FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(17)

1937年(1)~(4)

 日中戦争は1937年に勃発する。つまりこの年、日本は戦時国家となっていった。従ってこの年に起こった取り上げるべき事件も多い。今のところ17項目ある。2~3回に分けて掲載することになるだろう。

(1)1月21日
浜田国松の名演説


「キミ割腹せよ」

 壇上に立った政友会の浜田国松代議士は、なにをも恐れぬかのようにいった。
「独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ……」
 これにたいして陸相寺内寿一が反発した。
「軍を侮辱するがごとき言説があったのは遺憾である」
 ふたたび浜田は登壇し蛮声をはりあげた。
「武士は古来、名誉を重んずる。どこが軍を侮辱したか、事実をあげよ。あったら割腹してキミに謝する。なかったら、キミ割腹せよ」
 世にいうハラキリ問答である。1937年1月21日の衆議院本会議でのこと。

 2・26事件後の、政治的進出をあらわにする陸軍にたいする政党人の最後の抵抗ともいっていい事件で、結果は広田弘毅内閣の総辞職。

 この論争には知られざるエピソードがある。寺内陸相の弁がさえなかったのは、この野郎と威勢よく登壇したのはよいが、閣僚席に老眼鏡を忘れてきてしまったからという。かねて用意の激越なメモが読めなかったのである。

 それにしても、浜田は立派であった。

(2)2月17日
「死なう団」の集団割腹


「死のう死のう、死のう」

 「死のう死のう、死のう」と3回大声で叫ぶ。正座する。遺書を前におくと、もろ肌をぬいで、もってきた短刀で切腹自殺をする。

 この年の2月17日の正午すぎ、東京の国会議事堂前、警視庁前、内務省前、宮城前、外務次官邸前の5ヵ所で、5人の青年が時間を合わせたようにして腹に短刀を突き立てた。といっても、短刀には副木があてられていて、刃は2センチほどしかでていないから、致命傷にはならなかった。

 新聞はさっそくこの奇妙な事件を報じ「死なう団」と大きく書きたてた。正式には日蓮会殉教衆青年党といい、宗教改革を叫ぶ江川桜堂という青年を盟主とする。団員28人。ところが特高警察にマークされ全員が拷問されたとして激怒、真相を世に知らせるため"自殺にあらざる切腹"行動にでたものという。日蓮宗でいう「不惜身命」を、スローガンの「死なう」の一語にこめた。

 しかし、あまりの奇矯な行動は世間をびっくりさせただけで、その後にひどい弾圧をうけて姿を消した。

 まったくバカバカしい集団ではある。こうした事件に接する度に思うことがある。宗教にのめり込んだ人の考えをも思想と呼ぶ人たちがいるが、私にはこれも妄想としか考えられない。念のため「広辞苑」から「思想」の哲学的意味を取り出して見よう。
「(ア)判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。」
 つまり、妄想には「論理的反省」が皆無なのである。

 次は敗戦前の支配階級が依拠した妄想の典型。

(3)5月31日
『国体の本義』の発行


「天皇は現御神として……」

 1935年2月の天皇機関説問題のあおりを受けて、広田弘毅内閣は
「機関説は国体に反するものだ。では、国体とは何か。明らかにせよ」
と軍部や右翼団体に突き上げられ、さらに代った阿部信行内閣はその態度決定を迫られた。結果としてこの年の5月31日に『国体の本義』が世に出た。著作者の氏名はない。ただ文部省発行とだけある。以後はこの書が"国体明徴"の教科書となるのである。

 とにかく、のちのちの参考のために――。
「……皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、万世一系の天皇の大御心であり、八百万の神の念願であると共に、一切の国民の願である。……天皇は、外国の所謂元首・君主で王権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国以来の大義に髄(したが)って、この国をしろしめし給うのであって……」

 日本帝国は以後まさしく「神国」となり、天皇は現人神であり、これを疑うことは許されなくなった。壮大なフィクションの時代が始まったのである。わたくしも中学生になつたとき、たっぷりと「神国」の民であることを仕込まれた。

(4)7月7日
日中戦争のはじまり


「盧溝橋の運命の一発」

 1937年7月7日、北京の西郊の盧溝橋付近で、夜間演習中の日本軍と中国軍に銃弾が撃ちこまれ衝突が起こった。この報がとどいたとき首相近衛文麿は、
「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」
と案じた。心ある人はだれもが、満洲事変のときの記憶を新たにしたのである。

 しかし「運命の一発」は日本軍の計画行動ではなかった。しかも、いったん停戦協定が成立し、日中両軍は兵をひいた。が、9日午前2時、ふたたび挑発的に銃弾が両軍に撃ちこまれて再衝突、戦火は一気に拡大して収拾がつかなくなる。これが日中戦争のはじまりである。

 田中隆吉元少将の戦後の手記に面白いことが記されている。同僚の茂川秀和少佐が語ったという。
「あの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。あの晩、日中両軍がそれぞれ夜間演習をしているのを知った学生が、双方にむかって発砲し、日中両軍の衝突をひき起こさせたのです」
 ただし、田中証言は信用できぬものであるという。念のため。

 一体この奇っ怪な事変の真相はどうだったのだろうか。『探索4』に「盧溝橋事件のナゾの発砲者」という項がある。そこから上記の続編として主要部分を転載しておこう。


はたしてこの「運命の一発」も日本軍の策謀であったかどうか。それはほぼあり得ないこと、それが今日では定説となっている。いま公表されている史料ではなお"犯人"不明とするのが正当であろう。というのは、最初の一発で本格的な戦争がはしまったわけではなく、9日に一旦は現地の日中両軍間においてふたたび交戦しないように撤兵協定か結ばれようとしていた。ところが、10日午前2時、その停戦協定をぶち壊すために、日中双方の強硬派が爆竹などを用いて挑発行動をとったことは確かであり、結局は10日午後4時、またまた実弾が日中両軍に撃ち込まれ衝突、戦火拡大して収拾がつかなくなった。それが事実であるからである。

 この10日の実弾射撃の犯人がだれであるのか。不明ということは、それだけで陰謀のあることを想像させるが、とにかくそれ以前に、一触即発の危険きわまりない空気が日中両軍の間に存在していたのである。国家意識や民族感情というものは、もともと非合理で、どろどろした可燃性のものである。これに火がつくと外交上の解決は困難になる。そうなれば、政治の延長である戦争という手段が大手をふって罷り通るのである。部分的な戦闘もアッという間に本格的な戦争へと拡大していった。

 たしかに、2・26事件で皇道派が没落したあと、陸軍省や参謀本部のなかには、チャンスとしてこの際中国軍を徹底的に叩き、これを制圧した上で、本来の敵であるソ連との決戦に備えるべきだと主張する"中国一撃論"のグループが主流となっていた。その辺の事情は石原莞爾の回想応答録がきちんと説いてくれている。

 あに軍ばかりではなかった。ときの内閣を率いていたのが公卿の筆頭である近衛文麿である。近衛はつねづね陸軍の独断専行には不快感をもち、統制派が天下をとった陸軍に少なからず不満を抱いていた。ところが、残念なことに公卿出身の判断力の甘さと、性格的な弱さとをもっていたため、結局は陸軍の要望に押し切られ政策を容認し、追認していったのである。というよりも、実に近衛自身が戦争にたいして人一倍の張り切りようを見せるのである。つまり彼のうちに戦火に接することによって大いに勇み立つ何ものかがあったとみるほかはないが。

 11日の「華北派兵に関する声明」を発し、
「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」
と言い切った。

 以下、8月15日の「政府声明」、9月9日の「国民精神総動員についての内閣告諭」と矢継ぎ早に声明を出して、国民の尻を叩き叱咤激励しつづける。当時のはやり言葉「暴支膺懲」そのものに、言うことをきかない支那を断々乎としてこらしめる、との政府声明で煽りたて、国民を発奮させたのである。

 近衛第1次内閣の政策については次回に改めて取り上げる予定である。

(追記)
 私には「今はまさに戦前である」という大きな危惧があって、日本が犯した大きな過ちを再び犯さないために、「昭和の15戦争」という過去の大きな過ちを振り返へろうと思い立って、「昭和の15戦争史」を始めた。その後「今はまさに戦前である」という危惧を持っている人の言説にいくつか出会ったが、今日(11月15日)の東京新聞「本音のコラム」で斎藤美奈子さん(文芸評論家)が1937年と現在を比較して、同じ危惧を語っていた。紹介したくなった。(無断での転載ごめんなさい。)

コペル君の時代

 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は1937(昭和12)年の本である。旧制中学1年生のコペル君(本名は本田潤一)と仲間たちの物語にコペル君の叔父がつづった「おじさんのノート」を併録した本で、私がはじめて読んだのは小学5年生のころ。油揚げは豆腐を揚げたものであることはこの本で知った。
 その『君たちは…』が売れ行きを伸ばしているそうだ。8月にマガジンハウスから新装版と漫画版が刊行され(漫画版は50万部超!)、旧来の岩波文庫版も好調とか。
 10年ほど前、非正規雇用者の増大で、小林多喜二『蟹工船』が売れたのと同じような現象?
 軍国主義が跋扈(ばっこ)する時代。『君たちは…』が誕生した背景を、吉野源三郎は次のように記している。
〈この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化があることを、なんとかして伝えておかなければならない〉
 しかし、歴史はどう動いたか。37年は日中開戦の年。この年に13~14歳だったコペル君たちは、43年には19~20歳。学徒出陣の世代に当たる。彼らみたいな少年たちが6~8年後には戦争に動員されて命を落としたのである。
 と思うと穏やかではいられない。「偏狭な国粋主義と反動的な思想」に抗(あらが)う本の好調を喜ぶべきか嘆くべきか。37年と2017年の符合が気にかかる。

スポンサーサイト