2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(14)

不敬(1)

 前回で第1章が終わり、今回から第2章に入る。ほとんどの節は数ページの短い文章で成り立っているが、第2章の第1節は3つの項目に分かれていて計14ページある。全体の表題は「不敬」であり、項目名はa/b/cでありそれぞれに枕となる文章が付されている。では、aから読んでいこう。

 a
 そこでお尋ねしますが、あなたがいま、天皇ないし皇族の身体にかかわるテーマを小説に書いたとしたら、その掲載を引き受ける雑誌、あるいは刊行を引き受ける出版社があるでしょうか?
(T氏の私に対する質問から)

 本文は次の様に始まる。

 その質問は、私がたちのよくない夏風邪を引いて、いくぶん治りかげんのころに、Eメールで送られてきたのだった。つるつるの乾ききった画面に、およそそぐわない、際どくて陰湿かつ深微な内容である。読んだら、熱がぶり返した。百日紅(さるすべり)のあの淡紅色の花だって、ちりちりに焦げ落ちてしまいそうなほどの猛暑であった。なのに悪寒はつづいた。夏風邪がその後、嘘のように消えたのといっしょに、質問も失念した。ところが、つい先日、ふと思い出してしまった。ずっと忘れたままでいたかったのに。気がつけば、もう秋なのだ。そろそろ、いやでも質問に答えなくてはならない。

 私は、天皇の身体にかかわることを、これまで小説に書いたことはない。より正確にいえば、確定死刑囚・大道寺将司氏の俳句(『友よ 大道寺将司句集』、ぱる出版)に喚起されたこともあって、東アジア反日武装戦線"狼"による「お召し列車爆破未遂事件」(虹作戦、1974年8月)と彼の句境の関連などについて、ずいぶん抽象的に論じたことはある(『眼の探索』の補遺「虹を見てから」)。だが、これは小説ではないし、別して天皇をテーマにしたものでもない。では、将来書くことはあるだろうか。わかりかねるけれど、さしあたり私の体内につよい動機がないことはたしかだ。したがって、この質問はあくまでも仮定のそれなのである。
 「東アジア反日武装戦線"狼"」を私のブログで何度か取り上げている。その中から大道寺将司さんを取り上げた記事を紹介しておこう。

『春疾風なお白頭に叛意あり』

 しかし、書く気がないのだから回答する必要もない、というわけにはまいらない。書こうが書くまいが、これは、しっかりと答えをださざるをえない性質の問いなのである。質問には、
「かつて『風流夢譚』事件というのがありました。表現の自由と天皇という、憲法に深くかかわる事件ですが、この事件については憲法も沈黙してしまうような気がしてならないのです」
という前置きがあった。先に引用した「そこで……」以下は、その前置きからすぐつづくのである。じっくりと考えれば、問いには一定の答えがすでにして想定されていることがわかる。その想定の上で、おそらくは、憲法21条(表現の自由)の、こうした場面での驚くべき無力とそのわけについて語れ、とT氏は私に求めているのであろう。賢くも怖い質問ではある。

 申し遅れたが、T氏とは、法律専門月刊誌『法学セミナー』の編集者である。T氏の想定とは、あらまし、こうであろう。
 出版社は(むろん、新聞社はとくに)、そうした小説の掲載や刊行を容易には了承しない。万一、引き受ける場合でも、問題部分の書き換えを著者に要請する。なぜならば、右翼団体のつよい抗議と不測の事態も考えられるからだ。だとしたら、憲法21条とはいかなる意味をもつのか。深沢七郎の小説「風流夢譚」(『中央公論』1960年12月号)に端を発し、右翼少年が二人を殺傷する事件(1961年)が起きたが、以来40年、この国の言論状況は少しでも好転したのか。すなわち、21条は実現されているのか。

 私はまだ最終的な答えをだしていない。胸の底のうす暗がりで、T氏の質問と彼が想定しているであろうことを、繰り返しなぞり、ぶつぶつと自問自答している。言論状況は好転どころか、著しく悪化している。天皇、いわゆる「従軍慰安婦」、死刑制度という三大テーマは、かつてよりよほど語りにくく、身の危険を覚悟することなしに、公然と本音をいいはなつことは難しい。事実、まっとうな議論を臆せずしたがために、理不尽な攻撃を受けている人々がいまもいる。「自由とは、人の聞きたがらないことをいう権利である」とジョージ・オーウェルは語ったけれど、その意味で、この国に言論の自由はない。21条は実現されていない……などと。

 T氏は、しかし、こんな愚痴のような答えでは納得してくれないであろう。なぜなのですか、みんな、なにに怯えているのですか ― と、たたみかけてくるにちがいない。なにに怯えているのか。そうなのだ、そこに問題の底暗い根っこがある。

 ここから先は、私のやや朦朧(もうろう)たる想像でもある。この国では、じつのところ、とうの昔に廃棄されたはずの旧刑法74条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役二処ス」が、どっこい生き残っており、無期限の見えざる実定法として、いまも一部でつよい精神的有効性を保っている。また、いわゆる"不敬者"を、公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する。小泉首相および公権力を握る者たちの全般的エトスは、旧刑法74条に大きくは矛盾しない。だから、"不敬者"に対する右翼ないし視えざる組織による暴力の摘発に、公権力は一般に消極的なのである。これらの問題は、この国の連綿たる情念領域に属し、濡れた菌糸のようなその均質的情念は、マスメディアをも広く侵している。いまや、ますます深く、ほとんど骨髄にいたるまで侵している。言論への暴力は、抵抗しないかぎり、今後さらに増えるにちがいない――というのが、私の暫定的な答えである。

 T氏はどう思うだろうか。かくいう私も、ほんとうのところ、怯えているのです、と告白したら、驚くだろうか。

 私は右翼の理不尽な暴力についても何度か取り上げている。その中から右翼の理不尽な暴力と真っ正面から対峙した人に、『噂の真相』の編集長だった岡留安則さんを取り上げた記事を紹介しておこう。

『マスゴミの中にて光る真のマスコミ(1)』

『マスゴミの中にて光る真のマスコミ(2)』

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