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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(18)

1937年(5)~(8)

 日中戦争が始まり、日本が戦時国家へと大きく踏み出した頃、スペインでは第二次世界大戦の前哨戦と見なされるような大きな内乱が起こっていた。そのスペインの内乱にヒトラーが介入し、1937年4月26日にドイツ軍がスペインのゲルニカを無差別爆撃する事件が発生している。『世界の歴史12』から、この事件に関する部分を転載しよう。

(5)7月26日
ゲルニカへの無差別爆撃


スペイン内乱

 1936年7月18日、スペイン領モロッコで国粋主義の軍人たちが暴動をおこし、フランコ将軍がその指揮をとるとともに、反乱はスペイン各地にひろがっていった。  それはこの年2月、人民戦線政府が成立したときから、軍部や右翼諸政党によって準備されていたものである。

 当時、人民戦線派の議席のうち、共産党はわずかを占めているにすぎなかったが、地主資本家、カトリック教会、軍部など右翼勢力の大義名分は、もっぱら「スペインを共産化から救う」というところにあった。フランコら反乱の指導者たちは、48時間以内にクーデターは成功すると信じていたし、共和国政府もはじめは事態を楽観していたようである。そして世界中のだれひとりとして、これが第二次世界大戦の前哨戦として注目をあつめるような内乱に発展しようとは、思ってもみなかった。

 元来、フランコら軍部の反乱は独伊の積極的な軍事援助のもとで計画されていた。第二のシーザーをもって任ずるムッソリーニは、地中海を「イタリアの海」にしたいと夢みたし、ヒトラーもスペインの重要鉱産資源はもちろんのこと、その戦略的地位にも注目していた。

 援助の内容は飛行機、戦車をふくむ大量の武器と弾薬、兵員、軍需物資などであるが、その総量についてはまだ明らかでない。37年3月イタリア軍兵士は6、7万にたっしたし、39年4月までのドイツの援助は金額にして約5億マルクといわれている。37年4月26日の有名なゲルニカの爆撃は、ドイツの援助の仕方をよくしめしていた。フランコ軍のマークをつけたドイツの新鋭戦闘爆撃機が、ゲルニカ――小さな町で古代バスク文化の中心地であり、軍事的にはまったく意味がなかった――を爆撃し、低空飛行の機銃掃射を、婦女子をふくむ非戦闘員にあびせたのである。ピカソをはじめ全世界の人びとはこの野蛮な行為を非難した。ヒトラーは実戦の場で空軍をきたえたり、戦車の装備をテストしたり、きたるべき戦争の予行演習とこころえていたのだ。

 このような独伊の公然たるフランコ援助にたいして、英米仏は不干渉政策をとった。フランコが反乱をおこしてから1週間めの7月25日、フランスのブルム人民戦線政府はスペインヘの武器輸出を禁止した。8月はじめ、イギリスのボールドウィン政府もこれに賛意を表明した。そして8月末、ブルムの提案で、不干渉に賛成する国による不干渉委員会が設置されることとなった。ここには当事国スペインと中立国スイスをのぞく全ヨーロッパの諸国が参加した。アメリカは参加しなかったが、英仏の不干渉政策を全面的に支持することは、35年いらいの「中立法」の存在によって明らかであった。

 独伊は不干渉委員会に参加していたにもかかわらず、公然とフランコを援助していたのだから、不干渉委員会は実際上はスペインの合法的政府をポイコットし、その武器購入を阻止するものとなっていた。そこで同じく不干渉委員会にはいっていたソ連は10月、スペイン政府への援助をおこなうことを明らかにした。

 また世界の民主勢力は「国際旅団」への支援を強めた。 これはスペイン内乱がはじまるとすぐに、スペイン在住の外人によって自然発生的に組織されたものであるが、反ファシズム運動の高まりのなかで世界の各地から義勇兵がはせ参じた。その正確な数は不明であり、37年2月には1万5千人(32の国籍)とか、延べ人数で約3万2千という数字もみられる。テールマン部隊(ドイツ人)、ガリバルディ部隊(イタリア人)パリ・コミューン部隊(フランス人)、リンカーン部隊(アメリカ人)などが生まれた。ソ連の作家エレンブルグは、ヘミングウェイ(1899~1961)があるとき、
「ぼくはあまり政治はわからないし、それに好きでない。けれどもファシズムがどんなものであるかは、ぼくも知っている。ここでは人びとは正義のために戦っているのだ」
といったことを伝えている。ヘミングウェイがやがてスペイン内乱を題材として、『誰がために鐘はなる』を書いたことは有名である。

 スペイン内乱で「国際旅団」に結集した義勇兵の国々を見ると、なるほど、スペイン内乱を第二次世界戦争の前哨戦とみなす視点が納得できる。

 日中戦争に戻ろう。

(6)7月29日
通州事件がもたらしたもの


「私が信じた支那人よ」

 日中戦争が始まって間もない1937年7月29日、河北省の通州で在留日本人・軍人142名が、冀東(きとう)政権の保安隊の襲撃をうけて惨殺された。通州事件である。日本の傀儡政権の冀東政府を、日本軍が誤って爆撃したために、これに怒った保安隊が中国軍と一緒になって攻撃してきたものである。

 その残虐事件の影響は大きかった。日本人の怒りの炎は燃えたぎったといっていい。のちの南京事件はこれに発すると説く論者もいる。

 東京では、9月に真山青「嗚呼通州城」が上演された。戦火を避けて通州へ逃れてきた女主人公が始めにいう、
「日本人のある人はあまりに支那を疑いすぎたのです。今日こんな事変(日中戦争)が起きたのは、支那を信じすぎた人の罪ではなく、疑いすぎた人たちの責任だと思います」。
だが、劇の後半で、通州の反乱が起きると、
「私を撃ったのは、私が信じた支那人よ」
と、激しくののしるようになる。

 これが当時の平均的な日本人の中国に対する心情であった。以後、中国への憎しみはもはや鎮静することなく、増大する。思えば不幸な事件であった。

(7)8月19日
北一輝の死刑


「天皇大権ノ発動ニヨリ」

 国家主義運動の思想的指導者である北一輝が、2・26事件の首謀者として、死刑台上に54歳の生命を終えたのは、この年の8月19日である。

 彼はこの反乱事件に直接に参加してはいなかった。しかし陸軍は、彼の理論が反乱軍兵士の思想的支柱となっていたとみなし、処刑した。行動ではなく、思想そのものを断罪したのである。

 代表作はわずか三冊。それだけにその思想の全ぼうはつかみにくい。最後の主著『日本改造法案大綱』には、
「天皇ハ全国民ト共ニ、国家改造ノ根基ヲ定メンガ為メニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ3年間憲法ヲ停止シ、両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲシク」
と書き、天皇を"決断する超越的な権力者"にまつりあげている。この天皇像が、現状打破をもとめる2・26の青年将校の心をとらえた。もっとも、生き残った青年将校たちは、わたくしの取材にたいし「北とはまったく関係がない」と証言したが。

 それと昭和史をひっかきまわした"統帥権干犯"は北の造語であった。司馬遼太郎のいうこの「魔法の杖」が歴史をあらぬほうへ動かしたのである。

 私は北一輝の思想を全く否定するが、しかし思想を断罪して死刑に処す方にも全く賛同しない。これはアベコベが強行採決した「共謀罪」に通底している問題である。

 次の問題は前回予告した近衛第1次内閣の悪政策再論である。

(8)8月24日
近衛第一次内閣の政策


「国民精神総動員」

 近衛文麿を首班とする第一次近衛内閣が成立したのは、1937年6月4日である。若き貴公子の近衛は政党・軍部・財界などですこぶる人気のあった人物で、その誕生をジャーナリズムも大歓迎した。

 近衛内閣は「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を三大目標にかかげ、新聞はさっそく「近衛挙国一致内閣」と太鼓をたたいた。しかし、国民からすれば、内閣が推進しようとする貯蓄増強も、勤労奉仕も廃品供出も、前途にきな臭いものを感じさせる政策としか思えなかった。

 案の定である。1ヵ月後には盧溝橋事件、つづく上海事変と、日中戦争が起こってぐんぐん拡大していった。日本はたちまちに戦時国家となる。

 内閣は国民の気持ちをひきしめるため、8月24日、「国民精神総動員実施要綱」を決定。全文50条からなるこの法律で、日本は本格的に戦時体制へと転換していった。

 いらい1945年の敗戦まで、日本人は「国民精神総動員」の美名のもとにあらゆる辛苦に耐えねばならなくなった。2度と精神まで総動員される時代が来ないようにと祈らざるをえない。

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