2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(43)

年若い死刑囚A君(6)

 ②「わが友」は『永遠の不服従のために』の刊行記念サイン会での思いがけない二つの出来事をめぐって話が進められている。一つは「爆弾をしかける」という脅迫電話があったこと。辺見さんの死刑廃止論やブッシュのポチ・コイズミへの批判に腹を立てたネットウヨ並の人の仕業だろうか。もう一つはA君の母親がサイン会に現れたという思いがけなくも嬉しい出来事。最後にはA君の起こした事件のことにも触れている。『不服従』の発行日は2002年10月10日だから、「わが友」の内容はそれ以後の出来事である。枕にはA君からの手紙からの一文が使われている。

このところ自分の体臭が感じとれなくなってきました。死期が定められている者には、どうやってもその死臭から逃れられないといいますし、ということは、ニルヴァーナ流に言うなら、僕はもう既に生者のそれではなくて、死者の臭いを漂わせつつあるということなのでしょうか? (友人Aの手紙から)

 この連載を一冊にまとめた『永遠の不服従のために』の刊行記念サイン会をした。いつもなら、麗々しい儀式を恥じ入る気持ちと闘いながらやるのだが、今回はちがった。事前に「爆弾をしかける」という脅迫電話が入ったものだから、恥よりもなによりも、私は緊張で身構えていた。襲われてもすぐに飛び退くことができるように椅子に浅く腰かけ、机の下の脚をスタートラインの陸上の選手みたいにくの字に曲げ、両のくびすは終始床から上げていたのである。顔はなんとか平静を装っていたつもりだが、会場にみえた読者のなかにはものものしい空気に不快を感じた向きもおられたであろう。とりわけ、駆けつけてくれた友人Aのお母さんには申しわけなく思っている。警戒のあまり、日々の心労をいたわる言葉も満足にかけることができなかった。Aにくれぐれもよろしくといったつもりではあるけれども、やや上の空だったかもしれない。もっとゆっくりと心をこめてお話しすべきであった。そのことをいま悔やんでいる。

 Aの母堂がくるなど夢にも予想しなかった。お母さんは心もち肩のあたりが削げたようだ。驚く私の顔を見て、彼女は声を殺すようにして話した。息子からこのサイン会に行ってくるようにといわれたのです。息子は新聞の広告でこれを知ったのです。サインの為書きには息子の名前をしたためてほしいのです、と。Aは私の最良の読者の一人である。あれほどの読解者はそうそういない。彼のことを私は三日と忘れたことはない。嬉しかった。獄中のAには私の本のほとんどをすでに差し入れた。だが、確定死刑囚となったいま、近い親族ではない私には面会することもこの新刊を差し入れることも手紙を送ることもできない。世界でも最悪クラスの拘置所制度のゆえである。だが、これできっと母からAへとこの本は渡ることになるだろう。サインする私の手が震えた。脅迫電話とAの母との再会の二つに動揺し、声は抑えても抑えても上擦ってしまった。

 風の便りに、Aがハンストのようなことをしたと聞いていた。食事になにかの虫が入っていたことに腹を立てたのだという。日に十数回も石鹸で手を洗うほど潔癖性の彼のことだから、大いにありうる。ことの顛末がどうだったか、私は母堂に訊ねる余裕もなかった。教誨師を頼んだらしいという話も耳にした。けれども、その人物が死刑制度反対の立場だったので、拘置所側が教誨師として認定せず、不首尾だった、とも。明文化されてもいない拘置所のこうした「規則」が平気で憲法を食い破っている。名古屋刑務所刑務官の受刑者に対する暴力事件が明るみにでたが、東京拘置所には同種の問題がないのか。これらの話を私はAの母とすべきであった。けれども、頭の三分の一ほどが脅迫電話のことで占められていたために、あらためてお会いして話す約束も取りつけないでしまった。母堂は背をまるめ、私の本をおしいただくようにして帰っていった。

 帰宅してから、Aの手紙を資料箱から取りだして読み返した。桜マークのなかに東京拘置所の「東」が印字された便せんからは、もうかなりの時をへているのに、濃い石鹸のにおいが褪せもせずむせるほど漂ってくる。刑が確定する直前の手紙のなかに冒頭の文章はあった。10ヵ月以上も前である。あの時点から、みずからは嗅ぎとることのできない死臭をそこはかとなく感じて苦しんでいたのだとしたら、刑が確定したいまはどうなのだ。明日かもしらん。数年先かもしれない。いつくるのか、死の直前まで告げられない絞首刑の時を、この先、あの青年はどうやって待つことができるのか。そんなようなことをくさぐさ思いめぐらしていたら、脅迫電話など暴風雨のなかでひる屁のようにどうでもいいことのように思えてきた。これは私の悪い癖で、おい、くるならきてみろよ、どうだ、その気ならサシでやろうじやないか、と自棄にまがう心もちにもなった。これはしかし自棄ではない。Aの魂が私に入りこんできたのかもしれないのだ。たぶん、ほのかな死臭ごと。

2017/07/21(金) 永遠の不服従のために(39) 年若い死刑囚A君(2)  彼の手紙には
「今でこそシアトルというとイチローや佐々木ですが、僕らの世代はシアトルの陰鬱な空=カート・コバーンでした」
という個所もあった。私がコバーンが結成したニルヴァーナの音楽のことを書いた(『永遠の不服従のために』の4「奈落」所収 この記事は『年若い死刑囚A君(2)』で紹介しました。)とき、Aが手紙でつよく反応してきたのだ。E・クラプトンなんかより、じつはニルヴァーナのほうがよほど好きだったのだ、と。どうやら、クラプトンの話は私の歳に合わせてレベルダウンしてくれただけのことだったようだ。油断ならない。Aが犯行時に使った車には、伝説的アルバム『ネバーマインド』かなにかも積みこんであったようだ。彼が人々を死に至らしめたときも、頭蓋の奥でニルヴァーナのホワイトノイズが鳴り響いていたかどうか、事件の鍵をにぎる少女と車のなかでいっしょにそれを聴いたか、私にとっては大事なことなのだが、いかなる法廷資料にもそれは記されていない。彼とそれを話すチャンスもなくなってしまった。Aは書いていた。
「コバーンが銃で頭をぶちぬいて自分を消去した のはたしか27歳の時でしたが、僕はいつの間にか彼の歳を追い越してしまいました」。
 コバーンが自殺する2年前、Aは数人を刃物で死に至らしめ逮捕されている。自死は拘置所で知ったはずだ。
「もう何年もニルヴァーナを耳にしていませんが、今はここでも唯一水曜日午後6時から6時50分までの間、FMで洋楽専門のリクエスト番組が流されているので、僕の脳みそが飛び散るまでは、いつか一度くらいは聴くことができるかもしれません」
とも彼は書いてきた。ずっと忘れていたが、いつかその番組に曲をリクエストしてみようと思う。Aの耳に届くかわからないが、「WHERE DID YOU SLEEP LAST NIGHT」を頼んでみよう。

 夜半に、Aが刃物を突きたてた人々の死体の現場写真を見た。私はまれに、そのようなことをして自分をたしかめる。刃物が突き刺された臓器をいちいち取りだして撮影した司法解剖の映像をも正視してみた。酷(むご)い。あまりに酷い。血がにおいたち、死臭が私の部屋にも満ちてきた。それでもAに対する死刑執行に反対するか、自問した。ややあって自答した。絶対に反対する。そして、眼に見えぬ私への脅迫者に対し、もう一度つぶやいた。おい、くるならきてみろよ。

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永遠の不服従のために(42)

年若い死刑囚A君(5)

 カテゴリ「年若い死刑囚A君」を始めたときの予定では前回が最終回だったが、『年若い死刑囚A君(2)』で取り上げた「A君が起こした事件の不可解さ」が宿題として残っていた。『永遠の不服従のために』にはこれまでに紹介した以外にA君を取り上げた記事はないので、辺見さんのその後の著作の中のA君を取り上げている記事を調べてみた。『いま、抗暴のときに』の①<第1章「大量殺戮を前にして」の第4節>と②<第6章の第1節「わが友」>の2記事と、『抵抗論』の③<第Ⅲ章の第6節「夢の通い路」>がA君を取り上げていた。その後の辺見さんとA君との関りも知りたいし、もしかすると宿題を解く鍵がその中にあるかもしれないと思い、①②③を用いて「年若い死刑囚A君」を続けることにした。

 最高裁の判決により確定死刑囚となったA君には近親者や弁護士以外は面会できない。近親者や弁護士から情報を得ることもあるが、辺見さんとA君の関りは主として手紙のやり取りによって続けられていた。

 では①から読んでみよう。ときはブッシュがイラク侵略をほのめかしていた時期であり、辺見さんの論考は死刑執行と気違い染みたブッシュによる国家テロリズムの同義性議論へと発展していく。

4
 拘置所にいる年若い友人Aが、医務官から高血圧、高脂血症などを指摘され、努力してもっと痩せるようにといわれたそうだ。Aに接見した弁護士がメールで伝えてくれたのだが、ろくに運動もさせてもらえないのだろうから痩せろといわれてもすぐには難しかろうと私は反射的に想像したのだった。しかし、すぐにその思いをぐいっと呑みこんで、わきまえのなさを羞じた。彼はいわゆる確定死刑囚という身の上だからだ。いずれ絞首刑を執行しようとしているくせに、痩せろも太れもないだろう。重い意識の底でAはおそらくそう無言で反駁したのではないか。死刑をとりやめるというのならまだしも、時いたれば縊(くび)り殺すというのであれば、高血圧だろうが高脂血だろうが関係はないだろう、と。いつくるかわからない死に向き合わされている身としては、自棄の気分も手伝ってそのように反発するほうが自然かもしれない。勝手な想定をもとに、私はAと架空の問答をはじめる。

 「それでも、しぶとく健康でいたほうがいいよ。再審請求が通るかもしれないし、死刑制度が廃止される可能性だってあるのだから」
 「死刑を宣告し、同時に健康でいろと命じるのはおかしいとは思いませんか。それに、ぼくの耳にはもうカウントダウンの声が聞こえているのですよ」
 「幻聴だよ」
 「いや、心のなかでみんながカウントダウンしている。それがすごい音になるんです……」
 問答は無限につづく。

 友人Aのことを胃袋のなかの鉛の塊のように意識したまま、私はイラク攻撃に関する米国メディアの報道資料を読んでいる。戦争狂ブッシュは一月末、イラクの武装解除を促す外交努力について「数力月ではなく数週間の問題だ」と述べ、二月中にも査察を打ち切り、武力行使に踏み切る可能性をほのめかしている。読みつつ、世界中がカウントダウンしているように思えてくる。無声の唱和なのに、すさまじい轟音となって耳朶(じだ)を打ってくる。それが、架空問答でAが聞こえているといったカウントダウンと重なる。このことをなんとかしてAに告げたい衝動にかられる。Aはどう応じるだろうか。あのやや皮肉っぽい笑顔で<ぼくの死刑の問題とそれとでは根本的に次元がちがいますよ>とでも力なくいうのだろうか。私はしかし、相通じるところがどこにもなさそうな、無限小と無限大にも見える二つのことがらに、アフガンヘの攻撃の際もそうだったが、ほぼ同質の背理と「絶対暴力」とでもいうべき不条理を感じている。絶対暴力は生身の人間を強引に抽象化し数値化し記号化し、抹消可能なもののように概念化するところから立ち上がる。国家というのは、その根源において、死刑執行と戦争発動を闇の回廊で秘かにつないでいるのではないかと私は疑う。どこまでも暗視せよ。あの闇を見澄ませ。私は自身にそう命じる。

 一月下旬のロサンゼルス・タイムズは、軍事アナリストらの話として、米軍がイラク攻撃に際し、戦術核の使用をも選択肢に入れて研究を進めていると伝えている。そういえば2002年1月、ペンタゴンは「核戦力体制見直し」案を議会に提出した。以後、「低出力・精密誘導核兵器」の開発を進めて、通常兵器と戦術核兵器の垣根を取り去る政策を実行しようとしている。同紙報道は、米国が単なる抑止力というより実際に「使える核兵器」を、ここにきて本気で実戦使用する気構えになりつつあるということを裏づけているわけである。イラクによる大量破壊兵器製造の可能性をなじり武装解除を執拗に迫る米国自身が、大量破壊兵器をどの国より大量に保有、製造し、それをイラク攻撃で場合によっては使用するかもしれないというのだ。この途方もない不合理と絶対暴力にいま世界中が呑みこまれている。

 絶対暴力に抵抗するには、いかに精緻であれ論理的思考だけではおそらく無理であろう。絶対暴力への不服従。それは人間の抽象化、数値化を拒み、想像力の射程を無限に伸ばし拡大することにはじまるのではないか。思考のあらゆる局面に、常に個体としてのリアルな人間身体を措定するのである。たとえば、「戦争の風景」と題した想像の画布に、バグダッドに住む特定個人の身体を置き、被弾した彼や彼女の脳みそと臓腑、血と肉片と骨片が、数メートル四方に飛び散る、カラフルにして酸鼻の様をいちいち思い描かなければならない。翻っていうならば、健康であれと命じられながら死刑の執行を待たされている友人Aは、私にとって無色、無臭、透明の数値としての確定死刑囚の一人ではありえない。長い拘置所生活でブロイラーのように肥えてしまった、たぶん百キロはとうに超えたであろう躰をかかえて、来る日も来る日も酷い記憶にさいなまれ、祈り、怯え、悔い、怒り、自棄し、妄想し、何度も何度も彼自身の想念のなかで絞首刑を執行されている、断じてA以外ではありえない、痛々しい個体としての身体なのである。絶対暴力に抗うこの二方向の想像力はめぐりめぐってどこかで結ばれるのではないか。私はそう願う。

 先日はCBSニューズ・コムを読んで絶句した。ペンタゴン関係者らはイラク攻撃開始日を「Aデー」と呼んでいるのだそうだ。airstrike(空爆)の頭文字をとったのだ。現在の戦争計画がそのまま実行されるならば、「3月のある日、空軍と海軍は三百から四百基の巡航ミサイルをイラクの目標地点に撃ちこむであろう」という。たった一日で、である。これは前回湾岸戦争の約40日間でイラクに放たれた巡航ミサイルの総数をさらに上回る数字だという。この戦争計画によると、Aデーの翌日にはさらに三百から四百基の巡航ミサイルを発射する予定というから紛うかたない大量殺戮である。「衝撃と畏怖」(shock and awe)作戦とも呼ばれるこの猛爆により「バグダッドには安全な場所などなくなる」と軍事当局はいい放っているという。これは物理的破壊というよりイラク軍の戦意を一気に喪失させる「心理的破壊」をねらったものというが、二日間で六百から八百基の巡航ミサイル発射というのは、原爆投下を除けば人類史でもっとも破壊的な作戦となるのではないだろうか。ある軍事関係者は「数日とか数週間とかでなく、数分間で」戦意喪失にいたらしめた広島への原爆投下にこの作戦をなぞらえているというから、無神経ももはや狂気の域にたっしているといっていいだろう。

 米国の軍事当局者らにあっては、かつてアフガンに対しそうであったように、イラクの人びとを米国人と同じ壊れやすい人間身体としては認めず、人外のなにかか、あるいは疎ましい記号か屑のようにしか意識していないようだ。きたるべきブッシュの戦争とそれに付き従おうという小泉政権の政策に、私がいささかの躊躇もなく反対する根拠はそこにある。そのことを、私はだれより獄中のAといま静かに静かに話してみたい。

永遠の不服従のために(41)

年若い死刑囚A君(4)

 「戦争Ⅷ(最終)節」が「年若い死刑囚A君」を論じていたので「年若い死刑囚A君」というカテゴリを設けて少し前の関連記事を取り上げてきたが、今回はこのカテゴリの最終記事として「戦争Ⅷ(最終)節」を読むところにたどり着いた。今回の記事に表題を付けるとすれば、本文中で使われている言葉「愚者の群れ」が最適だろう。では本文を読んでみよう。

 書こうとして書きそびれていたことがある。私がアフガニスタンに行っている間に留守宅に届いた手紙のことだ。差出人は、以前この欄で何度か触れたこともある年若い死刑囚A君である。一読して私は唸った。風景を見とおす彼の視力の冴えに舌を巻いた。なによりも皆が知っておくべき重大な事実の指摘があった。そのことを読者に早く紹介しなければならないと思いつつ今日まで遅れたのは、いいわけにもならないけれど、もっぱら私の怠惰と9・11テロ以降とくにつのっている思考の混乱のせいである。ただ、出来事そのものは旧聞に属するとはいえ、彼が難じた風景は時の経過にもいっかな色あせない、いわば永遠に忌むべき普遍性をもつ。その風景、題すれば「愚者の群れ」とでもなろうか。

 2001年12月27日のことである。午前中、A君のいる東京拘置所の刑場で、66歳になる確定死刑因に対し、絞首刑が執行された。手紙によると、

「昨日までは『風邪ひくなよ』などと言われていた人間が、そう口にしていたほうの人間によって突然連れていかれ、吊されてしまいました」。
 この日の朝には、名古屋拘置所でも一人が絞首刑に処されている。仕事納めの前日、しかも「大安」なのに、国家が無理矢理二人を絞め殺したのにはそれなりの理由があろう。慮(おもんばか)るに、2001年は12月26日まで死刑執行はなされていなかったのだが、法務省の死刑制度存置派の官僚としてはどうしても執行ゼロ年としたくなかったからであり、冷血女史、森山法相がそれに諾々(だくだく)と従ったからである。

 この国には、なんとしても年間に何人かの囚人を殺したいと考えている役人が少なからずいて、1998年11月には国連人権規約委員会から死刑廃止に向けなんらかの措置をとるよう政府が勧告を受け、2001年2月にはEUから前年の死刑執行に関して抗議され、さらに同6月には欧州評議会からも2003年1月までに死刑廃止に向けた有効な策を講じるよう求められていたにもかかわらず、それら国際世論を足蹴にするかのように、暮れの絞首刑を強行したのであった。執行が年末まで遅れたのは、死刑反対の声を避けるために国会の閉会を待ったことと、管見(かんけん)によるならば、皇太子妃雅子さんの出産にかかわる慶祝ムードに法務当局が配慮したことにもよるであろう。蛇足ながら、天皇制と死刑制度の関係はこの国の暗部で不可思議な階調の妙をなしていると私は思う。

 A君の手紙はそうしたことには言及していない。ある意味でもっと大事な事実について語っているのである。手紙によると、東京拘置所には死刑執行の前日から多数の報道陣が詰めかけてきていて、徹夜で待機していたのだそうだ。また、拘置所内では「一部の職員を除き、ほとんどの者が何やら楽しそうにばか話をして騒いでいました」という。塀の内も外もなんだかいつになくにぎわっていたということである。もちろん、死刑執行が楽しくて、ということではないのだ。前日から押しかけてきていた記者団は、死刑の執行を取材しにきたのではない。それならば、まだ救いがあるのだが。彼らはその時点で絞首刑の執行について知ってはおらず、事前に知る手だてをもっていないし、また、切実に知ろうともしていない。ごく一部の例外を除き、国家による殺人行為には総じてさしたる関心がないのである。

 それでは、拘置所職員らが笑いさんざめき、記者団が糞バエのごとくたかり群がってきた理由とは、ぜんたい、なんだったのか。A君の手紙はいう。サッチーこと野村沙知代さんだったのだ、と。法人税法と所得税法違反で起訴されていた彼女は拘置所で絞首刑が執行された同じ27日、高額の保証金を納付して保釈されることになっていたのだ。この日の毎日新聞によると、東京拘置所にはこのゴミネタのために、なんと二百人もの報道陣が押しかけ、午後3時半すぎ、グレーのジャケット姿のサッチーが現れるや、「いまの心境は?」などと、まことに立派な質問を浴びせたのだそうである。A君の手紙はいう。
「外ではサッチーが保釈になり大騒ぎ。ヘリまで出して、高速を追いかけていきました。今朝刑場で吊された人間のことなど、誰一人目もくれません。異常な世界です。本当に異常なほど"平和"です」
 異常なほどの平和。たぶん、それは平和ではない。戦争を体内に併せもつ、腐った平和であろう。で、A君の手紙は推理するのである。
「サッチーに群がった報道関係者は、死刑執行のカムフラージュに使われたのではないでしょうか」。
 記者団が発想しなければならないことを、A君がしている。逆に、糞バエのようにあちこちを飛びまわる愚者の群れが、風景の実相を徹頭徹尾隠蔽している。絞首刑執行とサッチー保釈という二層の風景の芯と全体像を見とおし、正しく絵解きしていたのが、メディアではなく、一切の自由を奪われている死刑囚であったとは、まさに皮肉なものだ。そういえば、彼と同じ確定死刑囚、大道寺将司氏も驚くほど炯眼(けいがん)である。

「花影や死は工(たく)まれて訪るる」(『友へ 大道寺将司句集』)

と詠んだのだから。権力に庇護された糞バエどもの、いったい、だれにこれほどの深い視力と技と心があろう。

 国家が密室で二人の人間を縊(くび)り殺し、マスコミがサッチー保釈に大騒ぎしていたそのころ、私はカブールにいた。日ごとにアフガンを「巨大な刑場」のように意識していた。米英列強の死刑執行人が、空からの国家的殺人行為を飽かず続行していたからである。戦争とは大規模な死刑執行のことではないか。死刑執行とは国家によるシスティマティクな殺人であるがゆえに、戦争の機能と通底するのではないか。夜半に野良犬の遠吠えを聞き、ときおりA君を想いつつ、私は何回かそう自問したことだ。もう一つ。EU諸国は、日本の死刑制度反対派が金科玉条として賛美するように、たしかに自国内では死刑を廃止しているけれども、アフガンなどの他国に対しては、米英のしかける戦争に加担する形で死刑執行をつづけているということにも思い至った。

 にしても、マスコミが国家による凶行をカムフラージュし、異常な平和を演出しているというA君の指摘は、2001年12月27日の事態にのみあてはまるのではない。いままた、ムネオにたかりつき、ツジモトに群がった特権的愚者=糞バエたちは、権力がアレンジした舞台でぶんぶん飛びまわり、皮相きわまる質問を繰り返して、権力が求めるとおりの報道をすることにより、有事法制の円滑な成立に手を貸しているのである。この国の戦争構造はますます安泰である。じつに盤石である。

 7月13日に2名の死刑囚の死刑執行が行なわれた。なんと、そのうちの1人は再審請求中だったという。東京新聞のホームページから関連記事を紹介しておこう。
『再審請求中、死刑執行 岡山の元同僚殺害も』
『再審請求中に死刑執行 「法務省は情報開示を」』
永遠の不服従のために(40)

年若い死刑囚A君(3)

 A君のおこした事件の不可解さはいずれ取り上げるつもりだが、今はひとまず置いて、「奈落C」を読むことにする。

 「奈落C」は政治犯と刑事犯をめぐる友人との過去の論争を振り返り、そこからその後のA君との関りを書き継いでいる。アフガニスタンへ出立する直前の記事であり、最高裁への意見書を書かなかったことへの強い後悔と、それへの関りから再び国家テロリズムに言及している。辺見さんの深い苦渋の念が伝わってくる。

C
 昨夜、私はバーで酒を呑みつつメモをとった。ただ単語を羅列しただけの、字体の乱れに乱れたそのメモを見ながら、いま、これを書いている。この文が読者の眼に触れるころ、私はこの国にいない。

 バーには最初、ニルヴァーナの曲が、低く、石と石を擦り合わせるように、流れていた。メモには『UNPLUGGE IN NEW YORK』とある。アルバム名だ。次に「WHERE DID YOU SLEEP LAST NIGHT」の走り書き。曲名である。バーで私は訝(いぶか)った。スピーカーはどこにあるのだろう。歌が、床下、いや、地下深くから聞こえてくるじやないか。酔っぱらっているからそう聞こえるのか、相変わらず耳の具合がおかしいのか。疲れて、かすれた男の歌が、足下からはいのぼってくる。「あのな、俺に嘘つくんじやないよ。おまえ、夕べ、どこで寝てたんだ?」という英語の声が、私の股間のあたりでくぐもって、歌ではなく、呻(うめ)きのように響いていた。

 あのとき、頭蓋の奥の暗がりで、光るイトミミズみたいに、か細く、赤く、明滅するものがあった。それは、思考の常道から解(ほつ)れて、散らばり落ちた、意味のない、けれども、どうしても気になる、微弱な発光体である。メモには、文字どおりミミズが這ったような字で、「破綻」、「裁き」、「刑事犯」、「政治犯」、「CLAPTON」(エリック・クラプトン ミュージシャン)といった単語が、あるいは縦書きで、あるいは横書きで記されている。いま、記憶の川をさかのぼれば、それらの言葉の断片が、どのような想い出の脈絡からこぼれたか、それなりにわかる気がする。

 私は現在のポピュラー音楽に疎く、ニルヴァーナもクラプトンも全く知らないミュージシャンだった。ネット検索してみたら、実に沢山の人たちがいろいろと記事を書いていた。私が参考にした記事をそれぞれ一つずつ紹介しておこう。
『NIRVANA ニルヴァーナ』
『Eric Clapton』

 ついでに、次の引用文で青年Aが挙げているEric Claptonの「Wonderful Tonight」という曲が聴けるブログも一つ紹介しておこう。
『Eric Clapton Wonderful Tonight【歌詞・日本語・カタカナ・フリガナ・読み・和訳】』

 「奈落C」に戻ろう。

 遠い昔、私は友人とつまらぬいい争いをしたことがある。ごく大ざっぱにその中身を説明すれば、友人は、刑事犯と政治犯は社会的存在としての価値がおのずと異なる、と主張し、前者は軽視し、後者をもっぱら重視すべきだという理屈に固執した。私は、刑事犯も政治犯も本質的にちがいなどありはしない、と反発し、これらの名辞は「国家的分類」にすぎない、といいはったものだ。議論の最中、友人は「ただの人殺し」という言葉を口にした。テロリストと「ただの人殺し」をいっしょにしてはいけない――といった文脈だったと思う。薄く赤い唇の端をゆがめ、薄笑いを浮かべて、そういった。理屈より、たぶん、「ただの人殺し」と発音したときの、その面つきに私はひどく腹を立てた。反国家を語る者の内面に酷薄な国家がある、と感じた。

 ニルヴァーナはうたっていた。「松林で、陽なんかささない松林で、俺は一晩中震えているだろう……」。私はあの青年を思った。先日、最高裁が上告を棄却し、新聞はこぞって「死刑が確定した」と伝え、世間が「ただの人殺し」とみなしている青年、私の友だちを。彼はニルヴァーナではなく、エリック・クラプトンが、ことのほか好きだった。私より、彼のほうが、いわゆる普通なのだ。拘置所にCDは差し入れできないので、クラプトンの近影をあしらったCDのジャケットを手紙に同封して送ったら、「嬉しくて、嬉しくて、常に布団の上に立てかけて飾っています。これはベスト版なんですよね。ここに載っている曲は、一曲目をのぞけば、ほとんど空で口ずさめるのばかりです。WONDERFUL TONIGHTなど、思わず口笛を吹いてしまいそうになりました。もちろん、やったら(看守に)怒られます」という礼状がきた。一曲目とは、「ブルー・アイズ・ブルー」である。彼の逮捕時には、まだリリースされていなかったのだ。逮捕前、青年はことギターの演奏にかけては、とてもいいセンスをしていたという。そうだろうな、と私は思う。

 去年の晩夏だった。彼のいる監房のコンクリートの壁に、しきりに蝉がぶつかってくるのだ、という内容の手紙をもらった。コツン、コツンと、夜半まで蝉がぶつかってきて、うるさいのだ、と。死にゆく蝉たちのぶつかる音を、私は夜ごと、私の頭蓋骨内での衝突音のように、狂おしく聞いたことだ。コツン、コツン。あのときから、もうカウントダウンははじまっていたのだ。私が気づかなかっただけだ。コツン、コツン……。

 ニルヴァーナがうたっていた。「1.5マイルほど向こうで、彼の頭がジャーのなかにあるのが見つかった。けれど、胴体は見つからなかった」。いやはや、ひどい歌だ。私は、なぜ、判決の前に、最高裁への意見書なり嘆願書を書くことができなかったのか。私のなかにも、「刑事犯」と「政治犯」を無意識に区別する発想が、ほんとうになかったといえるのか。このまちがった発想から、私はテロと戦争の問題に入れこみ、一方の「公憤」に浸(つ)かりこんで、つまり、見端(みば)がよく、かつ、大きな「正義」を隠れ蓑にして、絶対的に形勢不利な青年との関係を、一気に薄めてしまったのではないか。私の外面の理屈は一見、整合していても、ひとつの重大な背信といっていいほど、内面は破綻しているのではないか。おそらく、そうだろう。

 耳が轟々(ごうごう)と鳴っている。だいぶ酔ってきた。青年は拘置所で朝日新聞を購読していた。じつによく記事を読みこんでいた。面会でアフガンのことを話題にしたとき、そこいらの学生などより、よほど事情に通じていることがわかった。で、面会室で、じつは、私はあることを大声で彼にいってやりたかったのだ。それをいったら、すべては乱暴にシャッフルされてしまうから、軽々にはだれも口にしないことを。それは、とてもまちがった考えかたである。ただ、それがなぜまちがっているのかを、だれもが得心するように立証することは、相当に困難なはずではあった。実際に私がそれを口にしたら、青年は「そんなばかな……」と苦笑いしたかもしれない。あるいは、「それとこれとは別でしょう」と反論したかもしれない。

 私は、衝動にまかせて、〈国家が「正義」の名のもとに理不尽な大量殺戮を行い、日本も国際社会もそれを黙認しているいまの状況下で、いったいだれが君を裁く資格があるのだろうか〉と、いってみたかったのだ。ついでに、米軍やイスラエル軍は、「ただの人殺し」をしているではないか、と。もちろん、私は彼にそういいはしなかった。衝動は、しかし、完全には消えていない。意見書を書かなかった後悔の念も、まだ消えていない。ずっと消えはしないだろう。足下からニルヴァーナの歌声が聞こえてきた。
「あのな、俺に嘘つくんじゃないよ」

永遠の不服従のために(39)

年若い死刑囚A君(2)

 b節は三番ブースでのA君との面談の詳細な記録である。最後には、その動機は不明ながら、A君が行なった殺人事件の概略が語られている。A君はある少女の母と祖母を殺したようだ。その2遺体はそれぞれ別の部屋にあった。不可解なことに、それを放置したまま、別の一室でA君と少女とその少女の妹の三人で食事をしたというのだ。一体何があったのだろうか。私はさっぱり分からない。ともかく「奈落b節」を読んでみよう。


 青年の赤ら顔から、大きな千重咲きの牡丹を、私は連想した。無残な花。それがさも嬉しそうに笑っている。彼には眉毛がほとんどなかった。長期の拘禁からくる精神の失調のために自分で毛をむしってしまったのか、持病のアトピー性皮膚炎のためにそうなったのか、両方が原因なのか、私は問うたことがない。たしか、もう28歳になっているはずだが、眉毛が抜けているために、それより幼くも見えるし、また、角度によっては、とても老けた顔にもなった。

 私は青年の笑顔にわずかでも翳(かげ)りがないか探した。間もなく死刑が確定するなりゆきであることは、彼自身知っているはずである。表面いくら笑っていても、翳りがあるのがごく自然であろう。だが、うまく押し隠しているのだろうか、眉間にも眼にも暗鬱な色はなく、むしろ晴れ晴れとしているようにさえ見えた。その顔に私は無沙汰を詫び、元気だったかと無意味に問い、そして、最高裁への意見書を書いていないことのいいわけのように、もう少ししたらアフガニスタンに行かなくてはならない、とややぶっきらぼうにいった。

 そうしたら、彼の表情がはじめて曇った。真剣な眼になって、「大丈夫なんですか。危なくないのですか」と訊いてくる。曖昧に私は笑う。奇妙ではないか。死刑を案じなければいけない若者に、アフガン行きを心配してもらっている。この男は、いま、自分の立場をよく了解していない。あるいは、わかっていないふりをしている。ほんとうは私のほうがいいたいのだ。〈大丈夫か。判決を待つって、怖いだろう。最後の判決だものな。どうしたらいいんだろうな〉と。それは、むろん、いわない。いえはしない。

 青年は私の答えを待たずに、問いを重ねてきた。「行きたいから行くんですか。行きたくないのに行くんですか」。面白い設問だと私は思う。透明アクリル板の向こうに私と向きあって座っている男は、心から人を死に至らしめたいと願って、死に至らしめたのではない。主観的な願望と現実のなりゆきは、いつもひどく異なる。彼の場合、極端についていない。幸運に見放されている。その差がほとんどすべてだ、と私はいつも思う。私が逆にアクリル板の向こうに座ることだってありえた、と面会のたびに、ほんとうに何度考えたことか。

 「行きたくないけど、行くんだよ」と私は答える。「運命だよ」と、オーバーにつけ加える。たかがアフガン行きなのに。「運命」という言葉に、青年の眼が幽(かす)かに反応した。それに私は怯み、「運命」を口にしたことを恥じる。彼は聡(さと)いから、それを感じとっている。でも、私の頭は考えている。この男と私と、どちらが先に死ぬだろうか、と。ちがいは、死が法的に約束されているかどうかだ。彼の「死」は、国家が彼に対し執行する殺人によりもたらされるのであり、それまでは、彼という身体は法により生かしておかれる。法によって生かされている間、彼はかたときも死の想像から離れることを許されない。私の"自由な死"と彼の死とを比較してはならない。私は私に吐き気がしてくる。

 かつてもそうであったように、私たちは事件についても公判についても一言も触れはしなかった。ただ、彼はこれまでは一度も問うたことのないことを、妙に慎重な言葉づかいで問うてきた。「どんな本を読んでおけばいいんでしょうね。なにかおすすめはありますか」。そのいいまわしに、ああ、覚悟しようとしているのだと私は感じ入ったものの、不意のことゆえ、答えがでない。青年は、すると、前言を翻(ひるがえ)すようにして、私がこれまで読んだもののうち、もっとも感動した本を教えてくれというのであった。私は即答せず、本を手配して、彼の母を通じ、それを渡すようにすることを約した。

 「ご無事で……」と男は最後にいった。〈逆だよ。それは俺のあんたへの台詞だよ。ご無事どころじやないけど〉と、私は口のなかでいい、言葉をかみ殺して呑みこんだ。係官に退出するよう促されながら、青年はドア口で私に深々と一礼した。大ばかで、ときどき乱暴で、ときにとても優しい、大きな熊の縫いぐるみが私にそうしているように見えて、私はたじろぐしかなかった。左耳の耳鳴りがまたはじまった。耳垢が落ちてきそうだ。

 私は彼にかんするほとんどの法廷資料を読んだ。上申書にも眼をとおした。彼のことをなんらかの形で書き、発表しようと思ったこともある。しかし、会っているうちに、私は私のまなざしと声音が厭になったのだ。彼を"極上ネタ"として扱い、理解のありそうな眼つきをしてみせ、猫なで声で安心させて、"心の闇"とやらをうち明けさせ、話全体を増幅し、歪曲し、単純化して、売れ筋の本に仕立て上げようとするあざとさが、心底、厭になった。そうした心の動きを、殺そう殺そうとして、ここまできた。だから、本件については青年にろくに問うたことがない。

 でも、ひとつだけ知りたいことがあった。事件現場のマンションの一室で、少女に導かれるまま、彼、少女および少女の妹の三人で、テレビを観ながら食事をしたときの心もち。上申書によると、少女が「三人分の茶碗にご飯を盛り、その上に目玉焼きがのっかったものと味噌汁をテーブルに並べて、そして、食事が始まりました」とある。そのとき、彼に包丁で刺された少女の母親は別室で血だらけになって横だわっていた。少女の祖母も死体で別室に臥(ふ)していた。少女は「おいしくないの?」と彼に訊いたという。彼は「いや、そんなことないよ」と答えて「なんとか、出されたものは、ひととおり食べました」というのだ。この、世にも静謐な最後の晩餐に、彼はなにを見て、なにを感じていたのか。いつか喪(うしな)った一家団欒(だんらん)の幻だろうか。目玉焼きの味はどうだったのか。にしても、少女の役回りはなんだったのか。彼女は一方の"主役"ではなかったのか。私はそれらを、詰めはしなかった。法廷もそれを明らかにはしていない。

 拘置所からの帰路、南千住で電車を降り、「首切り地蔵」にお参りした。最高裁で原判決破棄・差し戻しの判決がでますように、と。カラスたちが、間延びした、なんだか淫らな声で鳴いていた。私はよろよろと、数ヵ月前まで私が住んでいた近くのアパートまで歩いていってみた。電柱の陰に隠れて、かつて私がいた五階の部屋の様子をうかがった。左耳が痒(かゆ)くてしようがない。私が寝室兼書斎にしていた部屋の窓に人影があった。鋳(い)つぶしたような黒い顔だ。その男も、耳を掻いているように見える。左耳に人差し指を突っこんでごそごそやっているようだ。私は私の過去を見上げている気がした。

 四日後、最高裁は上告を棄却した。

永遠の不服従のために(38)

年若い死刑囚A君(1)

 辺見さんが死刑廃止論者であることは『永遠の不服従のために(11):死刑廃止論(1)』『永遠の不服従のために(12):死刑廃止論(2)』で取り上げた。辺見さんはその立場から確定死刑囚・大道寺将司さんとの深い関り合いの記事をたくさん書いている。これまで、それらの記事も紹介してきた。

 ところで「戦争Ⅷ(最終)節」は、辺見さんが関わってきたもう1人の「年若い死刑囚A君」との関わりを通して、マスゴミ(ここでは辺見さんは「糞バエ」と呼んでいる)が戦争構造の構築に貢献していることを論じている。

 この「年若い死刑囚A君」についての辺見さんの最初の記事は第4章の「奈落」だが、「国家テロリズム」の記事と関連しているので第4章を飛ばして第5章「戦争」を取り上げてきた。そこで今回からカテゴリ名を「国家テロリズム」から「年若い死刑囚A君」に替えて、辺見さんとA君との関わりをまとめることにした。まず、「奈落」を読むことにする。

 「奈落」は<a・b・c>という3節で構成されている。「奈落」の枕として次の文が置かれている。
奈落は眼では見られない。奈落の暗さは恐怖の原因ではない。
視覚はこれらのイメージと何の関係もない。深淵は墜落から演繹される。
イメージは運動から演繹される。(ガストンーバシュラール『空と夢』宇佐見英治訳)

 a節の本文は臨時に宿泊したホテルで見た奇妙な夢の話から始まる。その夢は一審・二審で死刑を宣告されたA君のために書くつもりだった最高裁への意見書の作成が滞っていたことに対する蟠(わだかま)りを反映する夢だったようだ。

a
 いま住んでいるところから目的地まではとても遠いし、朝のラッシュに巻きこまれたくないので、入谷(いりや)の小さなホテルに前泊した。そうしたら、未明に腓返(くむらがえ)りになり、痛くて痛くて悲鳴を上げて、やっとそれがおさまったと思ったら、おかしな夢を見た。
「なにかの立食パーティーの最中なのに、左の耳の孔から、大小の藁屑(わらくず)や腐ったスポンジみたいな耳垢が、床にボロリボロリといつまでも落ちてきて、それは、じつはちょっとした快感をともなうものではあったのだけれど、人前ではやはり恥ずかしいから、手で左耳をふさいでみたり、虫みたいに床を這う大きな耳垢を靴の底で踏みつけて隠したり、さとられまいとするのに必死であった。朝、下りの地下鉄に乗っても、耳から耳垢が落ちてくる気配がするので、三ノ輪をすぎるあたりまで、ずっと乗客の視線を意識し、左耳を、携帯電話でもかけるように、手で押さえていた。
 次の駅は南千住だというアナウンスを右耳で聞き、念のため左耳を手のひらで隠したまま、あわててドアに突進する。降りようとしたのだが、そうなのだ、私はいま南千住には住んでいないのだ、と自分にいいきかせて、不審がる乗客の視線を避け、窓の外に顔を向けた。列車はもう地上部分にでていた。一瞬、駅近くの寺の、「首切り地蔵」の黒い頭がさっと眼の端に入って、消えた。しばらく見ない間に、ずいぶん煤(すす)けてしまったなあと思う。あの石の地蔵は、以前は、もっと大きかった気がするが……。江戸期には、電車が通過したあたりに刑場があって、何万人もが斬首、火刑などに処せられたのだという。怨霊も地霊も多くいるその界隈に、私は五年近く住んだ。電車は、委細構わず、霊たちを轢(ひ)いて進み、やがて荒川鉄橋でいっぱいの光を浴びてから、私の目指す駅に停まった。耳垢のことは、すでに忘れていた。」

 土手沿いの道を歩きながら、私は心のどこかで、あの青年と、結局は、会えないことを願っていたかもしれない。あるいは、会うのを拒否されることを。とてもではないが、顔を見る勇気がなかった。つまらぬ渡世にかまけて、もう何カ月も会っていない。つまり、私が面会をさぼっていたということだ。ことここに至って、どの面下げて会えるというのだ。これじゃ、体(てい)のいい儀礼にすぎないではないか。最期のあいさつというわけか。まったく、冗談じゃない。なにを話せばいいのか。顔をどうつくろえばいいのか。

 引っ越して、彼のところから相当遠くなってしまったこともある。多忙で体調をくずしたこともある。テロ事件と戦争のことに気を取られていたこともある。正直、疲労もある。性質の異なる惑いが、いくつか、重く固く結ぼれて、なにごとも億劫になったということもあるにはある。実際、ただ酒を呑んで遊んでいたわけではないのだ。胸の底には、いつも彼のことが水銀のように沈み滞(とどこお)っていた。ただ、躰が動かなかった。どうにも動かなかった。でも、これらはすべて、いいわけにすぎない。なぜなら、私はかつて心にいったんは固く誓ったのだから。来るべき時期が来たならば、最高裁にあてて意見書を書いてみよう、と。かりに、そのことがまったく無駄な行為であっても、死刑判決に反対する、説得力のある、しっかりした文章を書かなくてはならない、と。

 数日前からやろうとはしていたのだ。疲れた頭で、意見書を書きかけてはいた。そのころから左の耳がおかしかった。耳鳴りがずっとつづいていた。「検察側の調べ、起訴事実、審理過程全般につき重大な疑義があります」といったんは記した。たしかに複数の人々が犠牲になっているけれども、そもそも彼には殺意がなかったことを、何度も強調した。ただ、彼が、ある少女の磁力に引っぱられるようにして、惨劇に誘われていく、肝心のみちすじが、うまく書けず、はしょったままになっていた。

 死刑判決の趣旨とはまったく異なる彼の「人間性」にかんしては、初稿ではずいぶん書きこんだ。とくに、彼、つまり被告人がこれまで観た映画のなかでいちばん感動したというチャップリンの『ライムライト』について、わざわざあらすじまで紹介した。リウマチで脚をわるくして自殺未遂したバレリーナ、テリーのこと。自分の生活を犠牲にして彼女を励ましつづけ、ついにテリーを晴れの舞台に立たせて、みずからは死んでしまう芸人力ルベロのこと。カルベロのテリーへの言葉も引用した。
「人生を恐れてはいけない。人生に必要なのは、勇気と想像力と、少しばかりのお金だ」。
 それに感応する被告人の心根のありようについても長く言及した。『ライムライト』の部分は、しかし、意見書全体のなかで多すぎたかもしれない。

 意見書はしばしば中断を強いられた。テロと報復戦争のことを書く必要が生じたからだ。二つの原稿の関連性を、私はおのれに何度か問うた。無関係なのだが、まったくそうともいいきれない気もした。二つの原稿の優先順を私は思案した。〈それは、もちろん意見書を優先すべきだ〉と、頭のほうは、いわばまっとうに考えたのだ。だが、手のほうはしきりにテロと戦争のことを書いていた。頭のなかでは「極小」のテーマと「極大」のそれが、絶えずせめぎあったり、絡まりあったりしていた。最高裁への意見書を中断し、テロと戦争のことを書いているのは、論理的には正当でありえても、人間的には卑怯なのである。同じ無駄な情熱でも、テロと戦争についての文章表現のほうが、一審、二審とも死刑を宣告されている被告人をかばう文章よりは、よほどとおりがいい。だからこそ、卑怯なのだ。そうと知っていながら、私はブッシュとそれにつきしたがうコイズミに、原稿のなかで悪罵を浴びせつづけていた。人としての自分になかば呆れ、なかば軽蔑しつつ、報復戦争反対の「正義」を演じていた。意見書の提出は、結果、時間切れになりつつあった。四日後には、十中八九、死刑が確定する。賢い被告人は、まちがいなく私の本性を見抜き、怒り心頭に発しているはずであった。

 三番の面会室に入るようにスピーカーから指示があった。東京拘置所にはこれまで三十回ほど面会に来たことがあるが、三番ブースはこれがはじめてだ。殺虫剤の臭いがしないのにも気がついた。夏から来ていない。そうだ、もう冬なのだ。透明アクリル板の向こうのドアが開き、ぬっくり大きな男が係官とともに入ってきた。私と眼が合うと、満面に笑みを浮かべた。そう私には見えた。

永遠の不服従のために(37)

国家テロリズム(14)

 「戦争Ⅶ節」は辺見さんが飛行機でニューヨークからボストンへと出かけたときの経験談である。9・11以降のアフガニスタンなどへの侵略戦争のために各空港での入国審査や保安検査が厳しくなったが、その厳しさはある点では嗤ってしまうほどばからしさで行なわれていた。それは戦時体制下の国家のばからしの表徴と言ってよいであろう。

 まず、辺見さんは北京特派員時代に国家安全省の役人から受けた脅しのような扱いを思い出し、継いでニューヨークで入国審査官に提出する質問カードを成田空港で書かされた話に入っていく。次のようである。

 心臓が凍りついてしまうほどの恐怖と、逆にゲラゲラと哄笑したい衝動とが体内で同時に激しくせめぎあうという経験をこれまでに何度かしている。たとえば、ある朝二日酔いで寝ていたところを、突然、国家安全省の役人らに踏みこまれ、強制的に連行されたとき。北京特派員時代、ニュースソースを明かせという当局の要求を拒否していたら、報復なのであろう、そのような目に遭った。結局は国外退去処分とされたのだが、連行の途次では、たぶん殺されはしないにせよ、二、三年は身柄を拘束されるかもしれないなと想像した。すると、まず舌が口いっぱいに膨れ、頭蓋のなかでキーンという金属音が鳴り響き、臓腑の熱が一気に冷えていくような身体の失調があった。同時に、シャンパンの瓶を何度も振ってから一気に口を抜くように、大声で激発的に笑ってみたい衝動にもかられた。まったく相対立する二つの情動が同時に躰を襲うというのは、ふり返ってみれば、国家が幻想のベールをかなぐり捨てて眼前に登場したときの、私の生理的な癖のようなものかもしれない。カスのごとき存在である私に対し、しきりにいきりたつ国家というものが、怖くもあり滑稽にも思えてくるのである。

 先日、成田からニューヨークに向かった機内でも、私は引きつった笑いを低く声にだして笑っていた。入国審査官に提出するI―94Wというフォームのカードにいろいろ書き入れながらだ。印刷された米移民帰化局の問いには、
「犯罪活動あるいは不道徳な性行為を行うために米国に入国しようとしていますか?」
とあり、これにイエスかノーで答えなければならない。国是よりジョークを万倍も大事に考えている私に、この質問について笑うなというほうが無理というものだ。
「これまでに、あるいは現在、スパイ行為やサボタージュ、テロリスト活動ないしは集団虐殺に従事、参加したことはありますか、または参加しつつありますか?」
という質問事項もある。はい、従事しております、というばかがいるかい、といいたくなるが、9・11を思えば、笑っちやいけない問いなのだろう。けれども、ついうっかりイエスの欄にチェックを入れてしまう真面目で間抜けなテロリストがいたりして、と想像すると、とても笑いをこらえることができないのであった。

 次いでニューヨーク空港での入国審査である。

 そこまでは、まあ、それで済んだのだ。ニューヨークの入国審査官にパスポートと到着カードを渡すや、その係官の顔色が変わった。開口一番、「あんた、最近パキスタンに行ってただろう」と詰問してくる。反射的に「ソウ・ファッキング・ホワット?」(だからどうしたっていうんだい)とでもいい返したらさぞ気持ちいいだろうな、と思いはしたが、口のほうはお行儀よく「はい」と答えていた。次の問いは〈アフガニスタンにも行つたな〉であろうと先読みし、答えを用意していたら、ちがった。「(最終目的地の)ボストンになにしに行くんだ」と訊いてくる。面倒くさいので「か、かんこう……」とつぶやいたら、「観光のわけがないだろうが。なにか書きに行くんだろう。あんた作家だろう」と、たたみかけてくる。知っているなら訊くんじやないよ、といいかけてやめた。入国OKの雰囲気になってきたからだ。

 私は、月刊誌の企画で、ある人物に会うため担当編集者とともにボストンに行く途中であった。9・11以来、米国の戦争政策についていいたいことをいってきているから、じつのところ、米国入国は無理かもしれないとも思っていた。ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)として、入国拒否されることもないではないと予想していた。私としては、内心、拒否されたらされたで大騒ぎせずに、帰りの機内で、たとえばコーエン兄弟の新作映画でも観ながら泰然と引きあげようくらいに考えていたのだ。結果、審査官に多少からまれたけれども、入国はできた。そのことを私は当然だと思っているし、私がパキスタンに行こうがアフガンに入ろうが、いちいち咎められる筋合いのことではないと考えている。米国はべつに度量が広いのではない。私の入国はたんに当然のことなのである。

 次はニューヨークでボストン行の小型機に乗り換えるときの保安検査の厳しさを書き留めている。

 けれども、ニューヨークからボストンに行く小型機に乗り換える際の保安検査の厳しさといったらなかった。銃を手にした黒ベレー、迷彩服の兵士の前で、執拗な手荷物検査だけでなく、靴を脱がされ、靴底まで丹念に調べられた。しかも、一時間に二度も。同行の編集者は靴を脱がされてはいない。彼は私の眼つきがわるいからだというのだが、じつはちがう。私はまた笑ってしまったのだ。そうしたら真剣にセキュリティ・チェックをしている黒人女性と眼が合う、彼女がむっとする、同僚の検査官に目配せするという成り行きとなり、いやがらせなのか、私は再びチェックされたのだ。

 なぜ笑ったか。われながら説明が難しい。一回目の保安検査のとき、私は衝動的に二つのばか話をしたくなったのである。一つは、「ぼくがタリバンつてよくわかるねえ」。もう一つは、「カブールの空港じゃ、あんたがたの軍隊のシェパードに荷物検査されちゃってね。でも、その犬の鼻、乾いてたよ」。後者は事実だったのだが、二つとも、むろん、口にしてはいない。そんな雰囲気ではないのだ。保安係官の眼がすわっていた。明らかに「戦時」を意識している。いや、「平時」だってこの手のばか話はいやがられるにちがいないし、殴られるかもしれない。そう思うと、なぜだかかえって口にしたくなった。同時に、とても怖いのである。怖いと思えば、ますますしゃべってみたくなる。一つの躰で二つの矛盾する感情が格闘し、結果として、私はひとり喉でくくくと笑った。それが連中の気に障ったようだ。これは思想ではなく、私の生理のようなものなのだけれども。

 ボストンで聞いたのだが、こうした局面で似たようなジョークを飛ばした欧州からの観光客が、身柄拘束され、翌日強制送還されたケースもあったという。"反テロ戦争"の最中に、あってはならない不謹慎かつ悪質ないたずらだというわけだ。だからであろう、空港では執拗かつ無礼な保安検査にだれも文句をいわず、諦め顔で応じている。こうした場合、粛々として従うのは当然でありエチケットでもあろうという考えが大勢を占めてもいる。私は、しかし、ジョークを忌み嫌いはじめた国家は、一般に、危機に瀕しているのだと信じる。ばかにして笑ったとてなに悪かろう。だいたい、国家こそ最大のジョークみたいなものなのだから。

 日本の有事法制も、異議申し立てへの抑圧だけではなく、まちがいなくジョークの否定につながるであろう。笑うと怒られるぞ。そう思うと、なおのこと笑いたくなる。

 辺見さんが上のように予想していたことが、十数年後、ついに「共謀罪法」が大手を振ってまかり通るほどにまでなってしまった。やんぬるかな。
永遠の不服従のために(36)

国家テロリズム(13)

 「戦争ⅵ節」は谷川俊太郎の『詩ってなんだろう』の中の短歌を論じた一文の批判から始まり、教育現場における「君が代・日の丸の強制」という戦争構造完成の一翼を担う大問題を取り上げ、続いて最後に「悪徳政治家ムネオ」事件をめぐるマスゴミの体たらくぶりを批判している。辺見さんはそこに「裏返ったファシズム」を読み取っている。

 繰り返しになるが、私のブログは石原沈タロウ仕掛けてきた「君が代・日の丸の強制」をきっかけに書き始めた。その書き始めの記事を紹介しておこう。
『イシハラの教育支配の実態』

 では辺見さんの論説を読んでみよう。

 谷川俊太郎の文章に「たんか」という不思議なひとくさりがある。『詩ってなんだろう』という本のなかに、短歌の解説の体裁でさりげなく収められている。はじめて眼にしたとき、半透明の灰汁(あく)のようなものを感じ、考えこんだ。なんだか油断がならないのである。一部を紹介すれば、ざっとこんな調子である。
 あきののに さきたるはなを ゆびおりて
  かきかぞうれば ななくさのはな  山上憶良

 わがきみは ちよにやちよに さざれいしの
  いわおとなりて こけのむすまで

 かすみたつ ながきはるひを こどもらと
  てまりつきつつ このひくらしつ  良寬

 たんかは、はいくよりながい。五、七、五、七、七のおとのくみあわせ。  こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい。  たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち。(後略)

 「君が代」にひっかけて第二首についていいつのりたいから引用したのではない。「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが気持ち悪いので、引いてみたのである。思いすごしであろうか、私にはこれが脅しのように聞こえてくる。結構ドスのきいた脅しに。実際、山上憶良と良寛の間に、「君が代」の原歌といわれる『古今和歌集』の「賀歌(がのうた)」にある歌をそっと配列したのが、詩人のいかなる作意からきたのかはわからない。ただ、なにかがこれにより効果的に整合することになったのは事実である。そのなにかは、見端(みば)の穏やかな言葉の水面にはあらわれていないけれども、よくよくのぞきこむと、水底のあたりで、おびただしい糸蚯蚓(いとみみず)のように、うごうごとしているのである。あるいは、気づくのが容易ではない灰汁、渋み、えぐみのようなものが水全体に漂っている。それに私は怖気(おじけ)だつ。「わがきみは」が「きみがよは」に変わったところで大差はない。したがって、「君が代」だって「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」とあいなるわけであり、この押しつけがましい情緒を、「たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち」と断じて補強し、文句はいわせないぞという語調になるからしまつがよくない。どだい、短歌を「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが私にはわからない。次の二首(宮柊二『小紺珠』から)はどうだろうか。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ
  雪中にひたひ射抜かれて死ににたる彼

 応答に抑揚ひくき日本語よ
  東洋の暗さを歩み来しこゑ

 これらも「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちいい」だろうか。第一首はおそらく日中戦争の想い出、第二首は極東国際軍事裁判における被告人が英語による詰問に重く答えるようすであろう。これらとて「にほんにむかしからある、詩のかたち」だが、試みにやってみるといい。とてもではないが音吐朗々(おんとろうろう)と読めるものではない。私としては、詩の朗読だの詩の絶叫だの、詩のボクシングだのよりは、べつに思想ということでなく、趣味として
「百の手に觸れんよりは、十の眼に觸れん。十の口に上らんよりは、あはれ一の胸に上らん。朗讀せられんよりは、黙讀せられん」(斎藤緑雨『半文銭』)
のほうにくみする。この世には、喉の浅いところからの発声を拒む、なににせよたやすくはまつろわぬ言葉だって多数伏在しているのである。朗読や唱和による詩の「運動化」を私は怪しむ。詩人らは、かつてこの国に「国民士気の昂揚」という国策に沿った「詩歌朗読運動」というものがあったことを忘れてはならない。発声したい者はひとりでそうすればいいのであり、黙したい者に発声を強いてはならない。教育委員会のように強圧的に命じてはならないし、『詩ってなんだろう』の著者のように猫なで声で強いてもいけない。沈黙も発声と同等の大事な表現なのだから。
 ちょっと横道へ。私は宮柊二に『小紺珠』という歌集があることを知らなかった。だいたいこの歌集の表題はなんと読むのだろうか。気になるので、手元にある漢和辞典で調べてみた。
 「紺珠」の読みは「かんじゅ、こんじゅ」であり、その意味は
「手でなでれば記憶を呼び起こすという不思議の宝珠。唐の張説(ちょうえつ)が人から贈られたもの」
と説明されている。この故事の出典は「開元天宝遺事」となっている。

 辺見さんの論考に戻ろう。

 無口でとても気の弱い友人の中学教諭が、卒業・入学式を前に、独り衝動的に学校長に会いにいき、緊張でぶるぶる震えながら"君が代"は歌う自由も歌わない自由もあると生徒たちにいってやってください」と申し入れたのだそうだ。校長は満面笑みをたたえ、しかし、瞳は少しも笑わずに応じたという。
「みんなで歌うという気持ちが大切です。みんなで歌う感動を生徒たちに教えてやってください。批判は学校の外でやってください」。
 友人の気合い負けだったようだが、私は彼の勇気を尊いと思う。この種の発声は群れてやるより、つまり唱和するより、へどもどしながらもひとりですることで、発声主体としてはなにがしか得心するものがあるものなのではなかろうか。惨めでひどくつらくはあるけれども。

 学校では教員が校長の意向に沿うているかどうかを待遇に反映させる人事考課制度が導入されようとしており、「思想および良心の自由」も「表現の自由」もほぼ根こそぎ奪われつつある。見た眼は谷川俊太郎の詩のように優しく、何気ないのだけれど、この国のどの領域よりも早く不可視の戦争構造を完成しつつあるのが、教育現場といえるかもしれない。楯突く教員らは次から次へと処分されており、組合は日に日に反発力を失っている。そこでは「いみはよくわからなくても、きもちがいい」ことと「みんなで歌う感動」が、澄明で無臭のゼリーのように、先生たちの心と毛穴を塞いでいる。ウンペルト・エーコのいう永遠のファシズムはここにもある。

 校外ではいま、悪徳政治家ムネオ叩きが頂点に達しつつあり、まことに同慶の至りではある。戦争狂ブッシュの国会演説では野次一つ飛ばさず静聴した野党がこの時とばかりに勢いづいて、まるで鬼の首でもとったかのようにテレビその他で大はしゃぎ。マスコミはマスコミでなにを書いても大丈夫とわかるや、ムネオにさんざ呑まされ食わされした記者たちをふくめ一斉に薄汚れた手のひら返して、まあ、これでもかこれでもかと叩くこと叩くこと。しかし、何年も前からわかりきっていたことを、かつては書かず、いまになってみんなで一斉に報じる謎と恥については触れずじまいなのだ。「みんなで叩く感動」と「いみはよくわからなくても、きもちがいい」ことがここに横溢している。よく見ると、ファシズムが裏返っている。

永遠の不服従のために(35)

国家テロリズム(12)

 「戦争ⅴ節」もメディア批判がテーマだが、今回の論点は、若い新聞記者とのやり取りを反芻しながら、メディアの常套手段となっている両論併記方式の是非を検討している。この方式はテレビで多用されている。私はテレビの両論討論方式の番組は全く見ていないが、例えば東京新聞のテレビ番組解説ページに「反響」という読者投稿欄があるが、そこにはそうした番組を見た人たちが、喚き立てながら権力寄りの論者達が議論を主導してしまうような番組批判記事がよく掲載される。私はそうした投稿記事を共感しながら読んでいる。

 ところで、下の引用文中に、若い新聞記者が辺見さんへのインタビューに備えて、辺見さんの「『反時代のパンセ』をしっかり読んでいきます」と語るくだりがあるが、この『反時代のパンセ』とは辺見さんが『サンデー毎日』(2001年7月29日号~2002年8月18・25日号)に掲載した論考であり、いま教科書として用いている『永遠の不服従のために』はこの『反時代のパンセ』に加筆・訂正をして出版されたものである。

 それでは本文を読んでみよう。

 今度ばかりは長くぐずぐずしている。申しわけのないことをしたという気持ちが六割、あれでよかったのだという居直りが三割、残り一割は、ま、いいか、という、このところ濃くなるばかりの諦めの気分。一般的な論理の整合性からいえば、私のほうがまちかっていた。あの青年はかならずしもまちかってはいない。だが、心のうちで消えかかっていた炭火が突然赤黒く熾(お)きるように反発したのは、青年のそのまちがいのなさに対してなのだ。暗い怒り。我慢できないケースではなかったが私は抑えなかった。単に老いのせいなのかもしれないのだが。

 青年は全国紙の政治部の、たぶん、有能な記者だ。若さだろう、声音に濁りがない。あの声とてきぱきしたものいいから、ああ、少しの汚れもない白いワイシャッでも着ているんだろうなと想像してしまう。前にも彼に求められて選挙に臨む各政党に関するコメットを書いたことがあるが、会ったことはない。電話とEメール。ひどい世の中だ。これでかなり大事な交渉が済んでしまうのだから。今度は、電話ではなく、直接インタビューしたいといってきた。テーマは、「有事法制」。各界の幾人かが記者の問いに答えて持論を開陳する連載インタビュー企画で、取材にあたっては「反時代のパンセ」をしっかり読んでいきますなどと、焼きの回った男を泣かせる見え透いた手管もメールの文言にはあり、私としては、なめるんじやないよ小僧、と口ごもりつつも、さほどに悪い気はしなかった。加えてこの時期、有事立法についてはあらゆる機会をとらえて反対の意思を表明すべきだろうと思ったから、インタビューに応じることとし、日時場所まで決めたのだが、当日の朝になって私のほうからキャンセルした。

 自分のやったそのことが、衣服についたタールみたいに今日までずっと私を不快にさせている。最終的に断ったわけは、あらまし二つ。第一は、この企画がほぼ両論併記方式で掲載されるということをあとになって知ったからである。すなわち、有事法制反対論者と賛成ないし条件つき賛成論者の意見を、いくつかの例外があるにせよ、同一紙面にならべて載せるというスタイル。青年の所属する新聞社が近年来この方法をこよなく愛しているのは私もつとに承知してはいたが、よもや有事立法という国家が戦争にむけて完全武装して立ち上がり、あるべき人間的諸権利を暴力的に制限しようという、マスコミ人なら当然反対すべき悪法にまで、賛否両論方式を適用するとはまるで想像もしなかったのが当方の甘さだ。インタビューを求めるに際し、青年は私にそれをはっきりといわなかったし、私は私で新聞を購読していないから、友人に指摘されてそうと知ったのである。

 Pro and con(賛否双方)が一つの重大事をめぐり同じ土俵で議論するという方式は、米国のテレビ・ジャーナリズムがしばしば採用する著しく阿呆な"民主主義"の典型だ。まずもって報道する側の主体的判断を、"民主主義"を装って放棄するのである。主権国家に対する問答無用の軍事介入を前に、それが是か非かなどという非にきまっているテーマでも、このプロ・アンド・コン方式でディベートさせ、勢いづく好戦派を主催者側(多くはテレビ局)が批判もせず、結果、じつに数多くの無法な軍事侵攻、国家テロを"民主的"に後押ししてきたのが米国のメディアであった。それと、青年のいる新聞社がまったく同じだと私はいわない。後者のほうがおそらくはもっと無意識的に欺瞞に満ちているという点では、かえって手に負えないのかもしれないのだ。私はそうと知りつつ、コイズミ政権誕生のときや米軍のアフガン空爆開始などのさい、請われるままに絶対的コンの側からその新聞に原稿を寄せた。偽善バランスの一方の錘(おもり)なんだな、俺は、とぼやきつつ。

 プロ・アンド・コン方式は手ごわい。手続き的に遺漏(いろう)なくみえるこの方法は、その分だけジャーナリズムというよりむしろ行政的である。H・マルクーゼ(Herbert Marcuse、1898年 7月19日 - 1979年 7月29日、アメリカの哲学者)の口調を借りれば、民主的で、摩擦がなく、道理にかなった、いんちきなのだ。なにより社、記者、論者のだれも傷つかない。やり方はまちかっていなくても、人間的には卑怯ということがある。まして有事法制は、この国の戦争構造の構築と改憲に直結する、記者生命を賭けてもいいくらいの重大テーマである。下駄をふやけた"識者"にあずけてどうするのだ。プロ・アンド・コン方式は、むしろ有事法制賛成論の無責任な誘導につながるではないか――と、私はキャンセルの理由を青年にまくしたてた。青年は「それでもあなたに話してほしかった」と気落ちした声でいい、当方は当方で、たしかに、それでも私は話すべきだったのではないかと内心わだかまり、いまも気持ちが解れてはいない。電話ではあからさまな言葉は投げなかったけれど、私は彼に、おい、もっと破綻しろよといいたかったのだ。戦争なんだから、少しは楯突いて傷ついて挫折しろよ、と。

 この苦いやりとりのころ、私はウンベルト・エーコ(Umberto Eco、 1932年 1月5日 - 2016年 2月19日、 イタリアの小説家・エッセイスト)の『永遠のファシズム』(和田忠彦訳)を読んでいた。その気分もあって、ことさらにかたくなになったのかもしれないとも思う。インタビューをキャンセルしたことの、これが第二のわけだ。エーコは永遠のファシズム(原ファシズムともいう)の今日的特徴は「時にはなにげない装いでいる」ことだという。エーコは語る。
「いまの世の中、だれかがひょっこり顔を出して、『アウシュヴイッツを再開したい、イタリアの広場という広場を、黒シャツ隊が整然と行進するすがたをまた見たい!』とでも言ってくれるのなら、まだ救いがあるかもしれません。ところが人生はそう簡単にはいかないものです。これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性は、いまでもあるのです。私たちの義務は、その正体を暴き、毎日世界のいたるところで新たなかたちをとって現れてくる原ファシズムを、一つひとつ指弾することです」。

 そうだな、と私は思う。ファシズム菌は透明で、とても日常的なのだ。丸山眞男のいう「アズ・ユージュアル」(いつもどおり)のなかにも、なにげないファシズムが潜んでいる。マスコミのアズ・ユージュアルのなかにも永遠のファシズムが隠れている。日本の主要メディアはいま、無意識に、しかしながら、じつに大がかりに戦争に加担していると私は確信する。これに永く抗することのできるのは、手負いの個人しかいないはずだ。そのように私は青年にいいたかった。さはさりながら、気持ちは片づかない。私はやはりあのインタビューに応じるべきだったのではなかろうか。

永遠の不服従のために(34)

国家テロリズム(11)

 「戦争ⅳ節」は、本人達にその自覚がないという点で最も強力な国家テロリズムの育成者である「メディア」と、そのメディアの音頭にのって調子よく踊る「庶民=世間」を手厳しく批判している。

 「大衆」という言葉が好きになれない。「民衆」というのも苦手である。「国民」というのもどこか抵抗がある。「臣民」など冗談ではない。「公民」もお断りだ。だいたい、「公民」は「天皇の人民」という原意をふくみ、もともと私有を許されない人々を指していた。シチズンとしての「公民」にしても、「公民館」や「公民の義務」という用法にみられるとおり、行政の側からの押しつけがましい概念なのである。これが学校の教科の名称になっていること自体、愉快なことではない。だからといって、「公衆」というのも変だ。では「人民」ならどうだ。これも中国にいたときからどうもなじめなかった。さりとて、「住民」といえば空間的限定がある分だけ、語感が人間集団のダイナミズムに欠ける憾(うら)みなしとしない。ならば、「市民」はどうだろう。やむなく用いることもあるけれど、この幻想の概念を私は本気で信じてはいない。

 空間的かつ心理的に集合状態にある人間たちのことを、すーっと腑に落ちるように抽象した言葉というのは案外に少ない。そういえば、「庶民」というじつに日本的な集合名詞もあった。丸山眞男は半世紀以上も前に、庶民の動態に注目し、
「官僚と庶民だけで構成されている社会、市民のいない社会、それが日本だ」
と記している。『自己内対話』に収録されたこの文は、さらに
「ジャーナリズムの批判性はここでは庶民的シニシズムのそれだ。シニシズムはそれ自体、原理ではない」
とつづく。お上品なインテリ臭芬々(ふんぷん)たる指摘ではあるけれども、ジャーナリズムと庶民のおよそ慎みというもののない野合を丸山は看破していたのであり、この俗情の結託は今日にまでうちつづき、いよいよ拡大し、両々相まって、日常の何気ない戦争構造を無意識にこしらえているのである。けだし炯眼(けいがん)ではあった。

 「砂のような灰色の大衆」とは、だれがいった言葉だったか。汀(みぎわ)の砂の像のようにもろく崩れ、ときに粘土のように形を変え、慈愛に満ちているのかと思えば、衆をたのんで理不尽な行動にうってでる。顔のない庶民とはまことに勝手で哀しい実在なのである。これとマスメディアがつるんだ日には目も当てられない。私か近年来いいつのっている「鵺(ぬえ)のような全体主義」の主役がこれら二者である。そして、両者の俗情の結託によってできあがった作品第一号が、あの凡庸なるファシスト、コイズミであった。メディアは庶民のせいにし、庶民はメディアの尻馬に乗り、あろうことか80パーセント以上という支持率をあたえて、ろくに労働もしたことのない無能な七光り男をすっかりその気にさせてしまった。このたびは、めでたくも支持率激減のよしたが、マスコミも庶民もコイズミを押し上げたことを恥じ入るどころか、つい先だってのことをもう失念したようすである。自覚したのでも進歩したのでもない、マスメディアと融合した砂のような灰色の大衆は、オポチュニズムの風土でしか生きることのできない体質になっているのだ。

 昨日(7月2日)の都議会選の結果に私は唖然としている。自民党の大敗は目出度い限りだが、自民党を離党してもいないし、日本会議国会議員懇談会の副会長を務めていた極右政治屋・小池百合子の「都民ファースト」という甘言に騙されて「マスメディアと融合した砂のような灰色の大衆」が「都民ファースト」を都議会の第一党にしてしまった。

 穏やかで協調的で毫も個人的責任のともなわない日常的戦争構造から脱するには、まずは「畜群」の一人である自分の顔を、夜半に鏡にうつしてとくと対面することではなかろうか。せめて、鏡のなかの自分にアッカンベーでもすること。個人は、そこからしか発生しない。畜群とは、今村仁司(いまむら ひとし、1942年2月26日 - 2007年5月5日 現代哲学研究者)氏の『群衆――モンスターの誕生』にでてくる言葉である。民主主義などといっても、トクヴィル(1805年7月29日 - 1859年4月16日 フランスの政治思想家)が指摘したように、群衆という名の畜群とデスポット(専制権力者)という「群れの番人(牧人)」の両極からなる支配・庇護・服従の関係にすぎないのではないかという基調が同書にはあり、とても示唆的だ。「デスポットが群衆を作りだすのではありません。群衆がデスポットを生みだすのです」と今村氏はいう。デスポットだけが戦争の構造を築こうとするのではありません。群衆とマスコミだってより積極的に戦争構造をつくろうとするのです。私にはそうも読める。

 私は12年ほど前に、秋山清さん・滝村隆一さんなどの論説を頼りにしながら『民主主義とは何か』という記事を書いたが、そこで得た「民主主義」の実態は、上の文中で紹介されているトクヴィル説く「民主主義」と同じだった。

 好個の例がある。ペンタゴンが最近、「対テロ戦争への国際社会の貢献」と題する資料を発表し、対テロ戦争の支援国として当初26ヵ国を列挙したが、そのなかに日本がふくまれていなかった。そうしたら、アフガン空爆にも怒らなかった日本の多くのメディアが、政府とともに露骨に色をなした。米国の対テロ戦争に積極的に貢献した国として認めてもらえないのは不快だというのである。結局、米側の"ケアレスミス"ということで、貢献国にふくめてもらったのだが、いったいなんということであろうか。米国がしつらえる世界的な戦争構造の重要な一角を日本も担うべしと、政府だけでなく、マスメディア自身が煽動しているのである。メディアの音頭にのって、庶民=世間が調子よく踊る。まじめな人ほど懸命に踊り、カーニバルのように練り歩く。ほら、その道のすぐ先には有事法制がある。

 以下、こうした危惧が現実化した証言の一つとして、辺見さんは丸山眞男の『自己内対話』の文を引用しながら議論を進めている。

 丸山眞男の思想についての予備知識として、浅井基文さんのサイトに掲示されている『丸山眞男の思想に学ぶ(公開講座)』を紹介しておこう。以下で辺見さんが引用している丸山眞男の文章も読むことが出来る。

 私がいちばん恐れるのは、何気ない、どうかすると心休まる風景だ。たとえば、丸山が記したような戦慄の対照がそれである。
「僕がつかまって、あと解放されたとき、灯のともった本郷通りを歩いたときの感想! バナナ屋は相変らず、バナナを人々の前にぶらさげてたたき売り、ゴモク屋の前には人だかりがしてみな言葉もなく、ゴバンの『問題』をみつめている。そうして、本富士署の壁一つ隔てたあのなかでは、すさまじい拷問がいま行われているのだ」(前掲書)。
 世界の外面には、圧倒的多数の人々のなんということもない「アズ・ユージュアル」(日常)があるけれど、内部には、それとどうにも釣り合わない凄惨な光景がある。アズ・ユージュアルに生きる庶民は拷問の悲鳴に耳傾けようともせず、想像しようともしない。丸山眞男はそういいたかったのだと思う。アズ・ユージュアルこそ問題なのだ、と。

 丸山が見たのと私がいま見ている風景はずいぶん異なるけれども、可視的な外面と不可視の内部との絶望的な関係性には根本的な変化はなかろう。いまだって、どこからか間遠(まどお)に人の悲鳴が聞こえてくるのだ。でも、私たちは隣人だちとほぼ同じ顔をした庶民であることを選び、悲鳴など聞こえなかったことにして暮らしている。そうするうちにも、戦争の構造は膨らみつつある。

 どうすればいいのか。庶民から「市民」になればなにかが解決されるというものでもあるまい。それより、鏡のなかの自分をのぞくべきだ。もしくは、深夜、自画像を描いてみるというのはどうか。おのれの貌を取り戻すために。ちなみに、阿部謹也氏によれば、明治以前の日本絵画には自画像の歴史がなく、「個人」という言葉も明治17年まで存在しなかったという。この国ではもともと「私」が希薄なのである。いまは、服従しない「私」を少しずつ立ち上げるしかない。