2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(4)

「君が代」問題(1)

 1999年に成立された悪法の中の一つが「国旗・国歌法」だった。このとき凡人・小渕首相は「決して強制するものではない」と答弁している。それが現在では人の心を圧殺するような法律になっている。このように本来の意図を隠してウソをつくのは政治権力の常套手段である。いま無知にして無恥な安倍首相が強行採決を目論んでいる「共謀罪法」でも、「テロ等準備罪法」と名称を変えて、「決して一般人を対象とする者でない」などと臆面も無く繰り返しウソを重ねている。

 私はこのホームページを始めたとき、その表題を『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』とした。「日の丸・君が代の強制」がテーマだったので、はじめの頃はそれに関連した記事をたくさん書いてきた。必要に応じて、それらの記事を利用しよう。

 さて、辺見さんは「君が代問題」の表題を「わあがあよおはー」として、枕に次の文を引用している。
『賢治が小学校時代もっとも影響を受けたのは3、4年担任の八木英三先生で、(中略)この人はのちに早稲田大学を出て中学の教師となったが、「君が代は」じゃない「わが代は千代に八千代に」といって問題をおこし、警察に引っぱられたことがあり、敗戦の時まで終始にらまれていた。(堀尾青史「年譜 宮澤賢治伝」から)』
 そして、本文を次のように始めている。

 なるほど、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラにもジョバンニにも、「君が代」などおよそ似つかわしくない。セロ弾きのゴーシュだって、国を背負ったりしていない。「グスコーブドリの伝記」のブドリを、「よき臣民」に見たてるのにはどうしたって無理がある。宮沢賢治の作品群には、つまるところ、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝國憲法・第一章第一條)だの「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(同第三條)だのといった当時の強圧的制度が、いうもおろか、いかなる影も落としてはいない。土台、国籍不明といっていい作品さえ多々あるし、人と宇宙への無限に深いまなざしが、たとえば「皇統連綿」などという概念を、(彼は一度だってそう書きはしなかったけれども)ちっぽけで怪しげなものとして、はるか彼方に遠ざけてしまうのである。

 でも、なぜそうできたのか。彼の内宇宙は、国家や神聖天皇制により無化されるのでなく、逆に内宇宙のほうが、あたかもブラックホールのように、それら共同幻想を手もなく呑みこんで、気がつけば、無と化してしまっている。なぜそれが可能だったのか。彼の作品群を組み立てている銀河系規模といっていいほどの大きな観念に触れるたびごとに、私は不思議に思ってきた。

 とても自由な心の持ち主だったという八木英三先生との出会いを例に、右のわけをいくらかは説明してみたい衝動にかられもするけれども、そうしたくたって、八木先生と賢治にまつわる話というのがそれほど多く残つているわけではない。賢治たちを受けもったとき、先生はまだ十九歳であったこと。教室でエクトル・マロの『家なき子』の翻案である『まだ見ぬ親』(五来素川 ごらいそせん)などの童話を読んで聞かせ、賢治が熱心に耳かたむけていたこと。後に賢治が先生に邂逅(かいこう)した際、自分の童話には先生の話が影響しているとして感謝したといわれること。あらまし、その程度の伝聞にすぎないのだ。

 にしても、「わが代は千代に八千代に」とは大した傑作ではないか。堀尾さんの文をはじめて読んだとき、花巻の尋常小学校の木造校舎で、賢治少年らが八木先生の音頭にり、「わあがよおはー」と大口開けてうたっている図を、私はどうしても想像してしまい、まことに感に堪えなかったものである。この文脈からすると、八木先生が警察に引っぱられたというのは中学教師拝命後と思われるから、厳粛なる「君が代」ならぬ「わが代」斉唱は、残念ながら、賢治の小学時代になされたものではなさそうなのである。いや、そもそも斉唱されたことなどあるのかどうか、じつのところ、まったく不分明なのだ。  問題は、しかし、「わが代」斉唱の歴史的事実いかんではない。「君が代は」じゃない、「わが代は千代に八千代に」だといい放つような教師が、大逆事件より前の1905年ごろ、この国の東北地方に実在し、その先生を小学生だった賢治が好いていたということがより重要ではないか。しかも、皇室に対し「不敬ノ行為」をなした者は、3ヵ月以上、5年以下の懲役に処するとされていた神聖天皇制下の時代に、である。

 もうひとつ注目すべきは、「わが代は千代に八千代に」に漂う、どこか不敵なユーモアである。替え歌といっても、たったの一個所、「君が」を「わが」に替えただけで、趣旨を完全に一変させてしまう智恵と茶目っ気が素敵である。「わが」のところに、「人民」とか「民衆」とかをあてるという政治的発想もあって当然だけれど、そのような紋切り型は、こうした場合、洒落にならない。「わが代」が、あくまでも個人的に、「石の巌となりて苔のむすまで」栄えるという、なんの根拠も屈託もない自己賛歌ぶりが、かえって笑えるのである。

 「君が代」の本歌は古今和歌集の巻第七「賀の歌」の冒頭の歌(題しらず・讀人しらず)であるという説が定説になっている。その本歌は「君が代は」ではなく「わがきみは」で始まる。
「わがきみは千世にやちよに さゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで」

 私は『真説・古代史』で『「君が代」は九州王朝の賛歌』という記事を書いている。一部を転載しておこう。まず、次の文は古田武彦さんの著書『古代史の未来』の「第二部の5:君が代」の全文である。

 1990年、興味深い発見に遭遇した。「君が代」の成立をめぐる問題である。「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、すなわち「博多湾岸とその周辺」の中の地名・神社名・祭神名から成り立っていることが判明したのだ。

A 「千代」―福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」―前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」―前原市井原(いわら)遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」―苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

 ここで、若干の注記が必要だ。
a 「八千代」は「千代」の美称。
b 「いわほ」は岩穂。岩が語幹、穂(あるいは秀)は接尾辞。「いわら」は岩羅。早良が沢羅、磯良が磯羅であるのと同じ。「羅」は接尾辞。「そら」「うら」「むら」等。古代日本語の原型のひとつ。
 一方、志賀海神杜(福岡市)の「山ほめ祭」では「君が代」が〝地歌″〝風俗歌″として述べられる(「歌われる」わけではない)。その言詞(禰宜〈ねぎ〉による)には、
「あれはや、あれこそは、我君の、めしの、みふねかや」
という言葉が登場する。「我君」は対岸の「千代」(博多湾岸)からこちら(志賀島)へ渡ってこられる。― そういう設定の台詞の一節である。船が渡るのは博多湾。「我君」とは筑紫の君なのである。
 つまり、「三種の神器」の分布する博多湾岸、弥生の「黄金地帯」に連綿と伝統してきた行事、その中に「君が代」の歌詞があった。その歌詞は、その「黄金地帯」内の地名や神社名や祭神名を〝連ね合わせ″て作られていた。これは偶然だろうか?

 否、必然だ。弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、「君が代」は、口には丸暗記で暗唱できても、歴史の心からは遥かに遠いのである。

 最後に私は次のような文で締めくくっている。
『古事記・日本書紀が九州王朝の神話・説話を多く剽窃・改竄・接ぎ木している(「真説古代史」参照)が、現代の天皇の誉め歌も、もとは九州王朝のものだったとは、何たる皮肉!もっともこの場合は、意図的な選択ではなく偶然の結果ではあるが、なんという皮肉だろうか。はからずも、天皇家はいまだに本流・九州王朝の威光から逃れられないでいるということになる。』
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