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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(23)

『1★9★3★7』を読む(4)

 現在ますます深く広くこの国に覆い被さっている怪しい妖気に多くの若者達も囚われ始めている。その一例として、今日の澤藤統一郎さんのブログ記事を紹介しておこう。
『「現状変えればなんでも革新」? それはないでしょう』

 さて、『残日録』の1937年の事項(11)は鎮魂歌「海行かば」だった。辺見さんは第2章の「第7節~第10節」でこの問題に関連する詳しい論考を行なっている。その中に怪しい妖気に囚われている若者の話も出て来る。今回の辺見さんの論説もかなり長いが、全文紹介したい。


7 「海ゆかば」と死へのいざない

 国民精神総動員運動を「声」で大いにもりあげたのはNHKであった。総動員運動のいっかんとして1937年10月13日、NHKは「国民唱歌」の放送を開始するが、その第一回が「海ゆかば」だった。この歌はその後、太平洋戦争中にラジオが日本軍部隊の「玉砕」を報じるときにながされるようになるのだが、まるでさいしょからそれを予感していたかのような凄絶(せいぜつ)な「悲歌」のひびきがある。これを美しいニッポンの歌だというむきがある。つまびらかではないが、安倍晋三氏もそうなのではなかろうか。しかし、わたしにはいつも、なんという底方(そこい)も知らない暗さだろう、というおもいがある。ニッポンとはなにか、という情念がかかわる疑念と、〈なぜ「海ゆかば」だったのか…〉という、問いにもならない疑問と、とまどいとためらいが、よれてからまりあったまま、わたしのからだにはずっとある。わたしの父も、日中戦争中の南京で、これを合唱したという。きっと胸のおくからわきおこる感動で目をうるませ、直立不動でうたったにちがいない。声が聞こえてくるようだ。

  海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
  山ゆかば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の
  辺(へ)にこそ死なめ
  かへりみはせじ


 父もうたった。特攻隊員も出撃前にこれをうたった。詞は、「万葉集」の大伴家持の長歌からとられており、これに作曲家の信時潔(のぶとききよし)がNHK大阪放送局の依頼をうけて曲をつけた。信時潔は大阪の牧師の家に生まれ、幼いときから教会音楽になじんでいたためか、「海ゆかば」にはある種の宗教曲のような荘重さというか悲愴感があり、また、五七五七五七七の音数からであろうか、「君が代」にそのままかさなる曲想でもある。楽譜には、♩=78-80と「力強く」の指定があるのだが、わたしはこの歌を聞いて「力づよい」と感じたことはいちどもない。しかし、なにかただごとではない空気の重いうねりと震えがこの歌にはある。それがなにか知りたくもあり知りたくもなし、といった、まきこまれて地の底にひきずられていくような気分にさせられる。それをうまく説明することはできないのだが、たぶん「死」とそのありかたがかかわる、「ニッポン精神」とでもよぶべき心的な古層が、音の底で妖しくうねりくぐもっているようにおもえてならない。わたしはこれを声にだしてうたったことはない。合唱したこともない。なにか思想的な判断があって意思的にうたうのをじぶんに禁じたわけではないのだ。その機会がなかっただけである。

 しかし、正直に言えば(このしゅのことはじぶんに問うてどこまでも正直にかたらなければならない)、いくら否定しても嫌悪しても、「海ゆかば」にどうしようもなく感応してしまう遠い記憶がわたしの体内にはあるようだ。からだが小声でうたってしまっているというのか。どうしてなのか。「海ゆかば」のなにに、わたしの体内のなにが共振してしまうのか。若いころにはそんなことをかんがえたことはない。だが、いまはおりふしかんがえこむ。かんがえの奥底にはこんな第六感のようなものがうかんだり沈んだりしている。もしもこのクニの過去とげんざいに目にはみえにくい根生(ねお)いの「生理」のようなものがあり、それをかりに「天皇制ファシズムの生理」と概括的によぶとしたら、そのかくされたテーマソングというか、メロディと歌詞は「君が代」と「海ゆかば」ではないのか。ニッポンジンのからだに無意識に生理的に通底する、不安で怖ろしい、異議申し立てのすべてを非論理的に無効にしてしまう、いや、論理という論理、合理性のいっさいをみとめない、静かでとてつもなくセレモニアスな、「死の賛歌」……。濡れた荒縄でぐいぐい胸をしばりつけてくるような圧迫。なんとはなしにそうおもう。1937年の9月には、「勝ってくるぞと勇ましく……」ではじまる「露営の歌」が発売され、半年でレコード60万枚を売る大ヒットとなり、出征兵士を送る歌としても駅頭や職場、学校で頻繁にうたわれるようになる。「海ゆかば」はそのようなヒット曲ではないけれども、それらとは次元をことにして、NHKの電波にのり、不思議な磁力で、ただちにニッポンに根づいた。それは天皇――戦争――死――無私……の幻想を体内にそびきだし、大君のための死を美化して、そこにひとをみちびいてゆく、あらかじめの「弔歌」でもあったのだ。

8 生きている「海ゆかば」

 海をいけば、水に漬かる屍となり、山をいけば、草の生す屍となって、大君のおそばでこそ死のう。後ろを振り返ることはしない……。長歌からここだけをぬきだせば、命を賭して大君にお仕えしたてまつるということになるのかもしれないが、その前後の
「……大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言(こと)立(だ)て 丈夫(もののふ)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏(うぢ)は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる……」
云々かんぬんも併せかんがえると、大伴家持そのひとにまつわる毀誉褒貶とともに、なにゆえこのような理屈になるのか、なんだかよくわからなくなる。しかし、わたしのようにグジュグジュとしけっぽく愚痴るのではなく、論旨明快にからりと「海ゆかば」を蹴飛ばすひともいまはいる。それを最近、ネットでみつけた。原稿を書くからには久しぶりに試聴してみようと、アマゾンでCDをさがしていたら、「海ゆかば」は若者のあいだでもなかなかの人気らしい。なかに「海ゆかばのすべて」というCDがあり、「軍歌」のカテゴリーでベストセラー一位だという。「海ゆかば」が軍歌かどうかは異論があるらしいが、そういえば、「君が代」も軍歌と分類できぬこともないではないか。「海ゆかばのすべて」には「海ゆかば」の独唱や合唱だけでなく、「パイプオルガン版」「弦楽四重奏版」「出陣学徒壮行会実況録音版」「竹脇昌作の語りつき版」「保育唱歌版ウミユカバ」「ピアノ変奏曲版」など全25曲があり、文字どおりの「海ゆかばのすべて」であった。圧倒される。とくに「出陣学徒壮行会実況録音版」は、はるかな死者たちの合唱のようであり、聴いていて胸がざわついた。このCD、アマゾンのおすすめ度は★四個半だから、「カスタマーレビュー」というやつも総じて評価が高い。「最高!」「誰に咎(とが)められるわけでもないのに聴くのが憚られる奇妙な感覚。そして聴いてるうちに魂が揺さ振られておもわず涙が溢れてしまう」といったものが多い。「海ゆかば」は戦後70年余のいまでも堂々と生きているのだ。ほとんどが感動、絶賛のなかに、一件だけ、冗談じやないよ、という調子のおもしろいレビューがあった。これは、みんなが「君が代」で起立しているなか、ひとりだけすわったまま中指をたてている感じであり、注目した。

9 否定と残響

 後学のために、投稿者にことわりなくこのレビューを引用してみる。タイトルは
「日本の純真な若者を大量殺戮に追いやった狂宴の序曲」
である。てきせつな表題ではないだろうか。わたしとしては、「海ゆかば」のNHK初放送が37年10月、その2ヵ月後に南京大虐殺という時系列を反射的におもいえがいてしまったが、レビュアーのいう「大量殺戮」は、おそらく、南京のできごとだけにげんていしているのではないだろう。レビューの本文は

〈(……)大伴家持が「天皇のためであればいつでも命を捨てます」と繰り返し謳っただけである。/時は聖武天皇が東大寺の大仏建立を達成し絶頂に達しているとき、作者のこびる姿勢がみえみえである。(……)政治的にはかなり野心家で権謀術数好き、生涯数々の陰謀・反乱事件に関与している。死後も藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関与していたと疑われて、墓の埋葬を許されぬまま官の籍を除名される。子の永主(ながぬし)も隠岐国(おきのくに)に流された。死後21年経過して、大同元年(806年)に従三位に復された。/じつに後悔すべき生涯であった。/当代一の文学者のこと、天皇にリップサービスするのはお手の物だっただろう。万葉集には家持の歌が長歌・短歌などあわせて473首が収められており、全体の一割を超えていて、万葉集の編纂者と推測されている。ちなみに彼の生涯においては「命を投げ出す」事は一度もなく68歳まで生きている。/理性ある家臣であればおおきみがまずいことをしたらおいさめ申しあげなければならない。名君として全うされるよう天皇以上に勉学にはげみ、武芸にいそしみ、民百姓が豊かに暮らせる方途を考え、助言を差し上げる準備をおさおさ怠ってはならない、となる筈である。/死だけを浮かび上がらせて、あなたのためなら火のなか、水の中もいとわず、いつでも死にます、なんて言えるのは「三文小説」の安せりふか、やくざ映画を見すぎた、三下やくざぐらいのものである。/こんな歌を歴史のくずかごから取りだして、「お国のため」「天皇のため」「聖戦のため」「大東亜共栄圏のため」「八紘一宇のため」と言って青少年に「死を覚悟することがあたかもすばらしいこと」のように思わせた、当時の軍部・為政者・社会上層部の人々の罪は深いのである。また報道関係者の人々も同罪ではないでしょうか>

 同感である。どんなひとがこれを投稿したのだろうか。大伴家持なんか大した人物じゃない。原歌も大君の礼賛ばかりで深みはない。大君のために死ぬことを美化して若者に道をあやまらせた責任は重い。まことにもっともである。投稿者は二、三十代ではあるまい。四十代以上か。歳を問うても詮ない。ただはっきり言えることがある。このレビュアーはたぶん、さいわいにして、体内に「海ゆかば」の残響をもってはいないのだろう。

 「海行かば」を絶賛する若者たちや「海ゆかばのすべて」という時代錯誤のCDを編纂する者たちの存在を知って、私は胸苦しくなり、反吐を吐きそうな気分になった。「『時間』はなぜ消されたのか」で、辺見さんが『執拗に反復しながら永続する「幽霊」』と言っていた「幽霊」が、ここまで我が物顔に蔓延っているだ。

 しかし「日本の純真な若者を大量殺戮に追いやった狂宴の序曲」というレビューを読んで、一縷の希望が見えてほっとした気分になった。

 辺見さんの論説の続きを読もう。

10 「屍」とはなにか

 その伝でいまいちど率直に言うならば、わたしは体内深くに「海ゆかば」の、遠くかすかな残響を、いたしかたなく感じている男である。わたしは戦争世代ではないものの、戦争の反響音や残像のかけらのようなものを、どうしようもなく身におびている。しかしだ、後に詳述するつもりだけれども、「国旗及び国歌に関する法律」などというものが存在するのには心底あきれかえり、いまだもって不思議でならないのである。わたは「日の丸」「君が代」を見聞きしても、起立したり斉唱したりできない。たとえ数万人のひとびとがいっせいにそうしたとしても、そうしなげれば逮捕されるにしても、わたしは起立も斉唱も独唱もしない。ぜったいにしない。できないのだ。なぜなら、ヒノマル・キミガヨは、どうかんがえても、わたしのなかで、そしてニッポンというクニにとって、もっとも忌むべき(であった)表象だからである。いま、起立しうたいたい者はうたうがいい。ただ、わたしは立たず、だんじてうたわない。かつてみた南京攻略関連のドキュメンタリーフィルム(1938年、東宝文化映画部作品『南京 戦線後方記録映画』)では、たくさんの「日の丸」がはためき、暴虐のげんばから、将兵が皇居にむかい腰を90度に折って深々と「遥拝(ようはい)」し、感激のおももちで「君が代」をうたい、「天皇陛下万歳!」「大元帥陛下万歳!」とさけぶのである。どうしておなじ動作をわたしができるだろう。しかし、おなじ動作をだんじてできないからといって、「君が代」や「海ゆかば」に、生理的けんおしか感じないのかとギリギリとじぶんに詰問すれば、かならずしもそうではない気がする。あれらのメロディに感応するように、体内でびみょうに蠕動(ぜんどう)するものがないとはいえないのである。わたしはそのかすかでびみょうな感覚を、ニッポンどくとくの、ほの暗く湿潤なファシズムとのかんれんでかんがえている。「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども言挙げぞ我がする」とうたった万葉の時代からの、容易に言挙げをせぬ秘儀的なファシズムをイメージする。それはいまもまったく消滅はしていないとおもうのである。

 ニッポンは敗戦によっても、戦中と戦前を払しょくしはしなかった。ヒノマル・キミガヨだけではない。戦前、戦中の律動と身ぶり動作、「思考法、旋律、発声法はいまも各処にのこっている。ニッポンジンはたぶん不注意なのではない。ただ忘れっぽいだけでもない。忘れたふりをして「むかし」をのこしておく、そのそぶりに長けているのだ。
 1943(昭和18)年10月21日朝、明治神宮外苑競技場で、文部省・学校報国団本部主催の出陣学徒壮行会(いわゆる「学徒出陣」)が東条英機首相らが出席して挙行され、雨中、関東地方の学生など7万人が参加した。このときも「君が代」がえんそうされ、「海ゆかば」がうたわれ、「天皇陛下万歳!」が三唱されたことはいうまでもない。そのときの音声と映像をYouTubeで視聴した読者もすくなくないだろう。どうだろう、なにか不思議なことにお気づきではなかっただろうか。着剣した小銃を肩に、悲愴なおももちで雨にぬれたトラックをザックザックと行進し、その後多数が玉砕した「学徒兵」ら。そのさいに吹奏されていた行進曲に聞きおぼえはないだろうか。そうなのだ、げんざい自衛隊や防衛大学校などの観閲式でながされている分列行進曲とおなじである。あれは大日本帝国陸軍の公式行進曲、別名「抜刀隊」だ。もともと軍歌であり、
「……敵の亡(ほろ)ぶる夫迄(それまで)は 進めや進め諸共(もろとも)に 玉ちる剱(つるぎ)抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし……」
といった歌詞(作詞外山正一、作曲シャルル・ルルー)である。1★9★3★7だげではなく、学徒出陣のさいにもちいられた行進曲と自衛隊・防衛大学校の観閲式の行進曲がおなじというのは、不思議どころかまことに異常ではないか。戦争の反省もなにもあったものではない。あまりといえば無神経ではないのか。ニッポンの戦前・戦中・戦後には、情念の基層部において同質の律動があり、戦後70年余にしてそれを変えようという気運はない。いぜんよりも、はるかに、はるかにない。

 「積屍」の話からだいぶ脱線してしまった。言いたかったのは「屍」のことである。南京大虐殺の屍体の堆積を、作家堀田善衛は小説『時間』のなかで、中国語をもちい「積屍」と表現した。このばあいの「屍」と「海ゆかば」でうたわれる「水漬く屍」「草生す屍」の屍は、屍は屍でも、ことなった屍ではないのか、というのがとりあえずの仮説である。「積屍」の屍には、わたしの推理では、国籍がない。それが意識されていない。人種、血族、民族が前提されていない。一方、「水漬く屍」「草生す屍」のほうの屍は、もっぱら「葦原の瑞穂の国」ないし「日の本の大和の国」の屍であることを意味するのではないだろうか。ぎゃくに言えば、中国で「皇軍」が殺したおびただしい中国人は、水漬くそれであれ、草生すそれであれ、ニッポン兵の目には(多くの例外もあるが)一般に、おなじ人間の屍体としては対象化されなかったのではないか。そのような骸(むくろ)とは意識されなかったのではないのか。だからこそあれほどの殺りくが可能だったのではないだろうか。それらを、だからこそ、弔うことがなかったのではないか。堀田は『時間』のなかで、「皇軍」の「ああした残虐をも可能にするエネルギーそのもの」について、主人公の中国人にひとしきり思索させている。だが、その過程で「大君」に思考の照準をさだめることはついぞなかった。作家の故意か故意ではないか、軽々に断じることはできない。けれども、「大君」――戦争――死の関係が、敗戦後70余年、いっかんして「かへりみはせじ」であり、故意にあいまいにされてきたことが、2016年現在の状況の基礎となっているようにもおもえる。

 日中戦争には奇怪なことが山ほどあった。だいいち、1★9★3★7(イクミナ)の年もそれ以降も、「皇軍」は日中戦争を日中戦争とは呼ぼうとしなかったのだ。1938年にはニッポン総兵力の7割もが動員される総力戦そのものとなっていたのに、宣戦布告をおこなわなかっただけでなく、まがうかたない戦争なのに、むりに過小評価するかのように、「北支事変」「上海事変」と公称し、その後に「支那事変」と呼んで、これにメディアも忠実にしたがった。「事変」とは、騒動、騒乱、紛争のことであり、全面的な交戦状態となった当時の事態の総称としては奇異の感をいだかざるをえない。戦争が公然とかたられたのは41年12月のいわゆる「大東亜戦争」開始のときからであり、これがげんざいもニッポンの近代戦争史観に奇妙なブレをあたえている。

 一方、前述の「ああした残虐行為をも可能にするエネルギー」についてだが、明治以来の中国蔑視思想にくわえ、ニッポンぜんこくを憤怒のうずにまきこむのに、こう言ってよければ、"おあつらえむき"の事件がおきたのも考慮にいれなければならない。1937年7月29日に、中国の通州(北京市通州区)で、ニッポンの傀儡組織である「冀東防共自治政府」の保安隊(中国人部隊)が叛乱をおこして日本軍の通州守備隊や日本人および朝鮮人居留民を襲い、二百数十人が惨殺されたいわゆる「通州事件」がそれである。背景には日本軍による保安隊宿舎への誤爆事件や占領者へのはげしい憎しみや反感があったのだが、ニッポン国内ではこれが大々的かつ煽情的に、ときには猟奇的に報じられた。むごたらしい行為の詳細がつたわるにつれ「暴支膺懲」(「暴虐な支那を懲らしめよ」)の世論が一気にまきおこって事態がどんどん過熱してゆく。「残忍な支那人」と「被害者ニッポン」の構図がみるまにたちあがる。

 東京日日新聞が7月31日付の号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐極まる暴行」という見だしで報道すれば、東京朝日新聞も負けじと8月2日付号外で「掠奪!銃殺!通州兵変の戦慄 麻縄で邦人数珠繋ぎ 百鬼血に狂ふ銃殺傷」とセンセーショナルに報じ、その後も、「ああ何といふ暴虐酸鼻、我が光輝ある大和民族史上いまだ曾てこれほどの侮辱を与へられたることがあるだらうか。悪虐支那兵の獣の如き暴虐は到底最後迄聴くに堪へぬ」「宛(さなが)ら地獄繪巻!鬼畜の残虐言語に絶す」「恨みの7月29日を忘れるな」などと最大級の刺激的表現で事件を詳報した。強姦、斬首、青竜刀による身体各部切断などのグロテスクな情景がまたたくまにひろがる。こうしてニッポン中が怒りのるつぼと化した。なにしろ、社会主義者の山川均までもが逆上し、「支那軍の鬼畜性」と題する文を『改造』(同年9月特大号)に寄せて
「新聞は『鬼畜に均しい』という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的鬼畜なら、これほどまでの残忍性は現さないだろうから」
と強調するほどだったのだから、宣戦布告なき中国侵略の不当性、違法性など論じる空気も(もともとなかったが、ますます)消しとんでしまう。

 盧溝橋事件から通州事件までの時間的間隔は約20日。通州事件から南京大虐殺までの間隔は4ヶ月あまり。殺りくの規模はまるでちがうけれども、満州事変を起点とする三つの連鎖的事件は、「皇軍」の謀略、メディアのセンセーショナリズム、日中間の反目とニッポンがわの対中懲罰意識の増幅があいまって、日中戦争に類例のない地獄絵をこしらえさせる心理的な要因にもなった。

 「メディアのセンセーショナリズム」は今も変わらない。私が毎日読んでいるブログに『マスコミに載らない海外記事』があるが、そのブログの主催者さんはマスゴミを「大本営広報部洗脳機構」と呼んでいる。まさに、言い得て妙である。
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昭和の15戦争史(22)

『1★9★3★7』を読む(3)

 今回から、1937年に日本を戦時国家へ大きく変貌させていったもう一つの要因、「国民精神総動員法」に関連した辺見さんの論説の中から「第2章の第5節以降」を読んでいくことにする。


5 皇運ヲ扶翼シ奉ル

 堀田善衛はかつて戦争についてこんなことを書いたことがある。
「戦争という厖大な事件は、その巨大なまでに空しい必然性のなかに、無限の偶然性を内包しており、人々がぶつかるその一つ一つの偶然性の総体が、その人、一人一人の場から見ての戦そのものであったと言えるようなものなのであったかもしれない。そうして、その一つ一つの偶然性は、その人一人一人の生と死にかかわった」(『方丈記私記』ちくま文庫)。
ずいぶんもってまわった言い方ではある。『方丈記私記』が戦後も戦後、1971年に刊行されたものとはいえ、「人々がぶつかるその一つ一つの偶然性」「一人一人の場から見ての戦争」「その人一人一人の生と死」という、「ひとりびとり」の視点は、1918(大正7)年生まれの作家としてはめずらしい。
「ぼくは(……)明治の民権自由の婆さんに育てられた、生まれつきの日本共和国論者ですから、レパブリカン(共和主義者)ですから」(武田泰淳・堀田善衛『対話 私はもう中国を語らない』 1973年、朝日新聞社)
という、ケロッとしたどこか陽性の言い方をみても、なるほど堀田という人物があらかじめの「脱ニッポン」的自我の持ち主であったことかわかる。だからこそ、中国人インテリの目でみた南京大虐殺を描いてみるなどというはなれわざに挑戦したのであろうし、であるからこそ、「積屍」なる、ダイナミックな中国語をためらわずもちいることができたのではないか。

 言うまでもないことだが、中国とニッポンとではいっぱんに死生観がことなる。死生観がちがえば、屍体についてのかんがえかた、すなわち「屍観(かばねかん)」もちがうはずである。堀田善衛がまだ十九歳で慶應義塾大学政治科予科学生だった1937年という年はエポックメーキング(画期的)な年であり、ニッポン人の死生観と「屍観」につよい影響をあたえただろうできごとがあいついだ。この年には、なによりも日中戦争の発端となる盧溝橋事件が勃発し、それまで経験したことのない規模で人間とモノと「精神」を上から下までやみくもに総動員する「国家総力戦」のはじまりとなった。国家総力戦の精神的支柱は「挙国一致」である。挙国一致とはなんだろうか。大辞林にはその語義として「国全体が一つの目的に向かって同一の態度をとること」と、じつにおどろくべき事象を、おどろくほどすっきりあっさりと述べていて、たしかにそのとおりなのである。堀田的な「ひとりびとり」の視点はもののみごとに圧殺された。国ぜんたいが一つの目的にむかって同一の態度をとること……という挙国一致の定義には、しかし、肝心なことが抜けおちている。いったいなんのために、がないのだ。盧溝橋事件の翌月にあたる1937年8月、近衛内閣は「国民精神総動員実施要綱」というのを閣議決定する。国家権力が「精神」をとなえ、「動員」をよびかけ、それらのことをかってに「閣議決定」するくらい怪しいうごきはない。だが、歴史の実時間にあって、果たして、どれだけのひとがこれをまがうかたない危機と感じえたか。わたしはいぶかる。抵抗はなきにもひとしかったのだ。閣議決定された「国民精神総動員実施要綱」の「趣旨」には、なんのための挙国一致かが、まるで呪文のようにかたられている。

 挙国一致堅忍不抜ノ精神ヲ以テ現下ノ時局ニ対処スルト共ニ今後持続スベキ時艱(じかん)ヲ克服シテ愈々皇運ヲ扶翼(ふよく)シ奉ル為此ノ際時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動ヲ起サントス

 一大悪文とはこのことだ。挙国一致と堅忍不抜の精神をもって現下の時局に対処するという、根拠も裏づけもない、ほとんど無内容な、むかしの体育会的な気合い入れの目的は、だが、ひとびとの幸福のためではなく、「皇運を扶翼し奉るため」だというのである。これをあえてなぞってみよう。時艱とは、時代の直面しているこんなんという意味だ。それを克服するのが最優先課題であり、言わずもがな、「ひとりびとり」の視点などあったものではない。「ひとりびとり」の視点は、挙国一致の思想の明確な敵であった。若いひとはたぶん知らないだろう。そういう時代がじっさいにあったのだ。そういう時代に似た時代がまたくる(もうきている)のかもしれない。では、「皇運」とはなにか。皇室の運命または天皇の権勢と威信ということだ。ニッポンというクニは皇運の下にあったし、げんざいもひきつづきそうであるかもしれない。「扶翼」とは、皇運としばしばセットでもちいられたことばで、おたすけし、お守りすること。あわせれば、天皇の勢威をお守りさせていただくために、官民一体となり国民精神総動員運動という一大国民運動をおこさなければならないというのである。皇室――国家権力――社会(というより「世のなか」)には離間も緊張もなく、世のなかぜんたいが「皇運」をささえるべきものとアプリオリにみなされていた。丸山眞男に言わせれば、これぞ
「『万世一系』のイデオロギー的な強み」
 なのであり、
「(……)皇室が、『貴種』のなかの最高貴種(primus inter pares)という性格によって『社会的』に支えられていた(斜体文字は辺見)(丸山眞男「歴史意識の『古層』」『忠誠と反逆-転形期日本の精神史的位相』ちくま学芸文庫)
ということではないのか。いまもその基本構造はかわらず、そのながれはとだえていない。

6 国民精神総動員とラヂオ

 いま読めば、まことにばかばかしい。けれども、国民精神総動員実施要綱の「指導方針」には、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」「国民ノ決意」といったことばがならぶほか、「思想戦」「宣伝戦」「経済戦」「国力戦」が、国策遂行上不可欠だという。露骨といえばあまりにも露骨だが、いまはこうした国家意思がかんぜんに消えさったのだと胸をはって言えるだろうか。国民精神総動員の「実施機関」としては、「情報委員会、内務省及文部省ヲ計画主務庁トシ各省総掛リニテ之ガ実施ニ当ルコト」などとして、なにがなんでも[総がかり]がうたわれている。注目すべきは「実施方法」と「実施上ノ注意」である。中央省庁や道府県、市町村、会社、銀行、工場、商店などすべての組織が国策への協力を義務づけられたのはいうまでもない。くわえて、「各種言語機関ニ対シテハ本運動ノ趣旨ヲ懇談シテ其ノ積極的協力ヲ求ムルコト」「ラヂオノ利用ヲ図ルコト」「文芸、音楽、演芸、映画等関係者ノ協力ヲ求ムルコト」とある。刮目(かつもく)すべきはここである。「各種言語機関」とはいかにも面妖なことばだが、新聞、出版、放送などのマスコミである。おもしろいものだ。マスコミにはただ強圧的に命じるという言い方ではなく、国民精神総動員運動の趣旨を懇切に説明し、積極的な協力をもとめる、というやわらかな表現になっている。マスコミの役割が総力戦においていかに重要かを当局が知りぬいていたことをものがたっている。「ラヂオの利用」がことさらに強調されたのも、ゆえなしとしなかった。

 1930年代は、ラジオという「ニューメディア」の劇的な普及期であった。重大ニュースはラジオで速報され、受信者の関心をあつめた。それとともに、受信機の普及がすすみ、とくにベルリン・オリンピック(1936年)と盧溝橋事件がラジオ聴取加入者を増やした。まさに〈戦争がメディアをつくり、メディアが戦争をつくる〉といわれるほど、戦争やオリンピックとメディアのかんけいは密接不可分である。社団法人東京放送局が日本ではじめてラジオ放送を開始したのが、皮肉なことに、治安維持法が普通選挙法とだきあわせで成立した年の1925(大正14)年で、翌年に日本放送協会(NHK)が発足し、本格的な国策伝達・宣伝機関となる。1931年9月18日の柳条湖事件(満州事変)の翌年2月には全国のラジオ聴取加入者が百万人をこえ、犬養首相が殺害された同年の5・15事件直後には、聴取加入者がさらに増えて、1936年の2・26事件とベルリンオリンピックなどで全国のラジオ聴取加入者は一気に三百万人を突破する。新聞もラジオの速報に負けじと「号外」を連発するようになり、読者をどんどん戦争に煽(あお)っていくことになる。しかし、情報内容の真の重大性だけが新聞に「号外」発行をうながしたわけではない。36年の阿部定事件では事件発覚後と阿部定逮捕後の二度にわたり号外がくばられ、新聞、雑誌は売れに売れた。陸軍の青年将校らが「昭和維新の断行」をさけんで決起したクーデター未遂事件である2・26事件と愛人の男性を扼殺(やくさつ)し、局部を切りとった猟奇的事件である阿部定事件。知(らせ)るべき情報の性質の軽重は明らかであった。にもかかわらず、ひとびとはまるで暗転する世相の脱出口をもとめるかのように阿部定事件報道に興奮し、新聞・雑誌をむさぼり読み、ラジオに耳をかたむけた。メディアのがわも、ことの軽重ではなく、読者、聴取者の熱狂ぶりに報道の照準をあわせるようになる。36年5月21日の東京朝日新聞には「昂奮する猟奇の巷(ちまた)」という異様な横見だしがおどり、阿部定フィーバーをおもしろおかしくつたえている。時代にはすでに妖気がただよっていた。

 1937年にただよっていた妖気は、現在ますます怪しい妖気となって、この国に覆い被さっている。この流れも途絶えていない。
昭和の15戦争史(21)

『1★9★3★7』を読む(2)

 前回の辺見さんの論考の核心を抜粋すると次のくだりだろうか。
「無意識的にせよ意識的にせよ、記憶と忘却は、憶えるべきものと忘れるべきものとに政治的に選択され、そうするようになにものかにうながされている。……目鼻口のはっきりしない、どくじの顔とそれぞれの主体性を欠く幽霊たちがみな、示しあわせたように一様な動作をしていることには目をみはらざるをえない。ひたすら歴史をぬりかえようとしているのだ。」

 角川文庫版の「イクミナ 下」の巻末に徐京植(ソ・キヨンシク 作家・文学者・東京経済大学現代法学部教授)という方が「解説ひとつの応答 -魯迅を補助線として」と題した解説が掲載されている。とてもよい解説で全文を紹介したいのだが、かなり長いので、上の抜粋文と呼応している最後の10ページほどを転載しておくことにする。

血債

 私にとって、たとえたった一人でも、日本人作家の口から次の言葉を聴くことができたことは幸いであった。ああ、それにしても、なんという「幸い」なのか!

〈このひとはなにをしてきたのだ。なにをみてきたのか。それらの疑問はけっきょく問いたださなかったわたしにも、不問に付すことで受傷を避ける狡いおもわくがどこかにあったのであり、ついに語ることのなかった父と、ついにじかには質さなかったわたしとは、おそらくは同罪なのだ。訊かないこと――かたらないこと。多くの場合、そこに戦後精神の怪しげな均衡が保たれていた。〉

 しかり。「かたらないこと」「質さないこと」によって「戦後精神の怪しげな均衡」は保たれてきたのだ。あえて語ろうとするもの、質そうとするものは「スルー」され孤立させられる。それがニッポンを成り立たせてきた。そのことをニッポンジンたちは熟知している。辺見庸は戦後ニッポンジンの一典型である父の肖像を描くことによって、薄笑いの表皮に覆われた戦後ニッポンジンの素顔(その一端)を描いた。これくらい明瞭に、執拗に、自己とニッポンを「解剖」した日本人作家は数少ない。その数少ない先行者が『時間』の堀田善衛であり、『汝の母を!』の武田泰淳である。大虐殺の余燼がくすぶり、流れた血の匂いが消えやらぬ中で堀田や武田が切り開こうとしたのは、他者の目で自己を見つめ、自己欺瞞を排して、自律的な倫理的更生を目指す道であった。その道を歩もうと志した人々は、戦後の一時期、少数ながらたしかに存在していた。だが、おそらく1960年代中頃を境として、この細い道は忘れ去られていった。いまは雑草に覆われ地図からも消されようとしているこの道を、辺見庸という日本人作家が辿ろうとしている。

 ここで私は、この作家への「応答」として、言わずもがなの一言を付け加えたい。
 「耳をうたぐった。発狂したのかと思った」というのは、ほんとうだろうか? 私なら耳を疑わない。「やっぱりな……」と納得するだろう。私が幼い時、わか家は京都市の下町で小さな町工場を営んでいた。まだ40前だった母は、髪を振り乱して働き、工員たちのための賄いも受け持っていた。幼かった私は時々、仕事を終え銭湯から帰って一杯ひっかけた工員たちとともに食卓につくこともあった。そのような場で、しばしば、大陸帰りの工員が上機嫌で自慢話をした。「チャンコロ」を銃剣で突き刺した話(剣の尖端が相手の体内に入っていくときの感触の描写までも)、「朝鮮ピー」を買った話などだ。いま思えば、武田泰淳『汝の母を!』の「強姦好きの上等兵」のような人物だったのだろう。かれらは何のためらいもなく、朝鮮人である私や母の前で、そんな話題に興じた。朝鮮人をスリッパでぶん殴るなど、かれらにとってはあらためて話題にする価値もない日常の些事だっただろう。それが、幼い私の知った、戦後日本社会の実相である。

 辺見庸の父は例外ではない。「発狂したのか」というのなら、突然にではなく、初めからニッポンジンたちは発狂していたのだ。そうでなければ、近隣民族の資源を奪い、自らの半分以下の低賃金で酷使し、反抗すれば投獄し、拷問を加え、殺害し、言語も姓名も奪い、若い女性を「慰安婦」として戦場に送り込む、そうした行為ができただろうか? その植民地支配を「民度の低い連中を引き上げてやるためだった」などと言い繕って平然としていることができるだろうか? しかも、敗戦後の数年間、昭和天皇死去の際、あるいは90年代に「慰安婦」をはじめ被害者たちが次々に現れ出た際など、その歴史を骨身に沁みて省察し、「正気」に返る機会は何回かあったのに、ニッポンジンたちはことごとくその機会を「スルー」してきたのである。

〈墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を消すことはできない。/血債はかならず同一物で返済されねばならない。支払いがおそければおそいほど、利息は増さねばならない。〉(「花なきバラの二」)

 辺見庸の世代なら多くの人々が、60年代後半の大学闘争の渦中で学生闘士たちが好んで魯迅のこの言葉を口にしたことを記憶しているだろう。私自身は7歳年下だが、大学キャンパスの立て看板に独特な文字でこの文が大書されているのを何回も見た憶えがある。当時からの疑問だが、彼らは誰の誰に対する「血債」を想定していたのか? 彼ら自身を血債の返済を迫る側に擬していたのか、それとも迫られる側にか? その認識もあやふやなままに学生闘士たちの多くが会社人間となり、高度経済成長の推進者兼受益者となった。自国の侵略戦争の記憶はおろか、拙くはあれ真摯な部分もあったはずの自分自身の学生時代の記憶も消し去ったまま、「まあ、いろいろ……」と、薄笑いのうちに日々を生きている。小津安二郎の映画で笠智衆が演じる男のように。

 だが、血債はいまだ返済されていない、その間にも利息は増している――このことだけは確かだ。

 ニッポンジンは、「琉球処分」に始まり太平洋戦争敗戦にいたる植民地支配と侵略戦争の数十年を経て、いまにいたるも内なる奴隷主の心性、植民地主義の「狂気」から脱け出ることができないままだ。むしろ近年、「発狂」の度を増している。父の漏らした一言にいまさら耳を疑い、発狂でもしたのかと考える辺見少年もまた、戦後ニッポンという仮構の中で育ち、長年にわたって実相を見る眼を覆われてきたというべきであろう。辺見庸の手柄は、あえて「梟蛇鬼怪(注:きょうだきかい お化けや怪物という意)」となって、父やニッポンを解剖したことだけではなく、そういうニッポンを構成し延命させてきたものの一員として、自分自身の血肉をさらけ出して見せた点にある。

安倍首相「戦後70年談話」

 今日、「ニッポンという病」はいたるところで重篤な症状をみせている。その最たる例は2015年の安倍首の「戦後70年談話」であろう。世人は「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」という四つの「キーワード」がそこに含まれるかという点にのみ注目した。結果的にこれらの「キーワード」は取り込まれ、マスコミを含む世人の反応はおおむね好意的であった。安倍首相の支持率も上昇した。なんと耐えがたいまでの浅薄さ、愚かさであることか。

 これらの「キーワード」は、誰の誰に対する「反省」であり「謝罪」なのか。すべて文脈をずらして用いられたゴマカシたった。「安倍談話」はその冒頭で、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べている。この認識は安倍氏のみならず、長年にわたってニッポンジンたちが広く共有してきたものだ。だが事実としては、日露戦争は中国東北地方(満州)の覇権をめぐる戦争であった。仙台医学校留学生たった魯迅が教室で、中国人が日本軍人に斬首される場面のスライド写真を見せられたのは、この時のことだ。犠牲者たちは「露探」(ロシアのスパイ)として捕らえられ、国際法に反して裁判もなく殺害されたのだ。しかも、同じ教室の日本人学生たちはみなこの映像に「拍手喝采」したのである(「吶喊自序」 注:中国近代文学の父 と呼ばれる魯迅の作品集「吶喊」(とっかん)に著者自身がよせた序文)。ニッポンジンはなぜ自国が犯したこの罪を恥じることもないまま、魯迅文学に「感動」したり、それを楽しんだりすることができるのか? 虐殺は1937年に不意に起こったのではない。日清日露戦争など、日本近代の始発点から当然のことのように連続してきたのである。

 朝鮮は日露戦争の兵站基地として日本に軍事占領され、外交自主権を剥奪され「保護国」とされた。それがのちの「併合」へと直接につながっていった。抵抗した「抗日義兵」をはじめとする朝鮮民衆は無残に弾圧され殺戮された。つまり日露戦争は、日本による朝鮮植民地化戦争の一環なのであった。安倍首相は、その朝鮮民族に向かって、日露戦争を引き合いに自国を美化してみせたのだ。安倍談話は北海道、琉球(沖縄)、台湾に対する征服と支配についても、一言の「お詫び」も「反省」も述べていない。

 安倍首相はその談話において、西洋諸国から押し寄せた植民地支配の波への危機感が日本にとって「近代化の原動力」となったと述べた。彼が「反省」したのは、第一次世界大戦後、世界恐慌が発生し欧米諸国が経済のブロック化を進める中、孤立感を深めた日本が「新しい国際秩序」への「挑戦者」となって進むべき針路を誤った、という点である。これは欧米帝国主義列強に「挑戦」して申し訳なかったという挨拶にすぎず、植民地支配と侵略戦争の被害者に向けた「反省」や「謝罪」ではありえない。
「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」
というくだりもあるが、これは「慰安婦」(日本軍性奴隷)を指すことばだろうか。誰が傷つけたのかという主語をなぜ隠すのか。そもそも「忘れてはなりません」とは、誰が誰に向かって教え諭そうというのか。

 「安倍談話」は、その結語部分で、
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
と述べている。自己陶酔的な美辞麗句である。若い世代を国家の共犯に引き入れ、「謝罪を続ける宿命」を負わせているのは日本政府そのものではないか。

 だが、より深刻なことは、このようなゴマカシ、わざとらしい美辞麗句に、マスコミをはじめとする多数のニッポンジンが同調したことだ。実際に起こった出来事は一つの国と国民が他民族を侵略し、強姦し、虐殺したということである。その当事者である一国の政治指導者が、戦後70年を期して発した談話が、これであった。私は日本国民ではないが、「人間」として、この談話に激しい羞恥を禁じ得ない。このテクストは「歴史修正主義」という以前に、言葉に対するシニシズムそのものであり、人間に対する愚弄である。被害者に対してだけではない、自国民を含む人間たちの知性、理性、廉恥心に対する愚弄である。当然、愚弄された側から憤激の声が湧き起こってしかるべきであった。だが、もちろんニッポンではいつものとおり、そういうことは起きなかった。

私は人をだましたい

〈…この30年間、私が見せつけられたのは青年の血ばかりだった。その血は層々と積まれてゆき、息もできぬほどに私を埋めた。私はただ、このような筆墨を弄んで数句の文章を綴ることによって、わずかに泥の中に小さな穴を掘り、そこから喘ぎつづけるだけなのである。〉(「忘却のための記念」)

 密閉された鉄の部屋で眠りこけながら徐々に窒息していく同胞のなか、ひとり目覚めてある魯迅の「寂寞」(「吶喊自序」)は、辺見庸のものでもある。だがいうまでもなく、両者には大きな違いもある。時代も異なるが、中国と日本、その立ち位置が違う。魯迅は封建勢力や白色テロ勢力によって、さらに外来帝国主義勢力によって流された同胞青年の血を見つめた。これを逆にいうと彼には、血を流して抵抗する同胞青年たちがいたということでもある。一方、辺見庸が見つめているのは、同胞であるニッポンジンが流させた、中国人や朝鮮人など他者の血である。彼の同胞は(小林多喜二のような例外を除いて)血を流して抵抗するのではなく、他者の血を流しておきながら、すっとぼけているか、その記憶をきれいさっぱり消し去った。これが魯迅と辺見の違いである。どちらの「寂寞」がより深いか、などと問うまい。「寂寞」はいかに深かろうと、「血」には代えがたい。

〈終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。〉
 魯迅が日本語で書き、日本の雑誌「改造」1936年4月号に掲載させた文章「私は人をだましたい」の末尾の一行である。この年10月19日、魯迅は苦闘の人生を閉じた。盧溝橋事件を口実に日本が中国本土に本格的に軍事侵攻を開始したのが翌年7月、南京で大虐殺が繰り広げられたのは同12月のことであった。魯迅は「1★9★3★7」の前年に、日本人に向けて「血の予感」を書き残したのである。その予感は的中した。

 この「予感」を受けとめた日本人はどれくらいいたのだろうか? 堀田善衛に「魯迅の墓その他」という短いエッセーがある。終戦前の1945年6月、「武田泰淳といっしょであったか」どうかは「忘れてしまったが」、魯迅の墓を訪れたというのである。堀田はそれ以前から魯迅の作品に親しみ、その「真黒いみたいな絶望と、その底から、火をつければ白熱もするであろう「復讐」の、青い焔のような念々、これにも激烈なものを受け取らされた」とこのエッセーに記している。「復讐の青い焔のような念々」……日本に魯迅の読者・研究者は多いが、この堀田のように魯迅をとらえたものは多くないだろう。堀田や武田が辺見庸の先行者たり得たのは、彼らの視野に魯迅という強烈な他者の姿をとらえていたからではないだろうか。他者のまなざしがかろうじて「発狂」の淵を前に人を立ち止まらせる。自己しか見えないものは、その淵の底に沈むしかない。

 辺見庸が本書で試みたことを短く言うとすれば、それは「人倫」を救うことである、そう私は思う。汝殺すなかれ、犯すなかれ、奪うなかれ、……これらの倫理規範を、神や国家からの命令としてではなく、ひとりの人間が自己の内奥からこみ上げてくる自律的な倫理性として発揮することができるか。人間は自律的に倫理的であることができるのか。

 虐殺は人の命を奪うだけでなく、「人間性」や「倫理性」という理念の普遍性を大破壊しつくす。南京で虐殺されたのは中国の民衆だが、日本人は自己の倫理性の基般を自ら破壊したのである。いまや「人間性」や「倫理性」という言葉も、このクニではせいぜい冷笑の対象にされるか、国家権力による利用物にまで貶められてしまった。それでも人間たちは自らを問い、自らの内に自律的な倫理性を打ち立てなければならない。そうでなければ、虐殺は果てしもなく反復されていくほかないのだ。

 辺見庸が東日本大震災の後に出演した印象深いテレビ番組がある(「こころの時代 瓦礫の中から言葉を」2012年4月24日放映NHK Eテレ)。この番組中、辺見の詩「入江」の抜粋が朗読された。震災以前に書かれたその詩に表明されていたのは、来るべき破局の「予感」である。予感は的中した。この番組名を借りて言うとすれば、本書での辺見庸の試みは、大虐殺のあとの荒れ野で、死者の骨を拾うように「人倫」の破片を拾い、それを再構築しようとすることである。彼の絶望的反抗は、どんなに絶望的であろうと今後も続くであろう。「予感」が彼を突き動かしてやまないからである。

昭和の15戦争史(20)

『1★9★3★7』を読む(1)

 前回の「イクミナ」の角川文庫版の「序」は次のように終わっていた。
「わたしたちはますます多くの想像力の限界をこえる諸事実にとりかこまれている。いま、あらたな世界戦争の絵図もにじむ未来をイメージするとしたら、首をねじり、どうしても過去をふりかえらなくてはならない。なんどでも、なんどでも。」
ここで述べている通り、「イクミナ」は「なんども、なんども」過去を振り返っている著作である。『残日録』から取り出した事項に関連した辺見さんの論説を「なんどでも、なんどでも」読んでみることにする。

 まず第1章第2節「『時間』はなぜ消されたのか」が「『1★9★3★7』とはなにか。」と問い、堀田善衛の小説『時間』をもとに「南京大虐殺」という消された時間を凝視している。

2 『時間』はなぜ消されたのか

 ぜんたい、1★9★3★7とはなにか。それをこれから書こうとおもう。そうするにあたって、小説『時間』に、このはなしの経糸(たていと)のやくわりをつとめてもらう。小説は主人公である中国のある知識人(「わたし」=陳英諦)の手記というかたちではじまる。ここでまずもって注目しなければならないのは、堀田善衛がこの作品で、だいたんにも、「みる」ことと「みられる」ことの、いわば〈目玉のいれかえ〉のようなことをやったことだ。大ざっぱにいえば、加害と被害の立場の転換である。ニッポン(ジン)によってみられる中国(人)ではなく、37歳の中国人・陳英諦の目でみられ思弁された1937年の日本と日本人あるいは中国と中国人。かれらは南京でどうふるまったか。それについて、堀田善衛の目が、被害のがわの目玉にいれかわって情景をスケッチし、いためつけられたがわの内面の葛藤とさけびと、いためつけるがわをはるかに凌駕(りょうが)する大きな時間論と宇宙観をつづっている。その方法が成功しているかどうかを云々するのは本書の趣旨ではない。堀田は創作した主人公にことよせてみずからのおもいを述べているのだから、げんみつには中国人の目でみた日本人ではなく、作家が作中の「わたし」=陳英諦に仮託してかたらせたニッポンジンの姿なのである。「わたし」はしかも、南京に侵攻した「皇軍」の大虐殺で妻子を惨殺され、じぶんも殺されかけた人物という設定である。堀田善衛は無謀ともおもえるこの方法で当時のニッポンジン(兵)の身ぶりとそれらが幽鬼のように集団でうごめく様を、〈中国人はどうみたか〉という視点からえがき、大惨劇を織りこんだ滔々(とうとう)たる時間を対象化しようとしたのだった。

 『時間』は雑誌「世界」で、サンフランシスコ講和条約が発効した翌年にあたる1953(昭和28)年11月号から1955年1月号まで連載された(途中一部は「世界」だけでなく他誌にも分載された)。堀田が35歳から36歳にかけての執筆意欲をみなぎらせていた時期である。単行本は55年に新潮社から刊行されている。その帯に刷られた「著者のことば」で、作家はいくぶん興奮気味におもいをかたっている。
「思想に右も左もある筈がない。進歩も退歩もあるものか。今日に生きてゆくについて、我々を生かしてくれる、母なる思想――それを私は求めた。この作品は、根かぎりの力をそそいで書いた。良くも悪くも書き切った」。
 ここには「南京大虐殺」の五文字はない。やや唐突にもおもわれる「思想に右も左もある筈がない」という文言は、1950(昭和25)年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のさしがねにより政府や企業がおこなった共産党員とその同調者にたいする一方的解雇(レッドパージ)とその余波としての思想状況への反発だろうか。「根かぎりの力をそそいで書いた」とは、なにかの「覚悟」さえ感じさせる、堀田にしてはよほど気ばった口吻(こうふん)である。『時間』は、しかし、文庫化もされ少なからぬ読者に読まれたにもかかわらず、さして大きな話題になりはしなかった。その真価をみとめられることは、ごく一部の例外をのぞき、なかったのである。読者や評者の目にはとまりながらも、作家が投げかけた問題が、文壇や思想界ではげしく議論された形跡はない。『時間』がスケッチした大虐殺像に世評がつよく反応した痕跡もない。それはなぜだったのだろうか。「圧殺」といったあからさまなかたちではなく、無視ないし黙殺という、いかにも戦後日本的手口で、つきせぬナゾを秘めた『時間』のしじまとさけび、闇と血の海は、いずれにせよ野ざらしにされてかえりみられなかったのだった。

 物語『時間』の黙殺と忘却は、わたしにとって、南京の虐殺をながれた「時間」そのものの無視にもみえてならない。忘却と無視とは人間のまったく作為なき身ぶりではない。無意識的にせよ意識的にせよ、記憶と忘却は、憶えるべきものと忘れるべきものとに政治的に選択され、そうするようになにものかにうながされている。かつてたしかに在った時間を、じつはなかったというのが、いま流行(はや)っている。在ったことをなかったといい、無理やり消した時間の穴うめをするがごとく、なかったことを在ったという「芸」が、中世のあやしい魔術のように、人気をあつめているようだ。在ったことをなかったといいつのる集団は、在ったことを在ったと主張する者らを「敵」とみなし、「国賊」という下卑た古語でののしるまでに増長している。在ったことをなかったといいつのる奔流は、在ったことは在ったというながれを各所で呑みこむほどのいきおいになりつつある。ここにわたしは、よみがえり、そのつど姿を変え、しかし、執拗に反復しながら永続する「幽霊」をみる。またもあらわれた幽霊を、ファシズムと呼ぶか天皇制ファシズムと呼ぶか国家主義と呼ぶか全体主義と呼ぶべきかに、とくにかんしんはない。ただ、目鼻口のはっきりしない、どくじの顔とそれぞれの主体性を欠く幽霊たちがみな、示しあわせたように一様な動作をしていることには目をみはらざるをえない。ひたすら歴史をぬりかえようとしているのだ。

 続く3節では浜田知明(版画家・彫刻家)さんの文言を取り上げて、ニッポンに蔓延(はびこ)っている幽霊の根源を突き詰めている。


3 幽霊たちの「誇らかな顔」

 幽雲たちのさまようこの風景をみるにつけ、わたしはつくづく、くぐもった集団的エネルギーと集団的錯視というものの怖さを感じて戦慄する。「よみがえる亡霊」と題された不気味なエッチングが手もとにある。真っ暗な海に、潜水艦であろうか、奇怪な軍艦が浮かんでいる。背後にうっすら水平線がみえる。軍艦の船楼のてっぺんには、あろうことか、片目を見ひらいた巨きな死者の首がくくりつけられている。この作品(1956年)には作者の版画家・彫刻家浜田知明(はまだ ちめい)のつぎのようなことばがそえられている。

  最近、
  赦免されて刑務所の門を出る
  一部戦犯者たちの
  誇らかな顔と
  不謹慎な言葉には
  激しい憤りを覚えずにはいられません。
  再軍備の声は巷に高く
  その眼から怪しげな光芒を放つ亡霊は、
  今や
  暗く淀んだ海面から浮び上がりつつ
  あります
    (浜田知明作品集『取引・軍隊・戦場』現代美術社)

 幽霊たちはとうのむかしから「誇らかな顔」をして闊歩(かっぽ)していたのだ。浜田はおなじ年に、亡霊にからむ簡明なじじつを記している。
「日本に於いては/日本人による/戦争責任者の裁判は/行われませんでした」。
 あまりにも簡単明瞭な文言にわたしはたじろぐ。そして、いまさら、度肝をぬかれる。ニッポンにおけるニッポンジンによる戦争責任者の裁判は行われなかったもなにも、圧倒的多数の人びとがじつは戦犯受刑者の「即時釈放」を望んでいたのである。それは、権力やマスコミにしむけられたものとは言えない、民衆のあからさまな"本音"でもあった。1950年代の中ごろまでには、戦犯の即時釈放を請願する署名が、地方自治体と各種団体がそれぞれ実施したものを合わせ、約4千万人にたっしたという。そのころの総人口が9千万人に満たなかったことをおもえば、成人の大多数が戦犯放免を求めていたことになる。戦争犯罪者、戦争責任者を弾劾する声はきわめて弱かったのだ。いや、「戦争犯罪「戦争責任」というがいねんと自覚そのものが希薄であった。ニッポンはなぜそうだったのか。このクニにはなにがあり、なにがなかったのか。ニッポンがおこなったこととおこなわなかったこと。それらを念頭に稿をおこす。

 本書の緯糸(よこいと)としては、書き手であるわたしじしんのすごしてきた時間を、「私記」として、挿入する。「戦争」――「中国」――「父」が、得体のしれない凝(こご)りとなって内面で浮き沈みしているわたしじしんの私的時間(記憶)を、おりおりフラッシュバック のようにさしはさむ。そうすることでどんな絵模様が浮きでてくるか、いまはわからない。わたしじしんの時間はいま、ひとは、なにを、どのように、なぜ、したのか……または……ひとは、なにを、どのように、なぜ、しなかったのか……という疑問ではちきれんばかりにふくらんでいる。その「ひと」のなかには、亡き父がいて、わたしがいる。答えはわからない。けれども、どうしても問わずにはいられない。せめて問うことさえできれば、問いじしんのなかに、かすかなりとも答えの糸口がみえてくるはずである。問わないでいるのは、たぶん、罪以上の罪である。小説『時間』の末尾はつぎのような一行である。この最後の一行をあえて冒頭において、1★9★3★7(イクミナ)の旅をはじめることにする。

「救いがあるかないか、それは知らぬ。が、収穫のそれのように、人生は何度でも発見される」――。

 章末に堀田さんと浜田さんの履歴が掲載されているのでそれを転載しておこう。

堀田善衛 ほった・よしえ(1918~98年)
 作家。富山県生まれ。慶應義塾大学仏文科卒。上海で敗戦を迎えた後、中国国民党宣伝部に一時留用される。51年『広場の孤独』他で芥川賞。59年アジア・アフリカ作家会議日本協議会事務長。文明批評でも知られた。著書に『橋上幻像』『ゴヤ』『方丈記私記』『上海にて』など。

浜田知明 はまだ・ちめい(1917年~)
 版画家、彫刻家。熊本県生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)卒。40年中国へ出征。戦後、自由美術家協会会員に。戦争体験を描いた版画「初年兵哀歌」シリーズが国内外で注目される。83年ごろから彫刻を始める。
昭和の15戦争史(20)

1937年とはどんな時代だったのか

 前回で『残日録』の1937年に関する全項目の転載を終わったが、『残日録』を離れて、1937年について書き続けていきたい。その理由は次の通りである。

 1937年を特徴付ける重要な事項は二つある。一つは日中戦争の拡大の到達点である南京占領とその時起こった南京虐殺事件。もう一つはそこに至る背景にあった近衛内閣の「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」という掛声のもとに制定された「国民精神総動員法」である。この二つが1937年に日本を戦時国家へ大きく変貌させていったのだった。

 さて、カテゴリ「昭和の15戦争史」を始めたとき、教科書として半藤一利さんの『昭和史…』の他に辺見庸さん『1★9★3★7(以下、「イクミナ」と略称する)』を挙げておいたが、「イクミナ」をこれまで全く利用しなかったが、1937年を取り上げた今、「イクミナ」の出番が来た。1937年がどういう年だったのかを「イクミナ」を用いて詳しく補充したいと思った。

 まず、辺見さんが1937年をどう捉えているのか、「過去のなかの未来」と題する角川文庫版の「序」を読んでみよう。少し長いが、全文転載する。


過去のなかの未来
    -角川文庫の「序」にかえて

 かつて、1937年という夢のような「時」があった。信じがたいことに、そのとき、ニッポンという極東の弧状列島は、いまよりもよほど明るかった。げんざいより「希望」と「活気」と「勇気」にあふれていた。1937年という「時」には「吉兆」ばかりがかたられ、街や村はしばしば祝賀パレードでわきかえった。1937年には人びとの笑顔と歓呼の声がはじけ、「善意」と団結心と助けあいの、いわゆる公徳心というやつがたかまった。人びとはたかぶっていた。不思議なことに、1937年に「暗黒」を感じたひとは少数だった。まして、1937年に、1941年12月8日や1945年8月6日、同9日、同15日の光景をちょっとでも予感したものは、多くの記録からみて、皆無であり絶無であった。1937年は妙に明るかったのだ。そのことをおもうと、わたしの意識は朦朧(もうろう)としてしまう。

 2016年秋のいまは、なんだか明るくない。かりに「未来は希望にみちている」と、いま、目をかがやかせて叫ぶものがいるとしたら、よほどの鈍感か、精神の乱れをうたがわれてもしかたがない。あるいは趣味のよくないブラックジョークと失笑されるだろう。声をひそめて言うしかないのだが、これほど「凶兆」ばかりがまざまざと目につく時代は戦後としてはかつてないだろう。つまり、ごくおだやかな表現で、なるべく抑制的に言っても、「未来は不安にみちている」か「未来はかつてなく巨きな危機にひんしている」というのが、衆目のみとめるところでもあり、衆人のいつわらざる予感であり内心の声ではないのか。1944年生まれのわたしが、物心ついてからこれまで、ありていに申してして、これほど「希望絶無」の状況はなかった。

 ところが、不安や危機、絶望の中身がどんなものか描出するとなると、かならずしも容易ではない。それに、今世紀の動態の不可測性と、今後にありうべき大いなる崩壊と暴力のイメージをかたるのに、ニッポンのメディアや論者たちはおしなべて勇敢でも大胆でも正直でも勉強熱心でもない。むしろ姑息(こそく)で、あまりにもいじましく保守的である。ために、多少の異同と曲折はあれ、おおむね「いま」の時間がよもやUターンや断絶や爆発などはすまいと、だれもがおもうかおもったふりをし、大した根拠もない予断にもとづいて、順当に持続する現状の情景のせいぜい近似値をしか「未来像」として提示しえない。世界中であいつぐできごとはすでに人間の想像力の限界を遠く追いこしているにもかかわらず、である。わたしたちはできごとに置いてけぼりにされている。歴史はげんじつを飛びこしている。

 いかなる精緻(せいち)なITもビッグデータも、フクシマ原発の炉心溶融を事前に警告することはなかった。イスラム国(IS)の成立とその行動、シリアの奈落を予測することもできなかった。フランス革命を祝うパリ祭の日に、ニースで二百数十人が死傷するトラック・テロ事件がおきるなどとだれが直観しえただろうか。大型トラックが雑踏のなかをジグザグ走行し、子どもたちをふくむ多数の市民を轢(ひ)き殺してゆく風景の原因と背景にかんし、深々と腑におちる説明をするのは困難と言うほかない。原因と結果、因果関係、できごとの法則性……を明快にかたりえた時代は(それらが真相からほど遠かったにしても)まだしも幸せだったかもしれない。相模原の障がい者施設で、逃げることがかなわない重度障がい者たちが多数殺められ傷つけられた事件にしてもそうだ。事件は人の想像力をこえ、いまや現(うつつ)と悪夢、正気と狂気の境界もなくなってしまったかにみえる。

 世界が統合化され、グローバル化し、等質化すればするほど、まったく逆に、世界は細分化し、民族・宗教・共同体間の抗争があちこちで荒れくるっているのはなぜなのか。経済とテクノロジーが発展し、デモクラシーとコンプライアンス(法令遵守)がとなえられればとなえられるほど、他方で人間の原始的心性が妖しくかきたてられ、人間個体の無秩序化、自棄(じき)的な暴力化、発作と痙攣(けいれん)が連鎖しているようにみえるのはどうしてか。テクノロジーの飛躍的進展とどうじに、政治と思想、哲学がいちじるしく退行しつつあるのはなぜか。人間がすでに「歴史の主人公」ではなく、「資本の奴隷」に、かつてのどの時期よりも惨めになりさがってしまったわけはなにか。わたしたちは答えられない。

 ふたたび1937年にもどろう。いまにしてみれば、1937年に歴史は、そうとはあまり意識されずに、一気に飛んでいた。南京大虐殺だけではない。1937年の人びとは、その翌年になにがくるかさえ予期できていたかうたがわしい。38年に第一次近衛文麿内閣のもとで制定され(4月1日公布、5月5日施行)た「国家総動員法」!これは全面的な戦時統制法であり、第二次世界大戦期におけるニッポンの苛烈な「総力戦体制」の法的基盤となった。これこそ戦時におけるあらゆる資源、資本、労働力、そして貿易、運輸、通信、経済を国家の統制下におき、人びとの徴用、労働争議の禁止、言論の統制など、市民生活を全面的に国家の意思にしたがわせる権限を政府に付与した授権法であり、いわば人民の運命を政府に白紙委任する法律であった。問題は、わたしたちの父祖たちがこれについて大議論を交わし、なんらかの反対闘争をてんかいしたかどうかである。

 闘争なんてなかった。国会では法案に多少の批判的質疑はあったものの、なんのことはない、全会一致で採択したのだ。国家総動員法はかならずしも上から強圧的に押しつけられたものではない。戦争と侵略の遂行に不可欠なこの基本法には、もともと市民への強制や罰則条項を(治安維持法があったからとはいえ)ふくまなかったのである。それはなにを意味したか?

 戦争と侵略へのコクミンの自発的協力が前提され、期待され、非協力や反戦運動の可能性など、はなから想定もうたがわれもしなかったのだ。その時代に、わたしの祖父母が生き、両親たちもニッポン・コクミンとして生活し、父は、他の人びとと同様に、まったく無抵抗に応召し、中国に征った。そのなりゆきまかせと没主体性について、死ぬまでにいちどはほじくっておきたいとわたしはおもっていた。

 37年12月14日の南京陥落祝賀提灯(ちょうちん)行列には東京市で40万人、翌年10月の武漢攻略祝賀パレードには100万人ものコクミン=「群衆」が参加した。「群衆」というものは、なぜかいつもわたしをたかぶらせ、さいごはかならずといってよいほど、ひどく失望させる。だれもがじぶんのなかに「群衆」をもっている、という真理は、しかし、じぶんがいつまでも顔をかくした群衆のひとりでありつづけることを、とくに戦争の時代には、正当化しない。父は「皇軍」という武装した群衆のひとりでありつづけたのか。ただそれだけの人であったのか。かれは群衆であることからついに脱しえた男だったか――は、父が中国で無辜(むこ)の民を殺したか、という不問におわった問いにともなう重い疑問でありつづけた。

 この問いは、むろん、物故した父という他者へのそれですむわけがない質のものであった。けっきょくは、どうできたか、どうしのげたか、どうにもならなかったか……といった作業仮説を無限にじぶんに突きつけるほかはない。そして、そのような作業仮説をたてるには、歴史的過去と相談する以外に道はなかった。そうして書きつづけたのが本書『1★9★3★7』である。果たして、2016年げんざいのナゾをとくヒントは過去にこそあるとおもいいたった。すなわち、人間の想像力の限界をこえる、酸鼻(さんび)をきわめる風景の祖型は1937年に、つとにあったのである。未来は過去からやってくる……この逆説はこけおどしでもレトリックでもない。わたしたちは世界規模の戦争を現実化する諸条件を、げんざいだけではなく、過去にも探すべきなのであり、それはあらゆる兆候からして焦眉(しょうび)の課題である。過去は、げんざいと未来に、遠音(とおね)のようによびかけている。1937年10月と11月にしたためられた巴金(パーチン 文末に履歴が掲載されている)のつぎの言葉(「日本の友人へ」)を、過去から未来への遺言としてふたたび噛みしめようと思う。

……私は、あなたたち普通の人の欠点を見逃すことができません。あなたたちは自分の本分を守り、それゆえいつも目を閉じて、統治者があなたたちの名で勝手なふるまいをするに任せます。あなたたちは忠義に厚く、それゆえ容易に騙されます。あなたたちは、上で統治する権力を崇拝します。上司の言葉を信じ、学校の教師の話を絶対の真理と受け取ります。そして社会に出たら新聞を生活の指針とします。あなたたちの頭には、誤った観念とウソのニュースが詰まっているのです。そのためあなたたちは世界が分からなくなり、この世界で自分たちのいる場所および自分たちの責任を理解できなくなっています。その結果、あなたたちは完全にカイライになり、野心家に利用されて甘んじているのです。
(「日本の友人へ」『日中の120年』岩波書店刊第三巻「侮中と抗日1937―1944」所収 鈴木将久訳)

 巴金はまた
「あなたは立ちあがって動くべきなのです。私は損害を被った無数の中国人民を代表してあなたたちにわずかの同情を求めるつもりもありません。そのようなことは決してありません。私か求めるのは、あなたとあなたの同胞の反省だけです」
と、日本人の友人にあてて書きしるしている。それからほどなくしてひきおこされたのが、南京の大虐殺であった。そのできごとは人間の想像力の限界をこえていた。人間の想像力の限界をこえたからといって、非・事実とは言えない。わたしたちはますます多くの想像力の限界をこえる諸事実にとりかこまれている。いま、あらたな世界戦争の絵図もにじむ未来をイメージするとしたら、首をねじり、どうしても過去をふりかえらなくてはならない。なんどでも、なんどでも。
          2016年秋   辺見 庸

巴金 パーチン(1904~2005年) 
 中国の作家。反帝・反封建の五・四運動影響下でアナーキストとなる。29年フランス留学中に『滅亡』を発表し、小説家として注目され、長編小説『家』などで30年代文学の旗手と目される。文革終結後、『随想録』を発表し、知識人の責任問題を提起した。著書に『寒夜』『火』など。


昭和の15戦争史(19)

1937年(9)~(13)

(9)9月8日
警視庁でのアホな会議決定


「外国人と戯れる女性は国外追放」

 戦前の日本の、世にもばかばかしいお話をひとつ。
 1940年に東京オリンピック開催の予定であったが、世界大戦の勃発のために実際は準備も半ばにして中止となったのは、ご存じのとおり。が、それに先駆けて1937年9月8日、警視庁の特高・外事両課長会議でとんでもない事が決められていたことは、知る人ぞ知る。

 議題は、オリンピックには外国人選手が山ほども来日する。その外国人選手たちとわが国の女学生・令嬢・有閑マダムたちとの間に、ともすれば良からぬことがおこる可能性がある。これにいかに対処すべきか、というのである。
 で、たどりついた結論は――。 「もしかくの如き大和撫子の本分を忘却したる、いたずらなる外人崇拝に陥るようなことがあった場合は、よろしくこれらの女性を国外に追放すべし」

 歴史に「もしも」はないが、あのとき東京オリンピックが開かれていたら、どのくらいの女性が追放されたことか。いや、考えるのもアホくさいか。それにしても「大和撫子」は完全に死語となった。悲しむべきか。

 上の事例は近衛第1次内閣の悪政策とは無関係のようだが、次のような事例はその悪政策の施行が世相に与えた影響の現れではないだろうか。

(10)11月3日
「愛国行進曲」の発表


「見よ東海の空あけて」

「見よ東海の空あけて旭日(きょくじつ)高く輝けば/天地の正気(せいき)溌刺(はつらつ)と希望は躍る大八洲(おおやしま)/おお晴朗の朝雲に聳(そび)ゆる富士の姿こそ/金甌無欠(きんおうむけつ)揺(ゆる)ぎなきわが日本の誇りなれ」

 振リガナをつけなくても、すらすらと読める、または歌える方は、恐らく60歳以上に限られるであろう。戦争中に大いに歌われた「愛国行進曲」。

 この歌詞公募の締め切りがこの年の10月で、57,578のおびただしい応募の中から当選歌詞が選ばれた。発表は11月3日、鳥取県の森川幸雄という23歳の青年詩人である。さらに作曲が公募され11月末の締め切りまでに9,555曲が応募。当選したのは退役海軍軍楽長瀬戸口藤吉。

 こうして出来上がった国家公認の愛国歌がラジオから流れ出だのが、この年の12月末である。金甌無欠とは何ぞや、とボヤキつつ日本人は大いに歌った。

(注)
ちなみに「金甌無欠」の意味
 中国の南北朝時代の「南史」が出典で次のような意味である
「きず一つない金のかめのように、完全で欠点のないこと。特に、国家が独立強固で、外国の侵略を受けたことのないこと。」


 そして、のちにわれら悪童どもは替え歌を作って歌った。
「みよ、東条のはげ頭/ハエがとまればツルとすべる/すべってとまってまたすべる/とまってすべってまたとまる/おお晴朗のはげ頭……」
 もちろん、軍国オトナのいるところでは歌えなかった。

(11)11月
鎮魂歌「海行かば」初放送

 「海行かば水漬くかばね」  太平洋戦争下の日本人は戦況に一喜一憂した。戦果が上がったときは、きまって「軍艦マーチ」が鳴り響いた。そして不幸な知らせは、アナウンサーの荘重な声とともに「海行かば」がつらく奏でられた。
「海行かば水漬(みづ)くかばね/山行かば草むすかばね大君の辺にこそ死なめ/かへりみはせじ」

 『万葉集』にある大伴家持の長歌の一節である。もともとは聖武天皇の「宣命第一三詔」にあり、最終句は「のどには死なじ」であるが、家持が長歌に引くとき「かへりみはせじ」としたという。日本武人の死生観を率直に表現したのである。

 しかし、戦中にしきりに歌われ、玉砕の報とともに曲が流されたために、悲しい思い出と結びつき"戦犯の歌"となった。

 が、信時(のぶとき)潔が作曲し、1937年の11月に初めてNHK大阪中央放送局が流したこの曲は、美しい名曲なのではないか。これを書きつつハミングしていると、少し眼裏が熱くなってくる。過去の歌として葬ってしまうには惜しいように思う。

 半藤さんが少年時代に耳にしたメロディーを愛惜する気持ちは分かるが、歌は歌詞とメロディーが一体化して歌である。いつ覚えたのか、私は「海行かば」を何も見ずに歌うことができるが、「海行かば」の歌詞は全く許容できないので、メロディ-の衰亡を惜しいとは思わない。

(12)11月20日
宮中に大本営を設置


「大本営発表」

 日中戦争下の1937年11月20日、宮中に大本営が設置される。昭和史の年譜をみると、かならずこう書かれている。
「大本営とは何ぞや。要は、大元帥陛下のもと、戦時下の陸海軍の統一した統帥補佐機関、というわけ。同年の7月に勃発の日中戦争に対処するために設けられたもので『天皇ノ大纛(だいとう)下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営卜称ス』と軍令第一号にある。大纛とは天皇旗のことである。」

 戦争を体験した世代には、大本営と聞くと太平洋戦争中に全部で846回あった「大本営発表」が思い出されてくる。初期のころには、軍艦マーチと一緒に、ラジオから流れてきた"勝った、勝った"の「大本営発表」とともに国民は大そう熱狂した。おしまいころには海行かばの曲と一緒であった。撃滅したはずの機動部隊からの敵戦闘機がワンサワンサと本土空襲を始めるのであるから、国民は「大本営発表」をまったく信じなくなった。つまり「大本営発表」は大ウソの代名詞となる。

 今は「大本営」は永遠の死語。記憶する必要もない言葉といえようか。

(13)12月13日
中国の首都・南京占領

「戦局終結の動機を得る」

 1937年7月の"盧溝橋での一発"からはじまった日中戦争は拡大の一途をたどった。11月には大本営が設置され、幾度か和平の機があったがすべて見送られた。「敵の戦意を挫折し、戦局終結の動機を得る」目的で、中支方面軍が編制され、松井石根大将が軍司令官に任命される。

 目指すは中国の首都南京である。日本の軍部には、首都を陥とせば戦争は終る、という独特の戦争観があったからである。その攻略戦は12月1日から開始され、各部隊は南京一番乗りを期して先陣争いを展開した。そしてこの年の12月13日、大本営陸軍部は南京占領を大々的に発表した。

 戦後問題になった虐殺事件は、作戦が開始され上海から南京へ攻めのぼる過程ではじめられ、占領直後までつづいたといわれる。松井大将はその責任を問われ東京裁判で絞首刑。

 当時の日記に
「一時我将兵により小数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれば洵(まこと)に遺憾なり」
と大将は記す。

 松井が虐役事件のことを知ったのは、終戦後のことであったといわれているが……。

昭和の15戦争史(18)

1937年(5)~(8)

 日中戦争が始まり、日本が戦時国家へと大きく踏み出した頃、スペインでは第二次世界大戦の前哨戦と見なされるような大きな内乱が起こっていた。そのスペインの内乱にヒトラーが介入し、1937年4月26日にドイツ軍がスペインのゲルニカを無差別爆撃する事件が発生している。『世界の歴史12』から、この事件に関する部分を転載しよう。

(5)7月26日
ゲルニカへの無差別爆撃


スペイン内乱

 1936年7月18日、スペイン領モロッコで国粋主義の軍人たちが暴動をおこし、フランコ将軍がその指揮をとるとともに、反乱はスペイン各地にひろがっていった。  それはこの年2月、人民戦線政府が成立したときから、軍部や右翼諸政党によって準備されていたものである。

 当時、人民戦線派の議席のうち、共産党はわずかを占めているにすぎなかったが、地主資本家、カトリック教会、軍部など右翼勢力の大義名分は、もっぱら「スペインを共産化から救う」というところにあった。フランコら反乱の指導者たちは、48時間以内にクーデターは成功すると信じていたし、共和国政府もはじめは事態を楽観していたようである。そして世界中のだれひとりとして、これが第二次世界大戦の前哨戦として注目をあつめるような内乱に発展しようとは、思ってもみなかった。

 元来、フランコら軍部の反乱は独伊の積極的な軍事援助のもとで計画されていた。第二のシーザーをもって任ずるムッソリーニは、地中海を「イタリアの海」にしたいと夢みたし、ヒトラーもスペインの重要鉱産資源はもちろんのこと、その戦略的地位にも注目していた。

 援助の内容は飛行機、戦車をふくむ大量の武器と弾薬、兵員、軍需物資などであるが、その総量についてはまだ明らかでない。37年3月イタリア軍兵士は6、7万にたっしたし、39年4月までのドイツの援助は金額にして約5億マルクといわれている。37年4月26日の有名なゲルニカの爆撃は、ドイツの援助の仕方をよくしめしていた。フランコ軍のマークをつけたドイツの新鋭戦闘爆撃機が、ゲルニカ――小さな町で古代バスク文化の中心地であり、軍事的にはまったく意味がなかった――を爆撃し、低空飛行の機銃掃射を、婦女子をふくむ非戦闘員にあびせたのである。ピカソをはじめ全世界の人びとはこの野蛮な行為を非難した。ヒトラーは実戦の場で空軍をきたえたり、戦車の装備をテストしたり、きたるべき戦争の予行演習とこころえていたのだ。

 このような独伊の公然たるフランコ援助にたいして、英米仏は不干渉政策をとった。フランコが反乱をおこしてから1週間めの7月25日、フランスのブルム人民戦線政府はスペインヘの武器輸出を禁止した。8月はじめ、イギリスのボールドウィン政府もこれに賛意を表明した。そして8月末、ブルムの提案で、不干渉に賛成する国による不干渉委員会が設置されることとなった。ここには当事国スペインと中立国スイスをのぞく全ヨーロッパの諸国が参加した。アメリカは参加しなかったが、英仏の不干渉政策を全面的に支持することは、35年いらいの「中立法」の存在によって明らかであった。

 独伊は不干渉委員会に参加していたにもかかわらず、公然とフランコを援助していたのだから、不干渉委員会は実際上はスペインの合法的政府をポイコットし、その武器購入を阻止するものとなっていた。そこで同じく不干渉委員会にはいっていたソ連は10月、スペイン政府への援助をおこなうことを明らかにした。

 また世界の民主勢力は「国際旅団」への支援を強めた。 これはスペイン内乱がはじまるとすぐに、スペイン在住の外人によって自然発生的に組織されたものであるが、反ファシズム運動の高まりのなかで世界の各地から義勇兵がはせ参じた。その正確な数は不明であり、37年2月には1万5千人(32の国籍)とか、延べ人数で約3万2千という数字もみられる。テールマン部隊(ドイツ人)、ガリバルディ部隊(イタリア人)パリ・コミューン部隊(フランス人)、リンカーン部隊(アメリカ人)などが生まれた。ソ連の作家エレンブルグは、ヘミングウェイ(1899~1961)があるとき、
「ぼくはあまり政治はわからないし、それに好きでない。けれどもファシズムがどんなものであるかは、ぼくも知っている。ここでは人びとは正義のために戦っているのだ」
といったことを伝えている。ヘミングウェイがやがてスペイン内乱を題材として、『誰がために鐘はなる』を書いたことは有名である。

 スペイン内乱で「国際旅団」に結集した義勇兵の国々を見ると、なるほど、スペイン内乱を第二次世界戦争の前哨戦とみなす視点が納得できる。

 日中戦争に戻ろう。

(6)7月29日
通州事件がもたらしたもの


「私が信じた支那人よ」

 日中戦争が始まって間もない1937年7月29日、河北省の通州で在留日本人・軍人142名が、冀東(きとう)政権の保安隊の襲撃をうけて惨殺された。通州事件である。日本の傀儡政権の冀東政府を、日本軍が誤って爆撃したために、これに怒った保安隊が中国軍と一緒になって攻撃してきたものである。

 その残虐事件の影響は大きかった。日本人の怒りの炎は燃えたぎったといっていい。のちの南京事件はこれに発すると説く論者もいる。

 東京では、9月に真山青「嗚呼通州城」が上演された。戦火を避けて通州へ逃れてきた女主人公が始めにいう、
「日本人のある人はあまりに支那を疑いすぎたのです。今日こんな事変(日中戦争)が起きたのは、支那を信じすぎた人の罪ではなく、疑いすぎた人たちの責任だと思います」。
だが、劇の後半で、通州の反乱が起きると、
「私を撃ったのは、私が信じた支那人よ」
と、激しくののしるようになる。

 これが当時の平均的な日本人の中国に対する心情であった。以後、中国への憎しみはもはや鎮静することなく、増大する。思えば不幸な事件であった。

(7)8月19日
北一輝の死刑


「天皇大権ノ発動ニヨリ」

 国家主義運動の思想的指導者である北一輝が、2・26事件の首謀者として、死刑台上に54歳の生命を終えたのは、この年の8月19日である。

 彼はこの反乱事件に直接に参加してはいなかった。しかし陸軍は、彼の理論が反乱軍兵士の思想的支柱となっていたとみなし、処刑した。行動ではなく、思想そのものを断罪したのである。

 代表作はわずか三冊。それだけにその思想の全ぼうはつかみにくい。最後の主著『日本改造法案大綱』には、
「天皇ハ全国民ト共ニ、国家改造ノ根基ヲ定メンガ為メニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ3年間憲法ヲ停止シ、両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲシク」
と書き、天皇を"決断する超越的な権力者"にまつりあげている。この天皇像が、現状打破をもとめる2・26の青年将校の心をとらえた。もっとも、生き残った青年将校たちは、わたくしの取材にたいし「北とはまったく関係がない」と証言したが。

 それと昭和史をひっかきまわした"統帥権干犯"は北の造語であった。司馬遼太郎のいうこの「魔法の杖」が歴史をあらぬほうへ動かしたのである。

 私は北一輝の思想を全く否定するが、しかし思想を断罪して死刑に処す方にも全く賛同しない。これはアベコベが強行採決した「共謀罪」に通底している問題である。

 次の問題は前回予告した近衛第1次内閣の悪政策再論である。

(8)8月24日
近衛第一次内閣の政策


「国民精神総動員」

 近衛文麿を首班とする第一次近衛内閣が成立したのは、1937年6月4日である。若き貴公子の近衛は政党・軍部・財界などですこぶる人気のあった人物で、その誕生をジャーナリズムも大歓迎した。

 近衛内閣は「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を三大目標にかかげ、新聞はさっそく「近衛挙国一致内閣」と太鼓をたたいた。しかし、国民からすれば、内閣が推進しようとする貯蓄増強も、勤労奉仕も廃品供出も、前途にきな臭いものを感じさせる政策としか思えなかった。

 案の定である。1ヵ月後には盧溝橋事件、つづく上海事変と、日中戦争が起こってぐんぐん拡大していった。日本はたちまちに戦時国家となる。

 内閣は国民の気持ちをひきしめるため、8月24日、「国民精神総動員実施要綱」を決定。全文50条からなるこの法律で、日本は本格的に戦時体制へと転換していった。

 いらい1945年の敗戦まで、日本人は「国民精神総動員」の美名のもとにあらゆる辛苦に耐えねばならなくなった。2度と精神まで総動員される時代が来ないようにと祈らざるをえない。

昭和の15戦争史(17)

1937年(1)~(4)

 日中戦争は1937年に勃発する。つまりこの年、日本は戦時国家となっていった。従ってこの年に起こった取り上げるべき事件も多い。今のところ17項目ある。2~3回に分けて掲載することになるだろう。

(1)1月21日
浜田国松の名演説


「キミ割腹せよ」

 壇上に立った政友会の浜田国松代議士は、なにをも恐れぬかのようにいった。
「独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ……」
 これにたいして陸相寺内寿一が反発した。
「軍を侮辱するがごとき言説があったのは遺憾である」
 ふたたび浜田は登壇し蛮声をはりあげた。
「武士は古来、名誉を重んずる。どこが軍を侮辱したか、事実をあげよ。あったら割腹してキミに謝する。なかったら、キミ割腹せよ」
 世にいうハラキリ問答である。1937年1月21日の衆議院本会議でのこと。

 2・26事件後の、政治的進出をあらわにする陸軍にたいする政党人の最後の抵抗ともいっていい事件で、結果は広田弘毅内閣の総辞職。

 この論争には知られざるエピソードがある。寺内陸相の弁がさえなかったのは、この野郎と威勢よく登壇したのはよいが、閣僚席に老眼鏡を忘れてきてしまったからという。かねて用意の激越なメモが読めなかったのである。

 それにしても、浜田は立派であった。

(2)2月17日
「死なう団」の集団割腹


「死のう死のう、死のう」

 「死のう死のう、死のう」と3回大声で叫ぶ。正座する。遺書を前におくと、もろ肌をぬいで、もってきた短刀で切腹自殺をする。

 この年の2月17日の正午すぎ、東京の国会議事堂前、警視庁前、内務省前、宮城前、外務次官邸前の5ヵ所で、5人の青年が時間を合わせたようにして腹に短刀を突き立てた。といっても、短刀には副木があてられていて、刃は2センチほどしかでていないから、致命傷にはならなかった。

 新聞はさっそくこの奇妙な事件を報じ「死なう団」と大きく書きたてた。正式には日蓮会殉教衆青年党といい、宗教改革を叫ぶ江川桜堂という青年を盟主とする。団員28人。ところが特高警察にマークされ全員が拷問されたとして激怒、真相を世に知らせるため"自殺にあらざる切腹"行動にでたものという。日蓮宗でいう「不惜身命」を、スローガンの「死なう」の一語にこめた。

 しかし、あまりの奇矯な行動は世間をびっくりさせただけで、その後にひどい弾圧をうけて姿を消した。

 まったくバカバカしい集団ではある。こうした事件に接する度に思うことがある。宗教にのめり込んだ人の考えをも思想と呼ぶ人たちがいるが、私にはこれも妄想としか考えられない。念のため「広辞苑」から「思想」の哲学的意味を取り出して見よう。
「(ア)判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。」
 つまり、妄想には「論理的反省」が皆無なのである。

 次は敗戦前の支配階級が依拠した妄想の典型。

(3)5月31日
『国体の本義』の発行


「天皇は現御神として……」

 1935年2月の天皇機関説問題のあおりを受けて、広田弘毅内閣は
「機関説は国体に反するものだ。では、国体とは何か。明らかにせよ」
と軍部や右翼団体に突き上げられ、さらに代った阿部信行内閣はその態度決定を迫られた。結果としてこの年の5月31日に『国体の本義』が世に出た。著作者の氏名はない。ただ文部省発行とだけある。以後はこの書が"国体明徴"の教科書となるのである。

 とにかく、のちのちの参考のために――。
「……皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、万世一系の天皇の大御心であり、八百万の神の念願であると共に、一切の国民の願である。……天皇は、外国の所謂元首・君主で王権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国以来の大義に髄(したが)って、この国をしろしめし給うのであって……」

 日本帝国は以後まさしく「神国」となり、天皇は現人神であり、これを疑うことは許されなくなった。壮大なフィクションの時代が始まったのである。わたくしも中学生になつたとき、たっぷりと「神国」の民であることを仕込まれた。

(4)7月7日
日中戦争のはじまり


「盧溝橋の運命の一発」

 1937年7月7日、北京の西郊の盧溝橋付近で、夜間演習中の日本軍と中国軍に銃弾が撃ちこまれ衝突が起こった。この報がとどいたとき首相近衛文麿は、
「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」
と案じた。心ある人はだれもが、満洲事変のときの記憶を新たにしたのである。

 しかし「運命の一発」は日本軍の計画行動ではなかった。しかも、いったん停戦協定が成立し、日中両軍は兵をひいた。が、9日午前2時、ふたたび挑発的に銃弾が両軍に撃ちこまれて再衝突、戦火は一気に拡大して収拾がつかなくなる。これが日中戦争のはじまりである。

 田中隆吉元少将の戦後の手記に面白いことが記されている。同僚の茂川秀和少佐が語ったという。
「あの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。あの晩、日中両軍がそれぞれ夜間演習をしているのを知った学生が、双方にむかって発砲し、日中両軍の衝突をひき起こさせたのです」
 ただし、田中証言は信用できぬものであるという。念のため。

 一体この奇っ怪な事変の真相はどうだったのだろうか。『探索4』に「盧溝橋事件のナゾの発砲者」という項がある。そこから上記の続編として主要部分を転載しておこう。


はたしてこの「運命の一発」も日本軍の策謀であったかどうか。それはほぼあり得ないこと、それが今日では定説となっている。いま公表されている史料ではなお"犯人"不明とするのが正当であろう。というのは、最初の一発で本格的な戦争がはしまったわけではなく、9日に一旦は現地の日中両軍間においてふたたび交戦しないように撤兵協定か結ばれようとしていた。ところが、10日午前2時、その停戦協定をぶち壊すために、日中双方の強硬派が爆竹などを用いて挑発行動をとったことは確かであり、結局は10日午後4時、またまた実弾が日中両軍に撃ち込まれ衝突、戦火拡大して収拾がつかなくなった。それが事実であるからである。

 この10日の実弾射撃の犯人がだれであるのか。不明ということは、それだけで陰謀のあることを想像させるが、とにかくそれ以前に、一触即発の危険きわまりない空気が日中両軍の間に存在していたのである。国家意識や民族感情というものは、もともと非合理で、どろどろした可燃性のものである。これに火がつくと外交上の解決は困難になる。そうなれば、政治の延長である戦争という手段が大手をふって罷り通るのである。部分的な戦闘もアッという間に本格的な戦争へと拡大していった。

 たしかに、2・26事件で皇道派が没落したあと、陸軍省や参謀本部のなかには、チャンスとしてこの際中国軍を徹底的に叩き、これを制圧した上で、本来の敵であるソ連との決戦に備えるべきだと主張する"中国一撃論"のグループが主流となっていた。その辺の事情は石原莞爾の回想応答録がきちんと説いてくれている。

 あに軍ばかりではなかった。ときの内閣を率いていたのが公卿の筆頭である近衛文麿である。近衛はつねづね陸軍の独断専行には不快感をもち、統制派が天下をとった陸軍に少なからず不満を抱いていた。ところが、残念なことに公卿出身の判断力の甘さと、性格的な弱さとをもっていたため、結局は陸軍の要望に押し切られ政策を容認し、追認していったのである。というよりも、実に近衛自身が戦争にたいして人一倍の張り切りようを見せるのである。つまり彼のうちに戦火に接することによって大いに勇み立つ何ものかがあったとみるほかはないが。

 11日の「華北派兵に関する声明」を発し、
「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」
と言い切った。

 以下、8月15日の「政府声明」、9月9日の「国民精神総動員についての内閣告諭」と矢継ぎ早に声明を出して、国民の尻を叩き叱咤激励しつづける。当時のはやり言葉「暴支膺懲」そのものに、言うことをきかない支那を断々乎としてこらしめる、との政府声明で煽りたて、国民を発奮させたのである。

 近衛第1次内閣の政策については次回に改めて取り上げる予定である。

(追記)
 私には「今はまさに戦前である」という大きな危惧があって、日本が犯した大きな過ちを再び犯さないために、「昭和の15戦争」という過去の大きな過ちを振り返へろうと思い立って、「昭和の15戦争史」を始めた。その後「今はまさに戦前である」という危惧を持っている人の言説にいくつか出会ったが、今日(11月15日)の東京新聞「本音のコラム」で斎藤美奈子さん(文芸評論家)が1937年と現在を比較して、同じ危惧を語っていた。紹介したくなった。(無断での転載ごめんなさい。)

コペル君の時代

 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は1937(昭和12)年の本である。旧制中学1年生のコペル君(本名は本田潤一)と仲間たちの物語にコペル君の叔父がつづった「おじさんのノート」を併録した本で、私がはじめて読んだのは小学5年生のころ。油揚げは豆腐を揚げたものであることはこの本で知った。
 その『君たちは…』が売れ行きを伸ばしているそうだ。8月にマガジンハウスから新装版と漫画版が刊行され(漫画版は50万部超!)、旧来の岩波文庫版も好調とか。
 10年ほど前、非正規雇用者の増大で、小林多喜二『蟹工船』が売れたのと同じような現象?
 軍国主義が跋扈(ばっこ)する時代。『君たちは…』が誕生した背景を、吉野源三郎は次のように記している。
〈この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化があることを、なんとかして伝えておかなければならない〉
 しかし、歴史はどう動いたか。37年は日中開戦の年。この年に13~14歳だったコペル君たちは、43年には19~20歳。学徒出陣の世代に当たる。彼らみたいな少年たちが6~8年後には戦争に動員されて命を落としたのである。
 と思うと穏やかではいられない。「偏狭な国粋主義と反動的な思想」に抗(あらが)う本の好調を喜ぶべきか嘆くべきか。37年と2017年の符合が気にかかる。

昭和の15戦争史(16)

1936年(11)~(13)

(11)8月7日
広田内閣の「国策ノ基準」


「南北併進」

 戦前の昭和史がどこから正常ならぬ方向へ動き出したのか、いろいろな見方があるが、その曲がり角の一つに1938年8月7日の広田弘毅内閣が決定した「国策ノ基準」がある、と私は思っている。

 この日、首相広田、外相有田八郎、蔵相馬場鍈一、陸相寺内寿一、海相永野修身(おさみ)の五相会議は、これからの日本の進路を定める運命的な国家政策をきめた。
「外交国防あいまって東亜大陸における地歩を確保するとともに、南方海洋に進出する」
 こうして、国家の大方針を「南北併進」にすること、つまり南進がはじめて決定された。

 同時に同日、「外交方針」をも変更した。ソ連を仮想敵国の第一とし、米英とは何とか親善を保持する。その上で
「速やかに北シナをして防共・親日の特殊地帯たらしめる」
と。
 他国の領土である中国北部を親日の"特殊地帯"にしよう、すなわち満洲国化しようという。なんと高圧的な政策であることか。

 日本はすっかり増上慢な国となっていたのである。

(12)10月19日
魯迅の死


「水に落ちた犬は打て」

 1998年の『文藝春秋』8月呼は「20世紀図書館」と題し、20世紀に書かれた本のベスト100冊を、政・官・財・文化人のアンケートによって選んでいる。それはまことに賑やかな特集であった。
 海外の部のベスト2が魯迅の『阿Q正伝』。なるほどと考え、北京の阜成門街にある魯迅の故居を、十数年前に訪ねたときのことを思い出したりした。

 『阿Q正伝』ほど20世紀前半の中国という国をあざやかに描いた作品はない。また、人はすべて被害者であり加害者でもあることを教え、そして愚直に生きることの尊さと悲しみを、この作品は伝えている。

 その魯迅が残した名言として「打落水狗」すなわち「水に落ちた犬は打て」というのがある。魯迅は当時の反革命派を指して「犬」といった。かれらのような悪人には情け無用という意でいったのである。革命と反革命のあらしの中で、身命を賭して生き抜いた魯迅の苦悩が、この言葉の背景にある。

 1936年10月19日、魯迅死す。享年48。それは、日中戦争がはじまる前年である。

 次に掲載する『共産「インターナショナル」に対する日独協定』(共産「インターナショナル」とは所謂「コミンテルン」のことである。)は『残日録』にはないが、『探索3』から転載する。

 この協定には37年11月にイタリアが参加して日独伊防共協定となる。そしてこれが40年9月の日独伊三国同盟へと引き継がれていった。

(13)11月27日
共産「インターナショナル」に対する日独協定



共産「インターナショナル」に対する日独協定
         (昭和十一年十一月二十七日公布)

大日本帝国政府及独逸国政府ハ、共産「インターナショナル」ノ目的カ其ノ執り得ル有ラユル手段二依ル既存国家ノ破壊及暴圧ニ在ルコトヲ認メ、共産「インターナショナル」ノ諸国ノ国内関係二対スル干渉ヲ看過スルコトハ其ノ国内ノ安寧及社会ノ福祉ヲ危殆(きたい =非常にあやふいこと)ナラシムルノミナラス世界平和全般ヲ脅スモノナルコトヲ確信シ、共産主義的破壊ニ対スル防衛ノ為協カセンコトヲ欲シ左ノ通り協定セリ
第一条
 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ活動二付相互二通報シ、必要ナル防衛措置二付協議シ且緊密ナル協力二依り右ノ措置ヲ達成スルコトヲ約ス
第二条
 締約国ハ共産「インターナショナル」ノ破壊工作ニ依リテ国内ノ安寧ヲ脅サルル第三国ニ対シ本協定ノ趣旨ニ依ル防衛措置ヲ執り又ハ本協定ニ参加センコトヲ共同ニ勧誘スヘシ
第三条
 本協定ハ日本語及独逸語ノ本文ヲ以テ正文トス本協定ハ署名ノ日ヨリ実施セラルヘク且五年間効力ヲ有ス締約国ハ右期間満了前適当ノ時期ニ於テ爾後ニ於ケル両国協カノ態様ニ付了解ヲ遂クヘシ

右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本協定ニ署名調印セリ

 昭和十一年十一月二十五日即チ千九百三十六年十一月二十五日
「ベルリン」ニ於テ本書二通ヲ作成ス

大日本帝国特命全権大使
        子爵 武者小路公共 (印)
独逸国特命全権大使
ヨアヒム・フォン・リッペントロップ (印)

     (出典〔日本外交年表並主要文書〕)

 最後は「世界をおどろかせた西安(シーアン)事件」である。

(14)12月12日
西安事件が生んだもの


「真の敵は日本軍ではないか」

 張学良は1928年に父張作霖が爆殺されたことで、心底から日本軍を恨み、対共産軍との戦闘に闘志をもやそうとはしなかった。張の手ぬるさに業をにやした国民政府軍の蒋介石総統は、督戦すべく南京から西安へ飛んだ。
 しかし、張は「真の敵は日本軍ではないのでしょうか」と強硬に言い張った。蒋はそうした張に怒りを燃やした。反乱はその直後に起こったのである。

 1936年12月12日、蒋介石は張の部隊によって監禁されてしまう。張は、共産党軍を敵とする内戦の停止、武装抗日の推進を蒋に強く要求した。

 蒋介石監禁の知らせは共産党にいち早く届けられた。毛沢東は蒋の処刑を望んだが、スターリンや周恩来は反対し、日本と戦うためには国民政府軍と共産軍との協力が大事と、毛を説得した。こうして国共合作は成り、民族統一戦線が結成される。これを西安事件という。

 1937年から、日中関係は急激に悪化する。日中戦争への道は大きく開らかれた。この事件がまさに歴史の転回点となった。ところが日本の陸軍や外務省の中国通は事態の深刻さを認識せず、いずれまた分裂するさと楽観していたのである。

 翌年7月、日中戦争が勃発するが、中国では国共合作は分裂せず、9月に第二次国共合作が行なわれている。
昭和の15戦争史(15)

1936年(5)~(9)

(5)5月18日
軍部大臣現役制の復活

「陸軍は陸相を推薦できない」

 少し後の話ではあるが、ナチス・ドイツとの関係の緊密強化は承認できないと、米内光政内閣は頑強であった。手を焼いた陸軍は伝家の宝刀を抜いた。畑俊六陸相の辞任である。陸相なしで内閣は成立しない。米内は陸軍に後任の陸相の推薦を要望したが、返事はにべもなかった。「陸軍三長官協議の上、米内内閣に陸相を推薦出来ない」と。1940年夏、後任の陸相がないゆえに米内内閣は倒れた。ここから日本は戦争への道を急進しはじめる。

 もしこの軍部大臣現役制の制度がなければ、予備役または退役の軍人を強引に陸相にすえることで、総辞職は回避できたであろう。しかし、現実にはこの制度が大きく立ちはだかった。これ以後も、軍部は好まない内閣にたいして、陸相を出さないことで意のままに内閣を揺さぶり、倒壊させることができた。

 昔あったこの制度が一度消えたのに、昭和になって復活する。すなわち1938年5月18日、広田弘毅内閣のときである。このことだけでも、広田にはシビアな辛い点をつけざるを得ない。

 もちろん、背後に陸軍の圧力があったのであろうけれども。

 軍部大臣現役制は正しくは「軍部大臣現役武官制」と言うようだ。この制度の歴史を調べたら、次のようであった(ウィキペディアの『軍部大臣現役武官制』から抜粋転載する)。
 日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。
 しかし、日露戦争後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、1913年(大正2年)の山本内閣の時には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。
 再び軍部の影響力が強まった1936年(昭和11年)に問題を起こした退役軍人の影響を排除するためという名目で軍部大臣現役武官制は復活し、1945年(昭和20年)の敗戦により軍部大臣が消滅するまで続いた。
 一方、日本以外の国、特に西欧諸国においては、第二次世界大戦以前においても軍部大臣に文官を任用する例も多く、政治の軍事に対する優位を原則とする文民統制の理念が確立している。

(6)6月1日
「国民歌謡」の放送


「名も知らぬ遠き島より」

 歌手渡辺はま子が歌った「忘れちゃいやよ」が、歌詞と卑猥な歌い方がけしからん、という理由で発売禁止。ほかにも、「うちの女房にゃヒゲがある」「ああそれなのに」と、非常時なのにたるんだ卑俗な歌であるぞ、と発売禁止。やたらに「禁止」「禁止」と軍部や内務省がそっくり返る時代であった。

 そこで健全な歌詞で、健全なメロディで、健全な歌い方で、国民の気持ちを浄化しなければならないと、NHKラジオが「国民歌謡」を放送しはじめたのが、この年の6月1日のことである。2・26事件後の戒厳令がいまだ解けず、人心がピリピリしていたころである。

 島崎藤村作詞「名も知らぬ遠き島より」の「椰子の実」、北原白秋作詞の「落葉松(からまつ)」、藤村がつくる「朝」、もうひとつ「ラララ 紅い花束車に積んで……」と歌いだす喜志邦三作詞、内田元作曲の「春の唄」など。小学校の唱歌の成績「丙」の私はサッパリであるが、こう挙げてくるとたちどころに歌いだせる人も多いことであろう。

 しかし間もなく日中戦争がはじまると、戦意高揚を主とするようになる。「とんとんとんからりと隣組」だけは私にも歌える。

(7)7月5日
2・26事件に判決下る


 「意図したのは革命である」

 1936年7月5日、非公開の陸軍軍法会議は、同年2月26日に起きたクーデター、2・26事件を指揮した青年将校に判決を下した。安藤輝三、栗原安秀、中橋基明ら17名に死刑、5名に無期禁固、2名に10年と4年の禁固が言い渡された。

 そして磯部浅一、村中孝次の二人以外の15名はつぎに記すように7月12日に死刑が執行される。遅れて8月19日、磯部、村中は北一輝、西田税(みつぎ)らとともに処刑された。処断はすばやく、思い切ったものであった。2・26事件は戦前の日本においてはこうして闇の中に消えた。

 裁判では被告全員が、北一輝の『日本改造法案大綱』との無関係を主張したが、一切聞きとどけられることなく終わった。そして「意図したのは、この書にもとづく革命である」と認定される。
 一、兵営を出た瞬間から反乱部隊なのであり、
 二、その行動を是認など軍中央は全くしていない。
 この二つの前提条件からはみ出すような証拠には完全にふたがされた。「暗黒裁判」といわれるゆえんが、そこにある。

(8)7月12日
2・26事件、青年将校銃殺


「栗原死すとも維新は死せず」

 1936年7月12日、2・26事件の青年将校たち15名の銃殺が、代々木の刑場で3回にわけて行われた。

 かれらは目隠しをされ、看守に両側から腕を支えられ、夏草を一歩一歩ふんで刑架についた。むしろの上に正座、十字架に両腕、頭部、胴を、さらし木綿でしばりつけられた。そして一杯の水が与えられた。つぎつぎになされる銃殺の音をまぎらすため、レンガ塀の向こうの練兵場では軽機関銃の空砲の音がしきりに鳴っていた。この日は曇り空であったという。

 青年将校のひとり、栗原安秀中尉の最後の言葉「天皇陛下万歳。霊魂永遠に存す。栗原死すとも維新は死せず」、当時29歳。

 とにかく陸軍の処断はすばやく、かつ思いきったものである。事件の真実を永久に隠蔽するかのように。処刑は裁判前に確定していたのである。

 斎藤茂吉は歌った。  「号外は死刑報ぜり しかれども 行くもろつびと ただにひそけし」

 だれもがものも言わない時代となっていた。
(9)7月18日
スペイン内戦の発端

「ノー・パサラン」

 1936年2月の総選挙で、スペインの中道および左翼政党は、右翼勢力に対抗するため連帯して人民戦線を形成して選挙を戦いぬき、大勝利をえた結果、共和国政府が成立する。

 しかし、7月18日、フランコ将軍に率いられたモロッコ駐屯のスペイン軍が、新政府に反旗をひるがえし、本土に向かって攻撃開始すると表明した。スペイン戦争の発端である。その夜、国際的にも知名の女性革命家イバルリが、全労働者にむけてラジオを通して呼びかけた。 「ひざを屈して生きるより、足で立って死のう!ノー・パサラン」
 このときから「ノー・パサラン」(ヤツらを通すな)が、抵抗運動の合言葉となる。

 戦争は2年半も続いたが、結局はフランコ軍の勝利となり、すべてが空しくなる。「ノー・パサラン」どころかマドリッド市中をフランコ軍が大手を振って闊歩した。

 この戦争では、世界中から若者たちが、だれに頼まれたわけでもないのに自発的に理想のために、命懸けで外国の戦場へ赴いていくという事実があった、ということぐらいは心に銘じておいてほしいものである。

 スペイン戦争に関連した論考「ベルリン五輪とスペイン戦争」が『探索3』にある。これを転載しよう。

(10)8月1日
ベルリン五輪とスペイン戦争


この日(8月1日)、全世界の眼がひとりの小男に注がれた。"二十世紀のシーザー"ヒトラー総統によって第11回オリンピックの幕が華やかに開かれたのである。

 入場式では、オーストリアはナチス・スタイルでヒトラーに挨拶し、観客席のドイツ群衆の喝采を浴びた。フランスはしきたりによる挨拶の礼を守ったために、「祖国フランスがヒトラー1人に挨拶しているようなムードであった」とフランスの新聞記者は地団太を踏んで口惜しがった。イギリス選手団はただ単に「頭、右!」の礼をしただけ。ドイツ群衆はブーブーいった。アメリカは先頭に立つ旗手が星条旗を下げないどころか、誇らしげに高々と上に掲げた。ドイツ群衆は足を踏み鳴らし無礼なヤンキー魂に激しい抗議送った。日本選手団は戦闘帽姿でおとなしく手を横に出して、ヒトラーに敬意を捧げた。

 敬意と猜疑と敵意とによる冷たい戦争はもうはじまっている。ナチス・オリンピックは選手自身の栄光より、国家の名誉が先に立って争われ、競技は国家の威信をかけての戦いとなった。結果はメダルの数の比較によって、ドイツのスポーツ記者はこう書いた。
(1)ナチス・ドイツはアメリカよりも活躍せり。
(2)イタリアはフランスより優れていた。
(3)日本はイギリスを圧倒せり。
 つまりドイツの新聞は、国家主義・全体主義こそが人間のエネルギーを効果的に発揮させ、自由主義・民主主義を負かす方法であることを証明した、と強調したかったのである。

 こうして「民族の祭典」「美の祭典」は終わる。と、祭りのあとには戦いが来た。6月ごろからくすぶっていたスペインの内乱が火を噴き、みるみると内戦へと拡大していった。フランコ将軍の率いる国家主義者側(右翼)と人民戦線側(左翼)の抗争が銃火を交え、8月には本格的な戦争へと発展してしまった。同じスペイン人同士の凄惨な殺し合いである。

 各国がこの戦いをスペイン人だけの手に委ねておくはずがなかった。ヒトラーはただちにフランコ側に精鋭ドイツ空軍や戦車部隊や砲兵部隊を送り込んだ。イタリアのムッソリーニもそれにつづいた。ソビエトとフランスが人民戦線側に回り、機械化部隊と空軍を送りこんだ。アメリカとイギリスは人民戦線側に同情を示しながら、不介入・中立の立場をとった。結果として、スペインの内戦は世界の列強がよその国土で行う代理戦争にほかならなくなったのである。

 ドイツもソ連も、やがて来るであろう第二次世界大戦の実地訓練をスペインの国土で行い、スペイン人の血によって得がたい教訓を身につけてさっさと戦場から去っていった。有益なリハーサルのあとに残されたものは、癒えない深い傷を負ったスペインの国土と民衆だけである。このスペイン戦争で奪われた人命はいまにおよんでも確定していない。両軍あわせて約60万が死に、さらに戦い終わった後、勝ったフランコ将軍側によって、人民戦線側10万人が処刑されたという。

 オリンピック憲章は<オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない〉と規定しているが、赤字部分はナチス・オリンピックだけの問題ではない。オリンピック憲章の規定は現在は空文化している。これも私が東京オリンピックに反対している理由の一つである。
昭和の15戦争史(14)

1936年(1)~(4)

 1937年には日中戦争が勃発する。その前年ということで、1936年で取り上げる項目は、2・26事件関連の記事だけで6項目、全部で10項目ある。従って2回に分けて掲載することにする。また、前回の『紅軍の「大長征」終わる』関連記事の最後の文は「こうして36年12月世界をおどろかせた西安(シーアン)事件がおこった。」だった。この西安事件が1936年の最後の項目である。

 さて、『残日録』からの記事は2・26事件から始まるが、それを掲載する前に野中四郎(陸軍歩兵大尉)がしたためた蹶起趣意書を読んでおこう。『探索3』から転載する。(私にとっての難字には読みや意味を補足した。手元にあるどの辞書を調べても不明な言葉には「?」を付した。ご存じの方教えて下さいませんか。)


蹶起趣意書

 謹ンデ惟ルニ我ガ神州タル所以ハ、万世一系タル天皇陛下御統帥ノ下ニ、挙国一体生成化育ヲ遂ゲ、終ニ八紘一宇ヲ完了スルノ国体ニ存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖肇国、神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整へ、今ヤ方(まさ)ニ万邦ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋(とき)ナリ。
 然ルニ傾来(けいらい =近頃)遂ニ不逞凶悪ノ徒簇出(ぞくしゅつ)シテ、私心私欲ヲ恣(ほしいまま)ニシ、至尊絶対ノ尊厳ヲ藐視(びょうし =軽視)シ、僭上(せんじょう =分を越えた奢り)之働キ、万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ、塗炭ノ苦痛ニ呻吟セシメ、随ツテ外海外患日ヲ逐ウテ激化ス。
 所謂元老、重臣、軍閥、官僚、政党等ハ此ノ国体破壊ノ元凶ナリ。倫敦海軍条約並ニ教育総監更迭ニ於ケル統帥権干犯、至尊兵馬大権ノ僭窃(せんせつ =身分を越えて位をぬすむこと)ヲ図リタル三月事件、或ハ学匪、共匪、大逆教団等、利害相結ンデ陰謀至ラザルナキ等ハ、最モ著シキ事例ニシテ、其ノ滔天(とうてん =たいそう勢いの盛んなこと)ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬ヘ難キ所ナリ。中岡、佐郷屋(さごや)、血盟団ノ先躯捨身、5・15事件ノ噴騰、相沢中佐ノ閃発トナル、寔(まこと)ニ故ナキニ非ズ。
 而モ幾度カ頸血ヲ[賤にサンズイがついた文字 そそ]ギ来ツテ今尚些モ懺悔反省ナク、然モ依然トシテ私権自恣ニ居テ、苛且楡安(?)ヲ事トセリ。露、支、英、米トノ間、一触即発シテ、祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲー擲破滅二堕ラシムル、火ヲ賭ルヨリ明カナリ。
 内外真二重大危急、今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ稜威ヲ遮り御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除(さんじょ =のぞく)スルニ非ズンバ、皇謨(こうぼ =天皇の国家統治)ヲー空セン。恰モ第一師団出動ノ大命煥発セラレ、年来御維新翼賛ヲ誓ヒ、殉国捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ帝都衛戊ノ我等同志ハ、将ニ万里征途ニ上ラントシテ、而モ顧ミテ内ノ亡状憂心転タ(?)禁ズル能ハズ。君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシ能ク為スベシ。臣子タリ股肱タルノ絶対道ヲ今ニシテ尽サズンバ、破滅沈淪(ちんりん =深く沈む)翻スルニ由ナシ。
 茲二同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、奸賊ヲ誄滅シテ大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕ニ肝脳ヲ竭(つ)クシ、以テ神州赤子ノ微衷ヲ献ゼントス。
 皇祖皇宗ノ神霊冀クバ照覧冥助ヲ垂レ給ハンコトヲ。

 昭和十一年二月二十六日         陸軍歩兵大尉 野中 四郎

 読んでいると強い虫酸が走ってくる。これまでの軍人によるテロと同様、自分たちは正義を貫いているという妄想を支えているのは神州・万世一系・八紘一宇・皇祖皇宗……といった類の妄想である。天皇制下の支配階級による教育・文化の全面的な統制下で育った人たちのほとんどがその妄想を掛け替えのないものとして囚われていった時代ではあった。

 しかし、この問題は現在も無縁ではない。私は東京都に於ける学校での「君が代・日の丸」の強制を契機にこのブログを始めたのだが、この問題は今や全国的な問題になっている。昨日(11月8日)、この問題を「澤藤統一郎の憲法日記」が取り上げていた。是非多くの人に読んで頂きたいと思った。紹介しておこう。
『学校儀式における「日の丸・君が代」の呪縛』

 『残日録』に戻ろう。

(1)2月26日
2・26事件と昭和天皇


「自ら鎮圧に当たらん」

 前夜からの大雪で、東京は一面の銀世界であった。その雪を踏んで完全武装の部隊が、重臣たちの官私邸に向かって行った。1936年2月26日午前5時、空前の大反乱がはしまった。率いるのは陸軍大尉野中四郎、安藤輝三以下の青年将校22名。従うは歩兵第一、第三連隊および近衛歩兵第三連隊の下士官兵1400名余。

 内大臣斎藤実、教育総監渡辺錠太郎は即死。蔵相高橋是清は重傷のち死亡。侍従長鈴本貫太郎は重傷。首相岡田啓介は義弟松尾伝蔵大佐の身代わりの死で奇跡的に命びろいをした。

 この大事件にさいしてときの岡田内閣は無力、陸軍首脳はなす所を知らず、右往左往した。彼らを決起部隊として、ひたすらなだめようとした。ひとり毅然として決起部隊を「反乱軍」とよび、討伐を命じたのは昭和天皇である。
「朕が最も信頼せる老臣をことごとく斃(たお)すは、真綿にて朕が首を締むるにひとしき行為なり」
「かかる凶暴の将校らは、その精神において何の恕(ゆる)すべきものありや。自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」
――堂々たる大元帥の言葉。

(2)2月26日
高橋是清殺される


「軍の政治介入は国家の災い」

 実は、ケインズよりも先に、ケインズの雇用理論そのままに、この人は積極財政を推進した。それはウォール街の大暴落以後の、日本の景気回復に、大いに役立った。が、そのいっぽうで軍事費はふくらみ、陸軍の政治進出を可能にする思いがけない結果をうんだ。そこでこの人は、軍部の突出に歯止めをかけようと、真剣に立ち向かった。
「常識を欠いた軍が政治にくちばしを入れるのは言語道断であり、国家の災い以外のなにものでもない」
と、この人は明言してはばからなかった。陸軍はこのまともな批判を許さなかった。

 1936年2月26日、いわゆる2・26事件で、この人が襲撃され殺されたのは、その報復といってもいい。ときの蔵相、高橋是清である。通称ダルマさん。日本がうんだ傑出した財政の実務派である。その人柄、生き方をほめない人はいない。清貧そのもの、淡泊さは人間離れしている。信ずることをズバリといった。天下何も恐れるものなし、というのが信条。惜しい人を失った。享年81歳。

(3)2月29日
2・26事件ようやく鎮定


「今からでも遅くない」  2月29日、午前8時50分、九段の戒厳司令部の放送室よりチーフ・アナウンサー中村茂によって、有名な「兵に告ぐ」が放送された。
「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。……お前たちはみな原隊に復帰せよと仰せられたのである。この上あくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することになり、逆賊とならなければならない……今からでも決して遅くないから、抵抗をやめて軍旗の下に復帰するようにせよ」
 情勢は激変し決起部隊は反乱軍として鎮圧される。急転直下である。

 「兵に告ぐ」がまず電波にのったことに、興奮したのは新聞社である。しかし、記者クラブにかみつかれた陸軍省新聞班の松村秀逸少佐は顔を真っ赤にして「号外を出したって反乱軍の手に入るわけがないッ。いまは寸秒を争っているのだ。新聞などにかまってはおれん」と怒鳴った。
 満洲事変のときにも、速報性ということで新聞は電波と対決したけれども、とてもかなわぬと兜をぬいだのはこのときであったであろう。

 ともあれ、2・26事件はこの「兵に告ぐ」で終る。

(4)4月19日
重々しい国名の使用


「大日本帝国に統一す」

 この年の4月19日、新聞を読んだ人は、ちょっと奇妙な感じを抱いた。外務省が妙なことを発表したのである。

 詔書、公文書などのなかでこれまで日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国などとまちまちに呼称されてきたが、本日より「外交文書には大日本帝国で統一し、実施している」と国民に知らせた。また、皇帝と天皇とが混用されてきたが、「大日本帝国天皇」に統一した、とも発表した。

 国際連盟を脱退していらい世界の孤児となったが、今後は威厳と権威にみちた重々しい国名で、列強との交渉にあたる、という決意を内外に示したのである。

 もともと陸軍にあっては昭和7、8年ごろより皇国・皇軍意識が強調されていた。大日本帝国も陸軍が愛用するものであった。要は、それが国民レベルにまでもちこまれることになったのである。

 単なる言葉の問題ではなく、ウラに国民意識の転換が意図されている。それで日本人はますます夜郎自大になっていった。

昭和の15戦争史(13)

1935年(4)~(6)

日本ではなお軍人による独善的なテロが続いていた。

(4)8月12日
永田鉄山、斬殺さる


「天誅を加えてきました」

 陸軍軍務局長の永田鉄山少将は、午前9時半過ぎ、長身でやせ型のその将校が局長室に入ってくると、ギラリと軍刀を抜いたのを認めた。その将校はすばやく近づくと、振りかぶった刀を永田の肩にたたきつけるように斬りつけた。永田は驚いてドアの方へ逃れようとしたが、その将校は背後から軍刀を突き刺した。倒れた永田のコメカミを第三刀が襲った。それが陸軍の知能といわれた永田にとどめの一刀となった。1935年8月12日、陸軍省内で起こったテロ事件である。

 犯人の陸軍中佐相沢三郎は、驚くべきことに、永田を殺害したあと整備局長室にいき、「永田閣下に天誅(てんちゅう)を加えてきました」といい、これから台湾に赴任するつもりとあいさつしている。

 この年7月に皇道派の真崎甚三郎大将が教育総監を罷免された。それは統制派の中心人物の永田の策謀であり、永田殺害はその報復にすぎない、したがって正義の行動であると、相沢は確信したのである。

 統制派と皇道派とにわかれ、陸軍は長くごたごたし、その陸軍中央の退廃を如実に語り、そして後の2・26事件の導火線に火をつけた事件であった。

 その後、このテロの犯人・相沢は憲兵隊に逮捕される。そして翌年1936年5月7日第1師団軍法会議に於いて死刑判決が下された。相沢は上訴したが、6月30日に棄却され、7月3日に代々木衛戍(えいじゅ)刑務所内で銃殺刑に処された。
(注:衛戍→軍隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛 の任に当たること)

 前々回に取り上げた1934年に始まった中国共産党の大長征の経緯は次のようにまとめることができる。
「1930年代のうちつづく中国内戦で、中国共産党軍(紅軍)は、国民党軍の猛攻に押しまくられて、根拠地の江西ソヴィエト地区を放棄、1934年10月、陜西省北部への転進を余儀なくされた。」
次の記事はこの大長征の続きである。

(5)10月20日
紅軍の「大長征」終わる


「18の山脈を越え、24の河を渡る」

 実に1年余、人間の極限を乗り越えて、1935年10月20日、紅軍はやっとの想いで目的地の陜西省に足を踏み入れた。所要日数371日。踏破した距離は実に12000キロ。その間、飢餓・疾病・寒気、そして執拗に追撃してくる敵と戦わねばならなかった。しかし、
「紅軍は合計して18の山脈を越え……24の河を渡った。12の異なった省を通過し、62の都市や町を占領し……」
という苦難をついに克服して集結したのである。出発のとき、毛沢東・朱徳・周恩来らの第一方面軍は約10万人いたが、大行進が終わったときには1万人にも足りなかったという。

 大長征終了後の中国共産党の動向を追ってみよう。『世界の歴史12』から転載する。


 紅軍が陜西省北部に到着したころ、満洲から華北にかけての日本の侵略は、日に日にはげしくなった。35年冬から36年春にかけて、日本は河北省東部に「冀東(きとう)防共自治政府」、チャハル・綏遠(スイユワン)両省に「内蒙自治軍政府」というカイライ政権をつくり、国民政府に対して、華北は日本の権益がある特殊な地帯だということを認めさせようとしていた。

 これは、もはや単なる圧迫などというものではなく、直接的な侵略にひとしい。こうした状況のなかで「12・9運動」(1935年)とよばれる学生の反日大デモが北京で勃発して、全国に大きい影響をあたえていた。そして中国共産党もまた、このころ政策の大転換をおこなうことになった。蒋介石と毛沢東は、根本的に立場のことなる政党をひきいて争ってきたわけだが、いまやそれ以上に重要な民族の危機が深まったからである。

 毛沢東は、35年12月、会議をひらいてつぎのように演説した。
「同志諸君、当面の政治情勢にはすでに大きな変化がおきている。」それは、「日本帝国主義が中国をその植民地に変えようとしている」ことである。「いまは大変動の前夜にある。党の任務は、紅軍の活動と全国の労働者、農民、学生、小ブルジョワジー、民族ブルジョワジーのすべての活動を合流させて、統一的な民族革命戦線を結成することである。」

 つまり、これまでの「内戦を停止し、一致して抗日す」ことが必要だという政策をうちだし、蒋介石に対して、ともに抗日のために立ちあがるよう訴えたのである。もちろん国共両党は、これまで宿敵の間柄だったから、容易ならぬ政策転換だった。しかし、これはまた日本の侵略をまえにして、当時の中国民衆が一致して望んでいたことでもあった。そして、それを具体的に実現させる事件が劇的なかたちでおこったのである。

 紅軍が陜西省に到着してからも、蒋介石はあい変わらず、その討伐に全力を集中し、とくに張学良(チャン・シュエリャン)の指揮する東北軍をこの方面に派遣した。ところが、この東北軍というのは、もともと東三省、つまり満洲地方の軍隊で、日本に追われてきた軍隊だった。だから彼らの最大の関心は、日本を追いはらい、一日も早く故郷の満洲に帰ることだった。彼らが蒋介石の命令に、はなはだ不満だったのは当然である。そのうえ、「内戦停止、一致抗日」の方針をうちだしていた中共軍は、「中国人は中国人と戦わない」「抗日して協力しよう」というスローガンを叫び、宣伝戦を展開したので、いつのまにか両者のあいだには暗黙の協定ができあがり、むしろ蒋介石の方針を変えさせようという方向にうごきはじめたのである。こうして36年12月世界をおどろかせた西安(シーアン)事件がおこった。

 中国への本格的な侵略を始めた日本では文化や教育への国家統制はますます陰湿になってくる。次の記事はその一例である。

(6)11月26日
戦前のペンクラブの結成


「政治活動を除く」

 戦前の日本では「官」と「軍」が、ときに味方になったりときに敵になったりして、いびつな国家にしていった。多くの人はその圧力に押されてはみだすか、あるいはべったりとくっついた。

 美神に奉仕する文学界もその例にもれなかった。次第に強まる言論の国家統制に息苦しさをおぼえ、早々と1935年には「官」の要望にこたえて、ひとつの言論団体をつくっている。ただし「政治活動を除く」、そして「親睦を計る」のを目的とした。11月26日に結成された日本ペンクラブがそれである。

 会長が島崎藤村、副会長は堀口大學と有島生馬。評議員には長谷川如是閑、鶴見祐輔、清沢冽、木村毅などが名を連ねた。

 が、せっかくの文学者の親睦も、憲兵や特高が「例会に出席させろ」ときびしくいってくるようになり、1942年には事務所も閉鎖となる。「官」も「軍」も、役者が「文」よりも一枚上であった。自由職業人の集りであるペンが、いかに剣に弱いかの好例を残すだけの話か。

 いまの日本も……。

 ウィキペディアの『日本ペンクラブ』を読んでみた。現在のペンクラブには今のところ権力の介入はないようだが、内部では進歩派と保守派の主導権争いが絶え間なく行なわれているようだ。
昭和の15戦争史(12)

1935年(1)~(3)

 『残日録』から取り上げたい項目は6件もあるので、1935年も2回に分けて掲載する。

 第1項目は天皇機関説問題だが、まず「天皇機関説」とはどんな学説なのか。『探索3』にその概略解説があるのでそれを転載する。
『 天皇機関説とは、G・イエリネックの国家法人説を日本の帝国憲法解釈に応用して、一木喜徳郎たちによって唱えられたもので、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関として統治権を行使するものと規定した。そして明治の末期に、天皇個人が国家の統治権を所有するという天皇主権説(上杉慎吉、穂積八束など)とはげしく対立した。これが大正時代になって、一木の弟子であった美濃部達吉によって継承され、いっそうきちんと理論化され、大正デモクラシー時代には政党内閣制に理論的根拠を与える学説として、むしろ憲法学の主流となったのである。昭和7年に美濃部が貴族院の勅選議員となったのもその学説が認められていたからにほかならない。いわばその安定した学説が槍玉にあがるなどと誰がそれ以前に予想したことであろう。』

 この学説が槍玉に挙がった経緯と顛末は次のようである。

(1)2月7日
天皇機関説問題のねらい


「私はとうてい忍従しえない」

 ことのはじまりは、この日、元陸軍少将江藤源九郎代議士が、衆議院の本会議場において、美濃部達吉博士の著書は国体を破壊するものである、と弾劾したことにあった。1935年2月7日のことである。これが昭和史を暗いものにした天皇機関説問題の発端である。

 ついで18日に貴族院において菊池武夫男爵(元陸軍中将)が、美濃部の学説を反逆者の学説(「学匪」)よばわりして排撃した。これで議員たちはいっそう勇み立ち、火の手は消すに消せないほどに大きくなった。というのも攻撃の対象は機関説そのものでなく、はっきりと政界上層部の穏健派を一挙に葬り去ろう、という陰謀に変わっていたからである。強引に推進したのは軍部中堅と、これと結んだ右翼であった。

 それとわかっていたが、まわりの止めるのもきかず美濃部は「私はとうてい忍従しない」と立ち上がり、一身上の弁明を行った。皮肉なことに、機関説排撃の声と圧力これよりいっそう強まっていった。

 昭和天皇は「機関説でいいではないか」といっていたが……。

 天皇が機関説を容認していたとは、私は全く知らなかった。この事についても『探索3』から転載しよう。当時の侍従武官長本庄繁の日記からの引用文であり、議会での機関説に関する速記録を読んで本庄に語った言葉だという。
『軍の配慮は自分にとって精神的にも肉体的にも迷惑至極である。機関説の排撃が却って自分を動きのとれないものにする結果を招くことを慎重に考えてもらいたい。自分は天皇主権説も天皇機関説も帰する所は同一であると思っているが、労働条約その他の国際関係については機関説に従う方が便利ではないかと思う。憲法第四条にある「天皇は国家の元首」という言葉はいうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば憲法を改正しなければならぬ。機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は一応尤ものように聞えるが、事実はこのようなことを論議することこそ皇室の尊厳を冒涜するものである』

(2)4月10日
「国体明徴」の文部省訓令でる


「万世一系の天皇国を統治し……」

 戦時下の昭和日本は、天皇陛下を「現人神(あらひとがみ)」として仰いだ。つまり、神は隠身を常とするが、天皇は現身をもって世に出でたまう神である、人にして神である、という思想である。疑ってはならない思想である。

 このことが国民に強調されるようになった第一歩と考えられるのが、1935年3月の、岡田啓介内閣による「国体明徴声明」である。ちょうど美濃部達吉の説く「天皇機関説」問題で、日本中が大揺れに揺れている時である。
「……おもんみるに、我国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅により昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ……」
 すなわち天皇機関説は、世界に二つとないわが国体の本義をあやまるもの。天皇の国家統治の大権は、神代の昔からきまっていることである。それが国体明徴ということである。

 そしてこの国体明徴の訓令が、文部省より全国の各学校へ達せられたのは、同じ年の4月10日。教育の根本において日本の国体の何たるかを叩きこむことになったわけである。さらには、言論・思想界においても、天皇制を論じることの自由は完全に奪わることとなった。

 「国体明徴」を思想と呼んでいるが、これは思想ではなく正しくは妄想である。「天皇機関説」を躍起になって否定しようとしていた支配階級は、1935年の第67議会貴族院本会議で「国体明徴声明」を発布した。『史料集』からその声明を転載しておく。
国体明徴声明

 恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、わが国体は、天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り明示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)は天地と与(とも)に窮(きわまり)なし。されば憲法発布の御上諭に「国家統治ノ大権ハ之ヲ祖宗二承(う)ケテ之(これ)ヲ子孫二伝フル所ナリ」と宣(のたま)ひ、憲法第一条には「大日本帝国八万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明示し給ふ。即ち大日本帝国統治の大権は儼(げん)として天皇に存すること明かなり。若(も)し夫(そ)れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。近時憲法学説を繞(めぐ)り国体の本義に関連して兎角(とかく)の論議を見るに至れるは寔(まこと)に遺憾に堪へず。政府は愈々(いよいよ)国体の明徴に力を効(いた)し其の精華を発揚せんことを期す。

 さて、この年の3月、ヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄して、再軍備を宣言している。そして軍備増強とともに次のようなことも行なっている。

(3)5月19日
高速道路が完成した日


「ライヒスバーン」

 記録によれば、はじめは民間団体の構想のもとに、1928年に工事開始、34年に、ケルンとボンを結ぶ最初のアウトバーンが完工した、という。ところが、33年3月の総選挙でナチス党は多数党となり、全権付与法を成立させ、ヒトラーの第3帝国がスタートする。政権につくとヒトラーはただちに国家的な大事業としてこの雄大な構想を引き継ぎ、軍備増強と、高遠道路建設を国家興隆のための二本柱として、強引に推進していったのである。

 こうして1935年5月19日に、最初の「ライヒスバーン(帝国街道)」の、フランクフルト―ダルムシュタット間の高速道路が完成した。

 さらに軍事大国の基礎は道路にあると考えるヒトラーは、機甲軍団を運ぶための軍事的道路の完整を目指し、実にその独裁下の10年間に3000キロにおよぶ高速道路網を完成させた。

 知られているように、1950年代に、世界中でいっせいに高速道路の建設が開始される。ナチス・ドイツに遅れること10年余。歴史の皮肉で、ヒトラーが「高速道路の父」ということになるのであろうか。

昭和の15戦争史(11)

1934年(5)~(6)

 1927年4月12日、上海での蒋介石による「4・12クーデター」で国民解放軍は国民党と共産党に分裂する。その後の中国共産党の活躍を『世界の歴史 12』を用いて追ってみる。

(5)10月
中国共産党の長征開始


 毛沢東の革命運動は、数年のうちにめざましい発展をとげ、1931年11月には、江西省の瑞金(ルイチン)で第一回の代表大会がひらかれるまでになった。そのころ、この地区には九つの解放区があり、そこには三百余県にわたって、数千万の人ロがふくまれていた。この大会では、中華ソヴェト共和国臨時政府の成立が宣言され、憲法大綱、労働法、土地法などが決定された。そして毛沢東はその臨時政府の主席に就任した。

 この臨時政府の成立は、中国の近代史上、きわめて大きな意味をもっていた。その支配区域は、ひろい中国大陸からみれば、ようやく一割程度にすぎなかったけれども、この国にはじめて労働者と農民の政府が樹立されたのである。

 しかし、ソヴェト政府の成長に対しては、非常な困難が待ち構えていた。まず第一に蒋介石(チャン・チェシー)が黙ってみてはいなかったからである。蒋介石は、4・12クーデター以後、さらに北上をつづけ、翌1928年には北京に入城して北伐を完成し、ほぼ全国の統一をなしとげていた。だから彼にとって、この江西ソヴェトは、どうしてもたたきつぶさねばならない勢力だった。もちろん彼は、この地域に厳重な封鎖線をしいて「紅匪」とよんでいたから、紅軍の成長のことはあまり外部には知られていなかった。最初は、朱徳と毛沢東のことを「朱毛」とよんで、一人の人物と思われていた。あるいはまた、毛沢東死亡のニュースがなん回も流れたほどである。

 ところで、そのころ日本帝国主義の中国侵略はますます深まる。1931年9月18日には満洲事変がおこって、満洲は中国の手からはなれ、日本をうしろだてとして満洲国が建国されるにいたった。これは中国にとって重大な民族的危機のはじまりだった。しかし蒋介石は「外を打つにはまず内を固めなければならない」と称して、日本への抵抗よりは、むしろ共産党の征伐に力を集中するありさまだった。こうして蒋介石は、1930年から34年にかけて、5回の大包囲作戦を展開したのである。

 問題は共産党の内部にもあった。というのは、毛沢東はたしかに政府主席だったけれども、党の実権を握っていたわけではない。党の実際の指導は、モスクワ留学生派とよばれる陳紹禹〔王明〕(チェン・シャオエイ〔ワンミン〕)や秦邦憲〔博古〕(チン・パンシェン〔ポーター〕)に握られていた。彼らは、モスクワ仕込みの若い知識人で、現実を理論でわりきる傾向が強かった。毛沢東は、根拠地を樹立した功績者ではあったが、彼のような農民出身の党員はとかく軽んぜられ、毛沢東がせっかく、現実のなかから作りあげてきた教訓や理論はうちすてられたのである。だから戦争をするにも、毛沢東式のゲリラ戦は、だんだん採用されなくなった。

 「敵が進めば、われ退き、敵がとまれば、われみだし、敵が疲れれば、襲撃し、敵が退けば、追撃する。」
 これは、毛沢東があみだした遊撃戦の鉄則だった。優勢な敵と戦うには、これ以外に方法はなかったのである。ところが党の指導部は、もはやゲリラ戦の時代ではないといって、正面から戦いを挑むような方法をとることになった。この結果、蒋介石が100万の大軍で攻めこんできた第5回めの作戦のときには、ついにこらえきれず、このソヴェト区を放棄するほかないという窮境に追いこまれてしまった。こうしてはじまったのが、有名な紅軍の「大長征」である。

大長征と西安事件

 紅軍は34年10月、敵の虚をついて包囲網を突破したのち、貴州、雲南、四川をとおり、約一年間かかって、陜西省の北部へでた。全行程は、約1万2千キロ、これは史上に前例のない大移動だった。この間、毛沢東は、貴州省の遵義というところで会議をひらいて、これまでの方針のあやまりを批判し、ほぼ名実そなわった党の指導者となっていった。

 だがこうしたことよりも、この長征をいろどるものは、何よりも英雄的な戦いのドラマである。なにしろ、蒋介石軍の優勢な軍隊の追撃をうけながら、大部隊が中国西部の辺境地帯を移動するのだから、その苦難は言語に絶するものがあった。道のない沼地の大草原や、万年雪をいただく嶺をこえねばならなかった。出発したときに約8万であった兵隊は、到着したときは2万に減っていた。

 長征のなかでもっとも難関だったのは、大渡河をわたる戦いであった。四川省を北上する紅軍のまえには大渡河(タートーホー)とよばれる川が横たわっていた。ここは、かつて太平天国の石達開軍が清朝の政府軍に包囲されて全滅した場所だった。蒋介石は、ここでなんとかして紅軍をやっつけ、石達開の二の舞をさせようと待ちかまえていた。ところが紅軍は、まったく敵の意表をついたコースで河岸にあらわれた。というのは、ふつう漢民族が通れないとされている、ロロ族の住む山林地帯を通過したからである。参謀長の劉伯承(リュー・ポーチョン)は、ロロ族の指導者と鶏の血をすすりあって兄弟の誓いをたて、それによってやっと通りぬけることができた。もっとも、この渡河地点にも、国民党軍が待ちかまえていなかったわけではない。紅軍は小舟で決死隊をおくりこんで、対岸の敵を攻撃し、あるいはまたべつの地点で、敵の砲火のなかを、鎖の吊り橋をはいながら敵陣に突入して、やっと危機を脱することができた。

 のちに、エドガー・スノーは、紅軍の首脳から長征の詳細をきかされて、「ハンニバルのアルプス越えも、これにくらべれば休日の遠足にすぎない」と書いたが、この表現はけっして誇張ではなかったといえよう。

 日本の事件に戻ろう。これまでやたらと陸軍の横暴が取り上げられてきた。海軍には陸軍のような体質は無かったのかと思っていたが、そうではなかった。次の記事は『昭和史探索3』による。

(6)12月
ワシントン軍縮条約の廃棄


 陸軍中央部に統制派時代がやってきたころ、歴史の皮肉というのか、実は海軍中央もまた一つの考え方に完全に染まりつつあったのである。大正11年のワシントン、昭和5年のロンドンと、二つの軍縮条約の締結を通して、海軍部内が条約締結派(条約派)と条約反対派(艦隊派)の二つに割れたことについては、すでに昭和5年の解説のところでふれておいた。言い換えれば、対米英協調論にたいする対米英強硬論の部内闘争であった。その決着が9年夏ごろに完全についたのである。すなわち、いわゆる条約派といわれる提督たちは、強硬派がかついだ軍の長老の伏見宮と東郷平八郎の両元帥の威名のもとに、つぎつぎに首を切られ、予備役に編入されていった。

 主な人を列挙してみる。山梨勝之進大将(8年3月)、谷口尚真大将(8年9月)、左近司政三中将(9年3月)、寺島健中将(9年4月)、堀悌吉少将(9年11月)、坂野常善中将(9年12月)。いずれも次代の海軍をになうはずの軍政家であり、有数の国際感覚の優れた人ばかりであった。そして、この人々の整理は、加藤寛治・末次信正およびその後継者たち対米英強硬派のいっせい突出を意味していた。このへんの経緯は、山梨勝之、高木惣吉の手記にくわしい。

 そして、この対米英強硬派の台頭は同時に、ワシントン条約廃棄の大合唱となった。その声は、誰あろう、連合艦隊の中枢たる中堅士官の間からいっせいに起こるのである。重要証拠ともいえる文書が、小笠原長生の回想にある。すなわち9年7月の連合艦隊幹部連署の上申書がそれである。付記しておけば、この連署連判状作成の先頭に立ったのは重巡洋艦「高雄」の艦長南雲忠一大佐であった。のちの真珠湾攻撃の機動部隊の総指揮官である。このときの真珠湾攻撃総隊長であった淵田美津雄元大佐が著書『ミッドウェー』で書いている。
「……当時、ワシントン条約廃棄通告の問題がやかましかった。そして私達の眼には、中央の態度が弱腰のように映っていた。この頃、南雲大佐は、廃棄通告賛成の音頭をとって、しきりと艦隊の各艦長を歴訪する。何でも各艦長の連判をとって、連合艦隊中堅幹部の意見書をまとめ、艦隊の総意として、長官を通して上申するのだとの噂が耳に入る。何事によらず強硬を喜ぶ当時の若い私達にとって、これはまた一層喜ばれた」。

 さらに重要なことは、日本海軍がもちつづけてきた海軍省優位の伝統がもろくも崩れ落ち、軍令部優位の逆転が起こったことである。1933年の軍令部条例の改定、省部万渉規定の改定により、軍令部が陸軍の参謀本部のように、海軍省の力の及ばない戦争一点張りの存在となった。その考え方がややもすれば均衡を欠き、作戦本位の、独善的危機意識の強い軍人たちをつぎつぎに産み、彼らによって昭和の海軍はひきずられていくようになるのである。

 1934年末、日本海軍はワシントン条約の廃棄を米英仏に通告した。この日こそは、強硬派の雄・加藤寛治大将にとっては長い間の戦いの勝利の日であった。この年の5月に死んだ東郷元帥の墓前にこのことを報告し、その帰り道に、元帥の側近小笠原長生中将宅を訪れた加藤は、中将不在のために名刺をおいて帰った。名刺には、つぎの文句が躍るがごとくにしたためられていたという。
「帝国海軍厚生の黎明を迎之候につき、只今東郷元帥の墓に詣でて、いささか英霊を慰め奉り候」
 はたしてそれは黎明であったであろうか。

 太平洋の波はふたたび荒立ちはじめる。軍縮条約の廃棄のあとにくるのは、命懸けの建艦競争である。資源のない日本がこの競争に勝つべくもない。なのに、海軍軍人たちはこう確信していた。軍縮条約を決裂させても、近来の日本の産業、技術の長足の進歩と、満蒙の経営によって、状況は大きく異なり心配はなくなっている。無条約時代に入ったならば、その後10年間に、パナマ運河を通れぬような超大戦艦5隻を建造、これを中心とする、日本の国情に合った効率のよい軍備を充実することによって、対米戦の勝算は間違いなくえられるのである……。

 軍令部が艦政本部に、46センチ主砲8門以上、速力30ノット、パナマ運河を通れない超大戦艦――大和・武蔵・信濃などの建造要求をだしたのは、実に1934年10月のことであった。これによって
「主力艦兵力比較ノ尺度ハ根本ヨリ変革セラレ……一躍我が方ノ絶対優勢ニ帰ス」
と、主張者である石川信吾中佐は当時豪語した。その得意、思うべしであろう。

 やがてこの思い上がった海軍はハワイ真珠湾攻撃(1941年12月8日)へとのめり込んでいく。已んぬる哉。
昭和の15戦争史(10)

1934年(1)~(4)

 『残日録』から取り上げる事件は3項目だけだが、他の史料から国際的な政治の動向の一つとしてナチスの記事を一つ追加することする。

(1)3月1日
溥儀が満洲帝国の皇帝となる


「やむを得ず屈服した」

 満洲国の首都新京郊外の杏花村で、清朝独特のシャーマンの儀式による神事にのっとり、竜袍に身を包んだ溥儀執政は天壇に登り、王位についたことを報告した。

 しかもこの儀式を終えて溥儀は大いに満足し、執政府に戻ると大元帥服を着て、改めて皇帝の即位式に臨んだ。溥儀は新国家の皇帝たるよりも、滅びた清王朝の正統の後継者たらんとしたのである。

 この日、1934年3月1日、満洲国は帝政を実施し、満洲帝国となり、康徳と年号を改元した。執政府は宮内府となった。溥儀は皇帝となった喜びで、夢のなかにいるように一日中はしゃいでいたという。

 しかし、戦後の東京裁判の証人となった溥儀は、皇帝となることを承諾したか、という検事の質問に、「拒絶した」と答え、さらに、
「武力的圧迫と、生命に危険があるから承諾せよとの顧問たちの勧めで、やむを得ず屈伏した」
と、自発的意思は一片だになかったとぬけぬけといい放ったのである。聞いていた日本人は、脅迫的洗脳の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。

 私は1990年頃、『世界の歴史』(現代教養文庫版)を購入した。随分古い本だが、その第12巻の「二十世紀の世界」を参考書の一つとして加える。次の記事はその本を利用している。

 1933年1月、突然の国会解散・総選挙で圧倒的処理を得たヒトラーのその後の権力固に向かう暴走を追ってみよう。

(2)8月
ヒトラー、総統に就任


 3月21日、新国会の開会式がベルリン近郊ポツダムの守備隊付属教会堂でひらかれた。ここはホーエンツォレルン家にゆかりがふかく、フリードリヒ大王の墓所でもある。しかも3月21日は、ビスマルクが1871年ドイツ帝国議会をはじめてひらいた日であった。

 この日、ポツダムは明るい春の日にめぐまれ、家なみには「黒白赤」の旧帝政旗と、「鉤(かぎ)十字」のナチ党旗とがならんで掲げられていた。教会には旧帝政軍服に身をかためた将軍たちがいならび、玉座が設けられ、そのすぐうしろには前皇太子が坐っていた。そして、広間には褐色シャツのナチ党議員、その横に国家人民党と中央党の議員がならんでいた。

 ドアが開くと、モーニング姿のヒトラーと軍服姿のヒンデンブルク大統領が、閣僚をしたがえてはいってきた。大統領は、玉座と前皇太子に元帥杖で敬礼した。大統領の短い挨拶にこたえてヒトラーはいった。
「……ここ数週間のうちに、われわれの国民的名誉は回復され、元帥閣下のおかげで、昔ながらの偉大さと新しい力の結合がここに祝福されました……。」
 そして大統領に進みより、低く頭をたれて彼の手をにぎった。つづいて大統領はフリードリヒ大王の墓にもうでるが、外では礼砲がとどろき、国防軍、突撃隊、鉄兜団の行進がはなばなしくりひろげられていた。夜になると親衛隊の炬火(たいまつ)行列がつづき、オペラ座ではフルトヴェッグラーがワーグナーの「マイスター・ジンガー」を指揮していた。

 そして二日後(3月23日)、クロル・オペラハウスで国会がひらかれた。議場の外では黒シャツの親衛隊員が、スクラムをがっちりと組み、内には褐色シャツの突撃隊員がかためていた。そして鉤十字の大きな旗を背景にヒトラーは「全権委任法」を提案した。これはナチ党に独裁権をあたえることになら法律であった(民主的なワイマール憲法はそのままとして)

 この提案にたいして、社会民主党オットー・ヴェルスは敢然と反対した。突撃隊の連中は「われわれはその法案をもとめる――さもないと放火と殺人だ」とどなった。ヒトラーは演壇にかけ上がって悪態をついた。投票の結果、賛成441票、反対94票で可決された。ナチ党員はとび上がり、腕をあげて党歌「ホルスト・ヴェッセル」をうたった。

 こうしてヒトラーの独裁権力はエセ「合法的」に成立したのだ。というのは、このとき不当に逮捕されていた一部の社共両党の議員は出席できず、しかも共産党議員団には登院停止の措置がとられていたからである。

 ヒトラーはやがて諸政党を解散して、ナチー党独裁をうちたて、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が世を去ると、この地位を兼ねて総統(フューラー)とよばれた。そして全体主義的な統制と再軍備政策をもって、また対外的にはヴェルサイユ体制の打破によって、政権をかためてゆくのである。

「ナチスの手口」に学んでいるアベコベ政権が成立を企んでいる「緊急事態法」はまさに「全権委任法」に匹敵するのではないか。

(3)8月29日
松田文相のとっぴな発言


「パパ・ママを使うのはいかん」

 皇国日本が叫ばれている時代を象徴するような一席を――。

 われら東京の下町の悪ガキどもは昭和10年代には、トオチャン・カアチャンであった。少しく長じると、オヤジ・オフクロ。山の手のお坊っちゃま君たちが「パパ・ママ」なんてほざくのを聞くと、ヘドが出そうになったものである。

 それより少し前にこんな愉快な出来事があったのである。1934年8月29日、当時の文部大臣松田源治が、家庭でパパ・ママという言葉がはやっていることについて、新聞記者に語ったというのである。
「日本人はちゃんと日本語を使って、お父さん・お母さんといわねばいかん。またはお父さま・お母さまだ。舌たらずのパパ・ママを使うのは、そもそも日本古代よりの孝行の道の廃れるもととなる」
 これが新聞に出て、近くパパ・ママ呼称禁止令が発表されるといううわさが広まった。がぜん論争が巻き起こった。家庭内の呼称にまで文相の権限は及ばぬ、いや、文相には日本の孝道発展の責任がある、と喧々囂々(けんけんごうごう)。なんとも平和にして程度の低い時代でありましたな。

 いや、今も程度の低い時代ではないだろうか。つい最近、道徳教科書検定で「パン屋」を「お菓子屋」に替えた問題があったではないか。毎日新聞のデジタル記事を紹介しておこう。
『道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず』

(4)10月1日
軍事国家へのスタート

「戦いは創造の父、文化のは母」  昭和日本が軍国主義化していく背景に、第一次世界大戦後に形成された新しい戦争観がある。これからの戦争は、戦場に動員された兵数や大砲の大きさではなく、政治・経済・外交・文化・思想など民族の総力をあげた戦争になるという認識である。世界大戦でドイツ帝国は武力においては敗れなかったが、経済戦および民衆の厭戦思想によって敗れた。日本の軍部はこの新しい戦略思想を信じこんだ。

 これからの戦争は国民をまきこんでの国家総力戦になると。それゆえに、明日の国防を考えるとき、あらゆる物的資源、国力、そして機能を戦争に奉仕させねばならぬ、とした。その軍の意志を強く表明したのが、1934年10月1日に陸軍省新聞班から発表された「国防の本義とその強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレッドである。

 「戦いは創造の父、文化の母である」という有名な文句で始まるこの文書のもと、さまざまな批判と異議を浴びつつ、ここから軍事国家的な統制体制がつくられていった。子供たちの間で戦争ごっこがはやりだしたのも、このあとからである。

 ウイキペディアによると、「陸軍パンフレッド」の内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものだという。『史料集』の「ファシズムの進展と思想統制」という節に『日本改造法案大綱』からの抜粋文(出典は「現代史資料)と解説があるので、それを転載しておこう。

 まず日本改造法案大綱」は1919(大正8)年、北一輝が上海で執筆したもので、緒言と巻8及び結言からなる。ファシズムの聖典とされてきた。


日本改造法案大綱

 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只竜袖(りゅうしょう, 天皇の袖。天皇の権威をかりること)ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。……全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク(この前の省略部分で「日本ハ彼ニ於テ充実ノ五ヶ年トシテ恵マレタリ」とし、第1大戦中国力が充実したことを述べている。)異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権(明治憲法に認められた天皇天皇特有大権)ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完(まっと)ウセザルベカラズ。

憲法停止
 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。……
華族制廃止
 華族制ヲ廃止シ、天皇ト国民トヲ阻隔(そかく)シ来レル藩屏(はんぺい)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ニス。……
普通選挙
 二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ、平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権ヲ有ス。……
私有財産限度
 日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壱百万円トス。……

 1934年の事件でもう二つ「中国共産党の長征開始」と「ワシントン軍縮条約の廃棄」を取り上げる予定だった。この二つの事件も『残日録』では取り上げていないので前者は『世界の歴史12』を、後者は『昭和史探索3』を利用することにしていたが、かなり長くなるので、次回に掲載することにした。


 『残日録』から取り上げる事件は3項目だけだが、他の史料から国際的な政治の動向の一つとしてナチスの記事を一つ追加することする。

(1)3月1日
溥儀が満洲帝国の皇帝となる


「やむを得ず屈服した」

 満洲国の首都新京郊外の杏花村で、清朝独特のシャーマンの儀式による神事にのっとり、竜袍に身を包んだ溥儀執政は天壇に登り、王位についたことを報告した。

 しかもこの儀式を終えて溥儀は大いに満足し、執政府に戻ると大元帥服を着て、改めて皇帝の即位式に臨んだ。溥儀は新国家の皇帝たるよりも、滅びた清王朝の正統の後継者たらんとしたのである。

 この日、1934年3月1日、満洲国は帝政を実施し、満洲帝国となり、康徳と年号を改元した。執政府は宮内府となった。溥儀は皇帝となった喜びで、夢のなかにいるように一日中はしゃいでいたという。

 しかし、戦後の東京裁判の証人となった溥儀は、皇帝となることを承諾したか、という検事の質問に、「拒絶した」と答え、さらに、
「武力的圧迫と、生命に危険があるから承諾せよとの顧問たちの勧めで、やむを得ず屈伏した」
と、自発的意思は一片だになかったとぬけぬけといい放ったのである。聞いていた日本人は、脅迫的洗脳の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。

 私は1990年頃、『世界の歴史』(現代教養文庫版)を購入した。随分古い本だが、その第12巻の「二十世紀の世界」を参考書の一つとして加える。次の記事はその本を利用している。

 1933年1月、突然の国会解散・総選挙で圧倒的処理を得たヒトラーのその後の権力固に向かう暴走を追ってみよう。

(2)8月
ヒトラー、総統に就任


 3月21日、新国会の開会式がベルリン近郊ポツダムの守備隊付属教会堂でひらかれた。ここはホーエンツォレルン家にゆかりがふかく、フリードリヒ大王の墓所でもある。しかも3月21日は、ビスマルクが1871年ドイツ帝国議会をはじめてひらいた日であった。

 この日、ポツダムは明るい春の日にめぐまれ、家なみには「黒白赤」の旧帝政旗と、「鉤(かぎ)十字」のナチ党旗とがならんで掲げられていた。教会には旧帝政軍服に身をかためた将軍たちがいならび、玉座が設けられ、そのすぐうしろには前皇太子が坐っていた。そして、広間には褐色シャツのナチ党議員、その横に国家人民党と中央党の議員がならんでいた。

 ドアが開くと、モーニング姿のヒトラーと軍服姿のヒンデンブルク大統領が、閣僚をしたがえてはいってきた。大統領は、玉座と前皇太子に元帥杖で敬礼した。大統領の短い挨拶にこたえてヒトラーはいった。
「……ここ数週間のうちに、われわれの国民的名誉は回復され、元帥閣下のおかげで、昔ながらの偉大さと新しい力の結合がここに祝福されました……。」
 そして大統領に進みより、低く頭をたれて彼の手をにぎった。つづいて大統領はフリードリヒ大王の墓にもうでるが、外では礼砲がとどろき、国防軍、突撃隊、鉄兜団の行進がはなばなしくりひろげられていた。夜になると親衛隊の炬火(たいまつ)行列がつづき、オペラ座ではフルトヴェッグラーがワーグナーの「マイスター・ジンガー」を指揮していた。

 そして二日後(3月23日)、クロル・オペラハウスで国会がひらかれた。議場の外では黒シャツの親衛隊員が、スクラムをがっちりと組み、内には褐色シャツの突撃隊員がかためていた。そして鉤十字の大きな旗を背景にヒトラーは「全権委任法」を提案した。これはナチ党に独裁権をあたえることになら法律であった(民主的なワイマール憲法はそのままとして)

 この提案にたいして、社会民主党オットー・ヴェルスは敢然と反対した。突撃隊の連中は「われわれはその法案をもとめる――さもないと放火と殺人だ」とどなった。ヒトラーは演壇にかけ上がって悪態をついた。投票の結果、賛成441票、反対94票で可決された。ナチ党員はとび上がり、腕をあげて党歌「ホルスト・ヴェッセル」をうたった。

 こうしてヒトラーの独裁権力はエセ「合法的」に成立したのだ。というのは、このとき不当に逮捕されていた一部の社共両党の議員は出席できず、しかも共産党議員団には登院停止の措置がとられていたからである。

 ヒトラーはやがて諸政党を解散して、ナチー党独裁をうちたて、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が世を去ると、この地位を兼ねて総統(フューラー)とよばれた。そして全体主義的な統制と再軍備政策をもって、また対外的にはヴェルサイユ体制の打破によって、政権をかためてゆくのである。

「ナチスの手口」に学んでいるアベコベ政権が成立を企んでいる「緊急事態法」はまさに「全権委任法」に匹敵するのではないか。

(3)8月29日
松田文相のとっぴな発言


「パパ・ママを使うのはいかん」

 皇国日本が叫ばれている時代を象徴するような一席を――。

 われら東京の下町の悪ガキどもは昭和10年代には、トオチャン・カアチャンであった。少しく長じると、オヤジ・オフクロ。山の手のお坊っちゃま君たちが「パパ・ママ」なんてほざくのを聞くと、ヘドが出そうになったものである。

 それより少し前にこんな愉快な出来事があったのである。1934年8月29日、当時の文部大臣松田源治が、家庭でパパ・ママという言葉がはやっていることについて、新聞記者に語ったというのである。
「日本人はちゃんと日本語を使って、お父さん・お母さんといわねばいかん。またはお父さま・お母さまだ。舌たらずのパパ・ママを使うのは、そもそも日本古代よりの孝行の道の廃れるもととなる」
 これが新聞に出て、近くパパ・ママ呼称禁止令が発表されるといううわさが広まった。がぜん論争が巻き起こった。家庭内の呼称にまで文相の権限は及ばぬ、いや、文相には日本の孝道発展の責任がある、と喧々囂々(けんけんごうごう)。なんとも平和にして程度の低い時代でありましたな。

 いや、今も程度の低い時代ではないだろうか。つい最近、道徳教科書検定で「パン屋」を「お菓子屋」に替えた問題があったではないか。毎日新聞のデジタル記事を紹介しておこう。
『道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず』

(4)10月1日
軍事国家へのスタート

「戦いは創造の父、文化のは母」  昭和日本が軍国主義化していく背景に、第一次世界大戦後に形成された新しい戦争観がある。これからの戦争は、戦場に動員された兵数や大砲の大きさではなく、政治・経済・外交・文化・思想など民族の総力をあげた戦争になるという認識である。世界大戦でドイツ帝国は武力においては敗れなかったが、経済戦および民衆の厭戦思想によって敗れた。日本の軍部はこの新しい戦略思想を信じこんだ。

 これからの戦争は国民をまきこんでの国家総力戦になると。それゆえに、明日の国防を考えるとき、あらゆる物的資源、国力、そして機能を戦争に奉仕させねばならぬ、とした。その軍の意志を強く表明したのが、1934年10月1日に陸軍省新聞班から発表された「国防の本義とその強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレッドである。

 「戦いは創造の父、文化の母である」という有名な文句で始まるこの文書のもと、さまざまな批判と異議を浴びつつ、ここから軍事国家的な統制体制がつくられていった。子供たちの間で戦争ごっこがはやりだしたのも、このあとからである。

 ウイキペディアによると、「陸軍パンフレッド」の内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものだという。『史料集』の「ファシズムの進展と思想統制」という節に『日本改造法案大綱』からの抜粋文(出典は「現代史資料)と解説があるので、それを転載しておこう。

 まず日本改造法案大綱」は1919(大正8)年、北一輝が上海で執筆したもので、緒言と巻8及び結言からなる。ファシズムの聖典とされてきた。


日本改造法案大綱

 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只竜袖(りゅうしょう, 天皇の袖。天皇の権威をかりること)ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。……全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク(この前の省略部分で「日本ハ彼ニ於テ充実ノ五ヶ年トシテ恵マレタリ」とし、第1大戦中国力が充実したことを述べている。)異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権(明治憲法に認められた天皇天皇特有大権)ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完(まっと)ウセザルベカラズ。

憲法停止
 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。……
華族制廃止
 華族制ヲ廃止シ、天皇ト国民トヲ阻隔(そかく)シ来レル藩屏(はんぺい)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ニス。……
普通選挙
 二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ、平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権ヲ有ス。……
私有財産限度
 日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壱百万円トス。……

 1934年の事件でもう二つ「中国共産党の長征開始」と「ワシントン軍縮条約の廃棄」を取り上げる予定だった。この二つの事件も『残日録』であ取り上げていないので前者は『世界の歴史12』を、後者は『昭和史探索3』を利用することにしていたが、かなり長くなるので、次回に掲載することにした。