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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(16)

1936年(11)~(13)

(11)8月7日
広田内閣の「国策ノ基準」


「南北併進」

 戦前の昭和史がどこから正常ならぬ方向へ動き出したのか、いろいろな見方があるが、その曲がり角の一つに1938年8月7日の広田弘毅内閣が決定した「国策ノ基準」がある、と私は思っている。

 この日、首相広田、外相有田八郎、蔵相馬場鍈一、陸相寺内寿一、海相永野修身(おさみ)の五相会議は、これからの日本の進路を定める運命的な国家政策をきめた。
「外交国防あいまって東亜大陸における地歩を確保するとともに、南方海洋に進出する」
 こうして、国家の大方針を「南北併進」にすること、つまり南進がはじめて決定された。

 同時に同日、「外交方針」をも変更した。ソ連を仮想敵国の第一とし、米英とは何とか親善を保持する。その上で
「速やかに北シナをして防共・親日の特殊地帯たらしめる」
と。
 他国の領土である中国北部を親日の"特殊地帯"にしよう、すなわち満洲国化しようという。なんと高圧的な政策であることか。

 日本はすっかり増上慢な国となっていたのである。

(12)10月19日
魯迅の死


「水に落ちた犬は打て」

 1998年の『文藝春秋』8月呼は「20世紀図書館」と題し、20世紀に書かれた本のベスト100冊を、政・官・財・文化人のアンケートによって選んでいる。それはまことに賑やかな特集であった。
 海外の部のベスト2が魯迅の『阿Q正伝』。なるほどと考え、北京の阜成門街にある魯迅の故居を、十数年前に訪ねたときのことを思い出したりした。

 『阿Q正伝』ほど20世紀前半の中国という国をあざやかに描いた作品はない。また、人はすべて被害者であり加害者でもあることを教え、そして愚直に生きることの尊さと悲しみを、この作品は伝えている。

 その魯迅が残した名言として「打落水狗」すなわち「水に落ちた犬は打て」というのがある。魯迅は当時の反革命派を指して「犬」といった。かれらのような悪人には情け無用という意でいったのである。革命と反革命のあらしの中で、身命を賭して生き抜いた魯迅の苦悩が、この言葉の背景にある。

 1936年10月19日、魯迅死す。享年48。それは、日中戦争がはじまる前年である。

 次に掲載する『共産「インターナショナル」に対する日独協定』(共産「インターナショナル」とは所謂「コミンテルン」のことである。)は『残日録』にはないが、『探索3』から転載する。

 この協定には37年11月にイタリアが参加して日独伊防共協定となる。そしてこれが40年9月の日独伊三国同盟へと引き継がれていった。

(13)11月27日
共産「インターナショナル」に対する日独協定



共産「インターナショナル」に対する日独協定
         (昭和十一年十一月二十七日公布)

大日本帝国政府及独逸国政府ハ、共産「インターナショナル」ノ目的カ其ノ執り得ル有ラユル手段二依ル既存国家ノ破壊及暴圧ニ在ルコトヲ認メ、共産「インターナショナル」ノ諸国ノ国内関係二対スル干渉ヲ看過スルコトハ其ノ国内ノ安寧及社会ノ福祉ヲ危殆(きたい =非常にあやふいこと)ナラシムルノミナラス世界平和全般ヲ脅スモノナルコトヲ確信シ、共産主義的破壊ニ対スル防衛ノ為協カセンコトヲ欲シ左ノ通り協定セリ
第一条
 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ活動二付相互二通報シ、必要ナル防衛措置二付協議シ且緊密ナル協力二依り右ノ措置ヲ達成スルコトヲ約ス
第二条
 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ破壊工作ニ依リテ国内ノ安寧ヲ脅サルル第三国ニ対シ本協定ノ趣旨ニ依ル防衛措置ヲ執り又ハ本協定ニ参加センコトヲ共同ニ勧誘スヘシ
第三条
 本協定ハ日本語及独逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ署名ノ日ヨリ実施セラルヘク且五年間効力ヲ有ス締約国ハ右期間満了前適当ノ時期ニ於テ爾後ニ於ケル両国協カノ態様ニ付了解ヲ遂クヘシ

右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ

 昭和十一年十一月二十五日即チ千九百三十六年十一月二十五日
「ベルリン」ニ於テ本書二通ヲ作成ス

大日本帝国特命全権大使
        子爵 武者小路公共 (印)
独逸国特命全権大使
ヨアヒム・フォン・リッペントロップ (印)

     (出典〔日本外交年表並主要文書〕)

 最後は「世界をおどろかせた西安(シーアン)事件」である。

(14)12月12日
西安事件が生んだもの


「真の敵は日本軍ではないか」

 張学良は1928年に父張作霖が爆殺されたことで、心底から日本軍を恨み、対共産軍との戦闘に闘志をもやそうとはしなかった。張の手ぬるさに業をにやした国民政府軍の蒋介石総統は、督戦すべく南京から西安へ飛んだ。
 しかし、張は「真の敵は日本軍ではないのでしょうか」と強硬に言い張った。蒋はそうした張に怒りを燃やした。反乱はその直後に起こったのである。

 1936年12月12日、蒋介石は張の部隊によって監禁されてしまう。張は、共産党軍を敵とする内戦の停止、武装抗日の推進を蒋に強く要求した。

 蒋介石監禁の知らせは共産党にいち早く届けられた。毛沢東は蒋の処刑を望んだが、スターリンや周恩来は反対し、日本と戦うためには国民政府軍と共産軍との協力が大事と、毛を説得した。こうして国共合作は成り、民族統一戦線が結成される。これを西安事件という。

 1937年から、日中関係は急激に悪化する。日中戦争への道は大きく開らかれた。この事件がまさに歴史の転回点となった。ところが日本の陸軍や外務省の中国通は事態の深刻さを認識せず、いずれまた分裂するさと楽観していたのである。

 翌年7月、日中戦争が勃発するが、中国では国共合作は分裂せず、9月に第二次国共合作が行なわれている。
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