2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
永遠の不服従のために(10)

物書きたちの途方もない背理(2)

 辺見さんは枕に白秋の歌を選んだ経緯から書き始めている。

 いや、なにも、あの人畜無害の「折々のうた」を真似ようというのではない。表現者とその時代のようなことを調べているうち、久しぶりに白秋に行きあたり、懐かしくなったまでのことである。結論を先に述べれば、国家や大正義を微塵も帯びない詩境のほうが、当たり前の話だが、なんだかほっとするよな、ということだ。

 懐かしい新聞連載「折々のうた」が出てきたのでちょっとふれておこう。これは詩人・大岡信さんが朝日新聞で長期間にわたり詩・短歌等を取り上げて解説をしていた連載コラム(1979年1月25日~2007年3月31日)の表題である。この大岡信さんが亡くなったことをつい先だって新聞報道で知った。亡くなられたのは2017年4月5日で、享年86歳。「ユリイカ」(1976年12月号)が大岡信特集を組んでいるので、その雑誌を取り出して懐かしんでいたのだった。

 「業さらし」を続けよう。

 こないだの選挙で権力亡者たちからいやというほど聞かされた、まことに嘘くさい大言壮語の数々が、まだ耳鳴りみたいに頭蓋に残っているせいかもしれない。息み気張って国を論じるより、そんなものどこ吹く風と、ひたぶるに個人の迷妄に生きる。人としてそのほうが好ましい気がしてくる。猫も杓子も、にわか国士よろしく政治に口角泡を飛ばす今日このごろ、たとえばの話、人生裏街道で密かにしっぽり色恋に浸かりこむなり、カトンボの性器研究のたぐいに一意専心するなりの、まったき非政治を貫くほうが、おそらく政治よりよほど根性がいるだろうけれども、いっそまっとうというものではなかろうか。といった、ひねくれた見地から、おそれ多くも、青年白秋の歌を引用してみたのである。

 さて、痩せても枯れても白秋ではある。冒頭の歌は、さっと読み流したって、技の冴えがわかる。けれど、この歌、どことなく演歌調だからか、概して高くは評価されていないようなのだ。一部の解説書などは「文学的価値に乏しい」とまで断じている。だが、文学的価値なんぞはなから信じない私は、この歌が嫌いではない。同じ『桐の花』の「哀傷篇」のなかでは、

一列(ひとつら)に手錠はめられ十二人涙ながせば鳩ぽっぽ飛ぶ」

も、哀切かつユーモラスで、思わず引きこまれる。また、歌境の深みにおいて、これら二首に負けないのは

監獄(ひとや)いでてじっと(ふる)へて()む林檎林檎さくさく身に染みわたる」

であろうか。しかしながら、三首のいずれも、とてもじやないが、褒章対象作品にはなりえない性格なのである。つまり、"非国民"的であり、いわば業さらしの歌なのだ。むしろ好ましいのは、そこである。

 牢獄だの手錠だのというから、大逆の罪か革命運動に連座するかして捕まったのかといえば、そんな恰好のいい話ではない。隣家の新聞記者夫人、松下俊子と、いまでいう「不倫」の仲となり、白秋は夫から姦通罪で訴えられ、市ヶ谷の未決監に拘束された。明治45(大正元、1912)年、歌人白秋28歳の人気絶頂のときであった。「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役二処ス其相姦シタル者亦同シ」という旧刑法がまかり通っていた時代である。

 二週間ぶちこまれ、示談が成立して自由の身になったものの、人気歌人のスキャンダルとして新聞で報じられ、世間の好奇の目にさらされたわけだから、白秋の落ちこみようといったらなかった。三首はそのころ詠まれた、いまふうにいえば、トホホの歌なのだ。「かなしきは」と「一列に」は、囚人用の編み笠をかぶせられ、他の囚われ人らと数珠つなぎにされて、砂利道を囚人馬車で未決監へ送られたときの情景。「監獄いでて」は、保釈後、久しぶりの自宅でひとりうずくまり、冷たいリンゴを食べたときの心境であろう。「哀傷篇」には、これら三首以外にも

「夕されば火のつくごとく君恋し命いとほしあきらめられず」

などという、なんと申しますか、フランク永井の「君恋し」みたいな、ただもうメロメロの歌もある。第一首の礫道(こいしみち)は、どうやら「恋し道」の懸詞(かけことば)みたいだし、いわれてみれば、「文学的価値」にはたしかに乏しいのかもしれない。

 しかしなあ、と私は疑るのだ。唐突だけれども、

「天皇(すめらぎ)は戦い宣(の)らしあきらけし乃ち起る大東亜戦争」
だとか

「ああ既に戦(たたかい)開くまたたくま太平洋を制圧すれば」

には、いったい、いかなる「文学的価値」があるのだろうか。なおまた、

「天(あめ)なるや、/皇御神(すめらみかみ)のきこしをす/道直(ただ)にして聖戦(みいくさ)とほる。/(中略)/国挙げて/奮ひ起つべし、/大君のみまへに死なむ/今ぞこの秋(とき)。」(「今ぞこの秋」)

などという歌に、どのような佳味があるというのか。これらは別人の詩歌ではない。功なり名を遂げた北原白秋が最晩歳、すなわち1942(昭和17)年に発表した。前者は「大東亜戦争」と題され、初出は『日本評論』。後者の、いま読めばじつに馬鹿げた歌は、ほかでもない、『サンデー毎日』(同年1月4日)に寄せられた。現在はどうか知らないが、サンデーも当時は、他誌同様に、堂々翼賛の一角を担っていたのである。

 余分なことだけれど、ここでまたチョット一言。辺見さんの著書『不服従』は「サンデー毎日」に連載された記事が元になっている。

 いうまでもなく、これらの詩歌は前年12月の太平洋戦争開戦、そして、天皇による宣戦の詔書に昂奮して綴られており、
「神怒り大いに下る冬の晴ホノルル爆撃の報爆(は)ぜたりぬ」
なんていうのもある。白秋だけじゃない、上は茂吉から下は無名歌人まで、みんながこの手の歌を詠んだのだといえば、そうなのだけれど、おいおい、「かなしきは人間のみち牢獄みち」はどこへ行ったの、と問うてみたくもなる。ちょっと、あんた、「林檎さくさく身に染みわたる」を忘れてしまったの、と。人妻に手をつけて姦通罪でブタ箱にぶちこまれるのは、業さらしかもしれないが、戦争賛歌をみんなでうたいあげるより万倍もましだ。若いこの業さらしで、いささかなりとも地獄を見たことがあるのなら、しかも、それを詠んだことさえあるのだから、口をぬぐって「国挙げて/奮いひ起つべし」なんていっちゃいけないよ、と私は思う。

 白秋を批判したいのではない。問題は、いまなのだ。景気が悪いくせに、いや、景気が悪いゆえにか、頭に血が上り、気持ちがこれまでになく怒張気味のこの国で、トホホの私的過去をかなぐり捨てて、妙に勇ましくなってしまった物書き、評論家、記者が増えている。今ぞこの秋、国挙げて奮い起つべし、みたいなことを、眼を充血させていっている。笑止千万である。俺もあんたたちも、業さらしの昔のほうが、よほどましだったのに。

 この国でものを書くということは、といま再び私は考える。そう意識しようとすまいと、戦前、戦中の物書きたちの途方もない背理と、どこか深いところで関係することを意味する、と。

 ちなみに、私は「戦前、戦中の物書きたちの途方もない背理」の記事を《『羽仁五郎の大予言』を読む》シリーズで書いている。そこには新聞や著名な物書きたちの大政翼賛ぶりの言説を取り上げている。紹介しておこう。 『終末論の時代(2):ジャーナリズムの死(2)』
スポンサーサイト
永遠の不服従のために(9)

物書きたちの途方もない背理(1)

 辺見さんは「業さらし」と言う表題を付して、枕には北原白秋の歌集『桐の花』の「哀傷篇」から、次の作品を引用している。

かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の(きし)みてゆく礫道(こいしみち)

 本文に入る前に注を付しておこう。辺見さんが表題に用いている「業さらし」。私はこの言葉に初めて出会った。例によって広辞苑で調べてみた。
『ごう・さらし【業曝】
①前世の悪業(あくごう)の報いによって、現世で恥をさらすこと。また、その者。ごうつくばり。因果ざらし。
②人をののしっていう語。恥さらし。浄、油地獄「ヤイーめ提婆(だいば)め」浄瑠璃 女殺油地獄』

 ①は古い時代から用いられたきた本来の意味であろう。前世を信じている人などほとんどいない(と私は思っている)現在では単純に②の意味で用いられているとしてよいと思う。

 もう一つ、「哀傷篇」は白秋が姦通罪(戦後廃止されている)で告訴され、獄につながれたときの歌で成り立っている。このことについて、手元にある①「白秋詩集」(思潮社・現代詩文庫)と「北原白秋特集」を組んでいる②「ユリイカVOL.5.15(1973年刊)」を用いて予備知識を得ておくことにする。まず、①を用いて事件関係に絞った年表を作っておく。

1910(明治43)年・26歳
 9月、青山原宿へ転居。隣家の松下俊子(22)を知り、恋愛へと発展する。
1911年・27歳
 2月、京橋木挽町へ移る。
 12月、京橋新富町に移る。
1912年(大正1)年・28歳
 2月、一家と浅草聖天横町に住む。
 6月、京橋越前堀へ移る。
 7月16日、俊子が白秋のもとへ走ったため、姦通罪で告訴され、拘留される。
 同月20日、弟鉄雄の奔走によって保釈。のち300円で示談が成立。
 8月10日公判で公訴棄却放免となる。
1913年・29歳
 1月、自殺を思いつめ、海路三崎へ渡る。同月、処女歌集『桐の花』を刊行。
 4月、俊子と再会し、結婚。
 5月、一家をあげて三崎向ヶ崎の通称異入館へ移る。
1914年・30歳
 2月、妻俊子の病気療養のために小笠原父島へ渡る。
 7月、帰京し、麻布坂下町に一家と同居、俊子と離別。
(松下俊子は1954年に死去。66歳だった。白秋は1916年5月、江口章子と結婚している。1942年11月2日に死去。58歳だった。)

 ②に「北原白秋の復権」と題する共同討議記録がある。参加者は吉本隆明・鮎川信夫・大岡信・山本太郎・入沢康夫。この記事から白秋の姦通罪事件を論じている部分を転載しよう。
著者 (著)

吉本
 それで、プライベートにわたって申し訳ないですけど、その事件で、けっきょく成就したわけですか、恋愛は。
入沢
 結婚したわけでしょう。
山本
 ちゃんと入籍までしたわけです。ぼくは母親から聞いた細かい話がいろいろあるけども、いいのかね、そんな話しして(笑)。
大岡
 藪田さんの評伝で、かなり詳しいことまで出てきたね。(管理人注:藪田義雄著『評伝北原白秋』のこと)
山本
 あれはそういう意味では非常に貴重なもので、今まで揣摩臆測(管理人注:しまおくそく:あて推量)みたいなかたちで語られていたり、興味本位で扱われたものへの正しい指針になるものです。なにしろ長い間、身じかにいた人が、更に色々しらべて正確に書いた労作だからね。
大岡
 読んでみると「姦通事件」という、そういうことばで感じるようなものじゃないですね、ぜんぜん。ものすごく初なものですよ、若いしね、隣家の亭主の新聞記者がちょっと性格異常みたいな男でね、その若妻に同情しちゃうわけね。その若妻がまた非常にコケットなんで、白秋は青年の純情な気持で同情しているうちに、だんだん二人の気持が近寄っていく。そういうかたちになっているから、姦通事件というような、そういうことばでね……。
鮎川
 いや、それは戦前のことばさ。 入沢
 姦通罪があったときのね。
吉本
 いや、ぼくもそう思いますよ、よくないって。訂正してもいいくらいよくないですよ。恋愛事件だ。
山本
 まあ、「いわゆる姦通事件」でいいですけどね、白秋自身に小笠原の小品とか、いわゆる詩作、歌作以外の文章があるわけですが、そういうもののなかで、ぼくは結婚するまで神に誓って肉体関係は結ばなかったと、はっきり書いていますよ。ただしかし問題はそれが成就はしたんだけれども、同情が愛情というものへ変貌した事に気づいた時にハタンがうまれる。白秋はつねに受け身なんだ な、ある意味では。ぼくの聞く限りでは、その女性は白系露人みたいに大柄な女性で、顔もちょっとエキゾチックな人で、エキセントリックな性格の持ち主ではあったらしい。ちょうど三崎へ北原家が没落して落ちのびたときと重なったわけですよ。すべていちどきに若い白秋の身の上に重たいものがドサーッとやってきた状態だから、傷も深かった筈ですよ。ところが三崎では白秋自身は生活のことはなにもしないわけだ。どうも白秋のそういう、詩作三昧ってところが(祖父さん祖母さんや、ほかの叔父たちの話を総合するとエゴイズムだが)ぼくにはえらかったと思える点でもありますね。白秋は離れ座敷で彼女と二人で閉じ籠もったまま詩を書いとる……なんかしとるんだな。父親が怒って回り縁を下駄でガタガタさせながら、「隆吉(白秋の本名)出てこいッ」というようなことをいって怒鳴る。そういう連日なんだね。そういう連日のなかで作品を書いていたわけでしょう。破産した北原家は金がなくて少し持ってきた小判があるから、それを金に替えて生活していたらしいですね。魚の仲買業をやっては騙され……それは後にアルスの社長になった弟の鉄雄さんと白秋の父親と、二人でやるわけですけど、まあ武士の商法というか素人商売でどっちみちうまくいかない。それでみんなはまた東京へ引揚げるということで、白秋たちだけが二人三崎に残った。で、なおかつ今度は、そこにもいれなくなって小笠原に行くわけですよ。小笠原に行けば完全な孤独な状態になるのはわかりきっている。二人は対面せざるをえないわけですよ、ひとりの女とひとりの男が。「シンジツニ人ハ遣瀬ナシ/シンジツー人ハ堪ヘガタシ」(最尾に全文を①から転載しておきます)つてことになるわけよ(笑)。その上奥さんのほうは胸が悪くなったりするわけでね。今から考えてもすごい孤島だけど、その頃は文字通り鳥も通わぬ離れ島だったに違いないんでね。よくもあんなとこまでいっちゃったと思うんだけど、で、奥さんのほうが先に帰ってきちゃう。つまり事実上の離婚ですよ。
大岡
 けっきょく、白秋は責任とったかたちで結婚したわけでしょう。社会的な責任をね。
山本
 そういうことになるね。そしてむしろ彼女のほうが逃げ出したというかたちになる。
大岡
 生活に耐えられなくなってね。
山本
 だから小笠原での詩文というのは、ぼくはよく読むと非常に面白いと思うんだ。
(以下略)

詩集『白銀之独楽』所収の「他ト我」
 二人デ居タレドマダ淋シ、
 一人ニナツタラナホ淋シ、
 シンジツニ人ハ遺瀬(ヤルセ)ナシ、
 シンジツー人ハ堪ヘガタシ。

 大分前置きが長くなってしまった。次回から辺見さんの本文を読んでいこう。
永遠の不服従のために(8)

未必の故意の罪

【未必の故意(みひつのこい)】
 行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図ないし希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生する『かもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、あえてその危険をおかして行為する心理状態。(「広辞苑」より)


 「倒錯」、「残忍」と右に書いた。それはしかし、彼ら戦争犯罪人たちだけのものではない。米英指導者により予告され、大禍をだれもが予想し、事前から具体的被害規模さえ計算されていたこの戦争犯罪を、確実に起きると知っていながら阻止できなかった、いや本気では阻止しようとはせずに、まるで集団処刑を遠巻きにするように環視した今日の社会もまた大いに倒錯的であり、たとえようもなく残忍なのである。いわば「未必の故意の罪」をわれわれは例外なく負うているといってもいい。風景は透明だが、ある意味で直接に人を殺害する以上に重い人道の罪が日本でもそれと知らず犯されている。

 たとえば、「テレビ東京系の株番組が開戦日に過去最高の視聴率を記録した」という何気ない記事(2003年3月31日、中日新聞)を読んで私は眩暈(めまい)さえ覚えた。法的には犯罪ではないし、むろん犯意はだれにもない。だが、より深いまなざしを注ぎ、よりつよい内省をするならば、これは人倫の根本を侵す残忍な罪であり倒錯でもあろう。人間集団の透きとおった倒錯、無痛かつ無意識の残忍性だからこそ罪深い。

 この文脈で、バクダッド猛爆の最中にさいたまスーパーアリーナで開催された格闘技戦に数万の観客が押しかけ、殴り合い、蹴り合いに熱狂し、これを放送したテレビ番組が29.1%もの瞬間最高視聴率を記録した事実も、倒錯とはなにか、残忍とはなにかを考察するうえで貴重である。この疑似イベントの放送時間帯に他のチャネルでは米英軍の正真正銘の大量殺戮を報じていた。同じ日、都内で行われた反戦集会には格闘技戦の数分の一程度の人々しか来なかったのだ。無意識の残忍と集団倒錯は社会のすみずみにまで広がっている。

 マスコミという「意識産業」は情報を消費する人びとの意識を収奪し、現体制を維持するために新しい意識を誘導していると喝破したのは1960年代初期のエンツェンスベルガーだったが、40年後の現在も事態は基本的に変わってはいないようだ。人びとは真正の出来事よりも疑似イベントに"リアリティ"を感じつつあり、またそうなるようにし向けられてもいる。疑似イベントは「リアル」をしきりに演出し、日本の戦争報道の一部はおおむね米国のフィルターを通して「リアル」を極度に薄める、というより「米国の正義」という途方もないフィクションをリアルに演出しようとするのである。

 余談だが、そうした質の報道がこのたびももっとも顕著なNHKの集金人が某日、大殺戮戦争の最中に私の友人の家を訪れ、受信料の支払いを求めた。友人は(集金人にぶつけても詮方ないと思うのだが)NHKワシントン支局長らのコメントをはじめとするいくつかのブッシュ政権寄り報道などを例に挙げ、報道が「公正を欠く」し「虫酸が走る」として支払いを拒否したところ、集金人は「あんたみたいな人が増えたら日本は北朝鮮のようになる」と捨てぜりふを残して退散したのだそうだ。軽度の倒錯はこの風景にもある。ただし、同支局長らの罪はさておき、日本国策放送協会に意識を収奪された薄給の集金人氏には、いうまでもなく本質的罪はない。

 日本の主要メディアの特派員らは本社の「慈愛に満ちた」業務命令を受けて、みなバグダッドから退去した。かわりに、下請けプロダクションやフリーランス記者らと契約して取材を肩代わりさせている。高給の自社記者の命は大切に、ろくな保障もない外部記者らの命など二の次という非情の構造のなかで現在の戦争報道はなりたっている。在バグダッドのフリーの記者らはいま、文字どおり死線をさまようがごとくの取材を余儀なくされている。大メディアのデスクらは安全圏に居すわり、フリーの記者らの情報を自社のそれのように伝えている。「人道」を語るメディアの無意識の残忍性がここにある。加えて、残虐な死体の映像は流さないという日本メディアの「人道的配慮」が非人道的殺戮への怒りを薄め、米軍のいう「きれいで迅速な戦争」という実際にはありえもしない宣伝の手助けをしているのである。いったい、メディアはかつてのベトナム報道や前次の湾岸戦争報道の過誤からなにを学びなにを教訓として受か継いだのだろうか。皆無ではないのか。

 経験の浅い記者が送稿したのであろうか、4月はじめに朝日新聞に大きく掲載された「従軍取材自問の日々」という記事を読んで絶句した。疑いもなくこの記者は率直で正直で良心的である。それは裏を返せば、言葉のもっとも悪い意味でナイーブにすぎ、哀しいほど不勉強でもあるということだ。記事によると、彼は同行した米海兵隊とは別の米軍部隊がイラク軍陣地を迫撃砲で攻撃し、それが命中したのを見て、まわりの米兵らとともに思わず「歓声を上げ」たと告白している。一方で、
「私は中立であるべきジャーナリストであり、攻撃の成功を喜ぶべきではない」
「しかし、『やった』という感情は無意識のうちにわき上がった」
と悩む。しまいには
「今回の戦争をどう考えるか、という結論を私は出せずにいる。米国にもイラクにも問題がある、ということまでしか言えない」
とまことに素朴に述懐するのである。年季が浅いということだけで、これは済む話ではない。記者が「ストックホルム症候群」に陥っているのではシャレにもならないのではないか。

(注)ストックホルム症候群
 被害者が加害者に同情や連帯感をもつこと。1973年にストックホルムの銀行に強盗が入り一週間にわたり職員らを人質に立てこもった際、こうした現象が起きたという。


 私もかつてソマリアで米軍側から戦闘を取材したことがある。だが、「武力による平和の執行」と称して人を殺す米軍の作戦行動には激しい怒りを覚えるのみで一瞬たりとも共感したことはない。「中立であるべきジャーナリスト」とは果たしてだれが教えたのか。「中立」とは狡猾な政治的概念なのであり、記者が戦争や人道を表現するときの普遍概念ではありえない。まして、圧倒的な兵力が一切の国際法を無視して侵略を強行し、無辜(むこ)の人びとを殺しつづけているとき、記者にいかなる「中立」がありえるのか。末尾の「判断保留」にも驚き入るほかない。同紙の読者のほとんどはつとに「結論」をだし、米英への怒りを露わにしているのである。メディアの度しがたい錯誤がここにもある。

 ポチ・コイズミはイラク特措法に基づく自衛隊の派遣地について、国会で「自衛隊がいるところが非戦闘地域」「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という無責任極まる答弁をしている。現在南スーダンに派遣された自衛隊の任地についても「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」政権が「戦闘行為ではなく散発的な衝突」などといった詭弁を繰り返している。

 戦争で死ぬのは直接戦闘に立ち会った者だけではない。間近に戦争を体験したトラウマの所為で自死する人たちもいるだろう。イラク特措法に基づき派遣された隊員のうち在職中に死亡した自衛隊員数(2007年10月末現在)を防衛省が発表している。

陸上自衛隊 14人(うち自殺7人、病死1人、死因が事故又は不明6人)
海上自衛隊 20人(うち自殺8人、病死6人、死因が事故又は不明6人)
航空自衛隊 1人(うち自殺1人)

 これらの人たちの死因が間近に戦争を体験したトラウマの所為かどうかは即断は出来ないが、『イラク派遣隊員29人が自殺 帰還隊員らが語ったPTSDの恐怖』(週刊朝日 2015年8月28日号)が次のように報じている。
『10万人当たりで換算すると、陸上自衛隊のイラク帰還隊員の自殺者数は38.3人。これは、一般職の国家公務員の21.5人、自衛官全体の33.7人(いずれも13年度)に比べても高い値だ。』
永遠の不服従のために(7)

ポチ・コイズミの悪政(2)

 ポチ・コイズミの悪政の中でも最もあくどいのはブッシュのイラク侵略戦争に手を貸した自衛隊の派遣だろう。私のブログでもこの問題を多く取り上げてきた。その中から、「URUK NEWS イラク情勢ニュース」というサイトから配信を受けていたメールを全文転載した『今日の話題「戦争犯罪人ブッシュが残した惨禍」』を紹介しておこう。イラク侵略戦争を強引に進める為にブッシュが挙げた理由が全てでっちあげであることや、この悪事により殺された人たちの膨大な数なども書かれている。

 ふと、このお世話になったサイト「URUK NEWS イラク情勢ニュース」さんはどうなっているのかなと思って調べてみたら、なんと、現在も精力的に活動している。紹介しておこう。
d bgcolor="yellow">『イラク戦争の真実』

 さて、イラク侵略戦争は2003年3月20日に開始された。当然のこと、2002年に出版された『不服従』にはそれに関連した記事はない。しかし、「永遠の不服従のために(1)」で紹介したその後の著作には全てイラク問題が取り上げられている。特に『抗暴』の最初の「1・2・3」章はイラク侵略戦争を論じている。最後の「3」は「いま、抗暴のときに」という書名と同じ表題になっている。この章(以下、3章と略記する)を読んでいくことにする。

 が、その前に一つ触れておきたいことがある。私は「抗暴」という熟語に初めて出会ったとき、使われている漢字からおおよその意味は予想できたが、辞書を調べてみた。国語辞典にも漢和字典にもなかった。辺見さんは「3章」の枕として、『中日大辭典』(増訂第二版)からその意味を転載している(発音記号は表示できないので読み方をカタカナで表示しる)
〔抗暴〕(カンバオ) 反動的暴力に抵抗し反撃する
念のため手元にある「中日辞典」(小学館)で調べてみたら「抗暴闘争」という熟語も掲載されていて、その意味は「圧政に対する闘争」となっていた。「反動的暴力=圧政」と考えてよいだろう。「3章」の本文中で、辺見さんはこの言葉を用いるモチーフを次のように述べている。

『この言葉は国家暴力に対する熾烈な抵抗の経験を欠くこの国の辞書にはない。単に心のなかで暴力を忌み嫌うということではない。抗暴は意思的な抵抗であり、反撃である。私かそれを好もうが嫌おうが、心優しい反戦パレードの季節をひとしきりへてから、厳しい抗暴の時代がこの国にもきっとやってくるにちがいない。おぼろないまの風景と人の真意はそのときはじめてはっきりとするはずである。』

 私はアメリカ合衆国を「ならずもの国家」と呼んでいる。私は『マスコミに載らない海外記事』を愛読しているが先日(4月16日)の記事『低能連中の政府』がアメリカのならずものぶりを克明に暴いている。その出だしの文を転載しておこう。
『アメリカ人であることが、ばつの悪いことになってしまった。アメリカには連続4人の戦犯大統領がいる。クリントンは、1995年と1999年、NATOに旧ユーゴスラビアを爆撃するよう二度命じ、二度セルビアに軍事攻撃をしかけたので、ビルの戦争犯罪は二件だ。ジョージ・W・ブッシュは、アフガニスタンとイラクに侵略し、パキスタンの県とイエメンを空爆した。ブッシュは戦争犯罪を4つおかしているわけだ。オバマはリビアを破壊するのにNATOを利用し、シリアを破壊するために傭兵を送ったので、戦争犯罪を二度おかしている。トランプは、アメリカ軍によって、シリアを攻撃し、政権の初めに戦犯となった。』

 今回のトランプによるシリア攻撃には辺見さんも激しい怒りを示している。次の文は『辺見庸ブログ』の4月16日の記事である。

トランプの脳天にMOABを投下せよ!――誤爆ではなく、正確に直撃せよ

 世界にとっては基礎づけるものとしての「根底」がみいだされなくなっている。と、ハイデガーがかたったのは1950年あたりだったか。以来、この根底のない時代はずっといっかんして「深淵に懸かっている」。世界の夜の時代には、世界の深淵がいくども経験され、耐えられねばならない。そのためには、まずもって「深淵にまで到達する人びと」を要する。

 世界の夜――乏しい時代は長い。「…そして乏しき時代にあって、なんのための詩人か」。あるいは、なんのためのテロリストか。乏しき時代にあっては、暴力はなるたけただしく行使されなければならない。トランプの頭にMOAB(Mother of all bombs)を投下せよ!誤爆ではなく、正確に、目的意識的に、直撃せよ。クソのつまったあのおぞましい金髪頭を吹き飛ばせ。

 さて、『抗暴』の「3章」には紹介したい文章が一杯あるのだが、辺見さんがイラク侵略戦争を推進している者たちへの激しい怒りを吐露している部分を転載しておこう。

 このところはイラク侵攻のことばかりを綴っているのだが、ふと気がつくと、原稿が一本終わるごとにイラク住民が少なく見積もっても数百人単位で殺されたり負傷したりしているのである。そうやって数えていくと、駄文を一行連ねるたびに、子や母や父がいままた一人、ああまた一人と殺されているではないか。書きあぐねれば書きあぐむ間にも、さらにまた数人の躯が爆撃で襤褸(ボロ)のように千切られ、噴きだした血や脳漿(のうしょう)や臓腑にまみれてもはや人としての形をなさなくなった切ない肉塊が、それでも一刻後の理不尽な死を前に、生きる者として最期の呻き声を幽(かす)かに上げようとしているのではないか ―― という絶望的な想像にとらわれてしまうが、それが誇大妄想でもなんでもない圧倒的な事実であるということに心づくとき、他のいかなる犯罪よりもはるかに倒錯的で残忍な米英のこの一大凶行を腹の底から憎まずにはいられなくなるのだ。ことこの憤怒にかぎり、私は抑制の要を毫も感じない。ことこれを記すにかぎり、ときに表現が常軌からはずれることもみずからに許さざるをえない。

 で、謹んで以下を申し述べる。ブッシュよ、チェイニーよ、ラムズフェルドよ、ブレアよ、そして彼らに無責任に加担したコイズミよ、とくと念を入れて見よ。これがお前たちのいう「正義」と「解放」と「自由」と「文明」がもたらした光景なのだ。もしも一片でも人の心をもつならば眼も潰れんばかりの惨状だ。忘れるな、この地獄絵の責任の大半はお前たちにある。

 「責任の全部」ではなく「大半」と言っている。このあと、われわれは例外なく「未必の故意の罪」を負うていることを論じている(次回に続く)。
永遠の不服従のために(6)

ポチ・コイズミの悪政(1)

私は、ブッシュに醜い媚を売った小泉純一郎首相(2001年4月26日~2006年9月2日)を「ポチ・コイズミ」と呼んで、その数々の悪政を取り上げた記事をたくさん書いてきた。1999年問題の悪法の一つ、周辺事態法などの戦争協力法を強引に推し進めたのもポチ・コイズミだった。
(ポチぶりの映像を転載した『今日の話題 ジャーナリストのあるべき姿勢』を紹介しておきましょう。

 さて、辺見さんは『不服従』で「国家の貌」と題してポチ・コイズミを取り上げている。枕には柄谷行人さんの次の言葉を引用して本文につなげている。
『一般的にいって、国家はその内側から見ると、見えませんね。』(柄谷行人「20世紀・近代・社会主義」「週刊読書人」2001年7月13日号から)

 樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。国家は、むろん、樽状でもなければ井戸状でもなく、ときに「共同幻想」などと呼ばれるほど、とらえどころのないものだ。その貌(かお)の解明は、いとど困難ということになる。一国家を内側から見たときと、一国家が外側から見られたときの、いわば「視差」のようなものについて、どれほど感性が聡(さと)いか ー それが、いま、決定的に大事である。

 私もときおり賢(さか)しらがり、共同幻想を連発してきたくちだが、なに、とくとわかっていたわけではない。内側のまなざしと外側のまなざしの区別と連関までは、とてもじゃないが思い至らなかった。で、冒頭の引用に併せ、柄谷氏の次の文章を読むと、おぼろだったものがいちだんとはっきりしてくる。

「国家は共同幻想だというのは、内部から見たときにのみいえることです。国家は、何よりも他の国家に対して国家なのです。共同幻想という考えは、そのような外部性を消してしまいます」(『倫理21』)。

 自国に対し、他国があれやこれやの非難を加えてくる。それは誤解だ、誤解を解かなくては、真意を説明しなければ、と自国の政治家は焦る。ないしは"外圧"に反発し、居丈高になる。だが、それはほんとうに単なる「誤解」なのだろうか。ポイントはここにある。それはひどい誤解だ、歪曲だと、自国の者たちがいくら歯ぎしりしようが、他国の眼にそのように映じてしまった像こそが、そのときの国家の実像ということにもなるのではないのか。なんとならば、国家はひとりであるのでなく、他の国家に対して国家なのだから。

 内部から見た国家像に固守するとき、嫌中・嫌韓といったヘイト感情に囚われる。一方その裏側で根拠のない日本ホメという自己満足に浮かれる。内部から見た国家像しか認めない似非愛国者が量産される。

 本稿執筆段階で、小泉首相は8月15日の靖国神社参拝の意向を変えていないようである。彼のたまわく、「熟慮断行」とか、参拝後に中国や韓国の理解を求めるとか、「日本人は死ねばみんな仏様」とか。中韓両国とも、首相の靖国参拝の真意を曲解しているといわんばかりである。"外圧"に屈して翻意するのはいやだという心情もほの見える。これらすべては、この国の内側からの発想であり、外部がなぜ憤っているかについての省察は皆無に等しい。「視差」の感覚がこれほど鈍い政治指導者も珍しいといわなくてはならない。

 靖国神社の問題はA級戦犯合祀の不合理にとどまらない。戦前は陸・海軍省所管の別格官幣社(かんぺいしゃ)であり、日清、日露、日中戦争、太平洋戦争などの戦没者を合祀しているけれども、犠牲になったおびただしいアジアの人々や原爆犠牲者は祭られていないことなどもある。戦後は国家神道の禁止にともない、東京都知事認証の宗教法人となったが、春秋二回の例大祭には天皇からの勅使が遣わされ、秋には合祀祭もとりおこなわれる慣例である。形式は変わったものの、戦前・戦中と戦後のまったき断絶とは到底いいがたいのだ。そのことは国内外から一貫して批判されてきたのだが、ことしは様相がずいぶん異なる。「内の眼」が相も変わらず弱視状態なのに比べて、「外の眼」はいつになく厳しく、鋭いのである。

 そのわけは、いうまでもなく、「新しい歴史教科書をつくる会」編集の中学歴史・公民教科書がこの四月に文部科学省の検定を合格したことにある。植民地支配や侵略戦争への反省の意思がきわめて薄く、「慰安婦」制度への言及もなく、明治憲法と教育勅語を評価し、日本民族の優秀性をことさらに強調するような教科書が国の検定を通ったということは、検定制度の実質とはかかわりなく、おおむね国家意思の体現ではないかと外部の眼には映っているのである。さらに、日本側が中韓両国の修正要求を拒否したことで、反発は憤りに変わっていった。

 そればかりではない。1999年の周辺事態法など戦争協力法の成立に加えて、有事立法整備を唱え、集団的自衛権行使に向けた積極発言を行い、米国のミサイル防衛構想に理解を示すような昨今の小泉首相の姿勢もある。

 これら日本側のふるまいは、それぞれ別個に脈絡なくなされているのではなく、じつは地つづきなのであり、統一した流れなのではないかと外部の眼は危惧しているわけだ。それは、国家というものが、柄谷氏の指摘のとおり、他の国家との関係性において、はじめて国家として立ち現れるものである以上、当然といえば当然のことなのである。この国の顔貌(がんぼう)とは、かようしかじかなのですと、内部の者が口先だけでいくら主張しようがすまいが、外部の眼に結像しているそれはまったく異なる、ということだ。北朝鮮やイラクに対する日本の一般的まなざしを思えば、そのことは了解できるはずだ。その意味で、この国は主観的には優しい顔をしていると思っていても、いま、客観的にはまちがいなく「悪相」と見られているのである。

 国家の貌は内部の者が決めるのでなく、外部によって決定されるといってもいいだろう。国家間では、実行のなんらともなわない主観的心情の自己申告など信用されるわけがない。侵略戦争を肯定しているのではないと弁明しても、反対を押し切って、A級戦犯を合祀している靖国に参拝するということは、すでに国際的に裁かれたこの国の「平和に対する罪」を、他意あって覆しつつあることを意味すると、外部には見なされる。多くの若い日本人バックパッカーがアジアの旅行をとおし肌でつとに知っているこうした理屈を、大名旅行しかしたことのない政治家やアジア嫌いの歴史家、はたまた、このところ跳梁している国家主義者たちはどうしても理解できない。無理解はさらに高じて、中韓に対し反発をつよめ、「内政干渉」とまでいいつのっている。危なくはないか。

 容姿の善し悪しって、本人にはなかなかわからないものだ。とりわけ、容姿の変化にはどうも疎(うと)い。いまは、誤解でも曲解でもなく、他国のほうが、日本の面相の穏やかならざる変化を、正確に感知しているのかもしれない。

*小泉首相はアジア諸国からの反発を受け、結局、2001年8月15日の参拝を避けて、同13日に靖国神社に参拝した。現職首相としては96年7月の橋本首相の参拝以来5年ぶりであった。

永遠の不服従のために(5)

「君が代」問題(2)

 前回引用した辺見さんの論説は次のように続いている。

 翻(ひるがえ)って、象徴天皇制下にして不敬罪もないはずのいま、八木英三先生のような教員が、ほぼ絶滅しかかっているのはなぜなのだろう。それどころではない、1999年の「国旗・国歌法」採択以来、学校では現行憲法がうたう「良心の自由」など、事実上否定されているに等しいではないか。新聞やテレビではあまり詳しく報じられていないけれども、入学式や卒業式での日の丸掲揚や「君が代」斉唱に逆らう教職員らが、このところ多数処分されている。胸に抗議のリボンをつけただけで、地方公務員法の職務専念規定違反だとして戒告されたりしてもいる。そればかりではない。マークシート方式で日の丸・君が代に対する教員らの意識調査というより思想チェックをやってみたり、一部には陰湿きわまりない監視までなされている。

 これに加えて、小中学校で2週間、高等学校で1ヵ月間の奉仕活動を行い、やがて満18歳の国民すべてに1年程度の奉仕活動を義務づけるといった、「教育改革国民会議」の提案も、現場教員らのとまどいのもとになっているという。さらには、中曽根元首相や「新しい歴史教科書をつくる会」などがしきりに唱える「公の観念」の発揚なども、教育現場への精神的圧力になっている。復古調の教育指針を押しつける側にも、それに抗う側にも、心の閉塞はあっても、どうやらユーモアもヘチマもありはしないようなのだ。

 さて、どうだろう、2001年のせんせいたちも、八木先生にならい、「君が代」じゃないぞ、「我が代は千代に八千代に」だぞと、教室でもいい、職員会議でもいい、敢然といい放ってみたら。そこて盛り上がれば、「わあがよおはー」とみんなでうたうも結構、うたわぬも結構。それだけのことで、もしも、いちいち処分がでるとするならば、この国は90数年前と同じということではないか。思えば、教育への強権的な干渉者たちは「オッペルと象」のオッペルに似てきている。"象"にはオッペルを踏みつぶす力もないのだけれども。

 「マークシート方式で日の丸・君が代に対する教員らの意識調査」が行なわれていたとは知らなかった。こんな憲法違反の調査は全員で拒否してしかるべきだ。

 また、「奉仕活動の義務づけ」の目論見は「自衛隊への入隊体験」にまで拡大される危険をはらんでいる。まさにこの国の支配者どもはオッペルである。

 ちなみに、青空文庫では宮沢賢治の全ての作品を読むことが出来る。「オッペルと象」を紹介しておこう。
『オツベルと象』

 さて、辺見さんがここで「オッペルと象」を引き合いに出したのは何故だろう。私の蔵書の中に『宮沢賢治童話集1』(中央公論社版 「オッペルと象」「注文の多い料理や」を所収、宇野重吉・米倉斉加年の朗読レコード付)がある。ここから賢治がこの寓話に込めた思いを読み解いている堀尾青史さんの解説を転載しておこう。

 本巻1の二篇は、非道なブルジョアジーに対する怒りと抵抗を宗教的郷土的情念でファンタジー化した作品で、構想、表現の秀抜なこと、子どもの興味をひきつけることで広く知られている。

 「オッペルと象」は牛飼いが話すスタイルなので、七五調を主体の韻文形式になっており、語り聞かせというこのレコードの目的にもってこいの作品だ。

 オッペルはマニュファクチュア初期資本主義の、特に地主タイプのたいしたものとしてあらわれる。(もちろんこれが反語的な意味だということはあとでわかるが。)このオッペルは、白象を労働力としてとりこむためにブリキの時計や紙の靴のアクセサリーをやり、にげないように四百キロの分銅をくさりでつなぎ、はじめは十把のわらを与え、つぎつぎと減らしていく一方、仕事は税金が高いといってどんどん量をふやし、結局動けなくなるまで働かせてゆく。このあたり、資本家の搾取ぶりをこれほど判りよく書いた童話はまたと無い。

 白象には賢治の労働観があらわれている。労働はもともと本能であり苦痛ではなかった。原始人には遊戯とひとしく享楽でもあった。ところが人間が人間を支配し、労働者が人間性を犠牲にして生産に仕えざるを得なくなると苦痛となる。白象が労働本能を利用され徹底的に搾取され死に到ろうとしたとき、圧迫者であるオッペルは否定されねばならず、それには集団の力しかないと考えられる。そしてここでは象の仲間がまっ黒に吠えて沙羅の木の山を下り、オッペルのピストルの玉をはね返し、くしゃくしゃに踏みつぶしてしまう。このあたりの描写はすさまじいエネルギーの奔騰であるし、一切の存在に仏性を見て愛憐止むことのなかった賢治が一片の同情すら与えていないのも見のがせない。

 が、これで解決したのではない。助けられた白象はなぜかさびしく笑う。力による力の否定はやむを得ないかもしれない。が、白象はさびしい。労働がそれ自身善となる世界を考えるモリスやトルストイ、無抵抗の平和を訴えるガンジイなどを下敷きとし、世界全体幸福にならないうちは個人の幸福はないといい、無償の行為に生涯を終えた賢治の世界観が白象に表徴されていて、現実とのひずみに嘆かう。農民が仲間として組みこまれていないのも白象の生き方を原点とした作品だからである。

 この作品はのんのんのんといった擬態語、雑巾ほどあるオムレツといった形容詞が豊富である。最後の「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」は牛飼いが語り了え、聞き手がわかれて川へ入ろうとするのを止めたのだが、これが何の意味かよく判らないとたずねられる。この不明の聞き手であり書き手である人物は、「風の又三郎」の中で子どもたちに「あんまり水をにごすなよ、いつでもせんせいうでないか」とはやされて川へ入るのを止めた洋服にわらじばき、手にステッキみたいなもの(多分ピッケル)をもった不明の人物を思い出させる。すぐ川へ入りたがるのは稗貫郡土性調査で「渓流に腰まで浸って」(書簡53番)石の標本さがしに夢中だった賢治のくせで、ここにもチョッピリ登場させているのをわたくしは笑ってしまう。

 テーマとはいささか逸脱するが、「無償の行為に生涯を終えた賢治の世界観」で思い出したことがある。次の過去記事を紹介しておこう。


「ほんとうの考え・うその考え」―宮沢賢治の実験(1)』 ~  「ほんとうの考え・うその考え」―宮沢賢治の実験(8)』

 もう一つ、「オツベルと象」「オッペルと象」の二通りの表題が使われているが、私はオツベルには初めて出会った。ネットで調べたら、「宮沢賢治の作品のオツベルと象は、本当は、オツベルなの?それともオッペルなの?」という質問をしている方がいて、それに次のような回答が寄せられていた。紹介しておきます。

 「オツベルと象」は、雑誌『月曜』の大正15年1月の創刊号に掲載されたものが初出です。
 「オッペル」と書かれたものの初出は、その同月、大正15年1月29日付『中央新聞』夕刊の中での評論にあった、「宮沢賢治氏の『オッペルと象』は全くすばらしい読物だ。」という一文。

 賢治の死後、賢治全集の編集時に「オッペル」という誤記があったことから長く「オッペルと象」のタイトルで広まったのですが、そのミスの指摘があってそれ以降は「オツベル」に変更されています。

 生前に発表された作品であり賢治本人がこの掲載時の「オツベル」という表記に異議を示した記録もないため本人が容認している形になるとみなされ、現在では「オツベル」が正しいタイトルとされています。
 死の寸前まで自分の作品の推敲重ね続けたことで知られる賢治ですが、この「オツベルと象」の草稿は残されておらず、雑誌初出時のものが「原本」の扱いになっています。

 ただ、「オッペル」とされていた時期が長いためにこの表記を支持する人も少なくなく、絵本などで出版する上であえて「オッペルと象」としている本も見受けられます。

永遠の不服従のために(4)

「君が代」問題(1)

 1999年に成立された悪法の中の一つが「国旗・国歌法」だった。このとき凡人・小渕首相は「決して強制するものではない」と答弁している。それが現在では人の心を圧殺するような法律になっている。このように本来の意図を隠してウソをつくのは政治権力の常套手段である。いま無知にして無恥な安倍首相が強行採決を目論んでいる「共謀罪法」でも、「テロ等準備罪法」と名称を変えて、「決して一般人を対象とする者でない」などと臆面も無く繰り返しウソを重ねている。

 私はこのホームページを始めたとき、その表題を『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』とした。「日の丸・君が代の強制」がテーマだったので、はじめの頃はそれに関連した記事をたくさん書いてきた。必要に応じて、それらの記事を利用しよう。

 さて、辺見さんは「君が代問題」の表題を「わあがあよおはー」として、枕に次の文を引用している。
『賢治が小学校時代もっとも影響を受けたのは3、4年担任の八木英三先生で、(中略)この人はのちに早稲田大学を出て中学の教師となったが、「君が代は」じゃない「わが代は千代に八千代に」といって問題をおこし、警察に引っぱられたことがあり、敗戦の時まで終始にらまれていた。(堀尾青史「年譜 宮澤賢治伝」から)』
 そして、本文を次のように始めている。

 なるほど、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラにもジョバンニにも、「君が代」などおよそ似つかわしくない。セロ弾きのゴーシュだって、国を背負ったりしていない。「グスコーブドリの伝記」のブドリを、「よき臣民」に見たてるのにはどうしたって無理がある。宮沢賢治の作品群には、つまるところ、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝國憲法・第一章第一條)だの「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(同第三條)だのといった当時の強圧的制度が、いうもおろか、いかなる影も落としてはいない。土台、国籍不明といっていい作品さえ多々あるし、人と宇宙への無限に深いまなざしが、たとえば「皇統連綿」などという概念を、(彼は一度だってそう書きはしなかったけれども)ちっぽけで怪しげなものとして、はるか彼方に遠ざけてしまうのである。

 でも、なぜそうできたのか。彼の内宇宙は、国家や神聖天皇制により無化されるのでなく、逆に内宇宙のほうが、あたかもブラックホールのように、それら共同幻想を手もなく呑みこんで、気がつけば、無と化してしまっている。なぜそれが可能だったのか。彼の作品群を組み立てている銀河系規模といっていいほどの大きな観念に触れるたびごとに、私は不思議に思ってきた。

 とても自由な心の持ち主だったという八木英三先生との出会いを例に、右のわけをいくらかは説明してみたい衝動にかられもするけれども、そうしたくたって、八木先生と賢治にまつわる話というのがそれほど多く残つているわけではない。賢治たちを受けもったとき、先生はまだ十九歳であったこと。教室でエクトル・マロの『家なき子』の翻案である『まだ見ぬ親』(五来素川 ごらいそせん)などの童話を読んで聞かせ、賢治が熱心に耳かたむけていたこと。後に賢治が先生に邂逅(かいこう)した際、自分の童話には先生の話が影響しているとして感謝したといわれること。あらまし、その程度の伝聞にすぎないのだ。

 にしても、「わが代は千代に八千代に」とは大した傑作ではないか。堀尾さんの文をはじめて読んだとき、花巻の尋常小学校の木造校舎で、賢治少年らが八木先生の音頭にり、「わあがよおはー」と大口開けてうたっている図を、私はどうしても想像してしまい、まことに感に堪えなかったものである。この文脈からすると、八木先生が警察に引っぱられたというのは中学教師拝命後と思われるから、厳粛なる「君が代」ならぬ「わが代」斉唱は、残念ながら、賢治の小学時代になされたものではなさそうなのである。いや、そもそも斉唱されたことなどあるのかどうか、じつのところ、まったく不分明なのだ。  問題は、しかし、「わが代」斉唱の歴史的事実いかんではない。「君が代は」じゃない、「わが代は千代に八千代に」だといい放つような教師が、大逆事件より前の1905年ごろ、この国の東北地方に実在し、その先生を小学生だった賢治が好いていたということがより重要ではないか。しかも、皇室に対し「不敬ノ行為」をなした者は、3ヵ月以上、5年以下の懲役に処するとされていた神聖天皇制下の時代に、である。

 もうひとつ注目すべきは、「わが代は千代に八千代に」に漂う、どこか不敵なユーモアである。替え歌といっても、たったの一個所、「君が」を「わが」に替えただけで、趣旨を完全に一変させてしまう智恵と茶目っ気が素敵である。「わが」のところに、「人民」とか「民衆」とかをあてるという政治的発想もあって当然だけれど、そのような紋切り型は、こうした場合、洒落にならない。「わが代」が、あくまでも個人的に、「石の巌となりて苔のむすまで」栄えるという、なんの根拠も屈託もない自己賛歌ぶりが、かえって笑えるのである。

 「君が代」の本歌は古今和歌集の巻第七「賀の歌」の冒頭の歌(題しらず・讀人しらず)であるという説が定説になっている。その本歌は「君が代は」ではなく「わがきみは」で始まる。
「わがきみは千世にやちよに さゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで」

 私は『真説・古代史』で『「君が代」は九州王朝の賛歌』という記事を書いている。一部を転載しておこう。まず、次の文は古田武彦さんの著書『古代史の未来』の「第二部の5:君が代」の全文である。

 1990年、興味深い発見に遭遇した。「君が代」の成立をめぐる問題である。「君が代」の歌詞は、福岡県の福岡市と前原市、すなわち「博多湾岸とその周辺」の中の地名・神社名・祭神名から成り立っていることが判明したのだ。

A 「千代」―福岡市福岡県庁付近(千代町。海岸部は「千代の松原」)
B 「さざれ石」―前原市細石神社(三雲遺跡の裏)
C 「いわほ」―前原市井原(いわら)遺跡(三雲遺跡とならんで著名)
D 「苔のむすまで」―苔牟須売神(こけむすめのかみ。志摩町、桜谷神社の祭神)

 ここで、若干の注記が必要だ。
a 「八千代」は「千代」の美称。
b 「いわほ」は岩穂。岩が語幹、穂(あるいは秀)は接尾辞。「いわら」は岩羅。早良が沢羅、磯良が磯羅であるのと同じ。「羅」は接尾辞。「そら」「うら」「むら」等。古代日本語の原型のひとつ。
 一方、志賀海神杜(福岡市)の「山ほめ祭」では「君が代」が〝地歌″〝風俗歌″として述べられる(「歌われる」わけではない)。その言詞(禰宜〈ねぎ〉による)には、
「あれはや、あれこそは、我君の、めしの、みふねかや」
という言葉が登場する。「我君」は対岸の「千代」(博多湾岸)からこちら(志賀島)へ渡ってこられる。― そういう設定の台詞の一節である。船が渡るのは博多湾。「我君」とは筑紫の君なのである。
 つまり、「三種の神器」の分布する博多湾岸、弥生の「黄金地帯」に連綿と伝統してきた行事、その中に「君が代」の歌詞があった。その歌詞は、その「黄金地帯」内の地名や神社名や祭神名を〝連ね合わせ″て作られていた。これは偶然だろうか?

 否、必然だ。弥生の「黄金地帯」を、第三の従属国としての「奴(な)国」などではなく、第一の倭国、その中心領域として認めないかぎり、「君が代」は、口には丸暗記で暗唱できても、歴史の心からは遥かに遠いのである。

 最後に私は次のような文で締めくくっている。
『古事記・日本書紀が九州王朝の神話・説話を多く剽窃・改竄・接ぎ木している(「真説古代史」参照)が、現代の天皇の誉め歌も、もとは九州王朝のものだったとは、何たる皮肉!もっともこの場合は、意図的な選択ではなく偶然の結果ではあるが、なんという皮肉だろうか。はからずも、天皇家はいまだに本流・九州王朝の威光から逃れられないでいるということになる。』
永遠の不服従のために(3)

ジャーナリズムの死

 今回から『不服従』を読んでいこう。
 冒頭の記事は「裏切りの季節」と題して、枕に丸山眞男の『自己内対話』から次の一文を引用している。
「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる。テーマは改憲問題。」

 辺見さんは、この一文の解釈を端緒にして、マスコミのていたらくぶりを摘出している。その批判の核心を紫陽花(アジサイ)に対する辺見さん特有の思いを比喩に用いていて面白くかつ奥深い論説となっている。その全文を転載しよう。

 アジサイは嫌いでないけれども、アジサイを見ていると、いつもなんだか不安になる。幾百もの手まり形の花が咲き群れる景色は、先に跳ねる色のしぶきで、目の玉も脳髄も青く染まってしまいそうなほど、妖しく美しい。だが、本音をいうと、いずれも青ざめた、たくさんの生首たちが一堂に会して、ざわざわとよからぬことを話しているようにも、あれは見える。そんな描写をいつかなにかで読んだからそう思うのか。東京・荒川区の小塚原の刑場跡近くに長く住んだ経験が、そう意識させるのか。わからない。ただ、アジサイを内心どこかで忌み、警戒する年来の癖が、このところ高じている。

 「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。とくに、ガクアジサイ。白色だったはずが、いつの間にやら紫色になって、群れて騒いでいる。でも、ガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。それがいま、この国の湿土のほうぼうで生じつつある。いわば、空前の「裏切りの季節」にわれわれは生きているのではないか。

 歴史が重大な岐路にさしかかると、群れなす変節の先陣を切るのは、いつも新聞なのだと、丸山はいささかの怒りと軽蔑をこめて記したのである。改憲問題とあるから、いまのことかと錯覚しそうだが、丸山逝ってはや五年目の夏だから、さにあらず。丸山眞男は自社55年体制発足の翌年の手帳に、すでにしてこれらの言葉を書きつけていたのだ。

 彼はなにをきっかけにこんなメモを残したのだろうか。以下は私の想像と付会である。

 1956年、鳩山首相が国会で現行憲法への否定的考えを明言し、
「飛行基地を粉砕しなければわが国の防衛ができないという場合には、その基地を侵略してもよい(後に「侵略」という言葉だけを訂正)」
などとぶちあげて審議がストップした。自民党の「解釈改憲」戦術の嚆矢(こうし)ともいわれるとんでもない暴言事件だが、新聞各紙の論調は、むろん、いまよりはよほど政府に対して厳しいものであった。丸山はそれでも、でたらめな解釈改憲を許す一部新聞論調に、背理と「転向」のにおいを嗅いだということなのかもしれない。

 新聞の「転向」に関するこのメモの前に、丸山は米国の哲学者・詩人ジョージ・サンタヤーナの言葉を、英文で同じ手帳に記している。訳せば、
「過去に学ばぬ者は、それ(過ち)を繰り返すよう運命づけられる」。
 過去とは、いわずもがな、戦前・戦中のことである。ジャーナリズムとは過去に学ばないものだ、という丸山の嘆息が聞こえてくる。2001年のジャーナリズムは、しかし、もっと学んでいない、と私は確信する。すなわち、このアフォリズムのとおりに、重大な過ちを繰り返しつつある。権力をチェックするのでなく、権力を翼賛する古くて新しい過ちを。解釈改憲も改憲そのものの動きも、いまや56年当時とは比べものにならないくらいに拡大し、加速もしている。ジャーナリズムの抵抗の水位は、だが、戦後例を見ないほど低い。

 にしても、記者風情がまがりなりにも「知識人」の範躊に入れられ、赫々たる学績の主によって、「転向」などという奥深い思想の言葉で難じてもらえたのだから、50年代の記者はまだ幸せみたいなものではあった。基軸になる思想(土性骨でもいい)がもともとない者たちには、「転向」などしたくてもできないのである。それこそが、いまという不幸な時代のマスメディアのありようであろう。「転向」も「非転向」も廉恥もなく、裏切りもまた自他ともに感知されない。哀れといえば哀れ、惨めといえば、人としてこれほど惨めなことはない。激突などさらになく、論点も徐々に溶解し、無と化してしまう。表面、穏やかなこのなりゆきこそ、新しい時代のファシズムの特徴のひとつだと私は思う。

 アジサイ話に戻れば、変色を常とするのはなにもガクアジサイにかぎるわけではなく、土壌の酸性度によっては他の種類でも花色が変化するのだそうだ。「酸性度が高くなると鉄およびアルミニウムが多く溶け出し、ことにアルミニウムが吸収されると花色は青色が強くなる。逆の場合は桃色が強く出る」(『世界有用植物事典』)。ああそうか、変色のわけをアジサイ本体に求めるのでなく、土質のせいにすることもできるのだ。

 世間の多数が小泉内閣に歓呼の声をあげている。あからさまな弱者切り捨て政策に、己が排除されようとしているにもかかわらず、どう勘ちがいしてか、決して強者ではない層までもが賛成している。共産党支持層の七割もが小泉内閣支持という、絶句するほかない調査結果もでた。ひとつの芝居が、もはや喜劇の域を越えて悲劇に変じつつある。メディアは、ここは敢えて花色を変えず、時代の病理を執拗に摘出すべきなのだが、反対に、時代とどこまでも淫らなチークダンスを踊るばかりなのである。民衆意識という社会的土壌の酸性度が異常に高くなったことにたやすく応じて、そこに咲き狂うアジサイならぬマスメディアの徒花(あだばな)が、ためらいもなく、いみじき変色をしてしまったというわけだ。

 きょうびのこの国は、けだし、満目(まんもく)不気味な背理の風景ばかりではある。マスコミだけではない。政党が党員を、労働組合が組合員を、宗教団体が宗徒を、教員が生徒を、司法が憲法を、弁護士が被告人を、言葉が現実を、歴史学者が歴史を、哲学者が自身を、それと意識せずに裏切りつづけ、かと思えば、関係が転倒し、逆に裏切られつづけてもいる。

 50年代と変わらないのは、たぶん、メディアの寵児たちの、妙に自信たっぶりで不遜な口吻(こうふん)であろう。そして、いまも昔も、時代と和解的な評論家や学者たちは、みずからの変節にまったく臆するということがない。アジサイの花言葉も、そういえば、「高慢」であった。問題は、裏切りの花たちの花期だ。それが果てたなら、いったいどんな風景が立ち上がるのだろうか。

 「ジャーナリズムの死」を推し進めているのは、いま流行語になっている言葉で言えば、支配階級への忖度である。もう一つ、右翼団体による暴力を伴った脅しも指摘しておきたい。私は《『羽仁五郎の大予言』を読む》で連載した「ジャーナリズムの死」の(7)から~(13)で「戦後の言論弾圧」を取り上げている。『ジャーナリズムの死(7):戦後の言論弾圧(1)』

の冒頭部分を転載しておこう。

 大日本帝国時代の言論弾圧の悪法の親玉「治安維持法」は敗戦直後の1945年10月15日にGHQの命令により廃止された。また同時に、その法律による弾圧先鋒をになった冷酷な執行者「特別高等警察」も解散を命じられた。さらに、新聞・書籍に対する弾圧法(新聞紙法・出版法)も1949年5月24年に廃止された。

 では、敗戦後の日本国では言論は自由になったのか。否否、大日本帝国の弾圧法はなくなったが、GHQによる弾圧が行われている。当初は占領政策の批判や軍国主義的な発言に対する検閲,統制を実施していたが、冷戦が本格的になってきた1950年以降は共産主義に対する弾圧(レッドパージ)が徹底された。レッドパージは7月28日には新聞・通信・放送にまで及んでいる。そして、GHQによる事前検閲や事後検閲は6年8ヵ月にわたる占領期間を通して行われた。

 では、サンフランシスコ講和条約が発効(1952年4月28日)し、主権が回復した以降の新生日本における言論の自由はどのようであっただろうか。新聞法や出版法のような政治権力によるあからさまな弾圧法は作られなかったが、政治権力による脅しや懐柔策は時に応じて行使され続けてきた。この手の言論弾圧は現在のアベコベ政権や自民党に限ったことではない。もう一つ、右翼による暴力をともなった脅しも挙げておくべきだろう。右翼の脅しは自民党政権の言論弾圧の先鋒役を果たしている。その結果、一部のジャーナリズムは「政治的中立」というまやかしの大義名分を身にまとって、萎縮し続けてきた。

永遠の不服従のために(2)

1999年問題

 辺見さんが前回で紹介したような激しい本を書き始めたきっかけは1999年に急変した政治情勢にある。『どのような時代』の対論は「1999年問題の重大性」を論じることから始まっている。辺見さんは「1999年問題の重大性」について次のように発言している

 じつは僕、しきりに「1999年問題」と言ってるんですが、これはある意味で戦術的な言い方です。99年の諸問題は、もちろん、ここに至る長いプロセスがあって、突然に降ってわいてきたわけではないですから、結果だけを論じることはできないのです。ともあれ、僕としては99年問題の重大性を最大限強調したい。年表で言えば、ここはいちばん太いゴチックにしておかないとまずい。それも私としての責任であるわけです。ほかの人たち、表現者、マスコミ、政治家、1999年の夏に立ち会ったすべての人たちの責任を問いたい気持ちもないではないのですが、僕はさしあたり、私個人の身体的年表のなかで私の責任を考えようと思ってるんです。象徴的には、この年の第145通常国会で成立した「周辺事態法」、「盗聴法」、「国旗・国歌法」、「改正住民基本台帳法」を、私は私の内面との関係でかつてなく重大視している。これらがこの国の短、中期的未来に向けた法制的かつ思想的祖型になることは、私の表現行為にとって耐えがたい圧迫なのです。つまり、これらの国家主義的浸透圧を、私の身体はとても不快に感じている。

 1999年問題については過去にも取り上げたことを思い出した。調べたら、2007年1月12日の「今日の話題」『戦後民主主義は決壊した。』だった。そこでは、『抵抗論』から「1999年の重大性」を具体的により詳しく語っているくだりを引用した。再掲載しておこう。

 まず、1999年夏の第145通常国会で、ガイドライン関連法案、いわゆる「周辺事態法」ができました。
 それから「盗聴法」というのも通ったわけです。「盗聴法」というのは「通信傍受法」ともいわれましたけれども、これは憲法第21条第2項の「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」に明白に違反するわけで、とんでもない法律だと私は思っています。
 それから「国旗・国歌法」というものもできました。これもまた、憲法第19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に抵触するものではないかと思っています。99年のときには、まだ海のものとも山のものともわからないという高を括った気分も一般にありましたが、いまや大変強圧的法律として定着しつつある。この法律が、とりわけ教育界にもたらした悪影響は計り知れません。
 さらに、「改定住民基本台帳法」というものも通ってしまいました。この法律が施行され、皆さんのところにも、人間を10桁の番号で表す、いわゆる住民票コードというものが送られてきているはずです。

 また、「国会法」を改正して、「憲法調査会設置法」というものもできました。この法律は、2000年の通常国会から施行され、早くもこの間、「答申」のようなものが提出され、過半数の議員が「憲法」改定を考えているということがはっきりしてきました。これにともなって、戦後の日本ではかつてなかったことですが、「有事法制」というものをなにはばからずいえる雰囲気が、99年ころからでてきました。
 そして、これは95年に起こったオウムの地下鉄サリン事件がきっかけになっているのですが、「団体規制法」(「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」)というものも、同じく99年に成立したわけです。他の事件やたくさんの法案がありましたから見過ごされていますけれども、これも大変な法律です。つまり、捜査令状無しに、宗教団体その他に踏みこむことができる。しかも、警察ではなくて、公安調査庁にその権限があるという、いわば何でもできるという法律だと思います。これを拡大し、援用していくとどういうことになるのか、考えるだけでぞっとする法律です。

 こういう大きな流れを見て、99年のその時点で、私は戦後民主主義という堤防が完全に決壊し、反動の濁流が押し寄せてきている、これからはもっとひどくなるぞといろいろなところで申し上げてきました。当時の私の発言は悲観的過ぎるとかオーバーだとか、ずいぶん反発もされたわけですが、いまの事態は、皆さんよくご存知のとおり、99年の第145通常国会のころどころの騒ぎではないですね。いったん決壊した堤防は、土嚢を積み上げることすらできなくて、もう濁流に身をまかせるしかないような状態を生みだしてしまった。私の予言はまったく不幸にして当たったのです。

 1999年の「反動の濁流」は、田中真紀子に凡人と揶揄された小渕恵三によって始められた。そして今、恩師の加藤節(成蹊大学名誉教授)から「安倍晋三くんは無知で無恥なずるい政治家です」と喝破された「アベコベ軽薄姑息うそつきカルト」首相がどす黒く汚れ切った「反動の濁流」を欲しいままに垂れ流している。念のため、その濁流が流した悪政として、まず第1次政権の時の教育基本法改悪が挙げられるが、現在では枚挙にいとまがない。取りこぼしがあるかもしれないが列挙してみる。全て1999年夏に成立した諸法案が源流となっていることがよく分かる。
集団的自衛権
テロ資金提供処罰法
非正規推進
生活保護・社会保障削減
原発推進
日本版NSC(国家安全保障会議)
特定秘密保護法
マイナンバーの導入
武器輸出三原則撤廃
消費増税
通信傍受法改悪
70兆円を越えるバラマキ外交
高江・辺野古での新基地建設強行

 そして更に次の悪法の成立を目論んでいる。
種子法廃止法
水道民営化法
家庭教育支援法
親子断絶防止法
共謀罪法
医療ビッグデータ法(本人の合意なくビッグデーター化)
放射線防護基準緩和障害防止法改悪

 さらに、戦前の教育を復活させようと、時代錯誤の教育破壊を目論んでいる。
体育科目に銃剣道導入
道徳科目に教育勅語の復活

 辺見さんは2004年の段階で「もう濁流に身をまかせるしかないような状態を生みだしてしまった。」と強い悔悟の念を表しているが、今の状態をなんと言い表したらよいのだろうか。そして、この状況を克服する道はあるのかを考えると絶望的な気持ちが沸き上がってくる。しかし、その困難の道を求めて行こうと思う。そのためには「反動の濁流」の底に何があるのか、より深く見極める必要がある。次回から「反動の濁流」の底を辺見さんの著作を頼りに見ていくことにする。
永遠の不服従のために(1)

ご挨拶

 前回の更新から1週間が過ぎてしまった。新しく連載を始めることにします。まずはご挨拶。

 私がブログ「自由のための不定期便」を始めたのは2004年8月15日だった。それから約12年7ヵ月が経過した。私が敬服している人たちの言説を紹介するだけの受売りブログだけれど、よく続いたなあ、と自ら感心している。これもブログを読んで下さる人たちがいることが励みになっているからだ。今月中にはアクセス数は延べ87万を超えそうだし、拍手数はこの3月に7200を越えた。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 さて、私が敬服している人たちで、はじめの頃にお世話になった方に辺見庸さんがいる。2004年8月23日の記事『教育とは何か』の「孔だらけにしてしまえ」を、『私たちはどのような時代に生きているのか』(辺見庸×高橋哲哉)の中の補足記事<新しい「ペン部隊」について>の最後の節を引用して始めている。そのとき私は
「辺見氏は、絶望的な状況の中で真正面から権力と向き合い、孤立無援の闘いを闘っている数少ないジャーナリストの一人である。」
と紹介した。ここで辺見さんの論説についてもう一つ付け加えたいことがある。辺見さんは時代の先を見据えて、先々の時代状況を的確に捉えている。私にはまるで予言者のように思えてくる。今、改めて辺見さんの本を読み直してみようと思い立った。

 私の蔵書の中に辺見さんの本は『私たちはどのような時代に生きているのか』(初版2000年2月10日 角川書店刊)の他に5冊(いずれも毎日新聞社刊)ある。その中に「抵抗三部作」と呼ばれているエッセイ集がある。
『永遠の不服従のために』(初版2002年10月10日)
『いま、抗暴のときに』(初版2003年5月15日)
『抵抗論 国家からの自由へ』(初版2004年3月30日)
 他の二冊は
自分自身への 審問』(初版2006年3月10日)
今ここにあることの 恥』(初版2006年7月30日)
で、脳出血で倒られた後の発刊である。
(以後、それぞれを『どのような時代』・『不服従』・『抗暴』・『抵抗』・『恥』と略記する。

 これから『不服従』を読みながら、必要に応じて他の4冊から関連記事で補充していくことにする(もしかすると『不服従』だけで終わってしまうかもしれませんが)。それで、今回から始める連載のカデゴリー名は「永遠の不服従のために」とすることにした。

 以上、まずはご挨拶、でした。