側の意図如何によって伸縮の余地多し。若し占領軍に於て我方の誠意に疑問を有つに至らは、事態は直に悪化し其の結果は計り知り得ざるものあり。
 一旦受諾したる義務を忠実に履行することは、国際信義の上より当然の事なるのみならず、此の当然の義務を最も明瞭に誠意を以て果すや否やは今後我国の死活の懸る岐るる所となれり。
 而して我の受諾したるポツダム宣言なるものの内容を検するに、今後の日本を建設する上に於て何等支障となるものを含まざるのみならず、過去に於て犯したる戦争の過誤を将来に於て繰返さざるべき重要なる指針を包蔵す〔る〕ものなり。
 蓋し帝国今日の悲境は畢竟帝国の統治が明治以来一元的に行われざりし点に其の源を発せることを認めざるを得ず。
 天皇の御思召しは万民の心を以て基礎とせられ、陛下が国民の心を以て心とせられることは我々の日常拝承せる処にして、一君万民は日本肇国以来の姿なるが、何時の間にか一君と万民との間に一つの軍部階級を生じ、陛下の御意は民意とならず、民意は又枉げられ、国家全体の充分関知せざる間に日本は遂に今日の悲運に遭遇せり。
 若し日本が将来一君万民の実を挙げ、陛下の御心を国民の心とし、国民の意のある所を以て陛下の御思召しとなすに於ては肇国の姿は還元せられ、ポツダム宣言の要求する民主々義は実現せらるべし。言論、宗教、思想の自由と云い、基本的人権の尊重と云い、総て我国本然の精神に合する次第で、明治維新に依って已に其の実現の巨歩を進め、今日は更に其の完成に邁進すべき時に到遂せる次第なり。
 然れども、今日は明治当初とは世界の情勢を異にし、我敗戦の規模は未曾有の事に属す。而已(のみ)ならず、戦勝を以て我に臨むものは単に民主々義国たる米英等に止まらず、共産主義国たる蘇聯をも含む。現に蘇聯が民主々義の名の下に欧亜の諸国を実力を行使して共産蘇聯化しつつある政策は、已に余りに世人の耳目に顕著なり。此点に於て今帝国は内外に亘りて長く危局に面する次第なり。
 帝国は宜しく活眼以て世界戦後の新情勢を洞察して、国を挙げて更始一新、勇断、邁進、明治当初に倍する革新的努力を以て、デモクラシ社会に進出するに非〔ざ〕れば、恐らく外に対して国際的に進路を開拓するに由なく、内国民をして萎縮退嬰せしめ、遂に国家として将来の希望を喪失するに至るべし。
 仍(より)て今日に於てポツダム宣言の忠実確乎たる実施によって国際信用の回復を期し、他方国民精神の高揚を計り、新時代の要求に副う新日本の建設に対し新たなる決意を要すと思考せらる。

 この案文に沿った内奏が行われた。降伏文書調印式に臨む手記は次のように続く。


 陛下は記者のメモによる内奏を御聴取りになり、力強く、外務大臣の言葉は完全に朕の意に叶うものである。其の精神で使命を果して貰い度い。と仰せられた。之れで記者も愈々万事、心用意は整った訳である。
 鈴木前内閣総辞職の際、迫水〔久常〕書記翰〔官〕長の取り計いと見え、記者を貴族院議員に推薦任命されたが、記者は今日専心終戦の任に当って他を顧みることが出来ぬのみならず、已に上奏をもなした如く終戦に依って日本の更始一新を要する機に臨み、日本の政治機関中最も改革を要するものの一つたる貴族院に列するの矛盾を感んじ、直に辞任するに至った。

 九月二日午前三時起床、竹光秘書同伴、総理官邸に向った。
 出発前筆を揮って、
  ながらへて甲斐ある命今日はしも しこの御楯と我ならましを
  願くは御国の末の栄え行き 吾名さげすむ人の多きを
と書き残して置いた。
 集まるものは梅津全権の外、随員として外務省からは岡崎〔勝男〕終戦事務局長官、加瀬〔俊一〕情報部長〔内閣情報局第三部長〕、太田〔三郎〕終戦事務局部長の三名、陸軍より参謀本部第一部長宮崎〔周一〕中将の外、陸軍省永井〔八津次〕少将及杉田〔一次〕大佐、海軍から横山〔一郎〕、高〔富〕岡〔定俊〕両少将〔柴勝男大佐帯同〕であった。
 朝食後午前五時首相官邸出発、見渡す限りの焼野原を見て横浜に向う。   薄暗き朝まだき出で横浜の 沖に向へる人言葉なし
 六時過神奈川県庁着。
 鈴木九万公使等の連絡官に迎えらる。
 横浜桟橋に出て、鈴木公使等と分れて米軍側日本語を解する将校の案内にて、六時四十五分米駆逐艦ランスダウン号に移乗して港外に向う。東京湾上に向って走ること小一時間、濤声舷を打ち、旭光漸く海波を照す。海上無数の大小敵艦を見る。
  二百十日横浜沖に漕いで出で
 プリンス・オブ・ウェールスの姉妹艦キング・ジョージ五世も白く塗った巨駆〔躯〕を横えて居る。九時十分前米海軍旗艦「ミズリー」号に到着す。更にランチに移乗してミズリーの艦側に近付くことが出来、それから記者を先頭に舷梯を攀じた。艦に上る時に衛兵の敬礼を受けた。
 更に上甲板の式場へと梯子を攀じて上った。式場外は立錐の余地なき迄に参観の軍人や新聞記者、写真班等を以て埋められ、大砲の上に馬乗りに跨かって列をなして居る。
 上甲板の式場には、正面に敵側各国代表が已に堵列して居った。左側は写真班、右側砲塔側には参観の将官等重なる軍人が列んで居る。其の中には比島で俘虜となったウェーンライト将軍やシンガポールで降伏したパーシバル英将軍も並んで居た。
 中央に大テーブルあり、マイクは向う側に立つ。我等は之に向って止まり、列んだ。艦上声なく、暫時我々を見つめた。室外なれば着帽の儘で敬礼等の儀礼はー切なし。
  敵艦の上に佇む一と時は 心は澄みて我は祈りぬ
 九時マッカーサー総司令官簡単なる夏服にて現われ、直ちに拡声器を通じて二三分間の演説をなす
。   戦争は終結し、日本は降伏条件を忠実迅速に実行せざるべからず。
  世界に真の平和克復せられ、自由と宏量と正義の遵奉せられんことを期待す。
との趣旨を述べた。
  全権委任状の提出、天皇の詔書写を手交し、先方の用意してある降伏文書本文に記者が調印を了したのは、九時四分であった。
 マッカーサーは聯合軍最高司令官として、日本の降伏を受け入れる形を以て、文書に署名した。マッカーサーの署名に対し、副署の意味で各国代表が又順次に署名した。米、支〔中国〕、英、蘇、濠州〔オーストラリア〕、加奈陀〔カナダ〕、仏蘭西〔フランス〕、和蘭〔オランダ〕、ニュージーランド等なり。
 全部の署名が終って、マッカーサー元帥は、回復せられたる平和の永続を祈って、式は終了した。
 加奈陀代表の署名の場所が違って居たので、世話役のサザランド参謀長に訂正して貰って大分時間がかかった。
 ペルリ提督日本遠征の際に檣旗として掲げた星条旗を博物館から持って来て、ミズリー号式場に飾ったのは、占領政策の政治的意義を示す用意に出でたものと認められた。
 退艦も乗艦の時と同様な儀礼にて、ランチに移り、駆逐艦に移乗し、湾内を巡視して埠頭に帰り、接伴員に慇懃に分れを告げて、神奈川〔県〕庁に帰着した。米国側の取扱は総て公正であった。
 帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。
 首相官邸に帰り着いたのは已に十二時過ぎで、直に総理宮に報告を了し、昼食を了りて、一行を解散した。
 其の日午後一時半参内。総理宮侍立の上、両全権の名に於て、記者より予而用意した加瀬部長の起草にかかる降伏文書署名の報告文を奏上した。陛下も御安心の御様子であって、慰労の御言葉があった。
 陛下は記者に対して、軍艦の上り降りは困っただろうが、故障はなかったかと御尋ねになった。記者は先方も特に注意して助けて呉れて無事にすますことを得た旨御答えし、先方の態度は極めてビジネスライクで、特に友誼的にはあらざりしも又特に非友誼的にもあらず、適切に万事取り運ばれた旨の印象を申上げた。
 此日、一つの爆弾身辺に破裂するものなきのみならず、誰やらは「敗戦による勝利」であると連(しき)りに論じた。是れから日本は立派なものとなってやって行けるのである。
 九月二日降伏文書調印の大任を終わり、終戦一段落と思って、ホテルで夜疲れてこれから寝ようと思って居ると、外務省関係の数氏(松本〔俊一〕、曾根〔曾禰益〕、岡崎〔勝男〕、渋沢〔信一〕、安藤〔安東義良〕等)が次ぎ次ぎにやって来て、非常情報を齎らした。占領軍司令部に於ては日本に軍政を布き、行政各部門を統治する為め軍布告を発したとの事で、横浜鈴木公使は其の布告文写を入手した、と云うのである。之は容易ならぬ情報である。之では日本政府もなくなり、日本は完全に主権を掠奪されて、占領地行政の下に置かれることになると云うので、政府初め各方面に異常な衝動を与え、宮中及召集された計りの議会をも震駭せしめた。
 記者は明早朝横浜に至り、マッカーサー司令官と直接交渉するの決意を固めたが、外務省や内閣其の他の心配せる方面からの電話や来訪客は夜遅く迄絶えなかった。記者は自室の鍵をかけて蚊帳床の中に入った。

 上記引用文の最後に出て来るアメリカ占領軍の「軍布告」の何が「各方面に異常な衝動を与え…議会をも震駭せしめた」のだろうか。日本が占領軍の属国あるいは植民地となることに対してだろう。これが私に新たな問題提起をしてくれた。

 戦後処理として、敗戦国が国家主権を獲得して新たな自立国家となること以て戦争終了と考えれば、降伏文書調印を以て「昭和の15年戦争」は終わったしてきた私の考えは早計だったことになる。もしも、戦後処理として日本が占領軍の属国あるいは植民地だったのなら、実質的にはまだ戦後ではなかった。
昭和の15年戦争史(49)

降伏文書調印式(1)

 日本は8月14日にポツダム宣言を受託して無条件降伏を受け入れたが、これで日本の降伏が決定したわけではない。連合国との間で降伏文書調印を行って初めて正式に日本の無条件降伏が決定する。つまり、「昭和の15年戦争」はそこで 終わる。この調印は9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリ号上で行われた。

 ポツダム宣言受託から降伏文書調印式迄の間、降伏に反対する人たちの騒動が数多くあったようだ。また、日本政府では、特に誰を調印式の日本代表するかという問題で、相変わらずのごたごたが続いていた。最終的には当時東久邇宮内閣の外相を務めていた重光葵(まもる)に決まった。重光は『重光葵手記』(伊藤隆、渡辺行男編 昭和60年11月20日発行 中央公論社)を書き残しているが、その手記の中の降伏文書調印式に関する記録が『探索 6』に掲載されている。これを読んで、重光という方はすばらしい人であり、調印式の日本代表の人選は最善だったのではないかと思った。

 さて、この重光手記を2回に分けて転載して,カテゴリ『昭和の15年戦争史』を締めくくることにしよう。(なお、文中の〔〕内の文言は編者による注のようだ。もう一つ、この文書の書き手として、一人称を用いないで、自分のことを「記者」と表している。)

帝国ホテルの暁夢

 戦争断末魔の空襲は連日連夜に亘って、記者は最早東京に用事がないので、熱海に避難、大観荘に留まった。十五日の玉音放送は熱海に於て服装を正して謹んで聴取したのであった。其の後の激変を大観荘に於て暫く静観して居た。

 然るに、鈴木内閣は総辞職して、遂に皇族内閣が出現して、東久適宮〔稔彦王〕殿下に大命が降った。木戸内府が予而(かねて)云って居た様に、終戦の時に軍部を押える為めに最後の伝家の宝刀が出されたのである。即ち新内閣の使命は終戦と云う難事を、直接天皇陛下の代理として立派にやる事にあるのである。東久邇殿下は赤坂離宮を組閣本部として、近衛公の補佐に依りて組閣を進められた。組閣本部を訪れた人々の名前が次ぎから次ぎに報ぜられた。有田八郎〔元外務大臣〕君の名前も出たが、入閣を辞したとの事であった。一六日に至って記者に出京を促して来た。一七日に組閣本部に至って宮殿下や近衛公及緒方〔竹虎・情報局総裁〕氏に会見して、組閣の趣旨を聴取した記者は、対外関係はこの際は占領軍との接触を主とする事となる訳であるが、此点は特に注意して総て交渉は一途に外務当局の手を通して統制して行うこととせねば思わざる不結果を招く事と思うから、特に此点を注意する必要のあることを力説して念を押して、入閣することを承諾した。新内閣は直に成立し、即日宮城宮内省の建物内で親任式が挙行されて、終戦の仕事に取りかかった。その際は近衛兵の叛乱は已に鎮定されたが、二重橋前の終戦反対者の割腹騒ぎや、代々木原頭の暁明の抗議自殺や、愛宕山の国粋派の立て籠り騒動も続いて居り、厚木の海軍特攻隊本部からは毎日飛行機が命令に反して東京上空に飛来して、宮城上や総理官邸を中心とする官庁街の上から戦争継続、挙国玉砕の宣伝ビラを散布して居た。形勢は容易ならぬものがあった。最も懸念された事は海外にある軍隊の動向であった。終戦に関する天皇の命令は遺漏なく全将兵に伝達された。陛下は更に四宮殿下を満州軍其の他各部隊に派遣されて命令の徹底を期せられた。

 内閣は準備を急いだ。

 マッカーサー元帥が聯合軍の総司令官として敵側の陸海空軍を統轄して終戦の処理をすることが発表され、降伏準備の為めに日本側から予備委員を打ち合せの目的を以てマニラに特派すべき旨、マニラに於けるマッカーサー司令部より通告を受けた。此通告は前内閣の受取った処であるが、前内閣は其使命に付て反問する所があった。敵は之を以て日本の国情を反映する遷延策であるとなし、マッカーサー司令官は「遷延を許さず」との趣旨を回答して来たので、我方は軍使として陸軍参謀次長河辺寅〔虎〕四郎中将を派遣することにした。記者は外務省情報部長〔調査局長〕岡崎勝男氏(湯川〔盛夫〕事務官帯同)を同行せしむることとした。海軍からも代表委員が加った。一行は一九日飛行機でいえ島〔沖縄県伊江島〕を経てマニラに飛んだ。先方の要求書を受領し、準備を打ち合せて帰路についた。途中天竜川口に不時着したりしたが、二十一日午前八時無事東京に帰着した。使節の待遇は総て公正であった。

 軍使の持ち返(ママ)りたる文書は、
 天皇の布告文
 降伏文書
 一般命令指令第一号
の三つであった。而して降伏文書の調印は八月三十一日を予定して居るとの事であった。
 天皇の布告文とは云う迄もなく終戦と同時に発布すべき詔書の事である。その内容を指示して来たのである。  降伏文書とは日本の代表者が正式に調印を要する文書で、其の調印によってポツダム宣言を受諾して日本が敵国に降伏することを意味するものである。一般命令第一号の内容は軍隊の無条件降伏及武装解除の即時着手から日本が使用した戦争手段の一切の休止を命ずるものであって、苟も軍需品の製作に関係した工場の活動停止をも之に含まって居る。

 内閣は直に其の処理に着手したが、尚此際に於ても従来の惰性に依って日本「降伏」の意義に付ての感得に付て人々に厚薄があった。記者は此際は完全に対抗意識を捨て去り、完全に無条件に先方の指示を受け入れ、「降伏」の実を示すことが、日本を将来に向って生かす所以であると同時に、即ち敗戦を完全に認識することを総ての前提条件とするの方針に出づると同時に、国家としても個人としても敗者は敗者としての気品を維持し、徒らに責任を回避して敵の憐憫を請い、卑屈の態度に出づることは絶対に防がねばならぬ、要するに日本人は飽く迄日本人としての気魄を堅持せねばならぬ、之が結局敵の尊敬と信頼とを得る訳である、と云う趣旨であった。

 閣議は軍使の持ち帰った三つの文書を無条件に引(ママ)け入れることを承認して、直にその準備に取りかかった。

 閣議では、降伏文書と云う、降伏と云う文字は如何にも屈辱であるから何とか別の文字を用いる事は出来ないものかと云い出した軍人出身の閣僚もあった。降伏と云う文字を避ける為めに軍部の係り官は外務省当局に大分厳談したのであったが、外務省当局は不愉快な文字には相違ないがsurrenderと云う英語は変える訳には行かぬ、サレンダーは日本語では飽く迄「降伏」であり、単なる「終戦」ではない。降伏は事実であり、事実を事実として承諾することから出発して初めて終戦後の日本の生きる途があると云って軍部の要請に応ぜなかった儘、之が閣議に出たのであった。無論日本は降伏したのである。夫れは三千年の歴史に於て初めて行われた極めて恥すべき不祥事が起ったのである。日本人は此事実を直感して、之に相当する責任を感じ、自省を行い、忍従に耐え苦痛を忍び、努力を倍加せねばならぬのである。此未曾有の国難に際会して、少しでも大なる犠牲を払うことを誇とする人程日本人として価値ある人であるのである。「降伏」文書は「降伏」文書で差支ないのである。其の徹底した認識の上に将来の日本人は生き得る。

 閣議は連日開催せられ、降伏文書を受け入れる手続きを完了する為めに、枢密院会議の開催が必要であり、又議会の召集も必要であった。之等の国内手続を完了する為めには宮様を総理とすることは非常に便宜であった。

 降伏文書に何人が調印するかは最も重要な事柄であった。先方は天皇及政府を代表するものと統帥部を代表するものとの調印を求めて居るが、其の員数は指定して来て居ない。

 降伏文書調印に何人が当るかを決するには、当時可なりの困難があった。ポツダム宣言を日本が受諾して、之を完全に履行すると云う誠意を披瀝する為めには、其の調印者は責任の最高の地位にあるものより之を選ばねばならぬのは条理であるが、当時の空気では日本開闢以来の不名誉なる文書に氏名を乗することは、政治家としては其終焉を意味し、軍人としては自殺を強いられるものと思われた。

 記者は外務大臣として非常に苦心した。木戸内府は政府よりは外務大臣、統帥部よりは両総長の内一人が適当であるとの意向を記者に漏らして居た。

 梅津参謀総長は記者に対し、終戦に至る迄の彼れの立場を詳細に述べて、自分は降伏に反対し玉砕を主張したものであるから、降伏文書の調印者としては不適当である、寧ろ此際は降伏に賛成した前閣員、鈴木海軍大将又は東郷前外相をして之に当らしめる事が至当である、軍人としては米内海相が最も適任である、自分は已に辞職を決したるも参謀総長は陛下の幕僚長であって辞職も内閣大臣の如く自由ならずして今日に及んだ、若し強いて自分に行けと云うならば、そは御前は自殺すべしと云うと同様の事なり、と苦衷を述べて、記者の人選に当らざらんことを懇望した。此問題では数回に亘って近衛公と協議した。記者は再三近衛公の出馬を要望し、之迄日本の指導に密接の関係を有する近衛公の挺身は敵に対してのみならず、国内に対しても、最も好評を博すべし、不肖記者は及ばず乍ら責任を頒つ為めに御伴致すべし、と切言したが、近衛公は総理宮が総理として又軍人として最も適当であるとして、記者の推挙を排除して、殿下に相談をすると云って隣室である総理室に入った。暫くして近衛公は坐に帰り、記者に対して、殿下は勅裁に依って決した終戦の代表としては高松宮〔宣仁親王〕を煩わすのが最も適当である、後刻内奏の際陛下の御許しを得ることにしようとの事であったと報告した。然し降伏文書調印の仕事は素より政府の仕事であって、皇室を煩わすべき事ではなかった。

 八月二十七日閣議に於て、総理宮は降伏文書署名使節として、陛下の御思召しによって、天皇及政府の名に於て重光外相、大本営の名に於て梅津大将を指名された。

 調印日取りは八月三十一日から九月二日に延期することにマッカーサー司令部より通達があった。二百十日も近付いて天気模様が悪く、準備が出来ぬ為めであるとの事であった。二百十日は九月一日である。

 記者は渾身の意気と忠誠とを以て降伏文書調印の大任に当らんことを翼い、八月二十八日夜行で伊勢大廟を拝すべく西下した。伊勢大神宮の参拝は日本人の宗教上の儀式であり、日本精神の問題である。

 翌朝山田に着いたが、山田市は既に其の三分の二は跡かたもなく焼失して居た。沿道皆荒廃。破壊、焼失を免れたもの少し。東京、川崎、横浜、平塚、沼津、豊橋、静岡、名古屋、津、四日市等見る影もなし。日本全国の大中都市は全部潰滅したのである。それを知らずして打った電報を持って、戸田屋の主人は古市の大安に連絡を取って置いて呉れた。此所で斎戒沫浴して外宮より内宮へと参拝した。已知の皇宮警視に其の後の様子を説明されつつ参入した。日本歴史始まって以来の出来事である降伏文書の調印を前にして心を籠めて祈願した。感慨頗る深し。何処もここも緊張して居た。

 我国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ

 古市の大安を出でて再び夜行にて帰京の途につく。三十日朝車窓より相模湾頭無数の敵艦船の居列ぶを見る。敵機は既に京浜上空を蹂躙、示威しつつあるを目撃した。八月三十日朝は已に東京に帰って居た。

 最高戦争指導会議は終戦処理会議と改名して、終戦処理に付て政府及統帥部連絡の最高会議となって、閣議と共に殆んど連日開会された。出席者は総理宮及近衛副総理の外、安〔阿〕南陸相〔当時下村定〕、米内海相、緒方翰長〔内閣書記官長〕国相、梅津、豊田の陸海両総長及外務大臣としての記者の八名であった。東久邇宮総理の宮はさすがに宮殿下として裁決流るるが如く、終戦事務を適当に処理して行かれた。

 九月一日御召しによって宮中に参内、拝謁。左の如き勅語を賜わった。

 重光は明日大任を帯びて終戦文書に調印する次第で、其の苦衷は察するに余りあるが、調印の善後の処理は更に重要なものがあるから、充分自重せよ。
 世流に押されて早まった思いつめた事のない様にとの優渥なる御諭しであったのである。恐らく梅津参謀総長の「自分に自殺を強いるものである」と云う語〔言〕葉が何時の間にか陛下の御耳に入ったものの様である。記者が退出した後に、梅津大将も召されて同様な勅語を賜わった模様である。天恩無際、至れり尽せりである。

 記者は愈々敵側総司令官の示した降伏文書に調印すると云う日本歴史始まって以来の使命を果たさねばならぬこととなった。政府のみならず直接天皇を代表する訳であるから、記者は其の使命に付て篤と陛下の御思召を拝し、事態の重大なるを明確にして、将来如何なることが起っても之に善処し得る様にして置かねばならぬと考え、先ず左の通り意見を口頭を以て内奏した。其の案文は左の通りである。

 「其の案文」は次回に。
昭和の15年戦争史(48)

1945年(17)~(20)

 1945年2月から7月までの経過あらましをまとめてみよう。

 「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答していた。1945年2月のことである。

 その後、東京大空襲(3月10日)をかわきりに沢山の都市で多く国民が死亡し、都市が焦土と化していった。そして太平洋の各地で日本軍の敗北が続き、多くの兵士が戦死した。にもかかわらず、日本政府は連合国が与えてくれた終戦の恰好の機会であったポツダム宣言(7月26日)を無視した。

 こうした結果がアメリカの残忍な原爆投下を引き寄せてしまった。今回はその原爆投下から。

(17)8月6日
広島に原爆投下さる


「なんの良心の呵責を感じない」

1954年8月刊の『アサヒグラフ』から。

 あの日、1945年8月6日、エノラ・ゲイ号に搭乗、広島へ原爆を落とした戦士たちは、9年後のこのころにどう語っていたか。
 機長ティペッツ大佐は、
「原爆投下になんの罪悪感ももっていない」
といい、
「あれよりも千倍も恐ろしい水爆を落とす必要に迫られたとしても、なんの良心の呵責を感しないだろう」
といいきって平然としている。
 ベーサー中尉は何万人もの人びとを一挙に殺したことにたいして、
「まったく気にしていない。今でも任務でやったという感じしかもっていない」
と答えた。
 ドウゼンべリー軍曹も、
「後悔の気持ちはまったくもっていない。私はこれからでも同じことをやってのけられる」
とぬけぬけという。
 ガロン軍曹は
「戦争に人情などありはしない」
といい、
 ネルソン上等兵は
「道徳上の問題はわれわれの念頭に少しもなかった」と。

 そして50年後1995年にも、ティベッツ元機長は同じ言を吐いた。これらにたいしては、いうべき言葉もない。

 前回、「戦争にのめり込んだ人間が冷酷無殘になる」と書いたが、そうした人たちの劣化した精神的背景として私は「凡庸な悪」という言葉を思い浮かべていた。「凡庸な悪」とはハンナ・アーレントがナチスのアドルフ・アイヒマンへの評語として使った言葉である。私が「凡庸な悪」という語を用いた記事がかなりあるが、ずばりそれをテーマにした記事を紹介しておく。
『「凡庸な悪」について』

(18)8月9日
長崎に原爆第二弾投下さる


「いまだ、目視攻撃だ」

 1945年8月8日、テニアン島では極秘野戦命令第17号が発令された。原爆第2弾の投下命令である。主目標は小倉、第2目標が長崎。はじめの予定は11日が攻撃日とされていたのを、日程は無理に早められる。広島爆撃のとき観測機として参加したスウィニー少佐指揮のB29が原爆投下機となった。

 9日午前3時50分離陸、原爆機は第1目標の小倉に向かったが、上空に達したとき天候が急変し、厚い雲が一面に覆っていた。目標上空を旋回して投下の機会を待ったが、雲は切れぬばかりか、遠くに日本軍戦闘機の姿をみとめた。やむなく第2目標の長崎へ転進した。

 長崎上空も雲に覆われており、原爆機はここでも上空を旋回して雲の切れ間を探し求めた。運命はこのとき長崎を見捨てた。燃料の関係で時間ぎりぎりのとき、雲が切れて市街が姿を現すのをスウィニーは見た。ほんの数秒間……。
「いまだ、目視攻撃だ」
 11時2分。第2の原爆は7万5千人以上の人間を地上より消し去った。

 原爆機はテニアンまで戻れず、沖縄の基地までたどりつくのがやっとであった。

 日本がポツダム宣言を受託するに至った理由は原爆だけではなく、ソ連の宣戦布告もその大きな理由の一つだった。

(19)8月9日
ソ連が満洲へ侵攻


「日本人民を救いだすために宣戦」

 8月8日午後5時(モスクワ時間)駐ソ大使佐藤尚武は、外相モロトフからいきなり宣戦布告状をつきつけられた。外相はいう。
「ドイツが無条件降伏を拒絶したのちに味わったような危険と破壊から日本人民を救いだすため」ただちに戦争状態に入る政策をとる、と。

 佐藤大使が日本大使館に帰りつくよりさきに、電話線は切られ、無線機は秘密警察の手で没収された。大使はやむなく通常の国際電報によって、ソ連の参戦を日本外務省に伝えた。

 それから数時間後の1945年8月9日午前零時(日本時間)、佐藤よりの電報よりさきに、日本がソ連からうけとったものは、ソ満国境を越えて、無数の砲口から放たれた砲弾である。戦車の侵攻である。日ソ中立条約のあと1年の有効期間など完全に無視されていた。

 午前5時、私邸へかけつけてきた外相東郷茂徳を前に、首相鈴本貫太郎がぽつんといった。
「この戦争は、この内閣で結末をつけることにしましょう、1日も早く。いいですね」

(19)8月15日
終戦の詔書の中に


「為萬世開太平」

 8月は遠い敗戦を思う月である、とは作家大岡昇平の言葉である。6日の広島、9日の長崎、そして満洲へのソ連侵攻、15日の天皇放送と、あの惨めであった日々を私も思い起こさずにはいられない。新人類たちに「じいさん、そんな昔話、いい加減にしなよ」「タマオト放送? まあ、エッチな人……」などといわれても、1945年8月の、この三つの歴史的な日付は死ぬまで消し去るわけにはいかない。それは戦争に生き残ったものの務めである。

 私は毎年8月には、終戦の詔書のなかの「戦陣ニ死シ職域ニ殉ジ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヒヲ致セバ五内為ニ裂ク」をぶつぶつ経文のようにとなえて起きるのを、毎朝のしきたりにしている。

 そして8月1日から15日まで、終戦時の首相鈴本貫太郎の達筆で「為萬世開太平」と書かれた扇子を一日中はなさずに持ち歩くことにしている。いうまでもなく「萬世ノ為メニ太平ヲ開カント欲ス」と詔書にある言葉である。

 戦争終結と永久平和希求の決意のこめられた美しい言葉を原点に、新しい日本は今またこの日を迎える。

 私は終戦の詔書に対して半藤一利さんの様な感慨を全く持ちえない。保身のために終戦をずるずると引き延ばしておいて「為萬世開太平」と、よくも臆面もなく言えたもんだ。私はとんでもない臍曲がりなのだろうか。

 ちなみに、終戦の詔書について、私は『「終戦の詔書」を読み解く』という記事を書いている。10年ほど前に書いたかなり長い論説だが、改めて読んでみたら、敗戦濃厚な時からポツダム宣言受託に至るまで経緯と、日本の支配層たちの国体護持を巡っての混乱ぶりが詳しく書かれている。

(20)8月15日
大日本帝国の降伏


「号泣、それから虚脱」

小林桂樹(俳優)
 愛知県で本土決戦に備えて穴掘りをしていた。玉音放送で戦争が終わったことはわかった。泣いた記憶はある。生きて帰りたかった。陸軍兵長。

林家三平(落語家)
 千葉県で本土決戦用の穴掘りをしていた。放送を聞いて、中隊百人とともに号泣。それから虚脱状態に。恐怖感がわいた。陸軍上等兵。

丹阿弥谷津子(女優)
 下伊那に疎開して、近所にいた岸田国士氏から戯曲集を借りて読みふけっていた。

丹波哲郎(俳優)
 立川航空整備隊所属の陸軍少尉だった。ボクは本来楽天家だから、その場その場でうまくやっていたよ。

 加藤芳郎(漫画家)
 二十年九月半ばまで、八路車の進撃を阻止しようとする蒋介石軍の計画で、北京の北の古北口にとどまって、忙しかった。芸能班の一員でもあった。陸軍一等兵。

 淡谷のり子(歌手)
 公演旅行で山形県にいて、演奏が中止になってホッとして、宿でぼんやりしていた。

 この年の8月15日のそれぞれの回想である。

昭和の15年戦争史(47)

1945年(13)~(16)

 沖縄を本土防衛のための捨て石にした日本政府は「本土決戦」を推進するため、「一億玉砕」法とも言うべきばかげた法律を制定した。

(13)6月23日
国民義勇兵役法の議会通過


「秦の始皇の政治に似たり」

 1945年6月、沖縄失陥ののち本土決戦を指向した軍部の強い意思のもとに、鈴木貫太郎内閣は戦時緊急措置法と国民義勇兵役法を議会に提出した。この法案は法律なんていうものではなく、一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権を政治に一任するという白紙委任状そのものであった。「秦の始皇の政治に似たり」と悪評さくさくであり、鈴木首相は議員の質問がしつこく、うるさくなると、
「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科にいって診てもらいましょう」
と、とぼけた。が、政府は強引に23日に通過させた。

 これによって、女子も含めて、15歳から40歳までの日本人は必要によって義勇召集を受け、国民義勇戦闘隊を編成せねばならなくなった。こうして一億が「兵隊」になった。

 お陰で全国の村々では村民総出の竹ヤリ訓練がはじまる。「気をつけいッ」の号令に、顔を真っ赤に身体をもじもじさせたおばさんが
「オファ、子ども産んでからおかしいの、こらえると小便でちまってよゥ。こんなこんで勝つずらかァ」
とぼやく。

 いまになると喜劇としか言いようがないが、本当の話である。

 降伏以外には選択の余地は皆無の状況でなおも、後世から観ると「喜劇としか言いようがない」悪あがきを続ける日本であったが、国連は太平洋戦争終了後の国際社会の構築を議論していた。

(14)6月26日
国連憲章が調印さる


「戦争の災害から新しい世代を……」

 この日はいま国連デーにもなっている。1945年6月26日、サンフランシスコのオペラ・ハウスで、国際連合憲章の調印が行われた。参加国家は50である。

このころ日本帝国は、連合艦隊は全滅、沖縄も陥落し、全世界を敵としてアップアップしながら最後の抵抗をつづけていた。

 そのときに、戦争の災害から新しい世代を救い、基本的人権を再確認し、条約や国際法を尊重し、社会的進歩をはかり生活水準を向上させることなどを目的とする国連憲章を、世界50の国がこれからの世界の理想のあり方として、喜んで受け入れていた。一億玉砕で戦う日本が、関知しないことであったが……。

 戦後日本は、6年後に同じオペラ・ハウスで、対日講和条約の調印をする。そしてやがては許されて、すでに出来上がっている国連に加盟する。

 なんとなくトントンと加盟できたために、日本人はほとんど国連憲章に無知である。この日を記念して目を通してみるのもいいかもしれない。111条もあってとても読めないよ、などといわずに。

 「国連憲章」をネット検索すると実に沢山のサイトがヒットする。「国連憲章」以外にも重要な史料が沢山観られるので『核絶対否定のHP』さんの紹介を兼ねて、そのサイトの「資料一覧」中の「国際連合憲章 全文」を紹介しておこう。
『国際連合憲章 全文』

(15)7月16日
史上第一回の原爆実験


「日本に二発の原爆を落としたら」

 1945年7月16日、午前5時30分、それは秒読みの三、二、一、ゼロとともに起こった。巨大な火球が爆発しキノコ雲となって10キロ以上の高さに沸騰し、5トンの爆弾をのせた34メートルの鋼鉄の塔は完全に蒸発した。
 火の雲が消えたとき、特別装備の戦車が動き出す。その1台には物理学者フェルミ博士が乗っている。かれらが実験場でみたものは想像を超えた死の谷そのもの、アメリカの"ヒロシマ"である。誰もが息をのむばかりで、しばし声もでなかった。爆弾の破壊力はTNT火薬2万トンに相当すると観測された。

 実験の指揮をとったファーレル准将が、物理学者のオッペンハイマー博士に言った。
「戦争はこれで終わりだ」
 彼らを迎えた原爆製造計画の総指揮官グローブス少将が、ニッコリ笑ってあっさりそれに答えた。
「イエス、われわれが、日本に2発の原爆を落としたらな……」

 米本土ニューメキシコ州アラモゴードで、人類初の原爆実験の行われた日の、冷酷無殘ともいえる会話である。

 戦争にのめり込んだ人間が冷酷無殘になる例は枚挙にいとまが無い。日本での最も冷酷無残な例としては731部隊がよく取り上げられるが、私が全く知らなかった事例を東京新聞(2018年1月21日)の「こちら特報部」が取り上げていた。「九大生体解剖事件」と呼ばれている。その事件のあらましを特報部は次のように解説している。
 1945年5月、熊本、大分県境で撃墜された米空軍のB29爆撃機の搭乗員のうち捕虜となった8人が、陸軍によって九大医学部に連行され、実験手術を受けて死亡した事件。本土決戦での輸血に備えて海水を代用血液として使えるか、片肺を切除してどれだけ生きられるかなどが実験された。
 関与した軍や九大関係者は戦犯として起訴、48年の横浜軍事法廷で絞首刑5人を含む23人が有罪判決。50年の朝鮮戦争勃発にともなう恩赦で減刑された。主に執刀を担当した第一外科教授は収監中に自殺、軍部と九大を結び付けた軍医は戦時中の空襲で死亡しており、真相究明に影響した。

 記事のリードは次のように述べている。
 終戦間際の九州帝国大(現九州大)医学部で、生きたままの米兵八人に生体実験を行い、死なせたとされる「九大生体解剖事件」。その最後の生き証人、東野利夫さん(91)…福岡市…が昨年12月、最後の仕事として自伝を自費出版した。タイトルは「戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない」。戦争にともなう狂気への恐れを失った、今の日本人への警告だ。(大村歩)

 記事全文を読み取って紹介しようと思っていたが、念のためネット検索をしてみたら、沢山の記事に出会った。知らなかったのは私だけかしら、と思った。 2015年12月13日にNHKの「ETV特集」でも取り上げられていた。その番組のことを知った。「テレビのまとめ」というサイトのその番組の概略をまとめている記事を紹介しておこう。
『九州大学生体解剖事件 ~医師の罪を背負いて~ |ETV特集』

 横道が思いがけず長くなってしまったが、『残日録』に戻ろう。

(16)7月26日
ポツダム宣言の発表


「迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」

 数年前にベルリン南西郊外にあるポツダムの、ツエツィリエンホフ城を訪れたことがある。1945年7月17日から8月2日まで、スターリン、トルーマン、チャーチル(後半はアトリー)がここで会議をひらき……左様、世にいうポツダム宣言(日本への降伏勧告)は、会期中の7月26日にここから発せられた。

 宣言は、日本軍隊の無条件降伏、日本軍国主義の永久追放、戦争犯罪人の処罰など降伏8条件をあげて、
「右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす」
 と、原爆投下を予告していた。しかし、日本政府と軍部は……。

 いずれにせよ歴史の現場に立つつもりで赴いたのに、世は無情、三巨頭の歴史的会談の行われた接見室は、放火により炎上、真っ黒焦げのままで、観光客は立ち入り禁止というお粗末。
 聞けば、放火は7月26日から27日にかけての夜という。「お前がやったな」と帰国後にその話をすると疑われたが、ゼッタイにわたくしではない。でも、犯人は昭和史にくわしいヤツかもしれぬと思った。

 ポツダム宣言を読んでみて、これも読んでおくに値すると思った。紹介しよう。(以下は『史料集』を用いている)

 ポツダム宣言は13条から成るが、1~4条は、
「米英中三国は、日本に戦争終結の機会を与えること、 日本に最終的打撃を加える態勢をととのえること、軍事力の最高度の使用は日本軍と国土の完全破壊を意味すること、日本帝国の滅亡か「理性ノ経路」かを決定すべき時がきたこと」を述べている。5条以下を転載する。


 吾等ノ条件ハ左ノ如シ
 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ。右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス


 吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ、平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ、日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ、永久ニ除去セラレサルヘカラス


 右ノ如キ新秩序カ建設セラレ、且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ、連合国ノ指定スヘキ日本国域内ノ諸地点ハ、吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ


 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク、又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ


 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ


 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ、厳重ナル処罰加ヘラルヘシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

 十一
 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ。但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス。
右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許サルヘシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ

 十二
 前記諸目的カ達成セラレ、且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

 十三
 吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ、且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス。右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

 無条件降伏後の国家再建の方針をも示しているが、その通り国家再建がなされていれば、世界で最もすばらし国家になっていたはずである。残念ながら現在の日本国の状況は、それとはほど遠いまるで戦争直前の国家になっていると、私は思っている。その思いが「昭和の15年戦争史」を始めた動機であった。

 最後に、『史料集』の解説を転載しておく。
 ポッダム宣言はソ連の対日参戦前のため、米英中三国共同宣言として出された。宣言は日本の無条件降伏を要求したものだが、第613条を読んで、降伏条件、戦後における軍国主義の除去と民主化の基本方針を確認してほしい。一政府首脳が唯一の条件とする天皇制護持については、その廃止などの要求は含まれておらず、アメリカが早期に日本降伏を実現しようとする意図を含んでいることがうかがえる。日本政府は当初宣言を黙殺する態度をとったが、原爆投下・ソ連参戦によりついに受諾するに至った。なお、最後の第十三条の結末で「右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミ」と、原爆投下を予告するような表現がある点にも留意したい。

昭和の15年戦争史(46)

1945年(5)~(12)

 今回はヨーロッパでの第2次世界大戦の結末とそれに関連した記事から。

(6)4月25日
米ソ両軍将兵のエルベの誓い


「ふたたび戦うことのないように」

 前年の6月にノルマンディ上陸に成功した連合軍はパリを解放し、ドイツ軍を追って東へ東へと猛進撃をつづけた。いっぽう、スターリングラードでドイツ軍の進撃を阻止したソ連軍は反撃にでて東ヨーロッパの諸国を解放し、ドイツ国内に入りさらに西へ突進していった。

 この両軍が東西から1945年4月25日午後4時40分、ベルリンの南約75マイルの地点、ザクセンのトルガウ市郊外を流れるエルベ河の破壊された橋上で出会った。米軍のロバートソン少尉と、ソ連軍のアンドレーエフ軍曹の握手をきっかけに、両軍の将兵はわれを忘れて歓声をあげ抱きあった。そして勝利は目前にあることを喜びあったのである。

 それから10年たった5月に、かつてエルベで出会った米ソの元兵士たちがモスクワで再会した。米ソの冷戦が雪どけを迎えはじめたころである。
 彼らは感激をあらたにして、
「我々の子供がふたたび戦うことのないように」
と誓いつつ杯をあげた。

 続く二つは独裁者たちの最後の記事。

(7)4月28日
逆さにつるされたムッソリーニ


「最後までついてきたでしょう」

 ドンゴという小さな村の農家の一室で、イタリアの独裁者であったムッソリーニ首相と、その愛人クララは、パルチザンの手によって捕らえられた。二人は車で運ばれ、村はずれの木立の陰に隠れた山荘の門の前に立たされた。

 クララがムッソリーニにささやいた。
「最後までついてきたでしょう。うれしくはなくって」
 いや、別の証言では
「いけない、この人をそんなふうに殺すのはいけない!」
と叫び、かばうように立ちはだかったという。しかし、猛りに猛った民衆に容赦はなかった。パルチザンの銃が一瞬早く、火を吹いた。ムッソリーニはときに61歳。1945年4月28日のこと。

 翌日、二人の死体はトラックでミラノヘ運ばれた。この日、中央駅に近いロレッタ広場には黒山の群衆が集まっていた。構築中のガソリン・スタンドの鉄の梁(はり)に、ムッソリーニの死体は逆さにつるされた。隣にクララ。

 20年余もシーザー気取りで君臨してきたムッソリーニを哀惜するイタリア人はほとんどいなかった。
(8)4月30日
ヒトラー自決す


「ナチス運動の再生となり……」

 20世紀をひっかきまわしたヒトラーとは何者か、という問いに簡単に答えられるようなら、これまで世界中で2千冊におよぶ"ヒトラー伝″が書かれるはずもない。この独裁者は一筋縄でとらえられるような人物にあらず。

 そのヒトラーが1945年4月30日に自決した総統官邸跡を、わたくしはベルリン旅行のとき訪れてみた。地下6メートルの壕(ごう)の、彼が死んだ書斎、その死骸が焼かれたと思われる場所に立ってみると、風にのって、ヒトラーの遺言が聞こえてくるような気がした。

「このような大きな犠牲がそのまま空しく終わるとは信じられない。わが将兵と私との同志愛によってまかれた種子は、いつかドイツの歴史の中に花を開いて、ナチス運動の再生となり、やがて真に統一した国家をつくりあげるであろう」

 ソ連当局は墓をあばき遺骸をソ連にもちさったというが、新しいナチスの聖地がつくられるのを恐れ、その後の詳細をいまだに発表していない。ヒトラーは、いや、その思想は、ヒトラーの言葉どおりいまも生きているのであろうか。

 いま、ヨーロッパには極右のネオ・ナチがうごめきだしているという。

(9)5月2日
ソ連軍、ベルリンに突入


「赤旗はテーブルクロス」

 4月28日、ムッソリーニは銃殺され、30日、ヒトラーは自殺。5月2日、ベルリンの国会議事堂の屋上に、赤旗がひるがえった。ヒトラーの後継者となったデーニッ ツ提督はこの日、ヒトラーの死を全国民に放送し、米英軍にのみ降伏すべきことをドイツ国防軍に命じた。なんとか米英とソ連との離間を期待していたからであるという。しかし、すべては空しかった。
 1945年の劇的な数日間である。第2次大戦のヨーロッパ戦線はこうして終結に向かった。

 そして、最近まで、このときの勝利を象徴するものとして、ソ連兵が議事堂の屋上に赤旗をかかげる迫真の写真が、いろいろなところで使われてきた。
 が、これがあとからの演出であった、と、これを撮った写真家バルディが、つい最近ばらした。
「赤旗はテーブルクロス、兵士の腕にあった二つの腕時計の一つが略奪行為の証拠を残さぬため修整で消された。砲煙もうまく形を修整した」と。
 だから歴史的名写真になった、ともいえる。

 5月にドイツが無条件降伏をして、ヨーロッパでの第2次世界大戦は終わったが、太平洋戦争での悲劇はまだまだ続く。

(10)5月25日
空襲で宮城炎上


「明日から困るだろうから」

 それは5月25日の深夜である。東京はB29五百機機以上の爆撃をうけ、焼け残っていた西部、北部そして中央部が灰燼に帰した。午前1時ごろ、直接的な攻撃を受けなかった宮城もまた炎上した。皮肉にも、宮城本殿を焼いたのは、参謀本部からの飛び火であった。満州事変を起こし、日中戦争を拡大し、日本帝国を破局に導いた陸軍横暴の歴史を、象徴するかのようである。

 明治21年10月に完工した表と裏とをあわせて大小27棟の、歴史を誇った美しい宮殿は、4時間近く燃え続けて完全に焼け落ちてしまった。必死の消火に当った皇宮警察官や近衛師団の下士官兵の、殉職者は33人にのばった。  火災の状況は、宮内省の防空本部から電話で逐一お文庫に報告された。その時に、昭和天皇はいったという。
「私の御殿は焼けてもよい。それよりも局(つぼね)たちの御殿にまだ火がついていないならば、全力を尽くし助けてもらいたい。局たちは丸焼けになったら明日から困るだろうから」

 1945年5月、困っている者は局たちばかりではない、日本中に山ほどいた。そして、これからもぞくぞくとふえていった。

 私は東京空襲のとき、宮城も燃えたということを知らなかった。それにしても東京中が燃えているのに自分の身辺への心配しか思いが及ばないヒロヒトには改めてあきれ返えってしまう。ヒロヒトの発言であきれ返った例を二つ思い出した。
 一つは広島の原爆被災についての発言で
「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」
 もう一つは戦争責任に就いての発言で
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。」
 この二つ目の発言については『詩をどうぞ』
の(2)でこの発言を厳しく批判している茨城のり子さんの詩『四海波静』を紹介した。

 『残日録』の続く二つの記事は沖縄戦での惨劇である。

(11)6月6日
大田実司令官の報告


「沖縄県民斯ク戦ヘリ」

 1945年6月6日付けの、沖縄方面海軍特別根拠地隊司令官の大田実少将が発した海軍次官あての長文の電文を読むたびに、粛然たる思いにかられる。これほど尊くも悲しい報告はないと思われるからである。
 その一部を――。 「沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知ル範囲ニ於テハ、県民ハ壮青年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋卜財産ノ全部ヲ焼却セラレ………」

 にもかかわらず、沖縄県民が総力をあげて軍に協力し、敵上陸いらい戦いぬいている事実を、大田少将はくわしく記して、最後をこう結んだ。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
 軍は沖縄防衛戦において、共に戦い共に死なん、と呼号して、非情にも県民を戦火の中にまきこんで戦った。そのときに非戦闘員にたいするかくも美しい心遣いを示した軍人のいたことを誇っていい。

 そしていま、はたしてわれわれは沖縄の人々に「特別の高配」をしているであろうか。

(12)6月23日
沖縄地上部隊の最後


「閣下は極楽、私は地獄」

 歴史はときに残酷な顔をみせる。沖縄防衛の第32軍が南部集結による持久抗戦をきめた5月下旬、大本営は沖縄での決戦をあきらめ、総力を本土決戦に傾注することに戦略を切りかえていた。一言でいえば沖縄を見捨てたのである。そうとも知らず、第32軍の将兵は5月30日午前零時、最南端の摩文仁をめざして出発した。そこには10数万もの住民が逃げのびて集結していた。

 沖縄戦はそれから20数日間つづけられる。組織だった戦闘といえるものではなく、沖縄県民をまきこんでの"火と鉄の暴風"による虐殺に近かっか。県民の死者は軍関係1万4千8百、一般県民15万をこえる。

 こうして1945年6月23日、軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇(ちょういさむ)中将は、敗戦の責任を負ってならんで自決した。長中将が「お先に」といい、そして苦笑しながらつけ加えた。
 「そうか、閣下は極楽、私は地獄。お先に失礼してもご案内できませんな」
 大本営が「本土防衛のための捨て石にする」とした沖縄戦はこの日に終わった。
なお"虐殺"は各所でつづけられていたが。

 沖縄での惨劇については『沖縄に学ぶ』
の(7)~(10)で取り上げている。それを紹介しておこう。
『琉球処分から沖縄戦まで(1) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(2) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(3) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(4) 』
昭和の15年戦争史(45)

1945年(1)~(4)

 戦勝国・敗戦国の別なく、戦争を主導していった者の愚かさと残虐性にうんざりとしてくる。そして、それに諸手を挙げて従ったのかイヤイヤながら従わざるを得なかったのかの別なく、戦争に巻き込まれた人びとの命の安さ無残さに滅入ってしまう。第2次世界大戦が終結した1945年の『残日録』の記事を読んでいると、そうした思いは戦争終結時の記事では目をそらしたくなるほど一段と深くなる。しかし、最後迄しっかりと目を開けて事実を直視して行こう。

(1)2月4日
ヤルタ会談が決めたこと


「とられたものをとり返す」

 1945年2月4日から11日までひらかれたヤルタ会談での、米大統領ルーズベルトは死を前にした病人であった。1時間は集中できるが、それ以上になると、考えることは支離滅裂、時折ぼんやり放心した。

 この病める大統領が、スターリンとチャーチルとともに、戦後の世界体制をきめたというのであるからそら恐ろしくなる。海千山千のスターリンが病人を手玉にとることはきわめて容易であったことであろう。かれらはまず、降伏は目にみえているドイツの米英ソ仏による分割占領をきめた。国際連合の構想も具体化された。

 そしてなお頑張っている日本にたいしては秘密協定を結んだ。ドイツ降伏3ヵ月後に、ソ連が日本にたいして攻撃を開始するという約束である。ルーズベルトは代償に「ロシアが日露戦争敗北で失った諸権益の復活」を申しでた。すなわち樺太の南半分と千島列島をソ連に与えるという……。

「日本が戦争で奪いとったものを、返してもらうことだけを私は願っている」
「とられたものをとり返したいというのは、当然の要求でありましょう」
 スターリンとルーズペルトとの会話である。

ヤルタ協定の主要部分を『史料集』から転載しよう。

三大国即チ「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国ノ指揮者ハ「ドイツ」国カ降伏シ且「ヨーロツパ」ニ於ケル戦争カ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」連邦カ左ノ条件ニ依リ連合国ニ与シテ日本ニ対スル戦争ニ参加スヘキコトヲ協定セリ
一、
 外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルヘシ
二、
 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルヘシ……(箇条書き部分略す)
三、
 千島列島ハ「ソヴィエト」連邦ニ引渡サルヘシ……(前条の補足部分略す)
 三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」連邦ノ右要求カ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルヘキコトヲ協定セリ
 「ソヴィエト」連邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆(きはん)ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス
 初めての東京大空襲が行なわれた経緯は次のようであった。

(2)3月10日
東京大空襲の夜


「日本の家屋は木と紙だ」

 第20空軍司令官ルメイ少将は、戦果も思わしくなく隊の士気も日ましに衰えてゆくのに業をにやした。そこで決断した。
1、
 日本の主要都市にたいし夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐこと。
2、
 爆撃高度は5千より8千フィートとす。
3、
 各機は個々に攻撃を行うこととす。(以下略)

 作戦の根幹は焼夷弾による低空からの夜襲である。
「それに日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾で十分効果があげられる」
とルメイは自信たっぷりにいった。

 1945年3月10日未明の東京大空襲を皮切りに、ルメイ新戦術によるB29の大群の日本本土焼尽夜間攻撃がはしまった。この最初の無差別攻撃の夜の東京市民の死者8万9千。わたくしは辛うじて9死に1生をえた。

「それは世界最大の火災だった。ふき上る火炎の明かりで時計の文字盤が読めた」
とB29搭乗のアメリカ兵は語った。

 戦後、そのルメイに日本政府は最高の勲章を贈った。あいた口がふさがらなかった。

 この大空襲は東京だけでは終わらなかった。その後のことを『探索 6』から補充しよう。


 翌日、帝国議会で小磯国昭首相が勇ましく言い切った。
「驕慢な敵を洋上に殲滅し、水際で叩き、陸上で殲滅する!」

 しかし、その豪語をあざ笑うかのように夜間の低空攻撃はつづけられる。12日、名古屋。13日、大阪。17日、神戸。さらに19日にはふたたび名古屋へ。大都市はわずか十日間にしてすべて炎上した。被災家屋計58万戸、200万人以上が焼け出され、200万人以上が死傷する。さらに九州・四国方面では米艦載機の大群の来襲をうけ、ここでも多くの人が生命や家や財産を、そして希望を失った。米機の攻撃がもっぱら飛行場に加えられたのは、つぎの沖縄作戦のための先制攻撃であることは明らかであった。


 次はルメイへの叙勲についての補足。
 ルメイへの旭日大綬章授与は1964年12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定されている。この授与決定は国民には伏せられていた。ルメイ叙勲だけでなく在日米軍幹部への叙勲の全貌を明らかにしたのは東京新聞だったという。RakutenBLOGにその東京新聞(2010年3月11日 朝刊)の記事を掲載している記事があった。
『在日米軍幹部に叙勲』

 この記事の最後は、佐高信さんの歯切れの良いの談話で締められている。転載しておこう。
『彼ら政治家は、大空襲で命を失った庶民が目に入っていない。タカ派どころか、バカ派の売国奴だ。国民を無視して勲章を出すのは日本も米国も同じ。もうこんな空虚なことはやめたらどうか』

 さて、1945年に入っても、日本軍の空しくも壮絶な戦いが続けられていた。

(3)3月17日
硫黄島守備隊の突撃


「今や弾丸尽き水涸れ……」

 戦闘がはじまる前から、守備隊の総指揮官栗林忠道中将はいっていた。
「硫黄島は皇土の一部である。もし本島が占領されることがあったとしたら、皇土守護は不可能である」
 それだけに米軍を迎え撃った硫黄島守備の日本軍は、善戦力闘しぬいた。

 「五日で落としてみせる」と豪語していた米軍の損害は死傷2万5851人、上陸した海兵隊員の3人に1人が戦死または負傷した。日本軍の死傷2万数百人(うち戦死1万9900人)。太平洋戦争で、ガダルカナル島での反攻開始後、米軍の損害が日本軍を上まわったのは、硫黄島の戦いだけである。

 1945年2月19日の米軍の上陸いらい戦いつづけた日本軍の、組織的な抵抗がついに不可能となったのは3月16日である。栗林中将は、1兵の救援も送ってこなかった大本営へ、決別の電文を送った。
「今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い、粉骨砕身もまた悔いず。……」

(4)4月7日
戦艦大和の最後の出撃


「その栄光を後世に伝えん」

 連合艦隊司令長官豊田副武大将は訓示を送った。
「皇国ノ興廃ハ正ニ此ノー挙ニアリ 茲(ここ)ニ特ニ海上特攻隊ヲ編成シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ 帝国海軍力ヲ此ノー戦ニ結集シ 光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ 其ノ栄光ヲ後昆(こうこん=後世)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ……」

 戦艦大和を中心とする残存の第二艦隊は、その訓示どおり特攻として、桜花らんまんたる内地をあとに沖縄に向け出撃した。

 しかし1945年4月7日、沖縄突入の余裕もなく、九州坊ノ岬沖の海上で、米空軍380機の猛攻をうけ、激越にして一方的な戦闘2時間10分のはて作戦は失敗した。戦艦大和沈没。戦死3056名。以下、経巡1、駆逐艦4が沈没し戦死981名余。連合艦隊はここに壊滅した。

 燃料はかならずしも片道ではなかったものの、「栄光」を保持するために、ただそれだけのために、これだけの人が死んだ。総指揮を取った伊藤整一中将が決断した「作戦中止」の命令がなければ、なお浮いていた駆逐艦4隻も沖縄に向かって突進し、第2艦隊の総員7222名が帰らなかったことであろう。

昭和の15年戦争史(44)

原爆関連記事(1)~(5)

 「昭和の15年戦争史」の最終年にたどり着いた。『残日録』はこの年の主な出来事を次のようにまとめている。
2月
 ・ヤルタ会談
3月
 ・東京大空襲
 ・硫黄島の日本水軍全滅
4月
 ・米軍、沖縄上陸
 ・トルーマン、米大統領就任
 ・ムッソリーニ処刑
 ・ヒトラー自殺
5月
 ・独、無条件降伏
6月
 ・米軍、沖縄占領
 ・国連憲章成立
7月
 ・ポツダム宣言
 8月
 ・広島、長崎に原爆投下
 ・ソ連、対日宣戦布告
 ・ポツダム宣言受諾、太平洋戦争終結
 ・マッカーサー着任・日本、無条件降伏
9月
 ・日本、降伏文書に調印

 日本の無条件降伏を決意させたのは広島・長崎への原爆投下だった。1945年の記事に入る前に、まず、前々回に予告した事項「人類が作り出した最悪の残虐兵器・原爆にまつわる記事」を『残日録』から取り出してまとめて転載しておこう。

 初めて核分裂実験に成功したのはドイツであった。

(1)1938年12月17日
ウランの核分裂に成功


「連鎖反応」

 天然ウラニウムのなかに0.78パーセントしか含まれぬウラニウム235の原子を分離し、それに中性子をあてると、原子核は分裂し、平均2個半の中性子が飛び出す。その中性子の1つが、さらにとなりのウラニウム235の核を分裂させると、そこから中性子が2ないし3個飛び出す。それがさらにとなりの核を分裂させ……

 こうして連鎖反応が起こり、そこに存在する多量のウラニウム235が次々に核分裂を始め、その分裂1つ1つについて200億ボルトという、想像を絶するエネルギーが放出される。それは制御しなければ異常な超熱気をともなう大爆発を起こす。生命にかかわる放射能を出す。これを軍事利用すれば、原子爆弾となる。
 シロウトの説明ながら、ご理解いただけたであろうか。

 ドイツの物理学者オットー・ハーンが実験によって初めて、中性子によるこのウランの核分裂に成功したのは、1938年12月17日である。つまり「核の世紀」がこの日に大きく開かれたことになる。

 いまや核拡散とどまるどころのない地球である。人類が生き残れるかどうかは、21世紀の人間の英知にかかっている。

(追記1月16日)
 日本やアメリカのような英知の欠片もないような無知で無恥な奴に政治の実権を与えているような現状が続く限り、人類破滅の危機はなくならない。東京新聞の「ICAN事務局長が広島で行なった対話集会」の記事『核禁止条約不参加・「日本は足踏み外した」』を転載しておこう。
 昨年のノーベル平和賞を受賞した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長(35)は15日、広島市で開かれた若者との対話集会で講演し、核兵器禁止条約に参加しない日本政府を「(核廃絶を求める)合理的な国際社会から足を踏み外した」と批判した。
 集会には学生や被爆者ら約340人が参加した。フィン氏は、被爆国の日本が条約に反対していることに「広島、長崎以外で同じ過ちが繰り返されていいと思っているのではないか」と指摘。「被爆地と日本政府の隔たりは大きく、埋める必要がある」と訴えた。
 米国の「核の傘」に依存する日本政府は、北朝鮮による核攻撃の脅威を理由に核抑止力の正当性を唱えるが「北朝鮮の核開発を抑止できなかった。核兵器がある限り、核の恐怖から逃れられない」と強調。全ての国が条約に参加することが解決策になると主張した。
 一発の原爆が広島を壊滅させたように「今、この瞬間に日常が終わり得る。われわれは核兵器が使われる最も近い時にある」と述べる一方、条約で「最も核廃絶に近い所へも来た。希望を持って打ち勝つ必要がある」と呼び掛けた。

 『残日録』の記事に戻ろう。
 ドイツに続いてアメリカが原爆製造を始める。

(2)1939年8月2日
アインシュタインの書簡


「爆弾1発で港が壊滅」

 20世紀は原子力の世紀だといわれている。そのスタートとなったのが、さきに書いた1938年12月22日のドイツ原子物理学者オットー・ハーン博士の論文である。ウラニウム235に衝撃を与えることで、核分裂させることが可能という仮説を発表したのである。これは新大陸発見と同じくらい大きな出来事であった。

 これをうけて物理学者のアインシュタイン博士が、一書をしたためた。あて先はルーズベルト米大統領である。このウランの核連鎖反応というエネルギー現象は、核爆弾の製造にそのままつながる、と指摘した上で、
「この爆弾が船ではこばれ港湾で爆発させられれば、一発で港全部と周辺を壊滅させるかもしれぬ」
 と予言し、ドイツはこの分野での実験をすでにつづけていること、そして第2次大戦がはじまったとき、それが成功すれば恐るべき事態になるであろうと、博士は冷静に予言をつらねたのである。

 これが大統領を動かし原爆製造へと踏みださせた。書簡の日付は1939年8月2日である。

(3)1942年12月2日
ウラン核分裂実験に成功


「大変友好的でした」

  エンリコ・フェルミ博士を長とする12人の科学者は、いまや人類最初の原子炉によって"太陽の火"を得ようとしていた。炉の中でウランの核分裂がはじまり、連鎖反応がはたしておきるのか。それがおきれば、原爆製造への道はあっという間に開けるのである。実験は終始計算と一致していた。フェルミ博士はバルコニーにいる人びとのほうをふり向いていった。
「さあ、原子炉は連鎖反応をおこします」

 1942年12月2日の午後3時20分、物質がその内部のエネルギーを、人間のために解放した瞬間である。二人の科学者が直後に電話で短い会話をかわした。
「イタリアの船乗りは新大陸につきましたよ」
 フェルミ博士はイタリア人であった。
「で、現地人の態度はいかがでしたか」
 現地人――それは原子力である。
大変に友好的でした」
核時代開幕の日である。

 私は、恥ずかしながら、エンリコ・フェルミという物理学者の名に初めて出会った。ネット検索で調べていたら、伊藤智義著『栄光なき天才たち』の中の「― 狂った歯車の中で… エンリコ・フェルミ ―」という章が読めるブログに出会った。なぜ多くの物理学者達が「原爆製造という狂気の計画に参画していったのだろうか?」という問題も取り上げているし、(2)の「アインシュタインの書簡」も取り上げられている。是非多くの方に読んで欲しいと思った。紹介しておこう。

『狂った歯車の中で… エンリコ・フェルミ』

 アメリカによる日本への原爆投下は無条件降伏に応じない日本にアメリカが業を煮やした結果だと、私は思い込んでいたが、なんと既に1943年に原爆投下の目標を日本に設定していたと言う。

(4)1943年5月5日
原爆の投下目標が設定された日


「原爆の目標は一貫して日本」

 アメリカが原子爆弾の標的に、はたしていつ日本を設定したか。これまでよくいわれてきている説は、いくら急いでも原爆の製造が完成する前に対ドイツ戦は終わってしまう、とはっきりしたのちになって、それならばということで、かわりに日本が対象になった、というものであった。

 しかし最近になって、1943年5月5日には、もう視線が日本に向けられていた、という事実が判明する。この日、軍事政策委員会が「トラック島に集結中の日本艦隊が、最もよい目標と結論した」というのである。この時点では、ヨーロッパの戦いがいつ終わるか、まだだれにも確実に予想することなどできないときである。

 原爆製造計画(マンハッタン計画)の総指揮官グローブス少将の、スチムソン陸軍長官あての手紙の一節が非常に興味深い。
「目標は一貫して日本なのであります」
 1945年4月23日付けのもの。つまり製造中にもドイツが目標と考えられたことは一度もなかったのである。根底に人種差別があったのであろう。というより、戦争という"熱狂"が人間をかくも無責任なものにする。

 その1943年には、日本でも原爆製造を計画し始めていたと言う。これも私には初耳だった。

(4)1943年11月23日
日本の原爆製造計画


「明日の問題解明のために」

 東京駒込にあった理化学研究所の49号館1階3号室の天井を突き破って、5メートルの分離筒が、2階8号室にまで頭を出して完成したのは1943年11月23日のことである。

 竹内柾(まさ)、木越邦彦、石渡武彦の3人の科学者が、このひょろ長い筒で天然ウランからウラン235を分離させようと必死にとりくんできた。つまり1842年の暮から、細々とした予算で日本も原爆製造の夢を描き、そしていまほんの第一歩といえる分離筒が出来上ったのである。

 しかし、工業力と資金からみてもほとんど絶望である。それは"今日の戦争"には間に合わない。しかし研究を続けることは"明日の問題"解明のために大きな意味がある、 そう彼らは考えて頑張っていた。

 仁科芳雄博士がある日、彼らに聞いた。原爆がほんとうに出来ると思うかと。若い研究員は異口同音に、
「とても出来ないと思っています」
と答えた。博士は
「そんなつもりでやっているなら……」
と強い語調でいってから、ふうと顔をやわらげた。
「まあ、このまま、しばらくやっていろ」

 さて、次回から『残日録』の1945年の記事をたどっていくことにする。
昭和の15年戦争史(43)

1944年(11)~(16)

 学童集団疎開が始まった日に全新聞が一斉に次のようなフェイクニュースを報道した。

(11)8月4日
新聞各紙が米兵の残虐性を報じた日


「鬼畜米英」

 当時、中学2年生のわたくしはたしかにわが眼を疑った覚えがある。この日、1944年8月4日の新聞各紙はアメリカ兵の"鬼畜"ぶりを大きくとり上げたのである。

 朝日新聞が「見よ鬼畜米兵の残忍性」との見出しで、「兄から送ってきた日本人の頭蓋骨をおもちゃにしている」子供のこと、下院議員がルーズベルトに「戦死した日本兵の上膊骨(上腕骨の旧称)で作った紙切り小刀を贈った」事実など、それらが問題になっていることを報ずれば、読売報知新聞も「これが米兵の本性だ」の見出しで報じた。
「頭蓋骨を玩具にし、勇士の腕をペーパーナイフとしたこの非人道的な行為は、本国の米人間にさえあまりに残虐行為として非難され指弾されているという。(略)鬼畜め、野獣! たぎり立つ憤激のなかにわれら一億はこの不倶戴天の米鬼どもを今こそ徹底的に叩きつけねばならぬ」

 かならずしも定かではないけれども、これ以前に、われら悪ガキが「鬼畜」という言葉を使っていたという覚えはない。戦意高揚のためとはいえ、このすさましい報道のあとで、
「いいか、負けたら男はみんな奴隷に、女はみんな鬼畜アメ公の妾になるんだ」
なんて愚かな風説が流れ出し、わたくしなんかそれを信じたような気がしている。

 各新聞が一斉に報道したというのだから、勿論政府からの強い指示があったのであろう。現在でも同じだ。つい最近の事例として、会食に招待されてのこのこと出かけていったマスゴミ幹部とアベコベとの会食の後、マスゴミが一斉に北朝鮮の脅威を大仰に報じ始めた事を思い出した。

前回、ノルマンディ上陸作戦の補充記事でパリ解放を取り上げたが、『残日録』からの次の記事はパリ解放時のドイツ軍の動きをまとめた記事である。

(12)8月25日
パリが解放された日


「パリは燃えているか?」

 1944年8月25日の午前8時、ドイツ軍のパリ地区軍司令官の極秘テレスクリプターが、国防軍最高司令部からのヒトラーの命令を打ち出した。
「破壊は開始されたか」
 軍司令官コルティツツ大将はパリを愛し、フランス文化にあこがれを抱いている。彼はこの美しい都を破壊する命令を容易にだそうとはしなかった。

 一方で、パリ市民3百50万人の解放の喜びは、いまや街中にあふれようとしていた。ルクレール将軍が指揮するフランス装甲車部隊が、前夜に、すでにパリ市内の一角に突入してきている。教会という教会の鐘がいっせいに鳴りひびいた。ドイツ軍占頷下の4年間をすごしたパリは、いま解放されようとしているのである。連合軍対ドイツ軍の市街戦は、いたるところで戦われていた。戦いつつドイツ軍将兵は破壊命令を待っていた。

 しかし……、午後3時すぎ、コルティッツは、パリ市庁で淡々として降伏文書に署名した。そのころ、ヒトラーは国防軍最高司令部でくりかえし怒号をつづけていた。
「わしは知りたいのだ――パリは燃えているか?」

 パリは救われていた。

コルティツツ大将の反骨精神に拍手喝采を送ろう。

 再び、太平洋戦争を巡る日本の動きに戻る。

(13)9月
松代大本営の建設始まる


「私は行かないよ」

 サイパン・グァム・テニアンのマリアナ諸島が攻略され、もはや戦争に勝利のないことを覚悟させられた日本陸軍は、本土決戦によって最後の一兵まで戦うという悲痛な決意を固めた。首都東京は海に近く平野にあるし、到底守りきれない。そこで大本営を長野県の松代へ移す、という案をたて、ひそかに築城の工事を始めることとした。1944年9月中旬からそれは開始された。

 計画によれば、象山、皆神山、狼烟(のろし)山の三山をくりぬいて、延長10キロの坑道式大防空壕をつくる。総工費6千万円。長野県下の住民と朝鮮人労働者を総動員し、のべ人数75万人。丹那トンネルをしのぐ未曾有の大工事が昼夜兼行で敢行される。本土決戦は陸軍主導の戦いとなるゆえ、もちろん、政府にも海軍にも知らせずに、工事は進められていった。

 が、1945年春にはそのことが、広く知れ渡った。昭和天皇の耳にもその秘密工事のことが伝えられた。「帝都固守」による戦死をも覚悟している天皇は、このとき不快げに言った。
「私は行かないよ」

 これまで多くの記事で観てきたように、危急存亡のとき、1%はまず自分たちの逃亡を優先する。99%使い捨てるだけである。

 無駄なことばかりの戦時対策が続くが、次のようなム無駄なアメリカ本土攻撃が行なわれた。

(14)9月26日
「風船爆弾」部隊の編成


「機能回復までに三日間」

 あんまり鼻を高くできる話ではないが、太平洋戦争中に日本が開発した最新鋭兵器に風船爆弾がある。直径10メートルの気球で、冬季の偏西風のもっとも強い1万メートルの高度を飛ばし、太平洋を約72時間で越え、35キロ程度の爆弾または焼夷弾をアメリカ本土に投下するという設計になっていた。気球は良質の紙で作られ、コンニャクのりで塗り固めた。

 これを富号兵器と称し、この兵器による米本土攻撃のための部隊が新編成されたのが、1944年9月26日である。そしてこの日、11月3日の明治節の早朝をもって攻撃開始の作戦計画も確定する。
 と、勇ましく書いたが、戦果は? となると――
約9300個が放流され、うちほぼ1割が米本土に到着したという。ボヤ程度の森林火災2件、それとハンフォードの原爆製造工場の電線に落ち、電流が1時中断し「機能回復まで何と3日間を要した」とアメリカ側を大いに嘆かせた。

 これが勤労動員の女学生たちをこき使って製造し、当時の金で1千万円以上をつぎこんだ作戦の全戦果であった。何たる無駄か。

(15)10月25日
レイテ沖海戦・ナゾの反転


「天祐を確信し全軍突撃せよ」

 1944年10月23日から26日まで、米軍のレイテ島上陸にともない、フィリピン諸島の東方海面で戦われたレイテ沖海戦は、史上最大の海戦である。そしてそれは空前絶後、世界史最後の艦隊決戦といえるであろう。

 艦艇198隻、飛行機2000機が敵味方にわかれ死闘を繰り返した。日本の連合艦隊は、どんな犠牲を払っても上陸した米軍の殲滅を期した。そのため残存艦隊をすりつ ぶしても構わないと、惨たる決意を固める。それゆえに海戦の最中に打たれた電報命令は悲壮この上ない。
「天祐を確信し全軍突撃せよ」
 その命令通り戦艦大和を中心に、全艦は一丸となって猛進し、まさにレイテ湾に殴り込もうとした。

 湾内では総指揮官マッカーサーが真っ青になっていた。25日正午近く、しかし、天は日本海軍に味方しなかった。ニセ電報を信じた栗田健男中将指揮の日本艦隊は、湾を眼前にくるりと反転した。アメリカ兵は狂喜した。
「ヘイ、見ろ。ジャップが、か、帰っていくぞ。オレたちは助かったんだ!」

 ちなみに、大変長いので転載はしないが、レテイ海戦の作戦参謀(大谷藤之助)が書き残した手記が『探索 6』に掲載されている。

(16)10月25日
神風特別攻撃隊の誕生


「KAがアメ公に何をされるか」

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花――

 本居宣長の歌より名づけられた敷島隊(5機)、大和隊(6機)、朝日隊(2機)、山桜隊(2機)が、史上はじめて編制された神風特別攻撃隊である。指揮を関行男大尉がとった。関大尉はいった。
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて……しかし、命令とあれば、やむをえない。日本が負けたら、KA(家内)がアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬ」

 1944年10月25日、関大尉はこの言葉を新聞記者にのこして、フィリピンのマニラ近くの基地より飛び立った。従うのは敷島隊の4機。零戦に250爆弾をかかえて「1人1艦」の必死の突撃を敢行する。そしてサマール島沖の米空母群に突入、全員が特攻戦死した。この報告を受けたとき、天皇はいった。
「そこまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」

 10月28日に、海軍は神風特別攻撃を公表した。命令ではなく志願による、ということであったが、国民はだれも信じなかった。

 この記事での天皇の談話にも「いい気なもんだぜ」という言葉を投げつけたい。とうに「そこまでせねばならな」い程の戦況になっていたことは十分承知だったはずだ。なぜここまで来ても降伏を決断しないのか。

 思い出した事がある。『「終戦の詔書」を読み解く』
の中の記事『「詔書」第一案の分析(6)終戦工作の実態』
で書いたように、
「戦争終結策を至急に講ずる要あり」
という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは
「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」
と返答しているのだ。その結果、広島・長崎への原爆投下まで、降伏の時期が引き延ばされたのだった。
昭和の15年戦争史(42)

1944年(6)~(9)

 ヨーロッパ前戦では第2次世界大戦の最後の山場を迎えていた。

(6)6月6日
ノルマンディ上陸作戦開始


「よろしい、出かけよう」

 参謀長スミス中将は、連合軍総司令官アイゼンハワー大将の人間性をよくのみごんでいた。アイクが相談する4人の英軍高級指揮官にあらかじめ工作し、陸海は決行賛成、空軍と航空輸送部隊の指揮官は悪条件ゆえ反対と答えてもらうことにしておいた。全員一致で決行を進言し、それで決定するというのでは、最高司令官としての決断の味がうすれる。アイクはそういう安易さを好まないのである。

 会議はあらかじめ決められたとおり2対2と意見が分かれた。アイクが、「参謀長、キミは?」と問うのに、スミスは「私は決行すべきだと思いますが……」と答えた。アイクはちょっと考えるようをしたあとで、
「よろしい、出かけよう」
と決断した。

 こうして第二次大戦最後のヤマ場である連合軍のノルマンディ上陸作戦は、悪天候をおして敢然と開始された。1944年6月6日朝まだきのこと。Dディといわれた。イギリス兵たちは「ダンケルクの仇を討とう」と、だれもがしきりに勇み立つたという。その気持はすこぶるよくわかる。

 ちなみに、「ダンケルクの戦い」については『1940年(1)~(6)』 の(6)で取り上げている。

 ノルマンディ上陸作戦の戦果について補充しておこう(「岩波講座 世界歴史28」からの転載です)

 1944年6月6日、米英連合軍は、北フランスのノルマンディー海岸に大規模な上陸作戦を行なった。作戦は成功し、6月末までに、海岸から20-40キロはなれた内陸に約100キロの正面をもつ橋頭堡がつくられた。橋頭堡にいる連合軍の兵力は100万にたっした。待望の第二戦線が生れたのであった。ドイツ軍の抵抗は頑強であったが、7月末には崩壊がはじまった。退却してゆくドイツ軍を追撃しながら、8月末には連合軍はセーヌ川の線にたっした。

 連合軍の上陸によって、フランス国内のレジスタンスの運動はいっそう発展し、全土の解放をめざす国民的な蜂起に発展した。レジスタンスはフランスの半分以上を自力で解放した。首都のパリでも、1944年8月10日に労働者がゼネストにはいり、19日から蜂起が開始された。レジスタンスの武装兵力として成長した国内軍は、市民の協力を得てドイツ占領軍とたたかった。24日になると連合軍の先頭が市内にはいり、それにたすけられて、翌25日、パリは解放された。

 ノルマンディで敗れたドイツによる次のような新兵器による報復があった。

(7)6月15日
新兵器「V1号」の発射


「間違って地球に落ちた」

「宇宙旅行という目的のためなら、悪魔と手を握ることさえいとわない。」
 ドイツのロケット工学者フォン・ブラウンはそう広言してはばからなかった。

 その彼が中心となって開発をすすめたジェット推進「V1号」が、ロンドンに撃ち出された。人類が初めて作った時速600キロで飛ぶ高速大型爆弾である。Vは「報復」の頭文字で、連合軍のノルマンディ上陸の仕返しを意味したという。1944年6月15日、ロンドン市民は悪魔の飛来におびえきった。

 さらに3ヵ月後の9月に、まさに彼がつくった超音速・防御不可能のロケット弾「V2号」が、ロンドンを襲い、死と破壊と恐怖とをまきちらした。

 フォン・ブラウンの関心事は、戦争がどうの、勝敗がどうの、地上の主権がどうのというよりも、常に宇宙の無限にあった。ロケット弾の成功には満足しながら、
「間違って地球に落ちたのが不満だ」
 と友人に語ったという。

 戦後、アメリカに帰化し宇宙開発のアポロ計画で、彼は自分の夢をみたした。そしてその反面でいまのミサイル時代の恐怖が……。

 科学者の本来の意図とは違っても、このように科学者が戦争に加担してしまうことがある。そうした中で最も悲惨な例は原爆である。いずれ、原爆にまつわる『残日録』の記事を取り出してまとめて転載しようと思っている。

 太平洋戦争に戻ろう。

(8)7月8日
サイパン島占領さる


「バンザイ突撃」

 開戦初頭、真珠湾奇襲で大武勲を立てた機動部隊を指揮した南雲忠一中将は、1944年7月8日、サイパン島洞くつ陣地で副官にいった。
「では、頼む」
副官のけん銃のにぶい音が響き、栄光の海将は陸上で死んだ。日本の陸上部隊は20日間の激闘のはてに、7日と8日に、全兵力をもってする最後の「バンザイ突撃」で、島を血で染めて玉砕した。

 悲惨はこのあとに訪れることになった。信頼した軍人たちに先立たれてしまった2万5千人の一般市民の運命である。老人や婦人や子どもたちは自分たちの力で敵中突破、生きねばならなかった。彼らはどうにか島の北端にたどりついた。アメリカ軍の投降勧告にもかかわらず、子供を抱きながらマッピ岬から海へ飛びこむ婦人、あるいは用意した手榴弾で自爆する老人と子供たち、毒薬をのむ人々と、つぎつぎに自分で自分の生命を絶った。

 今この断がいは「バンザイ・クリフ」「スイサイド(自殺)とよばれ観光名所になっている。

 同じようなことが敗戦間際の沖縄や満州で起こっている。しかし、これらの場合は軍隊が玉砕したのではなく、軍隊が住民に死を強いたり、あるいは住民を見捨てて逃亡したのだった。

 次の記事は世界制覇を夢見る兇人ヒットラーに抗する闘いを選んだ小説家の悲劇。

(9)7月31日
サン=テグジュペリの戦死


「人生に解決などない」

 美しい童話『星の王子さま』出版の直後、1943年4月、サン・テグジュペリ少佐は連合軍の北アフリカ上陸を機に、飛行大隊に復帰することを決意する。しかし43歳という年齢は、最新鋭機の操縦には適さなかった。結局は、予備役に編入されてしまう。

 ところが、彼はあきらめなかった。強引な要請を軍にくりかえし、ふたたび原隊復帰に成功する。ただし出撃は5回までという制限をつけられていた。

 1944年7月31日、彼はコルシカ島の基地から朝もやの中を飛びたった。なんと、制限無視の9回目の出撃なのである。ドイツ占領下のフランスを偵察するのが目的であった機は、しかし、燃料の切れる午後2時30分になってもついに基地に帰らなかった。
「人生に解決などない。あるのはただ、前進してゆく力だけだ。その力を創造しなければならない。解決などそのあとで見つかる」
 そう力強くいった空の英雄にして、美しい小説の作家の死については、その詳細をだれも知らない。

 次は日本での学童たちが強いられた苦難。

(10)8月4日
学童集団疎開はじまる


「ごはんを"百回噛め"といわれて」

愛川欽也(タレント)
 大輪寺という長野県上田市のお寺の本堂で生活していました。大きなイモのかたまりの入った雑炊。イモをもちあげると、量が減っちゃうので、イモをもちあげるたびに、なんだか損した気になりましてね。

扇千景(参議院議員)
 鳥取県岩美郡岩井町に一年間いました。温泉街で、宿舎の前に大きな川が流れていて、湯気がホカホカたっていました。大豆入りのごはんを"百回噛め″といわれて食べました。

中村立行(写真家)
 静岡県浜松の方広寺に生徒を連れて疎開しました。図画の教師だったのですが、仕事は食糧集めと写真をとることでした。

 いずれも学童集団疎開の思い出である。  予想される本土空襲を前に、政府は大都市の国民学校3年以上の学童を、地方の旅館や寺院などに集団疎開させることにした。東京の場合、第一陣が出発したのが1944年8月4日で、9月24日までにすべてを完了した。その数は全国で約40万人。右の三氏をその代表として。

 わたくしは残念ながら疎開派にあらず、勤労動員の焼跡派であります。

昭和の15年戦争史(41)

1944年(1)~(5)

 次に掲載する1944年の「主な出来事」で分かるように、第二次世界大戦は収束に向かい、日米による太平洋戦争の終結を示す事項に絞られてきた。
1月
・独、東部戦線撤退
3月
・インパール作戦開始
6月
・連合軍、ノルマンディ上陸
7月
・サイパン島の日本軍全滅
8月
・学童の集団疎開実施
・学徒勤労令公布
・連合軍、パリ解放
10月
・レイテ沖海戦
・神風特別攻撃隊編成
11月
・サイパンからB29約80機、東京初空襲

 日本では国家総動員を図るための政策がいろいろと打ち出されてきていたが、言論弾圧も熾烈になってきた。

(1)1月29日
「横浜事件」はじまる


「どうせ会社はつぶされる」

 1944年1月29日朝を手はじめとして、神奈川県の特別高等警察(特高)は、都下の雑誌編集者を中心に、新聞記者、研究所員などの一斉検挙を、ものものしく強行していった。計49名。罪状は治安維持法違反である。これを「横浜事件」とよぶ。

 検挙された編集者は『中央公論』『改造』『日本評論』から「岩波書店」にまで及んだ。これら編集者たちは、共産党再建をもくろんでいるという嫌疑をかけられたが、もちろんウソっぱち。しかし、その虚構の犯罪事実を強引にでっちあげるために、特高警察がとった手段は、脅嚇と拷問の一手である。こうして特高は架空のストーリーを見事に作り上げていった。

 捕まった編集者たち全員が、取り調べの合間に聞かされた特高の、自信ありげなセリフがある。
「吐いても吐かなくても、どっちでも同じよ。どうせお前さんの会社はつぶされるんだから」
 事実、それぞれの社はこの年の7月までにつぶされている。いやな時代であった。

 なお「横浜事件」は2007年現在も、再審請求をめぐって裁判がつづけられている。

 横浜事件関係の裁判は今も続けられている。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権が強行採決した共謀罪法は「「現代の治安維持法」と言われているが、この法律は無知にして無恥な安倍首相が憧れている「美しい日本」を取り戻すためには不可欠なものなのだ。

 しかし、横浜事件にも拘わらず、東条首相を批判した新聞記者がいた。

(2)2月23日
東条を批判した新聞


「竹槍では問に合わぬ」

 すでにマーシャル群島は占領された。米軍は太平洋の島づたいに、フィリピンヘ、そして沖縄、日本本土へと進攻作戦を展開しようとしていた。東条英機首相は叫んだ。
「戦局は決して楽観は許されないが、これを乗りきってこそ、必勝の道はひらかれる。国民は一大勇猛心を奮い起こすときである」

 1944年2月23日に、毎日新聞はこの首相の激励にこたえて驚くべき記事をのせた。
「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」「今こそわれらは戦勢の実相を直視しなければならない。戦争は果して勝っているのか……」

 東条首相はこれをよんで激怒した。「海洋航空機」の文字にとくにカチンときた。軍需物資を陸軍が優先的にとっていることへの痛烈な非難、と読み取ったからである。

 報復はすさまじい。毎日新聞は発禁、編集幹部は辞職、そして記事を書いた新名丈夫記者には召集令状が発せられた。

 東条のなんと肝っ玉の小さい事よ。それはお粗末な状況判断に由来する。「楽観は許されない」どころかもう既に敗北決定的な段階でなおも「必勝の道はひらかれる」などとあり得ない期待を持っている。

(3)3月8日
インパール作戦の発動


「国家に対して申し訳が立つ」

 太平洋戦争において「悲劇の」という形容詞が冠せられる戦場は、玉砕の島々をはじめまことに数多い。ビルマのインパール攻略戦は、そうした島ではないのに、無謀かつ無計画な作戦によるもので、悲惨という点では、トップに位置しようか。

 作戦に参加した弓・祭・烈の三個師団の将兵は、総計7万1千名。そして戦死・死没者は3万6千3百名の多数にのぼっている。しかも、どの師団も、戦死者よりも病気・栄養失調・疲労による行き倒れや餓死のほうがはるかに多かった。

 最高指揮官は河辺正三(まさかず)大将と牟田口廉也中将。
「私たち二人は盧溝橋事件のきっかけをつくったもの、あれが拡大して太平洋戦争になった。今度は大勝してみせる。今次大戦の遠因をつくったわれわれとしては、国家に対して申し訳が立つ。やるよ、インパールは50日で落としてみせる」

 新聞記者に語った牟田口の大言壮語である。盧溝橋事件当時、河辺は旅団長、牟田口は連隊長として日中衝突現場の指揮をとった。そしてこの牟田口中将は、一にクンショウ、二にビルマ娘と陰でいわれているほど、出世欲に燃えている軍人であった。

 1944年3月8日、牟田口の野望のもと、ずさんなインパール作戦は開始された。

 「病気・栄養失調・疲労による行き倒れや餓死のほうがはるかに多かった」のは補給線を軽視したずさんな作戦だった。「インパール作戦」は無謀な作戦の代名詞として今でも使われているという。

 ここで、戦時下の切なくも情けない体験をしてみよう。

(4)5月5日
国民酒場の開業


「捕虜になったみたいだ」

 飽食の今日では想像もつかないモノのなかった時代のことを、あまり楽しい話ではないけれどやっぱり書いておきたい。

 戦争中に「国民酒場」という店が登場。売るのは日本酒なら一合、ビール大ビンー本、生ビールー杯だけ。それでも配給の酒では足りない飲んべえたちには、干天の慈雨ともいうべきものであった。それにしても、どうして酒を飲むものだけが国民なのか。おかしな話である。

 東京ではこの年の5月5日から開店した。開店1時間前から歩道に4列縦隊の行列ができ、定数がくると「今日はここまで」でちょん切られ大騒ぎとなった。ほとんど立ち飲みで、左手にカタチだけの塩漬けの菜っ葉がお通しがわりにのせられた。

 作家高見順が「日記」に書いている。
「ひどく惨めな不快な感じだった。なんだか捕虜になったみたいだ。こういう不快感に無感覚になることが恐ろしい気がさせられた」

 日本酒を1合、チビリチビリで、これで惨めな気持ちにならなかったら、そっちのほうがどうかしている。

 さて、ヨーロッパ戦況に目を移そう。

(5)3月24日
史上最大の大脱走


「脱走は失敗だった」

 スティーブ・マックィーンやチャールズ・ブロンソンたち名優が出演した映画「大脱走」を、ときどきビデオで楽しむことがある。
 が、その背景となった歴史的事実を知ると、背筋に冷たいものが走り、申し訳ない気持ちにさせられる。

 これは事実あった話なのである。1944年3月24日の夜明け、ポーランドにあった捕虜収容所から、80人の連合軍空軍兵士が集団で脱走した。2年がかりで掘った深さ約9メートル、全長107メートルのトンネルを利用し、彼らははうようにしてぬけだした。出口で4人が捕まったが、残る76人は収容所の外へ脱出することに成功した。しかし……。

 結果は73人が捕らえられてふたたび捕虜の身となり、うち50人がヒトラーの命令でゲシュタポの手で処刑される。連合国への帰還に成功したのはわずかに3人。これ が厳然たる事実。

 いま生存者のひとりが、
「犠牲者のことを考えれば、脱出は失敗だった。してよかったとはいえない」
と苦しそうにいう。

 これも戦争が作り出す悲惨な出来事である。
昭和の15年戦争史(40)

1943年(11)~(12)

 前回の最終記事はキスカ撤退作戦の成功(7月11日)だった。その後の日米両国の太平洋戦争を巡る動きを『探索 6』から転載しよう。


 1943年の秋から冬にかけて、連合軍は六つの方向から日本軍に猛攻をかけてきた、あるいはかけようとしていた、ということになる。

 アリューシャン(シオボールド少将指揮)、中部太平洋(ニミッツ大将総指揮)、ソロモン(ハルゼイ大将指揮)、ニューギニア(マッカーサー大将指揮)、ビルマ(マウントバッテン英中将指揮)、そして海上交通破壊戦に全力を注いでいる潜水艦部隊(ロックウッド少将指揮)である。どの方面でも日本軍将兵は悪条件に耐え抜いて敢闘したが、その圧倒的な銃砲火とエネルギーの前に押されるいっぽうとなった。そのいちいちの悪戦苦闘について書く余地はないのですべて略す。

 とくに洋上に突如として姿を現し、中部太平洋を突き進んできた高遠機動部隊が何よりの脅威であった。11月19日~21日、ギルバート諸島そしてマーシャル諸島に台風のような攻撃を突然にしかけてくると、さあーと引き揚げていく。とみると、この強大な航空兵力をカバーにして、21日には米軍がタラワ、マキン両島に敵前上陸を敢行する。これを迎え撃って日本の機動部隊が、というわけにはいかないのである。日本の空母航空部隊の再建はいまだ成らず。あと3ヵ月は必要、ということは来年2月の終わりにならないと、「決戦」にでることはできなかった。手を拱いたままにマキン、タラワの日本軍守備隊を見殺しにするほかはなかった。またしても玉砕である。それにしても、まず空からの連続攻撃、ついで艦砲射撃、そして上陸という新戦法で、つぎつぎに太平洋の島々に攻撃をかけてきたら……統帥部の参謀たちの背筋には冷たいものが走るばかりである。

 しかし、泣き言ばかりいってはいられないのである。戦いは勝手に止めることはできない。いかなる困難でも克服し、最後の一兵まで戦いつづけねばならない。その断固たる信念をもつ軍部を、その時点で悩ましている大問題は、六つの方面からの米英軍の攻撃ばかりではなく、内にもあった。日中戦争いらいおびただしい兵力を費消してきた軍部は、下級指揮官の不足という深刻な問題に直面している。そこでその補充に最適の人材として、軍部は大学生に白羽の矢を立てていた。かれら大学生は中学に入学してからずっと軍事教練を受けているゆえ、即製で下級指揮官たりえると判断できる。

 9月21日、東条内閣の閣議は、在学中のものは満26歳まで兵役につかなくてもいいとする「徴兵猶予の特典」を取り消す、という決定をした。さらに法文系大学教育の停止と決められる。ここに大学生もまた戦場へと向かう決定がなされたのである。

  それは土砂降りの雨の日であった。1943年の日本を語ってこのことを落とすわけにはいかない。「……生等今や見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉く此の光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。……」。これは東大生江橋慎四郎の答辞の一節である。この「生等もとより生還を期せず」は、当時の老若男女の心に深く響き、いまも記憶する人が多い。ときに1943年10月21日。所は神官外苑である。このとき集結した出陣学徒の数は? 正確には不明である。ほぼ二万五千名といわれている。

 『残日録』に戻ろう。上記の出陣学徒壮行大会の記事が記載されている。それは次のようにまとめられている。

(11)10月21日
雨の出陣学徒壮行大会


「御国の大御宝なのである」

「諸君はその燃え上がる魂、その若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の大御宝なのである。このいっさいを大君の御為に捧げたてまつるは、皇国に生を享けたる諸君の進むべきただ一つの途である。」
 東条英機首相はそう高らかに演説した。

「諸子の心魂には、三千年来の皇国の貴き伝統の血潮が満ちあふれている」
 岡部長景文相も精一杯の大声をだしていった。

 この年の10月21日、秋雨の冷たく降りそそぐ明治神宮外苑競技場でおこなわれた文部省主催の「出陣学徒壮行大会」においてである。東京と近県の大学、高等学校、専門学校と師範学校77校から、2万5千人の学生が勢ぞろいした。スタンドには6万5千人の後輩や女子学生が見送りに集まっていた。

 こうして国家指導者からほめあげられ激励されて出陣した多くの勇者は、往きて還らず、空しく消えた。若ものたちがおだてられ、もちあげられるときは、国のりIダーたちが何事か企んでいるときである。「今どきの若ものは」と、若ものの値段が安いときほど、平和なのであるな、とつくづく思う。

 とうとう学生まで徴兵しなければならなくなった程に切羽詰まっていたて日本は、東南アジア諸国の援助を得ようと企てたが…。

(12)11月5日
大東亜会議の開催


「一つの家族の集まりだ」

 中国は汪兆銘行政院長、満洲国は張景恵総理、フィリピンはラウレル大統領、ビルマはバーモ首相が来日した。だれもがあまり浮かない顔をしていた。タイのビブン首相は健康がすぐれず、という理由をつけ、ワン・ワイタヤコン殿下が代理した。また、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班も臨席する。

 これらアジアの要人を東条英機首相はニコニコ顔で出迎えた。なんども握手させられたホースだけは「これは、一つの家族の集まりだ」と、お追従をいっていた。1943年11月5目、東京で大東亜会議が聞かれたときの光景である。

「米英のいう世界平和の保障とは、アジアにおける植民地搾取の永続化による利己的秩序の維持にほかならない」
と東条は獅子吼したが、だれもが白けた顔をしていたという。

 すでに軍事的に完全に苦境に立っていた日本側は、アジアの盟主としての度量を見せようと盛んにPRしたが、各国は「笛吹けど踊らず」、無意味にして盛大なお祭りであった。

 日本帝国が描いた大東亜共栄圏は蜃気楼でしかなかったのか。

 次に『探索 6』から「大東亜共同宣言」を原文転載する。高らかに共存共栄を謳うなかなかすばらしい宣言だと思うが、これまでに日本からさまざまな苦汁を飲まされてきた東南アジア諸国が此の段になってのこの宣言を信用するわけがない。全諸国からそっぽを向かれて当然である。


大東亜共同宣言(昭和十八年十一月六日)

抑々世界各国カ各其ノ所ヲ得相倚り相扶ケテ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自国ノ繁栄ノ為ニニハ他国家他民族ヲ抑圧シ特ニ大東亜ニ対シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亜隷属化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亜ノ安定ヲ根抵ヨリ覆サントセリ大東亜戦争ノ原因茲二存ス
大東亜各国ハ相提携シテ大東亜戦争ヲ完遂シ大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衛ヲ全ウシ左ノ綱領二基キ大東亜ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立二寄与センコトヲ期ス
一、大東亜各国ハ協同シテ大東亜ノ安定ヲ確保シ道義二基ク共存共栄ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亜各国ハ相互二自主独立ヲ尊重シ互助敦睦ノ実ヲ挙ケ大東亜ノ親和ヲ確立ス
一、大東亜各国ハ相互ニ其ノ伝統ヲ尊垂シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亜ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亜各国ハ互恵ノ下緊密ニ提携シ其ノ経済発展ヲ図り大東亜ノ繁栄ヲ増進ス
一、大東亜各国ハ万邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廃シ普ク文化ヲ交流シ進ンテ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢献ス

              〔日本外交年表並び主要文書〕

 これまでたどってきた通り、どの観点から見ても日本の敗北は明らかである。『残日録』・『探索 6』がともに取り上げていないのだが、この年(1943年)の11月27日に米英中の三首脳(ルーズベルト・チャーチル・蒋介石)がエジプトのカイロで対日戦について協議・発表したカイロ宣言がある。1943年の最後の記事として、それを『史料集』から転載しておこう。


カイロ宣言(日本国に関する英、米、華三国宣言)

 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ。右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
 右同盟国ノ目的ハ、日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界大戦ノ開始以後ニ於テ日本国力奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケルー切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト、並ニ満州、台湾及澎湖島ノ如キ日本国力清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域 ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
 日本国ハ又暴力及貪欲ニ依り日本国ノ略取シタル他ノー切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態二留意シ、軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
 右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ、日本国ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
              〔日本外交年表並び主要文書〕
昭和の15年戦争史(39)

1943年(5)~(10)

 ガダルカナル島撤退後、日本は勝算のない激しい戦争を続ける事になるが、そのための物資の枯渇は明らかだった。政府は2月16日に軍事物資増産のために企業の大整備を命令する。また3月2日には兵役法改定して朝鮮にも徴兵制を布いて、それを8月1日から施行する。こうした挙国一致体勢を補完すべく、国民の戦闘精神を煽ることに躍起となった。1942年には国民決意の標語として、「欲しがりません勝つまでは」などという標語が選ばれていたが、翌年1943年には決戦標語などという代物が打ち出された。

(5)2月23日
決戦標語ができた日


「撃ちてし止まむ」

 1943年が明けて、ガダルカナル島よりの日本軍撤退は確定し、連合軍の猛反攻をうけてこれからは長期的に目算のない"血みどろの戦闘"がつづくであろうことが、大 本営のエリート参謀たちにも明らかになった。

 そこで陸軍省は、この容易ならない戦局を迎えるにさいして、2月23日、決戦標語「撃ちてし止まむ」をきめた。これを大きく掲げることによって不退転の決意を示し、国民に一億総攻撃の精神を奮い立たせる大運動を展開しよう、というのである。

 この標語は『古事記』の神武天皇の御製とされている歌謡よりとった。「……みつみつし 久米の子が 頭椎(くぶつつい)石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止まむ……」とわたくしなんかも暗記させられた。荒ぶるものを平らげて、建国の大業をとげた神武東征の精神にならおう、国民よ、われら皇軍の真の力を信ぜよ、の意である。 このために宮本三郎画のポスター5万枚を作成し、本土はもとより満洲、さらには占領地の中国、南方の各地にまでくばる。負け犬の遠吠えのごとしか。

 戦争中に「欲しがりません勝つまでは」とともに、これほどくり返しとなえられた標語が他にないことは、お年よりならみな知っている。

 余分事ながら「撃ちてし止まむ」の原典を「真説・古代史」補充編の中で取り上げていた。興味のある方はご覧下さい。
『「神武東侵」:八十建だまし討ち以外に戦勝記録なし』

 政府の状況判断も自分たちに都合の良い希望的観測で成り立っていた。

(6)3月1日
軍務局長の拙劣な判断


「米軍は実戦訓練にとぼしい」

 まことにバカバカしい、というよりも情けなくなるようなほんとうの話を記録として残しておきたい。ときは1943年3月1日、場所は衆議院決算委員会において、である。質問に答えて陸軍省軍務局長佐藤賢了少将が、アメリカ軍の実態について「詳細なる解剖を加え」(朝日新聞)て、以下のように答えた。

1、
 米陸海軍はまことに実戦訓練にとぼしい。
2、
 大兵団の運用がはなはだ拙劣である。
3、
 米陸軍の戦術は前近代的なナポレオン戦術であって、多くの欠陥をもつ。
4、
 政治と軍事との連携が不十分である。

 いかがなものか。1943年春といえば、ガダルカナル島攻防戦に敗れ、米軍の大反攻を前に、日本軍はその対策に窮して青くなっていたときなのである。そのときになお陸軍の責任者の閣下がこの浅はかな認識とは。とても正常な判断をもつ人間のいうことではない。

 と批判するはやさしい。いまの日本人もややもすると同様の、自分勝手な妄想にとらわれてはいまいか。空中に楼閣をきずくを常としてはいないか。

 日本政府が根拠なしの情報で侮っていたアメリカ軍は周到な情報収集とそれに基づく綿密な作戦で、アメリカ軍が最も畏れていた(日本軍にとっては最も頼りにしていた)山本五十六大将を亡き者にしている。

(7)4月18日
山本五十六機撃墜される


「"孔雀"は撃墜された」

 米太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツ大将は、
「気がかりはただ一つ、日本海軍のなかに、山本よりさらに有能な指揮官がいるかどうか、ということだ」
といった。情報参謀レイトン中佐の
「日本が山本を失うことは、アメリカがニミッツ大将を失うと同様です」
という答えを聞くと、ニミッツはやっといった。 「よし、山本を仕とめることにしよう」

 すでに暗号解読により、山本五十六連合艦隊司令長官の飛行予定の全容をつかんでいる。山本は六機の護衛戦闘機しかつれていない。絶好のチャンスとも、恐るべき罠とも思われる。それで慎重の上にも慎重に検討して、山本機撃墜を決断したのである。

 1943年4月18日、予定された時刻に、予定された地点で山本機を待ち伏せて攻撃、米軍は撃墜に成功した。作戦を直接指揮したハルゼイ大将は、
「攻撃隊員に祝意を表す。獲物袋の鴨のなかに、孔雀が一羽まじっていて撃墜された」
と大喜びの電報をニミッツに打った。

 以降、悲惨な戦闘が続けられる。

(8)5月12日
アッツ島に米軍上陸


「玉砕」

 戦時下の日本人がはじめて"玉砕"というつらい言葉を聞いたのは、1943年5月30日の大本営発表においてである。
「アッツ島守備部隊は、5月12日いらい極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵にたいし血戦継続中のところ、5月29日夜……全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む」

 中学一年生の私はこのとき"瓦全(注:何もしないでいたずらに身の安全を保つこと)より玉砕"という死の教訓を、先生からしっかり植えこまれた記憶がある。カワラとなって生きのびるよりも、玉となって砕けん、それが日本人らしい生き方であり死に方なんであると。

 この悲惨な戦闘がはじまったのが5月12日、日本軍二千五百人の守るアッツ島に、大艦隊の支援のもと、米軍一万一千が上陸してきた。この日、大本営は守備隊に撤退命令を発したが、もちろん届かなかった。

 昭和天皇は、玉砕の報に怒りをあらわにした。
「このような事態になるとは、前から見通しがついていたはずである。しかるに5月12日に敵が上陸してから一週間かかって対応措置が講ぜられたとは……」

 こうした天皇の談話に接する度に、私はいい気なもんだぜ、という思いを禁じられない。「このような事態になるとは、前から見通しがついていた」のなら、その段階で終戦への道を考えるべきだったのではないか。『探索 6』に「大元帥憂悩」(参謀本部編)という記事があるが、それによると天皇には戦況が全て上奏されているし、それらについて感想や意見をを述べている。また、次の記事が示すように、戦争遂行に関わる重要事項は全て御前会議で決定されている。その段階で反対することだって可能だったはずだ。

(9)5月31日
「大東亜政略指導大綱」の決定


「帝国領土とする方針は公表しない」

 この項はカットしようと思ったが、歴史的教訓としてやはり残すことにした。

 対米英戦争は、アジアの植民地解放という崇高な目的をもった戦いであった、ゆえに大東亜戦争と呼称すべし、と抗議の手紙をよこす人が、いまもときどきいる。わたくしが太平洋戦争といつも書いているのが気に入らないらしい。わたくしは、この対米英戦争を自存自衛のための戦争と位置づけている。「開戦の詔書」はそう明記している。

 そして、われら国民の願いとは無関係に、当時のリーダーたちがとんでもないことを意図していた事実があることも指摘しておきたい。

 1943年5月31日、御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」の第六項である。
「マレー・スマトラ・ジヤワ・ボルネオ・セレベス(ニューギニア)は、大日本帝国の領土とし、重要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。……これら地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」

 アジア解放の大理想の裏側で、公表できないような、夜郎自大な、手前勝手な、これらの国々の植民地化を考えていた。この事実だけは、二十一世紀への伝言として日本人が記憶しておかねばならないことなのである。

 このシリーズを始めて以来、戦争と戦争を起こし推進する1%への憎悪はますます大きくなってきたが、それでも次のようなエピソードに接すると、良くやったと喝采を送りたくなる。

(10)7月11日
キスカ撤退作戦の成功


「帰ろう。帰ればまた来れる」

 五月末のアッツ島玉砕以来、同じアリューシャン列島のキスカ島の日本軍守備隊は、アメリカ艦隊によって完全に包囲された。このまま放置すればアッツ島同様に守備兵五千百八十七名をみすみす全滅させなければならない。何とか救出できないか。

 この撤退作戦の重責を任されたのが木村昌福(まさとみ)少将。木村は、困難な任務の成否を分かつカギは、北方特有の濃霧にあるとみた。霧を隠れみのとして、米艦隊の包囲を突破し、日本軍の撤収を完了させることを決意した。

 1943年7月11日、大本営命令によって、それがキスカ湾突入ときめられた日である。ところがこの日、霧が晴れてしまう。突入できない。木村は15日まで待ち、ついに作戦実行を中止した。
 「帰ろう。帰ればまた来ることができるから」

 泊地まで帰った木村を待っていたのは臆病者という非難であった。しかし木村は動ぜず、魚釣りや碁に熱中してチャンスを待った。

 この、確信できぬ作戦は行わない、汚名などくぞ食らえとする木村の信念が、海戦史に輝く撤退戦(7月29日)を成功させた。