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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(38)

1943年(1)~(4)

 前回、太平洋戦争の主導権が米軍の手に渡る切っ掛けとなった「ミッドウェイ海戦の敗北」に至るまでの経緯を知るために『昭和史探索・6』からその部分を転載したが、その最後の一節を再録する。
『1942年6月のミッドウェイ海戦が戦争の運命を決めた戦いと呼ばれるのはその意味でまことに正しい。この日本の敗北を機に戦闘の主導権は米軍の手に渡った。短期決戦による講和の道は厚く閉ざされ、これから後は日本が(とくに海軍が)恐れていた物量対物量の消耗戦に否応なく引き込まれていくことになる。このあまりにもむごい戦闘の典型が、8月上旬から戦われたガダルカナル島攻防戦であった。』

 この一節に続く節では1943年に入ってからの太平洋戦争の概略が記述されている。『残日録』の1943年に入る前にそれを読んでおこう。


 この戦い(ガダルカナル島攻防戦)では日米両軍ともありったけの戦力を投入し、がっぷり四つで戦った。結果として、日本軍はたくわえてきた戦力(とくに航空機と駆逐艦)を使い果たして一本の飛行場争奪戦に敗れた。そして1943年2月、ガ島撤退。4月、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死。いよいよ戦況は不利となり、12月、学徒出陣。そしてこの年2月、陸軍省は決戦標語「撃ちてし止まむ」を採用、国民の戦意を煽ったが、南の島々では死して後(のち)止むの玉砕につぐ玉砕と、ただ敗戦を重ねていく一途となる。

 この間にも、アメリカ軍の"東京への道"はその強大な工業力・資源力に支えられ急速に押し広げられていく。ソロモン諸島づたいにフィリピンという陸軍の作戦構相 に対して、海軍は新編成された最強の機動部隊を駆使して、中部太平洋の島づたいに攻めのぼるという遠大な計画をうちたてた。その第一歩が11月のタラワ、マキン攻略戦である。強大な空母航空部隊が制空権を奪い、つづいて戦艦・巡洋艦群の艦砲射撃、そして海兵隊の上陸という島嶼作戦の公式はここにはじまるのである。

この日米戦争も含めて、1943年の第二次世界大戦の主な出来事は次の通りである。
2月
 ・ガダルカナル島撤退
 ・スターリングラードの戦闘終結
4月
 ・山本五十六戦死
5月
 ・日本軍守備隊、アッツ島で玉砕
6月
 ・学徒動員体制
7月
 ・ムッソリーニ逮捕
9月 
 ・伊、無条件降伏
 ・蒋介石、国民政府主席に
11月
 ・カイロ会談(米・英・中)
 ・テヘラン会談(米・英・ソ)

 さて、『残日録』の1943年の記事を読んでいこう。

 これまでに日本の戦時国家によるバカバカしいほどの禁止令や規制通達が取り上げられてきたが、1943年の第1記事は次のような禁止令である。

(1)1月13日
敵性国家の音楽禁止


「星は陸軍の象徴である」

  坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というまことに日本人的なことわざがある。それを地でいったのが、太平洋戦争下の日本人であった。とにかく米英に関係あるものは全部"敵視"したのである。

 1943年1月13日の、内務省情報局の通達はすさまじいの一語につきる。すなわち――。
 米英そのほか敵性国家に関係ある楽曲1000曲をえらびこの演奏、紹介、レコード販売の全てを禁止する。

 ショパンの曲は?
かれはポーランド人で、いまそんな国はない。
 ドビュッシーはフランスの作曲家、いまフランスはドイツに降参しているからOK。
などというアホな議論がさんざん戦わされたあとの1000曲であった、という。ジャズやブルースは、もちろんもってのほか。
 ついでに歌謡曲「煌(きら)めく星座」(男純情の愛の星の色……)にもクレームがついた。
「星は帝国陸軍の象徴である。その星を軽々しく歌うことはまかりならん」

 おかげで日本の音楽は、軍国歌謡ばかりに……。わが人生にクラシックがまったく無縁であるのはそのためであって、音痴のためには非ずなんである。

 第二次世界大戦のヨーロッパ前線では次のような進展があった。

(2)1月14日
カサブランカ会談の決定


「無条件降伏あるのみ」

 ロンメル将軍指揮のドイツ戦車軍団を、アフリカ戦線エルアラメインで撃破した連合軍の意気は大いにあがった。これで「勝利はわが手に」を確信した米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルは、モロッコのカサブランカで、1943年1月14日に秘密裡に会談した。このとき、米大統領は、一つの政策を明示した。
「世界平和は、ドイツと日本の戦争能力の全面的殲滅(せんめつ)をもってのみ達成可能なのである。われわれはユリシス・グラント将軍という人物をもっている。私や英国首相の少年時代には、かれを"無条件降伏のグラント″と呼んだものだ。ドイツ、イタリア、日本の戦争能力の除去は、その無条件降伏と同義である。住民の殲滅を意味はしないが、三国のイデオロギーの殲滅を意味する」

 第二次大戦は、このルーズベルトの「無条件降伏政策」によりふり回された。話し合いによる条件つきの講和や休戦はない、あるのは無条件降伏のみ。そこから「負けたら男は奴隷、女は妾(めかけ)」という逆宣伝が日本にはやる。それをまた日本国民は信じた。それが戦争終結への道を大きくはばむことになるのである。

 ソ連に攻め入って苦戦していたドイツ軍のその後は次の通りである。

(3)2月2日
スターリングラード戦終わる


「貴官を元帥にする」

 退路を絶たれ、包囲されたまま激闘すること1ヵ月以上、約束された空中補給はほとんど届かなかった。

 ドイツ第六軍の軍司令官パウルス大将は、総統ヒトラーによって降伏することは禁じられ、最後の一兵まで闘うことを命じられていた。しかし、食糧も弾薬もつきかけている。スターリングラード攻防戦が1942年7月17日にはじまって、文字どおり血みどろの"家一軒ごとの"争奪戦をつづけてきたのである。優勢だったドイツ軍は、25万の兵力が9万になるまで戦って、いまや全滅の危機にひんしていた。

 パウルスはヒトラーに降伏許可を求める電報を打った。6日後ヒトラーから、「貴官を元帥に昇格させる」という昇進の知らせが送られてきた。ドイツ国防軍には、降伏した元帥はいなかった。が、彼はその電報を破り捨てた。

 1943年2月2日、戦闘は終わる。9万余のドイツ軍がソ連軍に銃を捨てて降伏した。部下を助けたいとするパウルスの決断である。ドイツの落日は、この敗北でいっそう決定づけられ早まった。

 ここにもヒトラーという独裁者の破綻している人格と知性が良く表れている。いま世界中に大きな顔をしている小さな独裁者がいるが、その連中の人格と知性もヒトラーといい勝負をしている。

 さて、太平洋戦争に戻ろう。

(4)2月9日
ガダルカナル島より"退却"


「他に転進せしめられたり」

 太平洋戦争の運命を決する戦闘となったガダルカナル島争奪戦は、日本軍に完全に不利となった。1942年の大みそか、御前会議での天皇の決断があって、ついにが島放棄が決定される。撤退は駆逐艦によって3回にわけて実施され、これを捲土重来(けんどちょうらい)を意味する「け号作戦」とよぶことにした。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、駆逐艦の半数は失われるだろうが、敢行しなくてはならぬと覚悟した。

 1943年2月1、4、7日と3回にわたって実行された撤退作戦は幸運なことに大成功であった。1万652名の将兵が収容され帰ってきた。

「……わが部隊は昨年8月以降、引きつづき上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘よく敵戦力を撃破しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」

 2月9日午後7時の大本営発表である。前にも記したように、日本軍は「転進」の名のもとに、退却の事実を公表した。以後「大本営発表」とは大ウソの代名詞となる。ということは、これ以後は日本陸海軍は一度としてかたなかったという意味である。

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昭和の15年戦争史(37)

1942年(7)~(11)

(7)5月22日
加藤隼戦闘隊長の戦死


「エンジンの音轟々と……」

《 エンジンの音轟々と/隼は征く空の果て
「加藤隼戦闘隊」の歌(田中林平・朝日六郎作詞、原田善一・岡野正幸作曲)を、若い人は知らないかもしれない。隼を「はやぶさ」と読むことも、あるいはできないのではあるまいか。

 「加藤の前に加藤なく、加藤の後に加藤なし」といわれた陸軍中佐加藤建夫(たてお)が、イギリス軍爆撃隊と交戦し被弾、ベンガル湾上に自爆、戦死したのは1942年5月22日のことである。死後に2階級特進し「空の軍神」として顕彰される。

 そんな華々しい武人としてより、遺された『陣中日誌』の文字のほうが胸を打つ。

「"オイが死んだら誰が泣いてくりょか、裏の山椒の木、蝉が泣く"。美しき心境かな。ようやく軽く死にたきもの。しかれども予はこれ能わず。これより死に直面せし時、予が覚ゆる唯一の苦痛ならん」
「生者必滅、かつて国語で読みまた書きし語。いまようやく心に銘ず。やがて信念となる日も近からん」

 武人も人間らしく"死"を見つめていたのである。

(8)6月5日
ミッドウェイ海戦の敗北


「驕慢の一語につきます」

 1942年6月5日、中部太平洋ミッドウェイ海域――。

 世界最強を誇っていた日本海軍の機動部隊の主力たる赤城、加賀、飛龍、蒼龍の四空母は、赤黒い炎、黒褐色の煙をふきあげて漂流していた。格納庫にはガソリンを満載した飛行機があり、魚雷や爆弾がごろごろころかっていたため、悲劇的な誘爆がはしまり、手のつけようもなかった。

 私はかつて機動部隊参謀長の草鹿龍之介に面談、敗因を問うたことがある。草鹿は表情を固くして、「驕慢(きょうまん)の一語につきます」といったきり、あとはおし黙った。

 その言のとおり、ミッドウェイ海戦の完敗は、驕慢からくる油断と自分勝手と命令違反にあることがわかる。すべて人のなせることであり、「運命の5分間」などという偶然のせいなんかではなかった。

 また、敵将スプルアンスにも取材したことがある。彼はくり返し語った。「まったくの幸運であった」と。

 日本の敗戦はこのときにはじまる。『大本営秘密日誌』には「知らせぬは当局者、知らぬは国民のみ」と不敵にも記されている。

 太平洋戦争の主導権が米軍の手に渡る切っ掛けとなったこの「ミッドウェイ海戦の敗北」に至るまでの経緯を追ってみよう。『昭和史探索・6』から転載する。


 大日本帝国は、対米英開戦にさいして、どんな戦争終結の構想を描いていたのか。

 開戦直前の1941年11月15日に大本営政府連絡会議は終戦構想について十分に話し合っている。そして、その結論は――、

 初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。

 敏速積極的な行動で重慶の蒋介石が屈伏したとき。

 独ソ戦がドイツの勝利で終わったとき。

 ドイツのイギリス本土上陸が成功し、イギリスが和を請うたとき。
 こうした事態が起きたとき、いかに強力な軍事力を誇ろうが、アメリカは戦意を喪失するであろう、そのときには栄光ある講和にもちこむ機会がある、というのがその骨子であった。とくに③と④とはかならず近く実現するものと信じた。ゆえにわれに勝算が必ずあるものと見積もった。要するにドイツの勝利をあてにしたのである。

 ところが歴史は皮肉そのものなのである。12月8日、日本の機動部隊が真珠湾攻撃であげた大いなる戦果に日本人が有頂天になっているとき、頼みのドイツ軍はモス クワ正面の戦線で、おりからの吹雪のなかに総退却を開始していた。つまり、事実として、この戦争でのドイツの勝利は夢のまた夢と化しはじめていたのである。

 はたして日本の指導層にそうした厳しい認識があったかどうか。
 開戦後の6ヵ月、"ナイフでバターを切るようなやさしさ"で南方攻略作戦は進んだ。字義どおり連戦連勝である。指導者(とくに陸軍)は、この戦争をこれまでどおり敵の名の「対米英戦争」、または戦場となる場所の「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」と呼称することにした。表面の理由は、日支事変もこれに加えて、ということであったが、実はソビエトとの一戦を構想に描いていたのである。全アジアを舞台にした戦争の意である。それ以前の対米英戦争など、いわば朝飯前という驕慢が底に流れていた。緒戦の凱歌により軍部は"無敵"の宣伝をみずから信じてしまった、というほかはない。

 1942年6月のミッドウェイ海戦が戦争の運命を決めた戦いと呼ばれるのはその意味でまことに正しい。この日本の敗北を機に戦闘の主導権は米軍の手に渡った。短期決戦による講和の道は厚く閉ざされ、これから後は日本が(とくに海軍が)恐れていた物量対物量の消耗戦に否応なく引き込まれていくことになる。このあまりにもむごい戦闘の典型が、8月上旬から戦われたガダルカナル島攻防戦であった。

 そのむごい戦闘「ガダルカナル島攻防戦」関連の記事を『残日録』から取り出して見よう。

(9)10月18日
猛牛ハルゼイ、ソロモン戦線へ


「リメンバー・パールハーバー」

 8月いらい、ガダルカナル島の一本の滑走路の争奪をめぐって、日米両軍は死力をつくして戦いをつづけた。前進基地のラバウルから片道1000キロ、零戦の航続距離いっぱいの戦いで、日本軍の不利は否めなかった。が、実は米軍の総指揮官ゴームレイ中将はひどい損耗をうけ、上層部に撤退を意見具申するほど抗戦意欲をなくしていた。

 その弱気のゴームレイに代わって"ブル"(猛牛)の異名をもつハルゼイ中将がこの南太平洋方面の全指揮をとることになったのが1946年10月18日。大袈裟にいえば、昨日までのヨレヨレとはまったく別の、元気横溢の頑強な軍隊がガ島に布陣することになった。兵は指揮官によっていかようにも変貌するのである。

 ブル・ハルゼイの第一声は「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、そしてジャップを殺しつづける。それだけだ」という闘志溢れるものであった。

 それを受け「リメンバー・パールハーバー」すなわち真珠湾の仇を討て、をいまや合言葉に、ガ島の将兵は、俄然、日本兵を全員殺すまで戦い抜くという勢いで歯向かってきた。結果論でいえば、ハルゼイの赴任は日本軍にとって最高に不幸なこととなった。

 やかて口から口へと広まり、それは全アメリカ人の一大スローガンとなっていった。

(10)11月12日
第三次ソロモン海戦


「戦艦の世紀・最後の一戦」

 日露戦争の日本海海戦、第一次世界大戦のときのジュットランド海戦によって象徴されるように、20世紀初頭は、戦艦が海戦の主力で巨砲を撃ち合って勝者が制海権を獲得した。つまり20世紀は依然として「戦艦の世紀」がつづいていた。

 ところが、太平洋戦争においてはすっかり様相が変わった。大鑑巨砲は時代遅れとなり、空を制するものが海もまた制した。巨艦も飛行機の攻撃の前に「不沈」を誇るわけにはいかなくなり、主役は空母に代わった。

 その太平洋戦争において、戦艦同士が巨砲を撃ち合った海戦がある。ガダルカナル島の争奪をめぐって、1942年11月12日から15日にかけて3日間戦われた第三次ソロモン海戦である。

 日本海軍は比叡、霧島の古老の2隻。米海軍はワシントンとサウス・ダコタの新鋭の2隻。
 とくに比叡沈没後の霧島の奮戦は、敵戦艦2隻を相手に見事であった。至近弾を含めて受けた砲弾75発、うち直撃9発をうけ火に包まれた(後に自沈)。狭い海峡で近距離での砲撃戦であったため、主砲をほとんど射出ゼロの状態にして日米の戦艦は撃ち合ったのである。まことに凄まじい戦いであった。

(11)12月31日
ガダルカナル撤退の決定


「年末も年始もない」

 1942年12月27日、参謀総長杉山元大将はありのままを昭和天皇に報告した。ガダルカナル島ではとくに食糧不足が極度となり、木の芽や草の根で将兵は露命をつないでいる状況であり、空中補給すらもできない危機にあると。翌日、侍従武官長を通し天皇の言葉が大本営に伝えられてきた。
「事態はまことに重大である。このガ島危機をいかにするかについて、大本営会議をひらくべきであると考える。このためには年末も年始もない。自分はいつでも出席するつもりである」

 軍の最高統帥者としての天皇の失望と怒りとが、この強烈な言葉にこめられている。12月31日午後2時から、宮中の大広間で御前会議がひらかれ、ここにやっとがガ島奪回作戦が中止され、陸海協同し、あらゆる手段をつくして在ガ島の部隊を撤収することがきまった。

 そして翌年2月に実施された撤退作戦は奇跡的に成功する。 悲惨な餓死の運命からまぬかれ、救出された将兵は1万6百52名。大本営はこれを「撤退」ではなく、新らしい戦場への「転進」と発表した。

 「撤退」を「転身」と姑息な言い換えをしているが、これは1943年の記事で改めて取り上げられる。
昭和の15戦争史(36)

1942年(1)~(6)

 1942年1月に連合国26ヵ国の共同宣言が採択され、第二次世界大戦は文字通りの世界大戦となった。国際的には第二次世界戦争と呼ばれているが、日本とアメリカの主戦場は太平洋だったので、日本では一般には「太平洋戦争」と呼んでいる。このブログでは記事の内容に則して使い分けていくことにする。

 1942年に於ける第二次世界大戦の主な出来事は次の通りである。
1月
 ・連合国26ヵ国の共同宣言
2月
 ・シンガポール陥落
4月
 ・米艦載機、東京や名古屋等を初空襲
5月
・英、独空襲
6月
 ・ミッドウェー海戦
8月
 ・米海兵隊、ガダルカナル島上陸
12月
 ・原子核分裂成功
 ・この頃、独、ポーランドのアウシュヴィッツ等でユダヤ人を大量虐殺

 戦争に本格的に突入すれば、国家は見境無く戦費調達のためのあの手この手を使いまくる。まず、こんな手を使ってきた。

(1)1月20日
衣料切符制の実施を決定


「背広50点、ツーピース27点」

 暖衣飽食の世である。住はともかく衣食に関して日本中どこでも、これがなくて困るというものがない。そんないい時代に生まれ育った人たちには、およそ想像もできない一つの事実を、記録として残しておきたい。「ぜいたくは敵だ」として、着るものがすべて点数制できめられ、よう買えなかったという話である。

 戦時下の日本、何から何まで不足で、1942年1月20日、衣料切符が交付されることになった。都市居住者は1年に100点、郡部の居住者は80点、この点数内で衣料品の購入がみとめられた。
 背広三つ揃・50、ツーピース・17、袷(あわせ)きもの・48、単衣・24、学生オーバー・40、スカート・12、ブラウス・8、Yシャツ・21、ズロース・4、セーター・20、靴下・2、パジャマ・40、毛布・40、敷布団・24、掛布団36、タオル・3。
 ただし結婚する女性は別に500点がとくに増配された。

 いかがなものか。平和をおう歌していい気になってばかりいると、またこんな時代が到来しないとも……。

 戦費を集めても、金では手に入らない戦時品もある。

(2)2月14日
パレンバン降下作戦


「見よ落下傘、空を征く」

 戦争中にしきりに歌われた軍歌のなかに、「空の神兵」という名曲(?)がある。いまでもお年寄りが死者への鎮魂の思いをこめて歌っている。
 < 真白きバラの花模様……見よ落下傘空を征く
 梅木三郎作詞、高木東六の作曲であるが、この陸軍落下傘部隊がスマトラ島パレンバン一帯に降下しだのが、開戦まもない1942年2月14日。目的は、東南アジア第一 の油田地帯と製油施設とを、オランダ軍が破壊する以前に占領し、確保しようというもの。太平洋戦争のいってみれば生命線を守らんがための奇襲である。アメリカに石油輸出をとめられた日本帝国としては、東南アジアの石油確保なくしては、戦争の長期継続は不可能なのである。

 ところがこの降下作戦は軍歌のように、きれいに明るい戦いというわけにはいかなかった。目標の周辺はジャングルあるいは大湿地帯で、ようやく降下しても武器が手に入らず、身につけていたピストル一丁で戦わねばならぬ兵も少なくなかった。

 「3人集まったらちゅうちょなく突進」の約束に従い小集団が製油所や飛行場に捨て身でとっしんしていった。こうして将兵300人見事に作戦を成功させた。

(3)2月15日
シンガポール陥落す


「イエスか、ノーか」

 紀元節(2月11日・現建国記念の日)までに攻略すべく、2月8日に火ぶたを切ったシンガポール攻略戦は、イギリス軍の頑強な抵抗に少なからず悩ませられた。守る英軍に比して、攻める日本軍はあまりにも寡兵である。それに十分な補給もない。それだけに、英軍司令官パーシバル中将以下が白旗をかかげて、最前線に姿をみせたときは日本軍もホッとするものがあった。日本軍の弾薬は底をつきかけていた。

 軍司令官山下奉文(ともゆき)中将は、ただちにブキテマ高地北方の自動車工場で、パーシバル中将と会談した。ここで山下が「無条件降伏、イエスか、ノーか」とテーブルを叩き大声でせまった、ということになっている。しかし、それは山下自身がのちのちまで喜ばなかった戦意高揚のための作られた話であったのである。
 原因は通訳にあった。英軍が連れてきた通訳は日本語がへたで、さっぱり意が通じなかった。山下はそれにいら立ったのである。イエスかノーかもわからん、もっとはっきり通訳せよと。

 1942年2月15日は、山下にとっては栄光の日とともに、心ならずも痛恨を歴史にとどめた日でもある。

(4)2月22日
作家ツヴァイクの自死


「理想はつねにゆがめられる」

「あらゆる政治運動というものは、人間的なものからみれば、つねに陰惨で暗澹とした色彩を有す。どのような高尚な理想であっても、現実の地上に具体化された場合には、つねにその理念の姿はゆがめられている」

 オーストリアの作家ツヴァイクの言葉である。作品『マリー・アントワネット』のなかにでてくる。恐ろしい言葉である。二十世紀を通して現実の世界政治をみていると、まったくその通り、と思いたくなる。理想や理念はいつも消される。汚される。そうであればあるほど、人類の明日が信じられなくなってくる。

 第一次大戦そして第二次大戦と、二十世紀は、ヨーロッパにおいては殺りくと暴行のつづく戦争の世紀であった。彼は絶望した。その上に、穏やかであったアジアもまた戦火に。かくて全地球が燃え上がった。1942年2月「日本軍がシンガポール占領」の報をみて、彼は自死を決意する。

 2月22日深更、
「長い長い夜の後で、必ずや曙光を見ることができるでしょう。あまりにもせっかちな私は、先立って参ります」
という遺書を残し、自殺した。

 絶望的な殺戮が大手を奮う戦争時代に、「必ずや曙光を見ることができるでしょう」という思いを持ちながらも自死を選んだツヴァイクさんの絶望の深さを思えば何ら批判的なことは言えないが、そうした絶望の中でも闘っていった人たちもいた。私ならどうするか。薄っぺらい今の私には答えるすべがない。

(5)4月18日
ドウリットル爆撃隊の初空襲


「抑留同胞に悪影響を及ぼす」

「わが軍の防御は鉄壁であり、本土爆撃ということなどありえない」

 日本陸軍は、太平洋戦争がはじまってからも常に豪語していた。ところが、この年の4月18日、東京、名古屋などが初空襲されたのである。

 犬吠埼のはるか東方の洋上、空母から飛び立ったのはドウリットル中佐指揮のB25爆撃機16機。これが不意をついて日本本土上空に飛来した。被害は軽微であったが、国民には恐怖を与え、陸軍の面子は失われた。

 ところが、中国本土でB25二機が日本軍陣地付近に不時着し、陸軍は搭乗員8名(2名戦死)を捕虜にした。こうなると陸軍中央部はがぜん勇み立つ。米軍機は一般市民も銃撃し殺傷したゆえ、戦時国際法違反である、全員死刑にすべし、の声がいっぺんに高まった。

 待ったをかけたのが東条英機首相兼陸相である。
「それはいかん。米国に抑留されている同胞に、非常な悪影響を及ぼす」
 さらに東条は昭和天皇にかけこみ訴えをして、やっと死刑は直接銃撃した三人にとどめることができたのである。

 敗戦間際以前にアメリカ軍による本土への空襲があったことなど、私は全く知らなかった。

 私は戦争そのものを憎むし、戦場に駆り出された人や空襲で殺された人たちたちの死を深く悼む。そして国際法を全く知らないくせに口出しをすれば、東条の「待った」は正しいと思うが、「直接銃撃した三人」も同じ捕虜として扱うべきではなかったか、と思う。

(6)5月8日
灯火取締規則の制定


「非国民め!」

 ごく最近の世界をみても、コソボ虐殺をめぐるユーゴにたいするNATO軍の昼夜にわたる猛爆。アフガニスタンやイラクヘの米英空軍の大空襲。地球は絶えずどこかで火を噴いている。空襲警報のサイレンの鳴る下に、灯火管制をした市街の様子がTVに映るのを眺め、われらの生活も昔はああであったと、いささかの感慨にふけることがしばしばである。

 高齢化社会ゆえ、記憶する人も多いと思うが、太平洋戦争下の日本には灯火取締規則という法令があった。要は敵の空襲に備えて、家庭で使用している電灯の光を直接外部にもらしてはならぬ、というものである。1942年5月8日に制定された。

 そこで各家庭は電灯の笠を黒い布でおおって、光が窓外にもれぬよう細心の注意をはらった。それでなくても暗い世相、みんなが真っ暗な中で呼吸をひそめて生きていた。光を外にもらそうものなら、「非国民め!」と糾弾される。それはひとり暗やみにおかれるように、怖いことであった。そんな時代が二度と来るとは思わぬが。

 何度も言うが、私はそんな時代がまた来るという大きな危惧に囚われて、「昭和の15戦争史」を始めた。
昭和の15戦争史(35)

1941年(15)~(19)

「ハル・ノート」を突き付けられて、日本の支配階級内ではどのような議論が交わされていったのか。

(15)11月29日
対米戦争、最後の重臣会議


「理想のため国を滅ぼすな」  11月26日の「ハル・ノート」によって、東条英機内閣は「日米開戦もやむをえない」と最終的決意をかためた。そして昭和天皇の「重臣たちの意見も聞くように」との意向をうけ、この年の11月29日に、重臣会議が皇居内でひらかれた。首相経験者8人の重臣が出席した。東郷茂徳外相の
「もはや交渉による妥結は不可能である。すなわちアメリカは対日戦争を辞せずとの考えである」
という説明をうけて、かれらは最後の討議を熱心にかわした。

 戦争突入に反対の意見をのべたのは、若槻礼次郎、岡田啓介、米内光政の三重臣である。とくに若槻と東条の論戦は歴史に残る。自存自衛のために戦うというのならともかく、八紘一宇といった理想のために目をくらましてはならぬ、と説く若槻に、東条は反発した。
「理想を追うて現実を離るるようなことはせぬ。が、理想をもつことは必要だ」
 若槻はびしりといった。
「理想のために国を滅ぼしてはならぬ」と。

 結果は、夢想に近い理想のために国を滅ぼした。

 つまり、日本は対英米戦争の開戦を決定した。  日本が対米英戦争を決定したが、同盟国のドイツは対ソ連戦で苦戦をしていた。

(16)12月5日
ドイツ軍の退却がはじまる


「寒さで部隊の力が尽きた」

 日本はナチス・ドイツのヨーロッパ戦線での勝利をあてにして、ついに対米英戦争の開戦を決定した。12月2日の御前会議において。  その三日後、すなわち1941年12月5日、モスクワからわずか30キロの地点にまで攻め入ってきたドイツ国防軍は、後方からの補給も杜絶した上に、ソ連軍の猛烈なる反撃をうけて後退を開始、勝利の目はなくなっていた。まさしく歴史の皮肉とはこのことである。

 ソ連軍の反撃のはじまったこの朝、寒風吹きさらしの台地に、ロシアのきびしい冬がきており、マイナス50℃にまで気温は下がった。ソ連軍は冬の装備を完ぺきに調えていた。ドイツの猛将グーデリアン将軍はいった。
「燃料供給困難と寒さで部隊の力が尽きた。各連隊は凍傷ですでにそれぞれ500人は失っており、寒さのため機関銃は火を噴かなくなり、対戦車砲は発射せず、ソ連のT34戦車にたいしては無力となった」

 ヒトラーの「断固として現在位置で抗戦せよ」の命令も空しくなり、電撃作戦による「無敵ドイツ」の華々しい歴史は終わる。

 浅い知識しか持たなかった私は対英米戦の開始は日本の真珠湾攻撃から、と思い込んでいたが、同じ日であるがその前に西太平洋で戦闘が始まっていた。

(17)12月8日
対米英戦争開戦の日


「無念の思いを哨らすとき」

 1941年12月8日午前7時。ラジオは大本営陸海軍部発表の臨時ニュースを報じた。
「午前6時発表――帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

 この日のことを、いまなおくっきりと思い描ける人も少なくはないであろう。小学校5年生であったわたくしはほとんどの大人たちが、小学校の先生たちが、晴れ晴れとした顔をしていたことを記憶している。

 この日、評論家の小林秀雄は
「大戦争が丁度いい時に始ってくれたという気持なのだ」
といい、亀井勝一郎は
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であった。……維新いらい我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来た」
と書き、作家の横光利一は、
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝った」
と感動の文字を記した。

 この人たちにしてこの感ありで、ほとんどの日本人が気も遠くなるような痛快感を抱いた。この戦争を尊王攘夷の決戦と思ったのである。なんでまた、といまは思うが。

 いわゆる知識人と呼ばれる人たちのこの体たらくぶりに私はビックリしている。わずかな人を除いて日本中が沸き返っていたのだ。

 現在を新たな戦争前の状況という認識から「昭和の15戦争史」を始めたが、現在の日本人もいざ戦争となると15年戦争時と同じ振る舞いをしてしまうのだろうか。いや、それ以前に、戦争を企む1%階級から権力を奪還しなければ、と考える人が多数を占めるようになるのだろうか。私はなんとも心許無い状況だと思っている。

(18)12月8日
ルーズベルト米大統領の演説


 「だまし撃ち」  開戦初頭、わが機動部隊は米軍港の真珠湾を奇襲攻撃した。これに関連する名言として、「ニイタカヤマノボレ 十二〇八」(開戦日は12月8日と決定す、予定通り行動せよ)とか、「トトトトトト」(全軍突撃せよ)とか、「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)とか、のちに広く知られるようになった暗号文がある。

 が、日本人にとって教訓とすべきは、12月8日午後1時(日本時間9日午前3時)ルーズベルト米大統領が上下両院合同会議で読み上げた教書のなかの一文であろう。
「12月7日は汚辱のなかに生きる日であります。(略)日本の航空隊がオアフ島を爆撃してから一時間後に、日本大使とその同僚は、最近のわが提案への公式回答をもって国務長官を訪問したのであります。(略)日本とハワイ間の距離を考えると、日本の攻撃が何日も、いや何週間も前から計画されたことは明かです。日本政府は、謀計によりアメリカをだまし撃ちにしたのであります」

 この「汚辱の日」(the day of infamy)、「だまし撃ち」(trecherous attack)、この二つの言葉が、アメリカ国民を団結させ、奮起させたことは事実である。日本国民はその無通告攻撃という汚名を永遠に雪ぐこともできないでいる。

 『残日録』は1941年の最後の記事で戦艦大和を取り上げている。

(19)12月16日
巨大戦艦大和の竣工


「質をもって勝たねばならぬ」

 1941年12月16日、対米英戦争の開戦に遅れること8日、世界最大の戦艦大和が竣工した。航空第一主義の山本五十六連合艦隊司令長官も、その雄姿をみて思わず
「ウム、あるいはこの艦があれば……」
とうなったという。

 基準排水量6万2315トン。全長263メートル、幅39メートル。46センチ主砲九門。でっかい主砲は富士山の二倍の高さを飛び、42キロ先の厚さ40センチの鋼板をぶち抜く。乗組員2500名。

 こんな超強力な大砲をのせる巨大な戦艦を、1937年11月起工いらい5年、なけなしの予算をはたいて日本が建造したのも、アメリカにはパナマ運河を通らねばならぬ 制約があって、幅33メートル以上の艦は造れない。つまり大艦巨砲の艦隊決戦でだんぜん優位にたてるからである。

 「国富の差は量ではかなわぬ、質をもって勝たねばならぬ」という貧乏国日本の海軍の悲願にもとづいたものであった。

 しかし戦争がはじまると大艦巨砲はもはや時代遅れになっていた。飛行機の時代が訪れていた。不沈艦というものは幻影にすぎなかった。

昭和の15戦争史(34)

1941年(10)~(14)

 次の記事はソ連に侵攻したドイツ軍に抵抗したレニングラードの人たちのエピソードである。

(10)9月8日
レニングラード包囲さる


「都市がまるで交響楽だった」

 ソ連第二の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)は、フィンランド湾の奥まったところにある。西に軍港があり、戦略上のそもそもから、ドイツ軍には魅力的な獲物としてみられていた。

 1941年9月8日、進攻したドイツ軍はこの大都市を完全に包囲した。ところが、ここで300万以上の市民とそれ以上の軍人が閉じこめられながら、実に900日にわたる一大攻防戦を頑張り抜いた。

 この凄惨な戦いのなかに消防隊員として奮戦しつづけた作曲家がいる。ショスタコービッチである。彼は戦いながら第七交響楽を完成させた。その第一楽章の、小太鼓の猛烈な連打は、戦場の体験そのままであったのかもしれない。

 戦後に観たソ連映画「レニングラード交響楽」の感動も記憶に残る。戦線のいたるところから、戦っている演奏家たちが呼び集められる。彼らの奏でる曲が電波にのって流れ、反撃のさかんなる意思を歌いあげた。戦士がいう。
「一つの都市がまるで交響楽のようだった」と。
 まさにそんな感じの映画であった。

 さて、日本に戻ろう。

(11)10月18日
東条内閣の成立


「虎穴に入らずんば……だね」

 1941年10月18日、近衛文麿が突然に内閣を投げ出し、東条英機内閣が成立した。日米交渉がいよいよせっぱつまり、和戦の関頭に立っているとき、なぜ対米強硬派の東条が首相に選ばれたのか、近代史のナゾの一つである。 『東久邇日記』にある。
「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首班に推薦し、天皇陛下がなぜご採用になったのか、その理由がわからない」と。

 木戸の意図は、天皇にたいし忠義一途の陸軍の代表者東条に責任をもたせることによって、陸軍の開戦論を逆におさえこむという苦肉の策であったという。東条なら、自分がうまくコントロールできるという自信が、木戸にはあった。つまり木戸を中心とした宮廷政治のリモコンが、天皇の名を使うことで、天皇に忠誠なる東条にならきくと考えたのである。天皇も、木戸の意図を聞いてそれを採用し、
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」
 と感想をもらした。しかしその虎児は……。

 この誤った人選が日本を対米英戦争にのめり込ませた。

(12)11月5日
対米英戦争を決意した日


「いまがチャンスなのだ」

 11月2日の大本営政府連絡会議のクライマックスはつぎの問答であった。

賀屋興宣蔵相
 「私は米国が戦争をしかけてくる公算は少ないと判断する。結論として、いま戦争を決意するのがよいとは思わない」
東郷茂徳外相
 「米艦隊が攻勢に来るとは思わない。いま戦争をする必要はない」
永野修身軍令部総長
 「来らざるをたのむなかれ、という言葉もある。さきは不明だ、安心はできぬ。3年たてば、南の防備が強くなる。敵艦もふえる」
賀屋
 「しからば、いつ戦争をしたら勝てるのか」
永野
 「いま! 戦機はあとには来ない。いまがチャンスなのだ」

 永野の頭のなかには、海軍力が対米7割を保持していれば負けることはない、という海軍伝統の戦略があった。そして、いまがその7割を保持しているとき。

 こうして大日本帝国は「自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争を決意す」という「国策遂行要領」を決定する。

 1941年11月5日の御前会議で、この国策は正式に決定された。戦争は事実上このときにはじまった。

( 「国策遂行要領」の本文は前回の末尾に掲載した。)

 次の記事は、無謀な戦争を遂行するためには戦力として「少国民」まで徴用使用することを取り上げている。

(13)11月22日
「国民勤労報国協力令」公布


「少国民」

 この年の11月22日、太平洋戦争に日本が突入する直前のこの日、「国民勤労報国協力令」が公布された。議会の審議を必要としない天皇大権で発せられる勅令であっ た。しかも、これは強制命令にはあらず、国家緊急時には名誉と心得て率先協力する義務がある、という注釈がついていた。つまり評論家の小沢信男氏のいう「自発性の強制」というわけである。

 しかも、この年の10月には「青壮年国民登録」が実施されている。男子は16歳以上40歳未満、女子は16歳以上25歳未満(いずれも数え年)で、配偶者のないものはすべて登録させられた。国民の"根こそぎ動員"の準備はここに着々と整えられていたのである。(のち1945年にこれが15歳以上の国民義勇隊となる)

 ついでに書くと、当時「少国民」という言葉があった。16歳未満もまた、戦争遂行のための一種の「予備軍」、小さな戦士なのである。わたくしはこのころは少国民であったが、やがて国民義勇隊員となったわけである。

 かくて敗戦までに徴用されたもの160万人、学徒動員300万人、女子挺身隊47万人に及んだ。「自発性の強制」は国家によって見事に実施されたのである。

 アメリカの中立主義の見直し以来行なわれていた日米交渉は相変わらず行き詰まったままだった。日本からは交渉進展を図るため、最終提案として甲案・乙案を提出していたが、それに満足せず、業を煮やしたアメリカはアメリカ側の最終案を日本に突き付けた。この最終案は「ハル・ノート」と呼ばれている。『残日録』からの次の記事はこの「ハル・ノート」が取り上げられている。その記事を読む前に、『史料集』から「ハル・ノート」の抜粋文(ハル・ノートは10項目からなる)を転載しておこう。
ハル・ノート(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)

 合衆国政府及日本国政府ハ左ノ如キ措置ヲ採ルコトヲ提案ス

 合衆国政府及日本国政府ハ英帝国・支那・日本国・和蘭・蘇連邦・泰国及合衆国間多辺的不可侵条約ノ締結ニ努ムヘシ

 日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸、海、空軍兵力及警察力ヲ撤収スヘシ

 合衆国政府及日本国政府ハ臨時ニ首都ヲ重慶ニ置ケル中華民国国民政府以外ノ支那ニ於ケル如何ナル政府若クハ政権ヲモ軍事的、経済的ニ支持セサルヘシ

 両国政府ハ外国租界及居留地内及之ニ関連セル諸権益竝ニ1901年ノ団匪(だんぴ)事件議定書ニ依ル諸権利ヲモ含ム支那ニ在ルー切ノ治外法権ヲ抛棄スヘシ。……

 両国政府ハ其ノ何レカノ一方カ第三国ト締結シオル如何ナル協定モ、同国二依リ本協定ノ根本目的即チ太平洋地域全般ノ平和確立及保持ニ矛盾スルカ如ク解釈セラレサルヘキコトヲ同意スヘシ

(注:団匪事件)
 北清事変(義和団事変)をさす。北京議定書(辛丑しんちゅう和約)で日本は軍隊の華北駐留権を得た。

 それでは『残日録』の該当記事を読んでみよう。

(14)11月26日
「ハル・ノート」の手交


「これからは陸海軍の番だ」

 1941年11月26日、アメリカの国務長官ハルが一通の文書を日本の野村吉三郎大使に手渡した。それは日本の最終提案乙案にたいする返事で、のちに「ハル・ノート」とよばれるものである。10項目にわたる本文の最重要点はつぎの三つである。
  1、中国と仏領インドシナからの日本軍の撤退。   2、日独伊三国同盟の死文化。   3、中国での蒋介石政権以外の政府または政権を支持しない。

 当時の日本の指導層はこれを読んで声を失った。これではこれまでの交渉はなかったと同じことであまりにも強引にして無理な要求として、この文書が読まれたからである。

 とくに中国(Chinaには満洲も合まれていると思った)からの全面的撤退は、日露戦争前の日本に戻れといわれているにひとしい。日本の過去の全否定で、とりようによっては〈最初の一発〉を射たせようとしているとも解釈できた。

 事実、ハルは翌日にスチムソン陸軍長官に
「僕はもうこの問題から手を引いた。これからは君たち陸海軍の番だ」
と語っている。

 最後のハルの談話は敢えて日本を挑発していると読めるが、実際はどうだったのか。詳しく知りたいとネット検索をしたら、『南京事件-日中戦争 小さな資料集』
というとても優れたサイトに出会った。今回の問題だけでなく、「昭和の15年戦争史」に関するいろいろな問題の参考にできると思った。その中から、今回の問題関わる記事を紹介しておこう。
『日米交渉 日本側最終提案』
昭和の15戦争史(32)

1941年(5)~(9)

 「日ソ中立条約」はソ連がドイツの動向を睨んで締結した条約だった。そのソ連の危惧した通り、ドイツはソ連に侵攻する。

(5)6月22日
バルバロッサ作戦の開始


「共産主義者は戦友ではない」

 "壮大な"ともいえるドイツ軍のソ連進攻作戦「バルバロッサ作戦」は、1941年6月22日未明、午前3時15分ごろに開始された。総統ヒトラーは、対ソ宣戦布告を夜明けとともにラジオで流した。
「私は、ドイツ国民とドイツ帝国、そしてヨーロッパの運命を、ふたたび国防軍兵士の手中にゆだねる」
 その叫びに応ずるかのように、153個師団、自動車60万台、戦車3580台、大砲7184門、飛行機2740機の兵力が攻撃に移った。かつてこれほどの戦闘力が一つの戦場に投入された例はない。

 ソ連首相スターリンは、なんども警告されていたにもかかわらず、ドイツ軍の攻撃がそんなに早くはないものときめこんでいた。ソ連軍はいたるところで撃破された。  「ソ連に対するわれわれの任務――すなわち軍を粉砕し、国家を解体する、これを遂行する。共産主義者は後にも先にも戦友ではない。これは絶滅戦なのだ」
 というヒトラーの豪語はまさに実現されそうにみえたのであったが……。そしてわが日本帝国もそれをあてにしたのであったが……。

 このドイツのソ連への侵攻に応じて日本が採った戦略はまたしても姑息なものであった。

(6)7月
カントクエンの発動


「ボタンを押せばいい態勢であった」

 1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻を開始した。情勢の激変に日本のとるべき政略・戦略は?

 ドイツを支援するためにソ連とただちに戦火をひらくべきか、ということで日本陸軍内で白熱の議論が戦わされた。中立条約を結んだばかりであることなど忘れたかのように、これをチャンスとみて、陸軍の大勢は対ソ戦の発動に傾いていった。

 このとき陸軍が準備した対ソ作戦計画は、「関東軍特種大演習」とカムフラージュして呼ばれた。略して関特演、またはカントクエン。こうしてその年の7月上旬から下旬にかけて、陸軍は膨大な赤紙(召集令状)を発行する。演習とは名のみ、事実は本気で開戦するつもりであった。日ソ中立条約をホゴにして。
 元大本営参謀瀬島龍三の証言がある。
「ボタンを押せばいい態勢であった」

 現実には、ソ満国境のソ連軍の戦力減少という根本の条件が整わず、好機きたらずということで9月に計画は中止となる。戦前の日本は条約破棄など屁(へ)とも思わぬ横暴な国家であったのである。

 日本が対米英戦争へと突き進んでいくことになった経緯は次のようであった。

(7)7月28日
日本軍の南部仏印進駐


「石油をとめられては戦争だ」

 日本帝国が対米英戦争へと突き進んでいく道程で、もはや引き返すことのできない崖っぶちに立つだのはいつであったか。いろいろな議論があるが、少なくとも最終的に戦争を決定づけた瞬間として、日本軍の南部仏印(現ベトナム)進駐があげられることに異論はないであろう。

 1941年7月28日、陸軍の大部隊がサイゴンに無血進駐をした。
「好機を捕捉し対南方問題を決する」
という御前会議での国策決定に基づいての軍事行動であった。

 これにたいして日本の南方への進出を断固として許さない、としているアメリカは、直ちに在米日本資産凍結、さらに石油の全面禁輸という峻烈な戦争政策でこれに対応してきた。日米交渉妥協への最後の命綱が切り落とされたに等しい情勢になった。

 陸海軍首脳は、まさかそこまで強硬な戦争政策をアメリカがとるとは予想すらしていなかった。海軍軍務局長の岡敬純(おか たかずみ)少将は、
「しまった。石油をとめられては戦争あるのみだ」
と悔いたが、すべては手遅れである。

 この頃米英首脳は国際社会の未来を構想する会談を行なっていた。

(8)8月14日
大西洋憲章の発表


「世界の将来をより良きように願う」

 1941年8月14日、大西洋上で会見した米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルは、「世界の将来をより良きように願う自分たちの希望にもとづく」8ヵ条よりなる両国の「共通の原則」を発表した。これが大西洋憲章として歴史に残る記録となった。そしてこの原則は現在の国連憲章に、そのまま発展継承されている。


 領土の拡大を望まない。

 民族の自決の権利の支持。

 暴力の犠牲となっている諸民族の解放。

 経済的繁栄の保証。

 社会的安定の追求。

 隷属なき平和の約束。

 海洋の自由、通商および資源にたいする機会均等。

 侵略国(ドイツ)の武装解除と諸国民の新しい国際連合の形成。


 人類の理想とすべきことの堂々たる宣言である。しかも、まだ第二次世界大戦に参戦していないアメリカが、はっきりとナチス・ドイツを敵とみなすことを宣言したものでもある。

 つまりはそのドイツと同盟を結んでいる日本も、いまやアメリカの"敵"となったことが明らかになったのである。

(9)9月6日
御前会議での天皇の発言

(次の本文中に「英蘭」という語句が出て来るが、これは「イングランド」の当て字)

「四方の海みなはらからと……」

1941年9月6日、皇居内の千種の間で御前会議がひらかれた。近衛文麿内閣は大本営と協議した筋書き通りに「戦争を辞せざる決意のもとに」対米交渉を行い、「十月上旬にいたるもなおわが要求を貫徹しうる目途なき場合においては、ただちに対米(英蘭)開戦を決意す」という国策を決定する。

 10月上旬まで、9月6日から1ヵ月しかない。この間に外交交渉がまとまらなければ、対米英戦争に突入するというのである。しかし、この年の春いらい紛糾するばかりで、一歩も明るい方へ進まない日米交渉が妥結すべくもないことは、だれの目にも明白であった。太平洋戦争はこのときにはじまった、といっていいのである。

 御前会議では、天皇は憲法にのっとり「無言」を守ることになっている。しかし、このときにかぎり昭和天皇はポケットより紙をとりだし、これを詠んだ。
「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
 明治天皇の御歌である。そして「なお外交工作に全幅の努力をするように」といった。

 天皇にできるそれが精一杯のことであった。が、昭和天皇の平和愛好の気持ちが空しくなるのは、歴史の示す通りである。

 9月6日の御前会議で決定した国策は「帝国国策遂行要領」と呼ばれている。本文と別紙から成るが、本文を『探索5』から転載しよう。
 帝国は、現下の急迫せる情勢、特に米英蘭等各国の執れる対日攻勢、ソ連の情勢および帝国国力の弾撥性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を、左記により遂行す。
 一、帝国は、自存自衛を全うするため対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目途とし、戦争準備を完整す。
 二、帝国は、右に並行して、米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む。
   対米(英)交渉において帝国の達成すべき最少限度の要求事項並びにこれに関連し帝国の約諾し得る限度は、別紙の如し。
 三、前号外交交渉により、十月上旬頃に至るもなお我が要求を貫徹し得る目途なき場合においては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。
   対南方以外の施策は、既定の国策に基づきこれを行ない、特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。
昭和の15戦争史(31)

1941年(1)~(4)

 1941年は12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、日本がいよいよ第二次世界大戦に本格的に突入していった年である。この年の主な出来事は次の通りである。
4月
 ・日ソ中立条約
 ・日米交渉開始

5月
 ・スターリン、ソ連首相に
 ・独、ロンドン大空襲

6月
 ・独ソ戦開始

11月
 ・米、日本案拒否、強硬な新提案(ハル・ノート)

12月
 ・日本軍、真珠湾を攻撃、太平洋戦争勃発
 ・米英、日へ宣戦布告
 ・重慶国民政府、日独伊に宣戦布告
 ・独伊、米に宣戦布告

 最初の記事はアメリカ大統領ルーズベルトが中立主義廃棄を言明した演説である。

(1)1月6日
ルーズベルトの年頭教書


「四つの自由の実現を」

 これが二流国家の証明、というわけでもないであろうに、どうも日本の首相の年頭の決意のさえないことが、このところ、3、4年ずっとつづいている。むかしの人は偉かったと、ついつい口にでる。

 1941年1月6日、米大統領ルーズベルトの議会への年頭教書もそのひとつで、どうしてどうして立派なものであった。
「人はパンのみにて生きるのではないと同様に、武器のみにて戦うものでない。みずからの生活様式にたいする信念にもとづく活力と勇気とをもつことだ」
として「四つの自由」の実現を訴えた。
 ①言論と表現の自由
 ②信教の自由
 ③欠乏からの自由(健康で平和的な生活の保障)
 ④恐怖からの自由

 じつは、④のヒトラー・ドイツの世界制覇の恐怖と戦おう、という中立主義批判に、彼の訴えの重点がある。そして、基本的自由の上に立つ世堺の実現をめざそうと、大統領は国民に強く訴えた。

 日本の首相もたまには大口をたたいてみたらどんなものか。

 さて、日本では1940年にパーマ禁止令とか七・七禁令、あるいはアメリカ色・イギリス色を一掃するためとしてカタカナを用いた人名や器具名の言い換えを命令するなど、日本精神鼓舞の動きが盛んになった。この動きを引き継いで、1941年は日本精神強調という洗脳政策の動きへと進んでいった。「戦陣訓」に関わるこの動きを『探索5』から転載する(記載形式などを変えている)。

(2)1月8日
「戦陣訓」を示達


 これが1941年になると、各方面において、もっと日本精神強調による戦時体制化が徹底化される。大きくいえば、やがて戦うことになるかもしれない対米英戦争のための準備である。

1月16日
 高度国防国家建設のため、学校教育を一体化した強力な訓練体制をめざして、大日本青少年団が結成される

2月26日
 もはや自由主義的な言論などは不要であると、情報局から各出版社へ総合雑誌執筆禁止者の名簿が送付される。矢内原忠雄、馬場恆吾、清沢冽、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳といった人々の名がずらりと並んでいた。

3月10日
 治安維持法が改正され、現行犯でなく「罪を犯すおそれがある」者と警察が判断すれば、あらかじめ拘禁することができる予防拘禁制が追加される。

4月1日
 また、文部省は「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロ」に改める。

5月24日
 さらには大政翼賛会の提唱で、日本精神修養のみそぎ錬成が盛んになる。5月24日がそのスタートで、霊水を頭から浴びて精神を鍛えるのである。8月3日の朝日新聞が報じている箱根湯元で開催された特別修練会の記がすこぶるおかしい。
「参加者は元拓相(文末の注参照)小磯国昭大将、総力戦研究所長飯村穣、中島今朝吾、牛島貞雄、松下元各中将、東京市教育局長皆川治広、前企画院次長小畑忠良、農地開発営団理事小山知一、東洋レーヨン会社長辛島浅彦諸氏、作家では中村武羅夫、横光利一、瀧井孝作……。白鉢巻、白衣、白袴、白足袋に着替えると、最早俗人ではない神人合一の境地を求める錬成の道士である、……同夜から6日午前中まで5日間は1日朝夕5勺の玄米粥に梅干一つ……」
 すべてがいま戦っている対中国との聖戦貫徹のためであり、そしてその背後にあって聖戦の障害となっている米英を"敵"とする戦いに備えるためでもある。

 陸軍大臣東條英機大将が、1月8日に全陸軍将兵に示達した「戦陣訓」は、そうした精神運動の一環であったのかもしれない。もちろん、中国大陸での皇軍兵士による暴行・略奪などの現実を踏まえての、軍紀粛清に主目的があったのであるが……。
「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。……」
と、はじめから「戦陣訓」は堂々と、戦場へのぞむ兵士の心得が、まことに名文で書かれている。校閲を島崎藤村に依頼し、さらに志賀直哉、和辻哲郎にも目をとおしてもらったという。藤村は細部にまで手を入れ、全体に知的な要素がないことを指摘したが、陸軍は兵隊に知は必要がないと一蹴する一幕もあったという。ともあれ名文である。が、それが名文であればあるほど、この文書がその後の太平洋戦争に与えた影響は筆舌に尽くしがたいほど大きかった。われら当時の少国民ですら、強制的に記憶させられた一行がある。
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
 これである。捕虜になるなかれ、それは「郷党家門」を恥ずかしめる恥辱中の恥辱であると、兵士たちは覚悟させられた。そのために死ななくてもいいのに、無残な死を死んだ兵士がどれほどいたことか。

 日本精神、いいかえればナショナリズムの強調こそが、軍国主義遂行のための根本理念であると考えられていたのである。

(注)「拓相」
 移民事務を担当し拓務省の長が拓務大臣で略して「拓相」と言った。


 戦時の精神鼓舞のためのスローガン「八紘一宇」もこの年に打ち出された。

(3)春頃
大日本帝国の大理想


「八紘一宇」

 何度も書くようであるが、前年の1940年秋いらい、ドイツの驚嘆すべき快進撃をうけて、日本は「好機南進」「千載一遇の好機」あるいは「バスに乗り遅れるな」の大合唱でうめつくされているの感があった。ドイツがヨーロッパ新秩序を築くなら、日本も大東亜に新秩序を、ということから、年が明けて1941年春になると、「八紘一宇」といういかめしいスローガンがこれに加わった。

 もとを正せば、前年の「紀元2600年」奉祝式典で、近衛文麿首相が天皇の「臣」を代表し、「八紘一宇」の「皇謨(こうぼ 天皇が国家を統治する計画)」を「翼賛」する、と宣言したことに発している。それでほとんどの日本人がそれまで聞いたことのないような言葉がしきりに唱えられることになったのである。わたくしなんかも来年の中学校入学試験の口頭試問に出るかも知れないからと、先生に十二分に仕込まれた。
『八紘一宇(あめのした=天下)を掩って宇(一つの家)としたい。これぞ『日本書紀』いらいの皇国日本の大理想なり、と。』

 いまになると、近衛が依拠したのは『書紀』にあらず、先にも書いた『国体の本義』のほうであった。すなわち神武天皇が橿原の地に都を定めたときの詔(みことのり)の、「……六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)と為(なさ)むこと、亦可(よ)からずや」と考えている。

『国体の本義』については『昭和の15戦争史(12)』で取り上げたが、全文(とても長いです)を読むことができるブログを一つ紹介しておこう。
『国体の本義』

(4)4月13日
日ソ中立条約の調印


「全世界をアッといわせよう」

 「これはダメだ」と断念しながらも、思いもかけずスターリン首相と会う機会があった。そのとき松岡洋右外相は、「どうです、二人で電撃外交をやって、全世界をアッといわせてやろうじやありませんか」と、そっとささやいた。

 こうして1941年4月13日、日ソ中立条約がそれこそアッという間に調印される。日ソ相互間の領土の保全、相互不可侵をきめた条約である。有効期間は5年とされた。世界中が、二人の思惑どおりびっくりし、日本国民の多くは、その離れわざに拍手を送った。

 ところが、それから2ヵ月余たった6月22日、ドイツがソ連に宣戦布告し、独ソ戦がはじまる。スターリンが松岡の誘いにのったのは、こうした危機的事態の到来を予期してのことで、西に戦争の迫っているいま、東のほうを安全にしておきたいゆえのこと。外交的な腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかったのである。

 しかも、1945年4月5日、ソ連は条約の不延長を通告。1年の期間が残っているのに、8月8日には日本に宣戦を布告する。松岡はアッと言わせられたことになる。

昭和の15戦争史(30)

1940年(15)~(22)

 日中戦争の泥沼に落ち込んだ日本は東南アジア進出を企てた。まず仏領インドシナに軍を進めるが、これが米英との決定的な対立を引き起こした。

(15)9月26日
仏印平和進駐ならず


「統帥乱れて信を中外に失う」

 中国とのどろ沼の戦闘に手を焼いていた日本は、蒋介石政権が何とか頑張れるのは米英ソなどの諸国が軍需品などの援助物資を、背後から輸送しているからだと考え、そして対米英感情を悪くするばかりとなっていた。

 その援蒋輸送路の一つに仏領インドシナ(現ベトナム)からの仏印ルートがある。折からドイツの電撃作戦で、フランスが降伏すると、さっそく日本は強圧的にルートの全面閉鎖を、フランスに承諾させた。あとは外交交渉によって相互協定を結ぶ、という段階にまできた。

 しかし、このとき参謀本部の作戦部長富永恭次少将が割りこんできた。時間がもったいない、平和的進駐などくそ食らえとばかりに、強引に日本軍隊を越境させ、たちまちフランス軍と衝突が起きた。満洲事変いらい、既成事実さえつくれば、あとはどうにかなる、という陸軍の横暴さがもろにでたのである。

 平和交渉のため苦心をしていた現地の責任者は窮地に立った。そのときに東京に打たれた電文「統帥乱れて信を中外に失う」は、昭和史に残る名言となったのである。9月26日のことである。

(16)9月27日
日独伊三国同盟の締結


「この国の前途は心配である」

 『昭和天皇独白録』のなかに「日独同盟については結局私は賛成したが、決して満足して賛成したわけではない」との天皇の発言がある。ほかの資料でも昭和天皇のナチス・ドイツにたいする不信は明らかである。

 その日独伊三国同盟が締結されたのが1940年9月27日のこと。昭和天皇は近衛文麿首相にいった。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。ほんとうに大丈夫なのか」
 折からドイツ国防軍の電撃作戦が、世界戦史にかつてみられぬあざやかさを示しているとき。そして日本国内ではそれに幻惑されて、「バスに乗り遅れるな」が日常のあいさつ語のようにいわれ、日本国民は浮かれきっているとき。近衛首相は胸を張って
「ご心配ありません」
と答えた。天皇はそれ以上何もいえなかった。大日本帝国は戦争への「ノー・リターン・ポイント」を踏み越えて対米英戦争への道は、これで確定的となった。

 ちなみに、日独伊三国同盟の条文は朝日新聞社のサイト「コトバンク」の記事『日独伊三国同盟』で全文読むことができる。

 さて、これまでに、戦時国家になった日本が戦争を推進するために、従順な庶民を養成するための国策をいくつか取り上げてきたが、そうした国策はまだまだ続く。

(17)10月19日
全国の子宝家庭の表彰


「生めよ殖やせよ!」

 21世紀の日本の大問題の一つに、少子化がある。老齢化のすすむ社会を支える働き手ががくんと減って、国家の明日が安泰とは、どう考えてもいえない。だからといって、戦前の国策をもちだすわけではないが、「生めよ殖やせよ! 国のため」がなつかしい。

 この国策に猛烈に拍車がかけられたのは、この年の10月のことである。厚生省が全国の子宝隊(優良多子家庭)を表彰することとし、19日に優良として選ばれた全国1万336家庭の名簿を発表した。このニュースを伝える新聞の見出しが「出たゾ、興亜の子宝部隊長」ときた。その人は長崎県総務部長の白戸半次郎さん。なんと男10人、女6人を育てている。この白戸さんを先頭に、表彰されるのは満6歳の子10人以上の家庭で、しかも父母が善良で臣民の条件を兼ね備えていること。これにめでたくパスした家庭は北海道が978、以下鹿児島県541、静岡県444。最低は鳥取県の39。

 とにかく昔のお父さんお母さんは、国の将来のために頑張ったんであるな。これからお父さんお母さんも……
 いや、これは余計なお世話かもしれない。

(18)10月12日
大政翼賛会の発会式


「とんとんとんからりと隣組」

 日本人の日常はますます孤立化して「隣は何をする人ぞ」の傾向はどんどん強まっている。かりに隣に凶悪犯がいても、まったく関知しないのが、とくに都会生活というもの。これをさびしがる人は、ふと、昔はやった岡本一平作詞、飯田信夫作曲の国民歌謡を、思い出したりすることがあるにちがいない。

 <とんとんとんからりと隣組/格子をあければ顔なじみ/廻してちょうだい回覧板/知らせられたり知らせたり
 <とんとんとんからりと隣組/地震やかみなり火事どろぼう/互に役立つ用心棒/助けられたり助けたり

 1950年10月12日、強力な国民組織を基盤とする新体制を構想した近衛文麿が、大政翼賛会を結成、この日、発会式をあげた。これにともなって全国の市町村に隣組制 度が設けられる。国民歌謡はそれに合わせたものである。 これでたしかにお互いに助けられたり助けたりしたが、同時に、これが日常生活や言論にたいする監視のためにも役立った。小声でいったはずの軍部批判が密告されたりして、大いに迷惑した人びともかなり多かった。

 つぎはまたまた、庶民のささやかな楽しみを奪う政策。

(19)10月31日
今宵かぎりのダンスホール


「権力で抑えつけるなんて」

 永井荷風の日記の1937年12月29日に、
「この日、夕刊紙上に全国ダンシングホール明春4月かぎり閉止の令出づ。目下踊子全国にて二千余人ありという。この次はカェー禁止そのまた次は小説禁止の令出づるなるべし。恐るべし恐るべし」
とある。日中戦争はじまってからの戦時下の日本は、ほんとうに何から何まで禁止また禁止で、息苦しい時代であった。

 さて、ダンスホールの話だが何がしかの抵抗があって、完全に閉鎖されたのは、3年近くあとの1940年10月31日。
「ダンサー362名、楽士109名が職を失う。その最後の夜、東京のダンスホールは約10ヵ所」
と広沢栄氏の本にあった。

 最後の夜は、どこも超満員。やけっぱちでハシゴをするものも多かったとか。いよいよラストとなって、ワルツの「蛍の光」が演奏されたとき、ホールのあちこちですすり泣く声が高かった。

 「くだらねえ、権力で抑えつけるなんて」
 歌手のディック・ミネが口惜しそうにいった。

(20)11月10日
紀元2600年の祝典


「金鵄かがやく日本の……」

 1940年つまり昭和15年は「皇紀2600年」である。戦前日本は、神話の神武天皇の即位から数えて「皇紀××年」という独自の元号をもっていた。小学生のころは、皇紀から660年を引くと西暦になる、それくらい日本は古い伝統のある尊い国なのだと、徹底的に教えられた。 その皇紀の元号による紀元2600年の大祝典が行われたのが、11月10日。

 戦前の日本の最大のお祭りであったが、わたくしにはあまりハッキリとした記憶にない。奉祝の花電車を見にいったことと、「金鵄かがやく日本の、はえある光身にうけて、今こそ祝えこの朝、紀元は2600年」の祝歌なんかどうでもよくて、「金鵄上がって15銭、はえある光30銭、鵬翼高い50銭、紀元は2600年」のタバコ値上げを皮肉る替え歌を、しきりに歌って、晴れ晴れしい顔をした大人たちにしかられた覚えだけが残っている。

 とにかく国をあげてのどんちゃん騒ぎの後、祭りは終った、さあ働こう、とハッパをかけられ、1年と1ヵ月のあとに太平洋戦争へ。

 たしかに、悲劇の前には喜劇がある。

(21)11月24日
元老西園寺公望逝く


「これで日本は滅びる」

 池田成彬が語った。
「年をとると、知識欲も根気もなくなる。人の話をじっと黙って聞いていて、それから、おもむろに自分の意見をいう人は、10人の1人あるかなしである。そのごくまれな例では西園寺さんがいる」

 その西園寺公望は、昭和天皇に推薦して、戦前に12人の首相を"製造"した最後の元老として知られている。昭和史上、もっとも実力のある政治家であったが、晩年には老齢のために、気力を失った。結局は、軍部に押し切られることが多くなり「これじゃダメだ」と独語しつつ、大磯の自邸にこもったきり、なかなか上京してこようともしなかった。そして、生への執着をどんどん失っていった。

 そしてこの年の9月、自分が反対した日独伊三国同盟を、近衛文麿内閣が強行したとき、
「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上で死ねないことになった。その覚悟をいまからしておけ」
と側近にしみじみと嘆いたという。

 この最後の元老は、11月24日、太平洋戦争の開始をみることなく、世を去った。享年90であった。

 日独伊三国同盟に対抗して、アメリカは中立主義廃棄の道を進み始める。 (22)12月29日
ルーズベルトの「炉辺談話」


「民主主義の兵器廠」

 1940年も押しつまった12月29日夜、アメリカ大統領ルーズベルトは、三選後のはじめての全国ラジオ放送を「炉辺談話(ファイアサイド・チャット)として、ホワイトハウスから行った。
「今日、アメリカ文明は、最大の危機にさらされている。われわれはデモクラシー諸国の偉大な兵器廠たらねばならない」
 つまり日独伊三国同盟に反対し、ナチス・ドイツと戦うイギリス支援を強く国民に訴える内容を、ルーズベルトは力強く国民に語ったのである。この「民主主義の兵器廠」は、中立主義をあくまで守ろうとするアメリカ国民の心をゆさぶる20世紀の名言となった。前年11月に中立法が一部改定されていたが、なお国民の間には、いわゆるモンロー主義が根強かったからである。

 日本もまた、この演説にショックを受けた。貿易統制の全権をもつ大統領が、いつでも石油の全面禁輸を実施できるのだぞ、とおどしをかけてきたに等しかったから。にもかかわらず、北部仏印進駐、三国同盟の締結と、近衛内閣の政策はアメリカの干渉を断乎排除する方向へと突っ走っていく。太平洋の波はがぜん荒立ってきた。

昭和の15戦争史(29)

1940年(7)~(14)

 ヨーロッパ前線ではフランスがナチスに無条件降伏をすることになる。

(7)6月18日
ドゴールのフランス脱出


「抵抗の炎は消えることはない」

 1940年6月17日、ドイツ軍の電撃作戦によって、フランス軍は撃破され、ペタン新内閣はついにナチスに休戦を求めることになった。前夜ボルドーに帰っていた徹底抗戦派のリーダーたるドゴールは、この日、厳重な監視のもと、友人を見送るために空港に姿をみせた。名残惜しそうにぐんと近づいたとき、友人を乗せた飛行機が動きだした。その瞬間、彼は危険を冒して飛行機に飛びのりドアを閉めてしまった。ペタン派の警官や役人が、アッと声をのむ間に飛行機は機影を没した。チャーチルがいうように「機はフランスの名誉を運んで」ロンドン指して飛んでいった。

 翌6月18日、ロンドンに着いたドゴールは、BBC放送で、敗戦で意気消沈のフランス国民に力強く対ナチス徹底抗戦をよびかけた。
「最後の言葉はまだ言われてはいない。……抵抗の炎は消えてはならないし、消えることはないであろう」

 この放送により第二次大戦中、ドゴールはフランスだけではなく、連合国側の最大の英雄となった。

(8)6月21日
フランスの無条件降伏


「資質の粗末さが暴露された」

 ドイツ総統ヒトラーにとっては、生涯を通してこの日ほど得意の絶頂をきわめた日はなかったであろう。ドイツ国防軍の電撃作戦の前に、完膚なきまでに敗れたフランスが無条件降伏をしたのである。

 ヒトラーは勝者として休戦条約に調印すべく、パリ郊外のコンピエーニュの森にやって来た。この地こそ、1918年11月、第一次世界大戦でドイツが負け、屈辱の休戦条約に調印させられた場所であり、しかもそれは偶然そこに停車していた食堂車の中で……。

 1940年6月21日、ヒトラーは記念として保存されていたその食堂車のなかで、フランスの全権の来るのを待ち受けた。しかも前回のとき、勝者のフランスのフォッシュ元帥の座ったイスに腰を下ろして。だれはばからず笑い、足をカタカタ踏み鳴らした。無念のフランス人ばかりではなく、世界の人びとは、敗者を辱めるための手のこんだ芝居としてこれを見た。

 ヒトラーの政治家としての「資質の粗末さが世界に暴露された」ときといわれ、誰の口にも茶番の一幕と映じた。

 資質のお粗末な人物を指導者に選ぶ者たちもお粗末と言わなければなるまい。今、この国でも資質のお粗末な人物が亡国への道を得意そうに闊歩している。早く退場させるべきだが、まだ支持率が不支持率を上回っている。 已んぬる哉。

 さて、1940年、日本を戦時国家へと強引に推し進めていった資質のお粗末な近衛文麿が再び登場する。

(9)6月24日
近衛新体制運動の発進


「バスに乗り遅れるな」

「人気などというものは当てになるものではありませんよ。ちょうど映画スターの人気みたいなもので、すぐスタれますよ」
 といっていた舌の根のかわかない先に、近衛文麿は突然に枢密院議長を辞任すると、新体制運動にのりだした。1940年6月24日のこと。

 近衛の政治復帰をいちばん喜んだのは陸軍であった。頑固にいうことを聞こうとしない米内光政内閣を倒して、お殿さまの近衛を擁立しようとひそかに作戦をねっていたからである。軍だけではなく、政界も財界も、さらに言論界も近衛の政界復帰に歓呼し、喝采を送った。

 ヨーロッパではドイツの快進撃がつづいている。フランスとオランダは降伏し、イギリスはアップアップしている。いまこそ南進のチャンスだ、と火事場泥的な空気が日本中を満たし、「バスに乗り遅れるな」という昭和史を飾る名言が国民的大合唱となっているのである。こうして近衛は大スターとなって、国家を敗亡へ導く猪突猛進の行列の先頭に立つ。

 世論の雪崩(なだれ)現象ほど空恐ろしいものはない。日本人は教訓を忘れがちであるが。

 私は『ミニ経済学史 現在の経済学は?(20)』で「もうずいぶん以前のことだが、確か糸井重里さんだと思うが、「贅沢は敵だ」をパロって「贅沢は素敵だ」と言った。」と書いているが、これは私の記憶違いだったようだ。このパロディは「贅沢は敵だ」が使われ始めた時代からあったのだった

(10)7月7日
七・七禁令の実施


「ぜいたくは敵だ」

 戦時下日本の、名言中の"名言"は「ぜいたくは敵だ」であると思っている。あんなものすごい時代でも、ユーモラスな反抗精神の持ち主がいて、敵の上に「素」の字を書き込んで「ぜいたくは素敵だ」とやったヤッがいたっけ。

 本家の"名言"の発端は、1940年7月7日にときの米内光政内閣が公布した「奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則」で、翌日から断固実施を決定した。非常時にぜいたく品は無用であるというわけ。これを七・七禁令という。  つまり、この日からは「ぜいたく品よ、さやうなら。あすから閉ぢる虚栄の門」となったのである。"名言"が大きく書かれた看板が街頭に立てられ出しだのは、東京では8月1日から。ただし、このときには米内内閣は総辞職して、かの近衛文麿が第二次内閣をスタートさせていた。

 禁止になった主な物は「指輪、ネクタイピン、宝石類、高価なる白生地羽二重、丸帯、洋服等」で、たとえば「夏物の背広は100円、時計は50円、ハンカチは1円、下駄は7円、靴は35円、香水は5円まで、それ以上は禁止」とされた。いかがなものか、今の日本、月に一日「ぜいたくは敵だ」デーを設けてみたら。

(11)7月22日
第二次近衛内閣の成立


「あくまで戦うことになる」

 陸相畑俊六の辞任、後継陸相の不推薦によって、米内光政内閣は強引に崩壊させられた。そのあとに1940年7月22日、第二次近衛文麿内閣が成立した。陸軍の裏工作は見事に成功した。

 大きくいえば、この日、太平洋戦争への道が決定的になった、といっていいか。外相松岡洋右、陸相東条英機など、対米英強硬派がぞくぞくと閣僚に親任された。やがて内閣は致命的な日独伊三国同盟を締結する。

 終戦時の首相となった鈴水貰太郎の、当時の批判は手きびしい。
「松岡ヲ外相ニシタノハ誰カ。近衛公トシテハ認識不足モ甚シ」

 しかし近衛はのちの記者会見で、大言壮語した。
「米国は、日本の真意をよく了解して、世界新秩序建設の日本の大事業に、積極的に協力すべきであると思う。米国があえて日独伊三国同盟の立場と真意を理解せず、どこまでも同盟をもって敵対行為として挑戦してくるにおいては、あくまで戦う事になるのはもちろんである」

 日独伊三国同盟は9月27日に締結された。五項目あとで取り上げる予定である。

(12)8月20日
トロツキー暗殺さる


「こんどは奴らも成功した」

 レーニンとならぶロシア革命の指導者トロツキーが亡命先のメキシコの自宅で、暗殺者に頭をピッケルで一撃されたのは、1940年8月20日。ひん死の重傷を負いながら息もたえだえに、トロツキーは微笑を浮かべながらいった。「こんどは奴らも成功したようだ」
 鬼気迫る一言といえる。翌日に死んだ。60歳。

 レーニンの死後、スターリンとの抗争に敗れたトロツキーは、29年にソ連から追放され、各国を転々としたのち、37年にメキシコに落ち着いたが、そこも安住の地ではなかった。スターリン批判をつづける彼の身辺は、つねに暗殺の恐怖のもとにあった。
「主観と客観の不一致は、生活においても、芸術においても、悲劇の源であり、また同時に喜劇の源である。ことに政治の分野では、この原則の支配からまぬがれえない」

 彼の著『ロシア革命史』の一節は、自分の運命をみごとに語っている。

 日本では相変わらず次のようなバカバカしい規制が行なわれていた。

(13)9月
禁止された流行語


「わしやかなわんよう」

 東京は下町の悪ガキ時代に、爆発的に流行した言葉がある。何かにつけてやたらにこれを使った。
 たとえば両親なんかに、「遊んでばかりいないで、少しは勉強しなければいかん」としかられたり、小学校の先生から、「兵隊さんが命がけで戦っているのに、こんな怠けたことで、申しわけないと思わんか」と説教されたりしたとき。悪ガキどもがいう。大人がカンカンに怒ろうと知ったことではない。
「あのねェ、おっさん、わしゃかなわんよう」

 もとは喜劇俳優の高勢実乗(たかせ みのる)が、チョンマゲにチョビヒゲ、目の回りに墨をぬって、スクリーンでとん狂な声でいったセリフである。

 泥沼と化した日中戦争下の重苦しい時代。取り締まりだけがきびしいときに「わしゃかなわんよう」の悲鳴は、庶民には一服の清涼剤でもあったのであろう。
 しかし、この年の9月に、皇道精神に反するとして禁止命令が下されたとき、悪ガキは心底からガッカリした。でも、時々「わしゃかなわんよう」とやっていた。いまの悪くなるいっぽうの日本、同じセリフをはやらしたくなる。

 ヨーロッパ前線に戻ろう。

(14)9月15
英本土防衛戦に勝った日


「これほど少数の人から……」

 この年の8月下旬から10月の長期にわたって、ドイツ空軍は連日のように数百機を出撃させ、イギリスの各地を猛爆撃した。対してイギリスの戦闘機部隊は、全力をあげて反撃した。とくに9月15日のそれは英本土防衛戦の日(バトル・オブ・ブリテン・デー)として戦史に特記される戦闘となった。ドイツ空軍は700機の戦闘機と400機の爆撃機とで、白昼のロンドンを空襲した。これを可動の300機のイギリス空軍の戦闘機が迎え撃った。少数ながら火力に勝る英戦闘機は粘り強く、休むことなく飛び立って果敢に戦った。ドイツ戦闘機は速力で有利に立つが、航続距離の短いことが致命的となった。

 この空の戦いで敗れた総統ヒトラーは、英本土攻撃作戦を、結局は中止することになる。空襲で死んだイギリス人は4万人余。しかし、不死身のごとくにその祖国を守りぬいたパイロットたちを、英首相チャーチルは、
「これほど多くの人が、これほど少数の人から、かくも多大な恩義をこうむった戦いは前代未聞である」
と心から感謝した。

昭和の15戦争史(28)

1940年(1)~(6)

 第二次世界大戦が始まった1939年の翌年1940年の世界大戦を巡る主な出来事は次のようである。
4月~5月  ドイツが、デンマーク・ノルウェー
      ・オランダ・ベルギーに侵入
6月
 パリ陥落、仏、独に降伏
7月
 ソ連、バルト三国を併合
9月
 日本軍、北部仏印に進駐
 日独伊三国軍事同盟
10月
 大政翼賛会発足

 勿論、日本でも世界大戦煽りを受けてますます軍部が国政を牛耳るようになってきた。しかし、その状況に敢然と抵抗する人もいた。

(1)2月2日
斎藤隆央の抵抗


「聖戦の美名に隠れて……」

 1940年ごろの日本といえば、戦争下"非常時"の名の下に、国家権力は陸軍に握られていた。「憲兵政治」ともいわれるように、軍刀の威嚇の前にすべての人が首をす くめ口をつぐんでいた。

 そんなとき、敢然として陸軍に抗した人がいる。斎藤隆夫という政治家で、この年の2月2日、第75帝国議会がはじまってまもなく、陸軍に命がけで食いついた。
「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字をならべ……」
 と頭ごなしに政策批判した上で、陸軍にたいし、
「支那事変がはじまってからすでに2年半になるが、10万の英霊をだしても解決しない。どう戦争解決するのか処理案を示せ」
 とつめよったのである。

 陸軍は「聖戦目的を批判した」と激昂した。しかし斎藤は「議員を辞任しない、文句があるなら除名せよ」と頑張った。そして希望どおり「除名」されて議場を去った。

 いつの時代にも1%階級に迎合する輩(私の右翼に対する定義)がいる。この輩が依って立つ思想基盤は論理的・科学的思考とは全く無縁である。ここで思い出したことがある。戦時体制の時には殆ど全ての国民が右翼となってしまう。私はこの事を『民衆の戦争責任』で取り上げている。

 次の事件は学者に対する弾圧の典型的な一例である。

(2)2月10日
津田左右吉の受難


「思想的大逆行為である」

 早稲田大学教授の津田左右吉を東大法学部の講師に迎えいれたのは南原繁教授の強い要請によるものである。しかし、津田が東大の教壇に立つより前に、蓑田胸喜(むねき)を中心とする右翼「原理日本社」が津田攻撃をはじめた。

 津田の学問は、日本古代史から「神話」のベールをはぎとった科学的な、堂々たるものなのであるが、それを「大逆思想」として、東大で講義することはまかりならぬと、一方的な攻撃にさらされたのである。
「津田氏の所論に至っては神武天皇から仲哀天皇までの14代の、天皇の御存在を、それ故にまた、神宮皇陵の御義をもあわせて抹殺しまつらむとするものである。これ国史上全く類例なき思想的大逆行為である」

 その結果、東大に迎えられて講師となってから4ヵ月もたたない1940年2月10日、津田の著書『古事記及日本書紀の研究』などは発禁、3月には出版法違反で起訴された。西田幾多郎と幸田露伴とが、学問上の問題を刑事事件とするのは不当だと抗議したが、当局は耳を貸そうともしなかった。

 津田は本郷から去っていった。

 次のバカバカしい事例は『民衆の戦争責任』の中の『「大国民」たちは?(2)』で取り上げていた。

(3)3月28日
改名させられた芸能人


「敵性器共に頼るな」

 この年の3月28日、日本政府(内務省)は世にもばかばかしい命令を、映画やレコード会社に発した。芸名のなかで、非常時に合わないふまじめ、不敬、外国人とまちがえやすいものなどの改名を命じたのである。
 漫才のミス・ワカナ、歌手のディック・ミネ、東宝映画の藤原釜足、日活映画の尼リリスなど、該当者十六人ぜんぶアカンとなった。

 政府がこの愚かさであると、それに輪をかけるお調子ものがきまってハバをきかせてくる。芸能界ばかりでなく各界で、アメリカ色、イギリス色はすべて一掃しよう、という声が高まりだした。米英は"敵"とみなして、「敵性器具に頼るな!」
 すなわちマイクロホンで歌うな。以下、プラットホーム→乗車廊、自転車のハンドル→方向転把、ビラ→伝単、ラグビー→闘技、パーマネント→電髪、アメフト→鎧球(がいきゅう)、スキー→雪艇、野球のスタルヒン投手は須田博と変えられた。

 折から医学研究所で研究中であったペニシリンを碧素とよぶなんて、滑稽きわまる。評すべき言葉もない。

 外国の動きに目を移そう。

(4)5月10日
チャーチルが首相となる


「血と労苦と涙と汗と」  前年9月にはじまった第二次大戦は、英仏とドイツとの政治的・軍事的なさまざまな駆けひきがつづけられていたが、突如、破局へ突き進んだ。ドイツ軍の攻撃のほこ先は西方に向かい、オランダおよびベルギー軍があっという間に席捲された。

 1940年5月10日、この緊急事態に即応して、イギリス首相にチャーチルが就任する。ヨーロッパ最大の危機のときに、首相・蔵相・国防相を兼ねてこの不屈の男は、戦時内閣を組織する。世論はこの人の登場を強く待ちのぞんでいた。これに応えてチャーチルはテキパキと手を打った。

 3日後、チャーチルは英下院で就任演説を行った。それは20世紀を代表する名言となったのである。
「私は、血と労苦と涙と、そして汗以外に、捧げるべき何一つももっていない。……諸君は、政策は何かと尋ねられるであろう。私は答える――海で、陸で、また空で、神がわれわれに与え給うたわれわれの全力をあげて、戦うだけである。……われわれの目的は何かと尋ねられるであろう。私は一言でいうことができる――勝利。それだけだ」

 英国はこの不屈の男とともに、苦しい戦いを戦いぬいた。

 ヒトラーが行なってきた暴政の中で最も残虐な気違い染みた政策はユダヤ人の虐殺であろう。

(5)5月20日
強制収容所への第一陣


「労働は自由への道」

 ドイツ総統ヒトラーはその著『わが闘争』のなかにはっきりと書いている。若き日から「自分は立派な反ユダヤ主義者で、あらゆるマルクス主義的世界観の不倶戴天(ふぐたいてん)の敵ある」と。
 また、ナチスの綱領を自作したとき(1920年)
「ユダヤ人は『国家公民』にはなれず、全人口の食料が不足した時はドイツ国より追放される」
とも明言していた。

 そのヒトラーが国家の最高権力者となり、「世界最強国ドイツ」の構想実現のために1939年9月、敢然として世界戦争へとのりだしたのである。ユダヤ人の運命はきまったといえる。

 そしてこの年の5月20日、アウシュヴィッツ強制収容所に向けてユダヤ人収容者一陣が輸送されていった。収容所の総面積約40平方キロ。その入り口に、「労働は自由への道」の標語がかかげられていた。ユダヤ人はこれをしっかり読んだ上で門をくぐった。労働が彼らをどんな自由へ導いたか。

 400万人がここで虐殺された。

(6)6月3日
ダンケルクから奇跡の脱出


「見物人として眺めていた」

 5月15日にオランダ政府が、18日にはベルギー政府が降伏した。英仏連合軍37万人は、圧倒的なドイツ機甲師団の猛攻をうけて、英仏海峡の港町ダンケルクに追いつめられて、全滅の危機に直面していた。ところが、なぜかヒトラーは「わが最強の甲兵力を傷つけるな)と命令を下し、攻撃を中止させた。

 そのわずかなすきに、英海軍省の呼びかけに応した志願の人びとが、海岸線に集まった将兵の救助に出向いていった。漁師、ヨットマン、水夫、退役軍人など、海に関心ある者の総員である。彼らはフランス海岸までありとあらゆる船を運んだ。

 5月27日より開始されたこの撤退作戦に挺身した人びとの船舶の完全な名簿はない。また、多くの人びとはいちいち名前を記帳することもなく、硝煙のダンケルクに おもむき、連合軍将兵を乗せて、英本土まで何度となく往復したのである。

 1940年6月3日、最後の救助艇が錨をあげた。それを手を拱いて望見していたドイツ軍のある将軍がつぶやいた。
「34万もの敵兵が武器を捨てて慌ただしく逃げていく。われわれはその乗船をただ見物人として眺めていた」

昭和の15年戦争史(27)

1939年(5)~(10)

 ほとんどの国民が天皇に拝跪していた時代だから(今もさして変わらないか)、当然と言えば当然ながら、国民を政府の命令に従わせるためには「勅語」を利用した。次の記事はその典型的な事例である。

(5)5月22日
「青少年学徒二賜ハリタル勅語」


「ナンジラ学徒ノ双肩ニアリ」

 「青少年学徒二賜ハリタル勅語」というのが、その昔あったことを覚えている人は、いまどのくらいいるのであろうか。
「ナンジラ学徒ノ双肩ニアリ」 「文ヲ修メ武ヲ練リ、質実剛健ノ気風ヲ振励シ、負荷ノ大任ヲ全フセンコトヲ期セヨ」
 きれぎれにそんな文句が辛うじて思い出せる。御名御璽につづいて「昭和14年5月22日」と読まれて、朗読が終わると、心からホッとしたものである。

 戦時下、日本の青少年が何かと褒められ、値打ちがぐんと上がったのもこのころからである。1939のことである。
 そしてこの日、軍事教育施行15周年を記念して、宮城前広場で「全国学生生徒代表御親閲式」が行われたということを、最近になって知った。当時の新聞に「青春武装の大絵巻」と飾りたてて報じられている。3万2千5百名の学生生徒が、「新緑滴る大内山を背景にくっきり浮かび上がった白木作りの玉座」の前を、軍隊よろしく「歩武堂々」分列行進したのであるそうな。
 下町の悪ガキのわたくしは、もちろん、その中にはいない。

 「質実剛健ノ気風ヲ振励」するからには、それに反するような庶民のささやかな楽しみを禁止しなければならない、となる。

(6)6月16日
ネオン全廃、パーマ禁止令


「林荒木等の髯の始末はいかに」

 ちかごろ髪をクリクリにそった外国のスポーツ選手をテレビなどで見る機会が多い。この丸刈りの連中がきまって大活躍する。しかもいまは格好よくスキンヘッドというのだそうな。

 ナーニ、日本風にいえばイガ栗頭。われら戦前の青少年はみんな同様のクリクリのイガ栗であった。と、威張ってみたところで、何の足しにもならないが。

 実は、国民精神総動員委員会なる戦時組織ができ上り、この年の6月16日に、国民生活刷新案を提出し、とにかく無茶苦茶に、すごいことを決めたのである。
 曰く、ネオンの全廃。曰く、中元歳暮の廃止。男子学生の長髪禁制。ついでに時局にふさわしくないと女性のパーマネントウェーブも禁止となった。

「世の噂によれば軍部政府は婦女のちぢらし髪を禁じ男子学生の頭髪を五分刈のいが栗にせしむる法令を発したりという。林荒木等の怪しげなる髯の始末はいかにするかと笑うものもありという」
 作家永井荷風の『断腸亭日乗』の一節。陸軍大将の林銑十郎と荒木貞夫の八の字髯を思い切り皮肉に笑いとばしているのが痛快のきわみ。

 少し時間が前後するが、次の記事を先に掲載しよう。朝鮮の植民地状況を徹底的に強化するための策略である。

(7)12月26日
「創氏改名」への抵抗


「田農丙下とします」

 1910(明治43)年8月22日、韓国併合に関する日韓条約が調印された。朝鮮半島を植民地とした日本の統治がはじまった。いらい日本政府は植民地朝鮮の日本化を進めるため、強引な政策を押しつけてきた。

 その多くの失政のなかでもこの1939年12月26日に公布した「朝鮮戸籍令改正」ほど、すべての朝鮮人を絶望的にさせ怒らせたものはなかったであろう。祖先を重んじ、儒教道徳を信じる彼らは、その氏名を日本式に「創氏改名」せよといわれることに、とうてい許すことのできない暴圧を感じたのである。日本人を信頼していた人々もまた、完全にソッポを向いた。

 朝鮮総督南次郎
「総督に背く者は、日本領土の外へ出ていって生きるべきである」
とまでいい、脅迫政治を推しすすめた。各地に自殺者まで現れた。

 その一方で、創氏改名を逆手にとって、反逆調の氏名をつくった人も少なくない。田農丙下(天皇陛下のもじり)とか「南太郎」とか。そして詩人の金素雲は鉄甚平としたそうな。その意は「自己の金(姓)を失っても甚だ平気なり」であった。

 この誇り高い民族の意地が日本人にはわからなかった。

 以上のような可笑しな事に血道を上げている日本にアメリカが厳しい対応をぶっつけてきた。

(8)7月26日
日米通商航海条約廃棄の通告


「日本を失望させるであろう」

 ノモンハンでの不利な戦況、天津事件でのイギリスとの交渉難行、政府も軍部もいささか策に窮している。そのとき、7月26日、アメリカがきつい鉄槌を打ち下してきた。「日米通商航海条約を廃棄する」という表明である。これは1911(明治44)年2月に調印されたもので、いらい四半世紀の日米関係を親密に保つためのもっとも大切な条約である。それを廃棄するとは、と日本政府はさすがに顔色を失った。

 米国務長官コーデル・ハルが言明する。
「日本が中国における米国の権益にたいし勝手なことをしているのに、なぜわが国が条約を守らなければならないのか。日本は『東亜の新秩序』とか、『西太平洋の支配権』とか叫んでいる。今こそ、わが国がアジア問題にたいするはっきりした態度を声明すべきときがきた。わが行動は中国・英国を激励し、日本を失望させるであろう」

 日本政府と軍部の受けたショックは大きすぎた。これで条約は翌1940年1月26日に失効となる。アメリカはこの条約廃棄という行動によって、政戦略の根本にかかわる大問題を日本に突きつけ、「敵」としてあからさまな名乗りをあげてきたのである。

 なお、のちの日米交渉はこの条約の再締結を意図してのものであった。

 国際社会の動きも、相変わらずのヒトラーの暴虐な政策によりますます激しくなり、第二次世界大戦へと突き進んで行った。

(9)8月23日
独ソ不可侵条約調印


「世界がおれのポケットに入った!」

 1939年8月23日、ドイツ総統ヒトラーとソ連首相スターリンとが、永い間互いに仇敵視(きゅうてきし)していたことを忘れたかのように、固く手を結ぶことを誓い合った。この夜、独ソ不可侵条約がモスクワで調印されたのである。

 全世界が驚倒した。フランスの作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールは書いている。
「今日まではしだいに深まる暗黒の中にも、大いなる希望の灯が見えていたのに、それが今かき消されてしまった。夜の闇(やみ)が地上を覆い、私たちの骨の髄までしみとおってきたのだ」(『女ざかり』)

 ヒトラーはこの条約を結ぶことで、なんの憂慮もなく領土拡大のためにポーランドヘ進攻する決意を固めることができた。たとえそれが第二次世界大戦の導火線に火をつけることになろうとも、である。

 ポーランド分割の独ソの境界線を極秘にきめた今、ソ連もまた、座したまま大きな獲物を掌中にすることができた。スターリンはいった。
「ついに全世界がおれのポケットに入った!」

 この悪魔的な言葉を明言として残したくはないが。

(10)9月1日
第二次世界大戦始まる


「爆弾にたいしては爆弾をもって」

 1939年9月1日未明、ルントシュテット、ボホック両元帥指揮の150万のドイツ軍機甲部隊が、周到にして綿密な作戦計画どおりに、南北からポーランド国境を越えた。2千機以上の戦爆連合の大編隊が、あわただしく集められたポーランド軍を空から攻撃し粉砕する。

 午前10時少し前、ヒトラーの国会での演説がラジオから流れ出た。この日までのドイツ国民の平和への熱情と限りない忍耐を強調したあと、
「爆弾にたいしては爆弾をもって断固として報いるまでである」
 ヒトラーは、今よりドイツの一兵士として戦うであろう、と二度くり返した。聞いているドイツ国民はこの言葉に感動する。ヒトラーはさらに叫んだ。
「私は勝利の日まで、神聖にして貴重な兵士の制服を脱がないであろう」
 空軍相ゲーリングの宣誓演説がそれにつづいた。
「われらはただ服従、そして忠誠あるのみである」

 9月3日、ポーランドを救うため英仏はドイツに宣戦を布告する。第二次世界大戦はこうして開始された。

昭和の15年戦争史(26)

1939年(1)~(4)

 近衛内閣の悪政によって日本が戦時国家へと大きく傾いていっから3年目の1939年、国際社会も戦時体制へと大きく傾いていき、第二次世界大戦が勃発する。今回は『残日録』から、まず第二次世界大戦へと向かう国際社会の主な出来事を転載しておこう。

5月・ノモンハン事件起こる
7月・国民徴用令・
   米、日米通商航海条約を破棄
8月・日英会談決裂
  ・スペイン国家主席にフランコ就任
  ・独ソ不可侵条約
9月・独、ポーランド侵入
  ・英仏、独に宣戦、第二次世界大戦勃発
12月・ソ連、国際連盟を除名さる

 では、『残日録』の記録を追ってみよう。

(1)3月17日
ゼロ戦が誕生した日


「長い緊張と連続のなかに」

 1939年3月17日、いわゆるゼロ戦すなわち零式艦上戦闘機の、試作第一号機が完成しためでたい日である。もう少しくわしく書けば、試作機の完成検査が行われた日で、試飛行成功となれば、ふつうその日を試作機の完成という区切りにするのが、ならわしになっていた。

 設計者、堀越二郎が、いちばん心配していたのは、重量であった。超々ジュラルミンの採用などと、あらゆる手段を研究し、機体にとりいれた。それは長い地味な重量軽減の努力なのである。はたしてそれが報いられるかどうか。
 機体の重量は1565.9キロとでた。合格!

 「周囲を見回すと、私の方を向いて、ほほえんでいる三つの顔があった。曾根、畠中、田中の三技師である。考えてみれば、長い緊張と連続のなかに、つかのま訪れるこのような喜びや安堵感を味わうために、私たちは毎日の仕事に没頭していたような気がする」
 堀越の言葉である。このたゆまぬ努力によって、世界最強の戦闘機が誕生したことを物語っている。

 ゼロ戦1940年7月から敗戦時まで使われた。また、1944年10月20日から神風特別攻撃隊で使用されていた。

(2)3月28日
スペイン内戦の終結


「この世界は美しいところである」

 戦うこと2年半、50万人といわれる死者を出したスペイン内戦は、1939年3月28日に、人民戦線側が降伏して終わった。フランコ将軍の率いるファシスト軍が首都マドリードに入城した。翌29日、フランコは内戦の終了を全世界にむけて得意そうに放送した。世界の心ある人々は不吉な予感に沈黙する。

 フランコ軍には、ドイツとイタリアが最新鋭の空軍や戦車部隊を送りこんで強力に支援した。対して人民戦線側には、作家ヘミングウェイらの参加で知られる国際義勇団を除けば、支援したのが事実上はソ連だけである。しかもソ連が供給したのは19世紀のクリミア戦争当時のあわれな武器であったのである。

 ヘミングウェイが内戦に参加した体験をもとにして書いた『誰がために鐘は鳴る』のラストで、主人公のアメリカ青年が死を前にして語った言葉がすばらしい。
「この世界は美しいところであり、そのために戦うに値するものであり、そしておれは、この世界を去ることを心から嫌だと思う」

 余計のことながら、この映画のバーグマンの美しかったこと。

(3)4月27日
満蒙開拓青少年義勇軍の計画


「フヌケの百万人に勝る」

 満洲国総務長官の星野直樹が、計画を推進するにさいして、日本の農村青年にむけメッセージを送った。
「血気にあふれた青年一万人は、フヌケの百万人に勝る。不毛の大陸の開拓に挺身するという精神で闘いぬいて、あらゆる困難をのりこえて興亜の基礎を固めていかなければいけない」
 計画は、大日本青年団と文部省が中心となり、陸軍省と関東軍が側面から応援する、という国をあげてのものとなったのである。対象は16~19歳の青少年である。名づけて満蒙開拓青少年義勇軍といった。
 この計画の決定をみたのがこの年の4月27日のことである。

 採用された少年たちは、十分な訓練をうけたあとつぎつぎに満洲へ送られることになっていた。総勢10万人が予定された。軍部の意図は、農業移民としてだけではなく、やがては満洲防備の兵力としても期待されていた。そして現実には敗戦まで8万6千人の青少年が満洲へ送られた。

 その人たちがどんな悲惨な目にあったかは書くまでもない。

 その人たちがどんな悲惨な目にあったか。
『満蒙開拓伝承を多くの人に (常陽新聞 1月10日)』という記事から抜粋しよう。

『開拓団や訓練所にいた多くの人は、戦争の悪化、敗戦の事実さえ知らされず、現地に取り残された。逃避行が始まり、捕虜収容所に入ったり、シベリアなどに抑留されたり、中国人に雇われたり。でも生きて帰れた人は幸運だった。長野県内の数字では約半数が未帰還者だ。』

(4)5月11日
ノモンハン事件の発端


「自主的に国境線を認定し……」

 関東軍の作戦参謀辻政信少佐が主となって起草した「満ソ国境紛争処理要綱」という極秘作戦命令があった。それによれば、これまでの自重の方針を捨て、国境におけるソ連軍(外蒙軍)の不法行為にたいしては、徹底的に攻撃してこれをたたきつぶすことが命じられていた。また、国境線が不明確な地域においては「自主的に国境線を認定し……兵力の多寡、国境のいかんにかかわらず必勝を期す」ことが、最前線部隊の任務とされていたのである。

 この命令示達直後の1939年5月11日、数十人の外蒙古兵が進出してきた。それはまさにこのあいまいな国境線であった。付近にノモンハンという蒙古人村落があり、それまでにもしばしば日ソ両軍の紛争がくりかえされているところであった。

 国境警備の日本軍は命令どおり、必勝を期して猛攻を加えた。これがやがて大戦争となったノモンハン事件の発端である。

 このあと、ソ連極東軍の主力が戦いに加わり、関東軍も一個師団を投入し、本格的な戦闘となった。結果として、参加した日本軍の全兵力5万6千人、うち戦没1万8千人、負傷者を加えれば73パーセントの死傷という惨たる数字が残されている。

 『昭和史探索4』にノモンハン事件の処理に当たっていた稲田正純(参謀本部作戦課長)という方の「ソ連極東軍との対決―張鼓峯・ノモンハン事件の全貌秘録」という記事が掲載されている。その結語部分を転載しておこう。

 莫大な死傷、敗戦の汚点、その代償は高かったが、私にとって更に更に忍び難かったのは、支那事変に一段階を劃して対ソ戦備に転向し、北辺の安定力を充実して世界の変動に備えるという、その指導理念が、ノモンハンのお蔭で枯れてしまったことである。
 そして仏印進駐、南進政策、大東亜戦と、思いもかけぬ方向に曲ってしまった。参謀本部を追われた私の何よりの心残りはこの一点にあった。
 ノモンハンは、日本の運命にとって、実に重大な影響を及ぼした転機であった。今、顧みてもつくづくそう思うのである。
昭和の15年戦争史(25)

1938年(4)~(10)

「国民精神総動員法」・「国家総動員法」のもと、政府は国民の士気高揚を図るための作為をいろいろと打ち出しているが、その一つに「軍神」作りがあった。『残日録』の次の記事は「軍神」第一を号創った記事である。

(4)5月17日
西住戦車小隊長の戦死


「お母さんは一人ぽっちになる」

 戦時下の日本陸海軍は、やたらに「軍神」をつくって、国民の戦争遂行熱をあおった。その第一号がこの人である。西住小次郎中尉、25歳、久留米戦車第一連隊の小隊長である。まことに清楚な青年で、西住小隊は、小隊長を核にうらやましがられるほどの団結ぶりを示した。
「どんな戦場でも、隊長車が先頭を行けば、命令を信号などで伝える手間が省ける。いかなる場合も部下は隊長車についてくる」
と、ふだんから西住はいっていたという。戦闘歴31回。その言葉どおり常に西住は小隊の先頭をいった。戦車戦闘の場合、これは異例の戦いぶりといえた。

 1938年5月17日、徐州戦で、西住は前面のクリークの水深を計ろうと、戦車から外へ出たときに、中国軍の機関銃に撃たれ戦死する。
「おれのお母さんは一人ぽっちになるなあ」
最後の言葉である。

 陸軍は12月17日に西住を「軍神」とたたえることにした。そしてのちには戦意高揚のため映画もつくられた。

 国民の士気高揚を図るために作家や評論家など文士も動員された。その一団は「ペン部隊」と呼ばれた。

(5)8月26日
文士、中国戦線へ


「ペン部隊」

 戦場が奥へ奥へと広がり、日中戦争がドロ沼化しようとしている1938年夏、内閣情報部は作家や評論家を動員し、戦場へ送りこんで、そこからレポートを送らせ、国民の士気を高めようと考えた。陸海軍が相談し、22人の文士による陸軍の〔ペン部隊〕の編制を発表した。8月26日のことである。
 菊池寛、久米正雄、吉川英治、白井喬二、古屋信子、佐藤春夫、川口松太郎、岸田国士、林芙美子、小島政二郎、尾崎士郎、瀧井孝作、丹羽文雄、深田久弥、佐藤惣之助、片岡鉄兵、中谷孝雄、北村小松、杉山平助、富沢有為男(ういお)、浅野晃、浜本浩。

 参考のために全員の名を書いたが、動員の陰に文芸家協会会長の菊池寛の存在がある。
「短兵急であるから、一人一人交渉するわけに行かない……半分は行ってくれるだろうと思い速達を出した。すると二、三人を除き、皆行くというのであった」
と、菊池は書いている。勝利のつづく中国戦線へ、文士諸公はかなりハッスルしていた。反戦思想などはない、それが現実である。

 余計なことながら、佐藤春夫が勇んで参加したゆえ、永井荷風は「以後出入りを許さず」とこの俊秀の弟子を破門した裏話もある。

 「文士諸公に……反戦思想などはない」一方、次のような反骨の川柳作家がいた。

(6)9月14日
ある川柳作家の死


「手と足をもいだ丸太にしてかへし」

 川柳といえば、昔から今日まで、たった十七文字ながら庶民にとって、政治批判・社会風刺のための、するどい刃になっている。

 戦時下の日本において、この一七文字を反戦の武器として、生命がけでつくりつづけた人がいる。「川柳は街頭の芸術であり、批判の芸術である」との信念で。

「銃剣で奪った美田の移民村」
「土工一人一人枕木となってのびるレール」
 王道楽土の満洲国の実態をこう歌い、そして日本内地の貧困を直視する。

「首をつるさえ地主の持山である」
「ざん壕で読む妹売る手紙」

 また提灯行列や旗行列で祝われる日中戦争の実相を。

「手と足をもいだ丸太にしてかへし」
「屍のいないニュース映画で勇ましい」

 この人、鶴彬(つるあきら)は特高警察に逮捕され、1938年9月14日、収監されたまま病院で死んだ。享年29。
「主人なき誉の家にくもの巣が」
が最後の作品。

 私は鶴彬という文学者を知らなかったので、ネット検索をして調べてみた。ヒットした記事は沢山あったが、そのうち鶴彬の川柳がほとんど全部読めるブログがあった。紹介しておこう。
『反戦川柳作家・鶴彬』

 さて、ニッポンは1936年11月25日に日独防共協定を調印するが、翌年11月日にイタリアが参加して日独伊防共協定となる。これが第二次世界大戦勃発後、日独伊三国同盟へと発展し、日本は破滅の道をひた走って行った。

 『残日録』からの次の記事は、1938年のヒトラーの暴政記事である。

(7)9月29日
チェンバレンの屈服


「ミュンヘンの過ちをくり返すな」

 ヒトラーが、ドイツ語系住民の居住するズデーテン地方をドイツに併合すると、チェコにたいして強要的通達を送りつけた。そこはチェコの重要工業地帯である。戦争をちらつかせた要求に、チェコは同盟国の英仏に救いを求める――この危機を回避するため開かれたのがミュンヘン会議である。
 1938年9月29日、会議は、英首相チェンバレンが、戦争気構えのヒトラーをなだめるために、チェコを犠牲にすることで終わった。ズデーテン地方は、英仏承認のもと、ドイツに割譲された。

 国へ帰った英首相は戦争を回避した英雄になり、ノーベル平和賞に値いするとの声も高くなった。しかし、世界の人々がホッと安堵するのをよそに、正しく歴史の動きをみる人は、この一時的妥協がなんら平和をもたらさないことを、はっきり見抜いた。ヒトラーがポーランドに進攻し、第二次世界大戦が勃発するのはミュンヘンの妥協からちょうど一年後のことであった。

 それから今日までなんども教訓「ミュンヘンの過ちをくり返すな」がとなえられ、ことさらに世界各地の紛争を激化させてきたことか。歴史の複雑さがここにある。

 日本に戻ろう。学問・言論の弾圧も激しくなってきた。

(8)10月5日
河合栄治郎の著書発禁


「言論の自由が死んだ」

 戦前の日本において、いわゆる「言論の自由が死んだ」のは、国家総動員法が公布施行された1938のこととわたくしは考えている。
 前年12月には左翼といわれる人びとの大量検挙があった(人民戦線事件)。この年の2月には東大の大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、法大の美濃部亮吉、阿部勇たち大学教授・評論家32名がいっぺんに検挙された(教授グループ事件)。同時に内務省からは「検挙されたものの原稿は内容の如何を問わず、掲載を禁ずる」という通牒が雑誌社に送り届けられる。

 そして10月5日、東大教授河合栄治郎の著書が「安寧秩序をみだすもの」として発売禁止処分にされた。河合は自由主義者としてずっとマルクス主義を批判しつづけてきた人。もはや自由主義さえ許されない時代となったのである。
「自分の学説が間違っているとは考えない。職を辞する考えもない。総長や文相が勧告したからといって、それくらいで大学教授は辞職すべきではない」
と河合はいったが、その後起訴されて結局は休職となった。

 それはともかく、これ以後、雑誌から言論の自由がなくなったのは確かなこと。

 日中戦争は戦勝に熱狂する洗脳された国民の後押しを受けて次のように進められていった。

(9)10月253日
漢口を占領


「進む日の丸鉄兜」

 小学校の下級生であった私の記憶でも、当時の日本人は大いに熱狂しきっていたと思えてならない。軍歌と万歳と旗の波と提灯行列の中に、日中戦争は進展していった。あえて言えば、国民のなかに満ち満ちた戦争を望む声によって、空気によって、戦争は一途に拡大していったのである。

 南京占領から徐州作戦へ。終わると南京陥落のあと中国国民政府の首都となった漢口攻略戦である。「露営の歌」という軍歌があった。
「土も草木も火と燃える/果てなき曠野踏み分けて/進む日の丸鉄兜(てつかぶと)」
と歌の文句そのままに、わが"皇軍"は中国大陸の奥へ奥へと進撃していく。漢口占領は1938年10月25日。しかし占領したからといって、戦争解決の方途はどこにもなかった。
「国民狂喜し、祝賀行列は宮城前より三宅坂にわたり昼夜充満す。万歳の声も、戦争指導当局の耳にいたずらに哀調を留め、旗行列何処へ行くのかを危ぶましむ」
 参謀本部の高級参謀の当時の手記の絶望的な一節である。悲しいのは、このどろ沼化した前途には希望がこれぽっちもない現実を、日本のトップはだれもが見て見ぬふりをしていたことである。

 1月16日に「国民政府を相手にせず」という無責任な声明を出した近衛首相が又々余計な声明を発している。『残日録』から転載する1938年最後の記事である。

(10)11月3日
近衛声明がもたらしたもの

「東亜新秩序」

 1938年11月3日、首相近衛文麿がまたまた重大な声明を行った。
「征戦の目的は東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」
 政治・経済・文化の各方面にわたって、日本・満洲・支那(中国)の互助連帯の関係をしっかりと樹立する、そこに日中戦争を戦っている意味がある、すなわち戦争の目的は「東亜新秩序の建設」というわけである。

 陸軍はむしろ「東洋道義文化の再建」と声明してほしいと希望していた。それをあえて新秩序といったのであるが、とくに手前勝手な文言ではないと近衛は思っていた。が、この声明が海外の日本観に悪影響を与えた。

 とくにアメリカが日米通商航海条約の破棄を考えるのも、これがきっかけになったといわれている。新秩序という言葉にもられているのは、ヒトラーがヨーロッパ新秩序をとなえているのに呼応し、日本が東亜の盟主たらんとしている思想である、と世界列強は受け取ったのである。有田八郎外相は大いに嘆いた。
「これでもう引き返せない一線を越えた」

 それにつけても、近衛という人は……。

昭和の15年戦争史(24)

1938年(1)~(3)

 1937年の記事は、この年がニッポンが戦時国家へと大きく傾いていった問題の年だった。それを牽引した重要事項の一つが近衛内閣が打ち出した「国民精神総動員実施要項」だった。1938年、近衛内閣は戦時国家への道をさらに強引に推し進めるため、「国家総動員法」を成立させた。そこに至るまでの経緯を『残日録』を用いて追ってみることにするが、1938年のはじめの事項で近衛内閣の悪政を方向付けた重要事項が『残日録』に記載されていないので、まずそれを『史料集』から転載しておく。

(「史料集」から)1月11日
日中戦争と戦時体制(御前会議で決定)


支那事変(日中戦争)根本処理方針

 帝国ハ特ニ政戦両略ノ緊密ナル運用ニ依リ、左記各項ノ適切ナル実行ヲ期ス。

一、支那現中央政府ニシテ此際反省翻意シ、誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ、別紙(甲)、日支講和交渉条件ニ準拠シテ交渉ス。……

二、支那現中央政府カ和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ、帝国ハ爾後之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政権ノ成立ヲ助長シ、コレト両国国交ノ調整ヲ協定シ更生新支那ノ建設ニ協力ス。
 支那現中央政府ニ対シテハ、帝国ハ之力潰滅(かいめつ)ヲ図リ、又ハ新興中央政権ノ傘下ニ収容セラルル如ク施策ス。

三、本事変ニ対処シ、国際情勢ノ変転ニ備へ、`前記方針ノ貫徹ヲ期スル為、国家総力就中、国防力ノ急速ナル培養整備ヲ促進シ、第三国トノ友好関係ノ保持改善ヲ計ルモノトス。……

 別紙 甲
 日支講和交渉条件細目


一、支那ハ満州国ヲ正式承認スルコト。
二、支那ハ排日及反満政策ヲ放棄スルコト。
三、北支及内蒙ニ非武装地帯ヲ設定スルコト。
四、北支ハ支那主権ノ下ニ於テ日満支三国ノ共存共栄ヲ実現スルニ適当ナル機構ヲ設定シ、之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ、特ニ日満支経済合作ノ実ヲ挙クルコト。
五、内蒙古ニハ防共自治政府ヲ設立スルコト。……
六、支那ハ防共政策ヲ確立シ、日満両国ノ同政策遂行ニ協カスルコト。
七、中支占拠地域ニ非武装地帯ヲ設定シ、又大上海市区域ニ就(つい)テハ、日支協カシテ之カ治安ノ維持及経済発展ニ当ルコト。
八、日満支三国ハ資源ノ開発、関税、交易、航空、交通、通信等ニ関シ、所要ノ協定ヲ締結スルコト。
九、支那ハ帝国ニ対シ所要ノ賠償ヲナスコト。
       (日本外交年表竝主要文書)

 随分と虫のよい勝手な方針を決定しているが、以下に見るように、近衛内閣の悪政はこの「根本処理方針」に則っている。では、『残日録』の記事を追ってみよう。

(1)1月16日
強硬な近衛声明


「国民政府を対手とせず」

 駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介とする和平工作もうまく進まず、中国の蒋介石政府は、期限の日まで回答をついによこさなかった。翌日、すなわち1938年1月16日、近衛文麿首相は有名な声明を発表した。
「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手とせず」
 昭和史をとおして、これほどいい気な言葉はない。直接の話し合いはおろか、第三者の仲介も拒否して、戦闘をつづけることを内外に宣言したと同じことであるから。

 およそなにごとであれ、交渉の余地を残さないケンカ宣言を、トップの人が発すべきではない。それを近衛はやった。日中戦争がぬきさしならぬ長期戦となっていくのは当然である。近衛は戦後になって、
「この声明は外務省の起案により広田外相から閣議にはかられたもので……軍部が正面から乗った」
と、外務省と陸軍に責任を押しつけている。しかし実は近衛が中国を軽視し、自身がとにかく勝利のつづく戦争でハッスルしていた。危機に無責任ともいえるお公家さんを首相にいただいたことが日本の悲劇であった。

 『史料集』から近衛内閣が出した無責任な政治声明「国民政府ヲ対手トセズ」の全文を転載しよう。

『帝国政府ハ南京攻略後尚ホ支那国民政俯ノ反省二最後ノ機会ヲ与フルタメ今日ニ及ヘリ。然ルニ国民政府ハ帝国ノ真意ヲ解セス漫(みだ)リニ抗戦ヲ策シ(注1)、内(うち)民人塗炭ノ苦ミヲ察セス、外(そと)東亜全局ノ和平ヲ顧(かえり)ミル所ナシ。仍(よっ)テ帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手トセス(注2)、帝国卜真ニ提携(ていけい)スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ(注3)、是卜両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設二協力セントス。元ヨリ帝国カ支那ノ領土及主権竝(ならび)ニ在支列国ノ権益ヲ尊重スルノ方針ニハ毫(ごう)モカハル所ナシ。今ヤ東亜和平ニ対スル帝国ノ責任愈々(いよいよ)重シ。政府ハ国民カ此ノ重大ナル任務遂行ノタメー層ノ発奮ヲ冀望(きぼう)シテ止(や)マス。     (日本外交年表竝主要文書)』

(注1)
 蒋介石は国民政府を重慶に移してなおも抗戦した。
(注2)
 1月18日に出した補足的声明では次のように述べている。
 これは「同政府ノ否認ヨリモ強イモノ」
 「国民政府ヲ否認スルト共二之ヲ抹殺セントスルノテアル」
(注3)
 重慶を脱出した汪兆銘が1940年3月、南京に新国民政府を樹立した。

(2)3月3日
国家総動員法の珍事件


「黙れ」

「全国民の精神力、物理力これを一途の目標に向って邁進せしめるという所の組織が必要なんではないか。それがこの総動員法……」

 この年の3月3日、衆議院国家総動員法案委員会で、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐が、とうとうと演説をぶった。佐藤は陸相補佐の説明員でしかない。大臣でも代議士でもないものは、議会で意見をのべてはいけないのに、佐藤中佐はかまわず自己の信念を説きだした。

 代議士からは「やめさせろ」「聞く要なし」などのヤジが飛んだ。なかでも宮脇長吉代議士が大声で「やめろ」とやった。と、佐藤はキッとなり「黙れ」と怒鳴ってしまった。佐藤の『回想録』によると「黙れ、長吉」といおうとしたが、さすがに「長吉」はのみこんだとある。

 説明員が代議士に対し「黙れ」とは国会を冒涜したことになって大騒ぎ。翌日陸相は陳謝した。
「長吉とは私の父の名前である。父は声が大きくて気が短く、軍部の政治介入に批判的であった」
とは、いまは亡き作家宮脇俊三の回想。

(3)3月16日
「国家総動員法」成立


「スターリンのごとく」

 前項につづいてこの年の3月、国会は近衛文麿内閣が提出した「国家総動員法」をめぐって政友会も民政党も反対、紛糾しつづけた。勅令(天皇命令)で何でもやれる、そんな法案は認められないと、各党がはげしく抵抗したのである。

 このとき唯一の革新政党といえる社会大衆党は、政府提案にくみし、さかんな賛成論をぶってまわった。

 3月16日、西尾末広が最終審議の本会議場で、賛成演説をぶちあげた。それが歴史に残る名(迷)言となったのである。3月14日は「五箇条の御誓文」70年目にあたる。この御誓文の精神をしっかりと胸にして、近衛首相よ、と呼びかけて、
「もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進む……」
と叫ぶ西尾の声は、「近衛首相に共産主義をやれというのか」などと、もう怒号と机をたたく音で聞こえなくなった。しかし、国家総動員法は、こうした大混乱の後に、この日衆議院を通過した。

 反対意見に「勅令(天皇命令)で何でもやれる」という指摘があるが、『史料集』では第1条の他に第4条・第6条・第7条・第8条・第20条を掲載しているが、全てに「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ……」という文言で始まっている。念のためネット検索してみたら、中野文庫さんの記事『国家総動員法』で、全文読むことができる。それを見るとほとんどの条文が上記の文言で始まっている。

 さて、『史料集』の「支那事変根本処理方針」・「近衛声明」・「国家総動員法」の3記事の後にその3記事についての解説文がある。これが今回の主題のまとめとして、とても適切な解説文なので、全文転載しよう。


 1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まるが、戦争の長期化に対応する内外の状況を右の史料から見てみよう。戦火は華北から上海に飛火し、中国軍の激しい抵抗にあうが、12月13日には首都南京を占領し、南京大虐殺をおこす。この間中国駐在ドイツ公使トラウトマンを通じて和平工作が行われたが、南京占領によって近衛首相をはじめ政府側から強硬意見が出され、対ソ戦準備を前提とし和平交渉継続を主張する参謀本部を押さえて、1938年1月11日御前会議で史料の「処理方針」が決定されたのである。

 「処理方針」は、文字通り事変に対する根本方針になるもので、第一条で中国国民政府との講和交渉をよびかけているが、第二段階として第二条を構えており、5日後の近衛声明を予期していることがわかる。

 「別紙」の交渉条件細目をみれば、3・4項は華北の植民地化と中国の半植民地化、5・6項は対ソ体制の強化などをねらっていることが明確になる。また先述のように、第二条により、全面屈服しなければ、「国民政府ヲ対手ニセズ」、傀儡政権を樹立するという強硬方針が1月16日の声明となった。日本はこうして国民政府を否認し、自ら和平の道をとざし、長期戦の泥沼へと落ちてゆくことになった。

 日中戦争の長期化は国家の経済力をすべて戦争に動員することを要求し、国家総動員法が財界や既成政党の反対を押し切って制定される。史料から経済・労働や社会生活のどのような分野に統制運用が及ぼされているかを具体的に確認しよう。これにより政府は戦争遂行のために必要と認める命令を議会の議決を必要としない勅令によって発令できることになり、「人的及物的資源」をすべて統制・動員することが可能となった。首相は日中戦争中には同法を適用しないと言明したが、1939年から同法による各種の統制法の勅令が出された。こうして議会の機能はいちじるしく弱体化し、日本におけるファシズム体制は確立されたといえよう。