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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(15)

1936年(5)~(9)

(5)5月18日
軍部大臣現役制の復活

「陸軍は陸相を推薦できない」

 少し後の話ではあるが、ナチス・ドイツとの関係の緊密強化は承認できないと、米内光政内閣は頑強であった。手を焼いた陸軍は伝家の宝刀を抜いた。畑俊六陸相の辞任である。陸相なしで内閣は成立しない。米内は陸軍に後任の陸相の推薦を要望したが、返事はにべもなかった。「陸軍三長官協議の上、米内内閣に陸相を推薦出来ない」と。1940年夏、後任の陸相がないゆえに米内内閣は倒れた。ここから日本は戦争への道を急進しはじめる。

 もしこの軍部大臣現役制の制度がなければ、予備役または退役の軍人を強引に陸相にすえることで、総辞職は回避できたであろう。しかし、現実にはこの制度が大きく立ちはだかった。これ以後も、軍部は好まない内閣にたいして、陸相を出さないことで意のままに内閣を揺さぶり、倒壊させることができた。

 昔あったこの制度が一度消えたのに、昭和になって復活する。すなわち1938年5月18日、広田弘毅内閣のときである。このことだけでも、広田にはシビアな辛い点をつけざるを得ない。

 もちろん、背後に陸軍の圧力があったのであろうけれども。

 軍部大臣現役制は正しくは「軍部大臣現役武官制」と言うようだ。この制度の歴史を調べたら、次のようであった(ウィキペディアの『軍部大臣現役武官制』から抜粋転載する)。
 日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。
 しかし、日露戦争後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、1913年(大正2年)の山本内閣の時には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。
 再び軍部の影響力が強まった1936年(昭和11年)に問題を起こした退役軍人の影響を排除するためという名目で軍部大臣現役武官制は復活し、1945年(昭和20年)の敗戦により軍部大臣が消滅するまで続いた。
 一方、日本以外の国、特に西欧諸国においては、第二次世界大戦以前においても軍部大臣に文官を任用する例も多く、政治の軍事に対する優位を原則とする文民統制の理念が確立している。

(6)6月1日
「国民歌謡」の放送


「名も知らぬ遠き島より」

 歌手渡辺はま子が歌った「忘れちゃいやよ」が、歌詞と卑猥な歌い方がけしからん、という理由で発売禁止。ほかにも、「うちの女房にゃヒゲがある」「ああそれなのに」と、非常時なのにたるんだ卑俗な歌であるぞ、と発売禁止。やたらに「禁止」「禁止」と軍部や内務省がそっくり返る時代であった。

 そこで健全な歌詞で、健全なメロディで、健全な歌い方で、国民の気持ちを浄化しなければならないと、NHKラジオが「国民歌謡」を放送しはじめたのが、この年の6月1日のことである。2・26事件後の戒厳令がいまだ解けず、人心がピリピリしていたころである。

 島崎藤村作詞「名も知らぬ遠き島より」の「椰子の実」、北原白秋作詞の「落葉松(からまつ)」、藤村がつくる「朝」、もうひとつ「ラララ 紅い花束車に積んで……」と歌いだす喜志邦三作詞、内田元作曲の「春の唄」など。小学校の唱歌の成績「丙」の私はサッパリであるが、こう挙げてくるとたちどころに歌いだせる人も多いことであろう。

 しかし間もなく日中戦争がはじまると、戦意高揚を主とするようになる。「とんとんとんからりと隣組」だけは私にも歌える。

(7)7月5日
2・26事件に判決下る


 「意図したのは革命である」

 1936年7月5日、非公開の陸軍軍法会議は、同年2月26日に起きたクーデター、2・26事件を指揮した青年将校に判決を下した。安藤輝三、栗原安秀、中橋基明ら17名に死刑、5名に無期禁固、2名に10年と4年の禁固が言い渡された。

 そして磯部浅一、村中孝次の二人以外の15名はつぎに記すように7月12日に死刑が執行される。遅れて8月19日、磯部、村中は北一輝、西田税(みつぎ)らとともに処刑された。処断はすばやく、思い切ったものであった。2・26事件は戦前の日本においてはこうして闇の中に消えた。

 裁判では被告全員が、北一輝の『日本改造法案大綱』との無関係を主張したが、一切聞きとどけられることなく終わった。そして「意図したのは、この書にもとづく革命である」と認定される。
 一、兵営を出た瞬間から反乱部隊なのであり、
 二、その行動を是認など軍中央は全くしていない。
 この二つの前提条件からはみ出すような証拠には完全にふたがされた。「暗黒裁判」といわれるゆえんが、そこにある。

(8)7月12日
2・26事件、青年将校銃殺


「栗原死すとも維新は死せず」

 1936年7月12日、2・26事件の青年将校たち15名の銃殺が、代々木の刑場で3回にわけて行われた。

 かれらは目隠しをされ、看守に両側から腕を支えられ、夏草を一歩一歩ふんで刑架についた。むしろの上に正座、十字架に両腕、頭部、胴を、さらし木綿でしばりつけられた。そして一杯の水が与えられた。つぎつぎになされる銃殺の音をまぎらすため、レンガ塀の向こうの練兵場では軽機関銃の空砲の音がしきりに鳴っていた。この日は曇り空であったという。

 青年将校のひとり、栗原安秀中尉の最後の言葉「天皇陛下万歳。霊魂永遠に存す。栗原死すとも維新は死せず」、当時29歳。

 とにかく陸軍の処断はすばやく、かつ思いきったものである。事件の真実を永久に隠蔽するかのように。処刑は裁判前に確定していたのである。

 斎藤茂吉は歌った。  「号外は死刑報ぜり しかれども 行くもろつびと ただにひそけし」

 だれもがものも言わない時代となっていた。
(9)7月18日
スペイン内戦の発端

「ノー・パサラン」

 1936年2月の総選挙で、スペインの中道および左翼政党は、右翼勢力に対抗するため連帯して人民戦線を形成して選挙を戦いぬき、大勝利をえた結果、共和国政府が成立する。

 しかし、7月18日、フランコ将軍に率いられたモロッコ駐屯のスペイン軍が、新政府に反旗をひるがえし、本土に向かって攻撃開始すると表明した。スペイン戦争の発端である。その夜、国際的にも知名の女性革命家イバルリが、全労働者にむけてラジオを通して呼びかけた。 「ひざを屈して生きるより、足で立って死のう!ノー・パサラン」
 このときから「ノー・パサラン」(ヤツらを通すな)が、抵抗運動の合言葉となる。

 戦争は2年半も続いたが、結局はフランコ軍の勝利となり、すべてが空しくなる。「ノー・パサラン」どころかマドリッド市中をフランコ軍が大手を振って闊歩した。

 この戦争では、世界中から若者たちが、だれに頼まれたわけでもないのに自発的に理想のために、命懸けで外国の戦場へ赴いていくという事実があった、ということぐらいは心に銘じておいてほしいものである。

 スペイン戦争に関連した論考「ベルリン五輪とスペイン戦争」が『探索3』にある。これを転載しよう。

(10)8月1日
ベルリン五輪とスペイン戦争


この日(8月1日)、全世界の眼がひとりの小男に注がれた。"二十世紀のシーザー"ヒトラー総統によって第11回オリンピックの幕が華やかに開かれたのである。

 入場式では、オーストリアはナチス・スタイルでヒトラーに挨拶し、観客席のドイツ群衆の喝采を浴びた。フランスはしきたりによる挨拶の礼を守ったために、「祖国フランスがヒトラー1人に挨拶しているようなムードであった」とフランスの新聞記者は地団太を踏んで口惜しがった。イギリス選手団はただ単に「頭、右!」の礼をしただけ。ドイツ群衆はブーブーいった。アメリカは先頭に立つ旗手が星条旗を下げないどころか、誇らしげに高々と上に掲げた。ドイツ群衆は足を踏み鳴らし無礼なヤンキー魂に激しい抗議送った。日本選手団は戦闘帽姿でおとなしく手を横に出して、ヒトラーに敬意を捧げた。

 敬意と猜疑と敵意とによる冷たい戦争はもうはじまっている。ナチス・オリンピックは選手自身の栄光より、国家の名誉が先に立って争われ、競技は国家の威信をかけての戦いとなった。結果はメダルの数の比較によって、ドイツのスポーツ記者はこう書いた。
(1)ナチス・ドイツはアメリカよりも活躍せり。
(2)イタリアはフランスより優れていた。
(3)日本はイギリスを圧倒せり。
 つまりドイツの新聞は、国家主義・全体主義こそが人間のエネルギーを効果的に発揮させ、自由主義・民主主義を負かす方法であることを証明した、と強調したかったのである。

 こうして「民族の祭典」「美の祭典」は終わる。と、祭りのあとには戦いが来た。6月ごろからくすぶっていたスペインの内乱が火を噴き、みるみると内戦へと拡大していった。フランコ将軍の率いる国家主義者側(右翼)と人民戦線側(左翼)の抗争が銃火を交え、8月には本格的な戦争へと発展してしまった。同じスペイン人同士の凄惨な殺し合いである。

 各国がこの戦いをスペイン人だけの手に委ねておくはずがなかった。ヒトラーはただちにフランコ側に精鋭ドイツ空軍や戦車部隊や砲兵部隊を送り込んだ。イタリアのムッソリーニもそれにつづいた。ソビエトとフランスが人民戦線側に回り、機械化部隊と空軍を送りこんだ。アメリカとイギリスは人民戦線側に同情を示しながら、不介入・中立の立場をとった。結果として、スペインの内戦は世界の列強がよその国土で行う代理戦争にほかならなくなったのである。

 ドイツもソ連も、やがて来るであろう第二次世界大戦の実地訓練をスペインの国土で行い、スペイン人の血によって得がたい教訓を身につけてさっさと戦場から去っていった。有益なリハーサルのあとに残されたものは、癒えない深い傷を負ったスペインの国土と民衆だけである。このスペイン戦争で奪われた人命はいまにおよんでも確定していない。両軍あわせて約60万が死に、さらに戦い終わった後、勝ったフランコ将軍側によって、人民戦線側10万人が処刑されたという。

 オリンピック憲章は<オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない〉と規定しているが、赤字部分はナチス・オリンピックだけの問題ではない。オリンピック憲章の規定は現在は空文化している。これも私が東京オリンピックに反対している理由の一つである。
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