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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(9)

1933年(6)~(11)

 国家権力の教育破壊の魔の手は大学にまで及び、学問の自由を崩壊した。

(6)4月22日
滝川事件が起こった日


「邪魔者以外の何ものでもない」

 黒澤明監督の終戦直後の映画「わが青春に悔なし」に、心の底から感動した記憶がある。"国賊"として迫害されるなかで、あくまでも戦いぬく幸枝役の原節子がまぶしいくらい美しかった。これは1933年4月22日に起こった京都大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授事件に題材をとっていた。

 この事件は、その著書や講演が危険な内容をもち大学教授として適格でないとして、国家意思の統一を目指す文部省(文部大臣鳩山一郎)が、小西重直京大総長に滝川の辞職を要求したことに発する。たいして法学部教授会は大学の自治、学問の自由をおかすと反対、文部省に真っ向から対立し大騒動になった。結果的には、官憲の弾圧があり、夏休みに入るとともに、滝川をはじめ末川博、佐々木惣一たち6人の免官という形で一応の終止符がうたれた。

 戦後の滝川の手記がある。
「暗黒時代における他学部の態度は、法学部の邪魔者以外の何ものでもなかった」
と。すでに国家権力の前に他学部すなわち大学全体は無力そのものであったのである。

 学問の自由はかくて崩壊する。

(7)5月10日
ナチス・ドイツの「焚書」


「将来の告発者として居あわせたい」

 ヒトラー独裁下のドイツ・ベルリンで、中世さながらに焚書の愚挙が再現されたのは、1933年5月10日のこと。非ドイツ的・マルクス的・ユダヤ的なものとみなされた書物が、炎のなかに投げこまれた。アインシュタイン、フロイト、トーマス・マン、ツヴァイクなどの著書2万冊が灰と化す。

 同じように火あぶりの刑に処せられたものに、作家ケストナーの著書もふくまれていた。かれはまた『エミールと探偵たち』『空飛ぶ教室』など児童文学も数多く書いているが、容赦なく火にくべられた。
「将来の告発者としてこの場に居あわせたい」
と決意したかれは、多くの作家が亡命するなかで、ベルリンにとどまっていた。そしてこの日、わざわざ自分の本が燃やされる現場に見に出かけた。
「私たちの本がめらめらと燃える炎の中に投げこまれるのを見、うそつきゲッベルス(ナチス・ドイツの宣伝相)の長広舌を聞いた」
 その『日記』に書かれたこの個所を読むたびに、この作家の精神の強さにはげしい感動をおぼえる。

 次の項は軍が絶対の権力を振るっている時にも堂々とそれに抗っている人がいたという感動の事例である。

(8)6月17日
ゴー・ストップ事件


「軍人だろうと街では市民である」

 この年の6月17日の昼ごろ、事件は起こった。事の起こりはまことに他愛もないあきれた話である。

 大阪天神橋6丁目の交差点で「とまれ」の赤信号を無視して横断しようとした兵隊を、交通整理の巡査が制止した。そして巡査は、「巡査の指図は受けぬ」と反抗する兵隊を交番に連行し、ここで格闘となった。

 この信号無視の小さな騒ぎが、軍部と警察がたがいに意地とメンツにかけて一歩も引かずやり合う大事件にまで発展する。そして結果的に、日の出の勢いで台頭する軍部に歯止めをかけられるか否か、戦前自由主義の最後のレジスタンスといえる事件、ともなった。

 このとき、奔馬(ほんば)の如き陸軍の前に大手をひろげて立ちふさがる豪胆さを示したのが、警察部の部長粟屋仙吉。
「軍人だろうと私人として街へでたときは一市民であり、巡査の命令に従うべきだ」
といいきった。事件は5ヵ月後に宮内省から荒木貞夫陸相への働きかけで解決するが、粟屋部長は最後まであっぱれな頑張りを示す。のち部長は広島市長として原爆死した。

 次はマスゴミの中で光るジャーナリストのレジスタンスである。

(9)8月11日
気骨ある新聞人桐生悠々


「関東防空大演習を嗤(わら)う」

 勇気ある新聞人として桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)の名は、戦後になって有名となった。信濃毎日新聞社の主筆として、防空演習がいかに愚劣かを主題とした「関東防空大演習を嗤う」という社説を書き、軍部と衝突、一歩も退かなかった気骨ある態度が、ひろく知られたゆえである。

 軍部が第一回関東地方防空大演習を行ったのが1933年8月9日からで、桐生の社説発表は8月11日のこと。これはもう桐生の批判がもっともなことで、東京の空に敵機を迎え撃つなんてことは、日本の大敗北を意味する。紙と木だけの東京の惨状は言語に絶することになる。
「従ってかかる架空的な演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろう」
と桐生が書いたのは正しいのである。事実、1945年のB29による日本本土空襲がそれを証明する。

 ところが、陸軍は当然カッとなった。桐生に弾圧の手をさしのばした。新聞社に累を及ぼすことを恐れて桐生は退社する、「生贅(いけにえ)の報いられずして梅かほる」の一句を残して。これも自由主義最後のレジスタンス。

 北朝鮮の脅威を煽って、バカバカしい避難訓練を行なったアベコベ政府に辛辣な記事を書いた新聞はあっただろうか。

(10)8月
「東京音頭」の大流行

「ヤットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」

 東京がそれまでの15区から35区へと拡大されて、「市民500万」「世界第2位の大都市」と誇りだしたのは1932年10月の市区改正のとき。わたくしの生まれた東京府南葛飾郡大畑村が向島区吾嬬町になったのもこのとき。

 そして1933年夏から秋へ、世界的大都市誕生を祝するかのように突如として起こったのが「ヤットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」の一大狂騒曲。つまり「東京音頭」で、その人気は昭和1936年に及んでもやまなかった。

 なぜに、そんなものすごい国民的熱狂であったのか。当時の日本人が先行きに不安を感じ出したときであるため、と観察できる。国際連盟脱退やら京大の滝川事件、関東地方防空大演習で関東平野が真っ暗……世にいう非常時。ほんとうなら「ヨイヨイヨイ」とやっているときではなかった。いや、それゆえに……。

 社会的不安や国際的孤立感やら緊張をほぐすためには、お祭りが一番なのである。歌って踊ってすべてを忘れる。それはいつの世でも変わらない。幕末の「ええじやないか」を思い出せば了解できる。国家は、いつだって祝祭によって人心を一つにまとめて挙国一致体制をつくっていく。

 ここでまた私は、オリンピックを東京に招致するための演説で福島の放射能汚染は「アンダーコントロール」とウソをついたアベコベを思い出した。ウソをついてまでオリンピックを招致しようとする魂胆は明らかだ。今日本中がオリンピックまで1000日などと浮かれているが、私は一貫して2020年オリンピックには反対の意見を持ち続けている。
 この問題については水島宏明(上智大学教授)さんの論考を紹介しておこう。
『安倍首相が五輪招致でついた「ウソ」 “汚染水は港湾内で完全にブロック” なんてありえない』

1933年の記事は「文化への統制・弾圧の動き」から始まったが、最終記事も「文化への統制・弾圧」である。

(11)11月22日 「源氏物語」の上演禁止


「非常時」

 1932年11月に編成された1933年度予算は22億3800万円という巨額になった。新聞は「日本はじまって以来の非常時大予算」と伝えた。これが「非常時」という言葉のはじまりらしい。

 目ざとい陸軍はここから「非常時」と吼えだした。1933年になると、軍警当局は非常時宣言の音量をあげる。とにかく何から何まで「非常時だからガマンせよ」であった。

 ついに11月22日、古典「源氏物語」の上演に警視庁が待ったをかける。坪内逍遥、藤村作(つくる)の両博士が顧問で、光源氏に坂東蓑助、ほか演技陣も豪華キャストで11月26日から新歌舞伎座で上演の予定であった。
「脚本は、光源氏を中心として、当時の人たちの姦通など、徹頭徹尾恋愛物語に終始し、風紀上大いに害がある。非常時日本にふさわしくない」

 藤村博士が抗議して、
「どこがいけないか指摘してくれ。直すなり削るなりするゆえに」
といえどダメの一点張り。いつの時代でも、非常時には文化などどうでもいい、というお話である。

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権力が教育を破壊する

『『羽仁五郎の大予言』を読む』から抜粋しました。)

第1854回 08月25日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(18):権力が教育を破壊する(1):大日本帝国のゾンビたちの復権

第1855回 08月29日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(19):権力が教育を破壊する(2):戦後教育の民主化(1)

第1856回 08月31日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(20):権力が教育を破壊する(3):戦後教育の民主化(2)

第1857回 09月05日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(21):権力が教育を破壊する(4):戦後教育の民主化(3)

第1858回 09月11日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(22):権力が教育を破壊する(5):戦後教育の民主化(4)

第1859回 09月16日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(23):権力が教育を破壊する(6):戦後教育の民主化(5)

第1860回 09月21日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(24):権力が教育を破壊する(7):番外編:マキァヴェリの政治思想

第1861回 09月26日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(25):権力が教育を破壊する(8):番外編:教科書裁判

第1862回 10月02日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(26):権力が教育を破壊する(9):教育反動(1)

第1863回 10月08日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(27):権力が教育を破壊する(10):教育反動(2)

第1864回 10月16日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(28):権力が教育を破壊する(11):教育反動(3)

第1865回 10月19日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(29):権力が教育を破壊する(12):教育反動(4)

第1866回 10月26日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(30):権力が教育を破壊する(13):教育反動(5)

第1867回 11月01日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(31):権力が教育を破壊する(14):教育反動(6)

第1868回 11月05日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(32):権力が教育を破壊する(15):教育反動(7)

第1869回 11月07日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(33):権力が教育を破壊する(16):教育反動(8)

第1870回 11月13日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(34):権力が教育を破壊する(16):教育反動(8):番外編:アメリカによる日本占領は終わっていない(1)

第1871回 11月17日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(35):権力が教育を破壊する(18):教育反動(10):番外編:アメリカによる日本占領は終わっていない(2)

第1872回 11月21日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(36):権力が教育を破壊する(19):教育反動(11):番外編:アメリカによる日本占領は終わっていない(3)

第1873回 11月26日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(37):権力が教育を破壊する(20):教育反動(12)

第1874回 11月30日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(38):権力が教育を破壊する(21):教育反動(13)

第1875回 12月04日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(39):権力が教育を破壊する(22):教育反動(14)

第1876回 12月08日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(40):権力が教育を破壊する(23):教育反動(15)

第1877回 12月12日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(41):権力が教育を破壊する(24):教育反動(16)

第1878回 12月16日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(42):権力が教育を破壊する(25):教育反動(17)

第1879回 12月26日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(43):権力が教育を破壊する(26):教育反動(18)

第1880回 12月30日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(44):権力が教育を破壊する(27):教育反動(19)

第1881回 01月05日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(45):権力が教育を破壊する(28):教育反動(20)

第1882回 01月09日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(46):権力が教育を破壊する(29):教育反動(21)

第1883回 01月14日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(47):権力が教育を破壊する(30):教育反動(22)

第1884回 01月23日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(48):権力が教育を破壊する(31):教育反動(23):中曾根臨審(1)

第1885回 01月30日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(49):権力が教育を破壊する(32):教育反動(24):中曾根臨審(2)

第1886回 02月02日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(50):権力が教育を破壊する(33):教育反動(25):中曾根臨教審(3)

第1887回 02月06日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(51):権力が教育を破壊する(34):教育反動(26):中曾根臨教審(4)

第1888回 02月12日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(52):権力が教育を破壊する(35):教育反動(27):中曾根臨教審(5)

第1889回 02月16日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(53):権力が教育を破壊する(36):教育反動(28):中曾根臨教審(6)

第1890回 02月24日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(54):権力が教育を破壊する(37):教育反動(29):中曾根臨教審(7)

第1891回 02月28日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(55):権力が教育を破壊する(38):教育反動(30):中曾根臨教審以後(1)

第1892回 03月04日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(56):権力が教育を破壊する(39):教育反動(31):中曾根臨教審以後(2)

第1893回 03月07日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(57):権力が教育を破壊する(40):教育反動(32):中曾根臨教審以後(3)

第1894回 03月10日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(58):権力が教育を破壊する(41):教育反動(33):21世紀に入って(1)

第1895回 03月15日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(59):権力が教育を破壊する(42):教育反動(34):21世紀に入って(2)

第1896回 03月21日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(60):権力が教育を破壊する(43):教育反動(35):21世紀に入って(3)

第1897回 03月26日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(61):権力が教育を破壊する(44):教育反動(36):遂にここに極まれり(1)

第1898回 03月31日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(62):権力が教育を破壊する(45):教育反動(37):遂にここに極まれり(2)

第1899回 04月04日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(63):権力が教育を破壊する(46):教育反動(38):遂にここに極まれり(3)

第1900回 04月07日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(63):権力が教育を破壊する(47):教育反動(39):遂にここに極まれり(4)

第1901回 04月12日:《『羽仁五郎の大予言』を読む》(64):権力が教育を破壊する(48):教育反動(40):遂にここに極まれり(4)の追記

昭和の15戦争史(8)

1933年(1)~(5)

 日本は1933年に国際連盟を脱退し国際社会から孤立する。そしてのち、1940年にドイツ・イタリアと同盟を結び世界大戦へと突き進んでいく。また、戦争遂行に向かって思想・教育への統制・弾圧もあからさまになってくる。従って今回からは国際的な政治の動向や文化への統制・弾圧の動きにも目を向けることになる。『残日録』からの選ぶ項数が多くなるので、1933年も2回に分けて掲載しよう。

(1)1月30日
ヒトラー、首相に就任


「われわれが彼を雇った」

 ナチスは1928年には国会にわずか12議席しかもたなかった。翌30年にはこれが一挙に107議席に。さらに32年には賠償などによる経済危機が決定的な後押しとなって、議席はなんと230にまでのぼった。

 これぞドイツのナチスの躍進ぶりなのである。  こうなってはヒンデンブルグ大統領も、「ベーメンの兵長」とよんで軽べつしていたヒトラーを首相に任命せざるをえなくなる。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任する。

 このとき保守主義者たちは、大衆的人気者であるチョビ髭のヒトラーを、うまくおだてて利用したつもりでいた。
 「われわれが彼を雇ったんだよ」といって。

 しかし、政治というものの魔力を彼らは根本的に見誤っていた。ヒトラーは首相になると同時に国会を解散、総選挙をやると宣言する。あらゆる宣伝力を駆使し、選挙でナチスが圧倒的勝利を収められるという計算のもとに。そして事実そうなった。その瞬間からヒトラーの独裁がはじまるのである。

 ここで私は安倍総理と同程度に無知にして無恥な麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」という発言を思い出した。ヒトラーの突然の国会解散と今回の安倍による国会冒頭での国会解散が同じ手口じゃないかと思った。

 麻生の発言については植草一秀さんが詳しく論じているので紹介しておこう。(麻生の発言の全文も読むことができる。)
『麻生太郎氏ナチスに学べ発言擁護論の意味不明』

 さて、理不尽な遣りたい放題は軍だけではなく、警察も加わっていった。

(2)2月20日
小林多喜二殺される


「身体中を紫色に滲ませて」

 「数日後に、身体中を無情な紫色に惨ませて殺されて帰った。久しぶりに、しかし変った姿で自分の部屋に帰ってきた小林多喜二は、私たちのシャツを脱がす下から、胸も両股も全体紫色に血のにじんでしまった苦痛のあとを、私たちの目と電灯の下にさらした」
 作家佐多稲子『私の東京地図』の一節である。  『蟹工船』や『党生活者』などでプロレタリア文学の先頭をきっていた作家小林多喜二が、築地警察署で長時間の拷問をうけて死んだのは、1933年2月20日午後7時。築地署は心臓マヒのため死亡と発表し、遺骸は三つの病院から解剖をこばまれた。

 佐多稲子は、さらにそのさきのことを書いている。
「小林の家に集るものは、逆に警察に検束されてゆき、葬式にさえ私たちは加わることが出来なかった」
 このため杉並署の留置場はいっぱいとなり、剣道場まで検挙者であふれた。大正末期から昭和へ、あれほど盛んであったプロレタリア文学運動は、小林を失って崩壊していく。ひどい時代であったことよ。

 戦争への道まっしぐらを最も強く煽ったのはマスゴミ(糞バエ)達であった。

(3)2月24日
日本、国際連盟を脱退


「脱退するまでもない」

 1933年2月24日、国連総会で、"満洲から撤兵"するように、という対日勧告案が、42対1で可決された。反対の一票は日本のもの。つまり日本のとってきた政策が、全世界の国々から「NO」といわれたのである。日本全権松岡洋右たちは「サヨナラ」を正式に表明し退場した。日本が栄光ある「世界の孤児」になった瞬間である。

 昭和天皇はずっと、連盟脱退には反対の意見をもちつづけていた。脱退ときまってからも「脱退するまでもなかったのではないか」といいつづけた。

 しかし、世論は強硬な新聞の論調にあおられ、孤立何するものぞと、大歓声をもって連盟脱退に賛成した。松岡全権が帰国したとき、まさかと思うほどの「万歳」「万歳」の歓呼をもって迎えられた。

 こうして日本国民は、一方的かつ確信的な新聞報道に吹きこまれ、被害者なのに国際的に"かがいしゃ"として非難されていると信じ、孤立にともなう強烈な危機感と、それにもまして排外的な感情とをつのらせていった。そのことが後に何をうんだか、昭和史が示すとおりである。

(4)2月27日
ドイツ国会議事堂の炎上


「国民と国家防衛のため」

 1933年1月30日、ヒトラーを首相とする連立内閣が成立した。ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の一党支配をもくろむヒトラーは、3月5日投票の総選挙にすべてを賭けて戦った。強敵はドイツ共産党であった。激しい選挙戦がくりひろげられている真っただ中の2月27日、ドイツ国会議事堂が60数ヵ所から火を発し、紅蓮の炎でベルリンの夜空を真っ赤にこがして燃え落ちた。

 首相ヒトラーの指揮をうけた警察は、犯人としてオランダ人の共産党員ルッペを現場で逮捕する。警戒厳重な議事堂に、いっぺんに大きな建物を燃え上がらせるほどの放火材料を、ひとりの男がもちこめるか、また60ヵ所のいっせい点火が可能なのか、そんな疑問は頭から無視された。

 事件は共産主義者の企てと宣伝され、翌日には「国民と国家防衛のため」の緊急令が交付された。これが歴史の転換点となった。これで共産党員をいつでもその名目によって処罰・追放できることが可能になったのである。共産党の選挙運動は、結果として、自由を奪われることとなり、ヒトラーのナチ党の勝利は確実となった。この日、絶望した劇作家ブレヒトはベルリンを脱出、デンマークに亡命していった。

 厚顔無恥の政治権力者が発するフェイクニュース(偽ニュース)が大手を振って流布されるのは現在でも同じだ。今日(10月29日)の東京新聞の日曜版が「世界中で拡散 フェイクニュース!」という特集を組んでいて、現在のフェイクニュースの事例を掲載している。フェイクニュースは今、インターネット(特にツイッター)内でもたくさん飛び交っている。ご用心!ご用心!

 次の記事はさらなる国家の教育支配の始まりを取り上げている。

(5)4月1日
国定教科書の改訂


「サイタサイタ サクラガサイタ」

 教育学者の唐沢富太郎の評によると
「この時代からはっきりと、教育目的は『臣民の道』の教化と、軍国における『忠君愛国』の精神の鼓吹にあることを示した。そしてこの教科書は、従来の国家主義的な教育にいっそう深い哲学的基礎を与えて………『肇国(ちょうこく)の精神』が唱導され、神国観念が強調されているのである」
ということになる。つまり、日本の軍国主義化はここに始まると。

 まあ、こんなふうに悪評高い教科書なんであるが、われら昭和っ子には困ったことに、それだけひどく懐かしくもある。
「サイタサイタ サクラガサイタ」
「ススメススメ ヘイタイススメ」
と一年坊主はまず「国語」で習ったのである。国花のつぎが兵隊と、なるほど「忠君愛国」の鼓吹は徹底化している。

 国定教科書の第4期にあたるこの教科書改訂の実施は、1933年4月1日から。そして1940年まで使われた。寿命は短かったが、影響力は目茶苦茶に大きかった。それにつけても、日本の明日のため教科書は大事なものと思う。

 こうした問題に興味をお持ちの方に紹介しておこう。
 このブログでは、戦時下の教科書については『国民学校の教科書』
で取り上げている。
 また、大事な教科書が現在も危機にさらされているが、この事については『『羽仁五郎の大予言』を読む』の(18)~(50)で「権力が教育を破壊する 教育反動」という表題で取り上げているが、その部分だけを取り出したものを紹介しておきます。
『権力が教育を破壊する』
昭和の15戦争史(7)

1932年(4)~(8)

(4)3月1日
満洲国の建国


「五族協和」

 戦前の昭和日本は大ざっぱにいえば、満洲国の存立と権益をめぐって、当事国の中国と小ぜり合いをつづけ、諸外国とも衝突、調整のつかぬままに孤立化し、世界大戦への道をたどっていった、といっていい。その新生国家の満洲国が建国されたのが1932年3月1日である。

 独立宣言はこの日に発せられ、新首都ときめた長春を新京と改名、年号は大同とされた。つまりこの日が大同元年の第1日目。国旗は五族協和をあらわす五色旗である。ちなみに五族とは漢、満、蒙、鮮、日をいう。そしてこの五族協和が日本の大理想としてしきりに叫ばれる。

 日本の新聞は一貫して満洲新国家の成立をたたえ、国際連盟を中心とする国際的影響など眼中にはなかった。満洲国が関東軍の工作によって生まれた傀儡国家であるとする見方を「皮相の観察」と一蹴し、
「(日本の行動が)満蒙三千万民衆の心にひそめられた積年の希望を実行するに資したものであることは、中外のひとしく諒解するところである」
 そして
「生命線へ花嫁を男子と手を携えて満蒙の新天地へ」
とうたいあげた。

 この年には、軍の暴走を後押しするように、擬似愛国心にかぶれたテロリストがさらにはびこっていった。

(5)3月11日
井上日召の自首


「一人一殺」

 この年の2月9日、前蔵相井上準之助射殺さる。3月5日、三井合名の理事長団琢磨射殺さる。ほか暗殺目標としては政治家の犬養毅、若槻礼次郎や幣原喜重郎、財界からは池田成彬、岩崎久寿弥太、そして天皇側近の西園寺公望、鈴木貫太郎、牧野伸顕らの名があがった。

 この暗殺計画実行の指揮統制をとったのが井上日召である。警視庁は必死に日召を追いかけた。結局、自首ということになり、3月11日、新聞によれば「悠々と警視総監邸へ行き、大野総監に自首した」。まさに「国賓なみの逮捕劇」で、血盟団による「一人一殺」の暗殺事件は幕となる。

 日召の下にテロリストは13名いた。かれらは日召の説く革命的急進主義を信奉した。政党・財閥ならびに重臣たちは結託して私利私欲に没頭し、国家存立の大義を誤らしめている。これら諸悪の根源ともいうべき連中を「一人一殺で殺せば、世の中は良くなる」と信じたのである。

 いまの日本の、政党・財界・官界の腐敗の惨状をみると……。いや、世はなべてこともなし、か。いや、いや、何やら不穏な……。

 擬似愛国心に囚われた国民の悲劇は次のような戦争協力会を生むことにも現れている。

(6)3月18日
大日本国防婦人会の第一歩


「銃後の守り」

 1931年秋の満洲事変いらい、日本は戦時下になった。召集令状がしきりに出された。大阪の井上清一中尉に赤紙が届けられたとき、夫に心残りをさせないためと妻が自害、軍国主婦の鑑と大いにもてはやされた。

 井上中尉と親類筋にあった大阪港区の安田せい(金属部品工場主の妻)が、この事実に感激し、友人や隣組の婦人たちに呼びかけ、女だけの会の結成をよびかけた。これが国防婦人会の発足なのである。

 それは1932年3月18日のこと。白エプロンにたすきがけの女性40名近くが、新聞記者を前にさかんに気勢をあげる。
 「銃後の守りは私たちの手で」
 それが会の目的である。そのために出征兵士の見送りや慰問をすすんでやるとした。喜んだのは軍部である。女性のほうから積極的に戦争協力を推進するというのであるから。
 7ヵ月後には大日本国防婦人会へと拡大。やがて会員も700万人を超えるようになる。

 恐るべし、女性の力。

(7)5月15日
5・15事件のウラ


「話せばわかる」

 この日夕刻5時半ごろ、首相官邸に海軍士官が車で乗りつけ、首相犬養毅への面会を強要した。食堂にいた首相は逃げようともせず、彼らを迎えて、手をあげておだやかにいった。
「まあ持て、撃つことはいつでもできる。話を聞こう。話せばわかる」
 そして応接間に案内し、たばこに火をつけて話そうとしたとき、あとから入ってきた海軍士官が、
「問答無用、撃て」
といい放って老首相を撃ち倒した。昭和7年5月15日のこと、いわゆる5・15事件で、「話せばわかる」「問答無用」で有名である。

 しかし、一説に、この話にはウラがある、という。満洲の軍閥張学良の家から犬養の怪しげな領収書がでてきて、海軍士官が「キサマも張学良からカネをもらっておろうが」と詰問した。犬養首相が「そのことならば話せばわかるから」といったが、いまさら弁解無用とばかりに撃ち殺された、というのである。

(8)10月14日
満州開拓移民はじまる


「当初は係累のない者を送る」

 満洲(中国東北地方)開拓移民の源流は、日露戦争後にはじまるが、国家的規模でどんどん送り込まれたのは、1931年の満洲事変の後からである。のちには、疲弊する農村の救済と、満洲支配という隠された国策によって、"百万人移住計両″のもとに強力に推進された。

 その計画にもとずく第一陣の「満洲自衛移民」が、海を波って、満洲国北部のチャムスに着いたのは、1932年10月14日。「移住後、後ろ髪を引かれるような者は、思うように活躍が出来ぬことゆえ、当初は係累のない者を送る」ということで選ばれた約500名である。

 しかし、理想の国土のスローガンをよそに、その夜、彼らを迎えたのは反日ゲリラの襲撃であった。そして彼らは、先住の中国人400人を1人5円で立ち退かせたあとの土地に住み着いた。のちの「弥栄(いやさかえ)村開拓団」である。

 こうして1945年までに開拓団として、881団、約27万人余の日本人が満洲に渡った。その人たちが敗戦後に昧わった悲惨については、すでに多く語り尽くされている。国家の無責任さについては言葉を失う。

 前回から私は「擬似愛国心」という勝手に自作した熟語を用いてきたが、国家から煽られてのめり込む愛国心はすべて擬似愛国心ではないだろうか。

 私は「営業せきやんの憂鬱」というブログを愛読しているが、そのブログの2017年10月24日付の記事が、私が「『昭和の15戦争史(5)』で紹介した『戒厳令下のアキバ 「安倍辞めろ」を完全封殺』 を取り上げていた。その中に次のような文が引用されていた。

「愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である」(サミュエル・ジョンソン)
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹である」(アルベルト・アインシュタイン)
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」(バートランド・ラッセル」

 この知の偉人たちは「愛国心」とは全て「擬似愛国心」なのだと見抜いていたのだと、私は読み取った。
昭和の15戦争史(6)

1932年(1)~(3)
(1932年は取り上げる事件が8項目もあるので2回に分けて掲載します。)

 満州事変後、政府を無視した陸軍の暴走はますます激しくなっていた。

(1)1月18日
第1次上海事変の内幕


「われわれの陰謀は功を奏し」

「準備もほぼととのった1月18日夕方、江湾路にある日蓮宗妙法寺の僧侶が托鉢寒行で廻っているのを、買収した中国人の手で狙撃させた。2名が重傷を負い、1名は後に死亡したが、中国側巡警の到着がおくれたために、犯人は捕まらなかった。待ちかまえていた日本青年同志会員30余人が、ナイフと棍棒をもって、犯人が隠れていると主張して、三友実業社を襲って放火し帰路警察隊と衝突して死傷者を出した。これが上海事件の発端である」

 当時上海駐在武官補佐官であった田中隆吉が書くところの、第一次上海事変の内幕である。1932年のこと。満洲に上がった戦火から世界の視線をそらすために、この戦闘は仕組まれた陸軍の陰謀であった。

「1月28日、日中両軍は戦闘を開始して本格的な戦争になって来た。3月3日停戦協定成立となったが、われわれの陰謀は功を奏して、列国の眼が上海に注がれている間に、満洲国は3月1日に独立してしまった」
 と誇って書いている。

 いまは何ということかと嘆ずるほかはないが……。

(2)2月22日
肉弾三勇士の「美談」


「廟行鎮の敵の陣」

 戦前の国語の教科書に忠勇なる三勇士の「美談」としてのっていたので、記憶している人は多いであろう。映画に舞台に、上海事変の肉弾三勇士として銅像もつくられていた。長田幹彦作曲、中山晋平作曲による戦時歌謡もあった。
 廟行鎮の敵の陣  我が友隊すでに攻む  ………

 すなわち、混成第24旅団が廟行鎮の中国軍への総攻撃を開始したとき、久留米工兵第18大隊は、前面の鉄条網を破壊し、歩兵の進路を確保する任についていた。そのとき江下武二、北川丞(すすむ)、作江伊之助各一等兵が破壊筒もろとも爆死、身を捨てて任務を果たした。ということで、3人とも2階級特進し、彼らの母には陸軍から金一封が贈られた。昭和7年2月22日、上海事変でのことである。

 ところがいまは、作られた美談ということになった。作江が早く敵弾に当たり攻撃は成功せず、未帰還となったのを、果敢に突入しての敵陣爆破と認定したものであったという。およそ歴史に「美談」はないのである。

 満州事変のフェイクニュースに熱狂する国民はこのような作られた美談にもたやすく騙され喝采し、擬似愛国心に引き込まれていく。

(3)2月29日
リットン調査団の来日

(この項は『残日録』にはないので『探索2』と『史料集』を利用する。

 まず、『探索2』より。

 上海に北満に、戦火はひろがる一方である。1月25日、国際連盟理事会が開会されたとき、日本代表団はまたしても10年1日がごとき空手形の演説をくり返すだけである。
 「わが国は満州において領土的意図を有するものではありませぬ。また、既存の諸条約は申すにおよばず、門戸解放、機会均等の主義を尊重することは、もちろんのことであります」

 国連理事国の代表団はひとりとして、さすがにもう日本のいうことを信じるものはなかった。その国連理事会が決定した満州の現状を調査するための委員会が日本に到着したのは、1932年2月29日のことである。イギリスのビクター・リットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団(ほかに米・独・仏・伊の委員で構成)である。

 だれの手も借りず、満州問題を自力で処理せんとする気運が高まっている日本国内は、一行の到着を複雑微妙な気分で迎えた。軍部ははげしい敵意を抱いた。その一部は、一行にコレラ菌をつけた果物を差し出し、ひそかに一行を病気にして殺そうという恐るべき謀略を実行に移そうとしたものがあったという。はたして本当かどうか。

 また、こんな話が残されている。調査団到着の数日前に、駐日イギリス大使が外務次官有田二郎を訪ねてこういった、という。
「一行が日本にやってくれば、暴力団が決起して、リットン卿をはじめ主なものを暗殺するとか、また、内田良平というような国粋主義的な連中が、満州国承認問題について国民大会を催すとか、そういう噂もある。だいぶ危険な空気がみなぎっているようだが、大丈夫であろうか」
 これによっても殺気立つ国内の雰囲気がよくわかる。ほとんどの日本人がそこまでは考えていないとしても、悪意の冷淡さをもって調査団を迎えたことは事実なのである。

 大阪朝日新聞は3月8日の社説「連盟調査委員を迎う」でこう虫のいいことを訴えた。
「吾人は調査委員が10日間の日本滞在によって、よく日本および日本人を理解し、やがて渡支の後において現実に即して比較考量され、これによって日本の支那における行動を公正に判断し、悪宣伝などに惑わされることなく、もって権威ある調査報告書を作成されんことを衷心から希望するものである」

 一部をのぞいてジャーナリズムは、この朝日の論説に代表されるような、なんとか調査団をとおして日本国民の平和意思を伝え、よい報告を期待しようではないか、という姿勢をとっていたのである。ただ石橋湛山だけは違っていた。3月5日付の論説で、かれは説いている。日本帝国は欧米列強に追随して帝国主義的な政策を信奉しているのではない。資源なき一小島国が、世界列強の帝国主義に伍していくいわば自存自衛のために、やむなくとっている手段なのである。それを決して是認するものではないが……と湛山は苦衷をにじませて懸命に日本の立場を訴えている。

 リットン調査団はその調査の報告書(緒言と10章よりなる)を10月2日に連盟に提出した。その報告書のあらましを『史料集』では次のように解説している。
第4章、柳条湖事件関係の結論。日本の自衛権発動と認めず、計画的行動とした。
第6章、満州國の結論。満州国の政治・行政・軍事の実権は日本人の手にあり、日本の傀儡政権だとしている。
第9章、解決の原則及条件の一節。この他、ソ連邦の利益への考慮、現存諸条約との一致、将来の紛争解決規定の全10項目をあげている。その一つで「団内部の治安は憲兵隊で外部侵略には軍隊撤退と不侵略条約の締結によれ」としている。

 上の三つの章の原文(『日本外交文章』からの抜粋)が掲載されているのでそれを転載しておく。

(第4章)
 9月18日午後10時より10時30分ノ問ニ鉄道線路上若(もしく)ハ其ノ付近ニ於テ爆発アリシハ疑(うたがい)ナキモ、鉄道ニ対スル損傷ハ若(も)シアリトスルモ、事実長春ヨリノ南行列車ノ定刻到着ヲ妨ゲザリシモノニシテ其レノ軍事行動ヲ正当トスルニ十分ナラズ。同夜ニ於ケル叙上日本軍ノ軍事行動ハ合法ナル自衛ノ措置ト認ムルコトヲ得ズ。

(第6章)
「政府」及公共事務二関シテハ、仮令(たとえ)各部局ノ名義上ノ長官ハ満州在住ノ支那人ナリト雖(いえど)モ、主タル政治的及行政的権カハ日本人ノ官吏及顧問ノ掌中ニ在リ。……吾人ハ「満州国政府」ハ地方ノ支那人二依リ日本側ノ手先ト目セラレ、支那側一般ノ支持ナキモノナリトノ結論ニ到達シタリ。

(第9章)
 満足ナル解決ノ条件
一 支那及日本双方ノ利益ト両立スルコト。…… 四 満州ノ自治二於ケル日本ノ利益ノ承認。…… 五 支那及日本間二於ケル新条約関係ノ設定。…七 満州ノ自治。…… 八 内部的秩序及外部的侵略ニ対スル安全保障。……
九 支那及日本間二於ケル経済的接近ノ促進。…… 十 支那ノ改造二関スル国際協力。……

昭和の15年戦争史(5)

1931年(1):満州事変

 満州事変が勃発したのは1931年である。この事変こそ日本が「昭和の15戦争」へと盲進していく切っ掛けとなった結節点であった。1931年の回顧はこの満州事変だけに絞って詳しく調べていこうと思う(少し長くなるかもしれません)。

 まず、『史料集』の「満州事変」という項を読んでみよう。この記事は「林奉天総領事の報告」と題されている。1931年9月19日の軍による奉天・長春など満鉄沿線諸都市を占領した事件について、総領事林久治郎から外相幣原喜重郎に宛てた9月19日付の暗号電信である。(出典は外務省蔵「日本外交文書」)

林奉天総領事の報告

第625号(至急極秘)……各方面ノ情報ヲ綜合スルニ、軍二於テハ満鉄沿線各地二亘(わた)リ、一斉二積極的行動ヲ開始セムトスルノ方針ナルカ如ク推察セラル。本官ハ在大連内田総裁ヲ通シテ軍司令官ノ注意ヲ喚起スル様措置方努力中ナルモ、政府二於テモ大至急軍ノ行動差止メ方ニ付適当ナル措置ヲ執(と)ラレムコトヲ希望ス。

(注)
「軍司令官」
 関東軍司令官本庄繁中将。当時旅順に司令部があった。
 このときの若槻内閣は事変の不拡大方針を決定したが、関東軍・朝鮮軍の軍事行動を阻止する措置をとらなかった。


第630号(至急極秘)参謀本部建川(たてかわ)部長ハ18日午後1時ノ列車ニテ当地ニ入込ミタリトノ報アリ、軍側ニテハ秘密二付(ふ)シ居(お)ルモ、右ハ或ハ真実ナルヤニ思ハレ、又満鉄木村理事ノ内報二依レハ、支那側ニ破壊セラレタリト伝ヘラルル鉄道箇所修理ノ為満鉄ヨリ保線工夫ヲ派遣セルモ、軍ハ現場ニ近寄セシメサル趣(おもむき)ニテ、今次ノ事件ハ全(まった)ク軍部ノ計画的行動二出テタルモノト想像セラル。

 政府はこの事変が軍による計画的事件であったことを把握していたようだ。

 前回、浜口雄幸首相の狙撃事件を取り上げたが、その後1931年に右翼による軍部内閣樹立を目指したクーデター2件起こっている。3月事件・10月事件と呼ばれている。このような右翼による愚行を煽っていたのは、もちろん陸軍の中枢部である。この事については『探索2』から転載する。

満州事変への道をひたすらに
 3月事件は、大雑把にいえば参謀本部の一部の急進派が中心となり計画されたものである。しかし、陸軍省側の協力がえられなかった、そこに不発の根因があった、とみることができる。では、その陸軍省側の革新派は何を考えていたのであろうか。じつは、そのリーダー的な存在である軍事課長永田鉄山大佐、補任課長岡村寧次大佐、陸大教官小畑敏四郎大佐たちは、まず何よりも満蒙問題を解決することが先決であり、この解決がうまくなされれば、国内改造は無理をせずともついてくる、軍部首班の内閣はできる、と判断していたのである。陸軍はそれほど「満蒙の危機」に直面して焦燥にかられていたのである。焦燥こそは戦争の原動力というが、彼らは戦争を決して厭おうとはしていなかった。

(中略)

 考えてみれば、昭和開幕していらい、陸軍の俊英たちは満蒙問題を語りつづけてきている。彼らがつねに口にするのは「十万の英霊、二十億の国帑」であり、「明治天皇のご遺業」についてである。日清・日露の国難といえる戦争に勝ちぬいて特殊権益としてわが手にした満蒙の地は、そのまま国防の第一線となり、失うことのできない日本の「生命線」となった。ここを守りぬくことが陸軍軍人の使命であり最大の任務なのである。

(管理人注)
 「国帑」という熟語に初めて出会った。手元にある漢和辞典を調べてみた。
【國帑】コウダウ・コクド
國の財寶を納めるくら。(帑は貨幣を蔵めるくら)
○国庫・府庫。転じて国家の財産。


 それなのにいま日本国内では、あいつぐ政党の汚職事件や共産党の活動が活発化。さらには、ロンドン軍縮条約の締結は、当然の流れとして陸軍軍縮をも予想させる。危機を前にしながら、腐敗した政党政治によって軍縮が強行されるようなことがあれば、国防をまっとうすることなど不可能である、と陸軍軍人はひとしく苛立ちを隠さず強く反発した。いまこそわれわれの手でこの危機的状況から国家を救いださなければならないと。

 とくに満州の曠野にあって、日本の政策を代行する形の関東軍司令部の参謀たちには、我慢がならなくなっていた。交渉相手の張学良が「外交は国家の外交であるから大問題は当然中央でやる。地方的な問題は自分がやる決心である」と、むつかしい問題はすべて南京の国民政府のほうへ回そうとし、その無責任さがいっそう参謀たちを激怒させた。そして、この憤慨のいきつくところとなれば、よし、それならば張学良にかえてより親日的な政権を樹立するか、さもなければ満州全土を軍事占領してしまうか、という二者いずれかの結論にみちびかれていった。そしてひそかにとるべき方針が検討されていく。さらには具体的な作戦計画の練り上げへと彼らをしきりに駆り立てていく。

 そして昭和陸軍特有の、動機を重んじ手段の性邪を問わない精神構造というものが、これに加勢する。動機さえ純粋であれば(それも往々にして主観的に)、手段と行動がかりに統帥を乱し、暴力をともなうものであったとしても正当化される、といった空気が陸車の中枢に瀰漫していたのである。関東軍参謀石原莞爾中佐の「満蒙問題私見」は、関東軍の作戦方針の基調となったもので、「解決ノ唯一方策ハ之ヲ我領土トナスニアリ」の文字が、あまりにもあっさりと書かれていることに、ただ驚嘆するばかりである。

 ともあれ、満州事変への道はここに大きく切り拓かれていった。

 このようにして決行された満州事変という愚行を、政府は国民には「中国軍によて引き起こされた」という虚偽ニュースで広めていった。その結果は……『残日録』の記事で締めくくろう。
(1)9月18日
満洲事変の教訓


「民衆の熱狂の声に消されて……」

 1931年9月18日夜、満洲事変がぼっ発した。戦前の軍事国家日本がスタートを切った日であり、大日本帝国がやがて世界中の国を相手に戦い滅びることを、最初に運命づけた日でもある。

 奉天郊外の柳条湖付近の鉄道爆破は、日本軍の謀略によるもの、という事実がいまは明らかになっている。主諜者が関東軍の本庄繁をはじめとする板垣征四郎、石原莞爾たちであることもハッキリしている。しかし当時は、中国軍によって爆破され、日本の鉄道守備隊も攻撃をうけ、やむなく開戦となった、という政府の発表を国民は信じた。新聞もラジオも、自衛のため立ち上がった、としきりに太鼓をたたいた。
「本来賑やかなもの好きの民衆は……満洲問題の成行きに熱狂した。すわこそ帝国主義的侵略戦争というような紋切型の非難や、インテリの冷静傍観などは、その民衆の熱狂の声に消されてその圧力を失った」
とは評論家杉山平助の報告である。

 この国民的熱狂がそれ以後の国の歩みを誤らせた。満洲事変から学ぶべき最大の教訓は、国民的熱狂の恐ろしさということなのである。

 21日に目を背けたくなるような愚劣なことが起こっている。国民的熱狂ではなく、愚民の最先端を行くネトウヨだけを集めて、その連中の熱狂に得意がって脂下がっている無知にして無恥な男が起こした事件だ。そのことを取り上げた「田中龍作ジャーナル」さんの記事を紹介しておこう。
『戒厳令下のアキバ 「安倍辞めろ」を完全封殺』

 このような愚劣なことを得意げに行なっている無知にして無恥な男がまた政権を担うという結果は愚民の最先端を行くネトウヨだけではできない。従順な国民という愚民のなんと多いことか。情けない、情けない。
昭和の15年戦争史(4)

1930年(1)~(4)

 日本では1929年10月から始まった世界的大恐慌の煽りを受けて、庶民の状況はどのようなことになっていたのだろうか。このことについては、『昭和史探索2』から転載する。
(1)
世界大不況下の日本


 1929年10月、アメリカのウォール街の株価暴落にはじまった世界大恐慌の嵐は、年が明けるとますます荒々しく激しく日本帝国を揺すぶっていた。生糸の最大輸出国アメリカの不況は、そのまま生糸の売れ行きに響いてくる。結果としての生糸の大暴落、つづいて米の価格が暴落する。とくに1929年は米どころ新潟が豊作で、さらに1930年の予想収穫高が「未曾有の豊作」とあって、暴落に歯止めがきかない惨憺たることになった。労働者の半数近くが繊維産業を中心とした女子労働者、そして農家の2、3男であるというそのころの国の経済基盤の根底がぐらつき、農産物全体の価格の下落は深刻の一途をたどっていく。

 いざとなれば農村にゆけば何とかなる、と夕力をくくっていた都会の失業者は、いっぺんにその行き場を失った。失業者すなわち「ルンペン」は都市にあふれかえった。全国の工業地帯ではストライキが続発する。東北の農村では娘の身売りという悲劇が当たり前になる。当然のことながら左翼運動はますます活発化する。

 ところが、政府はそれらにたいしては手のうちようもなく、まったくの無策といってよかった。

 朝日新聞の1930年9月3日の社会面の記事(当時は三面記事といった)は、見出しに「毎夜30人ずつ、寺の境内に野宿/遊行寺(藤沢)の麦飯一杯の振舞も、悲鳴をあげる繁盛」とつけて、その悲惨な光景をこう伝えている。
「職を失ってその日の糧にも窮し、都会の生活から完全に見放された哀れな失業者の群れが、郷里に帰るにも旅費がなく、とぼとぼと東海道を歩いて行く者が、今夏以来めっきりと殖えてきた。中には妻や子供を連れて乞食のごとく、道筋の人家で食を貰いながら、長い旅を続けている者もあり、沿道の程ケ谷、戸塚、藤沢等の警察署では、これらの保護に手を焼いている始末で、多い日には50人を超える位であるが、鎌倉郡川上村在郷軍人分会では、震災記念日の1日から1週間、同村旧東海道松並木付近に、お粥の接侍所を設けて、温かい食事を与えている」

 全国的にそんな様相であったがその反面で、首都の東京は奇妙なほど浮ついた気分で覆われていたのである。それも3月26日に催された帝都復興祭の煽りをうけてのものであったかもしれない。かの1923年の関東大震災から7年経って、東京の復興をお祝いする行事が大々的に行われたのである。底のほうは不況で冷えきっていたのに、いや、それゆえにかえって、といえるであろう。もう一度、朝日新聞の記事を引用する。3月27日のものである。それは社会面のほとんどを埋めて、賑やかに祝賀の様を伝えている。
「歓喜の乱舞の中に湧き立つ全帝都。昨日の人出、実に200万。素晴らしい復興の首途よ」
「銀座街を中心に殺人的な大群衆。電車、自動車、バスも動かばこその人の波」
「闇もこげよと打ちふる提灯の海。夜景を彩る花火に相和して、延々2万人の行列」

 明日のことを憂うるよりも、まずは今日の歓楽。この年の流行語が「エロ・グロ・ナンセンス」、そして「アチャラカ」、そして「銀ブラ」。大阪のカフェーが銀座に進出し濃厚サービスで、東京の和服に白エプロンを圧倒したのもこの年であった。

 この惨憺たる状況に対して「政府は……まったくの無策といってよかった。」と書かれているが、政府は唯一の政策を打ち出しているが、その結果が全くの逆効果となっているのだった。『残日録』から転載する。
(2)1月11日
金輸出解禁の決断
(1917年以来、禁止されていた金輸出を解禁し、金本位制に復帰した)

 「嵐に向かって窓を開ける」

 浜口雄幸内閣が、世界大恐慌からきた不況の打開策として、あえて金輸出解禁という強硬策の実施にふみきったのが、この年の1月11日のことである。ときの蔵相は井上準之助。

 円の切り上げなしに金解禁を実施すると、輸入はさらに増加、国際赤字は拡大し、金はたちまちに流出してしまうからと、反対の声は大きかった。反対派の旗頭の武藤山治はいった。
 「嵐に向かって窓を開けるようなものだ」

 しかし井上蔵相はあえて踏みきった。14年ぶりの解禁とあって、日本中がゴールド・ラッシュにわく。日銀につめかける人の波はひきもきらず、正午締め切りまでに2300人。中には、冥土のみやげに金貨を拝みたくて、という老婆もいる。1日で20万円の金貨が出た。

 しかし、結局は、おびただしい正貨の海外流出と、物価暴落で、不況は一層深刻化した。翌1931年12月13日、大養毅内閣の手で金輸出再禁止が実施され、この強硬策はわずか二年の寿命で終わる。

 ちなみに、井上準之助は1932年に血盟団員の小沼正(おぬましょう)に暗殺されている。

(3)10月29日
「中華民国」を正式呼称に

 「シナは正式な国名ではない」

 芥川龍之介は1921年3月から8月まで新聞から特派され中国を旅行した。それを綴った「文那游記」という紀行がある。すでにこのころ、中国においては、反日・排日・侮日の火勢が日一日と力をましている。歴史好きとしてはその意味からも面白い作品なのである。タイトルはもちろん、中身でも芥川は「支那」で押し通している。当然のことである。当時の日本人はだれもが、シナ、シナ人と呼び、シナそばといっていた。

 しかし、昭和に入って反省が生まれた。この年の10月29日、ときの浜口雄幸内閣は閣議で、この、「シナとは正式な国名ではなく、外交的にもはなはだ差し支える」、ゆえに「以後は正式に中華民国と呼ぶこと」を決定したのである。

 いま考えると、侮蔑をやめてこの決定を日本人がしっかりと受け止めてめていたら、日本陸軍の「シナー撃論」(一度ガツンとやればシナはヘナヘナとなる)が大手を振るうことはなかった。そして太平洋戦争への道を大日本帝国が闇雲(やみくも)に突き進むこともなかったであろうに。ちなみに、日本人がシナと呼びだしたのは1895(明治28)年の日清戦争に勝ったあとのことという。

(4)11月14日
浜口雄幸首相狙撃さる

 「男子の本懐である」

 昭和1930年11月14日の新聞の夕刊-、
「今朝、浜口総理大臣/東京駅頭で要撃さる/犯人は現場で直に捕縛」「『男子の本懐』と語る/応急手当をした平田医師談」……。

 ロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐって、軍備をどうするかは帝国憲法にある統帥事項であり、政府が勝手にきめられないという、いわゆる統帥権干犯問題を、犯人は暗殺の理由にあげた。屈辱的な条約を締結したのは政府が統帥権を干犯したのだ、といい張るのに、取調官が「じゃあ、統帥権干犯とはどういうことか」とさらに踏みこんで問うと、犯人は答えた。
 「要は不敬罪であります」
 統帥権を侵害するものはつまり大元帥命令にそむくことになる、という勝手な解釈なのである。

 そしてこの事件が1932年の前蔵相の井上準之助射殺、三井合名理事長の団琢磨射殺、5・15事件と、政治的暗殺がつづく暗い世相への幕開けとなった。

 いまでも東京駅ホーム内で、浜口雄幸首相遭難の跡を目にすることができる。

昭和の15年戦争史(3)

1929年(1)~(3)

 前回、戦争への道を突き進む転換点となった1928年の悪政を振り返ったが、なんと、今日(10月18日)の東京新聞朝刊の「こちら特報部」が「現代と似通う昭和3年 戦争へ向かった分水嶺」という見出しでその問題を取り上げていた。そして前半の記事は、前回紹介した内田博文(神戸学院大学教授)さんへのインタビュー記事で構成されている。その広報部記事の前文を転載しておこう。
『歴史にif(もしも)はない。とは分かってはいても、やり直せるなら戻りたい分水嶺(ぶんすいれい)はある。日本にとって戦争に向かう昭和初期はその筆頭だろう。刑法学者の内田博文氏は、今の日本の状況は「昭和3年」に似ていると指摘する。治安維持法が改正され、戦時体制の下準備が進んだ年だ。加えて、政治不信を加速させた意外な共通点も。今このときを「やり直したい過去」にしないために、90年前の「失敗」を振り返った。 (加藤裕治、皆川剛)』

 さて、今回は『残日録』から1929年の悪化していく世相を描いている記事を3項目選んた。

(1)3月5日
山本宣治代議士の暗殺


 「脳みその重さ日本一」
 最高刑10年であったものを死刑にまでひき上げた治安維持法の改正案が、衆議院を通過した日、すなわち1929年3月5日の夜、京都宇治出身の代議士、山宣こと山本宣治が、止宿先の神田神保町の旅館で刺殺された。

 犯人は元巡査で「七生義団」の東京支部長となのる黒田保久二という男。山本がただひとりこの改正案に反対しているゆえに、それが暗殺の理由である。昭和初期に続出する右翼による最初のテロであった。

 いらい左翼の会合があると、開会に当たってまず山宣の霊に一分間の黙とうをする、それがおきまりとなった。これが日本人の黙とう好きのそもそもである、という話を聞いたことがある。本当かどうか、保証しないが。

 それと山宣の脳みその重さが当時は話題になった。東大で解剖をした医者がびっくりした。「1716グラム、日本一である」と。それまで脳みその重さで有名であったのは、桂太郎の1600グラム、夏目漱石の1425グラム。これらがトップクラスに位置していたのである。山宣はその上をいった。
 ただし、脳みその重さにどんな意味があるのか、残念ながら知らない。

 この事件についてもう少し詳しく知りたいと思い、ネット検索で「弁護士会の読書」というサイトの『テロルの時代』という記事に出会った。これは本庄豊著『テロルの時代』(群青社刊)の紹介記事であるが私が知りたいと思っていた事柄が簡潔に記載されていたので紹介することにした
 この事件には実行犯(黒田)に指示を出していた大久保という黒幕がいた、最後の段の驚くべき事実が書かれている。その部分を転載しておく。
『事件の黒幕であった大久保は、千葉県知事、東京市長の要職を歴任し、戦後は代議士に当選して、国家公安委員長にまでなった。これに対して、テロリスト黒田は、1955年、北九州の遠賀療養所で、脳梅毒のため死去した。62歳だった。』

(2)3月31日
大量失業時代が生んだもの


 「大学は出たけれど……」

 企業の倒産、操業短縮が相次ぎ、「昭和恐慌」は農村の疲弊を加えて、年をおうごとに苦難さをますばかりとなった。このシワ寄せをうけたのが大学卒業生である。いまの日本と同じように、就職難は深刻度をました。

 3月末を基準にすると、率のいい理工科は1923(大正12年)に100人中88人が就職した。これが昭和に入ると1927年には76人、1928年73人、1929年66人とさがっていく。文科系はもっと惨たるもので1923年に72人であったのが、1928年46人、1929年には38人。

 そしてこの年の3月末の採用状況は、内務省調べで、大企業325社のうち、新卒者をまったく採らない社は53パーセントと、半分以上に達した。

 まさに小津安二郎監督の映画「大学は出たけれど」(1929和4年封切り)そのもののひどさであった。この大量の失業者の出現が社会不安を高め、政治不信となり、国家の前途に憂慮をうみ、多くのテロ事件、自殺や身売りの続出となり、やがて満洲事変をひき起こす因となった。

 さて、いまの日本も「大学は出たけれど」で……どこへ行くのかな。

(3)10月24日
ニューヨーク株式市場暴落


「窓を利用なさるのか」

 ギリシャ神話の中の牧神パンは葦笛(あしぶえ)を吹き、たえず美少女を追いかけている。気まぐれである。そして突如怒りだし、牛馬や羊たちを走らせたりする。パニックという語はそこからくる。

 1929年10月24日、木曜日のニューヨークーウォール街の株式取引所は朝の寄りつきから大量の売りものが殺到。1日で1300万株の売り、株の暴落がはじまった。証券市場はパニックにおちいった。

 この日破産して自殺した株屋は12名で、高層ホテルで部屋を求めると「お休みになるのか、窓を利用なさるのか」と聞かれる大騒ぎとなった。

 そしてつづいてきた大恐慌は史上最大のもの。世界中の経済を崩壊させ、ひん死の大不況がはじまる。

 この世界的大恐慌からの脱出を求めて、資本主義列強は分裂と抗争を深めていく。やがてそれは第二次世界大戦への道につながる。

 日本またしかり。生き残りを模索する。太平洋戦争への道は、大きくいえばこの日に発したのである。

昭和の15年戦争史(2)

1928年(1)~(4)

(1)1月25日
「歩兵操典」の改定


 「必勝の信念」
 たとえば、1939年夏のノモンハン事件での大敗に、日本陸軍は何を学んだか。1940年1月に「事件研究委員会」は結論を出した。

「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機・戦車・砲兵の機械化された各機関および補給の潤沢との、白熱的衝突である。日本軍は伝統の精神威力をよく発揮せり」

 このように、昭和の日本陸軍は「必勝の信念」という無形の精神要素をしきりに強調した。

 この「必勝の信念」が典範令に初めて明記されたのが、昭和1928年1月25日改訂の「歩兵操典」である。綱領のなかにある。

「必勝の信念は主として軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以てこれを培養し卓抜なる指揮統帥を以てこれを充実す」

 戦争中の日本兵士は、この信念のもとに突撃していった。物力の不足をカバーするために、やむなく強調されたことも知らないままに……。

 このように精神を鼓舞して無謀な戦争で一般兵士の死を強い続けていたのが15年戦争の実態である。

 ところで、この兵士たちを徴兵した「徴兵令」は、なんと、1873(明治6)年1月10日に制定されている。そこに至る経緯は次のようである。(山川出版社版の『詳説 日本史 史料集』を用いている。以後『史料集』と略記する。)
 1872年11月28日に出された「全国募兵の詔」の趣旨説明として太政官が「徴兵告諭」という布告を発布した。それに基づいて、徴兵令が1873年1月10日に制定される。その徴兵令では17歳から40歳の者を兵籍にのせ、20歳に達した者を徴兵した。

 1927年4月1日に公布された昭和の「兵役法」は「徴兵令」を改題・改正して成立したもので「帝国臣民たる男子」に兵役に服すことを命じた法律である。徴兵令では20歳で徴兵検査を受け、兵役に服すことを義務づけていたが、兵役法は現役期間を1年短縮し、陸軍は2年、海軍は3年とした。その後、戦争が拡大するにつれ、しばしば改正された。当然のことながら、敗戦後の1945年11月17日に廃止された。

(2)3月15日
3・15事件起こる


「床に頭をどしんどしん」

「取調室の天井を渡っている梁(はり)に滑車がついていて、それの両方にロープが下っていた。龍吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さにつるし上げられた。それから『どうつき』のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。……彼の頭、顔は文字どおり火の玉になった。目はまっ赤にふくれ上って飛び出した。『助けてくれ!』彼が叫んだ」

 作家小林多喜二の『一九二八年三月十五日』という小説の一節である。これが事実とは思えぬむごさではないか。

 この年、昭和1928年2月の第1回総選挙は投票率80パーセントの「異常なる好成績」を示した。当局の弾圧もひどく、汚れた選挙といわれながらも、再建されたばかりの日本共産党は8名の当選者をだす。そして"天皇制打倒、労働者農民政府の樹立"をスローガンに大胆な活動をはしめた。

 これに脅威を感じた田中義一内閣は、特別議会召集に先立って、治安維持法にもとづき、全国にわたる大検挙を行った。それが3月15日、世に3・15事件という。逮捕されたもの約1000名。小林多喜二も小樽でつかまったが、小説にはそのときの拷問の体験を描いている。

 1933年3月24日に長時間の拷問によって殺される。詳細は1933年の項で取り上げる。

 アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が強行採決した「共謀罪法」はこの時猛威を振るった治安維持法に例えられている。戦前の弾圧法・治安維持法に詳しい内田博文(神戸学院大学教授)さんにインタビューした記事『治安維持法の亡霊が導く「戦争国家」と「刑罰国家」』がこの事を詳しく論じている。紹介しておこう。

 さて、ここで問題になっている治安維持法は1923(大正12)年に関東大震災後の緊急勅令として公布された「治安維持令」が基になっている。25年に治安維持法が公布され、28年の改定で処罰範囲が拡大され、法定刑に死刑が追加された(このときの改悪については今回の『残日録』からの最後の引用文が詳論している。まさしく『共謀罪法』である)。そして、41年の改定で処罰範囲と死刑の対象をさらに大幅拡大する。この悪法も敗戦後、45年に連合国軍最高司令部(GHQ)の指令で廃止された。  『共謀罪法』は、アベコベを退場させて、国民の手で廃止させたいものだが、アベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相の本質を理解できずに未だにアベコベを支持している愚民が多い今、残念ながら、『共謀罪法』の廃止は難しい。

 『残日録』からの引用を続けよう。

(3)6月4日
張作霖爆殺事件


「軍紀をとくに厳粛にする」

 昭和史は日本陸軍の陰謀で不幸な幕を開けた。1928年6月4日の張作霖爆殺事件がそれである。満洲(中国東北地方)軍閥の頭目の彼を謀殺することで、混乱をひき起こし軍隊を出動、満洲全土を制圧しようというねらいである。

 計画は関東軍高級参謀の河本大作大佐により練られた。現場には中国人3人の死体を放置することも忘れなかった。そして事件翌日の新聞は、蒋介石の国民革命軍の便衣隊(ゲリラ)のしわざと報道した。

 しかし、息子の張学良の避戦主義で、河本と関東軍が夢みたような武力衝突は起こらず、これを機とした日本陸軍の軍隊の大挙出動もならなかった。そればかりか、中国の新聞や英字紙は、関東軍の陰謀であることを書きたて、そのうわさは日本内地にも広がりだした。

 昭和天皇は、陸軍出身の田中義一首相に「軍紀をとくに厳粛にするように。それによって国際信義をつなぎとめるべし」といい、責任者の厳罰を要望した。しかし、陸軍はそれに従おうとはせず、田中首相はそれに引きずられた。

 下剋上もまたここからはじまる。


 この時から陸軍は天皇の意向も無視し遣りたい放題の道を進むようになったようだ。
(4)6月29日
改悪された治安維持法


「国体の変革には死刑を」

 敗戦まで、昭和の日本人を頭から重苦しく押さえつけ、平穏な生活をかき乱し、生きづらくしていたものに治安維持法がある。この法律のそもそもは1925(大正14)年4月に公布されたものであった。

 しかし、それを真に"悪法"たらしめたのは、1928年6月29日、田中義一内閣がこれを全面的に改悪し、枢密院で可決させると同時に、即日施行した日にはじまる。

 はじめこの改正案は、野党の反対で審議未了となった。それを、政府は天皇の命令「緊急勅令」という形で改正し公布した。また日本全県の警察に特高警察課をおくことも、7月3日の勅令できめたのである。

 「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者ハ……死刑又ハ無期」と重刑になったばかりでなく「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」も罪に問われることになる。

 つまり官憲がさしたる証拠がなくとも「目的遂行ノ為」と断定すれば、治安維持法の対象となる。

 この日から日本に思想と言論の自由がなくなっていく。

昭和の15年戦争史(1)

今はまさに戦前である

 これまで、あの無謀な戦争を引き起こした時代を「美しい日本」と恋い焦がれるアベコベ軽薄姑息うそつきカルト首相が強引に引き起こしてきた戦争への道を強く危惧する記事を書き継いできたが、その戦争への道作りを許してきた世相の根底には「美しい日本」の実態を知らない人が意外と多いことが指摘できる。勿論、その人の中に、通り一遍の知識しか持たない私も含まれる。そこで、昭和の15戦争については断片的にいろいろな所で取り上げてきているが、改めて「美しい日本」の歴史を検証し直してみようと思っていた。そんな折、日刊ゲンダイの「注目の人 直撃インタビュー」で丹羽宇一郎さんが『今の日本こそ「戦争の真実」学ぶべき』という提言をしている記事に出会った。記事全体に強く共感し、多くの人に読んでもらいたいと思った。その中から冒頭の文と戦争を知らない人たちへの危惧を述べた一文を転載しておく。

『この国のトップは緊迫する北朝鮮情勢に「対話より圧力」と拳を振り上げ、設立されたばかりの新党の女性党首は「リアルな安保」を入党条件に掲げる。社会全体に開戦前夜のようなムードが漂う中、中国大使を務めた経験を持つ国際ビジネスマンである日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏は近著「戦争の大問題」で、こう訴えかけている。今こそ日本人は「戦争の真実」を知らなければいけない。』

『本当の戦争を知る人々は、その体験を自分の子供たちにも話せない。食料を奪ったり、友達の肉を食べたり。いざという時にそこまで残酷な動物となった経験を語れるわけがない。戦争は人を狂わせます。だから体験者は皆「戦争だけはやらないでくれ」と口をそろえるのに、戦争をイメージできない世代には「やろう」と粋がる人が多い。こんな怖いことはない。』

 さて、今回から私が主として用いる教科書は半藤一利さんの著書『昭和史残日録』である。簡潔でしかも学芸や芸術などの事績も含まれている総体的な歴史書であるが、主として戦争に関連した事項をたどっていくことにする。また、手元に半藤さんの編著本『昭和史探索1~6』と辺見庸さんの『1★9★3★7(イクミナ)』があり、これらをはじめ他にもいろいろな資料を利用することになると思う。

 ではさっそく『昭和史残日録』を読み始めよう。最初の戦争関連記事は1927年3月24日(昭和2年、以下年表記は西暦だけとする)の記事である。

1927年 もう一つの「南京事件」

「洋鬼子、ざまを見ろ」

 昭和二年三月二十四日、中国の国民革命軍(1905年、孫文によって結成された)による北伐は、各地で軍閥を敗走させ、ついに青天白日旗を掲げて南京入城の日を迎えた。戦闘はやみ、市内に静寂が戻ったのも束の間、「洋鬼子、ざまを見ろ」「ここは俺たちの土地だ」などと叫びつつ、一部の兵士の外国領事館への襲撃が開始された。「洋鬼子」とは外国人を罵る言葉である。

 日本領事館へは200名の兵士が突入してきた。死者こそ1名であったが、中国兵による暴行は凄惨をきわめた。とくに婦女子に加えられた暴虐は、正視するに忍びなかった。結果は、それが克明に報道されることによって、中国にたいする日本人の憎悪感を増大させ、以後の日中関係は悪化する一方となる。

 また、救援に赴こうとした海軍陸戦隊長の荒木亀男大尉は、途中で外交上の手違いから武装解除され、空手空拳で惨劇を眺めやるほかなくなった。その責任をとり後日自殺したが、遺書に「帝国海軍の名誉を傷つけられたことを愧(は)じる」の悲壮な一行がある。この報は、いっそう反中国熱をあおることとなった。昭和開幕早々のまことに不幸な、そして不運な事件であった。

 私はこの事件初めて知った。ネットに『角川 世界史辞典』(2001年10月10日初版発行)の解説があったので補充すると、上の記事では領事館を襲ったのは国民革命軍とされているが、辞典では「国民党軍あるいは共産党軍など諸説ある」とされている。また、イギリス・アメリカの領事館も襲われているが、これに対して「長江上のアメリカとイギリスの軍艦が城内に威嚇砲撃を加えた」とかかれている。

 日本ではこの事件後(6月27日~7月7日)「東方会議」が設置された。「東方会議」は田中首相兼外相主宰の下に本省幹部、在支公使、在上海、在漢口、在奉天各総領事並びに陸海軍、大蔵、関東庁、朝鮮総督府各代表者など出席して開かれた。そしてこの会議の最終日に田中首相の訓示という形で「対支政策綱領」が発表された。何の事はない、この綱領が「中国の植民地化」すなわち「昭和の15年戦争」への道を開いていく基(もとい)となったのだ。「対支政策綱領」の全文が『昭和史探索・1』にあるので、それを転載しよう。

 極東の平和を確保し日支共栄の実を挙ぐること、我が対支政策の根幹なりとす。しこうしてこれが実行の方法に至っては、日本の極東における特殊の地位に鑑み、支那本土と満蒙とに付き自ら趣を異にせざるを得ず。今この根本方針に基づく当面の政策綱領を示さんに、
一、
 支那国内における政情の安定と秩序の回復とは現下の急務なりといえども、その実現は支那国民自らこれに当ること、最善の方法なり。
 したがって支那の内乱政争に際し、一党一派に偏せず、もっぱら民心を尊重し、いやしくも各派間の離合集散に干渉するが如きは、厳に避けざるべからず。
二、
 支那における穏健分子の自覚に基づく正当なる国民的要望に対しては、満腔の同情をもってその合理的達成に協力し、努めて列国と共同その実現を期せんとす。
 同時に支那の平和的経済的発達は中外の均しく熱望するところにして、支那国民の努力と相まって列国の友好的協力を要す。
三、
 叙上の目的は、畢竟、鞏固なる中央政府の成立により初めて達成すべきも、現下の政情より察するに、かかる政府の確立容易ならざるべきをもって、当分各地方における穏健なる政権と適宜接洽(せつこう)し、漸次全国統一に進むの気運をまつの外なし。
四、
 したがって政局の推移に伴い南北政権の対立または各種地方政権の連立を見るが如きことあらんか、日本政府の各政権に対する態度は全然同様なるべきは論をまたず。かかる形勢の下に対外関係上共同の政府成立の気運起るにおいては、その所在地の如何を問わず、日本は列国と共にこれを歓迎し、統一政府としての発達を助成するの意図を明らかにすべし。
五、
 この間支那の政情不安に乗じ、往々にして不逞分子の跳梁に因り、治安を紊(みだ)し、不幸なる国際事件を惹起するの虞(おそれ)あるは争うべからざるところなり。帝国政府は、これら不逞分子の鎮圧および秩序の維持は、ともに支那政権の取締り並びに国民の自覚により実行せられんことを期待すといえども、支那における帝国の権利利益並びに在留邦人の生命財産にして不法に侵害せらるる虞あるにおいては、必要に応じて断乎として自衛の措置に出てこれを擁護するの外なし。
 殊に日支関係に付き捏造虚構の流説に基づきみだりに排日排貨の不法運動を起すものに対しては、その疑惑を排除するは勿論、権利擁護のため、進んで機宜の措置を執るを要す。
 (管理人注:この「五」が『もう一つの「南京事件」』を念頭にして書かれている。)
六、
 満蒙、殊に東三省地方に関しては、国防上並びに国民的生存の関係上重大なる利害関係を有するをもって、我が邦として特殊の考量を要するのみならず、同地方の平和維持、経済発展により内外人安住の地たらしむることは、接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。しかりしこうして、満蒙南北を通じて均しく門戸開放、機会均等の主義により内外人の経済的活動を促すこと、同地方の平和的開発を速やかならしむるゆえんにして、我が既得権益の擁護ないし懸案の解決に関してもまた右の方針に則りこれを処理すべし。
 (管理人注:「東三省地方」は中国東北地区の旧称で、黒竜江・吉林・奉天の三省があった。)
七、(本項は公表せざること)
 もしそれ東三省の政情安定に至っては、東三省人自身の努力に待つをもって最善の方策と思考す。
 三省有力者にして、満蒙における我が特殊地位を尊重し、真面目に同地方における政情安定の方途を講ずるにおいては、帝国政府は適宜これを支持すべし。
八、
 万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方における我が特殊の地位権益に対する侵害起るの虞あるにおいては、そのいずれの方面より来るを問わずこれを防護し、かつ内外人安住発展の地として保持せらるるよう、機を逸せず適当の措置に出づるの覚悟あるを要す。
 終りに、東方会議は支那南北の注意を喚起したるものの如くなるをもって、この機を利用し、各位帰任の上は、文武各官協力、もって対支諸問題ないし懸案の解決を促進することとし、本会議をしてますます有意義ならしむるに努められたく、はたまた叙上我が対支政策実施の具体的方法に関しては、各位に対し本大臣において別に協議を遂ぐるところあるべし。

歴史隠蔽偽造主義者たち(12)

「慰安婦強制連行」捏造論(5)

 前々回、政治家たちの旧態依然とした「慰安婦強制連行」捏造論を取り上げたが、最近、慰安婦強制連行を巡って「新しさを装った歴史修正の動き」があるという。特集『「南京」と「慰安婦」』の慰安婦関係の第2記事がそれについて論じている。これを取り上げてカテゴリ「歴史隠蔽偽造主義者たち」を終わることにする。

 この論考の筆者は東京外国語大学教授の金富子(キム プジャ)さんである。その表題と枕の文は次の通りである。
根拠なき新説? 朴裕河氏をもてはやしていいのか 金富子

南京大虐殺や日本軍「慰安婦」をめぐり、「歴史修正」という名の偽造を恥ずかしげもなく"外交戦略"にする日本政府と自民党だが、新しい偽造とも言うべき根拠なき主張で日本の"リベラル知識人"をも取り込んでいるのが韓国・世宗(セジョン)大学校日本文学科教授の朴裕河(パク ユハ)氏だ。その主張の何が問題なのか。

 ティル・バステイアン著『アウシヴイッツと〈アウシュヴイッツの嘘〉』(石田勇治ほか編訳、白水社)という本がある。ナチによる大量虐殺の事実と、それを無害化・否定しようとする歴史の偽造について簡潔明瞭にまとめている。欧米では、歴史を偽造する人々を修正派」と呼ぶが、その議論の中心は犠牲者数を少なく疑わせて「大量虐殺」の信用失墜を図ることだ。「証拠」を創り出したりもする。

歴史修正を外交戦略に

 日本でも1990年代後半から「修正派」の台頭が著しい。その特徴は「南京大虐殺」否定、「慰安婦」否定を政府・政治家が率先して行なうことだ。10月に中国がユネスコ(国連教育科学文化機関)に申請した「南京大虐殺文書」が世界記憶遺産に登録されたが、これに対し日本政府はユネスコヘの分担金拠出の見直しに言及した。ここでも犠牲者数が問題にされ、「虐殺」の信用失墜が図られた。

 「慰安婦」否定ではどうか。2014年8月の『朝日新聞』「慰安婦」問題検証記事をきっかけに、安倍晋三首相は国会で同年10月「日本が国ぐるみで性奴隷にしたとの、いわれなき中傷がいま世界で行われている」と述べた。自民党の国際情報検討委員会も同年9月、「慰安婦の『強制連行』の事実は否定され、性的虐待も否定された」「国連をはじめ全ての外交の場、また官民挙げての国際交流の中で、国としての正しい主張を訴え続ける」と決議した。歴史修正は、政府・自民党の外交戦略になっている。

 歴史修正の動きは政府だけでない。最近は "新しさを装う" のが特徴だ。その例が韓国の日本文学研究者・朴裕河『帝国の慰安婦』(韓国語2013年、日本語版2014年)である。韓国では話題にならなかったが、兵士とは「同志的関係」、「協力者」などの記述に対して、昨年6月に「ナヌムの家」の被害女性9人が名誉毀損裁判(民事・刑事)を起こし、一躍知られるようになった。

 他方、日本ではリベラルとされる『朝日新聞』などメディアや一部の日本人(男性)知識人が、彼女の言説を「もてはやす」という構図になっている(同書への詳細な批判は鄭栄桓(チョン ヨンファン・明治学院大学准教授のブログ参照)
 では、どこが新しく見えて、新しくないのか。

少女は「少数例外」?

 まず、「慰安婦」にされた朝鮮人少女は、「少数で例外的」という朴氏の主張を取り上げよう。新しい説である。
 朴氏は同書で、
①韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究所が編んだ証言集(『強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち』第5集、以下『強制5』、韓国語)の被害女性の証言を使って「わたしが一番幼かった。ほかはみな20歳過ぎ」
 と紹介したり、
②ビルマのミッチナで捕虜になり米軍政府情報局の尋問をうけた朝鮮人「慰安婦」20人の「平均年齢は25歳だった」
 などとして、朝鮮人「慰安婦」=少女は[少数で例外的]、しかも「軍の意思よりは業者の意思」―などと強調する。

 しかし
①について、実際に朴氏が使った証言集『強制5』をみると、証言者の連行時の年齢は皆「20歳以下」であった。
②のミッチナの朝鮮人「慰安婦」20人にしても、捕虜にされた時は「平均23歳」、2年前に徴集された時は「平均21歳」であり、しかも20人のうち未成年(国際法では20歳は未成年)が12人と過半数が少女だった。
 つまり、朴氏の「少女は少数で例外的」という新説は、創り出された「証拠」であり、根拠がない(Fight for Justiceブックレット3『朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』御茶の水書房を参照)

背景に植民地支配と差別

 次に、「性奴隷否定」説だが、朴氏だけでなく、秦郁彦氏、(THE FACTS」(『ワシントン・ポスト』意見広告)、さらに安倍首相も先述のように主張してきた。

 朴氏の特徴は、朝鮮人「慰安婦」を、未成年ではない、〈愛国〉的役割や兵士との恋愛があったとか、慰安所での日本人兵士/朝鮮人「慰安婦」の関係を「同じ日本人としての〈同志的な関係〉」を強調することだ。
 なぜか。そうした特徴をもつ日本人「慰安婦」に限りなく近い「帝国の慰安婦」=新しい朝鮮人「慰安婦」像を主張するためと思われる。ここでは、民族の支配・被支配の関係が消える。しかし、その前提には、公娼出身の日本人「慰安婦」は性奴隷ではないという認識がある。

 問題は日本人「慰安婦」への認識不足を露呈していることである。2000年「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」や、最近刊行されたVAWW RAC編『日本人「慰安婦」』(現代書館)で解明されたように、日本人「慰安婦」は公娼制度下だけでなく、慰安所でも性奴隷であった。心情的交流や恋愛があったとしても同様である。問題の核心は、偶発的な個人関係ではなく、制度にあるからだ。

 朝鮮人「慰安婦」に少女が多かったのは、政策的裏付けがある。吉見義明氏が『従軍慰安婦』(1995年、岩波新書)で明らかにしたように、第一に、日本政府による「慰安婦」徴集(選別)に関する民族差別である。日本人女性の徴集は「満21歳以上で、性病のない、売春女性」(内務省警保局長通牒、1938年2月23日)に制限されたので、植民地から「未成年で、性病のない、非売春女性」が徴集された。第二に、「婦女売買に関する国際条約」など国際法の抜け道として植民地が適用除外された。第三に、日本軍将兵の性病対策として、植民地の性経験のない未婚女性がターゲットにされた(麻生徹男軍医の意見書など)。

 つまり、徴集には朴氏のいう業者ではなく「軍・政府の意思」が作用した。もちろん朝鮮人女性で未成年がターゲットにされた最大の理由は、日本による朝鮮植民地支配と民族差別・性差別にある。

秦氏が太鼓判押す

 興味深いのは、日本の歴史修正主義のマエストロともいうべき秦郁彦氏による朴氏への評価である。「慰安婦」制度を「公娼制の戦地版」と位置づける秦氏は、朴氏を次のように評価する(「慰安婦事実を見据えるために」『週刊文春』2015年5月7・14日号、鄭栄桓氏のご教示による)

 〈筆者(=秦郁彦)と似た理解を示したのは、韓国世宗大学校の朴裕河教授である。/しかし強制連行や性奴隷説を否定し、「韓国軍、在韓米軍の慰安婦の存在を無視するのは偽善」と指摘した彼女は、慰安婦の支援組織から「親日的」だとして提訴された。〉(抜粋)

 秦氏は、朴氏が「強制連行や性奴隷説を否定し」たと理解し、それを秦氏と「似た理解」と太鼓判を押したのである(ただし朴氏を提訴したのは「ナヌムの家」被害女性9人であり、先述の挺対協は韓国軍や在韓米軍の「慰安婦」被害者を支援しているので、誤解がある)。

 一見新しく見える朴氏の「慰安婦」理解は「修正派」であり、連行や慰安所での軍の関与と強制性を否定する点でも「河野談話」の破壊に行き着く。しかしもっとも問題なのは、秦氏の「慰安婦」理解を敬遠し「河野談話」を支持するのに、秦氏と「似た理解」を述べる朴氏を「もてはやす」日本のリベラル派なのは言うまでもない。

 ネット検索で、「誰のための和解なのかー『帝国の慰安婦』の反歴史性」(鄭栄桓イム・ギョンファ訳/青い歴史)の翻訳出版記念講演会の詳細を伝える『東アジアの永遠平和のために 朴裕河対鄭栄桓「慰安婦」評価巡り激突(ハンギョル新聞)という記事に出会った。紹介しておこう。
歴史隠蔽偽造主義者たち(11)

「慰安婦強制連行」捏造論(4)

 前回の引用文中に次の一文があった。
『日本軍の占領地で直接的な暴力や脅迫による、安倍首相の言う「人さらい」のような「強制連行」があった事実も明らかになっている。』

 私たちは強制的に慰安婦にされた人たちが朝鮮や日本の女性たちだけではないこと知り記憶に止める必要がある。特集『「南京」と「慰安婦」』の「慰安婦」関連の記事の中に、成澤宗男さんがヒフレデ・ヤンセン(Hilde Janssen オランダ在住文化人類学者)という方にインタビューした記事がある。ヒフレデ・ヤンセンさんはインドネシアで「慰安婦」の調査をした方で『恥辱と潔白 インドネシアの「慰安婦」の抑圧された戦争の過去』などの著書がある。今回はこの記事を読むことにする。表題と枕の文は次の通りである。
日本軍はインドネシアで何をしたのか

自民党政権は、日本軍「慰安婦」を「強制連行していない」と主張する。だが、インドネシアの数々の実例はこれがウソだと示している。

 本文を読んでみよう。

――ヤンセンさんは20年近くインドネシアにお住まいで、2007年から日本占領時代のインドネシアで日本軍「慰安婦」にされた女性たちの聞き取り調査を手がけられました。これまで繰り返されてきた戦時性暴力の歴史において、日本軍「慰安婦」の特徴は何であるとお考えですか。

 第二次世界大戦中の戦時性暴力は、突発的、かつ短期間に発生しているのが特徴です。しかしこれほど長期にわたり、かつこれほど多くの女性たちを軍隊が暴行した例は、日本のほかにありません。しかも軍隊が「慰安所」を設置し、管理・運営するという組織性についても、際だった特徴でしょう。

――これは日本だけのシステムだと。

 インドネシアには、1941年12月の真珠湾攻撃前に日本人の医師がスパイとして送り込まれています。彼は現地の売春施設にいる女性たちの健康状態を調べ、その報告書が残っています。多くの女性たちが性病にかかって健康ではないとして、「村の協力を得て女性たちを選び、『仕事がある』という名目で『慰安所』に送る」というシステムを提案しています。実際にこの通りにしたのですが、きわめて計画的、組織的です。

「強制連行」された「性奴隷」

――日本の菅義偉官房長官は昨年の9月5日の記者会見で、インドネシアでは「(『慰安婦』の)強制連行を示しているものは見当たらなかった」と発言していますが。

 まったくのウソですね。私の調査では、「慰安所」は軍の命令で設直されたもののほか、数が足りなかったため、現地の司令官が工場等を利用し私的に「慰安所」にした例もあるのですが、いずれにせよ女性をそこに強制的に連行し、監禁してレイプし、あるいは売春を強要するというやり方は変わりません。中には映画館にいたら、兵士に無理矢理「慰安所」に連れて行かれた例もあります。さらには兵舎で日中は料理や洗濯をさせ、夜間に集団レイプするという例もありました。調査で会ったうち、「慰安婦」にされた最年少の女性は実に11歳でしたが、銃を待った兵士に対し何も抵抗できない状況のまま、「慰安所」に入れられたのです。なぜこうした例が、「強制連行」ではないのでしょう。

――外務省は、日本軍「慰安婦」は性奴隷ではないとも他国に主張しています。

 これも、明らかにウソです。「奴隷」という定義にもよりますが、「慰安婦」にされた女性たちは、入れられた「慰安所」から出ることを許されませんでした。日曜日に外出できる例もありましたが、兵士の監視付きでした。抵抗できなくされた上で監禁され、売春を強制されたのなら、明らかに性奴隷と見なしうるはずです。

 07年11月にオランダ下院は全会一致で採択した決議で、
「旧日本軍が戦時中、アジア諸国や西欧出身の女性を『性的奴隷』として働かせた」
と非難し、日本政府に元「慰安婦」への謝罪と賠償を求める決議を採択しています。こうした声に、耳を傾けるべきです。

――このような愚かな日本政府の言動に対し、どのように思われますか。

 おそらく安倍晋三首相を始めとした日本政府は、特定の国が「日本を貶め、恥ずかしい思いをさせようとしている」と考えているようですが、そうした姿勢こそ日本にとって国際社会での「恥」ではないでしょうか。二度と誤りを繰り返さないためにも、自国の歴史を直視すべきでしょう。そして何よりも、「自分たちを被害者として認めてほしい」という元「慰安婦」の声に耳を傾け、彼女たちの証言が事実であると認めるべきです。そうしない限り、彼女たちの尊厳は決して回復しません。彼女たちに残された時間が少なくなっている以上、日本政府は早く姿勢を改めるべきでしょう。

 知れば知るほど恥の上塗りを繰り返している日本の極右政治家・学者・評論家の存在が同じ国に生きている一人として穴があったら入りたいほど恥ずかしくなってくる。

(追記)
 『週間金曜日』最新号(1155号 10月6日刊)に「慰安婦」被害者を記録し続けている写真家・安世鴻(アン セホン)さんへのインタビュー記事が掲載されている。その記事にはインドネシアの他に海南島(中国)や東チモール・フィリピンでの日本軍による女性拉致事件が取り上げられている。どの例も読むに堪えないようなおぞましい事件である。

 安さんは5年前に慰安婦の写真展を計画したが、中止に追い込まれていた。その事件を裁判で争って勝訴している。今回、『重重 消せない痕跡Ⅱ アジアの日本軍性奴隷被害女性たち」』という2回目の写真展を開催していた(10月9日終了)。その写真展への思いを次のように語っている。
「周りの冷たい視線、差別、目をそむける加害国と被害国……。こうした苦痛が被害者の中に幾重にも積もっている。彼女たちと共に泣き、笑って過ごしながら、その人生の内側をレンズに収めることが、私にできる最大限のことなのです。」
 このように被害女性たちに優しく寄り添う人がいることを知り、私の心はほんのりと温かくなっている。

 この記事をまとめた「おかもと ゆか」さん(多分 岡本有佳さん)は最後を次のように締めくくっている。

まなざしに向き合う

「日本では2015年12月の"日韓合意"で、問題が解決したかのような報道が続き、日韓の市民意識のギャップは広がるばかり」
と言う安さんは今回、インターネットでのクラウドファンディングで日韓の市民に直接、資金援助と参加を求め、写真展を実現した。

 安さんは言う。
「被害者の意見を無視した『合意』であり、彼女たちの苦痛は解かれるどころか、積もっていくばかり。しかも、韓国以外の被害者たちはまるで存在しないかのようです」

 12年に起きた東京、大阪のニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件で明らかになったように、日本社会は「慰安婦」問題をタブー化し、覆い隠そうとした。しかし、安さんはニコンの中止決定に抗し、裁判で闘いながら性奴隷被害者の取材・発表を続けてきた。今回が勝訴判決後初の写具展。写真を通して被害者のまなざしに向き合うのは私たちの番だ。

歴史隠蔽偽造主義者たち(10)

「慰安婦強制連行」捏造論(3)

 前2回の今田さんの論考によれば「慰安婦強制連行」捏造論など全く無知にして無恥な者たちにしか為し得ない妄言であることは明白だ。だが哀しいかな、そうした無知にして無恥な連中が政界にはびこっている。『週間金曜日1014号』(2014年10月31日刊)が「歴史修正主義 日本の政治家に蔓延する病」という特集を組んでいる。その特集の巻頭論考を書かれているのは、このブログに何度も登場して戴いている能川元一さんである。その論考を取り上げよう。その論考の表題と枕の文は次の通りである。
なぜかくも愚かで低次元な議論がまかり通るのか
国会内外の妄言に見る「自民党・右派の醜態」

自民党や右派は、『朝日』バッシングによって自分たちの「慰安婦」をめぐる主張が正当化されたとでも思っているのか。その言動を検証すると、あまりに見当外れの暴論ばかりだ。こうした結果、世界での日本の評価を決定的に貶めている現実を彼らは理解できないのか。

 では本文を読んでいこう。無知にして無恥な政治家が続々登場する。

 安倍内閣は、『朝日新聞』が8月5日付朝刊で故吉田清治氏の「証言」を取り上げた過去の記事を撤回したのを最大限利用し、「慰安婦」問題を歪曲する試みを今日も続けている。

 自民党の石破茂幹事長(当時)は早くも8月5日当日、「検証を議会の場で行うことが必要かもしれない」と発言、『朝日』関係者を国会招致する可能性を示唆した。その後10月に、『産経新聞』の前ソウル支局長が朴槿恵(ぱくうね)大統領への名誉毀損容疑で起訴されるとメディアに強権的に介入しようとする韓国政府への批判が強まったが、自民党前幹事長がメディア関係者への恫喝ともとれる発言をしていたことも記憶されるべきだろう。

 またこの日の石破発言についてもう一つ指摘しておきたいのは、「国民の苦しみや悲しみをどう解消するか」などという転倒した課題を設定してみせている点である。これは、安倍晋三首相のお気に入りのフレーズともなった。『夕刊フジ』9月5日付の単独インタビューで、
「(「誤報」で)多くの人が悲しみ、苦しみ、国際社会において日本の名誉が傷つけられている」
と発言している。

 10月3日には、衆院予算委員会で自民党政調会長の稲田朋美議員が「吉田証言をもとに日本の名誉は地に落ちている」とし、党内に吉田「証言」の影響を検証する特別委員会を設置すると表明。これに対し首相は、
「多くの人々が傷つき悲しみ、苦しみ、怒りを覚え、日本のイメージは大きく傷ついた」
「いわれなき中傷がいま世界で行われている。誤報によって作り出された」
と答弁した。

 しかし『朝日』の「誤報」は日本軍「慰安婦」問題の全体を認識するうえでは些末なものにすぎず、国際社会に与えた影響が微々たるものであることは本誌が再三指摘してきたとおりだ。

「強制連行」はあった

 野党側からも、いち早く『朝日』の検証記事に反応した一人が、大阪市の橋下徹市長だったことは驚くにあたらない。日本軍「慰安婦」について「必要だった」などとした発言が、当人が代表をしていた旧「日本維新の会」の党勢衰退につながったと見られていたからだ。

 8月8日の登庁時の会見では、
「少しでも僕が発言したことが(『朝日』の訂正の)きっかけとなったんであれば、それはもう僕は政治家冥利に尽きます」
と自画自賛した。さらに「挺身隊」との混同や、吉田「証言」の紹介は他紙にもあったとする『朝日』の反論について、橋下市長は
「読んでいて不快に思った。自分を正当化している」
と激しく非難している。しかし橋下市長は、同じように他国にも「慰安婦」のような女性はいたとして、日本軍を「正当化」しようとしたのではなかったのか。

 この旧「日本維新の会」から分かれた「次世代の党」幹事長の山田宏衆院議員も、以前から「河野談話」の取り消しを要求しているが、今度は「談話」発表時の河野洋平官房長官(当時)の記者会見での発言が、「強制連行」に言及していことが問題だと主張し始めた(『産経』10月20日ほか)。これについては、菅義偉官房長官も10月21日の参院内閣委員会での答弁で、
「私どもはそこ(注=河野元官房長官の「強制連行」発言)は否定し、政府として日本の名誉、信頼を回復すべく、しっかり訴えている」
と同調。政府の公式な意思として、「強制連行」を否定する結果となった。翌22日付の『朝鮮日報』電子版は「菅長官が河野元長官の発言を明確に否定したのは今回が初めて」と報じており、今後反響が国外で拡大する可能性は高い。

 しかし、これまで国内の研究者、被害者の支援団体の間だけではなく国際的にも、吉田「証言」には依拠せずに就業詐欺や甘言、人身売買により、本人の意に反して「慰安所」に送られたことが「強制連行」と認識されている。また、日本軍の占領地で直接的な暴力や脅迫による、安倍首相の言う「人さらい」のような「強制連行」があった事実も明らかになっている。

 こうした前提を無視し、「強制連行」の否定にこだわればこだわるほど、首相や右派の「慰安婦」問題理解の歪みは国際社会での孤立を招いている。

 安倍首相は9月14日にNHKの番組に出演した際、『朝日』の「誤報」により「日本兵が、人さらいのように人の家に入っていって子どもをさらって慰安婦にした」ことを国際社会が「事実」だと受けとめたため、各地で「慰安婦」碑ができているなどと語った。

被害者への「二次加害」

 だが米国パリセイズ・パーク市で最初に「慰安婦」碑が設置されたのは、吉田「証言」が報じられたはるか後の2010年10月で、そのきっかけは皮肉にも第一次安倍内閣時代の07年、首相の「狭義の意味での強制性を裏付ける資料はなかった」という発言が米国で批判を浴びたためだ。事実、碑文などに用いられている「abduct」という語は、被害者を騙して誘拐する行為も指す動詞だ。

 なおこの07年には、訪米した安倍首相はブッシュ大統領(当時)の共同記者会見で「慰安婦」問題を追及された挙げ句、
「元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである」
などと発言。今になって「慰安婦」問題は「言われなき中傷」などと口にする安倍首相は、7年前と同じ発言をできるのか。

 一方で政府は、すでに「強制連行」否定への具体的な一歩を踏み出している。外務省のホームページから、「アジア女性基金」への「拠金呼びかけ文」が削除されていたことが翌10月11日に明らかとなった。菅官房長官は10月15日の会見で「政府作成の文書とそうでない文書が混在」していたため「整理」したと説明。だが、削除のきっかけとなったのは、前出の山田議員が同月6日の衆院予算委員会で、呼びかけ文の「十代の少女までも含む多くの女性を強制的に『慰安婦』として軍に従わせた」という表現を問題視する質問をしたことであり政府の意図は明白だ。

 現に韓国外務省報道官は12日、「河野洋平官房長官談話を継承するという日本政府の発言が信じられるのか疑問だ」と、呼びかけ文の削除を批判している。

 自民党の動きはさらに露骨だ。同党の外交・経済連携本部国際情報検討委員会(原田義昭委員長)は9月19日、「慰安婦」問題に関する決議を採択したが、そこでは「いわゆる慰安婦の『強制連行』の事実は否定され、性的虐待(、、、、)も否定された」(傍点引用者)と、日本軍の責任はもとより、何と「慰安所」における人権侵害そのものを否認している。すべてを吉田「証言」の「誤報」に還元する、暴論の極地というべき主張だろう。

 さらに同党の萩生田光一総裁特別補佐は10月6日に出演したテレビ番組で、「河野談話」について「見直しはしないが、新たな談話を出すことで結果として骨抜きになる」などと発言した。しかし内容面で後退した新談話を出せば事実上「河野談話」を否定したものと受けとられるのは確実で、こうした姑息な方法で内外の批判をかわすことは到底不可能だろう。

 このような政府・与党の動きは日韓関係の改善を妨げるのみならず、いまだ世界各地に生存している日本軍による戦時性暴力被害者に対する悪質な二次加害であることを、決して忘れてはなるまい。
歴史隠蔽偽造主義者たち(9)

「慰安婦強制連行」捏造論(2)

前回『「慰安婦強制連行」捏造論(1)』の引用文の続きです。
動員対象に「軍慰安婦」

 一方、当時の「動員」の対象職種に「軍慰安婦」があったことを示す、いくつかの公文書が存在する。その一つが、43年の公文書〈文書B〉だ。厚生省関連の「動員」業務の中に「軍慰安所に於ける酌婦女給等の雇入就職の認可に付ての厚生大臣への稟伺(りんし 労務調整令に依るもの)」があることを明記している。

 「労務調整令」とは、「国民徴用令」とともに、「動員」を国民に強制する法的根拠になった法令だ。日本の植民地・朝鮮にも適用された。違反すれば厳しい罰則があった。

 この公文書によると、「慰安婦」にするための「供出」の認可権限は同年12月から、それまで厚生大臣(あるいは朝鮮総督)であったものを廃止し、地方長官(内地では各県知事、朝鮮では道知事に該当)に委譲した。

 さらに、44年の公文書〈文書C〉では同年1月から、その権限を県(道)内に限り廃止した。実態の後追い措置だろうが、軍の命令と日本内地の知事の認可だけで、官憲が朝鮮で「慰安婦狩り」をできるようにしたと考えられる。

 上文中に「稟伺(りんし)」という初めて出会う熟語が出てきた。「伺」の意味は「うかがう」だから、おおよその意味は分かるが、念のため手元にある国語辞典と漢和辞典を全て調べてみたが、どこにもこの熟語はなかった。官吏だけに通用した用語なのだろうか。
 念のため、「新漢和辞典(大修館版)によると「稟」の意味は7点挙げられているが、ここで使われている意味としては「⑥つつしむ」「⑦申し上げる。奏上する」が該当する。


「極秘」の通牒が示すもの

 44年の公文書〈文書C〉には、不可解な個所が二つある。
 一つ目は、「動員」先の労働の職種を示す文字の一部が、黒い墨で消され、「(×××××××)慰安所的必要に依り酌婦女給を雇入れの場合」となっていることだ。
 二つ目は、根拠法令として示されている「昭和十六年十二月十六日」の厚生省の「第一八六号通牒」がどういうものであるのか不明なことだ。

 一つ目の疑問は、国立公文書館で、現物の公文書をよく透かして見ることで解決した。墨で消されている文字は、「○の要求に依り」だと、なんとか判読できる。「○」とは「軍」の伏せ字だろう。
 二つ目の疑問は、「極秘」という印のついた、戦中の厚生省の通牒〈文書D〉の発見で解決した。ピンク色の表紙の裏には「注意」と題して次のような文章がある。
 〈本書は労務調整令関係事務遂行上の参考資料として同令関係通牒を集録したるものなるも何れも秘及極秘扱の通牒なるを以て取扱に付ては万全を期し秘密保持に特に注意を要す〉

 通牒には12の「業態」が列挙され、その4番目に「酌婦、女給」がある。その下の説明文「認可標準」には、「○の要求に依り慰安所的必要ある場合に厚生省に禀伺して承認を受けたる場合の当該業務への雇入のみ認可す」とある。

 14歳以上25歳未満で、専門技能もなく、国民学校(小学校に相当)を卒業もしていない女子の「動員」先の職種を、官庁が指定したものだ(労務調整令第7条)。当時の朝鮮は日本内地と違って義務教育制が導入されず、朝鮮人女性の大半が国民学校に行けなかった(注4)。

(注4)
 植民地朝鮮の教育事情は、『証言・未来への記憶・アジア「慰安婦」証言集I」所収の金富子氏の論文に詳しい。


 この「極秘」の通牒は教育を受けた一部の女性を除き、未成年を含む大半の若い朝鮮人女性を「軍慰安婦」として、日本の官憲が強制連行したことを示す決定的証拠である。ちなみに、同通牒は、戦中の内務省職員、故・鈴木僊吉(せんきち)が秘蔵していたものだ。

 公文書集〈文書A〉には、「国民動員計画」による朝鮮人の「供出」が急増し、朝鮮人の逃亡や抵抗が激増するとし、次のような官憲による取り締まりの強化を説くくだりがある。

日本官憲こそ大うそつき

 〈未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝はり此等悪質なる流言と相挨って労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる…鮮内外に於ける労務者の供給確保の為には労務動員手段の強化……は必至にして……国民徴用令、労務調整令違反の根絶……労務に関する悪質流言の取締……等警察力を以て指導取締を強化する……を必要とす〉

 しかし、これまで明らかになったように、「慰安婦となす」という「動員」目的は「荒唐無稽なる流言」ではなく、官憲が必死に隠そうとした"軍事機密"だった。朝鮮人女性を強制連行した当時の日本官憲こそ、大うそつきである。

 いま、「慰安婦の強制連行を示す証拠はない」などと、戦中の日本官憲と同じ立場に立った言説を、安倍政権や右翼タカ派の学者らが繰り返している(注5)。歴史を歪曲することは許されない。

(注5)
 秦郁彦氏『慰安婦と戦場の性』(99年、新潮社)は、「慰安婦となすがごとき…流言」を「(朝鮮)総督府では単なるデマではなく、一種の反日謀略ではないかと疑っていた」と、当時の日本官憲の発言を正当なもののように紹介している[368頁]。


 またしても歴史隠蔽偽造主義者の破廉恥親玉・秦郁彦が登場している。
歴史隠蔽偽造主義者たち(8)

「慰安婦強制連行」捏造論(1)

 私はこれまで「慰安婦問題」については詳しいことはほとんど知らなかった。真実を度外視した議論に騙されないために、今回はその問題の真実を知ることが第一の目的である。

 ではまず、歴史隠蔽偽造主義者たちは「慰安婦問題」の何を問題にしているのか。「慰安婦」と呼ばれる人たちがいたことは否定していないようだ。その人たちが強制連行さていたという点を捏造と騒いでいるらしい。

 今教科書にしている週間金曜日の特集の慰安婦関係の記事は6件もある。とても全部を取り上げることはできないが、ともかく第1記事をよんで問題の要点を把握することにしよう。

 第1記事の表題と論説者は次のように紹介されている。
『朝鮮人女性「年間1万人」強制連行の動かぬ証拠』
 第二次大戦末期、日本の植民地だった朝鮮から朝鮮人女性を集めて日本内地や国外に送る強制連行が、1944年度の「国民動員計画」だけで年間1万人に及んでいたことが、新たに見つかった「極秘通牒」などの戦時中の公文書でわかった。文書を発見したジャーナリスト・今田真人(いまだ まさと)さんが「官憲による慰安婦狩り」の真相に迫る。

なお、論考文末に次の注記がある。
『※記事で引用した公文書の表記はすべて、旧字体の漢字を新字体に、カタカナをひらがなに改めた。』

 では、本文を読んでいこう。

公文書で明らかになった官憲による「慰安婦狩り」

 最近、戦中の日本政府の対朝鮮支配機構=朝鮮総督府関係の公文書〈文書A〉を読んでいて、アッと驚いた。

 その中に、「昭和十九年度内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」という表があったからだ。朝鮮人女性1万人の「供出」を、朝鮮13道(日本の都道府県に相当)に割り当てている。  昨年、「朝日新聞」などで「信憑性」を問われた故・吉田清治氏の43年5月の「200人の慰安婦狩り」の舞台、済州島は当時、全羅南道に属した。公文書では、その全羅南道で「女1500人」の供出が目標とされている。吉田証言を裏付ける資料ではないか。

(管理人注)
 ここに出てきた吉田証言の核心は「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」という記事であったが、のちに朝日新聞が誤記事として取り下げた。これを捉えて右派のマスコミや論客が「吉田氏の発言をうのみにして報じた」と朝日バッシングを始めるとともに、この吉田証言を「慰安婦強制連行は捏造だ」という主張の最重要論拠として用い始めた。


 次の節では戦時体制下での国家権力(1%)が99%を消耗品扱いする恐ろしさを表徴する「国家総動員法」が取り上げられていて、その恐ろしさを詳細にたどっている。

秘密協定による"奴隷狩り"

 当時の日本政府の官庁の一つ、企画院(43年11月から軍需省)は39年度から44年度まで、国家総動員法に基づき、戦争遂行のための日本人などの「勤労動員」を、「国民動員計画」(41年度までは「労務動員計画」と呼ばれた)として、毎年度立案し、閣議決定した。

 「計画」は日本政府と朝鮮総督府との片務的な秘密協定(注1)により、当時、日本の植民地だった朝鮮にも適用された。このため、朝鮮人にとっては、異民族政府の官憲による事実上の"奴隷狩り"に転化した。

(注1)
 国立公文書館所蔵の公文書集『公雑纂・昭和十七年・第八巻・内閣に所収の公文書「極秘・労務関係例規集」中の「昭和十六年度労務動員実施計画に依る朝鮮人労務者の内地移入要領(昭和十六年十一月二十日協足)」など。


 ところで、先の公文書〈文書A〉の中にある「男29万人」は、44年度の「国民動員計画」(注2)に計上されている公式人数と同じだ。だが、同「計画」の公式な朝鮮人女性の朝鮮外への「供出」は、各年度とも「―」、つまり「ゼロ」とされている。

(注2)
 同館所蔵の公文書集『昭和十九年公文別録・国家総動員計画及物資動員計画関係書類三』。


 同公文書〈文書A〉には、39年度から44年度までの「国民動員計画に依る計画数」という一覧表も掲載されている(次ページの表参照)。  不思議なことに、朝鮮人の朝鮮外への「供出」の合計数は、「公式な国民動員計画」を40年度から各年度、1万~3万人程度上回っている。44年度は1万人上回るが、それは女性の「供出」1万人とも一致する(同表)。

 上で「表参照」と書かれている表を転載しておこう。
国民動員計画

計画に「女性なし」?

 この点について、戦中に発行された43年度「国民動員計画」の解説書(注3)を発見し、謎が解けてきた。

(注3)
 国会図書館所蔵の政府当局者の解説書『企画院第三部・山内第二課長講演、昭和十八年度国民動員計画の解説』(43年7月15日、生産拡充研究会、非売品)。


 同書の中の朝鮮人女性の朝鮮外への「動員」についての質疑応答部分を引用する。
▽質問
 朝鮮人はどのくらひ使つてをるでせうか。
▼課長
 数ですか。…毎年入れるのは其の年によって相違はありますが、最近は計画上は大体十二万位です。けれども出て行くものもあり期間満了によって帰鮮するものもありますからそう沢山の増加は致しません。
▽質問
 それは男子朝鮮人だけですか。女子はをりませんか。
▼課長
 をりますけれども計画の中で女子をのせたことはないのです。たゞある方面で必要上少々女子を集団移入として入れたものもあります。

 同解説書は、朝鮮人女性の朝鮮外への「供出」を公式な「動員計画」に載せてはいないが、秘密裏には実施してきたと告白している。公式な「計画」と朝鮮総督府の公文書との差は、朝鮮人女性の朝鮮外への「供出」数を示している可能性が大きい。

 (次回に続く)
歴史隠蔽偽造主義者たち(7)

「南京大虐殺」捏造論(3)
 前回の記事「歴史隠蔽偽造主義者たち(6) 「南京大虐殺」捏造論(2)」の続きです。

 今回の記事の中の、特に秦郁彦の言動を見ると、歴史隠蔽偽造主義者たちが全く恥じることがなく合理性のないウソを突きつづけている心底にある目的を垣間見ることができる。

 これは山田支隊が実行した虐殺ではないのですが、秦氏は草鞋峡で起きたことはすべて山田支隊のやったことにしたいようです。でないと、彼の言っている「軍民合わせて4万人」という虐殺数 のつじつまが合わなくなってくる。だから秦氏は『南京事件』増補版で、魯甦証言の虐殺日を「18日」から「17日」に移動させることまでやってのけています。しかも、捕虜虐殺の責任を参謀に押しつけ、上海派遣軍司令官だった朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将(注6)の命令を巧妙に隠そうとしているようにも見えます。

(注6)朝香宮鳩彦王中将は皇族の軍人。1937年12月当時は南京攻略を担った上海派遣軍司令官を務めたが、戦争責任は問われず、戦後、皇族を離れた。

能川
 フジの番組でも言っています。「松井司令官(注7)は釈放しろと言った」。けれども、参謀の長勇(ちょういさむ)が従わなかったのだと。

(注7)中支那方面軍司令官だった松井石根は南京虐殺の責任を問われ、東京裁判で死刑判決を受け、処刑された。

小野
 そんな一参謀の判断で勝手に何万人もの捕虜虐殺ができるわけがないですよ。この大虐殺の翌年、1938年1月24日付の『磐城時報』という地域紙に、敗戦後、参院議員や衆院議員を経て福島県知事になった木村守江がこう書いています。
〈捕虜二萬余の始末に困った〉〈捕虜をどうしたかと言ふことは軍司令官の令に由った〉
と。木村は第65連隊第一大隊の軍医でした。軍司令官というのは皇族の朝香宮。秦氏はその責任を覆い隠そうとする。

能川
 番組に出演された山田朗氏も言及していましたが、日本は満州事変(1931年)以降、「臨陣格殺(りんじんかくさつ)」といって、捕虜をその場で殺してよい方針が「暫行懲治盗匪法」に規定されました。否定論者は兵士の捕虜を殺したのは戦争だから仕方がない、問題は民間人の殺害だなどと言っていますが、日本も批准していた戦時国際法では民間人はもとより、降伏した捕虜を保護しなければなりません。

ネット内での反響

――NNNドキュメンタリーの話に戻りますが、番組の反響などについて能川さんはどう見ていますか。

能川
 ネット内ではちょっと異例と思えるほど、右派からのネガティブな反応が見られませんね。「今のご時世でこれを放映するのはエライ」などという反応が多い。否定派からは意味のある反応はほとんどなく、「捏造だ」などという定番の拒否反応だけです。「(中国側の主張する虐殺数)30万人はありえないと思っていたが、これを見たらあり得ると思った」という反応もありましたよ。
 私は08年のドキュメンタリーも観ましたが、それに比べると今回は非常に気を遣っているなと思いました。好評の理由として、「きちんと裏をとっている」というのが多かったのですが、今回は日本兵の日記さえも裏をとるところを見せていました。08年のときとは違って「元兵士の日記」ですら目に見える裏づけがなければ受け容れられないという風潮をスタッフが感じたのか、と思いました。

――なぜこの番組が好評を博したのかと思われますか。

小野
 南京大虐殺を詳しく知っている人から見れば、不満の残る内容であったかもしれませんね。しかし、きちんと裏をとる、現場を踏むという清水潔さん(NNNドキュメンタリーのチーフディレクター)のスタイルが徹底していて、これなら確実というところだけを表に出していますね。

能川
 ただ、確実なところ、異論の出にくいところだけにすると、逆に全体像が見えにくくなることもあります。否定派は南京大虐殺の証言について「伝聞ばかりだ」などと批判しますが、大量虐殺というのは元々、証拠自体を消す「二重の殺戮」です。目撃者も殺してしまうから直接証言が出にくい。証拠がなければ事実ではないというなら、あらゆる大量虐殺が否定されてしまいます。

小野
 被害証言の声だけを集めても説得力がない。加害側の記録や裏づけをしつこいほどにとることが大事だと思います。

――小野さんが約20年で収集した「陣中日記」は31冊にのぼるとか。

小野
 はい。最後の一冊は非常にユニークな形で人手しました。何度も訪ねていた家なんですが、「3・11」の地震で蔵がつぶれて、「日記がありました」と遺族の方から電話が入ったのです。原発事故もあり悶々としていた時期でしたので一瞬、気分爽快というか……。しかし残念ながら、78年もの歳月が経ってしまった南京問題は今後、資料を収集するのも困難です。

能川
 ますますテレビも取り上げなくなり、新聞も新しい証言などがないと扱いにくい。一方で、右派は新味がなかろうが同じことを何度も繰り返す。知らない人はそれを見ると、まるでとても重要な ことのように思ってしまいます。

歴史とどう向き会うか

――南京大虐殺の犠牲者数は東京裁判では20万人以上、中国側は30万人、日本では数万人とかもっと少ないとの主張もあります。80年近く経つのに加害国として自分たちのやったことの歴史検証ができず、大虐殺の事実を矮小化したり、あわよくばなかったことにしようという自称・歴史家やメディアがいるのは恥ずべきことです。今後、どう歴史に向き合ったらよいのでしょうか。

小野
 侵略=加害の認識をどう広めてゆくかが課題でしょう。マスコミの問題は大いにありますが、それとともに一つひとつの部隊が南京でどう行動し、何をやったのかを明らかにしていくことが我々に課せられた大きな課題。この点の解明が一番遅れているのです。

能川
 否定派は兵士であれば捕虜でも殺していいなどと言うが、広島原爆の被害者から軍人を除こうとは言わない。日本の被害についてはその論法を使わないんです。あくまで南京での違法な虐殺だけを犠牲者とし、しかもその数を恣意的に減らそうとする。かりに新しい資料が出なくても、これまでの証拠や資料をどう受け止めるのかも大事で、こうした否定派のやり方を認めてはいけません。

小野
 数の問題ではないのです。俺が調査した元兵士はこう言いました。「南京で歩兵第65連隊が大量の捕虜を虐殺をしたことは事実だ。誰が否定しようとも否定できない。しかし、毎日、夢の中に出てきてうなされる捕虜の顔は上海で虐殺した一人の捕虜の顔だ。虐殺したとき、こちらに迫ってくる顔がどうしても忘れられない」。南京の大虐殺は一人ひとりの兵士にとって捕虜の顔の見えない大虐殺だったのですね。