2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
領土領海ナショナリズム(1)

今回からの参考書は「海峡両岸論 71号」と「海峡両岸論 74号」ですが、そのほかに単行本を併用するかもしれません。それらはその都度紹介することにします。

 「両岸論 69号」では「領土ナショナリズム」と表記しているが、実効支配を争っている領土として尖閣諸島・沖ノ鳥島・南沙諸島などを対象にすれば、その争いはその島々の周辺の領海の実効支配をめぐる争いでもあるので、表題として私は「領土領海ナショナリズム」とした。

ナショナリズムとは何か

 ナショナリズムについては吉本隆明の論文を基本参考書にして『日本のナショナリズム』で詳しく取り上げた。そこで、その吉本論文に対して色川大吉さんが
「安保反対闘争の過程で大衆ナショナリズムという新しい概念を提出し、その基底の視角から日本のナショナリズムの総体(支配層のナショナリズム、知識人のナショナリズム、大衆のナショナリズムの関連構造)を逆照射して丸山らを批判した吉本隆明の論文(「日本のナショナリズム」)があらわれ、大きな影響をあたえた。」
と評価していることを紹介した。つまり、ナショナリズムを論じるときには「大衆のナショナリズム・知識人のナショナリズム・支配者のナショナリズム」という総体の中で論じることが不可欠だと言っている。ここではその分かり易い論文事例として《『「非国民」手帖』を読む(27)》を書き換えながら転載することにする(『「非国民」手帖』ではこの論説の筆者を「歪」と呼んでいる)。

 まず、上の色川さんが書いていることを、吉本さん自身の文章で補強しておこう。

 大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へとくりかえされて、消えてゆく無意識的な「ナショナリズム」は、もっともよくその鏡を支配者の思想と支配の様式のなかに見出される。歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即自体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすることである。

 このような問題意識にたいして知識人とは、大衆の共同性から上昇的に疎外された大衆であり、おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。

 わたしたちは、日本の「ナショナリズム」を、この大衆「ナショナリズム」と、そこから上昇的に疎外された知識人の「ナショナリズム」と、大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡としての支配者の「ナショナリズム」に区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならないのである。

 このような位相からは、ある時代のある文化のヒエラルキーは、大衆そのものからの、彎曲を意味している。ただ、この彎曲をとおしてしか、ある時代思想は、すすめられることはないのである。

 「歪」さんはまず朝日新聞の『「右」も「左」も「ナショナリズム」の台頭を認知している』ことを示す次のような内容の記事を取り上げている。
『「不健康なナショナリズムが目につく」と北朝鮮をめぐる状況を危惧し、石原慎太郎がW杯に関して「日頃我々が意識無意識に抱えていた国家と民族に対するものの激しい噴出によるエクスタシー」と「健全なナショナリズム」の成育を喜ぶ。』

 これと呼応するかのように『諸君!』(2003年3月号)が「『日本ナショナリズム』の血圧を測る」と題するアンケート特集を組んでいたが、「歪」さんはこれを取り上げている。まず、その特集の中に出てくる知識人たちの「ノーテンキ」ぶりを
『まあ、もっと行けるぜ、と煽ってるだけだけど。「一層の後押しが必要だ」(鈴木孝夫)、「ナショナリズムが広がっているとすれば、大変結構なこと」(中島嶺雄)……と大半がこの調子。何とも《愛国》知識人たちのノーテンキなことよ。《国家》も《ナショナリズム》もおよそまともに考えたことがない。』
と指摘して、次のように論を進めている。

 家から郷土まで、生活に馴れ親しんだ集団に愛着があるのは自然なこと。近代国家成立以前の太古の昔からある。しかし、それは《ナショナリズム》の基盤ではあるが《ナショナリズム》そのものではない。普遍的な自然感情と強固な国家への憧憬のないまぜになったものを整理もつかず、自分の都合のいい言葉をあてはめているだけにすぎない。

 国家という幻想共同体に包摂された自己が、他者への優越性を排外主義的に吐き出してはじめて《ナショナリズム》と呼べる。そんな感情が現実の大衆の生活レベルで形成されているとは思えない。

 ワールドカップをめぐる熱狂や、北朝鮮への憎悪などといったところで、すべてはメディアの中の話だ。ワールドカップは言わずもがな。拉致問題も、北朝鮮という奇怪な世界の情報を娯楽として消費するための正当化の根拠として、拉致被害者への同情が持ち出されているだけだよ。

 メディアによって演出された消費行動が《ナショナリズム》かい。

 おとぼけ《愛国》知識人の《過激》でわかりやすい言論が恐ろしいのではない。メディアの演出空間を浮遊する言論が不透明化させてしまう《国家》をもう一度あぶりだす、そういう言論の不在こそ問題なのだ。

 赤字で強調した部分を「海峡両岸論」で用いられている用語で言えば、「中国脅威論」が作り出す排外主義と裏表の関係にある「日本ホメ」が現今の「ナショナリズム」の基底を作っているということであろう。

 このことを一般論として言い換えれば、さしずめ現今の「ナショナリズム」というハヤリ病は、『知識人の「ナショナリズム」』が『大衆の「ナショナリズム」』を『支配者の「ナショナリズム」』に直結しようしている浮かれ熱のことなのだと言えるだろう。
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