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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(2)

1928年(1)~(4)

(1)1月25日
「歩兵操典」の改定


 「必勝の信念」
 たとえば、1939年夏のノモンハン事件での大敗に、日本陸軍は何を学んだか。1940年1月に「事件研究委員会」は結論を出した。

「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機・戦車・砲兵の機械化された各機関および補給の潤沢との、白熱的衝突である。日本軍は伝統の精神威力をよく発揮せり」

 このように、昭和の日本陸軍は「必勝の信念」という無形の精神要素をしきりに強調した。

 この「必勝の信念」が典範令に初めて明記されたのが、昭和1928年1月25日改訂の「歩兵操典」である。綱領のなかにある。

「必勝の信念は主として軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以てこれを培養し卓抜なる指揮統帥を以てこれを充実す」

 戦争中の日本兵士は、この信念のもとに突撃していった。物力の不足をカバーするために、やむなく強調されたことも知らないままに……。

 このように精神を鼓舞して無謀な戦争で一般兵士の死を強い続けていたのが15年戦争の実態である。

 ところで、この兵士たちを徴兵した「徴兵令」は、なんと、1873(明治6)年1月10日に制定されている。そこに至る経緯は次のようである。(山川出版社版の『詳説 日本史 史料集』を用いている。以後『史料集』と略記する。)
 1872年11月28日に出された「全国募兵の詔」の趣旨説明として太政官が「徴兵告諭」という布告を発布した。それに基づいて、徴兵令が1873年1月10日に制定される。その徴兵令では17歳から40歳の者を兵籍にのせ、20歳に達した者を徴兵した。

 1927年4月1日に公布された昭和の「兵役法」は「徴兵令」を改題・改正して成立したもので「帝国臣民たる男子」に兵役に服すことを命じた法律である。徴兵令では20歳で徴兵検査を受け、兵役に服すことを義務づけていたが、兵役法は現役期間を1年短縮し、陸軍は2年、海軍は3年とした。その後、戦争が拡大するにつれ、しばしば改正された。当然のことながら、敗戦後の1945年11月17日に廃止された。

(2)3月15日
3・15事件起こる


「床に頭をどしんどしん」

「取調室の天井を渡っている梁(はり)に滑車がついていて、それの両方にロープが下っていた。龍吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さにつるし上げられた。それから『どうつき』のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。……彼の頭、顔は文字どおり火の玉になった。目はまっ赤にふくれ上って飛び出した。『助けてくれ!』彼が叫んだ」

 作家小林多喜二の『一九二八年三月十五日』という小説の一節である。これが事実とは思えぬむごさではないか。

 この年、昭和1928年2月の第1回総選挙は投票率80パーセントの「異常なる好成績」を示した。当局の弾圧もひどく、汚れた選挙といわれながらも、再建されたばかりの日本共産党は8名の当選者をだす。そして"天皇制打倒、労働者農民政府の樹立"をスローガンに大胆な活動をはしめた。

 これに脅威を感じた田中義一内閣は、特別議会召集に先立って、治安維持法にもとづき、全国にわたる大検挙を行った。それが3月15日、世に3・15事件という。逮捕されたもの約1000名。小林多喜二も小樽でつかまったが、小説にはそのときの拷問の体験を描いている。

 1933年3月24日に長時間の拷問によって殺される。詳細は1933年の項で取り上げる。

 アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が強行採決した「共謀罪法」はこの時猛威を振るった治安維持法に例えられている。戦前の弾圧法・治安維持法に詳しい内田博文(神戸学院大学教授)さんにインタビューした記事『治安維持法の亡霊が導く「戦争国家」と「刑罰国家」』がこの事を詳しく論じている。紹介しておこう。

 さて、ここで問題になっている治安維持法は1923(大正12)年に関東大震災後の緊急勅令として公布された「治安維持令」が基になっている。25年に治安維持法が公布され、28年の改定で処罰範囲が拡大され、法定刑に死刑が追加された(このときの改悪については今回の『残日録』からの最後の引用文が詳論している。まさしく『共謀罪法』である)。そして、41年の改定で処罰範囲と死刑の対象をさらに大幅拡大する。この悪法も敗戦後、45年に連合国軍最高司令部(GHQ)の指令で廃止された。  『共謀罪法』は、アベコベを退場させて、国民の手で廃止させたいものだが、アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相の本質を理解できずに未だにアベコベを支持している愚民が多い今、残念ながら、『共謀罪法』の廃止は難しい。

 『残日録』からの引用を続けよう。

(3)6月4日
張作霖爆殺事件


「軍紀をとくに厳粛にする」

 昭和史は日本陸軍の陰謀で不幸な幕を開けた。1928年6月4日の張作霖爆殺事件がそれである。満洲(中国東北地方)軍閥の頭目の彼を謀殺することで、混乱をひき起こし軍隊を出動、満洲全土を制圧しようというねらいである。

 計画は関東軍高級参謀の河本大作大佐により練られた。現場には中国人3人の死体を放置することも忘れなかった。そして事件翌日の新聞は、蒋介石の国民革命軍の便衣隊(ゲリラ)のしわざと報道した。

 しかし、息子の張学良の避戦主義で、河本と関東軍が夢みたような武力衝突は起こらず、これを機とした日本陸軍の軍隊の大挙出動もならなかった。そればかりか、中国の新聞や英字紙は、関東軍の陰謀であることを書きたて、そのうわさは日本内地にも広がりだした。

 昭和天皇は、陸軍出身の田中義一首相に「軍紀をとくに厳粛にするように。それによって国際信義をつなぎとめるべし」といい、責任者の厳罰を要望した。しかし、陸軍はそれに従おうとはせず、田中首相はそれに引きずられた。

 下剋上もまたここからはじまる。


 この時から陸軍は天皇の意向も無視し遣りたい放題の道を進むようになったようだ。
(4)6月29日
改悪された治安維持法


「国体の変革には死刑を」

 敗戦まで、昭和の日本人を頭から重苦しく押さえつけ、平穏な生活をかき乱し、生きづらくしていたものに治安維持法がある。この法律のそもそもは1925(大正14)年4月に公布されたものであった。

 しかし、それを真に"悪法"たらしめたのは、1928年6月29日、田中義一内閣がこれを全面的に改悪し、枢密院で可決させると同時に、即日施行した日にはじまる。

 はじめこの改正案は、野党の反対で審議未了となった。それを、政府は天皇の命令「緊急勅令」という形で改正し公布した。また日本全県の警察に特高警察課をおくことも、7月3日の勅令できめたのである。

 「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者ハ……死刑又ハ無期」と重刑になったばかりでなく「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」も罪に問われることになる。

 つまり官憲がさしたる証拠がなくとも「目的遂行ノ為」と断定すれば、治安維持法の対象となる。

 この日から日本に思想と言論の自由がなくなっていく。

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