2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(12)

死刑廃止論(2)

 辺見さんの論考は次のように続く。

 冒頭に引用した最終宣言やフォンテーン、ジョンストン両議長らのあいさつ、CE議員会議の決議などで、私がとくに注目したのは、欧州各国が死刑制度というものを、単にそれを存続させている国々の内政問題としてでなく、温暖化問題などと同じく、人類社会共通の病弊として非難する姿勢を以前より一段と鮮明にしつつある点だ。そして、死刑制度を存置している日本と米国(制度が州により異なる)に対し、これまでより強い口調で廃止を求めたことも見逃せない。

 ちなみに、いわゆる先進国で死刑制度を存続し続けている国は日本とアメリカだけである。内閣府の世論調査では、「死刑を容認する人が80.3%、廃止を求める人は9.7%」だという。死刑容認者の論拠は次の2点に絞られる。

① 「死刑には重大犯罪を抑止する力となっている」

 実際はどうなのか。「なぜ、アムネスティは…」この問題を詳細に論じているが、殺人罪の発生率は死刑廃止とは関係ないという数値を転載しておこう。
『2010年の統計の人口10万人あたりの殺人発生率は、1位のオーストリアが0.56、2位のノルウェーが0.68、3位のスペインが0.72で、いずれも死刑廃止国です。この統計資料は、死刑を廃止しても、治安の悪化には直結しないことを示唆しています。』

② 「被害者家族が死刑を望んでいる」

 これについては前回、死刑を望まない被害者家族の方たちのことを取り上げたが、その後出会った「死刑廃止論」を訴えているブログ記事をもう一つ紹介しておこう。
『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい』
 このブログ記事は2012年に行われた森達也さんと勝間和代さんの「死刑廃止論」を論じた対談に対して、ネットやツイッターにほとんど罵倒のような激しい批判が書きこまれたという。森さんがそれに対して書いた反論である。その反論は直接読んで戴くことにして、ここでは死刑賛成者たちの「罵倒のような激しい批判」だけを転載しておく。

「この人らに聞きたい。被害者遺族のことは考えているのか?と」

「身内殺されてもこんなこと言ってられるのかね こういう人達は」

「自分の身内殺されて同じせりふ吐けるなら尊敬するよw」

「被害者遺族はガン無視ですか?」

「親・兄弟・友人・恋人…。そういった人が殺されても同じことが言えますか?「言える」のなら人間性を疑います」

「まずは自分の身内が殺されたことを考えてみ!」

「言うなら『私の子どもが殺されたとしても』って前置きしなよ」

「あの世に行って、被害者の前で頭を垂れろ」

「この二人はゴミだね。被害者遺族の身になれw」

「もし家族がだれかに殺されたら(事故ではなくね)、その犯人には死刑になってもらわなきゃ気がすまない」

「人の命は、たとえ犯罪者でも、その犯罪者に蹂躙され、ゴミクズのように葬り去られた被害者よりも重いですか?」

「犯人が死刑になると被害者遺族がスッキリする」

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」

「この二人はカスだ。死刑制度がある理由は一にも二にも被害者遺族のためだ」

「被害者遺族の前で言ってこい! もともと死刑は復讐権の代替手段ってことを理解してないんだな」


 発言者たちは正義を擁護代弁しているつもりなのだろうが、私にはこれらの言葉は被害者家族が抱く深い悲しみや憤りに寄り添っているとはとうてい思えない。むしろ、まるでその苦悩や寂寥を弄んでいるようだ。

 死刑廃止に向けて考えるべき問題がもう一つある。被害者家族の方々への支援である。「なぜ、アムネスティは…」はこの問題についても詳しく論じているが、その基本的な理念についてまとめている部分だけ転載しておこう。

 アムネスティは、死刑判決を受けた者が犯した罪について、これを過小評価したり、許したりしようとするわけではありません。しかし、被害者とその遺族の人権の保障は、死刑により加害者の命を奪うことによってではなく、国家が経済的、心理的な支援を通じ、苦しみを緩和するためのシステムを構築すること等によって、成し遂げられるべきであると考えます。

 最後に、死刑は国家による殺人であることを強調しておこう。現在問題になっている共謀罪と同様、国家による恣意的な死刑適用の可能性もある。私は憲兵隊司令部で甘粕憲兵大尉に虐殺された大杉栄・伊藤野枝・橘宗一(わずか6歳の少年)や、特高警察の拷問によって虐殺された小林多喜二などを思い出している。こうした問題の関連記事も「なぜ、アムネスティは…」から、これも一部だけ転載しておこう。
『世界で死刑を存置している国は、2012年6月末現在で57ヵ国です。そのうち、殺人などの人の生命を侵害する犯罪以外に死刑を用いる国が多くあります。そして、その罪状は、反乱罪など、政府に批判的な人びとに向けられているのです。』

 辺見さんの論考に戻る。

 死刑廃止世界会議の閉会を受けて行なわれたCE議員会議では
「議員会議は日本とアメリカ合衆国に対し、以下のように要求するものである。
ⅰ 遅滞なく死刑執行の停止を実施し、死刑廃止に必要な段階的措置をとること
ⅱ 直ちに死刑囚監房の状況を改善すること」
という、かなり強硬な決議を採択している。これは、日米両国がCEのオブザーバー国であるにもかかわらず、死刑制度を依然存続させているからであり、2003年1月1日までに著しい改善が見られない場合は、CE議員会議として、両国のオブザーバー資格につき異議を唱えるとまで明言している。

 つまりは、経済、軍事、環境、文化にわたる米国主導のグローバル化やいわゆる米国スタンダードの拡大に反発を強める欧州各国が、死刑制度という近代国民国家の暴力的規範のありようについても異議を申し立てたわけである。もはやあらゆる意味合いで帝国主義化しつつあるブッシュ大統領下の米国とそれにただひたすら追従する日本を加えた、欧州対日米連合という外交上の新しい対立構図が、ここでも浮き彫りになったかっこうだ。

 フォンテーン欧州議会議長は、死刑廃止世界会議でのあいさつで
「死刑には重大犯罪を抑止する力がない、という共通の認識が欧州中に浸透しつつある。人命は尊いという原則を侵すことなく重大犯罪から身を守る効果的な方法が現代社会には存在する。死刑は『目には目を、歯には歯を』という古い復讐法の遺物である」
と指摘し、死刑の適用は「生命の聖なる本質を汚すもの」と強調している。こんなことも野蛮な日米両国にはわからないのか、といった高みからの口ぶりにも聞こえぬわけではないけれど、様々の曲折を経て、死刑制度廃止を達成した欧州の自信と、人間と国家を論じるときの、ブッシュ氏や小泉氏には残念ながら逆立ちしても真似のできない格調というものが、ここにはある。

 これに対し、日本政府はどうしたか。会議に参加した「フォーラム90実行委員会」発行のニューズレター『FORUM90NEWS増刊号』によると、死刑は国内問題であり、存廃は世論と国内犯罪状況によって判断されるべきだ、という趣旨の、英文でたった十行ほどの意見書を会議場で配り、顰蹙(ひんしゅく)をかったのだそうだ。このあたり、首相の靖国参拝や教科書問題に関する諸外国からの批判への、居直ってみたり、凄んでみたりの排外主義的対応と変わりがない。にしても、死刑廃止世界会議から帰国したメンバーのだれもがいうのだ。日本ではまだ死刑制度があるのかと欧州各地で驚かれた、と。秘密主義は国内だけでなく、国外でも奏功しているというべきか。

 第二回の死刑廃止世界会議を日本で開く計画があるという。CEオブザーバー国・日本は、直ちに死刑執行を停止し、会議に全面的に協力すべきではないか。

 この会議が日本で行なわれれば、多くの人が死刑廃止の是非を考えるきっかけになったと思うが、残念ながら、第二回の死刑廃止世界会議は日本ではなく、モントリオール(カナダ)で行われている。

 最後にもう一つ、殺人のような重大犯罪をなくす道を考える必要があろう。その道は、これまでの政治を振り返ればただただ絶望するほかないのだが、政府が犯罪の大きな要因となっている貧困や差別や憎悪などがはびこる社会構造を改善していくことに尽きると思う。そのためにはどのような社会が望ましいのか。とても長いのですがカテゴリ「『羽仁五郎の大予言』を読む」の中の「社会主義」を紹介しておきます。

『終末論の時代(19):社会主義(1)』

『終末論の時代(35):社会主義(16)』
スポンサーサイト