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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(11)

1934年(5)~(6)

 1927年4月12日、上海での蒋介石による「4・12クーデター」で国民解放軍は国民党と共産党に分裂する。その後の中国共産党の活躍を『世界の歴史 12』を用いて追ってみる。

(5)10月
中国共産党の長征開始


 毛沢東の革命運動は、数年のうちにめざましい発展をとげ、1931年11月には、江西省の瑞金(ルイチン)で第一回の代表大会がひらかれるまでになった。そのころ、この地区には九つの解放区があり、そこには三百余県にわたって、数千万の人ロがふくまれていた。この大会では、中華ソヴェト共和国臨時政府の成立が宣言され、憲法大綱、労働法、土地法などが決定された。そして毛沢東はその臨時政府の主席に就任した。

 この臨時政府の成立は、中国の近代史上、きわめて大きな意味をもっていた。その支配区域は、ひろい中国大陸からみれば、ようやく一割程度にすぎなかったけれども、この国にはじめて労働者と農民の政府が樹立されたのである。

 しかし、ソヴェト政府の成長に対しては、非常な困難が待ち構えていた。まず第一に蒋介石(チャン・チェシー)が黙ってみてはいなかったからである。蒋介石は、4・12クーデター以後、さらに北上をつづけ、翌1928年には北京に入城して北伐を完成し、ほぼ全国の統一をなしとげていた。だから彼にとって、この江西ソヴェトは、どうしてもたたきつぶさねばならない勢力だった。もちろん彼は、この地域に厳重な封鎖線をしいて「紅匪」とよんでいたから、紅軍の成長のことはあまり外部には知られていなかった。最初は、朱徳と毛沢東のことを「朱毛」とよんで、一人の人物と思われていた。あるいはまた、毛沢東死亡のニュースがなん回も流れたほどである。

 ところで、そのころ日本帝国主義の中国侵略はますます深まる。1931年9月18日には満洲事変がおこって、満洲は中国の手からはなれ、日本をうしろだてとして満洲国が建国されるにいたった。これは中国にとって重大な民族的危機のはじまりだった。しかし蒋介石は「外を打つにはまず内を固めなければならない」と称して、日本への抵抗よりは、むしろ共産党の征伐に力を集中するありさまだった。こうして蒋介石は、1930年から34年にかけて、5回の大包囲作戦を展開したのである。

 問題は共産党の内部にもあった。というのは、毛沢東はたしかに政府主席だったけれども、党の実権を握っていたわけではない。党の実際の指導は、モスクワ留学生派とよばれる陳紹禹〔王明〕(チェン・シャオエイ〔ワンミン〕)や秦邦憲〔博古〕(チン・パンシェン〔ポーター〕)に握られていた。彼らは、モスクワ仕込みの若い知識人で、現実を理論でわりきる傾向が強かった。毛沢東は、根拠地を樹立した功績者ではあったが、彼のような農民出身の党員はとかく軽んぜられ、毛沢東がせっかく、現実のなかから作りあげてきた教訓や理論はうちすてられたのである。だから戦争をするにも、毛沢東式のゲリラ戦は、だんだん採用されなくなった。

 「敵が進めば、われ退き、敵がとまれば、われみだし、敵が疲れれば、襲撃し、敵が退けば、追撃する。」
 これは、毛沢東があみだした遊撃戦の鉄則だった。優勢な敵と戦うには、これ以外に方法はなかったのである。ところが党の指導部は、もはやゲリラ戦の時代ではないといって、正面から戦いを挑むような方法をとることになった。この結果、蒋介石が100万の大軍で攻めこんできた第5回めの作戦のときには、ついにこらえきれず、このソヴェト区を放棄するほかないという窮境に追いこまれてしまった。こうしてはじまったのが、有名な紅軍の「大長征」である。

大長征と西安事件

 紅軍は34年10月、敵の虚をついて包囲網を突破したのち、貴州、雲南、四川をとおり、約一年間かかって、陜西省の北部へでた。全行程は、約1万2千キロ、これは史上に前例のない大移動だった。この間、毛沢東は、貴州省の遵義というところで会議をひらいて、これまでの方針のあやまりを批判し、ほぼ名実そなわった党の指導者となっていった。

 だがこうしたことよりも、この長征をいろどるものは、何よりも英雄的な戦いのドラマである。なにしろ、蒋介石軍の優勢な軍隊の追撃をうけながら、大部隊が中国西部の辺境地帯を移動するのだから、その苦難は言語に絶するものがあった。道のない沼地の大草原や、万年雪をいただく嶺をこえねばならなかった。出発したときに約8万であった兵隊は、到着したときは2万に減っていた。

 長征のなかでもっとも難関だったのは、大渡河をわたる戦いであった。四川省を北上する紅軍のまえには大渡河(タートーホー)とよばれる川が横たわっていた。ここは、かつて太平天国の石達開軍が清朝の政府軍に包囲されて全滅した場所だった。蒋介石は、ここでなんとかして紅軍をやっつけ、石達開の二の舞をさせようと待ちかまえていた。ところが紅軍は、まったく敵の意表をついたコースで河岸にあらわれた。というのは、ふつう漢民族が通れないとされている、ロロ族の住む山林地帯を通過したからである。参謀長の劉伯承(リュー・ポーチョン)は、ロロ族の指導者と鶏の血をすすりあって兄弟の誓いをたて、それによってやっと通りぬけることができた。もっとも、この渡河地点にも、国民党軍が待ちかまえていなかったわけではない。紅軍は小舟で決死隊をおくりこんで、対岸の敵を攻撃し、あるいはまたべつの地点で、敵の砲火のなかを、鎖の吊り橋をはいながら敵陣に突入して、やっと危機を脱することができた。

 のちに、エドガー・スノーは、紅軍の首脳から長征の詳細をきかされて、「ハンニバルのアルプス越えも、これにくらべれば休日の遠足にすぎない」と書いたが、この表現はけっして誇張ではなかったといえよう。

 日本の事件に戻ろう。これまでやたらと陸軍の横暴が取り上げられてきた。海軍には陸軍のような体質は無かったのかと思っていたが、そうではなかった。次の記事は『昭和史探索3』による。

(6)12月
ワシントン軍縮条約の廃棄


 陸軍中央部に統制派時代がやってきたころ、歴史の皮肉というのか、実は海軍中央もまた一つの考え方に完全に染まりつつあったのである。大正11年のワシントン、昭和5年のロンドンと、二つの軍縮条約の締結を通して、海軍部内が条約締結派(条約派)と条約反対派(艦隊派)の二つに割れたことについては、すでに昭和5年の解説のところでふれておいた。言い換えれば、対米英協調論にたいする対米英強硬論の部内闘争であった。その決着が9年夏ごろに完全についたのである。すなわち、いわゆる条約派といわれる提督たちは、強硬派がかついだ軍の長老の伏見宮と東郷平八郎の両元帥の威名のもとに、つぎつぎに首を切られ、予備役に編入されていった。

 主な人を列挙してみる。山梨勝之進大将(8年3月)、谷口尚真大将(8年9月)、左近司政三中将(9年3月)、寺島健中将(9年4月)、堀悌吉少将(9年11月)、坂野常善中将(9年12月)。いずれも次代の海軍をになうはずの軍政家であり、有数の国際感覚の優れた人ばかりであった。そして、この人々の整理は、加藤寛治・末次信正およびその後継者たち対米英強硬派のいっせい突出を意味していた。このへんの経緯は、山梨勝之、高木惣吉の手記にくわしい。

 そして、この対米英強硬派の台頭は同時に、ワシントン条約廃棄の大合唱となった。その声は、誰あろう、連合艦隊の中枢たる中堅士官の間からいっせいに起こるのである。重要証拠ともいえる文書が、小笠原長生の回想にある。すなわち9年7月の連合艦隊幹部連署の上申書がそれである。付記しておけば、この連署連判状作成の先頭に立ったのは重巡洋艦「高雄」の艦長南雲忠一大佐であった。のちの真珠湾攻撃の機動部隊の総指揮官である。このときの真珠湾攻撃総隊長であった淵田美津雄元大佐が著書『ミッドウェー』で書いている。
「……当時、ワシントン条約廃棄通告の問題がやかましかった。そして私達の眼には、中央の態度が弱腰のように映っていた。この頃、南雲大佐は、廃棄通告賛成の音頭をとって、しきりと艦隊の各艦長を歴訪する。何でも各艦長の連判をとって、連合艦隊中堅幹部の意見書をまとめ、艦隊の総意として、長官を通して上申するのだとの噂が耳に入る。何事によらず強硬を喜ぶ当時の若い私達にとって、これはまた一層喜ばれた」。

 さらに重要なことは、日本海軍がもちつづけてきた海軍省優位の伝統がもろくも崩れ落ち、軍令部優位の逆転が起こったことである。1933年の軍令部条例の改定、省部万渉規定の改定により、軍令部が陸軍の参謀本部のように、海軍省の力の及ばない戦争一点張りの存在となった。その考え方がややもすれば均衡を欠き、作戦本位の、独善的危機意識の強い軍人たちをつぎつぎに産み、彼らによって昭和の海軍はひきずられていくようになるのである。

 1934年末、日本海軍はワシントン条約の廃棄を米英仏に通告した。この日こそは、強硬派の雄・加藤寛治大将にとっては長い間の戦いの勝利の日であった。この年の5月に死んだ東郷元帥の墓前にこのことを報告し、その帰り道に、元帥の側近小笠原長生中将宅を訪れた加藤は、中将不在のために名刺をおいて帰った。名刺には、つぎの文句が躍るがごとくにしたためられていたという。
「帝国海軍厚生の黎明を迎之候につき、只今東郷元帥の墓に詣でて、いささか英霊を慰め奉り候」
 はたしてそれは黎明であったであろうか。

 太平洋の波はふたたび荒立ちはじめる。軍縮条約の廃棄のあとにくるのは、命懸けの建艦競争である。資源のない日本がこの競争に勝つべくもない。なのに、海軍軍人たちはこう確信していた。軍縮条約を決裂させても、近来の日本の産業、技術の長足の進歩と、満蒙の経営によって、状況は大きく異なり心配はなくなっている。無条約時代に入ったならば、その後10年間に、パナマ運河を通れぬような超大戦艦5隻を建造、これを中心とする、日本の国情に合った効率のよい軍備を充実することによって、対米戦の勝算は間違いなくえられるのである……。

 軍令部が艦政本部に、46センチ主砲8門以上、速力30ノット、パナマ運河を通れない超大戦艦――大和・武蔵・信濃などの建造要求をだしたのは、実に1934年10月のことであった。これによって
「主力艦兵力比較ノ尺度ハ根本ヨリ変革セラレ……一躍我が方ノ絶対優勢ニ帰ス」
と、主張者である石川信吾中佐は当時豪語した。その得意、思うべしであろう。

 やがてこの思い上がった海軍はハワイ真珠湾攻撃(1941年12月8日)へとのめり込んでいく。已んぬる哉。
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